尾張と遠賀川流域の謎を解く その3


遠賀川式土器を尾張に伝えた弥生人たちはさらに北上します。現在の庄内川を挟んだ東側に西志賀遺跡が西側に東海地方最大級の朝日遺跡があって、いずれの遺跡からも遠賀川式土器が出土しています。彼らは現在よりずっと奥にあった当時の庄内川河口を遡り、これらの地にまで至ったのです。朝日遺跡に関しては「清須市周辺散歩 その4」を参照ください。どの遺跡も有名で前々回の画像に位置が示されているので確認ください。


西志賀遺跡は西区貝田町から北区西志賀町にかけて位置する遺跡で、そこに隣接するかのように、志賀公園遺跡(北区中丸町二丁目)、平手町遺跡(北区平手町一丁目)などが存在しています。


全体の位置を示すグーグル地図画像。

まずは志賀公園から見ていきます。


志賀公園の位置を示すグーグル画像。志賀公園遺跡は公園の北側。

志賀公園は実に広大です。けれども、遺跡の存在を示すようなものは何一つありません。非常に有名な遺跡のはずなになぜ解説板の一つも設置しないのでしょう?志賀公園遺跡の実際の場所は公園の北西に位置するからでしょうか?面白いのは、志賀公園遺跡からは西志賀遺跡や平手町遺跡と異なり弥生時代前期の遺構が検出されておらず、弥生時代中期の水田跡が検出されている点です。

「その2」で、尾張における稲作は多分弥生時代中期以降と思われ、遠賀川式土器とセットで考えるべきではないような気もしますが、いかがなものでしょう?と書きましたが、志賀公園遺跡はその裏付けになりそうです。なお、志賀公園遺跡は複合遺跡で、弥生時代中期、古墳時代中期、飛鳥時代から古代(?)、中世以降の4時期に区分されるとのこと。

志賀公園遺跡に関しては以下のPDFfileを参照ください。
http://www.maibun.com/DownDate/PDFdate/nenpo12/01siga.pdf

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志賀公園へ行く途中の元志賀の表示。この地名が気になりませんか?

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志賀公園の池。

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石碑と解説板があります。

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解説板。

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もう一枚。

この場所は織田信長の傅役を務めた平手政秀の屋敷跡とのことです。正しく平手町の町名由来となった場所で、しかもこの付近にあった平手町遺跡と関係するはずです。どこかに解説板でもないかと思って探しましたが、残念ながらなさそうです。名古屋市の怠慢ですね。酔石亭主が見落とした可能性ももちろんありますが…。

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名古屋市立西部医療センター。

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もう一枚。

志賀公園西側の名古屋市立西部医療センター辺りが平手町遺跡となります。詳細は以下のPDFfileを参照ください。
http://www.maibun.com/DownDate/PDFdate/nenpo11/06hira.pdf

平手町遺跡の南西先には貝田公園があり、ここに貝塚があって西志賀遺跡の中心となっています。


貝田公園の位置を示すグーグル画像。

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貝田公園。

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西志賀貝塚と刻まれた石柱。

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園内にあった貝を模した遊具。

西志賀遺跡一帯を一通り見てきましたが、実際には何も残ってはいません。極めて残念ではありますが、所在地が名古屋市内である以上致し方ないと思われます。次回はそれぞれの遺跡に関する詳細や遺物などを名古屋市博物館でチェックします。

        尾張と遠賀川流域の謎を解く その4に続く
      
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尾張と遠賀川流域の謎を解く その2


今回は尾張と遠賀川流域における共通性の土台部分を理解するため、弥生人が伊勢湾に入り北上していった流れを見ていきましょう。まず知多半島です。知多市八幡荒古の荒古遺跡や朝倉駅近くの細見遺跡からは遠賀川式土器(弥生時代前期で2300年前とされる)が出土しています。

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細見遺跡出土の遠賀川式土器。知多市歴史民俗博物館にて撮影。

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解説。


朝倉駅と細見の位置を示すグーグル地図画像。知多市役所と線路の間辺りが遺跡の所在地。

荒古遺跡は寺本駅近くの八幡神社境内に位置し遠賀川式土器が出土しています。八幡神社に関しては以下の同社ホームページを参照ください。
http://www.owari-hachiman.com/sta22808/index.html

博物館の解説によると稲作の伝播と遠賀川式土器はセットで考えられているようですが、疑問もあります。弥生時代の遠賀川流域、特に立屋敷遺跡付近は、尾張の推定海岸線と同様に考えれば入海状態で、水田耕作地はほとんどなかったと推定されます。また到達地点の一つとなる知多半島の細見遺跡も海岸沿いであり、そのすぐ背後は丘陵地帯となるので稲作適地ではありません。(注:陸稲は縄文時代から始まっていたので、陸稲による稲作は可能性があります)

東海地方の大規模集落である朝日遺跡、西志賀遺跡や高蔵遺跡にしても、とりわけ西志賀遺跡の中心部には西志賀貝塚が存在し、弥生時代前期は海産物の採集や漁業などが中心の生活であったように思えます。尾張における稲作は多分弥生時代中期以降と思われ、遠賀川式土器とセットで考えるべきではないような気もしますが、いかがなものでしょう? 日本考古学協会のネット上の論文によれば、高蔵遺跡では水田稲作をおこなっておらず、陸稲や畠作、製塩といった夏秋季の生業活動が想定される。とのことです。まあ、これらの問題は本論考における検討課題ではないので、疑問の提起だけに留めておきます。

さて、知多半島は弥生人集団が一時的に立ち寄った、或いは小人数が定着した程度の場所と思われます。彼らの主力はさらに北上し、当時は半島状であった(と推定される)熱田台地に沿って北に進みました。熱田台地の中ほど、名古屋市熱田区高蔵町9-9には高座結御子神社(たかくらむすびみこじんじゃ)が鎮座しています。一帯の高蔵遺跡からは遠賀川式土器も出土しており、弥生人集団の主な移動先の一つとなりそうです。


高座結御子神社の位置を示すグーグル地図画像。

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名古屋市博物館の資料を再掲。

画像サイズを大きくしています。断夫山古墳の北側が高蔵遺跡となっています。

高座結御子神社詳細は前回の記事の中にある「熱田神宮の謎を解く その23」を参照ください。同社の鎮座地では弥生時代を通して遺跡(高蔵遺跡)が営まれており、遠賀川式土器も出土して北九州との関係を示しています。留意すべきは高座結御子神社の祭神・高倉下で、この神は元々遠賀川流域にいた物部氏系と考えられる点です。

但し、古墳時代以前と推定される高倉下の時代、遠賀川周辺にいた人々が自分たちを物部氏と称していたとは考えられないので、彼らの呼称を便宜的にプレ物部氏としておきます。高倉下が物部氏系と考えられる理由は過去記事に何度も書いていますが、もう一度以下に纏めてみます。

尾張においては尾張氏の北隣が物部氏の領域となっており、高座結御子神社の南に熱田神宮が鎮座し、その中間付近に断夫山古墳があり、被葬者は尾張草香と推定されている。草香(日下)は物部氏の祖神・饒速日命(にぎはやひのみこと、以降ニギハヤヒと表記)が上陸した生駒山麓の地名で、また物部氏の武器庫があった場所に創建された高牟神社(名古屋市千種区)の鎮座地は常世の草香島と称されており、ここからも草香と物部氏の関係が窺える。尾張においては領域を接する尾張氏と物部氏は協力関係にあったと推察され、尾張草香とは尾張氏と物部氏の両面性を持った人物と考えられる。

物部氏の祖・ニギハヤヒが尾張氏においては天火明命であり、「先代旧事本紀」によれば、ニギハヤヒの子となる天香語山命(尾張氏系)の天降って後の名が高倉下(物部氏系)であるのは、尾張草香が物部氏と尾張氏の両面性(或いは融合性)を示しているのと全く同じ意味を持つ。

福岡県直方市下新入に鎮座する剣神社の祭神は古くは倉師(くらじ)大明神と言い、鞍手郡と言う地名の発祥地になる。谷川健一氏は、神武紀に登場し紀伊の熊野で天孫に霊剣布都御魂を献じた高倉下(たかくらじ)が天孫本紀では物部氏の祖神ニギハヤヒの直系である天香語山命の別名と記されていることや、ニギハヤヒが降臨したという伝承地にも倉治(くらじ)の地名があることをあげ、「倉下は物部氏の一族の名であり、それが筑紫物部の本拠である鞍手の郡名の起こりと関係がある」としている。
(注:新入剣神社に関しては「日本の神々 1」(白水社)を参照し、一部引用しました。倉師大明神と高倉下が同一人物(神)であるかどうかは、ずっと後の回になりそうですが別途検討します)

上記のように高倉下が物部氏系であるのはほぼ間違いなく、元々は遠賀川流域で祀られていた神だったものが、尾張の高座結御子神社(=高蔵遺跡で遠賀川式土器の出土地)にても祀られていると確認されます。遠賀郡岡垣町に鎮座する高倉神社や遠賀川河口に鎮座する岡湊神社の祭神は大倉主命ですが、この神と高倉下は同一神とされており、その詳細は後の回にて検討します。

遠賀川流域で祀られていた大倉主命(=高倉下)が尾張でも祀られている。このことは、北九州にいたプレ物部氏が尾張にやって来た事実を示しているのではないでしょうか?高倉下はニギハヤヒの子となるので、ニギハヤヒ東遷に同行しつつも大和には入らず、船で紀伊半島を回り、遂には尾張に至ったとの想定がここで出てきます。(注:ニギハヤヒの東遷に関しては尾張氏の謎解きでも詳しく書いていますので、興味がある方は参照ください)

ニギハヤヒの子である高倉下が遠賀川河口から尾張に向かった可能性を史料などから探ってみましょう。物部氏の歴史書である「先代旧事本紀」には、ニギハヤヒが数多くの物部を率いて大和へと天降りしたとの記事が出てきます。内容は伝説的ですが、一定の事実を反映している面もあろうかと思われます。その中で、ニギハヤヒ東遷に従った32人の防御の人たちの最初に天香語山命の名が尾張連らの祖として出てきます。そして既に書いたように、天香語山命の天降って後の名が高倉下でした。

さらに「先代旧事本紀」を見ていきます。同書には、「饒速日尊の子の天香語山命(天降って後の名を手栗彦命、または高倉下命という)。この命は、父の天孫の尊に従って天降り、紀伊国の熊野邑においでになった。」と書かれていました。一方「日本書紀」には神武天皇が熊野で危機に瀕した際、高倉下が剣を渡して助けた話が見られます。いかがでしょう?上記から、高倉下は父であるニギハヤヒに従って東遷したが、一緒に大和には入らず、紀伊半島に沿ってさらに移動し続けていると理解されませんか?その事実が「先代旧事本紀」や「日本書紀」の記事に反映されたと考えられます。

遠賀川流域にいた弥生人たちは今からおよそ2300年前、遠く離れた尾張にまで船で移動しました。その海路は時代を相当下った高倉下の頃にも、途絶えることなく使われていたのです。では高倉下はいつ頃尾張に入ったのでしょう?

あくまで推測ですが、高倉下の時代は西暦100年代の終わり頃(弥生時代末期)ではないでしょうか?理由は、桓帝と霊帝の間(146年~ 189年)に倭国大乱が発生し、遠賀川流域など北九州にいた物部氏の前身となる人々がニギハヤヒに率いられ瀬戸内海を渡り河内から大和に入ったと想定されるからです。その記憶が「先代旧事本紀」にニギハヤヒの東遷として書かれたと考えれば、190年頃と推定する高倉下の時代にある程度筋が通ってきます。

弥生時代末期の190年頃、高倉下一行は紀伊半島を回って伊勢湾に入り、尾張の熱田台地に上陸した。その見解を補強する材料が他にもないか見ていきます。前回でアップした「尾張の弥生時代の概観」を参照ください。ここには、高蔵遺跡だけが弥生時代を通じて集落が営まれた。その理由は、この遺跡が海上交通の上で重要な役割を果たしたことによるでしょう、と書かれていました。弥生時代前期に遠賀川土器を尾張に持ち運んだ弥生人の流れが、ニギハヤヒの時代(弥生時代末期)に至るまで継続していたことを示すような内容です。

名古屋市博物館で見た様々な解説文の中には、プレ物部氏が西暦100年代の終わり頃尾張に至ったと言う想定を裏付けるような記述が幾つかあります。前回でアップした「尾張の弥生時代の概観」の内容もそうですが、具体的な内容の一つは以下の通り。(注:その他の記述は後の回で見ていく予定です)

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高蔵遺跡の解説。

解説には、高蔵遺跡は海上交通の拠点であり、そのため後期には中国製の鏡がもたらされるなど、遠隔地との交流もあったようです。とあります。弥生後期は2000年前から1750年前となるので、ニギハヤヒの時代も含まれます。「先代旧事本紀」にはニギハヤヒが瀛都鏡(おきつかがみ)、辺都鏡(へつかがみ)など天孫の璽(しるし)である瑞宝十種を天神の御祖神から授けられ、天降ったと書かれていました。ニギハヤヒ東遷に従ったメンバーの別動隊(高倉下とその配下のプレ物部氏)が尾張に入ったと考える酔石亭主の見方にある程度整合する解説内容だとは思えませんか?

今回は弥生時代前期に熱田台地(高蔵遺跡)へと至った弥生人の流れが、後代におけるプレ物部氏の熱田台地への移動に繋がった点を確認しました。もちろんこれは大雑把な議論に過ぎず、今後より詳細な検討が必要なのは言うまでもありません。次回はさらに北上し西志賀遺跡などを見ていきましょう。

        尾張と遠賀川流域の謎を解く その3に続く

尾張と遠賀川流域の謎を解く その1


今回から久し振りに歴史の謎解きに挑戦します。以前、「熱田神宮の謎を解く」シリーズを書いている中で、尾張と遠賀川流域の間に不可解な共通性があることに気付きました。「熱田神宮の謎を解く その34」、「その35」、「その36」にて少し触れたように、物部氏の本貫地と考えられる北九州の遠賀川流域と尾張との間には神社構成、祭神、伝承、地名などで極めて酷似したものが見られたのです。この事実はとても興味深いため、是非一度北九州を訪問してみたいなどと「その36」で書いていました。

特に奇妙だと思ったのは、遠賀川流域に尾張限定のはずの宮簀媛命を祀る神社があったり、草薙神剣盗難事件に関連した所伝が幾つも存在していたりする点です。これらを踏まえると、尾張と遠賀川流域の間には古代から、いや多分それ以前から、交流があったことになります。けれども、尾張から遠賀川流域へと何らかの情報伝達があったのか、あるいはその逆なのか。また、そうした情報伝達は一回限りのものだったのか、或いは何度かあったのか。またどのような事情でそうしたことが起きたのかなど、様々なケースが想定され極めてややこしそうに感じられました。

尾張氏の拠点である尾張と物部氏の原郷である遠賀川流域の相似性はある日突然発生したものとは考えられず、双方向的に長い時代の積み重ねがあったはずです。尾張においては南部が尾張氏の、その北隣一帯が物部氏の支配的領域でした。そうした地理的・位置的関係も影響しているでしょうし、尾張と遠賀川流域の相似性・共通性は、尾張氏と物部氏の関係によるとも言えそうです。尾張氏の祖神・天火明命と物部氏の祖神・饒速日命(にぎはやひのみこと、以降ニギハヤヒと表記)が同一神とされているのも両者の関係性の一例なのかもしれません。などとあれこれ考えだせば、収拾がつかないことになります。では、どこから検討を始めればいいのでしょう?

尾張と遠賀川流域の相似性や尾張氏と物部氏の関係性を根源から解き明かすには、それらの基点となる事柄が、いつ、どのような形で始まったのかを見ていく必要がありそうです。謎の解明にはもちろん北九州に足を踏み入れ、詳しく調べることが必須となります。費用も時間も馬鹿にならず悩ましい限りですが、行かなければ何も進まないので、ようやく重い腰を上げることにしました。

とは言え、遠賀川流域を訪問するに当たり、前もって調査・検討しておくべき課題が幾つかあります。例えば、かの有名な遠賀川式土器です。遠賀川式土器は福岡県水巻町の遠賀川河床(立屋敷遺跡、立屋敷八剣神社の少し上流部に位置します)から出土した弥生時代の土器につけられた名称で、遠く離れた尾張にまで伝播しています。


立屋敷遺跡の位置を示すグーグル画像。表示はありませんが、立屋敷八剣神社の南側です。

遺跡に関しては水巻町のホームページにも書かれていますので、以下を参照ください。
https://www.town.mizumaki.lg.jp/town/outline/hst_01.html

今からおよそ2300年前、後代の物部氏支配地となる遠賀川流域から遠賀川式土器が尾張にまで伝えられました。弥生時代前期に物部氏と呼称される豪族は存在していませんが、北九州・遠賀川流域と尾張を結ぶ最初の接点となるので、この時点を検討の始まり・基点にしたいと思います。と言うことで、早速調査を始めましょう。まず尾張側から見ていきます。

弥生時代前期に北九州の遠賀川周辺にいた弥生人たちは、陸路ではなく船で北九州から尾張にまで至ったと推定されます。長い航海は北九州の海人系が担当したはずで、彼らは紀伊半島を回って伊勢湾に入り、濃尾平野の奥深くまで到達したのでしょう。弥生人たちの移動ルートを勘案すれば、遠賀川式土器は知多半島、熱田台地、庄内川流域を遡った現在の濃尾平野でなどで出土していることになりそうです。そうした推定に沿って尾張の各地を見ていきます。なお、必要な資料の多くは名古屋市博物館の展示物より引用しました。

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名古屋周辺の弥生時代の地形。名古屋市博物館の資料より。画像サイズを大きくしています。

名古屋周辺の地形図で注目すべきは、弥生時代の海岸線(推定)です。この推定地形図によれば、名古屋市西部のほとんどが海の底になっていたと理解されます。(注:地形図ではあゆち潟の下方が知多半島になりますが、半島部分は表示されていません)あゆち潟の北側の象の鼻のような台地が熱田台地で、断夫山古墳と高蔵遺跡の表示があり、断夫山古墳の南側先端部が現在の熱田神宮に当たります。熱田台地北側は沖積低地となっており、庄内川に沿った位置に西志賀遺跡、志賀公園遺跡の表示があります。両遺跡の北西部には朝日遺跡があり、重要な検討対象はこの地形図でほぼ網羅されていると言えるでしょう。

実はこの推定海岸線に関して悩ましい部分があります。縄文時代の前期(BC4000~3000年頃)、気候の温暖化に伴って海水面が4~5m上昇しました。いわゆる縄文海進ですね。ところが縄文時代中期には海退が始まり、寒冷化した弥生時代には海退がさらに進みます。その結果、紀元1世紀頃には海水面は現在より2mも低くなったとのことで、弥生海退と称されています。(注:弥生海退があったかどうか議論もあるようです)

弥生海退が仮にあったとした場合、海水面が低くなって陸地は広がります。そうした状況と尾張における弥生時代の推定海岸線は整合していないようにも見えてしまいます。博物館以外に参考資料がないかネットで調べたところ、弥生時代から古墳時代の推定海岸線が以下のPDFファイルに出ていました。(注:弥生時代がP6、古墳時代はP8に記載あります)こちらも、名古屋市博物館とほぼ同様の推定となっています。
http://www.city.nagoya.jp/kyoiku/cmsfiles/contents/0000091/91791/dai1syou.pdf

仮に弥生時代における海水面が現代とほぼ同じだったとして考えてみましょう。ここで国土地理院の「デジタル標高地形図、中部」を参照します。

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「デジタル標高地形図、中部」。画像サイズを大きくしています。

この地図で見ると名古屋市の西部は海抜0m~1mの地域が広範囲に見られます。濃尾平野においては約286平方キロが海抜ゼロメートル地帯とされ、津島市や弥富市、愛西市、あま市、海部郡、名古屋市の一部などが該当します。干拓や河川整備、堤防の整備などにより現在では陸地になっている上記地域も、それらの要因を取り除けば現在でも海の下になってしまうのです。従って、弥生時代の海岸線は名古屋市博物館の資料に沿った形と見てほぼ間違いなさそうです。

弥生時代の推定海岸線問題は解決したようなので、同時代の範囲について少し触れてみます。名古屋市博物館では弥生時代を前期、中期、後期に分けて解説しており、わかりやすい展示となっています。最近の研究では弥生時代の始まりが今から3000年前にまで繰り上がっていますが、本論考では従来の説に基づいた区分けにしたいと思います。

すなわち前期を2300年~2200年前、中期を2200年~2000年前、後期を2000年から1750年前としますのでお含み置き下さい。理由は参照資料等がその観点から書かれているからです。また弥生時代の始まりや区分は検討課題の本筋とは関係ないことも理由に挙げられます。と言うことで、まず以下の写真を参照ください。これは館内のモニターを撮影したものです。

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画像サイズを大きくしています。

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尾張の弥生時代の概観。

この図と次の解説でほぼすべての必要事項が出ており、弥生時代前期、中期の大きな遺跡としては朝日遺跡と西志賀遺跡があると書かれています。朝日遺跡に関しては「清須市周辺散歩 その4」を参照ください。図に記載ある高蔵遺跡に関しては弥生時代を通じて集落が営まれたとあり、その重要性が見て取れます。高蔵遺跡所在地は高倉下(たかくらじ)を祭神とする高座結御子神社一帯となり「熱田神宮の謎を解く その23」を参照ください。

地形図に表示された高蔵遺跡、朝日遺跡、西志賀遺跡(と平手町遺跡、志賀公園遺跡)からは遠賀川式土器が出土しているので、いずれも検討対象となります。また地形図には出ていませんが、知多半島からも遠賀川式土器が出土しており、ざっと見ておく必要はありそうです。

これらの遺跡から遠賀川式土器が出土する理由は何でしょう?答えは既に書いているのでおわかりですね。弥生時代の前期に北九州の遠賀川流域にいた弥生人の集団が伊勢湾を北上し、まず知多半島に立ち寄り、次に熱田台地に入って高蔵遺跡に集落を営み始め、続いて当時は入海状態と推定される庄内川を遡り、朝日遺跡、西志賀遺跡の地にまで至ったからです。彼ら或いはその後裔はさらに上流部へと進出した可能性もありますが、それはまた後で検討していきます。

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弥生時代前期の解説。

西志賀遺跡、堀越町遺跡、高蔵遺跡が弥生時代前期の遺跡で集落は環濠集落になっていると記載あります。また縄文時代の条痕文系土器と遠賀川式土器が共存していることから、尾張は縄文文化と弥生文化のせめぎあいがあった場所だと理解されます。次回は知多半島の遺跡から見ていきます。

注:本シリーズの記事カテゴリは熱田神宮との関連も考慮して「熱田神宮の謎を解く」シリーズの次に設定しました。

           尾張と遠賀川流域の謎を解く その2に続く
  

       

西尾城跡の続き


西尾城跡を続けます。城の詳細は以下Wikioediaより引用します。

創建当時、中世期の規模については不明である。1585年(天正13年)に酒井重忠によって、東の丸と帯曲輪の拡張と堀や石塁の造成、櫓門、櫓類、天守などが増築された。1590年(天正18年)田中吉政によって、三の丸の拡張や大手黒門、新門の楼門2棟、櫓門2棟が建てられている。このとき東の丸にあった大手門は、太鼓門と改称されている。
1657年当時の城郭構造は梯郭式の平山城で、西南部から本丸、二の丸、姫の丸、北の丸、東の丸、三ノ丸、それを取り囲む惣構えが構えられていた。本丸には3重櫓と3棟の2重櫓、二の丸には1棟の2重櫓、南東隅に複合式望楼型3重の天守が建てられ、北の丸、東の丸、三の丸にそれぞれ2棟の2重櫓が建てられていた。
天守は元々、本丸の北東隅に建てられていたと考えられており、1585年の改築のときか正保2年頃までにで天守を本丸から移したといわれている。正親による初代天守については、1585年に二の丸天守が建てられた後も本丸隅櫓として残されていたとしている。


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城内には結構立派な神社が鎮座していました。

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拝殿。

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拝殿と本殿を外側から撮影。本殿拝殿共に檜皮葺の社殿となっています。

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解説板です。

社名は御劔八幡宮。既に見てきた伊文神社とも関係しています。

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1996年再建の本丸丑寅櫓(3重櫓)。

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丑寅櫓の解説プレート。

西尾市の町巡りは今回で終了です。


西尾城跡


それにしても暑いですね。庭でクマゼミが合唱し始めると、あまりの煩さに会話もままなりません。でも、これも夏の風情と思って楽しめばいいのです。蝉の声のない夏など寂しい限り。我が家の庭だけでなく、世界も賑やかなようです。米国のトランプ大統領はロシア疑惑でがんじがらめになり、何もできなくなって、ただ吠えまくるだけの状態に陥っています。英国のメイ首相も、政権内部の争いからEU離脱方針が定まらず、最悪交渉期限切れでECから放り出されてしまいます。我が日本国も加計学園問題や、防衛相の日報問題で支持率が急降下し危険水域に入っています。

この状況にほくそ笑んでいるのが、中国とロシアです。米国は中国に足元を見られ、経済交渉も全く前に進みません。劉暁波氏に対する非人道的な扱いも、徹底的な情報統制で消し去ろうとしています。劉暁波氏に関しては、北朝鮮が米国人学生を死の間際に解放したのと全く同じやり方であり、その意味では中国と北朝鮮は同じだと考えざるを得ません。日本の場合も、中国公船が青森沖の領海にまで初侵入しました。足元がふらつく日本の状況を見てのことであるのは間違いありません。北朝鮮は米国が何もできないと判断し、またICBMの発射準備を進めているようです。

米国も英国も日本も、早く体勢を立て直さないと大変なことになりますよ。野党やマスコミ、マスメディアも世界情勢の中で日本を捉え直す発想を持ってほしいものです。と言うことで、西尾城跡に行ってみます。

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西尾城の絵図。

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城の遠望。緑の中に浮かび上がっています。

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立派な門。二ノ丸鍮石門とのことです。

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解説板。画像サイズを大きくしています。

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旧近衛邸。

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もう一枚。閑雅なお庭と建物ですね。
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