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北九州古代史の謎を解く その6

北九州古代史の謎を解く
04 /09 2020

前回までは「魏志倭人伝」の内容をベースにして、台与の東遷と邪馬台国は近畿地方全域を意味する点を論証してきました。一定の成果はあったものの、まだ不十分であるのは言うまでもないので、引き続き探索する必要があります。

ただ、「魏志倭人伝」の検討は一応終わったので、今回以降は記紀神話から北九州古代史の謎に迫りつつ、台与の東遷と邪馬台国問題も検証していきたいと思っています。検討範囲としては、記紀神話の伊弉諾尊(いざなぎのみこと)、伊弉冉尊(いざなみのみこと)による国生み、伊弉諾尊の禊と天照大神の誕生、天岩戸、天孫降臨、日向三代、山幸彦と海幸彦の神話までとして、これらの神話を現実に落とし込みながら、古代の北九州で何が実際に起きたのかを見ていく予定です。

その際重要なのは、上記の各神話の元になる事実がどこで起きたかを特定することです。と言うか、場所の特定さえできれば良しとすべきでしょう。酔石亭主の視点では、卑弥呼の女王国は伊都国の南或いは伊都国内の南部にある、となります。また、飛行機も自動車もない時代の話ですから、神様の行動範囲は相当狭いものになるはずです。

この2点を前提として考えれば、卑弥呼は天照大神の原像なので、天照大神に関連する神話の元になった現実が、伊都国及びその周辺一帯に存在していることになります。本当に記紀神話に見合う現実が伊都国とその周辺にあるのか、早速検討を始めましょう。探索を進めるため「日本書紀」で天照大神以前にまで時代を遡り、伊弉諾尊と伊弉冉尊の国生みから見ていきます。

「日本書紀」では天地開闢の話から始まり、伊弉諾尊と伊弉冉尊までで神代七代となります。この二神が天浮橋に立ち矛を指し下ろすと、矛先から潮が垂れて島になったので、彼らはその島をオノゴロ島と名付けました。そこで二神は島に天降り国を生むのですが、淡路州(淡路島)や伊予二名州(四国)など具体的な名前が出てきます。だとすれば、オノゴロ島も同様に現実の島が存在していると考えられます。では、どこにこの島があったのでしょう?酔石亭主の視点では当然伊都国にも近い場所になるはずです。

と言うことで調べたところ、博多には能古島(のこのしま)があり、古代の海上交通の要所となっていました。Wikiによれば、神子柴系石器群の片刃磨製石斧が表採されているほか、島内各地から黒曜石製の打製石器が表採されている。島の南東部の高台にある北浦遺跡や島南部の西遺跡では、弥生時代前期末から中期前葉の弥生土器が表採されたほか、島北端の也良でも磨製石斧が表採される。とのことです。

かつて能古島の北部には防人も配置され、本土防衛の重要拠点でもありました。また外敵の侵攻に備えた烽火台もあり、敵の船が襲来すれば大宰府に急報できる態勢になっていたようです。能古島はオノゴロ島と語感も似ており、弥生時代の土器も発掘され、古代の日本にとって重要な島であることから、オノゴロ島の候補としての資格を有しています。

能古島の名には、「神功皇后が住吉の神霊を残した島なので残島(のこのしま)になった」といういわれがあるとのことですが、神功皇后が応神天皇を生んだので古名の蚊田が宇美になったと言う宇美八幡宮由緒と似たような地名由来です。神功皇后以前を想像してみれば、位置関係や島の名前からここ以外にオノゴロ島に対応する場所はなさそうです。(注:後で古田武彦氏の「盗まれた神話」(ミネルヴァ書房)を読んだところ、同氏は能古島がオノゴロ島だとされていました)


能古島の位置を示すグーグル地図画像。

以上から能古島を伊弉諾尊と伊弉冉尊が天降ったオノゴロ島と仮定し、続いて伊弉諾尊が禊をして天照大神を生んだ場所の検討に入ります。

オノゴロ島に天降った二神は大八州国(日本)を生みますが、伊弉冉尊は根の国(黄泉の国)に行ってしまいました。悲嘆にくれる伊弉諾尊は伊弉冉尊を追って根の国に行き、彼女の恐ろしげな姿に驚いて逃げ帰ります。その還った場所が「日本書紀」神代第5段第6の一書に、「筑紫の日向(ひむか)の小戸(おど)の橘(たちばな)の檍原(あわきはら)」と書かれ、「古事記」では「竺紫(つくし)の日向(ひむか)の橘の小門(おど)の阿波岐原(あはきはら)」とあり、両書ともほぼ同じです。

「古事記」では黄泉の国と現世の境を出雲国の伊賦夜坂(いふやさか)としていますが、これは大和の西に位置する出雲国に死のイメージを付与させようとした天皇家の考えに基づいているものと思われます。それを証明するかのように、あくまで神話上の話ですが、出雲国の大国主神が死んで鎮まった出雲大社は天日隅宮(あめのひすみのみや)、日御碕神社は日沉宮(ひしずみのみや)と称され、日が沈むすなわち生命が消える西の方向にあるとのイメージとなっていました。

これに対して伊弉諾尊が禊をした「日向」は日に向かう東向きの方角で、日の出すなわち再生を象徴し天皇家にとって善き方位となるのです。このように東西を対比させた観念の操作から「古事記」の編纂者は黄泉の国を出雲に置いたのですが、実際にはオノゴロ島である能古島で伊弉冉尊が死に、それを嘆いた伊弉諾尊が能古島を去り小戸に上陸して禊をしたと解すべきでしょう。

と言うことで、上記した「筑紫の日向の小戸」がどこにあるのか探ってみます。一般的に日向は南九州とされますが、筑紫は明らかに北九州であり、矛盾しています。ではどこに?既に書いたように、飛行機も電車も車も利用できない当時の神様のことですから、彼らの活動範囲が狭いのは容易に想像できます。

上記の原則をベースに考えれば、神様にとって身近な場所に「筑紫の日向の小戸」があると想定されます。例えば二神が天降ったオノゴロ島(=能古島)に近い場所はどうでしょう?その前提で「筑紫の日向の小戸」を探してみると、驚いたことに小戸は能古島の海を挟んですぐ南に位置していました。


小戸の位置を示すグーグル地図画像。福岡市西区になります。

オノゴロ島(能古島)にいた伊弉諾尊が対岸の小戸に逃げたとすれば、小戸がオノゴロ島(能古島)の存在を証明すると同時にオノゴロ島が小戸の存在を証明する、相互証明の形になりそうです。神話と現実の場所がもうリンクし始めましたね。小戸に関してWikiでチェックすると、波食で崩落してできた狭間を指す小門(おと)が地名の由来で、小戸神社が鎮座する丘陵と御膳立(ごぜんだち)の丘陵に挟まれた地を呼称する。「福岡市文化財地図」によると、両丘陵上には古墳が7基確認されている。とのことでした。小戸や小門、小渡には海峡や港の意味もあるようです。

能古島に近い小戸は伊弉諾尊が禊をして天照大神を生んだ場所の最有力候補と思われますが、異なる説もありますので見ていきましょう。「福岡県神社誌」には、阿波岐原は博多湾に注ぐ那珂川と比恵川の間に発達した三角州と推考されている。とあり、住吉神社(福岡市住吉町)の項には「当神社は伊弉諾命の予母都(よもつ)国より帰りまして、禊祓給ひし筑紫の日向の橘の小戸の檍原の古蹟」と書かれていました。

博多の住吉神社が主張する小戸に関して、能古島の海を挟んで南に位置する小戸から直線距離で約1㎞南東の福岡市西区姪の浜3丁目5-5に姪浜住吉神社が鎮座しています。同社には伊弉諾尊が禊をする際河童が手伝ったとの伝承があるので、住吉神社は多分姪浜の伝説を取り込んだのでしょう。その証拠に、「大日本名所図録」の姪浜住吉神社境内の図には「姪濱産土神住吉宮は筑紫日向橘小戸檍原の旧跡にて筒男三神の誕生の地也」と書かれていました。従って、「筑紫の日向の小戸」の小戸は博多の住吉神社ではなく、能古島の海を挟んで南に位置する小戸がより有力だと理解されます。


姪浜住吉神社の位置を示す地図画像。

「福岡県神社誌」は以下のコマ番号8及び84を参照ください。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1040130/129

「大日本名所図録」は以下のコマ番号146を参照ください。かなり読みにくいですが…。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/762205

小戸の比定地は他にもあるので見ていきます。例えば、下関に小戸があり宮崎にも小戸神社が鎮座していました。下関と彦島を隔てる海峡は小瀬戸海峡ですが、小門海峡とも呼ばれていますし、下関側の伊崎には小門の地名があって、対岸の彦島の地名にも小戸(おど)があります。宮崎市には日向市や阿波岐原町があって、江田神社が鎮座しており、伊弉諾尊が禊を行った地であると伝えられています。Wikiによれば、当社の周辺には古代の集落跡が多数あり、代表的なものには弥生時代初め(約2,400年前)の檍(あおき)遺跡がある。また、古墳時代の初期(3世紀末)の前方後円墳・檍1号墳からは国内最大の木製墓室・木槨跡が見つかった。とのことです。

下関の場合、長門国一宮の住吉神社が関係しそうですが、同社は神功皇后が住吉三神から我が荒魂を穴門の山田邑に祀れとの教えを受け、そのとき津守連の祖・田裳見宿禰が神の欲するところを必ず定め奉ると言って荒魂を祀る神主になっています。要するに筑前の那の津から分祀した訳で、それに伴って下関に小門の地名も付けられたのでしょう。

宮崎市の阿波岐原町はドンピシャリの地名で、日向の地名もこちらが本家本元のように思えてしまいます。加えて小戸神社や江田神社、全国住吉神社の元宮と称する住友神社など、神話に関係する神社が漏れなく出揃っていました。

小戸神社、阿波岐原町に鎮座する江田神社、元宮と称する住友神社は以下を参照ください。
http://www.odo-jinja.jp/rekishi.html
https://www.travel.co.jp/guide/article/25299/
https://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=1&cad=rja&uact=8&ved=2ahUKEwiv8Iv8vv7jAhUXIIgKHcXGDV4QFjAAegQIABAB&url=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F%25E4%25BD%258F%25E5%2590%2589%25E7%25A5%259E%25E7%25A4%25BE_(%25E5%25AE%25AE%25E5%25B4%258E%25E5%25B8%2582)&usg=AOvVaw1vaARvBYvl6o1XZAnILF-9

ただ、弥生時代における副葬品(鏡、勾玉、剣など)の出土は北九州が圧倒的に多くなっており、宮崎は少ない点が弱みです。加えて宮崎は半島や大陸との交易窓口になり得ません。さらにあまりにも地名や神社が整い過ぎているのは、それらが後代のものであることを示していると考えられます。

「魏志倭人伝」の検討の中でも少し触れていますが、宮崎の地名は多分筑紫の日向にいた人々が移住した結果、地名が持ち運ばれたもので、その地名と「日本書紀」の記述を基にして関係する神社が創建されたのでしょう。(注:この間の事情は後の回でも検討します)

酔石亭主の視点は、伊弉諾尊と伊弉冉尊が天降ったオノゴロ島、伊弉諾尊の禊と天照大神の誕生、天岩戸、天孫降臨、日向三代、山幸彦と海幸彦へと続く日本神話は、ほぼ同じ地域内で起きた話だと言うものなので、やはり筑紫の日向の小戸は福岡市西区の小戸を採用すべきと考えます。また天照大神の原像は卑弥呼で、彼女の女王国は伊都国の南或いは伊都国内の南にあったとすれば、福岡市西区の小戸も伊都国に含まれてしかるべきですが、この点も後の回で検討してみます。

以上から、伊弉諾尊と伊弉冉尊が天降ったオノゴロ島を能古島に、伊弉諾尊が黄泉の国から逃げ帰り禊をして天照大神を生んだ場所を福岡市西区の小戸に特定しておきます。もちろんこれは暫定的なものとご理解ください。次回も小戸に関する検討を続けます。
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桜の続き

未分類
04 /08 2020

昨日緊急事態宣言が発出されました。愛知県は含まれておらず、名古屋市長は含めるよう政府に要請するとのことですが、県知事は慎重姿勢を崩さず、ここでも足並みは揃っていません。ツートップがこんな体たらくでどう感染症と戦うのか不安になってきます。陣頭指揮を取れる人に交代してもらわないとどうにもならないのではないでしょうか?

テンプレートを変えてみました。文字が大きくなり読みやすくなります。逆に一行当たりの文字数は少なくなってしまうので、ちょっと気にはなります。

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三本の桜。満開です。

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ズームします。

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丘の上のミニ桃源郷のような場所の紅枝垂桜。

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もう一枚。酔石亭主以外誰もいません。

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画像サイズを大きくしています。

北九州古代史の謎を解く その5

北九州古代史の謎を解く
04 /06 2020

前回の端山古墳に関するWiki記事で、「古墳に葬られた人物は、伊都国王に代わってこの地域を支配した、大和政権と深い関係を持つ豪族であろうと考えられている。」と書かれた部分は、ほぼ同じ内容が古墳の解説板(糸島市教育委員会作成)に記されていました。これに対し「梁書」では、また卑弥呼の宗女の臺與を立てて王となす。その後また男王を立て、並んで中国の爵命を受ける。と書かれています。果たして二つはきちんと整合しているのか考えてみましょう。

まず「梁書」の記事に沿い、台与(臺與)→男王(共立された倭国王)から見ていきますが、男王が端山古墳の被葬者と仮定して検討を進めます。古墳が300年代初頭頃の築造であればこの人物は、13才で250年代に卑弥呼の後継宗女となった台与の後を継ぎ、280年から290年代末頃にかけて勢力を持ち、300年の初め頃築造された古墳の被葬者となるので、年代的にはきちんと整合しています。

また古墳の規模は全長が78.5メートルなのでやや小さいと思われますが、共立された王と考えれば男王(倭国王)の条件は満たしているようにも見受けられます。これらを整理すれば台与→男王=豪族との仮定が正しそうに思えてきます。ところがです。上記の場合だと伊都国が300年頃まで存続するので、端山古墳の記事内容と矛盾します。加えて台与の墓となる古墳が糸島市に見当たらない点も気になります。

端山古墳の被葬者は、解説板によれば伊都国王に代わる豪族ですから、伊都国と豪族との間には大きな隔たりがあります。すなわち台与の治世中、或いはその後の280年頃に伊都国は消滅したか断絶し、豪族の世となったことになります。この場合、台与の後に立つ男王が豪族とはならないし、豪族が大和と深い関係がある点も「梁書」の記事と矛盾してしまいます。また伊都国は千戸程度の小さな国なので、その地域だけを支配する豪族が全長78.5メートルの古墳を築造できるとは思えません。倭国全体を統括すべき男王は伊都国地域の豪族とは立場も異なります。

従って、台与→男王=豪族は成り立たず、台与→男王、台与→豪族と二つの異なる流れが相互に矛盾せず成立するかがポイントになるはずです。その前提条件を満たせるか台与→豪族の流れを追ってみましょう。その場合、台与と豪族の関係、豪族と大和王権との深い関係を同時に証明できるような筋道で読み解いていく必要があります。

端山古墳の解説板が豪族と大和王権との深い関係を指摘するのは、同古墳の盾形周濠が大和王権の古墳に特徴的なものなので、それを根拠に書いたものと推察されます。けれども、それだけで大和王権との関係を説明するのは無理がありそうです。もっと別の見方がないでしょうか?

周濠を持つ大和最古の前方後円墳は酔石亭主が台与の墓と考える箸墓古墳で、築造は200年代後半と推定されています。従って、この豪族は大和王権との関係と言うより、卑弥呼の後継宗女だった台与との関係から箸墓古墳を真似て周濠のある前方後円墳を築造させたと理解すべきです。また、全くの推測ですが、大和における盾形周濠は端山古墳の周濠の形状を参考にしたのかもしれません。

端山古墳の被葬者である豪族に関して、内紛の続く北九州で大和の勢力をバックにして伊都国(台与の次の男王)を攻め滅ぼした人物と推定することも可能です。けれども、当時の大和勢力は北九州における内紛を避けるため畿内に向かった人々が主流なので、彼らが王権としての立場で北九州を影響下に置いていたとは到底思えません。

以上から、端山古墳の被葬者である豪族とは台与の次の男王ではもちろんなく、例えば伊都国の台与時代における大率の子供で、幼すぎるため大和には向かえず北九州に残留した人物となりそうです。台与が255年頃に伊都国内(或いは伊都国の南)にあった女王国を離れたとして、当時1歳だった赤ちゃんが280年頃地域の豪族としての地位を固め、290年代末に死去して300年の初めに端山古墳が築造されたと考えれば、台与→豪族の流れや各年代・年齢などに不合理な点はありません。(注:伊都国王の赤ちゃんとの設定も可能です)

また「魏志倭人伝」によると伊都国王は卑弥呼に世々従ったとされていますから、卑弥呼の宗女である台与にも当然従うはずで、台与の移動に伊都国王の一行も同行したと判断され、これにより伊都国が255年頃消滅した点も確認されることになります。

台与と端山古墳に葬られた豪族との関係、豪族と大和との関係(注:実際は豪族と大和に入った台与との関係)はほぼ明らかになりましたが、台与→男王の流れはどうでしょう?こちらは簡単で、台与が大和に入り死去した後に王位を得た人物と考えれば、「梁書」に書かれた台与→男王の流れも一応確定されそうです。

台与の古墳が糸島市に見当たらない疑問も、彼女が大和に東遷し箸墓古墳に埋葬されたとすることで解消されるでしょう。結局、台与の東遷と言う要素を投入することで、台与→男王、台与→豪族の二つの相容れない流れに何とか筋道が付けられ、同時に邪馬台国とは近畿地方全域を意味すると証明できたことになります。

伊都国内或いは伊都国の南にあった女王国が大和に東遷すれば、ほとんど自動的に中国王朝の北九州連絡窓口が消滅してしまうので、中国史書に約150年間も日本関係の記事が登場しなかったことを証明する小さな一助にもなりそうです。まだ論証としては不十分な面も多々ありますが、台与の大和東遷に関連して、卑弥呼→男王→台与→男王の流れを年代順で以下のように推定してみます。

卑弥呼の死去(248年)→男王(248年~250年)→台与(女王国女王:250年~255年)、
台与(宇佐市又は行橋市に滞在:255年~256年)、台与(大和時代:256年~275年)、
台与(箸墓古墳:280年頃)→男王(280年~290年末頃に在任。西殿塚古墳被葬者?)

もちろん上記に関して異なる流れを想定することも可能ですが、今までの検討内容を総合的に見れば、酔石亭主の推定の方が可能性は高いのではないでしょうか?さて、東遷を決めた台与は鏡(天照大神)を卑弥呼の墓から取り出して、伊都国の南から九州の別の場所に移動します。では台与一行はどのような経路を辿ったのか?糸島市を出て最初に向かった候補地の一つは宇佐市です。伊都国の南(平原王墓)から宇佐までの直線距離は約106㎞となります。

「魏志倭人伝」に書かれた伊都国と女王国間の距離も一里77mとした場合115㎞、88mとした場合132㎞ですから、女王国までの距離の矛盾はある程度解消されたことになります。またご存知のように邪馬台国宇佐説が何人かの研究者によって唱えられています。宇佐に女王国の台与が移動し天照大神も遷座したから、後代にその重要性が伝わり邪馬台国の候補地ともされたと思えませんか?

もう一つの候補地が行橋市です。「豊前国風土記」には、「宮処の郡 むかし天孫がここから出発して日向の旧都に天降った。おそらく天照大神の神京(みやこ)である。云々」と書かれていました。宮処の郡とは現在の行橋市一帯に相当します。台与が鏡(天照大神)を奉じて行橋市のどこかにしばし留まり、台与を含む主力は瀬戸内海を東に、別メンバーが南九州(注:台与当時は日向の国名は存在しない)に向かったと考えれば、一定の筋は通ります。「魏志倭人伝」に投馬国と邪馬台国への方位が南と書かれているのは、南九州に向かった別動隊の情報があり、これが混乱の元となったのでしょう。

平原王墓から行橋市までの直線距離は約75㎞ですから、実際の行路がその1.5倍として113㎞になります。距離を考えると行橋市(注:邪馬台国行橋市説もある)も有力ですが、現状ではどちらからも決定的な論拠を得られないため特定することは困難です。他の情報も仕入れつつ、もっと後の回で再検討したいとは思っています。

卑弥呼の墓から取り出された鏡(天照大神)はその後瀬戸内海を経由して大和に運ばれました。年代的な整合性を考えれば、運んだのは台与以外に考えられません。(注:鏡は第5代考昭天皇の時代から宮中で祀られたとされる)そして第10代崇神天皇の時代に宮中を出ています。

邪馬台国(近畿地方全域)は、「魏志倭人伝」によると不弥国の後に南投馬国と続き、その後に南邪馬台国と記載されています。この方位を勝手に東に変えるのは問題との指摘もありますが、そもそも南であれば熱帯の海に至るし、西は東シナ海を経て中国大陸となるし、北は朝鮮半島に戻る形となって有り得ません。

よって選択肢は東(=ひんがし=日向し=太陽の出る天皇家にとって良き方向)しかないのです。記紀の神代の段には日向と言う地名が頻出することも、台与の東への移動を証明するものと見るべきでしょう。(注:台与グループの移動は北九州の各地にある日向の地名とリンクしていると思われ、後の回で検討する予定です)

鏡(天照大神)を奉じる台与はしばし宇佐市か行橋市に留まった後、争いの続く北九州を棄て瀬戸内海を東に向かい、投馬国(吉備と推定)を経て難波から大和川を遡り大和に至ったと理解されます。「魏志倭人伝」に邪馬台国は女王の都する所と書かれた女王とは台与を意味していたのです。(注:北九州の域内及び大和に至るまでの移動経路も後の回で検討します)

台与の大和への移動を証明するものが、天岩戸伝説と崇神天皇の時代まで宮中で祀られていた天照大神の存在でした。その後天照大神は後継宗女である豊鋤入姫命、倭姫命の手で伊勢に遷座し、祀られます。従って、伊勢神宮こそが卑弥呼の女王国の最終形態になるのです。三重県多気郡明和町には伊勢神宮に奉仕した斎王の御所・斎宮があり、現在も発掘が続いています。その規模は東西約2キロメートル、南北約700メートルと広大です。ひょっとしたら女王国のイメージを参照し、模したものが斎王の御所・斎宮だったのかもしれません。

北九州・倭国と近畿・邪馬台国のありようには似通った部分もあります。倭国は北九州全域を意味し、卑弥呼が倭女王と称されたのと同様に、邪馬台国も近畿全域を意味し台与は邪馬台国の女王と称されたのです。また大和の古名は倭、大倭であり、北九州・倭国から東遷した台与が持ち運んだものと考えれば、両者のありようや国名に似通った部分があるのも当然の話となるでしょう。

以上で「魏志倭人伝」に書かれた邪馬台国は近畿地方全域を意味すると確認されました。(注:卑弥呼の女王国が北九州の伊都国内或いは伊都国の南に存在する可能性は非常に高いと思われますので、次回以降その見方を論証すべく具体的に検討していきます)

未分類
04 /04 2020

新型コロナは日々深刻さを増しており、この土日も外出の自粛が強く求められています。酔石亭主も自粛要請に従って町中を出歩くことはしませんが、人が全くおらず密集しないような場所であれば、お花見や散歩も可能とは思われます。今回はそうした場所での桜です。

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丘の上の大きな桜。

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こちらはソメイヨシノです。

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ズームします。

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もう一枚。きれいですね。

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こちらは紅枝垂桜です。

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ズームします。

北九州古代史の謎を解く その4

北九州古代史の謎を解く
04 /03 2020

今回は邪馬台国が北九州に存在できない九つ目の理由を検討していきます。

9台与の女王国からの移動を証明できるか。
 何度も書いているように北九州では小国が乱立し争いの絶えない状況が続きました。卑弥呼の時代になっても、晩年の正始8年(247年)に狗奴国と戦争状態であると帯方郡太守に奏上しています。卑弥呼の死後男王を立てたものの、国中(注:倭国の中)が不服で互いに殺し合い千余人が殺されました。その後台与が宗女となり国中は安定しますが、一旦平穏になっても再び争いが起き、移動を余儀なくされたと容易に想像できます。もちろんこれは酔石亭主の想像に過ぎないので、より明確な根拠を与える必要があります。

例えば卑弥呼以前の100年代終盤頃、饒速日(にぎはやひ)は大和に東遷しました。理由は倭国大乱による混乱から逃れるためと推察されます。事実関係は別として神武天皇も九州から大和へ東遷しており、それに相当するような動きがあったのは間違いなさそうです。つまり、九州から大和へと移動する流れは卑弥呼以前、卑弥呼以後にもあったと考えられるのです。饒速日以前にも遠賀川式土器が東に伝わり、尾張にまで到達している点は「尾張と遠賀川流域の謎を解く」シリーズで詳しく書いています。九州勢力の東遷は数次に亘ったと考えられ、台与の移動を一定程度裏付けるものにはなり得ます。

女王国において台与は日々卑弥呼の霊を祀っていました。しばしの間は倭国も平穏でしたが、小国乱立の国柄、再び争いごとが激化し、台与は女王国の移転を決断します。決断に当たっての大きな問題は、他の場所に移ると卑弥呼の霊をその墓前で祀れなくなることです。やむなく台与は、本来なら絶対に許されないはずの卑弥呼の墓を開き、中から卑弥呼と太陽を象徴する鏡(八咫鏡)を取り出し、その鏡を卑弥呼の霊=天照大神として祀ることにしました。

この経緯は「日本書紀」の天岩戸伝説に象徴的に書かれています。神代上第七段、一書に曰くには、日神が岩戸から出るとき、鏡をその石窟に入れていたので、戸に触れて小瑕が付いた。その瑕は今もなお残っている。それがすなわち伊勢に斎祀る大神(天照大神)である、と記載されていました。日神と鏡が別のような書き方にしてありますが、よく読めば日神である天照大神が鏡だとすんなり理解できる内容です。

以上から、「日本書紀」の天岩戸神話は台与が卑弥呼の墓から鏡を取り出したことを証明するものだったと確認されます。その鏡が崇神天皇の時代大和にあった事実は、鏡が北九州から大和に運ばれたことの証明になるでしょう。鏡(=天照大神)が大和から伊勢に運ばれたことも、上記した「日本書紀」では簡略に、また「倭姫世記」では詳しく記述されています。

「晋書」には泰始二年(266年)十一月 倭人、来たりて方物を献ず、とあり、これに対応する日本側の記事としては、「日本書紀」の神功皇后紀66年条に以下の内容が書かれています。

この年、晋の武帝の泰初二年(泰始二年の誤り)、晋起居注に云う。武帝の泰初二年十月、倭女王は譯を重ねて遣わし貢献す

ここに書かれた倭女王とは台与で、彼女はこの時点で既に大和へ移動していた可能性があります。理由は「晋書」の成立が唐の時代の648年であり、その時点における編纂者は大和王権の存在を当然知っており、しかも大和の古名は倭、大倭であったからです。北九州倭国の台与が大和に移動したから大和(やまと)の古名が倭(やまと)になったと考えれば、「晋書」の編纂者が倭女王と書くのも当然の話となります。(注:「魏志倭人伝」で景初二年(238年)六月、倭の女王は大夫難升米たちを、帯方郡に使者として遣わし云々と書かれた部分は北九州倭国の女王で卑弥呼です)また「梁書」(629年の成立)の倭伝には以下の記述がありました。

正始中に卑弥呼死す、さらに男王を立てるも国中は不服、さらに相誅殺す。また卑弥呼の宗女の臺與を立てて王となす。その後また男王を立て、並んで中国の爵命を受ける

台与は卑弥呼が死去し、男王が立ってまた争いになった後に13歳で後継宗女すなわち女王となります。台与が275年頃に死去したとして、その後また男王が立てられるのであれば、少し遅れて崇神天皇(290年から318年頃在位の人物)の時代となります。卑弥呼以降、男王→台与→男王が北九州にいたとして、では台与と男王の墓は北九州のどこにあるのでしょう?大和であれば、台与は箸墓古墳の被葬者となり得るし、続く西殿塚古墳、外山茶臼山古墳、メスリ山古墳を経て崇神天皇の行燈山古墳へと連続していきます。

これらを踏まえて、台与後の男王に該当しそうな糸島市の古墳を見ていきましょう。平原遺跡から1kmほどの場所に端山古墳があるので、内容をWikipediaより引用・抜粋します。

端山古墳(はやまこふん)は、福岡県糸島市三雲にある古墳。古墳時代前期(4世紀初め頃)築造と推定される前方後円墳である。全長78.5メートル、古墳時代前期)と推定されるが、前方部は完全に消滅していて、大きな円墳状態になっている。
前方部は二段築成、後円部は三段築成で、斜面には葺石が施されている。前方部の長さ約38メートル、後円部の直径は約42メートル、高さ約8メートル。盾形の周濠が廻らされており、周濠を含むと全長は約99メートルとなる。
古墳は、細石神社の北東約200メートルの所にあり、さらに、北西約1キロメートルには平原遺跡がある。付近は魏志倭人伝の伊都国の主要な地域と考えられている。 古墳に葬られた人物は、伊都国王に代わってこの地域を支配した、大和政権と深い関係を持つ豪族であろうと考えられている。



端山古墳の位置を示すグーグル画像。

端山古墳の詳細写真等は以下のPDFファイルを参照ください。
http://ohoka-inst.com/hayama999.pdf

端山古墳の検討は次回とします。

酔石亭主

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