尾張と遠賀川流域の謎を解く その47


今回は高倉神社の由緒内容を検討します。

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解説板。

祭神は天照皇大神(あまてらすおおみかみ)、大倉主命(おおくらぬしのみこと)、莵夫羅媛命(つぶらひめのみこと)となっています。天照皇大神が最初に出ていますが、これは中世に加わったもので除外していいと思います。由緒内容は以下となります。

當社は國史所載の古社にして第十四代仲哀天皇八年正月己卯朔壬午筑業に行幸し給いし時、岡の縣主の祖熊鰐周防婆歴浦(さばのうら)に参迎え海路を導き山鹿岬より巡りて岡の浦に入らむとし給ふ。時に神異あり、天皇勅して挾抄者(かじとり)倭國莬田の人伊賀彦命を祝部としめ給ふ。神功皇后摂政二年五月午の日に此の地に神祠を建て神田千町を以って定めらる 即ち大倉主命莬夫羅媛二神の本宮なり。
 古来武人の崇敬厚く年中三度の大祭には在廳の官人をして祭儀を監察せしめられ、武家執政の後も検使を遣して祭儀を援けしめられき、天文五年九州探題大内義隆公社殿の造営ありしも、永禄二年大友宗麟の兵火にかかり、壮麗なりし社殿も貴重なる社宝と共に烏有に歸せしが、天正十五年國主小早川隆景公之を再建、慶長十八年黒田長政公梵鐘及び鳥居の献納あり。再来歴代の國主、神田・神山を寄進して、崇信の念殊に厚く、宝暦元年旧遠賀郡の惣社として定めらる。
 明治五年十一月郷社に列せられ大正九年縣社に昇格す。現今の神殿・幣殿は明治九年旧遠賀郡の造営もよるものにして、古は神傅院、千光院、穂智院、勝業院、正覚院の六坊あり又社家・五家・巫女四家ありしも、明治初年同時に廃せらる。
 境内には御神木として、杉・楠・松・楓・柳の五樹ありしが、今は神功皇后御親裁と傳へられる綾杉と楠のみ残せリ。
史蹟 伊賀彦命古墳 綾杉・大楠(懸重要文化財指定五本)

古代は別として、大友宗麟、小早川隆景、黒田長政など戦国時代の有名人が登場しています。古代の詳細は以下の解説板を参照ください。

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詳しい解説板。汚れが目立ちます。

高倉神社の由来
高倉区の南山麓にあって神殿は西を向き、芦屋町岡湊神社の本社で、以前は遠賀郡二十二村の総社であった。明治五年郷社と定められ、大正九年九月二十八日県社に昇格、昭和二十年官幣社に昇格される予定であったが、終戦のためなされなかった。
祭神は大倉主命・莵夫羅媛命の二神で、中世天照大神を合祀し、左殿に氏森大神、秋葉大神、室大神、高田大神。右殿に白山大神、中山大神、山崎大神、国常立大神を合祀する。祭日は十月九日、社記は「日本書紀」を引用して「仲哀天皇が筑紫に行幸されたとき、岡の県主熊鰐はそれを聞いて、百枝の榊をとり、今の百合野で九尋の船のへさきに立て、上の枝に白銅で造った鏡を掛け、中枝は十握の剣をかけ、下枝に八尺瓊の勾玉をかけて、周防の沙歴の浦にお出迎えし、魚や塩、地図を奉献する。(これは八尺瓊の勾玉の美妙なように天下を治め、白銅鏡の明晰な如く山川海原をみそなわし、十握剣をひっさげ、天下の賊を平定くださいとの意で、神代の天照大神の故実に始まり、赤心を顕し、至誠を表現し、当時諸臣が天皇を奉迎する礼儀であった)熊鰐は海路を導いたが、山鹿岬より御船が進まなくなった。天皇は「熊鰐よ、お前は忠誠心があって出迎えに来たのだろう。それなのに船が進まないのは何故か、策略があってとめたのだろう」と吃問されると、熊鰐は「御船が進まないのは、私の罪ではありません。この浦の先に男女二柱の神がおられ、男神を大倉主命、女神を莵夫羅媛命といいますが、その神に挨拶をしないからです」と奏上した。そこで天皇は、大和の国の伊賀彦を祝部となし、祭とし祈願をされたら、御船は進むことが出来た」と。仲哀天皇は神功皇后と岡津に暫く駐まり、作戦を練られ、諸軍に命じて兵器弓矢を整備される、そこを矢矧という。熊鰐は皇后に奏上して「この県に高津峯という三面宝珠の山があります。この峯に国々を鎮護するため神々が天降っておられます。いそいであの峯に登られ、朝敵誅伐のことをお祈りください」と。皇后は悦んで高津峯に登られ、熊襲征伐のことを祈られる。間もなく岡津に帰られ、天皇と相談される。「ここは国の端で、暫くでも皇后をおく所ではありません。香椎の宮に移ってください」と。軍勢はお立ちになる。今度この九州に下られたのは熊襲征伐のためだから、敵国はまだ遠いとはいえ、隊伍を整え号令を厳格にされる。そして先ず御旗を立てられた所を旗の浦といったが、今は訛って波津の浦といい、鏝を残された所を小手の村といったのを、後世小の字をとり手の村という。こうして程なく香椎に入られたが天皇は宿陣されたとき海からの風が烈しかったので千本の松を植えられた。それを垣崎松原(三里松原)という。香椎で天皇は崩御されたので、皇后が代わって熊襲を伐ち平げ、朝鮮の新羅も伐ち従え、その年の十二月に御帰還される。
この西征で、天皇、皇后は各所で祈願をされたので、御帰還後それぞれお礼をいい祭りをされた。中でも大倉主、莵夫羅媛の二神は水神で、仲哀天皇が筑紫に下られた時も神異があり、皇后が三韓を伐たれたときも神助が浅くなかったので、皇后が摂政の二年五月、午の日に勅を下して、この高倉村に御柱を建てて祭りをされる。これが高倉神社である。だから今に至るまで午の日を祭日にしている。(岡垣風土記)

やたらと長いですね。要約すれば、仲哀天皇の船を進まなくさせたのは大倉主命と莵夫羅媛命の意志によるもので、天皇が大和国の伊賀彦に祈願させたら船は進むことができた。そして、神功皇后の摂政2年5月、皇后が熊襲討伐を祈願した高津峰のある高倉村に御柱を建てて祀ったのが高倉神社の始まりとなります。摂政2年は紀年で202年になりますが、実年代では干支2運の差を計算に入れ322年となります。但し、神功皇后の寿命は紀年では100歳となるので、そんな長寿は実際にはあり得ず、実年代の322年もあまり意味のない年代と言えます。

さて、過去記事においては、大倉主命(おおくらぬしのみこと)と高倉下(たかくらじ)が同一人物(神)かどうかについて、一応同じ人物だろうとしてそれ以上の追及はせず打ち切っています。今回はそのような曖昧な形では終われないので、大倉主命と高倉下は同一人物か否か結論を出したいと思います。

大倉主命は既に書いたように、嶋戸物部が奉斎する神でした。嶋戸物部の移住先は尾張の熱田台地で、ここには高倉下を祀る高座結御子神社が鎮座し、鎮座地は遠賀川式土器が出土した高蔵遺跡の上となっています。また、高倉下を祀る神社が四国の伊予、紀伊半島など移動経路上に数多く見られます。こうした関係から大倉主命は高倉下と同じだと理解されます。

次に大倉主命と高倉下の名前を検討してみます。二人の名前は表記も音もかなり違いがあり、同一人物と見做していいのか難しい部分があります。なので、名前を細かく分析してみましょう。大倉主命の「大」と高倉下の「高」はいずれも立派さを示す美称です。似た例では大物主神がいますね。大倉主命の「主」は(ぬし)、(あるじ)などの読みがあります。読みの最後が(し)、(じ)である点に注目すると、高倉下(たかくらじ)の(じ)と同じになります。つまり、高倉下は本来高倉主であったものが高倉下に転じたと理解されます。従って、かなり違いがあるように見える大倉主命と高倉下の名前は、いずれも同じ倉主となり、同一人物と考えられるのです。

他にも大倉主命=高倉下を裏付ける例がないか見ていきましょう。仲哀天皇の船が進まなくなったとき、大和の国の伊賀彦を祝部として祀らせたら船は進むことができました。「日本書紀」を見ると、倭国の菟田(うだ、現在の宇陀)の人伊賀彦を以って祝(はふり)として祭らしめたまう。とあります。ストーリーに全く関係なさそうな宇陀の人物が突然登場するのには大きな違和感があります。きっと何らかの必然性があってのことなのでしょう。ではどんな必然性があったのか?

宇陀に関してあれこれ調べたところ、宇陀郡榛原町福地1には高倉下を祀る椋下神社(くらげじんじゃ)が鎮座していました。由緒によれば、神武天皇の軍勢が熊野に迂回する際、悪い神の毒気に当って、気を失い倒れてしまいます。そのとき高倉下が布都御魂を献上し、剣の霊威によって軍勢は正気を取り戻しました。

この功績を称えて文武天皇の慶雲2年(702年)に八咫烏神社と同時期に創建されたのが当社とされています。何と高倉下の登場する最も重要な場面に関係するのが宇陀に鎮座する椋下神社だったのです。大倉主命と高倉下が同一であったからこそ、その高倉下を祀る地の人物が大倉主命を祀れば神の心も鎮まると言うものではないでしょうか?椋下神社に関しては以下を参照ください。
http://kamnavi.jp/mn/nara/mukusita.htm

また、「先代旧事本紀」には伊賀彦王の名前があり、日本武尊の子となっています。伊賀彦と伊賀彦王が同じ人物かは不明ですが、同じだとすれば日本武尊の子になります。地元で崇敬されている日本武尊(実態は北九州の武人ですが…)の子が大倉主命を祀るのであれば、大倉主命としては心を鎮めるしかありません。(注:伝説的な話なので時系列は無視しています)それらの関係を踏まえて、仲哀天皇8年条に伊賀彦の話が出てきたと推察しますが、いかがなものでしょう?(注:境内には伊賀彦古墳があるとのことで、高倉村の内山下には伊賀彦の子孫と称する人もいたようです。古墳は残念ながら見落としました)

そもそも大倉主命を祀る神社なら、社名も大倉神社でいいはずですが、高倉下を連想させる高倉神社になっているのも、大倉主命=高倉下の関係を示しているように思えます。以上から、大倉主命と高倉下は同一人物(神)とほぼ確認されました。

            尾張と遠賀川流域の謎を解く その48に続く

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尾張と遠賀川流域の謎を解く その46


前回、前々回と鞍橋君に関連して大倉主命(高倉下)が登場しています。今回はその流れを受ける形で大倉主命を祀る高倉神社を見ていきます。ここまで大倉主命=高倉下との前提で記事を書いていますが、本当にそうなのか詳しい検討をするまでに至ってはいません。高倉神社を検討する中で、この問題の筋道をつけたいとは思っています。


高倉神社の位置を示すグーグル地図画像。

鎮座地は遠賀郡岡垣町高倉1113。今まで検討してきた各社の場所からはやや距離があります。

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鳥居です。境内は楠の巨木が多く神域感に満ちています。

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楠の巨木。

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別の楠。

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鳥居と楼門。

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楼門。社殿は楼門の先の石段を上がったところに鎮座しています。

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楼門の下から見上げる石段と社殿。

今度は杉の巨木もあります。神域感がさらに強くなってきました。

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拝殿です。

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本殿。

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本殿を拡大。

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境内。
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扁額。高蔵祠とあります。

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土坡形の水石も祀られて…。

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鹿の骨でしょうか?何かの占いに用いたのかも…。

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杉の御神木。綾杉と言うそうです。枯れた風情が何とも素晴らしい。

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内部は空洞になっていました。

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少し上の部分。

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解説板。

神功皇后が自ら植えたとのことです。その樹齢は700年ですから、皇后は鎌倉時代末期の人物となってしまいます。伝承の重要性は理解できるものの、整合性を無視してはいけないと思うのですが…。別の解説石板には楠の巨木が5本あり最大のものは胸高周囲11mと書かれていました。綾杉は同社の神木であり胸高周囲6mとのこと。一度兵火に遭って焼けたそうです。解説板にはこれらの巨木が深遠な社叢をつくり社祀の古さを物語っている。とありますが、正にその通りで、境内に佇むだけで深い神気に包まれるような雰囲気があります。

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周囲の景観。穏やかな山里の風情です。

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もう一枚。

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いい雰囲気で癒されます。

今回は写真だけでかなりの枚数となってしまいました。高倉神社の由緒は次回に検討します。

            尾張と遠賀川流域の謎を解く その47に続く

尾張と遠賀川流域の謎を解く その45


今回は鞍手郡鞍手町長谷に鎮座する鞍橋神社に行ってみましょう。下新入剣神社から見ると六ヶ岳を挟んで西側に位置しています。


鎮座地を示すグーグル地図画像。

鞍橋神社は地図画像に表示されていませんが、飯盛山の山頂付近に鎮座しています。地図画像では475号線を南南西に進むと長谷寺方面に下る狭い道路があります。そして475号線の進行方向左手に妙見社の鳥居が目に入ります。車は妙見社の鳥居脇が車止めになっていますので、そこに駐車ください。車を停め長谷寺に向かう道を歩いて少し下れば山に入る登山道がありますので、この道を登り続けることになります。文章ではややわかりにくいかもしれないので、ストリートビューでチェックいただければと思います。

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妙見社の鳥居と車止め。

山道を登っていくと汗ばんできます。

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しばし登るとこんな石柱が建っていました。

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御神木的な巨木。

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社殿と言うより祠です。

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解説板。読みずらいので以下に記載します。

鞍橋様
祭神は鞍橋の君(飯盛山頂に祀る)日本書紀欽明天皇十五年の段に筑紫国造家の出身で、当時新羅との戦いに苦しんでいた百済の救援に赴いた武将の記がある。これが鞍橋君で、後鞍手の地名は此の名に起こるとされている。

鞍橋君(くらじのきみ)に関しては既に何度か検討していますので、書くべき内容はあまりなさそうです。鞍橋君の武功に関しては「日本書紀」の内容を既に引用していますが、ここでは熱田神社の手書き史料に書かれた部分を抜粋します。

百済の王子余昌が新羅の軍に包囲された。彼は血路を開かんと試みたが彼の将兵は新羅軍の勢いに圧倒され、その物々しさに為すべき術を知らなかった。余昌もまた傍観して運命に委ねるより外に致し方がなかった。その時百済の援軍に参加していた筑紫の国造がいた。彼は勇躍して陣頭に立ち新羅軍中最も勇敢な騎馬兵に挑戦した。彼は弓の名手であった。弓を引き狙った矢は見事騎馬兵を射落とした。箭は乗鞍の前橋後橋を貫き甲冑を穿った。彼が次々と続いて放つ矢は雨のごとく新羅の将士に注がれた。斯くて新羅は自らの包囲の軍を解かざるを得なかった。余昌及び百済の諸将は程なく包囲を脱して逃げ帰るを得たのであった。その勇武に対して彼等はこの筑紫の国造に鞍橋君と言う敬称を与えたのであった。

他にも鞍橋神社に関する記述があります。

黒治神社考(藤原朝臣政明)
鞍手郡新分郷長谷村倉橋山(此山飯ヲ盛リタル如クナル山ニヨリテ飯盛山トイフ)二黒治神社アリ云々。古老ノ傳二此ノ御神ハ神官金川氏ノ元祖ニシテ昔ヨリイカナル祈願ヲスルトモ其霊験アラズト云フ事ナシ。


鞍手郡新分郷長谷村倉橋山(この山は飯を盛ったような形の山なので飯盛山と言う)に黒治神社がある云々。古老の言い伝えによると、この御神は神官金川氏の元祖で、昔からいかなる祈願をするともその霊験がないと言うことはなかった。

以上、鞍橋君に関しては、黒治、鞍闇、暗路、闇路などの別表記があり、それらに倉師大明神の名前を併せ考えれば、倉の暗さを示す方向に傾いていると見て間違いないでしょう。過去記事において大倉主命と洞海(くきのうみ)の関係を書いたように、大倉主命(高倉下)の名前も倉の暗さに関係している点を考慮すると、やはり鞍橋君は磐井の本拠地である御井郡(現在の久留米市)からプレ物部氏エリアに強制移住させられたことになります。

次回は倉師大明神問題の流れを受ける形で、大倉主命を祀る高倉神社を訪問します。

               尾張と遠賀川流域の謎を解く その46に続く

尾張と遠賀川流域の謎を解く その44


尾張と遠賀川流域の謎解きもようやく山場を越えました。これからは少し気を緩められそうです。と言うことで、今回は下新入の剣神社を見ていきましょう。下新入剣神社の場合、他とはやや異なる要素がありそうで注意が必要です。鎮座地は直方市下新入2565。


鎮座位置を示すグーグル地図画像。

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鳥居と剣神社の扁額。全体的に新しく明るい雰囲気です。

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石段を登ります。

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拝殿。境内は全体的に新しく明るい雰囲気です。

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拝殿と本殿。

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御神木。巨木とは言えません。

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境内社も幾つかあります。

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石祠。

こうした中の見える石祠は尾張にはまずないので珍しく感じられます。それにしても、祠の内部には水石になりそうな石が幾つもあります。解説板は見当たらなかったようなので、同社の由緒を「福岡県神社誌」から見ていきましょう。コマ番号は212。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1040130/212

やや長く読みにくいので、重要そうな部分を青字にて記載します。

祭神
伊弉諾命、日本武尊、石折紙、根折紙、石筒之男紙、甕速日肺、樋速日神、建御雷之男神、闇御津羽神、闇於加美神

由緒
劔神社は往古は倉師大明紳と號せしよし 齋祀る始祖は田道命の裔孫長田彦と言ふ人也 當村枝村に長田と言ふ所有り居住の地と云へり 天文錄の頃粥田城主杉氏粥田の庄と號して數村領するの時鎮守の宗廟として信敬したる事舊記に有り 永禄元年粥田城主連並再建棟札有り 元禄十五年黒田長清再營す 明治五年十一月三日村社に被定。また社説に曰く往古倉師大明神と稱へ、鞍手郡名發祥の神社と稱せられ、筑紫國造田道命(成務天皇の朝)筑紫物部を率ひて祭祀の事あり以後其系武家大宮司として奉祀す。往古は六ケ岳の東嶺天上岳に鎮座まし、他神は得行かざりしを偕行基御分靈を三又川畔に動請して衆庶の参拝に便にす。妙見社今の縣社多賀神社之なり。中古足利義滿高向兵部卿良舜莠を奉行として社殿を造營し奉り降って戦國の世粥田城主杉氏社殿を紫竹原頭に遷座造營し奉り、日本武尊を相殿に奉祀して八劔大神と稱へ奉りしも、後寛永五年今の龜丘の地に鎖座ましまし。十大明紳と稱へ奉る。天上岳には上宮座し紫竹原には中宮と祓所とを存す。延賓三年黒田隆政支封を受け山邊村東蓮寺村の古町新町を擧げて多賀神社の氏子となす元禄十五年直方藩主黒田長濟當社は本邦太守の釆邑に在れども直方多賀官の本社たるの故を以て社殴を造營し奉り、繼高本藩に帰るに至るまで累代屡々社参の事あり。古來粥田莊宗翻新入郷(上下新入知古山邊直方五邑)産土氏神として奉祀する處なり。

結構長い由緒ですね。過去記事において、倉師大明神は高倉下の可能性が高いが断定まではできないので、後の回で検討すると書きました。随分後回しになってしまいましたが、今回はこの問題から検討していきます。

まず、倉師、鞍橋、倉下の音はいずれも(くらじ)で同じになっています。倉師大明神が欽明天皇時代の鞍橋君ではなく高倉下であると断定するには、倉師大明神の時代を明確にさせなければなりません。そこにポイントを置きつつ、青字部分を中心に上記の由緒を読み解いていきましょう。

由緒の初めの部分に、剣神社は遠い昔倉師大明神(くらじだいみょうじん)と号したとあります。次の青字部分には、倉師大明神を祀るこの神社が鞍手郡の名前の発祥の神社と称され、筑紫國造田道命が成務天皇の御代に筑紫物部を率いて祭祀したと書かれています。下新入剣神社の由緒から倉師大明神の倉師(くらじ)が転じて鞍手(くらて)になった点が改めて確認され、筑紫國造田道命が成務天皇の御代に筑紫物部を率いて倉師大明神を祭祀した点も新たに判明しました。今まで不明だった倉師大明神の時代がここで確定できたことになります。

倉師大明神は第13代成務天皇の時代に祀られ、鞍橋君は第29代欽明天皇の時代の人物ですから、倉師大明神を鞍橋君とすることはできません。(注:倉師大明神が成務天皇の御代に祀られたという話は伝説に近いので、そのまま鵜吞みにはできませんが、少なくとも鞍橋君以前だとは言い得ます)倉師大明神の祭祀に筑紫物部が入っている点も含め、倉師大明神は高倉下(大倉主命)を意味すると見て間違いなさそうです。さてそこで、「その31」にて以下のように書いていました。

磐井の子とされる人物が、磐井の乱後プレ物部氏の領域だった現在の鞍手町新北に強制移住させられた。(注:この時点では幼子)移住から20年以上が経過し、立派な青年となって新羅との戦いに参加した磐井の子が百済の危機を救った。百済を救うと言う目覚ましい働きぶりにより、彼は鞍橋君の尊称を与えられた。その功により、自分が強制移住させられた場所、すなわち手書き史料にある新分郷(新北)と新延を新たに領地として賜った。

強制移住させられた地が自分の領域になったことから、その地域を拠点としていた物部氏に敬意を表する必要があった。鞍橋君の「鞍」はプレ物部氏系である高倉下(たかくらじ)の「倉」と音が同じであることから、鞍橋君の音を高倉下(たかくらじ)と同じ(くらじ)に変え、別名も倉の暗さを意味するものに変えることで敬意を表した。その結果、鞍橋君の子孫は系図において彼を鞍橋君ではなく鞍闇君、闇路公などと表記した。鞍手郡の地名が鞍橋君に由来しているのも、彼の領地が新分郷(新北)と新延に限定されていたことを示している。

このストーリーと倉師大明神が高倉下(大倉主命)であることは全く矛盾しません。以上から、倉師大明神は高倉下(大倉主命)であったと確定できたことになります。

倉師大明神に関して、「日本の神々 1」(白水社)には、「社伝によれば、成務天皇のとき筑紫國造田道命が筑紫物部を率いて祀らせたという。この社伝に従えば、現在の祭神に物部系の祖神があるべきだが見あたらず、それだけに、古く倉師大明神といわれた神が物部氏につながるという説(谷川健一「白鳥伝説」)が注目される。」とありました。確かにその通りですが、倉師大明神と鞍橋君を明確に分別していたかどうかが問題となってきそうです。

「日本の神々 1」の下新入剣神社の項を読むと、鞍手郡の地名の発祥とされる倉師・鞍橋・黒治などをクラジと読ませていることについて、谷川健一氏は、「倉下(くらじ)は物部氏の一族の名であり、それが筑紫物部の本拠である鞍手の郡名の起こりと関係がある」としている。と言った趣旨の内容が書かれています。これを読む限りでは、谷川氏は倉師と鞍橋を分別していないようにも感じられます。

由緒によれば倉師大明神は、往古は六ヶ岳の東嶺天上岳に鎮座していたことになります。倉師大明神=高倉下であり、高倉下はニギハヤヒの直系の子に当たります。そしてニギハヤヒは六ヶ岳のほぼ南に当たる笠置山山上にて祀られていました。六ヶ岳は標高338.9mの山で、笠置山は425mとなります。その高さの違いがニギハヤヒと倉師大明神=高倉下の違いを表現しているようにも思えてきます。笠置山に関しては以下のブログを参照ください。山頂には祠もあるようです。
http://www.geocities.jp/houshizaki/kasagiyama.htm

下新入剣神社の由緒によれば、戦国時代に日本武尊を相殿に奉祀して八剣大神と称えたとあります。倉師大明神が尾張の熱田神宮にて祀られる日本武尊により上書きされたのが現在の剣神社になりそうです。但し、勧請したのが日本武尊のみであれば、八剣神社になるはずですが…。この点に関しては以下の「太宰管内志」も参照ください。コマ番号は312です。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/766660

こちらは表題が新入八剣神社となっており、記事部分では新入郷剣神社は熱田神宮を祝へり、と書かれていました。やはり本来は八剣神社だったのでしょう。一つ奇妙に思えるのは、日本武尊以外の祭神は非常に古い神々で、なぜか倉師大明神に相当する神名が入っていない点です。戦国時代まで下った時点で、地元の神が尾張の神様によって上書きされ、消されてしまったのでしょうか?

面白いのは尾張において高倉下が祀られる高座結御子神社も熱田神宮の摂社になっている点です。往古は倉師大明神(高倉下)と号していた神社が、熱田神宮にて祀られる日本武尊により上書きされ下新入剣神社になったように、尾張においても高倉下を祀る高座結御子神社が熱田神宮に組み入れられてしまい同宮の摂社となっているのです。これら神社のありようは何となく相似しているように思えませんか?

次回は六ヶ岳の西麓付近に鎮座する鞍橋神社(くらじじんじゃ)を訪問します。

           尾張と遠賀川流域の謎を解く その45に続く

尾張と遠賀川流域の謎を解く その43


前回で石上麻呂の存在が急浮上してきました。けれども、彼のような大物が単独で草薙神剣の情報を北九州に伝えたのかと言った疑問、また既に書いたように、詳細な情報が伝わった年代は700年代の終わりから1180年前後と幅の広い期間になってしまう問題なども残っています。これらの疑問や問題が解消されるシナリオを、以下にざっと纏めてみましょう。

例えば、捏造事件の基本情報(骨格部分)が石上麻呂か同行した石上神宮の神官によって伝えられ、それがベースとなって後年「朱鳥官符」、「熱田太神宮正縁記」などの情報が付加されていったと仮定します。その結果、博多で道行が捕まり剣も取り戻されると言った草薙神剣伝承が、博多周辺ではなく、日本武尊(北九州の武人)の痕跡が色濃く残る遠賀川流域の古物神社に定着したと考えれば、疑問や問題は解消され、筋は通ってきます。

もちろんこれだけでは大雑把すぎるので、上記ストーリーに肉付けしてみます。石上麻呂に関連してポイントとなるのは石上神宮で、この一帯における当初の信仰は布留川の水神信仰であり、それに関わったのは市川臣でした。彼らは和爾氏系の春日臣から出た一族で、事実関係は別として、垂仁天皇の御代に石上神宮に神主として奉仕したとされます。「新撰姓氏録」には以下の記載があります。

布留宿禰 柿本朝臣と同じき祖。天足彦国押人命の七世孫、米餅搗大使主命の後なり。男、木事命、男、市川臣、大鷦鷯(仁徳)天皇の御世、倭に達り、布都努斯神社を石上御布瑠村高庭の地に賀ひたまう。市川臣を以て神主と為す。四世孫、額田臣、武蔵臣。斉明天皇の御世、宗我蝦夷大臣、武蔵臣物部首、ならびに神主首と号う。これによりて臣姓を失ひ、物部首と為る。男、正五位上日向、天武天皇の御世、社地の名に依りて、布瑠宿禰姓に改む。日向三世孫は、邑智等なり。

布留宿禰。柿本朝臣と同祖である。天足彦国押人命の七世の孫、米餅搗大使主命(たがねつきおほおみのみこと)の後裔である。息子は木事命(こごとのみこと)、その息子市川臣(いちかはのおみ)は大鷦鷯天皇の御世に倭(やまと)に至って、布都努斯神社(ふつぬしのかみのやしろ)を石上御布留村の高庭の地に斎祀った。市川臣を神主とした。四世の孫、額田臣、武蔵臣。斉明天皇の御世に、宗我蝦夷大臣は武蔵臣を物部首また神主首と名づけた。これによって臣姓を失い物部首となった。息子の正五位上日向は天武天皇の御世に、社地の名に依って布留宿禰の姓に改めた。日向の三世の孫は、邑智(おほち)等である。

上記の最後に出てくる邑智は草薙神剣に関連してくるので、後で取り上げます。市川臣は後に物部首となりますが、物部氏の一族と言う訳ではありません。つまり、石上神宮の物部氏は草薙神剣に間接的な関与があるものの、直接的な意味では市川臣系となってしまう可能性があるのです。実にややこしいですね。剣の祭祀者が市川臣となる証拠は「日本書紀」垂仁天皇39年10月条にあります。

一千振の大刀は忍坂邑に収め、そして後に石上神宮に収めた。この時に石上の神が望まれて、春日臣の族、市河に治めさせよと仰せられた。そこで市河に命じて治めさせた。これが今の物部首の始祖であるという。

石上神宮に関しては物部氏と市川臣→物部首→布瑠宿禰へと続く二つの系統があってややこしいのですが、うんと大雑把に見れば、物部氏は各種神宝や剣の管理を担当し市川臣はその祭祀を司るとでも言えましょうか。ここでもう一度、石上神宮摂社の出雲建雄神社を見ていきます。(注:今までに書いた内容と重複する面もありますがご容赦の程)同社に関する石上神宮のホームページによれば、由緒は以下の通りです。

延喜式内社で、草薙剣(くさなぎのつるぎ)の荒魂(あらみたま)である出雲建雄神(いずもたけおのかみ)をお祀りしています。
江戸時代中期に成立した縁起には、天武天皇(てんむてんのう)の御代に御鎮座になった由がみえます。それによると、布留邑智(ふるのおち)という神主が、ある夜、布留川の上に八重雲が立ちわき、その雲の中で神剣が光り輝いている、という夢を見ました。明朝その地に行ってみると、8つの霊石があって、神が「吾は尾張氏の女が祭る神である。今この地に天降(あまくだ)って、皇孫を保(やすん)じ諸民を守ろう」と託宣されたので、神宮の前の岡の上に社殿を建ててお祀りしたということです。

布留邑智の名前がここで出てきました。彼は草薙神剣に関係する人物だと明確に理解されますね。別の史料に「石上振神宮略抄」(江戸時代中期に当たる享保5年の1720年に成立)があり、内容の前半は阿遅速雄神社(あちはやおじんじゃ)の由緒に沿った部分が見られ、後半は石上神宮の由緒とほぼ同じです。具体的には以下の通り。

石上振若宮は出雲建雄神也、此神は日本武尊帯る八握剣の神気御名也、旧名天叢雲剣申、熱田祝部尾張連等掌ます神是也、天智天皇御世、新羅の僧道行、件ノ宝剣を盗逃げしが、境を出る事不能、難波浦にすて帰りしが、国人宝剣を取り大津宮に献上する、天武天皇都を浄見原に遷さる時、大殿内に留座すか、朱鳥元年(686年)六月宝剣の祟に天皇病給い、熱田神宮え送り遣さる、其の夜、石上神宮神主布留邑智が夢に東の高山の末に八雲がのぼり其の中に神剣光を放ち国を照す、其剣の本に八ッの竜座す、明旦彼地に到て見れば霊石八箇出現す、小童に託して曰く我は尾張連女が祭れる神なり、今是地に天降りて帝都を保ち諸の氏人を守らしむ、宜敬ひ祭れよ、仍て神託の随に神殿を造りて神を斎い奉る。出雲建雄神と申奉る

やや読みにくいので現代文に書き直してみます。

石上振若宮は出雲建雄神である。この神は日本武尊が帯る八握剣の神気の名である。旧名は天叢雲剣と言う。熱田祝部尾張連等が奉斎する神がこれである。天智天皇の御世に、新羅の僧道行がこの宝剣を盗んで逃げたが、境を出ることはできなかった。難波浦に捨てて帰ったが、国人が宝剣を拾い上げて大津宮(天智天皇の近江宮)に献上した。天武天皇が都を浄見原に遷される時、大殿内に留められたのだろうか。朱鳥元年(686年)六月宝剣の祟により天皇は病を得られ、熱田神宮へ送り返された。其の夜、石上神宮神主布留邑智は夢を見た。東の高山の末に八雲がのぼり、その中に神剣が光を放ち、国を照らした。その剣の元に八ッの竜が座している。翌日の朝その場所に至って見れば霊石が八箇出現していた。小さな子供に乗り移って言うには、私は尾張連の女(宮簀媛命)が祀る神である。今この地に天降って帝都の安寧と諸の氏人を守ろう。よろしく敬い祀りなさい。よって神託に従い神殿を造って神を斎祀り奉った。その神の名は出雲建雄神と申し奉る。

石上神宮のホームページには盗難事件と熱田神宮への返還が何も書かれておらず、一方「石上振神宮略抄」には道行の盗難と難波まで逃げたことや返還の経緯まで書かれています。ホームページの場合、既に書いたように尾張氏への配慮と言った側面もありそうですが、そもそも盗難などなかったので原史料の段階から書かれなかったとも言い得ます。「石上振神宮略抄」の場合、時代が下ってからの情報も取り込んだため、盗難事件から返還までを書いたのかもしれません。

では、装飾が施されている部分をできる限り取り除いて「石上振神宮略抄」の内容を検討します。まず、出雲建雄神とは日本武尊の帯びる草薙神剣の神気(御霊、荒御魂)で、尾張連の奉斎する神と確認されます。縁起によると神剣は天智天皇の近江宮に献上され、続く天武天皇の時代には浄見原宮(浄御原宮)大殿内に留められたのだろうか、との推測を書いています。

前半はほぼ経緯を語っていますが、後半になるといわゆる縁起的な色彩が濃くなり、出雲建雄神社の創建は石上神宮神主・布留宿邑智の夢が元になっていると理解されます。八つの竜とは八岐大蛇を意味しているはずで、八岐大蛇、素戔嗚尊、草薙神剣が一体的に出雲建雄神として表現されているかのような印象さえあります。

出雲建雄神社の所伝には、一振りの剣が布留川を流れて布に留まった。(依りてこの地を布留という)この剣を草薙剣の荒魂と仰ぎ奉斎したのが摂社出雲建雄神社だとの内容もあるようです。一振りの剣は草薙神剣ではなく、その代替品です。それを出雲建雄神社にて草薙剣の荒魂と仰ぎ奉斎したことになりますが、このような話が出てきた意味や背景を考えてみます。

天皇家が668年に尾張氏から接収した草薙神剣の実物は、朝廷の武器庫とされる石上神宮社にて祀られ、管理されていたと考えられます。けれども686年には熱田神宮に返還され、実物はなくなってしまいます。実物がなくなって困惑した石上神宮側は草薙神剣の代替品を作り、それを実物の御霊として出雲建雄神社で祀ることにしたのです。その実態に神道的な装飾を施して語れば同社に伝わる幾つかの由緒や各史料の内容となるのでしょう。そうした操作は由緒内容から判断して布留邑智の手になるものと思われます。

ここまでの検討から、出雲建雄神社における草薙神剣伝承は、物部氏ではなく布留邑智が関与していたと判明しました。しかも686年に神剣が熱田神宮に返還されるのとほぼ同時に伝承が形成されていることになります。「石上振神宮略抄」によれば、神剣は難波で取り戻され宮中に留め置かれた訳で、事件発生の686年時点において草薙神剣伝承は北九州にまで波及していなかったと確認できます。

ではいつ頃盗難事件の骨格部分が古物神社に伝わったのでしょう?朱鳥元年(686年)9月28日、天武天皇の葬儀において石上麻呂が誄(おくりごと)をしました。そして、持統天皇3年(689年)9月10日、石上麻呂と石川虫名が筑紫に派遣されています。こうした経緯を見ると689年時点の可能性が極めて高いことになりそうです。

上記の派遣には、布留邑智或いは彼の部下が同行し、石上麻呂から聞かされた盗難事件の情報を遠賀川流域に伝えていたのではないでしょうか?それが布留神社と出雲建雄神社に相当する布留神社の中宮・剣神社(3)の創建に繋がり、古物神社の草薙神剣伝承として定着したものと思われます。よって、古物神社に合祀された布留神社の創建は689年の可能性があります。(注:伝承自体は出雲建雄神社に相当する布留神社の中宮・剣神社(3)に定着したことになります。また布留邑智の名前を取って布留神社の社名となった可能性も見えてきます)

以上、草薙神剣盗難事件関連の情報は、事件が発生した(とされる)686年より少し後の689年頃に石川麻呂が筑紫に派遣され、その際布留邑智或いは彼の部下が同行し遠賀川流域に伝えられたもので、これが基本情報(盗難事件伝承の骨格部分)になったと纏めておきます。これで最初に書いた疑問、石上麻呂のような大物が単独で草薙神剣の情報を伝えたのかと言った問題は解消されました。

注意すべきは、708年頃までの情報は神剣盗難事件とそれが取り戻された後の後日譚としての八剣宮創建が伝わっていただけで、道行が博多に逃げたという話は「朱鳥官符」の登場まで待つ必要があった点です。既に書いたように、記事中に大威徳五大尊と言った表現があることから、「朱鳥官符」の成立は朱鳥年間ではなく、早くても700年代の終わり頃となります。

岡垣の高倉神社の場合、所伝には、熱田に倣って俗説には當社をも八剣宮と申し奉る、とあり熱田神宮別宮の八剣宮創建(708年)時点以降の情報が伝わった可能性があるものの、近江国老蘇の森の部分は「源平盛衰記」(注:成立時期は不明だが1250年頃とされる)の記述を部分的に取り入れていることから、草薙神剣伝承の全体が形成されたのは相当遅い時代となりそうです。

あれこれ書いてきましたが、遠賀川流域への草薙神剣盗難事件の情報伝達は基本的に2段階あったことになります。すなわち689年における石上麻呂の筑紫派遣を契機に、捏造された盗難事件の骨格部分が伝わり、700年代の終わり以降に道行が博多まで逃げたとの史料が遠賀川流域にまで届き、古物神社における由緒が最終的に形成されたのです。

一旦情報の経路ができれば、その後も色々な情報が流され続けたはずで、高倉神社の場合は1250年頃成立の「源平盛衰記」まで取り込んでいたと考えられます。さらに細かく見れば、2段階の間に708年の八剣宮創建も伝えられていたのでしょう。以上で、最初に書いた情報伝達の年代問題も一応整理されました。

いかがでしょう?最も難物であった遠賀川流域における草薙神剣盗難事件伝承も、何とか一定程度解明できたとは思えませんか?整理の意味で尾張と遠賀川流域における共通性や相似が発生した原因となる各段階(歴史イベント)を簡潔に書いてみます。

1.弥生時代前期における遠賀川の弥生人集団の尾張移住。
2.190年代頃のニギハヤヒ東遷に伴う贄田物部、嶋戸物部の尾張移住。
3.528年(実際には531年と推定)の磐井の乱における物部麁鹿火の北九州遠征。
4.689年に石上麻呂が筑紫に派遣され、700年には筑紫総領となったこと。
5.1185年に三河守範頼が熱田神宮を本城に勧請し八剣神社が創建されたこと。

他の年代でも色々ありそうですが、基本的には以上の5段階が原因となって尾張と遠賀川流域における伝承、神社構成、祭神などの共通性や相似性が起きたと考えられます。各年代を探りながらようやく一定の答えが得られましたが、ここまで書いておけば、九州王朝説の影響によると思われる新北の熱田神社は熱田神宮の元宮と言った珍説や、似たような発想に基づく議論は出にくくなると期待されます。

(注:上記は九州王朝説を唱えられた古田武彦氏の考えを否定するものではなく、むしろ同氏の論理力や博覧強記には畏敬の念さえ覚えます。問題は、その考えを根拠や検証もなしに様々な事象に当て嵌めようとする姿勢にあり、古田氏も泉下で苦々しく思っているのではないでしょうか?)

次回からはまだ個別に検討をしていない剣神社、八剣神社やその他の神社を見ていきます。
(注:このところ毎日記事をアップしていますが、パソコンが不調でいつ壊れるともしれないため、記事の練り上げを多少犠牲にして頻度を上げている次第です)

             尾張と遠賀川流域の謎を解く その44に続く
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