FC2ブログ

古墳から見た大和の古代 その14


前回までで佐紀古墳群に関する謎や疑問はほぼ解消されたように思えます。これで一安心としたいところですが、神功皇后に関しては別の大きな問題が残っていました。それは彼女の主な活躍の舞台が大和ではなく北九州になっている点です。この点に関連して皇后の夫となる仲哀天皇はどうなるのかと言った問題も浮上してきます。研究者によると九州における神功皇后の伝承地は3000か所もあるとのことで、膨大な数の伝承が事実だとすれば皇后は大和ではなく北九州の人物とせざるを得ません。

一方で、但馬、丹波、近江、山城、大和北部へと続く彼女の系譜の流れから判断すると、北九州とは縁のない人物になると見られ、相互に矛盾を来しています。また奈良盆地北部の佐紀古墳群と言う極めて狭い墓域に築造された多数の大王墓の中で、神功皇后のみが北九州の人物になり得るはずがありません。彼らは言うまでもなく、同じ一族或いは同じ集団に属した大王たちになるでしょう。

これらの検討内容を踏まえると、あくまで暫定的な判断ですが、北九州における神功皇后は別人として位置付けるしかないように思われます。その別人に神功皇后の名前があることから、北九州の神功皇后伝説は同地にいた女性の首長をモデルとして、「日本書紀」の成立以降に神功皇后に事寄せして創作された可能性が出てきます。また神功皇后の名前は漢風諡号であり、淡海三船によって天平宝字6年(762年)~同8年(764年)頃に他の天皇と共に一括撰進されたと推測されるので、かなり遅い時代となってしまいます。

神功皇后を検討する際大きな問題となるのは、「日本書紀」の記述そのものです。特に仲哀天皇から神功皇后、そして応神天皇へと続く記事内容は非常に粉飾が多く、また幾つかの異なる時代の出来事を同じ時代として書いているため、問題をより複雑化させてしまいました。その結果変数が多くなり過ぎて、実態の解明が極めて困難になっているのです。

例えば、北九州の神功皇后と大和の神功皇后は同一人物か否か、応神天皇は神功皇后の子か否か、子である場合どちらの子か、仲哀天皇は実在するか否か、実在する場合どちらの皇后の夫か、忍熊王は仲哀天皇の子か否か、忍熊王は佐紀王朝の主流派か否かなど、どの流れを辿るかで結論も変わってしまいます。いずれにしても、全ての問題の起点にいるのは神功皇后となるので、上記した諸点も考慮に入れつつ、北九州における神功皇后の実像を各史料から検証してみましょう。

彼女の北九州における事績は三韓征伐と応神天皇の生誕が特に有名です。「日本書紀」にも、応神天皇は神功皇后の子供で北九州(筑紫の蚊田)にて誕生したと書かれていました。けれども、応神天皇陵が佐紀古墳群の市庭古墳やコナベ古墳の相似形である事実から、佐紀で生まれた後に河内に移って、本家をはるかに凌ぐ巨大な勢力となったとした方が合理的なように思えます。(注:この場合応神天皇は神功皇后の子供との前提ですが、応神天皇が神功皇后の子供でない可能性も既に指摘しています)もちろん応神天皇から仁徳天皇の時代(河内王朝の時代)にも佐紀王朝は存続し、ウワナベ古墳やヒシアゲ古墳などが築造されたのは既に書いた通りです。

北九州の神功皇后は別人なのか、或いはそうでないのか。この悩ましい問題を検証するため、応神天皇の生誕伝説を掘り下げてみましょう。最初に取り上げるのは「日本書紀」の記述です。神功皇后摂政前紀には、十二月十四日誉田天皇(応神天皇)を筑紫にお産みになったので、時の人が、その産み所を名付けて宇瀰(うみ)という。と書かれていました。この内容は極めてシンプルで明快なように思えます。天皇の生誕場所は現在の宇美八幡宮周辺とされ、鎮座地は福岡県糟屋郡宇美町宇美1丁目1番1号となります。住所が1丁目1番1号とは、宇美町がいかにこの場所を重要視しているかが伺えます。


鎮座地を示す地図画像。

宇美八幡宮のホームページによれば、伝承は以下のようになっています。
http://www.umi-hachimangu.or.jp/about/

当宮は、神功皇后が三韓征伐より御帰還され、産所を蚊田の邑(蚊田は宇美の古名)に定め、側に生出づる槐(えんじゅ)の木の枝に取りすがって、應神天皇を安産にてお産みになられたこの地を宇瀰(うみ)その後、宇美(うみ)と称されました。

宇美町は「魏志倭人伝」に出てくる不弥国(ふみこく)の有力な比定地となっています。従って、宇美は不弥が転じたものと見るべきで、宇美の古名が蚊田(かだ)であれば、不弥国の不弥と宇美の関連性が消滅してしまいます。ではなぜ宇美八幡宮が古名を蚊田の邑と書いたのか?それは「日本書紀」の応神天皇前紀に、筑紫の蚊田で生まれたと書かれているからです。

宇美と蚊田の二つの地名を整合させるため、宇美八幡宮はかなり苦しい書き方にするしかなかったと理解されます。多分蚊田の地名は別の場所にあるはずなので、あれこれ調べたところ「大城村誌」(おおきそんし、現在の久留米市北野町大城一帯)には以下のような記述がありました。
http://snk.or.jp/cda/ohokisi/

加駄についてはその所在に定説がありませんが、潟(かた、がた)即ち低濕な沼沢地帯が開拓されたことからその村名が起ったものでしょう。潟の渟名井や蚊田宮のことから察して現在稲数内になっている蚊田(加田)であることにまちがいないと信じます。

上記の「潟の渟名井」や「蚊田宮」に関して村誌を調べてみると、大城小学校々庭に益影の井(渟名井)がありました。また、往古神功皇后が三韓の遠征から凱旋され、蚊田の行宮で皇子(応神天皇)を出産された折、水沼の君が産湯としてこの水を差し上げたと伝えられている。これ以来村人達は、産湯としてこの清水を使うと生れた子は見目麗しく、賢く長寿であるとして大変珍重された。とのことです。

この詳細は以下のPDFの14ページを参照ください。
http://snk.or.jp/cda/kodaikyushu.pdf


久留米市北野町大城の位置を示す地図画像。

蚊田の地名が宇美町とは異なる場所のものであれば、「魏志倭人伝」に書かれた不弥国の不弥が転訛して宇美の地名になったと見ることができ、神功皇后が応神天皇を宇美町で出産したとの伝承も創作となります。久留米市北野町に鎮座する赤司八幡宮の「止誉比咩神社本跡縁記」にはより詳しい内容も書かれており、こちらが真の蚊田のようにも思えてしまいます。「止誉比咩神社本跡縁記」詳細は以下を参照ください。
https://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=1&cad=rja&uact=8&ved=2ahUKEwi4_6Wi0e3mAhVmxosBHfuRAmkQFjAAegQIAxAB&url=http%3A%2F%2Fsnk.or.jp%2Fcda%2Fohokisi%2Ffuroku%2F4toyohime.html&usg=AOvVaw1ODAPNgCVhgxQB-jAEeg9T

ただ大城村の場合、新羅遠征の関係地である香椎宮、伊都県(「魏志倭人伝」に書かれた旧伊都国)、対馬などからは距離が遠くなって、その意味での合理性に欠けるのが弱点となります。となると、他にも蚊田の候補地が存在するのかもしれません。次回ではそうした視点から探っていきたいと思います。

スポンサーサイト



春を探して


「古墳から見た大和の古代」はまた一休みして、先日の日曜に撮影した写真をアップます。

地球温暖化の影響で寒い日が少なくなっています。一昔前なら庭に霜柱が立って、田んぼには氷が張り、その上を歩くとキシキシ音をたてたものです。そうした中でささやかな春を探すのはちょっとした楽しみでもありました。けれども、先日の日曜日などかなり暖かく、もうとっくに春が来たような雰囲気です。今週の24日には早春を突破して春真っ盛りとも言えそうな、最低気温が10度で最高気温が16度の予想が出ています。本当に驚きですね。記事タイトルにはそぐわないような気もしますが、近くの田んぼなどで撮影した写真をご紹介します。

DSCN1070_convert_20200121080520.jpg
春の野辺の定番はタンポポです。

DSCN1071_convert_20200121080556.jpg
拡大します。

DSCN1072_convert_20200121080640.jpg
綿毛になったものもありました。

DSCN1073_convert_20200121080704.jpg
綿毛を拡大。

DSCN1078_convert_20200121080729.jpg
田んぼの脇に植えられた梅。紅梅が一輪咲いています。

古墳から見た大和の古代 その13


今回は、「日本書紀」の編纂者と天皇家が佐紀王朝で神功皇后以外を無視した背景に迫っていきたいと思います。「日本書紀」の編纂に当たって編纂者は、日本の歴史が中国にも比肩できるものだったことを示すため、初代神武天皇の即位を紀元前660年に設定しました。もちろんこれは天皇家の意向を忖度した捏造だと容易に理解されます。

とは言え、中国のファーストエンペラーとされる始皇帝が紀元前200年代の人物ですから、それより400年以上も古い時代に天皇家の始まりを設定するなど盛り過ぎもいいところです。お蔭で実年代との時代差を調整するのに四苦八苦し、100歳以上の天皇を何人も登場させてしまいました。垂仁天皇など140歳ですから、一人で3人分に近い寿命を背負わされた計算になります。

編纂者は日本の歴史を引き延ばすだけでなく、できる限り大きく見せようともしたはずです。そうした視点から佐紀王朝の問題も解き明かせないか、今までに書いた内容も含め整理していきましょう。問題の中心には、佐紀王朝で実質的に取り上げられている人物が神功皇后しかいない点、垂仁天皇は300年代後半から末に近い佐紀王朝の人物のはずなのに、300年代前半の崇神天皇、300年代半ばから後半の景行天皇の間に飛ばされ、しかも宮殿は三輪山の北側とされ三輪王朝のように見せかけられている点などがあります。

さらに、4世紀の後半から5世紀半ば頃にかけては、神功皇后、応神天皇、仁徳天皇だけに焦点が当てられ、200m超級古墳が狭い墓域に密集する佐紀古墳群や比較的広域にある馬見古墳群の大王たちまでも、編纂者からはほとんど無視されています。では、なぜそのような扱いになったのでしょう?

300年代の半ば前後から後半、400年代の前半頃には倭人(北九州の倭国の兵)が度々新羅に攻め込み支配下に置く勢いを見せていました。詳細は「三国史記」の新羅本紀に書かれています。対外的に日本の力量を大きく見せたかった「日本書紀」編纂当時の天皇家は、新羅本紀(の既に逸失した元史料)などを参照して、朝鮮半島に侵攻した北九州・倭国の海賊や王を神功皇后として書き入れさせ、大和にある他の200m超級古墳の大王をすっ飛ばしたのではないかと推察されます。

すっ飛ばした上で、次を超巨大古墳(誉田御廟山古墳で墳丘長425m)の被葬者とされる応神天皇に接続させ、その次の、世界でも類例を見ないような超巨大古墳(大山古墳で墳丘長は486m。宮内庁測量により525mとなった)の被葬者とされる仁徳天皇へと続いていく形で「日本書紀」を編纂したのです。このような意図的編纂により、古代における日本の姿を目一杯大きく描き出すことが可能になりました。

すっ飛ばすために没年齢も、神功皇后100歳、応神天皇111歳、仁徳天皇110歳と引き伸ばし、またこれによって書紀紀年と実年代の差を数十年にまで縮小させています。従って次の履中天皇以降は実年代・実年齢に近いものとなっています。参考までに、神功皇后の没年を起点として年代の比較を以下に書いてみました。
名前    生没年    書紀紀年の没年  時代差   古墳築造時期
神功皇后 339年~389年   269年     120年  4世紀末から5世紀初頭
応神天皇 350年~400年   312年      88年  5世紀前半
仁徳天皇 380年~430年   399年      31年  5世紀前半から中葉
注:生没年は推定の実年代で没年齢を50歳に設定して生誕年を記載。時代差は推定実年代における没年と書紀紀年の没年との差を記載。

以上から「日本書紀」編纂者の意図を整理すれば、
目一杯膨らませた神功皇后像→2番目の超巨大古墳の被葬者である応神天皇に繋ぐ→日本最大となる超巨大古墳の被葬者・仁徳天皇に繋ぐ→この期間における他の大王はすっ飛ばされ無視された。
となります。

ここまでの検討により、「日本書紀」の編纂者が佐紀古墳群と馬見古墳群の大王たちを無視した理由が明確になりました。彼らは4世紀後半から5世紀前半頃における日本の歴史を目一杯大きく見せかけるため、そうした操作を実行したのです。続いて垂仁天皇の問題を見ていきましょう。

垂仁天皇の宮殿は纒向珠城宮で崇神天皇の行燈山古墳、景行天皇の渋谷向山古墳に近く、しかも(「日本書紀」の記述によると)時代的には両者に挟まれていることから、三輪王朝の人物に見え、当然古墳も三輪山の近くにあるべきなのに、実際には佐紀王朝の地(宝来山古墳)に存在すると言う問題です。

垂仁天皇は佐紀王朝系の人物と考えられるのに、三輪王朝のように扱われていると言うややこしい問題を整理するため、過去記事と重複しますが佐紀古墳群をもう一度見ていきます。佐紀王朝エリアの中心的な古墳の一つである佐紀陵山古墳の被葬者は垂仁天皇の皇妃・日葉酢媛命と伝えられています。そして日葉酢媛命は母が丹波之河上之麻須郎女で丹波の出身となります。ちなみに神功皇后の母も丹波出身の可能性があります。

垂仁天皇90年2月1日に田道間守(天日槍の玄孫)は天皇の命により非時香菓(ときじくのかくのみ、橘)を求めに常世国に派遣されました。この人物は天日槍の系図に登場し、名前からしても但馬の人物となり、但馬国の国守(くにもり)の意味だともされています。

天日槍は神功皇后の母方の先祖で垂仁天皇期に渡来したとされ、しかも天日槍の玄孫となる田道間守が垂仁天皇と異様に深い関係を結んでいます。また宝来山古墳の築造時期から判断すると、垂仁天皇と神功皇后はほぼ同世代だった可能性があります。本論考を書き始める前には全く考えてもいなかったのですが、垂仁天皇の実像は佐紀王朝系(或いは佐紀王朝に入り婿した)で、神功皇后と何らかの関係があるように思えてきます。

垂仁天皇は「日本書紀」の編纂者も無視できない事績のある大王で、神功皇后とも何らかの繋がりが推定される。けれども神功皇后の時代と被ってしまうし、編纂方針に反するので佐紀王朝の天皇としては書き込めない。佐紀王朝関連では神功皇后で目一杯膨らませて書いた関係上、年齢を140歳にまで引き延ばした垂仁天皇を佐紀王朝の人物として書き加えるのは困難だ。ではどうするか?

ここでも賢い編纂者は知恵を発揮しました。彼らは佐紀王朝系だった垂仁天皇を三輪王朝のように見せかけて過去へ飛ばし、三輪王朝の崇神天皇と景行天皇の間に嵌め込み、宮殿も三輪山の北部にある形に変え、三輪王朝の一員のように装ったのです。これだけの策を弄して佐紀王朝を消し去ってしまうとは、驚くほかありません。

このような操作により神功皇后以外の佐紀王朝の大王たちをすっ飛ばし、皇后の次を超巨大古墳(誉田御廟山古墳で墳丘長425m)の被葬者とされる応神天皇に接続させ、その次の、世界でも類例を見ないような仁徳天皇陵とされる超巨大古墳(大山古墳)へと続いていく形で「日本書紀」を編纂させたのです。無理を重ねた操作により多くの大王を消し去った悔恨のみならず、事実とは異なる天皇を配したことによる矛盾の発生など、やりくりに悩む当時の編纂者たちの心情が偲ばれます。正に「すまじきものは宮仕え」でありますが、「すさまじきものも宮仕え」だと思います。

古墳から見た大和の古代 その12


今回はウワナベ古墳を見ていきます。古墳の位置は前回の地図画像を参照ください。コナベ古墳の東側にウワナベ古墳があります。残念ながら写真はお粗末極まりないものになっているので、興味のある方は地図画像からストリートビューでご確認ください。

DSCN0099_convert_20200117095458.jpg
背後に見えるのがウワナベ古墳です。

DSCN0100_convert_20200117095527.jpg
古墳を撮影。

DSCN0101_convert_20200117095557.jpg
後円部です。

以下Wikipediaより引用します。

ウワナベ古墳(宇和奈邊古墳/宇和奈辺古墳)は、奈良県奈良市法華寺町にある古墳。形状は前方後円墳。佐紀盾列古墳群(ウワナベ古墳群)を構成する古墳の1つ。
実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により「宇和奈辺陵墓参考地」(被葬候補者:第16代仁徳天皇皇后八田皇女)として陵墓参考地に治定されている。佐紀盾列古墳群の東端に位置する。

ウワナベ古墳は5世紀中頃の築造で、被葬者は八田皇女に治定されていますが、磐之媛命から酷く嫌われた八田皇女が磐之媛命と同じ墓域に埋葬されるなど有り得ない話です。従って、磐之媛命の墓とされるヒシアゲ古墳同様、ウワナベ古墳の被葬者も八田皇女ではなく佐紀王朝の誰かとなります。

ここまで四基の佐紀古墳群(東群)を検討した結果、かなり興味深い内容が浮き彫りになってきました。まず、コナベ古墳(墳丘長204メートル)、市庭古墳(推定復元墳丘長253m)は築造時期が5世紀前半で、誉田御廟山古墳(応神天皇陵)と相似形であることから応神天皇とほぼ同時代であると確認されます。

そして古墳の設計の配布は佐紀王朝が河内王朝に先行している点、河内にある墳丘長200mの摩湯山古墳が佐紀陵山古墳の相似墳で設計を配布されたと考えられる点、などを考慮すると、コナベ古墳・市庭古墳の設計が誉田御廟山古墳に配布されたと見做せます。また事実関係は別として、応神天皇は神功皇后の子とされていることから、佐紀王朝出身の(或いは佐紀王朝に所縁がある)人物と考えられ、後に河内に移住して巨大な勢力を築いたとも理解されます。応神天皇が佐紀王朝と関係があるなら、コナベ古墳・市庭古墳の設計が配布されたと考えても違和感はありません。

誉田御廟山古墳は古市古墳群最大の古墳である一方、同古墳群の最古は津堂城山古墳で墳丘長208m、築造時期は4世紀後半から末となっています。規模は大王墓級ですが、近くに陪冢(ばいちょう)と推定されるような小古墳が存在しておらず、在地の大王ではなく佐紀王朝から河内に送り込まれた人物と推定されます。

津堂城山古墳は二重の濠と堤や造出しを有した古墳であり、この構成は誉田御廟山古墳や大山古墳(仁徳天皇陵)などの超巨大古墳に引き継がれました。津堂城山古墳の場合、古墳の設計は摩湯山古墳のように佐紀陵山古墳から配布されたものではありませんが、その影響を受けていたとの推測は可能です。

藤井寺市ホームページによると、佐紀陵山古墳に見られる前方部の渡り土手を墳丘から切り離すと津堂城山古墳の島となり、佐紀陵山古墳のくびれ部付近の濠内に造られた島を墳丘に引き寄せて接続すると津堂城山古墳の造出しになるそうです。やや無理筋とも思われますが、詳細は以下の2件のホームページを参照ください。
https://www.city.fujiidera.lg.jp/rekishikanko/kodaikaranomesseji/daiofunhanazeidosurunoka/1387424976491.html
https://www.ne.jp/asahi/fudoki/fujiidera/07)kofungun/4)kofun/6)shiroyama/shiroyama.html

津堂城山古墳の被葬者は仲哀天皇、応神天皇、日本武尊など諸説あり、また葛城氏との関係も想定されそうなので、酔石亭主の能力では藤井寺市見解(多分書いた方は専門家でしょう)の正否を論じることはできません。ただ、この見解が正しいとすれば津堂城山古墳の設計思想は佐紀陵山古墳の発展形と位置付けられることになります。

上記したように、河内王朝の巨大古墳と佐紀王朝を繋ぐ地下水脈が存在するのであれば、コナベ古墳と市庭古墳の設計が誉田御廟山古墳に配布された可能性は高くなります。配布の背後には古墳の造営に力を振るった土師氏の存在も見逃せません。それを証するかのように誉田御廟山古墳の北東部には土師の里があり、一帯の古墳築造に彼らが関与していたのは間違いないと思われます。その場合、コナベ古墳と市庭古墳の設計を誉田御廟山古墳に応用したのは、佐紀王朝の指示に基づき河内に移住した土師氏とも考えられます。

もちろんこれには別の見方も可能です。「その8」にて書いたように、佐紀王朝の主流派だった忍熊王を神功皇后と応神天皇が排除して応神天皇に政権のバトンが渡り、天皇が新たな主流派となった上で河内に移住。その後大勢力を築き、佐紀王朝の古墳築造に従事していた土師氏を呼び寄せて、自分の墓を築造させたとするシナリオです。コナベ古墳と市庭古墳の設計を土師氏が担当していたとすれば、その基本設計を巨大化する形で彼らが応神天皇陵の築造を指揮したことになります。

以上、応神天皇陵の設計思想に関して二つの可能性を書いてみましたが、どちらかに限定させるのは難しそうです。ただ、どちらの場合も土師氏が関与していたのは間違いないでしょう。続いての検討課題として佐紀古墳群全体の時代を概観してみます。

ヒシアゲ古墳(磐之媛治定陵、218m、5世紀中葉から後半の築造)とウワナベ古墳(八田皇女治定陵、265m、5世紀中ごろの築造)に関し、事実関係は別として仁徳天皇の皇妃の墓と治定されている点や築造時期から見て、同天皇の時代にほぼ相当していると考えられます。

よって佐紀王朝は「日本書紀」の書紀紀年において、垂仁天皇、成務天皇、仲哀天皇、神功皇后、応神天皇、仁徳天皇の時代に相当し、実年代では300年代後半後期から400年代半ば過ぎまで、約80年程度継続した王朝であったと確認されます。但し、西群と東群の間で築造時期に時代差があることや、忍熊王の反乱事件などから、佐紀王朝主流派、反主流派の間で政権交代があったと見られます。

内部抗争はいつの世にも付きものですが、抗争を乗り越えるかのように佐紀王朝の時代だけで8基(垂仁天皇陵も含む)もの200m超級の巨大古墳が築造されました。それなのに、「日本書紀」に取り上げられたのは神功皇后だけになっているのが奇妙でなりません。(注:既に書いたように成務天皇は実在しない可能性が高く、佐紀古墳群に充てられただけと考えられる)

佐紀古墳群の東群の中でも市庭古墳は墳丘長253m、ウワナベ古墳は265mと実に巨大であり佐紀王朝の大王に相応しい古墳なのにそうした扱いとなっておらず、ウワナベ古墳とヒシアゲ古墳の2基は仁徳天皇の皇妃に充てられる形で無視されています。垂仁天皇に至っては、実際には景行天皇の後なのに過去に飛ばされて崇神天皇と景行天皇の間に置かれ、宮殿も三輪王朝のように見える三輪山の北側にあったことにされ、酷い扱いとなっています。

こうした佐紀王朝の無視の背後に「日本書紀」編纂者の意図、言い換えれば当時の天皇家の意図があったはずで、次回からその辺の事情を探っていきたいと思います。

変なおじさん


「古墳から見た大和の古代」シリーズは次回が「その12」となりますが、どうやら難路に差し掛かったようなので、一休みしてお気楽な写真をアップします。ある日のこと、街を歩いていたらギョッとするような変なおじさんに出会いました。変なおじさんというとすぐに志村けんさんが思い浮かびます。

DSCN1022_convert_20200116074050.jpg
こ、この恐ろしげな顔は…、ゾンビでしょうか?

DSCN1027_convert_20200116074129.jpg
服も着ていないように見えます。

DSCN1023_convert_20200116074325.jpg
下の方に茶色の何かがあります。

DSCN1026_convert_20200116074439.jpg
おおこれは!!なんと巨大な……。

DSCN1024_convert_20200116074406.jpg
どうやら片手をタイツの中に突っ込んでいるようです。まったく人騒がせな変なおじさんですね。

DSCN1028_convert_20200116074506.jpg
全身を撮影。

この変なおじさんは志村けんさんではなく、某芸人さんをモデルにしたパチンコ店の宣伝用フィギュアでした。
プロフィール

酔石亭主

Author:酔石亭主
FC2ブログへようこそ!

最新記事
カテゴリ
最新トラックバック
月別アーカイブ
カレンダー
12 | 2020/01 | 02
- - - 1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30 31 -
天気予報

-天気予報コム- -FC2-
最新コメント
FC2カウンター
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
QRコード
QRコード
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる