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浜松の秦氏 その41


今回は服部連公の解説板の最後の部分をもう一度アップします。

地名服部は全国各地にありますが、連の住まいしたのはこの地であり、塚脇が墳墓の地「連塚」になります。

塚脇が墳墓の地「連塚(服部連塚)」となるので、この場所に行ってみましょう。


服部連塚の位置を示すグーグル地図画像。

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石碑と塚。

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石碑を拡大。服部連塚とあります。

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塚を拡大。

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解説板。内容を以下に書き出します。

服部連塚は、直径14m、高さ2.5mで、横穴式石室をもつ円墳(えんぷん)である。被葬者は、5世紀中頃に諸国の機織(織部)を統率した服部連と伝えられ、上宮神社と呼ばれていたが、明治四十一年(1908)に神服神社に合祀され当時の鳥居が今も残っている。塚脇一帯には、六~七世紀頃に築造された三十数基の古墳が群集し、塚脇古墳群と呼ばれている。そのうちの一つは、南平台の市立埋蔵文化調査センターに移築・復元され、保存・公開されている。

解説板では被葬者は5世紀中頃の服部連となっていますが、これは允恭天皇の時代に服部連を賜ったとされることからそう書いているものと思われます。一帯の古墳が6~7世紀の築造とされているので、服部連塚も実際には6世紀頃のものではないかと推察されます。

酔石亭主の視点では秦氏と服部連は644年に浜松に移住していますので、古墳の築造はそれ以前に終了していると判断されますが、少し異なる見方もできそうです。一般的な古墳時代の終了時期は畿内・西日本の場合7世紀前半頃と考えられています。理由としては6世紀の終わり頃から仏教寺院が建立され始め、死者の弔い方が変化してきた点が挙げられます。この点を踏まえると、浜松移住以前に古墳の築造は終わっていた可能性も否定できません。

さて、神服神社と服部連塚は見終わり一定の検討も進めましたが、秦氏と服部連の関係について地元ではどんな見方をしているのでしょう?調べたところ、地元の郷土史家は以下のように書いていました。

允恭が治めていた5世紀中葉、半島から渡来人弓月君がやってきた。後年秦氏を称する氏の先祖で、同族を多数率いて渡来した。その一人に麻羅と名乗る人があり、かれがこの服部地域に養蚕の技術をもたらした。用水路設計など農業技術をはじめ養蚕機業をもたらし、服部に豊かさをもたらしてくれた恩人は麻羅氏であった。この麻羅氏の何代目かの子孫が「宿祢」の位を朝廷より賜り、麻羅宿祢と称したのである。またこの一族は機業に従事していることから、「機」(はた)氏の姓を賜り、かれらが元は中国秦朝の子孫として朝鮮半島に移住したとの由緒をもっていることから、「ハタ」の漢字に「秦」をあて、秦氏ととなえるようになった。秦氏は機業に携わる部民を統括する職務を与えられ、彼の傘下にある村々は「服部」と呼称されるようになったのである。島上郡の服部を支配する秦氏は、諸国に散在する機業従事者を統括する職務を命じられ、「服部連」という姓(かばね)を朝廷よりさずかり、秦氏は服部氏を称するようになり、その支配下村も「服部」村と称されるようになったのである。現在、塚脇には「服部連」を葬った「連塚」(むらじつか)が残る。明治期まではその妻の墓とされる「御女塚」(おんにょつか)も存在していた。

書き方の違いや誤解も幾つか見られますが、色々参考になる記事だと思います。詳細は以下のホームページを参照ください。
http://sokemuku.lolipop.jp/furusato_qing_shui_de_quno_li_shi/shen_fu_shen_sheto_ji_li.html

上記のように地元では秦氏=服部連と見ているのは間違いないようです。高槻市は服部連の中心地に当たることから、この地に服部姓が多いはずと考えて苗字ランキングでチェックしたところ、大阪府下で最も多い69件となっていました。ただ、既に書いたように各町内に1~2件程度と薄く広く分布しており旧服部郷に集中してはいません。秦姓に関しては14件で決して少なくはないのですが、他の地域にも秦姓が多いため、府下では6番目となっています。

ここまで神服神社における秦氏と服部連を中心に検討を進めてきました。不十分ながらある程度の解読はできたようなので、少し話題を変え、気になるところを見ていきたいと思います。「浜松の秦氏 その16」で以下のように書いています。

太田亮氏の姓氏家系大辞典5巻には、「遠江の服部 延喜式、長上郡に服職神社、榛原郡に服織田神社あり。共に古代服部の奉齋せし神社なるべし。而して、長上郡に服部氏の名族あり。」と書かれていました。

姓氏家系大辞典5巻詳細は以下のデジタル史料コマ番号127を参照ください。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1123956

この太田氏の見解は、遠江国の長上郡に服部氏の名族がいるとの主旨であろうと理解し、では何が服部氏の名族に当たるのか、逆にもやもやした気分が残り続けていました。そうした気分の中何度も読み返し、二通りの解釈・見方ができるのではないかと思えるようになったのです。

今までの検討から、酔石亭主は神服神社(当時は服部神)の服部連も秦氏に同行し遠江国にやって来たと理解しています。従って一つ目は、服部氏の名族を遠江国に来た服部連とする見方です。服部連であれば、諸国の服部を総領する立場であり、しかも秦氏系と言い得るので、名族と評価できる存在となります。それは太田氏が服織神社と服織田神社に関して「服部」と表記し、長上郡の名族は「服部氏」と書き分けていることからも理解されます。

秦氏と共に遠江国に来た呉織、漢織の流れに連なる機織集団(伎倍人)としての服部氏の場合はどうでしょうか?彼らの祖は機織女工であり、彼ら自身も機織職人なので名族とは言い難いものがあります。となれば、遠江国に来た服部連が長上郡の服部氏の名族と考えて間違いはなさそうです。他の可能性として太田氏は、例えば室町時代から江戸時代辺りまでの服部氏を長上郡の名族としたのかもしれません。

ところがです。コマ番号128には播磨の服部氏の項に遠江同様名族と書かれており、出自は書かれていませんが、服部道存以降何人もの名前が挙がっています。このように太田氏は、時代が下った場合必ず具体的な個人名や由来を入れたり、「又後世」と言った文言を付けたりしており、そうした記述のない遠江国の場合は室町~江戸時代の話ではないと考えられます。

太田氏は遠江国に関して「共に古代服部の奉齋せし神社なるべし。而して、長上郡に服部氏の名族あり。」と書き、古代服部の後に続けて、長上郡の服部氏の名族を書いています。この流れと具体的な個人名がない点を踏まえれば、長上郡における服部氏の名族は古代の名族と考えるしかなく、遠江国に来た服部連が長上郡の服部氏の名族と考えて間違いはなさそうです。

ここまでが一つ目の見方です。けれども、遠江国における服部連の存在は酔石亭主が様々な状況証拠を基に推断したものであり、同国に服部連が存在するとした史料は、知る限りでは見当たりません。それなのになぜ、太田氏は長上郡に服部氏の名族あり、と断定的に書けたのでしょう?ここがどうにも理解しがたい部分となって残ってしまいます。と言うことで、二つ目の見方を考えてみます。

上記の姓氏家系大辞典5巻コマ番号127を見ると、日本各地の服部郷や服部氏に関してかなり詳しい記述が見られます。それらの中で服部連が書かれているのは、もうご存知のように大和国と摂津国のみになります。大和国の服部連は遠江国とは関係なく、関係があるのは摂津国に鎮座する神服神社の服部連と推定していますので、太田氏がどう記述しているか見ていきましょう。

摂津国に関しては、「當國島上郡に服部郷を収む。當國には服部連住す。」と書かれていました。さてそこで、服部氏の名族と言う限り、遠江国において該当するのは服部連と考えるしかなく、この部分は動かせません。摂津国の服部連と遠江国における服部氏の名族をどう繋ぎ合わせればいいのか?そこまで考えてハタと気付いたのが、摂津国島上郡に服部郷を収む。の部分です。

遠江国の場合は長上郡、摂津国の場合は島上郡。ちょっと見ただけでは間違いなく混同しそうな郡名です。長上郡に服部氏の名族あり。との記述はこの混同に起因するものなのかもしれません。そうした解釈から具体的には以下の可能性が指摘され、二つ目の見方となります。

太田氏は遠江の服部に関して、「服織神社と服織田神社は服部の奉斎する神社だ。そうして(而して)、(高槻の)島上郡には服部氏の名族(すなわち服部連)がいる。」と書いたつもりだった。名族と断定できたのは彼らが摂津国の服部連だったからである。太田氏は、史料にはないものの、摂津国の服部連が遠江国にも来ているはずと理解し、その点を踏まえ、遠江の服部の項で摂津の島上郡にいる服部氏の名族(服部連)を書き入れた。印刷前の校正で編集者が島上郡を長上郡の間違いだと勘違いし、長上郡に直して印刷に回し、太田氏はその変更に気が付かなかった。その結果、「長上郡に服部氏の名族あり。」との記述で書籍が出版され、読み手の混乱を招いた。

以上、長上郡の服部氏の名族とは遠江国に来た服部連を意味する、長上郡は島上郡の誤記で摂津国にいた服部連を指す、と言う二つの解釈・見方を提示してみました。どちらが正しいのか太田氏にお聞きしたいところですが、残念ならが同氏は既に泉下の人。お聞きする術はありません。

次回は蜂前神社の検討に戻り、神服神社との関係も含め総合的に見ていく予定です。
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浜松の秦氏 その40


短いシリーズで終わると思っていた「浜松の秦氏」がもう40回目に到達したとは感慨深いものがあります。さて、蜂前神社の主祭神・熯速日命(ひはやひのみこと、熯之速日命の表記の場合「ひのはやひのみこと」)が神服神社の主祭神と同じ点は確認され、秦氏と同行して二系統の服部が遠江国に来たのも間違いなさそうです。とは言え、主祭神に関する本質的な疑問はなおも残っています。

熯速日命は名前、字義、その出自、また他社で焼速日命と表記されることからしても、火の属性を持つ神となるはずなのに、なぜ機織の神になっているのかと言う疑問です。この解明は大変重要なのであれこれ考えてみましょう。

服織連の解説板に従えば、彼らは秦氏を先祖とし允恭天皇の御代(注:この時代かは疑問がある)になって服部連を賜り、国々の織部を総領する極めて高い地位に就きました。そうなると、彼らも地位に見合った祖神と歴史を欲するようになります。問題は古代豪族のほとんどが既に自分たちの祖神を持っており、それらと重複しない神様を選択するしかなかった点です。彼らは本流の秦氏も交えた議論の末、熯速日命を取り上げたものと推察されます。

けれども、火の属性を持つ神を機織の神とするのは簡単な話ではないので、あれこれ知恵を絞り極めて巧妙な仕掛けを施しました。服部連が祖神を設定する際の前提条件は、できる限り古い神で何らかの仕掛けにより機織と関係し得ること。他の氏族の神と重複しない神(他氏族から文句の出る恐れのない自然神)であること。かなり苦し紛れだが、音で機織に関係できる神であること、などであったと思われ、そうした条件に唯一適合する神が熯速日命(ひはやひのみこと)だったのです。この名前の中でポイントとなるのが「熯」(ひ)の部分です。

記紀において最も古い機織神話の基本形は、天照大神(この場合の実像は機織女)が斎服屋で神衣を織っていた時、素戔嗚尊が馬の皮を剥いで投げ込み、驚いた天照大神がホト(女性の陰部)を「杼」(注:杼は機織において横糸を通す道具を意味する)で突いて死に、天岩戸に隠れたと言ったものです。ここで火を意味する「熯」(ひ)と機織に関係する「杼」(ひ)が音で結び付きましたね。もちろん音の結び付きだけでは不十分で、熯速日命を最古の機織神話の中に位置付けることはできません。

機織神話における最も重要な部分は、杼でホトを突く場面です。ホトは女性の陰部を意味しますが、その表記は火所、火門、火処などがあり、本来はたたら製鉄の炉を意味しています。熯速日命は火の属性を持った神で、「熯」(ひ)と杼は音で結び付き、さらに機織神話のホトとも結び付くことになります。一方「杼」(ひ)はその形状から男根に見立てられています。杼の形状を示す写真は以下を参照ください。
http://www.odette.or.jp/virtual/homespun/process/explain07-1.html

熯は火であり女性器のホトであり、杼もその音は火であり男性器であり、ホトを杼で突くとは性行為を意味しているので、機織神話の全体部分と熯速日命は極めて密着度が高くなります。以上の操作から、天照大神が斎服屋で神衣を織っていた時、素戔嗚尊が馬の皮を剥いで投げ込み、驚いた天照大神がホト(女性の陰部)を「杼」(ひ)で突いて死んだと言う機織神話全体の中に熯速日命を位置付けることが可能になります。そうした操作を経て秦氏と服部連は、火の神だったはずの熯速日命を最古の機織神話に関連付け、機織の神に神格転換させたのです。

彼らが構築した仕掛けの意味は後世になってわからなくなってしまうので、12世孫に麻羅(まら)宿祢を持ってきました。麻羅はご存知のように男根を意味し、杼の持つ裏の意味に通じ、麻羅→杼→熯と遡ることができてしまいます。いかがでしょう?相当複雑な操作で祖神設定が行われたと思えませんか?以上により、本来は火の神だった熯速日命がそうとはわからないように機織の祖神に仕立て上げられた訳です。裏でいろいろ操る秦氏の面目躍如と言ったところですね。

秦氏は自分たちの祖を始皇帝や徐福だと言上し「姓氏録」にそのまま記載させてしまうほどですから、この程度の裏技は簡単だったと思います。従って、神服神社の熯速日命と麻羅宿祢までは実在ではなく造作された祖神となります。なお、彼らの祖神設定時期は由緒に従うと允恭天皇の御代になりますが、既に書いたようにこの時代になるのかは疑問があります。また、「新撰姓氏録」が編纂される際に祖神を書くよう要請され、その時点で祖神を決めた可能性もある点お含みください。

さて、ここまで熯速日命を機織神話に関連させて見てきましたが、その後に続く天岩戸神話も別の重要な意味があります。ずっと以前に、秦氏は死と再生を司る一族だと書きました。そして、死んだ機織女が天岩戸に籠って後、太陽神・天照大神として出現する天岩戸神話もまた死と再生の話になっているのです。これは大和岩雄氏が「天照大神と前方後円墳の謎」(ロッコウブックス)にて述べられており、酔石亭主も同感だと思っていました。

ところが本シリーズを書く中で、この解釈は正しいのかちょっとした疑問がわいてきたのです。そこで、死んだ機織女が天岩戸に籠って後、太陽神・天照大神として出現する死と再生の神話を、もっと現実的な違う解釈で考察することにしました。

この神話を現実に当て嵌めると、どうなるでしょう?天照大神の原像は卑弥呼ですから、死んだ卑弥呼が鏡などの副葬品と共に埋葬され、その後卑弥呼の霊の依り代となる鏡が墓から取り出された。となるはずです。卑弥呼の鏡は太陽を象徴するものですから、それが取り出された結果、死んだ卑弥呼は太陽神・天照大神として復活し再生したことになります。

「日本書紀」の神代上第七段一書に曰くには、日神(天照大神)が岩戸を開けて出るとき、戸に触れて小瑕が付いた。この瑕は今も失せずに残り、これが伊勢に斎祀る伊勢の大神だと書かれていました。ここからも卑弥呼の墓から取り出された鏡が、後に伊勢神宮で祀られる天照大神になったと確認されます。

この天岩戸神話に関して疑問に思った部分は、なぜ卑弥呼を埋葬した墓を開き、そこから鏡を取り出さねばならなかったのかと言う点でした。常識的に見て墓を暴くような行為は許されるはずがありません。卑弥呼が亡くなったのは248年頃で、死後に彼女の墓が築造され、鏡などと一緒に埋葬されたはずです。

それ以降、後継の宗女である台与は日々卑弥呼の霊を神(太陽神)として祀ってきたのでしょう。なのに、どうして鏡を墓から取り出さねばならなかったのか?神話を現実に引き戻して考えた場合、そうせざるを得ない何らかの重大な事情があったと理解するしかなさそうです。

その重大な事情を現実的な側面から考察すれば、卑弥呼の後継となった女王国の台与が、卑弥呼の墓から遠く離れた場所への移動を余儀なくされた。だから墓から鏡を取り出さざるを得なくなった。となります。台与は不弥国或いは伊都国の南に位置していた女王国を離れ、宇佐まで移動して一旦留まります。「魏志倭人伝」で帯方郡から不弥国までの合計距離と、帯方郡から女王国までの総距離が短里で約100㎞の違いがあるのは、総距離が宇佐までの距離で書かれたからでしょう。

つまり、台与は北九州の沿岸に近い場所(女王国所在地)から一旦宇佐に移動したことになり、移動に際して墓から鏡を取り出したのです。目的はもちろん鏡を依り代として卑弥呼の霊を祀り太陽を祭祀するためです。

その後台与一行は大和(=邪馬台国)に入りますが、新参者の立場から卑弥呼の鏡(=太陽神・天照大神)は当時の大王の領地内に祀るよう要請されたと考えられます。これが天照大神(鏡)の大和への遷座となります。台与はプレ物部氏との協力で勢力を増し、倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)の名で箸墓に埋葬されました。その後に鏡は取り戻され、台与の宗女豊鋤入姫命・倭姫命によって伊勢に遷座し、現在まで皇祖神天照大神として祀られ続けているのです。

以上はもちろん酔石亭主の推定ストーリーに過ぎませんが、天岩戸(卑弥呼の墓)から卑弥呼の鏡が取り出された理由と、天照大神が考昭天皇から崇神天皇の時代まで大和の宮中で祀られていたとされる理由を併せ考えれば、現実味を帯びたものになってきます。卑弥呼と太陽を象徴する鏡が持ち込まれない限り、大和の大王たちは天照大神を祀るなどできないのです。

なお、「邪馬台国と大和王権の謎を解く その13」以降で邪馬台国問題や台与が大和に移動した経緯などを詳しく書いています。ご興味があれば参照ください。(注:上記の天岩戸に関する考察は今回で思い付いたものであり、「邪馬台国と大和王権の謎を解く」シリーズの中で書いてはいない点お含みください)次回も神服神社関連の検討を続けます。

浜松の秦氏 その39


今回は神服神社の由緒内容を検討します。まず前回でアップした同社の解説板内容を記載します。

平安時代以来の延喜式内の古社。素盞鳴命、熯之速日命、麻羅宿禰の三神を祀る。
この地和名抄にいわゆる「服部郷」で諸国の織部の部民を統括した服部連の居住地である。伝承では允恭天皇の時麻羅宿禰が織部司に任ぜられたというから八・九世紀のころ服部部民の神を勧請しあわせて民族の始祖をその本貫の地に祀ったのが創祀である。当時は「服部神」と呼ばれのち、醍醐天皇の延喜年間(10世紀初頭)神服神社と定められ現在に至っている。維新以前、神仏混交の時代には安岡寺の社僧が執務したが、明治初年これを廃し同5年には郷社に列した。また近世には農耕・養蚕の神として村民の信仰厚く、社前の鳥居は延宝6年(1678)雨乞いの祈願成就の折建立されたもの。祭礼は毎年5月5日古くは棒振りの神事があり、神輿は阿久刀神社までお渡りがあった。氏地は広く、塚脇、宮の川原、浦堂、大蔵司、西の川原を含む旧服部村一円にわたっている。

次に同社のホームページより以下引用します。

神服神社由緒略記
神服神社は延喜式内の古社で、19代允恭天皇(大和時代の西暦443年頃。仁徳天皇の第4皇子)の御世に、この付近一帯に機織りが盛んであったところから地名を服部(はとり)と呼んでおりました。服部はもともと「機織部=はとりべ」からきたもので、機織りを職とする部族の名前でした。服部連は允恭天皇から機織部司に任命され、国々の織部を総領したことにより「連」姓を賜り服部連と称しておりました。その服部連の勧請により建立されたもので「服部神」と称しておりましたが、醍醐天皇(887年~930年)の延喜年間に「神服神社」(カムハトリカミノヤシロ)と改めました。いつの頃からか「しんぷくじんじゃ」と音読みされるようになりました。御祭神は熯速日命、麻羅宿禰、素戔嗚命(牛頭天王)をお祀りしておりましたが、明治41年11月宮之川原の春日神社(天児屋根命)稲荷神社(宇賀御魂大神)を、また塚脇の上ノ宮神社(服部連公)浦堂の若宮神社(天児屋根命)大蔵司の神明神社(天照大神、豊受大神)を合祀し、お祀りするようになりました。


詳細は以下の同社ホームページを参照ください。
http://www7b.biglobe.ne.jp/~kamuhatori/yuisyo.htm

最後に前回でアップした服部連公の解説板を以下に掲載します。

服部連は十九代允恭天皇の治世(四四三~)諸国で機織に従事する村々を統括する責任者、織部司(おりべのつかさ)に任命され、服部連「はとりのむらじ」の姓(かばね)を賜りました。連の先祖は十五代応神天皇の治世に渡来した中国皇帝の後裔秦氏で、秦氏は朝廷に仕え灌漑治水、酒蔵、機業等、先進文明を伝え多くの功績を残しました。ここ神服神社には秦氏の氏神牛頭天王(ごずてんのう)、熯速日命(ひのはやひのみこと)、親神麻羅宿禰(まらのすくね)と服部連が祀られています。地名服部は全国各地にありますが、連(むらじ)の住まいしたのはこの地方であり、脇塚が墳墓の地「連塚(むらじづか)」になります。

上記由緒から、神服神社は機織、秦氏、服部氏(服部連)が関係し祭神も熯速日命であると確認できました。蜂前神社の場合神服神社と同一になるのは、祭神の熯速日命だけとなります。けれども浜松においては、神服神社同様機織、秦氏、服部氏の三要素が揃っていることから、熯速日命を主祭神とする蜂前神社に秦氏と服部氏の関与があっても違和感はありません。さらに同社を勧請したのが八田毛止惠で、秦氏を連想させる名前であること、同社が羽鳥大明神と称されていた点も秦氏と服部氏の関与を推定させる根拠となります。

これらの要素を踏まえれば、蜂前神社が神服神社から勧請された可能性さえ浮上してきます。それは蜂前神社の由緒に「(八田毛止惠が)本社を八ケ前に勧請して蜂前神社と斎き奉り」と書かれていることからも窺えます。由緒に書かれた「本社」が多分神服神社に相当するのでしょう。

ただ解説板によると神服神社の創祀は8、9世紀なので、蜂前神社の事実上の創建時期は800年代まで下がりそうな問題も出てきます。既に書いたように、呉織、漢織の渡来時期は雄略天皇の時代と推定され、その場合服部連が允恭天皇から機織部司に任命され、国々の織部を総領するのは難しいようにも思えてきます。神服神社の秦氏に関しても、服部連の解説板に出てくるだけで他の由緒には名前が見られません。

このように幾つかの問題点はあるものの、服部連公の解説板だけを見ると、秦氏=服部連が証明されたかのような内容となっています。とは言え、熯速日命が秦氏の氏神で麻羅宿禰が秦氏の親神かどうかは疑問もあるので、祭神に関してどう判断すべきかさらに検討を進めます。

まず両社の主祭神である熯速日命から見ていきましょう。新撰姓氏録には摂津国神別の服部連に関して、「(熯)之速日命十二世孫麻羅宿祢之後也 允恭天皇御世。任織部司。(総)領諸国織部。因号服部連」と書かれていました。神服神社の由緒内容はほぼ姓氏録の記載に沿ったものと理解されます。もちろん姓氏録の内容は服部連の自己申告をそのまま書いたものでしょうから、神服神社の由緒と姓氏録の内容が一致するのは当然の話です。問題は熯速日命が秦氏の氏神とは書かれていない点で、この見方はかなり後の時代(現代の可能性もある)に唱えられたもののようにも見受けられます。

一方大和国の服部連として、「天御中主命十一世孫天御桙命之後也」とあり、同じ服部連でも出自が異なっています。この服部連は奈良県磯城郡田原本町蔵堂に鎮座する村屋坐弥富都比売神社境内摂社・服部神社に関係し、谷川健一氏の「四天王寺の鷹」によれば、「蔵堂に属する杜屋の楽戸郷は秦姓の伎楽戸の在所であった。」とのことで、秦氏の関係地でもありました。

村屋坐弥富都比売神社に遷座する前は、同社の西2㎞の大安寺村字神来森(かきのもり)に鎮座し波登里村(はとりむら)の氏神だったとのこと。奈良の大安寺は秦氏の関与する寺であり、波登里も機織に関係し秦氏地名とも言い得るので、摂津国にせよ大和国にせよいずれも秦氏と服部氏が関係していると理解されます。

神服神社の服部連は一般的な渡来系や非渡来系の機織技術者集団ではなく、諸国の服部(呉織や漢織なども含む)を総領する立場にありました。「日本書紀」の雄略天皇15年条には、秦の民が分散され臣・連などによりほしいままに使役されている情況を嘆いて、秦造酒が天皇に訴えた。天皇は彼らを集めて酒公に賜った。酒公はこの百八十種勝(ももあまりやそのすぐり)を率いて庸、調の絹や縑(かとり)を献上し、その絹・縑が朝廷にうず高く積まれたので、「禹豆麻佐」(うつまさ)の姓を賜った。と言った主旨の記述が見られます。

分散されていた「秦民」とは秦氏一族なのか秦氏配下の各種職能民(百八十種勝)だったのか酔石亭主には判別できませんが、百八十種勝を率いとあることから配下の職能民を秦民と書いたようにも見受けられます。「秦民」がどちらであるにせよ、服部連は諸国の服部(呉織や漢織なども含む)を総領する立場にあった訳で、その意味では秦氏と立場を同じくしています。

服部連と秦氏が同じ立場であれば、服部連=秦氏と見做し得る必然性が出てきます。具体的には、秦氏の中で機織を管掌するグループが後世になって服部連を称したことになります。その前提で考えると、浜松に来た本流の秦氏は朝鮮半島南部から渡来した機織技術者の子孫に当たる服部氏を貴平町一帯)に配置し、諸国の服部を統括する服部連(=秦氏)を蜂前神社一帯に配置したとなります。以上から服部連は、呉織、漢織系の流れに連なる服部氏とは立場が異なります。

以前に、秦氏は二つの異なる服部を引き連れて浜松に来たと書いていますが、この点は今回の検討から一応確認できました。但し服部連=秦氏とする根拠は、服部連の解説板や秦氏の立場と服部連の立場が同じになる点のみであり、なおも確定し難い部分が残ってしまいます。服部連の由緒のように、秦氏の子孫が服部連になったとするなら、それを示す系図が必要であり、もし存在するならより確度は高くなるのでしょう。けれども、服部氏の系図は平安時代から始まるものがせいぜいで、秦氏とリンクした系図はなさそうです。

また高槻市における秦姓の数は大阪府下で6番目となりさほど多いものではなく、服部姓に関しては府下でトップとなりますが、各町内で1件程度と広く薄く分布しており旧服部郷と思われる地域でも集中はしておらず、他地域と同様の状態です。要するに、現在の高槻市においては秦氏も服部氏(服部連)も特段の存在感はない状態となっているのです。残念ながら秦氏と服部連或いは服部氏の関係は、細かく分析しようとすればするほど答えは逃げ水のように遠くなってしまいます。

まあ、微妙な面は残るもののも、服部連は一般の服部氏より秦氏との密着度が高く、少なくとも秦氏系服部連と言い得る存在であり、見方によってはそれ以上の関係と言ってもよさそうだと纏めておきましょう。今回は熯速日命を検討するはずだったのに、いつの間にか話がそれて秦氏と服部連の関係になってしまいました。次回は熯速日命をより深く見ていきます。

浜松の秦氏 その38


浜松から遠く離れた高槻市までやって来ました。目的地は神服神社(しんぷくじんじゃ)です。


鎮座地を示すグーグル地図画像。所在地は高槻市宮之川原元町2-25。

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神服神社の鳥居と明るい境内。

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解説板。風雨にさらされ読みづらくなっていますが、次回で書き出します。

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比較的小さな拝殿がポツンと独立して建っています。

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拝殿と本殿の間には中門があります。

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門の背後に本殿の屋根が見えています。

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本殿です。屋根部分が重たそうです。

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新しそうですが服部連の像が建っていました。

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解説板。こちらも次回で書き出します。

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ご神木。山桃とのことで珍しい。

神服神社に関する由緒内容等の検討は次回とします。

浜松の秦氏 その37


今回は蜂前神社の由緒を検討します。前回でアップした写真や同社のホームページによると祭神は熯速日命(ひのはやひのみこと)、甕速日命(かめはやひのみこと)、武甕槌命(たけみかづちのみこと)となっています。由緒はどうなっているでしょうか?検討のため由緒を記した同社の解説板をアップします。

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解説板。

祭神 本社 熯速日命、左脇宮 甕速日命、右脇宮 武甕槌命

由緒
十五代應神天皇十一年庚子三月八日(西暦二七〇年)に八田毛止惠と云う人が勅命によって遠江國に下向して八田(祝田村の古名)四十五町 廣田(刑部村の古名)七十町 岩瀬(瀬戸村の古名)八町三反 合計百二十三町余りを開墾して本社を八ケ前に勧請して蜂前神社と斎き奉り子孫代々祝部として奉仕しました
脇宮二社は十九代允恭天皇の御代に勧請されその頃から社号は鳥飼神社、羽鳥大明神と稱へられ延長五年(西暦九二七年)蜂前神社と改め古名に復しました 延喜式神名帳に記載されている式内社で あり旧社格は郷社であります


同社のホームページは以下を参照ください。
http://hachisakijinja.or.jp/about/

上記から最初に本社で祀られたのが熯速日命、允恭天皇の御代に勧請された脇宮にて祀られているのが甕速日命と武甕槌命になりそうです。祭神は秦氏や服部氏とは直接関係がなさそうにも見えますが、出雲系に乗っ取られた服織神社とは異なるケースのように思えます。由緒内容は乏しいものの、幾つか見えてくる部分がありますので、以下に列記してみましょう。

同社を祀った八田毛止惠の名前が秦に通じる八田なので、秦氏系の人物が創建し代々神官として奉祀してきたとも推測される。かつては羽鳥大明神と称されていたようなので、機織に関係し服部氏が関与した可能性もある。本社を八ケ前に勧請して蜂前神社と斎き奉り、とあることから、蜂前神社はどこか別の神社から神様を勧請したようにも見受けられる。一方で、祭神は秦氏や服部氏と直接関係なさそうにも見える。

色々ややこしそうですが、取り敢えず主祭神となる熯速日命はどんな神様なのかを見ていきましょう。

「古事記」では、イザナギノミコトが十拳剣でカグツチの首を斬ったところ、刀の本についた血から甕速日(みかはやび)・樋速日(ひはやび)・建御雷(またの名を建布都神)の三神が生まれたとあります。蜂前神社祭神はこの記述に沿ったものとなるので、非常に古い神様と言えそうです。

「日本書紀」の一書には、素盞鳴尊と天照大御神の誓約(うけひ)により生まれた神の中に熯速日命がいて、甕速日の子が熯速日神。熯速日神の子が武甕槌神とあります。両史料の記述内容が異なるのはよくあることなので、追及は控えます。奇妙なのは熯速日命の名前からしても、この神の属性は火であり、機織とは全く関係ないことです。

蜂前神社で検討するだけでは答えが出そうにないので、熯速日命を祀る他の神社を調べてみましょう。調査した結果、高槻市に神服神社(しんぷくじんじゃ)が鎮座していました。社名からしても機織に関係する神社だと理解されます。仮に神服神社が本社でここから勧請されたのが蜂前神社だとしたら、先に神服神社を見ていく必要がありそうです。と言うことで、蜂前神社は一旦横に置き、早速神服神社に行ってみます。
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