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コロナの春


上記の記事タイトルだと、深刻なウイルス問題とは異なる暖かそうなイメージが漂ってきます。それもそのはず、コロナは太陽に関係する言葉であり、外層大気の最も外側にある、100万度を超える希薄なガスの層を意味していました。コロナの名前が太陽に関係するからでしょうか、太陽熱温水器や石油ストーブのメーカー、スーパー銭湯、映画館などがこの名前を使っています。

こうしたコロナのイメージや語感とは裏腹に、新型コロナの感染は日々深刻度を増しており、ここ数日の間に東京五輪の1年程度の延期が決まり、都知事は感染爆発の重大局面にあるとして、強く外出の自粛を求めました。海外ではもっと強力な外出禁止令が出されており、街はさながら戒厳令下のようなありさまです。

東京五輪に関しては、新型コロナの深刻度が増し、各国から予定通りの開催に反対する意見が続出、IOCも延期に踏み切ったことになります。ただ、世界が1年後に本当にオリンピックを開催できるような態勢になるかどうか、疑問も残ります。新型コロナが終息したとしても、後に残るのは廃墟と化したような街並みと疲弊した国々の姿です。新型コロナが世界恐慌の引き金となる可能性も否定できません。そうした要因まで踏まえて今回の決定がなされたのかが大きな疑問として残っているのです。

次に外出の自粛ですが、桜の季節に外出を自粛するのは誰でも嫌ですし、暗い気分になってしまいます。若者たちはコロナなど怖くないと威勢よくインタビューに答えてもいました。確かに、若くて健康であれば深刻な容体にまで至らず回復するでしょう。けれども、そうした人たちが動き回ることで多くの他者にウイルスを振り撒くのですから、元気な人ほど自粛すべきなのです。

自粛せずに感染爆発が起こった場合、大企業はともかくとして、多くの商店や企業が倒産し若者たちの職場はあっと言う間に奪われてしまいます。また株が暴落すれば年金や失業保険の原資が枯渇する恐れもあるのです。つまり自粛をしなければ、最も影響を受けるのは元気な若者自身となるのです。もちろんこれは若者に限らず全世代にも悪影響を及ぼします。そうした事態を避けるためにも、自分たちの将来を正しく見通して、できる限り外出は自粛していただきたいと思います。

ここまで人間としての視点から新型コロナ問題を見てきました。これを全く異なる視点から見ていきたいと思います。視点を変えれば見える光景も全く違うものになってくるからです。

私たち人類は「人類進化の謎を解く」シリーズで書いたような要因で共通祖先から別れ、ヒトになりました。そして自ら自然環境を改変し、さらに快適さを求めて、地球の限られた資源をどんどん使い、工業化を推し進め、海を越え、空を飛び、生活の場を地球全体に広げて人口を爆発的に増やし、今ではIT化で極限の効率化を追求しています。こうした活動は地球を傷つけ他の生物を絶滅に追い込みます。人類が地球の覇者として君臨し、地球全体に広がって資源を食い尽くそうとする姿は、地球の視点から見たらウイルスそのものです。地球は人類に食い尽くされる前に、そうした事態を食い止めようとして、ウイルスである人類に反撃を始めたとは考えられないでしょうか?今までもエイズやSARSなどで警鐘を鳴らしてきたものの、さほどの効果はありませんでした。

そこで人類に対してより強力な攻撃を開始したのです。新型コロナが中国を席巻していた際は、大気の汚染度が格段に低くなり、青空が広がっていました。たったの一撃が相当な効果を上げてしまったと言えるでしょう。

これからの地球は、あらゆる災害の巨大化、新種ウイルスや未知の疾病、バッタの襲来など様々な手を繰り出して、人類の活動を抑制しようとするでしょう。私たち人類はそうした地球とどう折り合いをつけていくのかが、今まさに問われているのです。
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北九州古代史の謎を解く その2


前回までで邪馬台国が北九州に存在できない理由を三つ挙げました。今回は四つ目の理由から書き始めます。

4邪馬台国が北九州にあるとすれば、人口面で他の各国と不整合が起きる。
 邪馬台国の推計人口は245,000人、前回で書いた北九州の8国+21国+狗奴国で218,500人となります。8国+21国+狗奴国を倭国とすれば、邪馬台国の人口規模は倭国をはみ出してしまいます。(注:投馬国も北九州とすればさらにはみ出す)邪馬台国北九州説の論者は倭国(北九州の30国の総称)と邪馬台国の領域をどう分別されるのでしょうか?北九州だけで既に30も国があるのに、それ以外に邪馬台国の7万戸を配置できる場所はなさそうです。投馬国も北九州とすると配置の困難さはさらに増してくるでしょう。

また、21国は戸数不明と「魏志倭人伝」に書かれているのに、北九州全体を覆うはずの邪馬台国が7万戸と戸数が書かれており、矛盾してしまいます。21国の戸数が不明なら、邪馬台国の戸数も不明となりませんか?さらに「魏志倭人伝」では6国の戸数が表示されています。邪馬台国が北九州に存在するなら、6国の戸数は邪馬台国の内数になってしまいますが、「魏志倭人伝」を読めば6国、投馬国、邪馬台国はそれぞれ別個の戸数として書かれていると見るしかなく、大きな不整合が生じます。

5邪馬台国=女王国とする誤解。
 邪馬台国に関して「魏志倭人伝」には女王の都する所と書かれており、これとは別に女王国の名前が頻出し、その女王は卑弥呼であると判断される書き方となっています。北九州説論者は「魏志倭人伝」の、邪馬台国は女王の都するところとの記述と、北九州にある女王国は女王・卑弥呼の国になる点を根拠として、邪馬台国=女王国と考えます。

この論理の流れだと卑弥呼が女王である邪馬台国(=女王国)は北九州に存在するとの結論になるしかありません。こうした見解は大きな矛盾を生じさせますが、北九州説論者は意識的或いは無意識的に目をそらし続けているようです。ではどんな矛盾が生じるのか見ていきましょう。
 
「魏志倭人伝」によれば、女王国では侍女が千人も侍り、男子一人が飲食物を運び言葉を伝え、女王の住居に出入りしている。また宮殿や高楼は城柵が厳重に作られ、警護の兵士が武器を持って警護しているとのこと。これらの記述から、女王国は卑弥呼の宮殿、侍女のための各種設備と住居、兵士による防御のための高楼や城柵と住居などによって構成されていると考えられます。女王国に戸数が書かれていないのはこのためで、一般的な国邑とは大きく異なっているのです。そう理解すれば、女王国と戸数が記載された邪馬台国は別個の存在だと確認できるはずです。

次に女王国の位置を検討します。「魏志倭人伝」には、女王国より以北は、その戸数・里程を略載できるが、とあります。従って、末盧国から不弥国までの戸数・里程が書かれた6国の南側に女王国が存在できることになります。この場合6国全体に対して南と見れば、大宰府辺りが想定可能ですし、宇美町が不弥国なら大宰府はその南とも言い得ます。また大宰府は狭小で盆地的な場所なので、卑弥呼の宮殿、侍女などのための付帯設備、防御のための城砦を配置する程度の余裕は十分にあります。

けれども、6国の南に7万戸の邪馬台国を配置できる余地はありません。なぜなら、行程と戸数の不明な21国が6国の南を含む周辺に既に存在しているからです。いや、邪馬台国はそれらを支配下に置いた総称だとの論も出てくるかもしれませんが、総称は既に書いたように倭国であって邪馬台国ではないのです。続いてもっと別の視点から絞り込んでみましょう。

「魏志倭人伝」には、女王国の以北は特に一大率を置き検察し、諸国はこれを畏怖する。常に伊都国に治す。国中に於ける刺史(州長官)の如く有り、と書かれています。また卑弥呼が使者を派遣したり郡から来た使者に応対したりするのは伊都国の役目となっています。こうした伊都国の機能、女王国の以北に設置された一大率が伊都国に常駐する点などから判断すれば、女王国は伊都国(現在の糸島市、福岡市西区一帯)に隣接した南に位置すると考えるのが最も妥当な見方となりそうです。


糸島市の位置を示すグーグル地図画像。

さらに、糸島市には多くの北九州説論者が卑弥呼の墓(或いはその母か祖母の墓)とする平原遺跡(平原王墓)があります。この点はかなり説得力の高い見方になると考えられるので、これらを併せて考えれば卑弥呼の女王国は伊都国の南側(或いは伊都国内の南側に宮殿を造り女王国と称した)にある可能性は高そうです。と言うことで、以下のグーグル画像を参照ください。


平原遺跡(平原王墓)の位置を示すグーグル画像。拡大してご覧ください。

この地図で見ると一目瞭然ですが、平原遺跡から南の山麓まで2.5㎞しかなく、伊都国の南に邪馬台国を配置できないのは言うまでもありません。伊都国の南に婢と警護の兵士で千五百人程度がいる女王国があったとする場合には、そうした疑問も完全に払拭されます。但し、女王国と推定される出土物が確認されていない現状では、仮説の域を出ないことになります。またこの場合、末盧国、奴国、不弥国に対しては南とはならない問題も発生します。

そうした問題はあるものの、大宰府近辺、伊都国の南のいずれも7万戸の邪馬台国を配置できる余地はなく、邪馬台国=女王国ではないことは確認できるはずです。今まで誰もこの問題を提起しなかったのが酔石亭主には不思議でなりません。北九州説論者は意識するしないに関わらず、邪馬台国が伊都国の南、或いは6国の南に存在できない事実から目をそらしているのではないでしょうか?
 

伊都国の中心と推定される場所を示すグーグル画像。拡大してご覧ください。
 
拡大すると多くの古墳や遺跡の名前が出てきます。この位置の少し南で、西側の台地上に卑弥呼の宮殿があったのかも。

6邪馬台国は鉄鏃(てつぞく=鉄のやじり)や鎧、鏡、絹、勾玉など先進的な出土物がある場所に存在するとの思い込み。
 邪馬台国北九州説を唱える論者の畿内説に対する反論を見ると、弥生時代における鉄鏃(てつぞく=鉄のやじり)や鎧、絹、鏡、勾玉など先進的な出土物に関し、全国でも福岡県が圧倒的に多い点を挙げています。また鏡に関してはその大きさのトップ5までが平原王墓出土となっている事実に基づき、そうした出土物がほとんどない畿内説を厳しく批判しているのです。以下のホームページにはこれらの論点が実に詳しく書かれているので参照ください。
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku370.htm

けれども、鉄鏃の出土数の多さは「魏志倭人伝」に書かれたように、小国同士の争いが長く続いた事実を証明するものに過ぎず、その他の先進的出土物も北九州が大陸との交流と諸物品の取り入れ窓口であったことを証明するだけで、これらを理由・根拠にして邪馬台国が北九州にあったと証明することはできません。ある国がどこに位置するのかを決めるのに、出土物は本来何の関係もないのです。

北九州論者は、邪馬台国は鉄鏃や鎧、絹、勾玉、大型の鏡など先進的な出土物が多い弥生時代の先進地域に存在しているはずとの思い込みをベースに、福岡県(北九州)はそれらが圧倒的に多い、だから邪馬台国は北九州以外にないと、一種の自己言及的な論理を展開しているのです。その主張にいかに強いバイアスがかかっているか理解されます。

これは邪馬台国畿内説論者にも同じ思い込みがあり、詳細は長くなるので省きますが、卑弥呼と邪馬台国を幾つかの論点から大和に結び付け畿内説を唱えています。この説に対し北九州論者が奈良県には福岡県のような出土物が何もないと主張すれば、返答に窮することになります。

邪馬台国問題は思い込みや思い入れを排し、客観的で合理的な視点から検討すべきでしょう。そして、邪馬台国と卑弥呼の女王国を切り離しさえすれば、北九州に卑弥呼の女王国があり、畿内(人口から判断すると近畿地方全域)に邪馬台国があることになって、両説のどちらにも軍配を上げられ、めでたしめでたしになるのではないかと思います。

面白いのは弥生時代における鉄鏃(注:2世紀から3世紀にかけての弥生時代後期に普及した武器)の出土数に関して、福岡県が398でトップ、熊本県が339で第二位となっている点です。「魏志倭人伝」によれば、正始8年(247年)、帯方郡太守の王頎が着任し、倭女王の卑弥呼は使節を派遣して、狗奴国と戦争状態であることを説明しています。

狗奴国を熊本県(の一部地域)に比定すれば、卑弥呼を共立した国々にほぼ匹敵する軍事力を持っていることになり、鉄鏃の出土数が「魏志倭人伝」の記述を証明するものとなっています。(注:「魏志倭人伝」には、女王の境界の尽きた其の南に狗奴国があると書かれ、倭国の範囲が狗奴国(熊本)の北になるとも受け取れる内容です。ただ既に書いたように狗奴国も併せて30国になることから、狗奴国は中国側から見て倭国に含まれると考えられ、倭国は狗奴国(熊本)を南限とする北九州の範囲内と理解されます)

ここまで邪馬台国が北九州に存在できない理由を六つほど書いてきました。次回は七つ目から始めます。

北九州古代史の謎を解く その1


今回から北九州に秘められた古代史の謎に挑戦します。古代史を検討する場合、今までは現地の神社などを訪問した上で、そこかしこに漂う雰囲気を感じ取りつつ、宮司さんや近隣の方のお話を聞き、諸史料などと照らし合わせながら調査を進めていました。けれども深刻化する新型コロナウイルスの問題を考慮すると、それらの作業を飛ばして書き進めるしかなさそうです。

幸い本シリーズにおいては、各史料に記録された最も古い時代を扱う予定なので、「魏志倭人伝」や記紀などの記載内容、ネット情報を基にした探索で何とか書いていけるはず、と勝手に楽観しています。もちろん近い将来、ぜひ現地を訪問したいとは思っていますが……。

さて、北九州は日本における古代史の始まりと根源の地であり、多くの謎が秘められています。今回は「魏志倭人伝」をベースに邪馬台国問題をさらに深めながら、伊弉諾尊や伊弉冉尊、天照大神の誕生、天岩戸、天孫降臨、日向三代、山幸彦と海幸彦など、記紀に記された神話群の意味するものを追求し、現実の中に落とし込んでいきたいと思っています。

酔石亭主の見解では、邪馬台国は北九州に存在できません。その理由も過去に何度か書いています。本シリーズでは多少の新しい知見も含め項目毎に纏める予定ですが、難しいのは陳寿が編纂した「魏志倭人伝」の中に、倭国への使節団が直接確認した内容、使節団が倭人から聞き取った内容、帯方郡の商人が倭人との交流の中で書き留めた情報、陳寿の見解などが混在していると推察される点です。加えて陳寿の生没年は233年~297年であり、卑弥呼の死後50年近くも生きていたことになります。従って、彼にとって卑弥呼の時代は過去のものであり、この点も考慮に入れる必要がありそうです。

また上記した事情から、各種公文書や史料の間のみならず、それらと陳寿が得た雑多な倭国情報との間にも、食い違いや相互矛盾、時代的なずれなどが生じている可能性を否定できません。当然陳寿も頭を抱え、幅広い年代の出来事がよく整理されないまま、また各記事間で相互に矛盾する部分を残したまま編纂作業が終了し、後代の私たちを悩ませる原因にもなっているのです。

このように「魏志倭人伝」には幾つかの気配りすべき事情や問題があり、それらを十分に踏まえた上で見ていく必要があるでしょう。なお「魏志倭人伝」の内容に関して、本論考を読まれる方は既にご存じとの前提で進める予定なので細かくは書きません。必要な方は以下のホームページに原文、訳文、採用資料の色分けまでされた力作がありますので、是非ご参照ください。と言うことで、早速検討に入りましょう。
http://www.eonet.ne.jp/~temb/16/gishi_wajin/wajin.htm

1「魏志倭人伝」を素直に読めば、邪馬台国は北九州から遠い場所にあると理解できる。
 邪馬台国に行くには、不弥国(福岡県宇美町など諸説あるが、どこであるにせよ北九州の範囲内)の次に南へ水行20日で投馬国に至り、そこから南へ水行10日、陸行一月の行程となります。方位や日数に疑問はあるものの、素直に読めば北九州の範囲内ではあり得ず、遠隔地に邪馬台国は存在すると理解される記述です。

さらに不弥国までの距離は里数(例えば奴国から不弥国までは百里)で表示されていますが、投馬国や邪馬台国までは日数表示であることから、これらの場所に帯方郡の使節は訪問しておらず、倭人から聞き取った内容であると理解されます。つまり伝聞情報なので、方位や旅程に誤りや誤解があると判定できるのです。

2邪馬台国が北九州にあったら倭国大乱は起きていない。
 「魏志倭人伝」には、七、八十年、倭国は乱れ、相攻伐すること歴年、などとあり、「後漢書」にも、桓帝と霊帝の治世の間(146年~ 189年)、倭国は大いに乱れ、相争った、とあります。争いはその後も長く続いたものと思われ、疲弊した各国は相談の上卑弥呼を共立しました。その結果一旦争いは収まりますが、卑弥呼の晩年には狗奴国との争いが起きています。

卑弥呼の死後男王が立ったものの、国中が不服で互いに争い、千余人が殺されました。これらの記述から倭国は小国が乱立し、小休止はあったものの、常に相争う状態が続いていたと理解されます。(注:倭国の範囲は北九州全域と考えられ、「魏志倭人伝」によれば当初は百余国あり後に30国に集約されています)

そうした倭国の状況を踏まえた上で、北九州沿岸の里程と戸数が表示されている各国を見ると、末盧国四千戸(14,000人)、伊都国千戸(3,500人)、奴国二万戸(7万人)、不弥国千戸(3,500人)となっていました。(注:一戸当たり3.5人で計算)他に里程と戸数が不明な21国、卑弥呼と敵対した狗奴国があります。これらに朝鮮半島の狗邪韓国や対海国(対馬)、一大国(壱岐)、女王国を含めたものが合計30国で北九州の倭国となります。

そう考える理由は、「魏志倭人伝」の冒頭に倭人(倭人の国=倭国)の交流可能な国は30国と書かれた記事があるからです。この国数や倭国の構成から見ても、邪馬台国は北九州に存在しないと理解されるでしょう。(注:上記30国から狗邪韓国と女王国を除き、投馬国と邪馬台国を入れて合計30国と主張することも形式的には可能です)

けれども、国数や倭国の構成だけで邪馬台国が北九州にないと断定はできません。最も重要と考えられるのは人口パワーです。北九州最大の奴国でも推計人口は7万人に過ぎず、仮に上記30国とは別に7万戸(24万5千人)を擁する邪馬台国が北九州にあったとしたら、同国の圧倒的な人口パワーから大乱など起きるはずがないのです。

よって邪馬台国が北九州にあるとの主張は、「魏志倭人伝」や他の中国史書の記述に不整合となり、間違いだったと確認されます。(注:邪馬台国が卑弥呼共立によりできた国との反論もあるでしょうが、共立により一瞬にして7万戸の国が登場したと考えるのは不自然で不合理です)

3邪馬台国を北九州に嵌め込むと地域の総人口が日本の推計総人口を越えてしまう。
 200年頃の日本の総人口は歴史人口学者が60万人、その他の研究機関が50万人、70万人との推計を出しています。そこで、「魏志倭人伝」の記述から各国の人口を推計してみましょう。一戸当たり3.5人との前提で計算します。

国名                  戸数       人口
狗邪韓国(朝鮮半島南端部)    不明   3,500人(推定)
對海国(対馬)             千戸     3,500人
一大国(壱岐)            三千戸   10,500人
末盧国(唐津市の東松浦半島) 四千戸   14,000人
伊都国(糸島市付近)         千戸    3,500人
奴国(福岡市付近)         二万戸    70,000人
不弥国(福岡県宇美町など)    千戸     3,500人
女王国                婢と兵士   1,500人(推定)
小計                   三万戸  110,000人
(卑弥呼の女王国とその北側にある国で合計8国)
                        
斯馬国、巳百支国、伊邪国、都支国、彌奴国、好古都国、不呼国、姐奴国、對蘇国、蘇奴国、呼邑国、華奴蘇奴国、鬼国、為吾国、鬼奴国、邪馬国、躬臣国、巴利国、支惟国、烏奴国、奴国の21国。
21国の小計(一国当たり千戸として推計)二万千戸   73,500人 
 
(注:「魏志倭人伝」には21国に関し、その余の旁国は遠くして絶へ、詳を得べからず。とありますが、斯馬国は後の志麻郡(現在の糸島市北部)と判断され、「魏志倭人伝」の記述は明らかにおかしく、21国は遠隔地ではなく倭国を構成する北九州の範囲内に収まると理解されます。また倭人の交流可能な国は30国と書かれた記事とも矛盾し、これ一つ取っても情報ソースがまちまちであると確認されます)

狗奴国(不明だが卑弥呼に敵対する実力から一万戸と推計)  35,000人             
 (注:狗奴国は熊本県の菊池川流域に比定され、方保田東原(かとうだひがしばる)遺跡からは多数の土器、鉄鏃、刀子、手鎌、石包丁形鉄器、鉄斧など武器その他の鉄製品、巴形銅器、銅鏃、小型仿製鏡などの銅製品が出土しています)
 
ここまでの合計                      218,500人

投馬国            五万戸          175,000人
邪馬台国           七万戸          245,000人
小計                              420,000人
 
総合計                           638,500人
 
いかがでしょう?里程と戸数不明の21国を各千戸と最小限に見積もっても、邪馬台国と投馬国を含めた前提での北九州の人口が日本の推計総人口を越えてしまいました。仮に日本の推計総人口が60万人の三倍で180万人であったとしても、その3割以上が北九州にいるなど有り得ない話です。よって邪馬台国は北九州に存在できません。(注:弥生時代の人口に関する内閣府の記述は以下の2ページ目を参照ください。ここには歴史人口学の研究者である鬼頭宏氏の「人口から読む日本の歴史」を引用して60万人と書かれています。)

https://www8.cao.go.jp/shoushi/shoushika/whitepaper/measures/w-2004/pdf_h/pdf/g1010100.pdf

ここまで200年頃の人口に関し、日本全体で60万人に対し北九州が8国+21国+狗奴国で218,500人との前提で書いています。ややくどくなるかもしれませんが、人口問題は重要なので別の視点からも見ていきます。歴史人口学者である鬼頭宏氏によれば、日本全体の60万人に対する北九州(注:鬼頭氏のデータは北九州と言う場合、壱岐、対馬、筑前、筑後、豊前、豊後、肥前の前提)の人口は驚いたことに40,500人しかいないことになっています。詳細は以下のWikipedia記事を参照ください。

https://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=1&cad=rja&uact=8&ved=2ahUKEwjTxLX7zcLjAhVGHKYKHYguB_UQFjAAegQIAhAB&url=https%3A%2F%2Fja.wikipedia.org%2Fwiki%2F%25E8%25BF%2591%25E4%25BB%25A3%25E4%25BB%25A5%25E5%2589%258D%25E3%2581%25AE%25E6%2597%25A5%25E6%259C%25AC%25E3%2581%25AE%25E4%25BA%25BA%25E5%258F%25A3%25E7%25B5%25B1%25E8%25A8%2588&usg=AOvVaw3x27xT9spXZ7Qa-LZFUq6F
 
 北九州に関して狗奴国も含む前提で考えれば、肥後の一部も含めることになり、仮に北九州で50,000人としても、日本の全体数である60万人の8.3%に過ぎないことになります。そんな馬鹿なと思われるでしょうが、現在の日本の総人口に対する、福岡、佐賀、長崎、大分、熊本各県の合計を%で見たところ、驚いたことに約8%とほとんど変わらない数字が出てきました。こうなると、「魏志倭人伝」の戸数に関する記事が相当盛られている可能性もありますし、人口学の専門家による総人口60万人の数字も絶対視はできません。

どんな設定で見るのが最も適切なのか悩みますが、試しに240年頃の北九州倭国の推定総人口である218,500人(「魏志倭人伝」に基づく数字)を8%で割ってみました。この場合、日本の推定総人口は273万人となります。273万人は「魏志倭人伝」をベースにして北九州の総人口に邪馬台国と投馬国を含めない前提での数値です。

明確な根拠はないものの、この総人口の場合、ひょっとしたら有り得るかもしれません。仮に邪馬台国と投馬国を含むとした場合はどうでしょう。638千人を8%で割ってみると、日本の総人口は800万人近い数字になり、全く非現実的なものとなってしまいます。以上の人口に関する考察から、やはり邪馬台国と投馬国は北九州にはなかったと確認されます。

土岐石 その17


土岐石を続けます。

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赤碧です。肉色に近い。鮮やかな赤色の土岐石は少ないようです。

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小品の土岐石。青と黄が混じり虫食いもあります。

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赤碧です。最初の赤碧とは雰囲気が異なります。

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黄碧です。慣れないとチャートとの判別が難しい。

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野鳥。モズだと思います。撮影したのは1月で、ひょっとしたら前にアップしているかも。

土岐石はまだまだ写真もありますが、一旦休止して、次回からはまた歴史探索を始めます。

土岐石 その16


イタリアにおける新型コロナの感染はもはや最悪な状況に至っているようです。とくに北部イタリア・ロンバルディア州での感染が酷く、ベルガモの状況などが報道されていました。酔石亭主もベルガモには何度か訪問したことがあり、丘の上にある「IL Pianone」と言う絶景レストランで数回食事もしています。ここには山々を望む素晴らしいお庭、地下の石造りの古くて広いワインセラーなどもあり、見どころも多い場所でした。この地方の皆さんがどうなっているのか心配でなりません。「IL Pianone」の写真は以下のホームページを参照ください。
http://www.ilpianone.it/foto-ristorante-bergamo-alta.htm

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よくあるタイプの土岐石です。

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石質はよくありませんが、真ん中の白が点景となっています。

DSCN1601_convert_20200321143007.jpg
赤に少し黄が混じっています。

DSCN1288_convert_20200321142903.jpg
野鳥。ウグイスでしょうか?

DSCN1287_convert_20200321142924.jpg
もう一枚。樹木の中にいたので明るく撮影できません。
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