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秦さんはどこにいる?その22
2011/10/24 06:11


今回で秦さんシリーズは終了です。では、東北から北海道を見ていきましょう。

福島県:全体で105人と多い。福島市21人。大沼郡三島町17人。伊達郡国見町16人。会津若松市12人。
宮城県:全体で17人。
岩手県:全体で5人。
山形県:全体で10人。
秋田県:全体で20人。大館市に14人。
青森県:6人。
北海道:148人。岩見沢市11人。小樽市10人。

北に行くにつれて秦姓の分布が薄くなっていき、一県全体で20人程度では検討対象にはなりません。ただ秋田県の場合、大館市に秦姓が集中しています。社名としては大館市に秦機工がありました。また勝山の地名もあります。この地に多くあるのは縄文時代の遺跡です。しかし、秦氏の痕跡を示す決定的な情報はありません。

青森には三戸郡新郷村戸来にキリストの墓があるとされますが、ここまで来ると守備範囲から外れます。

福島県は全体でも個別都市でも相当数の秦姓が存在しています。福島市には秦接骨院、秦畳床工業所がありました。秦畳床工業所の場合、住所は福島市宮代字屋敷畑で秦氏地名の匂いもします。近くには鍛冶畑の地名もあり、鍛冶(金属)と畑(農業)は結び付かず鍛冶秦が元になっていると推測されます。

福島県の羽田姓を見ると全体が227人。福島市が135人と圧倒的です。但し、福島の場合は「はた」ではなく「はねだ」と読むケースがほとんどではないでしょうか?その場合、名前の由来は全く異なります。

大沼郡三島町の秦姓は不可解です。高畑と言う山はありますが、他に具体的な痕跡などありません。只見川沿いの人口2千人に満たない狭小地に、なぜこれほど秦姓が集中するのでしょう?その理由はじっくり考えたいと思います。


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大沼郡三島町を示すグーグル地図画像。

伊達郡国見町には秦糀店がありました。周辺には鍛冶屋敷、畑中、半田、天王畑、稗畑、山畑などの地名があります。国見町の南の桑折町には半田山があり、銀が採掘されていました。半田は秦氏地名であり、桑折は養蚕に関連しそうです。養蚕と鉱物資源の両方を求めて秦氏はこの地に入植したのでしょう。また小手姫伝説も秦氏の関与がありそうです。以下Wikipediaより引用します。

小手子には、現在の福島県川俣町に落ち延びて養蚕を伝えたという「小手姫(おてひめ)伝説」がある。
小手子の子、蜂子皇子は厩戸皇子(聖徳太子)の計らいで京を逃れ、山形県鶴岡市の出羽三山の開祖となったと伝えられるが、小手子も、蜂子皇子を捜し求めて、実父と娘・錦代皇女とともに東北に落ち延びた。旅の途中に錦代皇女を亡くした小手子は、故郷の大和の風情に似た、現在の福島県伊達郡川俣町や伊達市月舘町の地域にとどまり、桑を植え養蚕の技術を人々に広めたという。その後小手子は、蜂子皇子に会えないことを悲嘆して、川俣町大清水地内にある清水に身を投げたと伝えられている。


養蚕に聖徳太子とくれば秦氏の関係と思ってしまいます。


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伊達郡国見町、半田山、桑折町を示すグーグル地図画像。

会津若松市には秦接骨院があり、西会津町にも秦工作所がありました。現在は潟Aトムです。

また会津若松市には神指と言う地名があります。「新編会津風土記」によれば平安時代前半(860年代)に源融(みなもとのとおる)の家来だった秦氏がこの地に来て、山王権現の安住の地を探していたところ、夢の中に現れた翁が、指を差し「ここより北の林の中に香木があるので、村人に開墾してもらい、安住の地にしなさい」と言ったことから、香指と呼ばれるようになり、神指となったとか。

夢の中に現れる翁は秦氏そのものなので、この地に来た源融の家来に秦氏が霊夢を見させたとするのが妥当なようです。なお、源融は源氏物語における光源氏の実在モデルとされています。

864年に源融は陸奥出羽按察使(東北地方を監督する役職)に任じられ陸奥国に出向いたとされます。これに同行した家来の一人が、(実際には源融は出向かず家来に行かせた可能性もあり)会津若松に常駐する折、源融の指示で秦氏の居住区に住んだためこのような話ができたのでしょう。

では、源融と秦氏の接点はどこにあるのでしょう?源融は嵯峨天皇の子ですが、嵯峨天皇は譲位して、現在の嵯峨野清涼寺がある地に離宮を建設。離宮の一部を源融に与えます。それが清涼寺の前身である棲霞観山荘でした。この地はもちろん秦氏の荘園であり、源融は秦氏と接点があったと考えられます。源融には有名な歌があります。

みちのくの しのぶもぢずり 誰ゆゑに 乱れそめにし 我ならなくに

陸奥国のしのぶもじずりの乱れ模様のように、私の心はちぢに乱れています。いったい誰のせいでこんなに思い乱れているのでしょう。 それは他ならぬあなたのせいなのですよ。

「しのぶもぢずり」とは、乱れ模様に染められた布のことで、福島県北部の信夫郡で作られていました。

東北では福島県に秦姓が突出して多いのですが、主たる理由は蒲生氏郷の会津移封によるものだと思われます。彼の郷里は近江国蒲生郷若松の森(現在の日野町西大路にある日野城)で会津若松の地名は氏郷の郷里にちなんでいます。氏郷は移封の際近江の木地師を引き連れてきました。


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日野城を示すグーグル地図画像。

この木地師(=轆轤師)集団の主力が秦氏であったと考えられます。木地師は轆轤(ろくろ)で椀や盆などを作る技能工を意味し、彼らの里は現在の永源寺町にある蛭谷と君ヶ畑でした。この場所は依智秦氏の拠点である秦荘(現在の愛荘町)の南、日野町の北です。秦荘に関しては「秦さんはどこにいる?その6」9月11日を参照ください。場所は日野城を示すグーグル地図画像を動かして確認願います。

木地師の頭領は小椋家と大蔵家ですが、小椋(=小倉)の地名は秦氏と関係があります。秦王国にある宇佐神宮は小倉山に鎮座し、秦氏の拠点である嵯峨野にも小倉山があり、徐福系秦氏に関連して調査予定の富士山麓にも小倉山があります。つまり小椋は秦氏地名なのです。大蔵も同様ですね。また君ヶ畑は秦氏地名であり、この一帯はかつて小椋谷と呼ばれていました。

秦氏は虚空蔵信仰を持っており、虚空蔵菩薩は古来より漆器業や工芸技術の守護仏として信仰されてきました。以上のように、虚空蔵信仰を介しても秦氏と木地師は繋がっているのです。詳しくは大和岩雄氏の「日本にあった朝鮮王国」(白水社)の「秦氏と虚空蔵信仰」の項を参照ください。

会津若松に入った秦氏系木地師集団の一部は、良材を求めて山奥に足を向けます。山奥の大沼郡三島町に秦姓が多い理由がここで明確になりました。木地師である秦氏が良材を求めて山奥に入ったため、大沼郡三島町に多くの秦姓が見られるのです。現在も三島町には工人の郷として多数の工房があります。

福島における秦氏の主力は依智秦氏系の木地師でした。東北で盛んに作られるこけし。その深源には秦氏の存在があったと考えられます。

北海道の小樽市には秦海事・行政書士事務所があります。いずれにしても北海道の秦さんは近年入植したものと思われます。

「秦さんはどこにいる?」シリーズは今回で終了です。表面をさっと撫でただけなので、大した内容にはなっていません。それでも、思ってもみない事柄が幾つか飛び出してきました。また秦姓の分布から彼らの足跡をたどるのも、日本初の試みと思っています。いつか各県ごとにもっと詳しく調べたいですね。

秦氏関連では次に、富士山麓における徐福系秦氏の謎を追及したいと思います。

カテゴリ:秦さんはどこにいる?

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