『旧約聖書』創世記の謎を解く その5


ここで私たちヒトが、動物のように予定調和の世界にいるままだったらどうなるか考えてみましょう。もしヒトが予定調和の世界にいるままなら……、文明も文化も一切発生せず、死の観念も神の観念も消滅してしまいます。

また仏教的にいえば、予定調和の世界が破綻して、初めて迷界としての世界が存在し始めました。迷界は悟りへの機縁となるものです。迷界が存在しなければ、悟りへの機縁は世界のどこにもないのです。

言い換えると、ヒトがエデンの園から追放されなかったら、この世界は存在の契機を持てなかったことになります。客観世界とヒト。客体と主体。そのどちらか一方がなかったら、双方とも存在し得ないのです。これは実に恐ろしいことです。予定調和の世界が破綻して、ヒトがエデンの園から追放され、初めて全宇宙の歴史が始まったとも言い換えられるのですから。

予定調和の世界が破綻しなかったら、この宇宙は存在できない。とすれば、ヒトがヒトへと進化したのは、宇宙の側からの究極の要請により、ある種の必然的プログラムに従って、そうなったとも考えられます。そしてここにヒトが存在しているということは、開闢から現在に至る全過程において、宇宙は、ヒトが存在するに必要な合理性を完璧に持ち続けていたと言えます。

つまり私たちは、宇宙の全過程を自分たちの背後に背負っているのです。ヒトはこの宇宙に存在しなければならなかった。そして宇宙がビッグバンに始まり、膨張収縮を繰り返すなら、それは輪廻転生であり、死と再生です。

宇宙はビッグバンにより膨張し、次に収縮し、収縮の極点で閉じられ、その瞬間―瞬間と言っても、その時点では時間が存在しないので、ゼロ秒後でも百兆年後でも同義ですが―特異点を経由して、再生するのです。こうして新たな宇宙が開闢し、物質世界が開かれました。一旦物質世界が開かれると、定められたプログラム(体系を支配する内部法則)が次々に起動して銀河系を形成し、自己展開を始めるのです。

次に生命の発祥を考えてみましょう。原始の地球は、様々な物質が溶け込んだ水のスープが豊富にありました。その中で化学反応が進んで、核酸という高分子が出来上がります。核酸分子は自分と同一の分子を合成する自己複製能力を持っていました。この核酸が進化して細胞が生まれ、生命が発祥したのです。

核酸分子の自己複製能力は極めて独自のものですが、この段階では外部に開かれた単なる化学反応なのです。物質世界の極点には至っていますが、まだ生命ではありません。では、核酸分子はどうして生命へと進化してしまったのでしょう?

原始地球は、やがて核酸分子の自己生成のための素材やエネルギーが乏しくなります。その結果、核酸分子は消滅する運命を辿ります。つまり、生命誕生の寸前で、核酸分子の存立基盤が失われたのです。核酸分子は自己の存立を確保するため、自分の周囲に膜を張りました。この膜の内部においてのみ、複製が可能な条件を保持できたのです。

ここで世界は外界と内界に分離しました。環境の疎外が初めて起きたのです。これが生命発祥の起源です。生命は進化によって始まったのではなく、喪失によって始まったのです。

生命にも宇宙と同様の特異点がありました。存在が物質世界の段階においては、全ては外に向かって開かれています。ところが物質世界が極点に達したある時点で、膜によって閉じられました。外界と内界に分かれるのです。その瞬間が生命発生の特異点となります。こうして、物質世界に続いて生命世界が開かれました。一旦生命が発現すれば、宇宙同様のプログラムが起動して、自己展開していくのです。

ヒトの発祥にも同じように特異点がありました。ヒトの祖先もそれまでは、単に生命世界において最も進化した獣(生命の自己展開の極点段階)に過ぎませんでした。そして、自己の存立が不能になるというぎりぎりの地点=特異点で、獣(生命)としての自己が閉じられ、ヒトとなり、新たなる領域(=心的領域)が起動されたのです。こうして、生命世界に続いて心の世界が開かれました。一旦心の世界のプログラムが起動すると、文明や文化が発達するという自己展開を始めるのです。

ここで注目すべきは、新しい世界が開かれる前には必ず死に直面するような絶対の危機があり、そこで相転移が起きて再生し、別の存在となるということです。これは宇宙の開闢、生命の発祥、人類の発祥のいずれにも当てはまります。

私たちは宇宙の開闢から文明の発生までを辿ってきました。この段階で、世界には物質世界、生命の世界、心の世界が存在します。科学がどう進歩しても、宇宙開闢の謎、生命発祥の謎、人類発祥の謎に迫れないのは、死と再生に象徴される特異点が関与しているからです。宇宙にせよ、生命にせよ、人類にせよ、世界が開かれると必ずその内部法則に従って外延的に自己展開(ベクトルが外に向き、宇宙であれば膨張し銀河を形成して、収縮する)します。

ところが、その極点においてベクトルが内に向き、一旦閉じられるのです。この外から内への転換は、外部的観測では非連続であり、断絶であり、飛躍なのです。その地点が特異点です。特異点はこの世界の公理や因果の関係を断絶した地平にあります。従って、通常の観測方法では飛躍としか理解できません。科学は、世界が起動した後の自己展開(公理として表せる事象)しか検証できないからです。

なぜこれらを科学では検証できないのでしょう?答えは簡単です。自己展開(内部法則)は世界が開かれた後にしか出現しないからです。一旦法則ができれば、私たちは、その法則を知り、法則に則って世界を観測し、その展開の成り行きを予見することは可能です(但し、特異点の直前まで)。けれども、なぜ特異点を介して起動し、なぜ自己展開してしまうのかというメカニズム自体は検証不能なのです。

では、どうして世界は特異点を介して起動し、自己展開するのでしょう?このメカニズムに整合する仮説は次のようになります。世界のありようは始めから決められており、この世界には、あるべき未来の記憶が刻印されているからだ、と。ここまでを纏めると以下のように整理できます。

一、宇宙の開闢。物質世界が開ける。自己展開。銀河系などの宇宙の形成。
二、生命の発祥。生命世界が開ける。自己展開。多様な生物の形成。
三、人類の発祥。心の世界が開ける。自己展開。文明の形成。


世界のありようは上記のように極めてシンプルでした。私たちは、宇宙の開闢から生命の発祥、人類の発祥、文明の発生、旧約聖書まで、時代を前後しながら現代に近づいてきました。

しかし心の世界は、開かれるべき世界の最終段階ではありません。この日本で次の世界が新たに開かれたのです。それを追及するには、次に日本人の特殊性に秘められた謎を解明する必要があるでしょう。謎解きの旅はまだまだ続きます。

         -日本人の特殊性の謎を解く その1に続く-
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『旧約聖書』創世記の謎を解く その4


今日はイスラエルの古代史を大まかに見ていきましょう。
イスラエルの始祖はアブラハム(紀元前2100年から1800年頃の人物)ですが、その妻サラはシュメールの女です。また彼らはシュメール(当時は新バビロニア)の都市国家であるウル(現在のイラク南部)に居住していました。

イスラエルの歴史の始まりにシュメールが色濃く関与している点は注目に値するでしょう。アブラハムとサラの子がイサクで、イサクの子であるヤコブが神からイスラエルの名を受け、このヤコブの息子たちがイスラエル十二支族となりました。これら正統イスラエルの民は、セム系の黄色人種でした。

紀元前1300年頃、エジプトの圧政に苦しむイスラエルの民は、モーセの指導の元エジプトを脱出します。脱出後の放浪生活において、神はモーセを介してイスラエルの民に『契約の聖櫃』を授けました。聖櫃の中にはモーセの石板、マナの壺、アロンの杖が収められています。これこそが、ヤハウェ神とイスラエルの民との契約の証しでした。

紀元前993年、ダビデによりイスラエルは統一され、息子であるソロモン王の時代この国は栄華を極めました。そして移動幕屋に安置されていた聖櫃は、ソロモン神殿に納められたのです。

ソロモン王の死後、イスラエルは分裂し、十支族による北イスラエル王国と、二支族による南ユダ王国が成立します。紀元前721年、北イスラエル王国はアッシリアの攻撃で滅亡し、イスラエル十支族は彼らに連行されました。

一方南ユダ王国も、紀元前586年に新バビロニア王国の攻撃により滅亡し、人々はバビロンの捕囚となります。紀元前538年にはペルシャが新バビロニア王国を滅ぼし、イスラエル二支族は帰還しましたが、そこに十支族の姿はなく、彼らは行方不明となったのです。

正統イスラエルであるイスラエル十支族は、ある日忽然と消え失せ、その行方はいまだに杳として知れません。これこそが、神の真意を忠実に守った結果と考えられないでしょうか?では彼らはどこに向かったのでしょう?これまでに、幾つかの議論がなされていますが、その解明はまた別の機会に譲ることとします。

         ―『旧約聖書』創世記の謎を解く その5に続く―

『旧約聖書』創世記の謎を解く その3


カインとアベルの物語の内容は大略以下の通りです。
カインは地の産物を神への供え物として捧げます。弟のアベルも同様に供え物を持ってくるのですが、神はカインの供え物を無視し、アベルの供え物だけを顧みます。せっかくの気持ちをないがしろにされたカインは、憤って顔を伏せました。(そんな扱いを受けたら憤るのも当然ですね)

これに対する神の言葉は、誰も理解できない不可解なものです。神はカインの態度をあれこれ問い詰めて、自分が正しいなら顔を上げろと言います。次の場面で、カインはアベルを野原に誘い出し、殴り殺します。

そこで再び神が登場。アベルはどこにいるのですか、とカインに問います。カインは知らないと答え、それに対して神は、「弟の血の声が土の中から叫んでいる、今あなたは呪われて、この土地から離れなければなりません」と最後通牒を突きつけます。

この物語にどんな印象を持たれたでしょうか?誰が見ても、神がカインを陥れたとしか思えません。神に陥れられたカインは、地上をさまよう羽目となります。苦しむカインは、わたしを見つける人は誰でもわたしを殴り殺すでしょう、と神に訴えます。神は、カインを殺す者は誰であれ七倍の復讐を受けるとして、カインに印をつけました。一般にカインの印とは殺人者の烙印とされています。

神はカインをとことん陥れておいて、ここで急に彼の側に立つ。不可解極まりない神の態度ですね。以上この物語は、誰が読んでも矛盾だらけで混乱を招きます。

しかし、カインとアベルの物語にはとても深いメッセージが込められています。神は、ヒトを大地から更に離脱させるため、アダムの次にカインを創造しました。ところが、カインは決然とした態度で出離することができません。

神の詰問は、大地から出離できないカインへの苛立ちに満ち満ちているのです。だから、「今あなたは呪われて、この土地を離れなければなりません。この土地が口を開いてあなたの手から弟の血を受けたからです」などと、おぞましい表現になっているのです。

神はカインを大地から出離させるためだけに、アベルを設定しました。このためアベルは、人格も何もない存在として描かれています。そして、アベルはカインに殺され、アベルの血を吸った大地は実におぞましく恐ろしい存在と化し、ようやくカインは大地から出離する契機を得たのです。

ですから、カインの印とは、殺人者の烙印などではなく、ヒトの大地からの離脱を象徴する印だったのです。

創世記の物語は、巨人の話を経て、誰でもご存知のノアの方舟に入っていきます。洪水伝説は、大地とヒトを洪水によって完全に切り離そうとする物語です。ヒトを含む全生物は洪水で一旦死に絶え、方舟から再生しました。ノアの方舟の主題もヒトの大地からの離脱ですが、その中には必然的に死と再生というテーマが含まれています。

その次がノアからの系図で、続いて出てくるのがバベルの塔の物語です。これは人間が高慢となり、天にまで届くような塔を作ったので、神が彼らの言葉を乱し、全地に散らした―という物語のはずですが、どう解釈すればいのでしょう?

バベルの塔はバビロンのジッグラト(聖塔=神殿)をモデルとしています。ジッグラトはシュメールを起源としており、神が降臨しそこで休息するための場所で、ヒトのためのものではありません。その塔を、自分たちの統合の象徴とし、そこに定着しようとするのは、ヒトにとって当然な、しかもささやかな願いで、決して高慢などではなく、処罰の対象にはならないはず。

この物語を何度読み返しても、塔を建てようとしたことが問題になっているとは思えません。どう考えても、彼らが一つの民で、一つの言語であるのが問題となっているように見受けられます。ところで、私たちは日本語で話し合っていますが、それはなぜでしょう?

答えは簡単ですね。私たちは日本の地に生まれ育った日本人で、両親もまわりも皆日本語を使っているから日本語で話し合っているのです。言葉というものは、ヒトが生まれ育った大地に規定されています。言い換えれば言葉は大地に呪縛されています。

大地である神は、ヒトを自分以上の高みに昇らせようと切に願っているのではないでしょうか。けれどもヒトは、神の意志に背いて大地に定着しようとしました。それは、神の意図するところではなかった。そこで神は、彼らの言語を乱して、全地に散らし、町の建設を止めさせ、大地への定着を妨げたのです。ですからバベルの塔は、人々の定着の象徴に他なりません。

ヒトは大地によってヒトになりました。そこからヒトを切り離すのは、神をもってしても絶望的なほどの努力を要するのです。この点を誤解すると、創世記の物語は、まるで意味不明な文字の羅列になってしまうでしょう。

バベルの塔もまた、ヒトの大地からの出離を象徴する物語でした。神はイスラエルの民を大地から切り離します。彼らは大地から切り離された流浪の民となりました。これは神によって決められた定めであり、宿命なのです。ディアスポラ(離散民族)ですね。

創世記において、神は、蛇と土(大地)を呪われる存在とします。神は自らを呪われる者と化してまで、自ら生み出したヒトを、大地すなわち神から出離させようとしているのです。ヤハウェ神が一貫して示す深い絶望感や強烈なジレンマ、矛盾、分裂は、自分の身を引き裂くような思いから発せられたに違いありません。

創世記に示された数々の不可解な記述。それらの隠れた主題は、ヒトの大地からの出離でした。そしてそれは、大地である神自らが望んだことでもあったのです。

          ―『旧約聖書』創世記の謎を解く その4に続く―

『旧約聖書』創世記の謎を解く その2


人類進化と創世記はリンクしましたが、そもそも旧約聖書が書かれたのは、死海を中心とする地方、すなわちアフリカ大地溝帯の北端部(死海地溝帯)に当たります。アファール三角地帯で発した気が、大地溝帯に沿って死海にまで流れ込んでいる、乃至は死海地方の気がアファール三角地帯と同質だとしたら、人類進化と創世記がリンクしても、別に不思議ではないと思えてしまいます。

アファール三角地帯で発祥したヒトは現生人類へと進化を遂げ、約10万年前、大地溝帯に沿って北上、死海周辺に一旦留まって世界に散っていきました。欧州にて進化したネアンデルタール人もこの地に入り、南方へと拡散しています。この事実は何を意味しているのでしょう?そう、彼らは死海地溝帯が発する気に導かれここに集結したのです。そんな馬鹿な、と思われるでしょうが、それを立証できそうな事例が日本にあります。

サシバなどの猛禽類は、秋になって伊那谷から渥美半島へと南下、伊良湖岬に集結して伊勢湾の島々、伊勢神宮上空を渡っていくのですが、このルートは中央構造線の真上に当たっています。彼らは中央構造線が発する気を感知して移動していると見て間違いないでしょう。現生人類やネアンデルタール人の移動は、これら猛禽類の渡りと全く同質なのです。

旧約聖書の時代に下ると、観念の領域は飛躍的に拡大するものの、一方で気を感知する能力はほぼ失われました。しかしこの地方には、なぜか他の地方に比較して多くの預言者が出現しました。それは死海地方が強い気を発する場所だったからです。強い気の発する死海地方で預言者が輩出し、旧約聖書が書かれたのは決して偶然ではなかったのです。

創世記エデンの園は始まりに過ぎません。その後の物語を見ても、時として意味不明な内容が続いています。しかし視点を定めて読み込むと、創世記は、一貫して大地=神とヒトとの関係を描いていると理解できます。しかも、その中心テーマは、ヒトと大地の離反、ヒトの大地からの出離でした。

では、中心テーマがヒトと大地の離反であるという視点に立って、創世記の記述を見ていきましょう。ただ、旧約はJ資料(ヤハウェイスト資料)、P資料(祭司資料)、E資料(エロヒム資料)がつぎはぎになっています。そして、P資料は、J資料と際立った対照を示しています。

P資料は、神を絶対で完璧無比な存在として描こうとしており、従って、ヒトは神から罰を受ける対象になっていますが、一方、J資料の神は人間的で絶望もする存在として描かれています。ここではヤハウェ神を正しく描いた、J資料をベースに見ていきましょう。

まず、J資料における創世記は、第二章四節の―ヤハウェ神が地と天を造ったとき―から始まります。すぐに、これは間違っている、天と地を造ったときではないかと疑問が出るでしょう。しかし大地であるヤハウェ神にとって、天は何ら意味を持ちません。創世記の物語は大地を主題としていますから、地と天を造ったとき―で正しいのです。

そして七日間の万物創造を飛び越して、アダムが創造されます。ヒトはヘブライ語でアーダームであり、土はアーダーマー。ヒトが土すなわち大地(大地の気)から造られたことを、この語呂合わせは示しています。

そこで、アダムとイブの楽園追放をもう一度見ていきましょう。この物語は、エデンの園に獣状態のまま置かれていたヒトの祖先が、大地である神の発する気=林檎の木により、一旦象徴的に死んで、ヒトとして再生した経緯を描いています。それは、神がヒトを大地から出離(=疎外)させようとしていることを意味しており、楽園追放がその序章に当たっているのです。

神は、二人が林檎を食べた後―取って食べてはならないと私がおまえに禁じておいたあの木から食べたので、土はおまえのために呪われる―と厳しい言葉を告げました。土がアダム故に呪われるのは、呪われることで、ヒトが大地から出離する契機になるからです。そして出離には、常に死と再生の過程が用意されています。

しかし、ここでの出離の度合いは不十分でした。そこで、第二の出離が用意されるのです。有名なカインとアベルの物語ですね。

              ―『旧約聖書』創世記の謎を解く その3に続く―

『旧約聖書』創世記の謎を解く その1


人類の発祥から旧約聖書に飛ぶのは、またも唐突だと思われるかもしれません。しかし両者は、深い部分で繋がりがあるのです。

私たちは、ヒトが共通祖先から別れ、遂には文明を持つに至る内的過程をこれまで見てきました。世界で初めての文明はシュメールで起こり、それがイスラエルに接続していきます。シュメールのイスラエルに対する影響は『旧約聖書』のバベルの塔(=シュメールのジッグラト)などに見られるのですが、私見によれば、『創世記』は人類発祥の謎を極めて正確に、但し象徴的に、記述しています。

しかし『創世記』には、より大きな謎も内包されているようです。そこでここからは、人類発祥の謎にリンクしていく『旧約聖書』創世記の謎を追及していきたいと思います。

『旧約聖書』創世記にあるアダムとイブの楽園追放は、自然と予定調和的に生存していたヒトの祖先が、禁断の木の実(善と悪の知識の木の、木の実)を食べたことにより知識を得てヒトに分化した過程を、象徴的にではありますが、極めて正確に描いています。

そして原罪とは、アダムとイブが最初に犯した罪などではなく、ヒトが予定調和的な生き方から離れ、自分の中に心的領域を形成し、環界を改変せざるを得なくなった事情を指しているのです。

ここで、楽園追放の核心部分を見ていきましょう。この物語において、神はアダムに対し、禁断の木の実を食べると必ず死ぬ―と話しましたが、蛇は、死なない―と神の言葉を否定しました。そして二人が食べた結果、神の言葉に反して二人とも死にませんでした。最初から相互矛盾を引き起こす記述で誰もが混乱するのですが、蛇が正しく神が間違っていたのはなぜでしょう?

酔石亭主の答えは次の通りです。ヒトは獣からヒトとなって対象物を客体として認識できるようになり、初めて死の観念を獲得しました。己が死すべき存在であることを、他者の死を通して客観的に悟ったのです。神がアダムに対し、禁断の木の実を食べると死ぬ―と言ったのは、ヒトが、自分は死すべき存在であることを知る、という意味であり、蛇が、死なない―と否定したのは、食べたからといって肉体が死ぬことはない、という意味でした。

では次の疑問です。禁断の木の実とは一般的に、『禁断の林檎』とされていますが、なぜ林檎なのでしょう? 林檎には何か特別な意味でもあるのでしょうか?この疑問には漢字を分析することで答えに迫ってみたいと思います。

まず『禁』ですが、『林』はエデンの園に植えられた二本の木、『命の木』と『善と悪の知識の木』を表しています。『示』は、物を載せて神に供える台を描いた象形文字であることから、神を表しています。それは、神、祠、祀、祇、禊、祚などのように、示を偏にしている字の多くが、神と関係していることからも裏付けられるでしょう。

ですから、禁という文字は、神がアダムとイブに、『命の木』と『善と悪の知識の木』を『示』したことを意味しています。次にこれを字音で見ていきましょう。禁の字音はキンで、この音の表す意味は『擒』であり、引き止める、捕らえる――の意です。字音から見たキンは、獣を引き止めることを意味します。

そこで『林檎』ですが、まず『林』は神が植えた二本の木です。次に『檎』の文字は、二本の木のどちらかを特定しています。もう、どちらの木かわかりますね。『檎』には―とても不思議な符合ですが―獣を意味する禽が含まれています。ここから『林檎』の生る木とは、獣(禽)状態に引き止められていた―つまり自然と予定調和的存在であった―二人に対して、神が取って食べることを禁(禽)じた木、すなわち『善と悪の知識の木』であった、と了解されるのです。

二人は予定調和的な獣としてエデンの園に引き止められていました。でもそれは、神の望むところではありませんでした。神は、エデンの園=環界に、予定調和的に引き止められていた獣状態のアダムとイブに対し、林檎、すなわち獣とヒトを分かつものの象徴、を示し、ヒトへと導きました。神が示した林檎によって、予定調和的存在であった獣は、己が獣であるということを知ったのです。

上記の説明に、また混乱されたかもしれません。二人に林檎を食べるようそそのかしたのは蛇であり、神ではありません。この問題を何とかクリアするには、神と蛇は同体であるとするしかないでしょう。

では、その視点から検討を進めます。大地である神はヤハウェ神(Yahaweh)です。そこで酔石亭主は辞書を使ってヤの文字を調べてみました。案の定、ヤ(也)は蛇の形を示す象形文字でした。神は、エデンの園において蛇に姿を変え、アダムとイブをそそのかし林檎を食べさせたのです。

日本でもヤは蛇であり神です。例えばヤマタノオロチですね。九州地方では、蛇のことをヤアタ・ロという。また、イエス・キリストのことを耶蘇(やそ)という。耶=神であり、蘇=よみがえる、だからイエスは正しく蘇った神となります。

日本の『古事記』においても、神は蛇であり、また矢として描かれています。例えば三輪山の神大物主は、蛇であり丹塗矢でもあります。同様に、イスラエルの神ヤハウェはヤ(蛇)であり矢なのです。

神は蛇であり、また大地でもあります。大地の(地)とは、角川の字源辞典によれば、字形が意味を表す(土)と、音を表す(也)とからなる形声文字でした。そこで(地)の字義は、蛇のようにうねうねしている大地の意です。これらから、神は大地であり、蛇であると断定できるでしょう。つまりこの三者は、三位一体と考えられます。

創世記によれば、土に神が息を吹き込んでヒトが創造されました。人類の発祥は大地の発する気によるものでした。今までの説明から、神の息とは大地の発する気を意味しているとすんなりご理解いただけますね。ここで人類進化の謎と『旧約聖書』創世記が完全にリンクしました。

大地すなわち神の発する気により、ヒトは共通祖先から分かれました。こうしてヒトは、大地溝帯の大地に発祥しました。『旧約聖書』創世記エデンの園の物語は、人類発祥の真相を、象徴的にではありますが、極めて正確に描写していたのです。

なお、誤解がないようにするため申し添えますが、本記事に特定の宗教をお勧めするような意図は一切ありません。酔石亭主の観点によれば、宗教はヒトが共通祖先から分化し、ヒトとなり、その内部に観念の領域を持った瞬間に発生しました。

例えばピクリとも動かない悲惨な状態の死者を見て、見る側のヒトの内部に、死んだ後はとても悪い世界だという観念の領域が生じます。それが地獄です。安らかで幸せそうな状態の死者を見て、死んだ後はとても良い世界だとの観念の領域が生じます。それが天国です。牙も走力も翼もない非力なヒトにとって、生き延びることはあまりに過酷でした。そんな状況から救い出してくれる強力な存在を求めたとき、神に関する観念の領域が生じます。このようにして生じた様々な観念が統合されて、私たちヒトは宗教を持つようになったのです。

逆に言えば、ヒトが共通祖先から分化しなければ、そのような観念の領域は存在できず、神もあの世も存在しなくなるのです。ですから、ヒトを共通祖先から分化させた大地を、本記事では神として記述している訳です。

         ―『旧約聖書』創世記の謎を解く その2に続く―
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