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日本に秘められた謎を解く その5


秦氏の思想はほぼ明らかになりましたが、彼らの行動もまた謎めいています。そこで、今回から数回にわたって、秦氏の活動のどの部分に謎があるのかを見ていきたいと思います。

秦氏は新羅系の渡来人という意見があります。今までの検証から、彼らが新羅の民でないことは明らかですが、ではなぜ新羅系という説が出たのでしょう?それは、秦氏が新羅を経由して日本に渡来したからだと考えられます。秦氏は利用できるものは何でも自分の中に取り込んでしまう一族です。新羅にいる間に、この地の様々な要素を取り込んだことは想像に難くありません。

そのせいか、日本神話の最重要人物(=神)たちが、揃いも揃って新羅の系統に繋がっているように思えます。例えば、皇祖神アマテラス。この神は現在の天皇の祖先神とされ、弟のスサノオが問題を起こしたとき、天の石屋戸に入ったとされます。

石屋戸は通常の理解では古墳と思われますが、日本の古墳は入り口が封印され、引き戸形式にはなっていません。引き戸になっているのは、朝鮮半島にある統一新羅時代の古墳のはずです。またアマテラスを祀る伊勢神宮は秦氏の影響を受けていますが、これは既に書いているのでご存知ですね。

アマテラスの弟であるスサノオは、言うまでもなく新羅から渡来した神です。スサノオと秦氏の関係も既に検証済です。以上から、日本の最も重要な神々は新羅から渡来したと考えられるのです。

しかも、新羅の王子天之日矛の子孫が神功皇后で、皇后の子供が応神天皇でした。また皇后は、しばしば丹生都姫や卑弥呼に比定され、卑弥呼はアマテラスに比定されています。応神天皇に至っては、秦氏の大王という説もあるほどです。秦氏が新羅経由渡来したから、日本古代史は新羅の影響が強いということになりそうです。

そもそも日本初の歴史書とされる『古事記』自体、新羅よりの記述が多く、大和岩雄氏は『古事記と天武天皇の謎』(ロッコウブックス)において、『古事記』には秦氏の関与があるとしています。『古事記』の編纂を命じた天武天皇も親新羅の天皇で、聖徳太子同様謎の多い人物とされます。

『古事記』に秦氏の関与があり、その『古事記』の編纂を命じ、伊勢神宮のアマテラスを皇祖神化したのが天武天皇でした。だとすれば、当然天皇と秦氏の間には接点があったはずです。ではここで天武天皇の事績を見ていきましょう。以下Wikipediaより引用します。

即位後は飛鳥浄御原令の制定を命じ(天武10年(681年)2月)、律令国家の確立を目指す。
天皇の宗教的権威も高められた。伊勢神宮の祭祀が重視され広瀬・竜田祭が国家事業として行われた。斎宮が制度化されたのも天武朝の時代であると言われている。またこの頃から新嘗祭と大嘗祭の区別などがされ、現在にまで継承されている。仏教に対しても大官大寺等の造営が進められるとともに僧尼の統制が強化された。
天皇自身、占星を得意としたのに加え、当時陰陽道などが律令国家である唐や新羅で盛んに行われたのが影響もしてか占星台や陰陽寮も設置させている。


天武天皇は天皇制が制度として確立してからの、実質的初代天皇と言っても過言ではありません。天皇は壬申の乱で大友皇子を破り、律令制度を始めとして国家の支配・管理体制を整備していきます。これにより、天皇の権威は絶対的且つ普遍的なものとなっていきました。

天武天皇は、氏族政治から中央集権政治への転換を果敢に断行。この制度を組織的に支えるため、官僚制度を整備しました。次に、陰陽道を司る陰陽寮や占星台を設置します。陰陽寮という組織は朝廷直属の中務省の下にありました。そして天皇自身天文・遁甲・陰陽五行を自在に操ったとされます。天皇はまた『記紀』の編纂に着手し、伊勢神宮社殿の建築を始めとする神社建築を推進、神祇制度を制定強化しています。

いかがでしょう?ここまで見てきて疑問が湧きませんか?天武天皇が諸施策を実行に移したのは、天皇絶対制を確立するためです。それだけなら体制の整備だけで十分なはず。ところが天皇は官僚をコントロールするため陰陽道を取り入れ、『古事記』も陰陽五行思想の影響下に置きました。また伊勢神宮にも同様の措置を取り、女神アマテラスを皇祖神化しています。

『古事記』の場合、序の部分は陰陽五行思想の影響を色濃く受けています。序第一段には、混沌とした状態が、天地分かれ、陰陽ここに開けた―とあります。序の第二段では、天皇は二気(陰陽の二つの気)の正しきに乗り、五行の序を整え、国を治めた―と書かれています。『古事記』の記述によると、日本国の成り立ちまでもが陰陽五行そのものですね。

日本人の心を象徴する簡素で清浄なお宮とされる伊勢神宮は、日本を代表する建築物とされています。ところがです。最も日本的と思われる神域に、実は非日本的思想が深く入り込んでいます。例えば、『伊雑宮』のお田植祭の神事においては、水田に竹が立てられます。約9メートルの青竹に扇型が取り付けられ、『太一』と大書されています。

また、伊勢へ奉納する品々を積んだ船には、『太一御用』の旗が掲げられていました。20年に一度の遷宮における杣始祭(そまはじめまつり)でも、太一の文字の幟(のぼり)が見られるのです。

このように、伊勢神宮ではあらゆる場面で太一が現れます。太一とは、陰陽五行思想における原初の混沌を意味し、これが天地(陰陽)に分かれ、次いで五つの要素に分かれていきます。最も日本的なはずの伊勢神宮に、外国思想である陰陽五行が色濃く取り入れられていたのです。

天皇のこうした行動は不自然に感じられます。記紀の編纂目的が天皇絶対制の確立を内外に示し、天孫の神と豪族の神を系譜化することにあるなら、陰陽五行は必要ないはず。また伊勢神宮にしても、アマテラスを皇祖神化し社殿を建てるだけで意図するところは十分に達せられます。

では、なぜ陰陽五行なのでしょうか?また、天皇絶対制を支える目的で官僚制度を作ったのに、どうして官僚や貴族をコントロールする陰陽寮などを設置したのでしょう?平安貴族や官僚は、陰陽師のアドバイスなしには自分で何一つ決められませんでした。引っ越しですら、いつ、どの方角にするのか陰陽師と相談していたのです。そのせいか、今でも京都では他地域に比較して方角を気にする人が圧倒的に多いようです。

これは酔石亭主の直感なのですが、陰陽五行の導入や陰陽寮設置は、別の目的を持った裏の策と思われます。しかも、記紀や皇祖神を祀る伊勢神宮まで、これでがんじがらめになっているのです。がんじがらめになっている、という雰囲気を作ったのが天武天皇だとすれば、表面の支配体制の裏側に、極めて異質な体制が整えられていると考えられます。まるで二重仕掛けの装置のようですね。

天武天皇が構築した二重仕掛けの体制。これにはどんな意味があるのでしょう?一般的に言って、疑問や矛盾点のあるところには、必ず裏の目的が隠されています。天武天皇の背後に秦氏の影がちらついている以上、二重仕掛けの体制に秦氏の関与も想定されます。秦氏は何を目的として天武天皇を操ったのか?これを探っていく前に、秦氏の実体を様々な側面から検討していく必要があるでしょう。

話は急に変わります。実は秦川勝の没地について、腑に落ちない点が一つあったのです。彼の没地が播磨国の坂越であることは既に書いていますが、なぜ川勝が坂越を終焉の地としたのか、説明がつきません。猿田彦の一族が誘ったから、という考えも成り立ちますが、川勝ほどの人物なら自分の死地は必ず意味のある場所を選ぶはず。ということで、この問題に関してあれこれ考えてみました。

まず川勝が坂越に至る手段を見てみましょう。彼は「うつぼ舟」に乗って坂越の地に着いたとされます。うつぼとは、瓢箪のように中がうつろになったものを意味します。うつぼ舟とは、他界から来てこの世の姿になるまでの間、何かの中に入っていることを意味し、死と再生を象徴するものでもあったのです。そして秦川勝は、死と再生を司る一族秦氏の日本における代表的人物です。

だとすれば、坂越には死と再生を象徴するものがあり、それを求めて川勝はこの地に至ったと推定できます。そこまで考えると答えが出ました。川勝の墓は、彼を祀る大避神社の正面に浮かぶ生島にあります。生島は神社の神域となっており、島の形は大避神社側から見ると、まぎれもなく瓢箪型だったのです。

これこそが川勝が死地を坂越に選んだ理由に相違ありません。『歴史に秘められた謎を解く その9』において、秦氏=豊=匏=瓢箪=巨丹=方舟=聖櫃で、それらは全て死と再生の象徴であると書きました。ロジックの筋は一応通していますが、やや強引に結びつけてしまったという感触は今も残っています。しかし、川勝の没地から判断すれば、上記の考え方に間違いはなかったとも思えてきます。

そう、秦川勝は瓢箪の中に入って死ぬことで、いつの日か再生できるとの確信を持ち、この地を選んだのです。

            ―日本に秘められた謎を解く その6に続く―

日本に秘められた謎を解く その4


でもなぜ秦氏は、空海を未来への鍵として選んだのでしょう?同時代の偉大な宗教家としては天台密教の最澄がいます。彼でも良かったのではないでしょうか?この疑問について少し考えてみたいと思います。

秦氏が空海を選んだ理由。それは空海の持つ特殊な能力にあったと考えられます。空海は
大地が発する気を読み取る能力を持っていました。だから活動領域は中央構造線に沿っていたのです。また空海は大地を錫杖で打ち、清水を湧き出させました。各地に弘法清水があるのはご存知ですね。それらは空海の能力の一端を示すものです。

次にイエスと空海の共通点を見ていきましょう。まず、イエスが生誕したのは大地溝帯の北端部ベツレヘムで、空海が生誕したのは中央構造線が走る四国の讃岐です。両者の生誕場所に構造的な類似性があり、その結果、二人とも大地の気=神の力、を受けて特殊能力を得たと推測されます。

空海は24歳から31歳までの間消息が途絶えます。イエスは19歳で大工になってから30歳まで行方不明となりました。期間は別として、この点にも共通性があります。

イエスは行方不明とされる間、インドからチベット方面に行き、伝道や仏教の勉強に携わったという説があります。19世紀ロシアの探検家、ニコラス・ノトビッチは、チベットの僧院で彼の足取りを記す古文書を見つけます。ヒミス寺院のキリスト古文書には、チベットやインドにおけるイエスの伝道記録が記されていたのです。イエスはインドやチベットで伝道してからイスラエルに戻ったとの推測も成り立ちそうです。イスラエル各地で伝道して後、イエスははりつけになったのですが、ミトラの秘儀により蘇ったと想像します。

蘇った後のイエスは、使徒トマスとともに再び東に向かいます。イスラエルは安全ではないから当然ですね。トマスはインドに到達した後、死を迎えます。トマスの死後、イエスは中国に向かいました。これらは推測(妄想に近い推測です(^_^;))ではありますが、少なくとも、紀元後すぐに原始キリスト教が中国にまで到達しているのは確かなことです。一般的には紀元60年代とされています。

ここで日本に目を転じましょう。与佐がヨシュアであるのはご存知ですね、イエスはヨシュアのギリシャ語読み。彼が日本に到来したとして、当時の天皇は垂仁天皇です。アマテラスが元伊勢の与佐宮に向かったのは、ちょうどこの頃。一体アマテラスは何をしに、与佐まで向かったのでしょう。アマテラスはイエスを出迎えに与佐へ向かった、そう空想したくなってきます。イエス・アマテラス同体説は、秦氏がミトラ神を媒介として担った象徴的なもののはずですが、具体性も出てきそうな雲行きになりました。

話はまた飛ぶのですが、福岡県朝倉市(2006年甘木市と朝倉郡が合併)に麻氐良布(まてらふ)神社という奇妙な名前の神社があります。周辺には多くの古代遺跡が存在し、邪馬台国はこの地にあったのではないか、と言う説さえあります。

神社の名前から(まてらふ)はアマテラスのことだ、あるいはマテラ=マタラ=摩多羅神だとの2説があるのですが、酔石亭主の視点からはその両方を意味することになります。アマテラスが摩多羅神であれば、それはミトラ神に繋がり、ミトラ神はイエスと繋がってしまうからです。

空海が『三教指帰』を著した秦楽寺は、聖徳太子のブレーンである秦河勝の創建であり、またアマテラスが宮中を出て最初に巡行した場所が笠縫邑なのですが、寺の中にはアマテラスを祭る笠縫の名がついた神社があって、この一帯を笠縫邑とする伝承まであります。

イエスは大工の子で、聖徳太子信仰と弘法大師信仰を担う中心は大工を始めとした各種技能・職人集団です。しかも、大工などによって信仰を支えられた聖徳太子は厩戸皇子であり、イエスは馬小屋で生誕しました。イエスは神の声を聞き、伝道を開始しました。空海は高野山から立ち昇る気(=神の声)を感知し、ここを真言密教の総本山としました。

キリスト教はミトラ教と結びついて勢力を得ました。ミトラ神はインドに入って弥勒菩薩に変容します。イエスは、ミトラ神の死と再生の秘儀を受け継ぎ、はりつけになった後、蘇りました。空海は、弥勒菩薩すなわちミトラ神とともに下生すると弟子に告げ、入定しました。

以上より、空海とイエスは、太陽神ミトラ(=弥勒菩薩)を媒介として極めて近似した存在であると断定できるでしょう。そして、イエス、アマテラス、秦氏、聖徳太子、空海が一本の糸で結ばれてしまいました。

要するに空海は、大地の発する気=神の声を聞く能力があり、秦氏からしてみればイエスに擬せられる必然性がありました。だからこそ秦氏は空海を重要視し、未来への鍵を託したのです。空海に託された鍵は開かれ、秦氏の思想は空海を通して明らかになりました。しかし、これで秦氏の謎が解かれた訳ではありません。日本に封印された巨大な謎を解く旅は、まだまだ続きます。

        ―日本に秘められた謎を解く その5に続く―

日本に秘められた謎を解く その3


空海の日本における活動領域は、なぜか中央構造線に沿った地域が多いとされます。そして中央構造線沿いには水銀鉱山、丹生族、虚空蔵尊などが多く分布し、空海の関与も見られます。二、三例を挙げてみましょう。(以前の記事に書いた内容も含まれます)

渥美半島から伊勢湾を横切った中央構造線は、三重県の神前岬(こうざきみさき)に上陸します。続いて、伊勢の外宮、内宮の間を抜け、櫛田川に沿って西に向かい、紀ノ川沿いに紀伊水道へ出て、四国に入ります。

空海は、伊勢神宮の鬼門を鎮護する朝熊岳―この直下を中央構造線が走る―の金剛證寺で『虚空蔵求聞持法』を修行しました。また櫛田川沿いにある丹生大師は、宝亀5年(774年)、空海の師である勤操大徳によって創建されています。唐から帰国した空海は諸国を巡拝、丹生大師にも立ち寄り、弘仁6年(815)七堂伽藍を完成させました。ここからは、奈良時代の和銅年間(8世紀初頭)に、水銀が発見されています。そして高野山は、空海が水銀の女王である丹生都姫から譲られた地で、奥の院は丹砂を産するそうです。

紀伊半島に続く四国は空海の生誕地ですが、四国八十八ヶ所の中で、別格七番、八~十三番、四十六~四十七番、六十~六十七番は中央構造線上の銅山や鉱山に沿っています。また二十~二十一番、四十一~四十二番は水銀鉱山の近くにあるのです。

ここまでは既によく知られたことで特に問題はないのですが、空海の思想を考えていくと、なぜか本質的な矛盾に突き当たります。例えば、真言密教の根本は即身成仏にあります。即身成仏とは、厳しい修行により生身の体のままで悟りを得て、大日如来と一体化することを意味しています。つまり、空海の思想の中心には大日如来があるのです。

一方で空海は、即身成仏とは正反対の、他力思想的な弥勒信仰を重視しているようにも見受けられます。空海の「御遺告」には、自分の死後、兜率天に往生して、五十六億七千万年の後、弥勒とともに下生する―と記されているのです。

「御遺告」は後世の改ざんだとの説もあるのですが、空海の中に弥勒信仰があるのは間違いありません。すると妙なことになってしまいます。厳しい修行による即身成仏(=大日如来との一体化)と、衆生救済の弥勒信仰とは、水と油の整合するはずのない思想だからです。水と油の二つの思想は、空海の中でどう整理されているのでしょう。ここに大きな疑問があります。

また空海は、何度も書きましたように『虚空蔵求聞持法』をも重視していました。この法は、記憶術や不老不死薬を作る錬金術に特徴があります。

つまり、空海の中には大日如来、弥勒信仰、虚空蔵信仰とおよそ異なる思想・考え方が同居しているのです。

上記の三者は、空海の中でどのように位置付けられているのでしょうか?空海が奉ずる真言密教の中核は大日如来。一方弥勒信仰や虚空蔵信仰は、基本的には秦氏の思想です。空海の背後には秦氏の存在があるから、弥勒信仰と虚空蔵信仰が入り込んでいるとも言えるのですが、それだけでは説明がつきません。空海ほどの人物なら、自分の考えに整合しない思想を、たとえ相手が秦氏と言え重視するはずがないからです。

ではどう説明を付ければいいのでしょう。空海にとって、大日如来は宇宙全体を包含する真理であり、それ以上のものはないはずです。逆に空海が弥勒と虚空蔵を重要視すると言うなら、両者は大日如来を凌ぐ存在でなければなりません。そこで、空海にとって弥勒と虚空蔵は大日如来以上に重要であった、という観点から議論を進めていきましょう。まず検討したいのは、『虚空蔵求聞持法』についてです。

虚空蔵は、秦氏にとって極めて重要な思想である点に十分留意ください。それは、秦王国のあった豊前最古の寺が虚空蔵寺であったこと、『虚空蔵求聞持法』を担ったのが秦氏系の勤操、護命、道昌であることからも窺えます。

さて空海が著した『三教指帰(さんごうしいき)』によれば、延暦11年(792年)19才のとき、彼は一人の沙門から『虚空蔵求聞持法』を伝授されました。この法を学ぶことで、空海の人生は一定方向に自己展開を始めるのです。この地点が、空海にとって全ての出発点と言っていいでしょう。これ一つ取っても、虚空蔵が空海にとっていかに重要だったか理解できますね。

そこで、『虚空蔵求聞持法』の内容を見ていきましょう。この法は二つの大きな特徴を持っています。虚空蔵菩薩の真言を百万回唱えて集中力・記憶力を高め、広大無辺の福徳・智慧を授かる秘法と、雲母や牛酥(ぎゅうそ=牛の乳を精錬した飲料、酒で、牛蘇でもある)を用いた不老不死薬を作る錬金術です。

彼は『虚空蔵求聞持法』を体得するため、必死になって四国をさまよいました。また秦氏の秦楽寺で修行し、『三教指帰』を著し、高野山では、死と再生を象徴する水銀の丹生族とも交流します。

ちなみに、伊豆の温泉地として有名な修善寺は空海が創建しています。当時は周辺の地名が桂谷であったことから、桂谷山寺と言われたそうです。修善寺が創建された場所は桂谷で、流れる川は桂川、何と嵐山もあります。空海の行く先々には秦氏に関連するキーワードが出現しており、空海と秦氏の密着ぶりが窺えます。

さて、空海が唐語やサンスクリット語を理解し、唐の青龍寺で恵果から真言密教の秘伝を短期間に伝授されるには、『虚空蔵求聞持法』による記憶力の増進が不可欠でした。彼が長安に入ってから、僅か五ヶ月の間に、般若三蔵や牟尼室利(むにしり)からサンスクリット語を学び、マスターしたのは、この法を学んだ当然の帰結と見做すべきですね。

またそれが真言密教の奥義を究め、高野山を開山することにまで繋がっていくのです。空海が自分の人生を方向付け、豊な実を結ばせるためには―でも実は、それこそが秦氏の目的であったのですが―『虚空蔵求聞持法』をマスターすることが必須条件だったのです。

空海関連の書籍によると、『虚空蔵求聞持法』を授けたのは一人の沙門=秦氏の勤操(ごんぞう)だとする説があります。しかし僧侶にも二種類あります。自分で出家した私度僧と官許の僧です。沙門とは官からの許可を得ることなく自分で勝手に出家した僧を指します。

一方勤操はどんな立場の僧だったのでしょう?彼は奈良仏教の長老で、秦氏系の寺である大安寺の高僧です。とすれば、私度僧ではありません。勤操は空海が勤操から教えを受けたなら、勤操と書くべきだし、そうできない事情でもあれば、ある高僧とでもすべきです。ではこの問題を、どう考えればいいのでしょう?

この問題を矛盾のない形で再構成するには、勤操は表の秦氏であり、一人の沙門とは裏の秦氏であった、としたらいいのです。裏の秦氏である一人の沙門は、彼らの真の思想を体現した人物だったと推定されます。

一人の沙門は、この法が持つ真の意味を隠す必要がありました。それが平安期に明かされたとしても、誰も意味を理解できず、時代が早すぎると思ったのでしょう。沙門は、後世になり私たちが宇宙の姿をより詳しく知るまで待つつもりだったのかもしれません。またこの沙門は、自分の名や存在が表に出ることを極端に嫌ったはず。故に、空海に『虚空蔵求聞持法』を授けた人物は、自分の名を秘するよう空海に強く要請したのでしょう。

従ってこの人物は、空海の人生において一大転機となる存在であるにも拘わらず、一人の沙門とのみ記されたと推測されます。

現代の私たちは、宇宙の姿について平安期の人々より詳しく知っています。つまり秦氏の思想を理解できる段階に至っているのです。ということで、虚空蔵の本質に、言い換えれば秦氏の思想の中核に迫ってみましょう。

まず、『虚空蔵求聞持法』とはどんな思想だと思いますか?ヒントはもう出しています。虚空蔵とは、虚空すなわち虚無であり、蔵は蔵する保存するということです。

この法が持つ二つの特性は現代科学の知見に合致しています。ビッグバン宇宙論によれば宇宙は収縮と膨張を繰り返します。旧宇宙が収縮し消滅した後、ビッグバンによって新たな宇宙が開闢します。その際、新たな宇宙が自己展開するための設計図が必要となるはずですね。

旧宇宙の設計図すなわちデータは超空間に保存され、新たな宇宙の開闢と同時に起動します。虚空蔵とは、虚無なる宇宙空間に森羅万象のデータを保存する特殊な場。『虚空蔵求聞持法』の最も重要な本質とは、単なる記憶力増進法や、錬金術ではありません。その本質は、データを保存した特殊な場=虚空蔵にアクセスできる技術にあったのです。

虚空蔵こそが末来の記憶を保持する特殊な場でした。この秘法を学ぶことの真の意味は、世界の実相を悟ること。それは宇宙の輪廻転生、死と再生であり、これが『虚空蔵求聞持法』によって人間界に置き換えられると、不老不死薬の調整法の形を取るのです。またデータを保持するシステムを人に置き換えると、記憶力増進の秘法となります。


つまり空海は、『虚空蔵求聞持法』の表面部分について究極まで極めましたが、その奥の本質部分にまでは至っていなかったのです。秦氏にとって、空海がこの法の表面部分を知ることは、自分たちの目的を達成するために非常に重要でした。けれど、法の裏に隠された真の意味は、この時点では空海に悟られないようにする必要があったのです。次に秦氏の弥勒信仰を見ていきましょう。

注:秦氏の弥勒信仰と虚空蔵信仰に関する基本事項は、大和岩雄氏の『日本にあった朝鮮王国』(白水社)に詳しく記載されています。氏は秦氏研究の第一人者で、秦氏に関する基礎的な部分を学ぶには同氏の書籍を参考としてください。

密教思想と弥勒信仰は既に書いたように水と油の関係にあり、この相互に矛盾するものが、空海の中に同居しています。では、両者を統合する視点はどこにあるのでしょうか?

宇宙の設計図を保存する場が虚空蔵だと書きました。でもそれが保存されているだけでは、新たな宇宙として起動できません。新たな宇宙が起動するには、起動させるための媒介が必要となるはずですね。

その媒介こそが弥勒菩薩だったとは考えられないでしょうか。弥勒菩薩すなわちミトラ神は世界の神々を変容させ、また神々の媒介になる神だと以前に書きましたが、その本質はここにあったのです。

以上で大日如来、虚空蔵、弥勒菩薩の関係が明らかになります。空海の大日如来が宇宙を遍く照らし、万物の根源となるには、虚空蔵に蔵された記憶と、それを顕現させる媒介としての弥勒菩薩が必要だったのです。弥勒菩薩は、新たな宇宙の自己展開を解発する誘因(リリーサー=解発因子)でした。一方大日如来は、弥勒菩薩の媒介により新たに開闢した宇宙の自己展開であり、宇宙の原理そのものなのです。つまり旧宇宙が閉じ、ビッグバンによって再び開闢し、虚空に保持されていたデータが再起動して始まる再生宇宙の全過程は、虚空蔵、弥勒菩薩、大日如来の三者によって顕現していたのです。

言い換えれば、虚空蔵と弥勒がなければ、空海が奉じる真言密教の教主大日如来は存在できないのです。これで、空海にとって虚空蔵と弥勒が大日如来よりも重要だったことを証明できました。


なぜ空海は、死の直前になって、弥勒菩薩とともに下生する、と言ったのでしょう? そこに答えがあります。空海は即身成仏により、大日如来と一体になりました。もし大日如来が宇宙の究極の原理なら、大日如来と一体化した空海が弥勒菩薩とともに下生する必要はないのです。

それを弥勒菩薩とともに下生すると言ったのは……、空海=大日如来は媒介である弥勒菩薩なしには存在できないからなのです。そして、開闢後の宇宙において、宇宙の原理である大日如来から顕現し、流出したものが、我々のいる現象世界ということです。

空海は死の間際に、虚空蔵と弥勒の本質を秦氏から聞かされたのだと想像します。しかしその詳細を書き遺すことはできず、ここに重大な矛盾が生じました。秦氏は、後代の私たちが空海の矛盾する部分を検討することで、彼らの思想を解き明かせるように仕向けたのです。空海はその手駒に過ぎなかったとも言えるでしょう。

以上、空海における虚空蔵、弥勒菩薩、大日如来の三者が、秦氏を介在させることにより、矛盾することなく整合しました。

どうやら空海と秦氏の謎が、宇宙開闢の謎すなわち第一の世界が開けた特異点にリンクし始めたようです。全宇宙を包含する秦氏の思想は圧倒的な高さと広がりを持っていました。秦氏が持つ壮大な宇宙論。それは、空海の思想を遥かに凌駕するものだったのです。

          ―日本に秘められた謎を解く その4に続く―

日本に秘められた謎を解く その2


秦氏に関して知っている人はそれほど多くないでしょうが、空海の名前なら誰でも知っているはずです。空海は超人空海と形容されるほどの人物で、日本史上にも異彩を放っており、また一方で謎の多い人物とされています。それは同時代の最澄と比較すれば一目瞭然でしょう。

秦氏が背後に控える聖徳太子もまた、有名ではありますがその実在性が議論になるほどの謎に満ちた人物です。聖徳太子信仰は空海の弘法大師信仰へと流れ込み、秦氏系の様々な技能集団によって担われてきました。

聖徳太子と空海は誰でも知っている。しかし秦氏について知る人は少ない。この背後には、間違いなく何らかの事情があるものと考えられます。

空海の人となりについては、既に様々な論考が出されています。読みやすいのは司馬遼太郎氏の『空海の風景』で、専門性が高いのは渡辺照宏氏と宮坂宥勝氏共著の『沙門空海』あたりでしょうか。それらの基礎的な内容も踏まえつつ、秦氏が重視する空海とはどのような存在であったのか、酔石亭主独自の視点で考えていきたいと思います。

秦氏は、何事においても裏に廻り、自分の思想的根拠を表に出しません。だから一般には知られていないのですが、そうした彼らの考えや、活動の背景を知るには、秦氏の思想の一部を体現している空海を探る必要があるのです。言い換えれば、空海は秦氏の謎を解くための鍵の一つと考えられます。では、空海のありようを追及しながら、秦氏の実像に迫っていきましょう。

まず空海の活動をざっと概観していきます。彼は、延暦11年(792年)に19歳で、『虚空蔵求聞持法』を一人の沙門(秦氏の勤操という説もあり)から授けられました。この法は空海にとって極めて重要なはずなのに、伝授した人物の名がぼかされています。その裏には、隠された事情があるはずです。ともあれ、ここが彼の人生におけるスタート地点となりました。

その後秦氏の秦楽寺において最初の著作『三教指帰』を著し、以降入唐前までの7年間、行方不明となります。紀伊や四国で修行を積んでいたとの説もありますが、どこで何をしていたのか確認できる資料は一切ありません。そして、延暦23年(804年)31歳で唐に渡り、密教最後の法灯を伝える恵果に、その死の直前という切羽詰ったタイミングで、師事します。ここで空海は、真言密教の真髄を学びました。帰国後は、日本において数々の活動を行い、46歳で高野山の伽藍建立を開始。承和2年(835年)62歳で高野山において入定します。

次に空海の思想を見ていきましょう。空海が恵果から学んだ真言密教は、大日如来が須弥山色界の最上層色究竟天(しきくきょうてん)において『大日経』を説き、金剛宮において『金剛頂経』を説き、それが印度から唐へと伝えられたものでした。

ところが空海の時代、印度、唐において『大日経』、『金剛頂経』の両部を兼ね備えていたのは、恵果ただ一人だけ。このような時代背景において、空海は唐の青龍寺で恵果に師事し、密教は印度から中国を経て日本に流れ込んだのです。

真言密教では、宇宙の根本原理を大日如来として表現し、大日如来が陰と陽に分かれたものを、大日経系(胎蔵界=物質の原理を説く=理)と金剛頂経系(金剛界=精神の原理を説く=智)の二つに配当しました。この二つは相反する原理であり、これを統一するのが行者になります。大日如来=宇宙の原理には身、口、意の働き、すなわち三密があり、人間の活動機能も同様に、身、口、意の三業に分けられます。

行者は行法により、自身の三業を宇宙の三密と一体化します。それが可能なのは、人間のありようが、宇宙のありようと同じだからです。もし人と宇宙とのありようが同じでなければ、人は一瞬たりとも生きてはいけない。真言密教の真髄とは、大日如来=宇宙の原理と人の原理の一体化を体得する実践法だったのです。

空海の世界観にあっては、この宇宙も人も、大日如来がある形を取って顕現したものです。従い、世界のありようも、人のありようも皆同じです。しかし現象世界に顕現する際に、その現れ方には差異があるので、同じ人間でも、酔石亭主とこれを読まれている皆さんは別の人格、別の考えを持っているのです。

従って、個々の差異性を克服すれば、自分自身の根源である大日如来すなわち宇宙の原理と、己を一体化できる。このシステムこそが、空海が完成した真言密教に他なりません。これを空海の言葉を借りれば即身成仏というのです。空海が凄いのは、この宇宙の真理を表す体系の理解と、それを己の身で実現するための実践論があることでしょう。千年以上も前に宇宙の原理を悟った空海の智恵は、恐るべきものであったのです。

空海の真言密教は、思想と実践が結びついた壮大な体系であるものの、それ自体に矛盾した部分はなさそうです。しかし、空海が帰国した時点で、インド、中国に密教の両部を知る者は存在しなかったとは、話ができすぎているようにも感じられます。また遠い異国の地で空海はどのようにして真言密教を学んだのでしょう?

空海が秦氏から伝授された『虚空蔵求聞持法』の特徴の一つは記憶力の増進法です。仮に空海が、『虚空蔵求聞持法』を伝授されていなかったら、恵果の唐語やサンスクリット語はまるで通じません。真言密教の体系を瞬時に学び取り、記憶し、自分のものとするなど不可能となるのです。

またその資格も資金もないのに、遣唐使船に乗り得たこと。この遣唐使船は総勢4船でしたが、最澄と空海が乗り込んだ二船のみが無事唐に辿り着いていること。加えて、密教の正統を伝承していた唯一の人物である恵果から、彼の死の直前に、その真髄を伝授されたこと。これらが単なる偶然と片付けられるのでしょうか?どれを取っても信じられない程の僥倖です。

空海の幸運には、ある種の必然性があった、というより、全ては事前に仕組まれていたと考えるべきではないでしょうか?言い換えれば、『虚空蔵求聞持法』を学ぶことで空海の人生はある一定方向に自己展開を始めたのです。一種のマインドコントロールと考えてもいいですね。

さて、空海から『虚空蔵求聞持法』を学んだ秦氏系の道昌は山背国法輪寺の開祖で、ここの虚空蔵菩薩は日本三大虚空蔵の一つとして、漆器業や工芸職人の守護仏になっています。虚空蔵信仰は鍛冶・鋳造に結びつき、山岳信仰や弥勒信仰などとも合流していくのです。道昌はこの寺の名を、聖徳太子追善のため大和国斑鳩に建てられた法輪寺から借りました。
これらは何を意味するのでしょう?

そう、聖徳太子、空海、聖徳太子信仰、弘法大師信仰、陰陽道、修験道、虚空蔵、鍛治、鋳造や大工が同じ流れの中に収まることを意味します。聖徳太子信仰と弘法大師信仰は同質であり、その裏側にいる者はいずれも秦氏ということです。しかも、聖徳太子信仰の流れを汲む四天王寺、中宮寺、橘寺、広隆寺、法起寺、葛木寺は、法隆寺を除き、本尊を弥勒半跏像としているのです。

秦氏は聖徳太子、弘法大師の双方に、弥勒菩薩(=ミトラ神)信仰と虚空蔵信仰の流れを請け負わせました。その結果、太子と大師の信仰は世に遍く広まった、いや、広まる必要性があったのです。

以上から判断して、秦氏は空海に対して何らかの操作・作為を行ったと考えられます。空海が一人の沙門から『虚空蔵求聞持法』を伝授されたことが、そのまま一直線に、後の彼の人生を決定づけている事実がその証明となるでしょう。しかも彼の死後、弘法大師信仰が遠く現代に至るまで伝えられていくのです。

弘法大師信仰の背後に秦氏の思想が隠れているとすれば、秦氏は随分ややこしい仕掛けを作ったことになります。一般的に言って、仕掛けは何のために作られるのでしょう?それは、後になって意図する結果を出すために作られるはずです。だとすれば、秦氏は後世に何らかの結果が出るような仕掛けを構築したと考えられます。

秦氏の意図はまだ不明なものの、彼らは他ならぬ現在の私たちに、何かを伝えたかったのではないでしょうか?であるなら、ジグゾーパズルのようにバラバラとなっている断片を組み合わせることで、彼らが隠し、かつ伝えようとしている真実に迫れるはずです。

        ―日本に秘められた謎を解く その3に続く―

日本に秘められた謎を解く その1


日本に秘められた謎を解くのは一筋縄ではいきません。まずは、日本にちりばめられた様々な謎を追うことから始めましょう。今日は東大寺のお水取りについて考えてみたいと思います。

以前、スサノオはスサの王と書きましたが、彼の名前には別の見方もあります。ス、シュはいずれもシュメールの崇高な神を意味しますが、スサノオをシュサノオに置き換えたらどうなるでしょう?そう、朱砂王で水銀の王となります。

朱砂は別名辰砂(しんしゃ)とも言います。ちょっと面白いと思いませんか。朱と書いた場合、シュメールとスサノオに関連するように見え、辰とした場合は秦で、秦氏に関連するように見えてしまいます。しかも、巨丹の『丹』は辰砂の赤を意味し、水銀との関連が推測されます。また水銀は不老不死の秘薬である金丹の原料で、既にご存知のように死と再生を象徴する最も重要な金属でした。

一方で水銀は水銀毒という害をもたらします。東大寺大仏の建立には金メッキを施す目的で大量の水銀が使用され、人々はその毒に長く苦しめられたそうです。水銀中毒に関しては以下Wikipediaを参照ください。

古代より錬丹術などで見られるように水銀は永遠の命や美容などで効果があると妄信されており、秦の始皇帝は永遠の命を求め、水銀入りの薬や食べ物を摂取していたことによって逆に命を落としたと言われており、他にも多数の権力者が水銀中毒で死亡したと伝わっている。
奈良の大仏建造の際、作業者の間に原因不明の病気が流行し死者が発生したと記録されているが、これは当時の金メッキが、水銀と金のアマルガム合金を塗布した後に加熱して水銀を蒸散させる工法であったため、作業者が水銀蒸気を吸引したことによる水銀中毒と考えられる。


スサノオ族は疫病を持ち込み殺戮された神と推定されますが、疫病と同質の害を引き起こす水銀の王でもあったのです。

さて、東大寺には有名なお水取りという行事があります。二月堂の修二会は、東大寺を開山した良弁の高弟である実忠により、大仏の開眼供養が催された同年の、天平勝宝4年(752年)から始まりました。お水取りでは、十一面観音に香水(こうずい)または閼伽(あか)と呼ばれるお水を供えます。

この行事で、実忠は神名帳を読み、全国の諸神を勧請したのですが、若狭の遠敷(おにゅう)明神は漁に忙しく遅れてしまいました。この神は、お詫びのしるしに十一面観音にお供えする閼伽水を送ろうと約束。その方法は神通力を発揮し、二月堂の下まで若狭の水を導き、大地をうがって白と黒の二羽の鵜を飛び出させるというものでした。

こうして、神は二つの穴から香水を湧き出させたのです。その場所は若狭井と呼ばれており、東大寺は遠敷明神の功績をたたえ、二月堂横に遠敷神社を祀りました。以上がお水取りの由来です。

この行事は誰でも知っている有名なものですが、その本質は、若狭側の『お水送り』を見ていかないと掴めません。お水送りは奈良東大寺のお水取りに先駆けて、神宮寺と遠敷川(おにゅうがわ)・鵜の瀬で実修されます。

行事は下根来(しもねごり)八幡宮での山八神事から始まります。供物の赤土饅頭をつけた棒で宮役が外陣の柱に山、八と書いて豊作を祈願。夜には、神宮寺本堂の回廊から赤装束の僧が大松明を振りかざす達陀(だったん)の行となります。次に、松明行列が鵜の瀬へ向かい、竹筒からお香水を遠敷川に注ぐ送水神事が行われます。

お水送りの行事は3月2日で、香水は10日で東大寺・二月堂の若狭井に届くから、奈良でのお水取りは3月12日になるのです。ところで、水のことをサンスクリット語で閼伽(あか)と言います。

『あか』から連想されるものといえば、『赤』。赤い色は神社や鳥居の色。それに水銀の原料である辰砂の朱色……。そして東大寺大仏の建立には大量の水銀が必要とされました。東大寺の初代別当良弁は若狭の秦氏とされ、水銀は良弁、実忠のラインで、大仏建立に使用する目的で若狭から運ばれてきたものと推測されます。これらを総合すると、お水取りが持つ裏の意味が次第に浮かび上がってきます。

遠敷川と遠敷明神はいずれも(おにゅう)と読み、小丹生のことです。丹生とは正しく水銀の原料である辰砂を意味しています。つまり、お水送りとお水取りの行事全体の裏には、水銀が隠し込まれていたのです。

お水送りの神事で使われる供物は、(赤土)饅頭です。達陀の行は(赤)装束の僧が行います。神宮寺を建立したのは、(赤)麿とされています。水銀を示す(あか)がさり気なく、行事に組み込まれていると気付かされますね。

水銀には真言密教の空海も関与してきます。空海は辰砂採掘の一族である丹生都姫から高野山を譲ってもらっただけでなく、彼らを資金面のスポンサーにしていました。高野山にしても、空海が巡った四国八十八ヶ所にしても、水銀の産地と直結しているのです。

中央構造線沿いある丹生大師は、774年(宝亀5)光仁天皇の勅願により、空海の師である秦氏の勤操大徳によって開創されていますが、奈良時代の和銅年間、ここで水銀が発見されています。唐から帰国した空海は、この地に七堂伽藍を完成させたそうです。水銀で秦氏、丹生族、空海が絡み合っているとわかります。

丹生族に関しては資料が乏しく実体がよく把握できません。一族の総本社である丹生都比売神社については以下Wikipediaを参照します。

丹生都比売神社(にふつひめじんじゃ/にうつひめじんじゃ)は、和歌山県伊都郡かつらぎ町にある神社である。式内社(名神大社)、紀伊国一宮で、旧社格は官幣大社。現在は神社本庁の別表神社となっている。別称天野大社、天野四所明神。日本全国の丹生都比売神を祀る神社の総本社である。また、高野山と関係の深い神社であり、(以下略)

水銀の神である丹生都姫には、スサノオと胡瓜の関係と同質の話が『紀伊続風土記』や丹生総神主竃門氏の伝承に見られます。紀伊続風土記によると「6月晦日天野神主社人6人を率いてこの瀧に胡瓜を供す是より前胡瓜を食うことなし村中小児其供せし胡瓜食へは疱瘡軽し河虎(かっぽ)の患を免るとて皆是を食ふとそ」とあります。

胡瓜と河童が出てくることから、丹生都姫は水銀の王でもあるスサノオと同族あるいは支族で、その原料になる辰砂採掘担当者だった可能性も指摘できそうです。ただ、『紀伊続風土記』は江戸時代に書かれたもので、内容の信憑性は何とも言えません。

東大寺お水取りの行事で、当時の王権は若狭から水銀を簒奪しました。お水送りの遠敷(おにゅう=小丹生)明神は丹生族で、彼らはスサノオと関係のある一族と推定されます。スサノオが日本において疫神とされたのは、深刻な伝染病を持ち込んでしまったから、としか考えられません。河童、津島神社、東大寺お水取りの全てにその反映が見られます。

死と再生の象徴である水銀には、スサノオ、秦氏、丹生族、空海が係わっていました。空海が死んだのは水銀毒によるものだとの説もあるほどです。

そこで次回は空海について詳しく見ていきましょう。秦氏はあまり表に出ない一族であるため謎に包まれているのですが、その謎を探るには、彼らと親交のあった空海の軌跡と思想を探るのが早道だからです。

           ―日本に秘められた謎を解く その2に続く―
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