東海の秦氏 その10


富幕山から尾根伝いに西に向かうと雨生山(うぶさん)があります。この山からも蛇紋系の水石が産出します。車で301号線を進めば宇利峠に至り、ここから雨生山に入って雨生山石を探石するのですが、探石疲れもあり少し山に入っただけで退散しました。もちろん成果はありません。豊川にかかる野田城大橋を過ぎ、151号線を豊川市に向けて走ります。

地域一帯には秦氏の痕跡が濃厚に残っています。まず「豊」が付く地名としては、豊橋、豊川、豊津、豊島、豊岡、豊沢など。「ほう」は宝飯郡(ほいぐん)、鳳来寺山。
秦の音に関連しては、豊橋の西畑、羽田。文字としては幡豆郡。

この地域一帯には秦、羽田、羽田野・波多野などの姓が多く見られます。ちょっと調べてみると、豊橋市日色野町字西畑には秦園芸というお店まであり、代表者は秦さんでした。今も子孫の方がおられると知り、何だかうれしくなってしまいます。次回愛知に行ったときは、お寄りして水石の添え物でも買いたいと思いました。ちなみに酔石亭主の義理の曾祖母は東三河の羽田家から来ており、多少なりとも縁があると言えます。

151号線を下っていくと、巨大な鳥居が目に入ります。五社稲荷の大鳥居で、社殿は古墳の上に建てられているとのことです

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解説板。

五社稲荷のすぐ先が今回の目的地である菟足神社です。

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鳥居越しの社殿です。

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社殿。さすがに立派な社殿です。

御由緒としては、『「昇格碑文」菟足神社は延喜式内の旧社にして祭神菟上足尼命は孝元天皇の御裔葛城襲津彦命(大和朝廷の名族)四世の御孫にませり。雄略天皇の御世、穂の国造に任けられ給ひて治民の功多かりしかば平井なる柏木浜に宮造して斎ひまつりしを天武の白鳳十五年四月十一日神の御誨のままに秦石勝をして今の処に移し祀らしめ給ひしなり…後略』となります。

白鳳15年は西暦で686年となり、7世紀の終わり近くと言うことです。御由緒に出てくる秦石勝について調べてみると、土佐神社の祭神の項に以下の記述がありました。

『日本書紀』の天武天皇四(675)年三月二日の条に「土左大神、神刀一口を以て、天皇に進る」とあり、また朱鳥元(686)年の八月十三日の条に「秦忌寸石勝を遣わして、幣を土左大神に奉る」とあり、祭神は土左大神とされていますが、『土佐国風土記』逸文には「‥土左の高賀茂の大社あり、其の神のみ名を一言主尊と為す。其のみ祖は詳かならず。一説に日へらく、大穴六道尊のみ子、味鋤高彦根尊なりといへり。」とあり、祭神の変化がみられ、祭神を一言主尊と味鋤高彦根尊としています。この二柱の祭神は、古来より賀茂氏により大和葛城の里にて厚く仰ぎ祀られる神であり、大和の賀茂氏または、その同族が土佐の国造に任ぜられたことなどより、当地に祀られたものと伝えられています。

秦石勝は686年4月に東三河へ行き、同年8月には土佐に行っているとわかります。あたかも、京都本社から東三河支店に出張し、取って返して土佐現地法人に向かう商社マンのようです。いずれの地域も秦氏にとって重要だったと見て取れます。土佐に秦氏が定着したいきさつから、幕末に至る流れを概観できたら面白いと思うのですが、いかんせん神奈川からでは遠すぎます。

ところで、秦石勝と似たような話を既に書いていますが、ご記憶にあるでしょうか?そう、葛原親王の家令であった秦福代です。福代は土佐大目に任じられるのですが、同時期に葛原親王の東国下向に同行したという推理を、大井川流域の福用の地名から展開しました。(東海の秦氏 その8 11月11日。及びカテゴリ:相模国の秦氏、タイトル:頼朝以前の鎌倉 10月2日を参照ください)
秦石勝と秦福代。動き方のパターンが似通っていますね。

大井川下流域の初倉は秦氏が入植したエリアで、支店とまでは言えないが出張所という位置付けだったと思います。京都から各地に足を運ぶ秦氏。最終目的地である日本に入ってスケールは小さくなったものの、古代の超国際人であった彼らの面目躍如と思うのですが、いかがなものでしょう?

次に取り上げるのが徐福伝承です。神社の解説板をご参照ください。

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解説板。

この地の徐福伝承に関しては既に本も出版されネット上でも書かれていますので、付け加えることはありません。解説板の内容だけでもほぼ十分と思われます。酔石亭主の考えは、秦氏の存在する場所には徐福伝承が発生する素地があるということだけです。

実は、東海の秦氏 その7(11月10日)で牛久保の徐福伝承と書いたことに対して強烈な拒否反応的コメントを頂きました。徐福伝承は近年の都市伝説であるとされ、文面からは秦氏の存在自体も否定したい、この件に触れるなというご意志も感じられました。また、地元では徐福伝説など根拠なしとの結論が付いているなど、何度も地元が出てきました。

郷土史全体を抜きにして徐福や秦氏ばかりが取り上げられるとしたら、地元の方がそれに強い不快の念や不満を覚えるのは当然のことと思います。歴史を取り上げる場合、十分な配慮が必要だと改めて感じました。

ただ、資料の存在や内容を捻じ曲げてまで徐福伝承はないと強硬に主張される背後には、単なる不快感だけではない何かがありそうに感じられ、その理由を考えてみたいと思いました。というか、秦氏に関して書き続けていれば、いずれこのような問題に直面するかもしれないとの想定があったのも事実です。

以下はあくまで酔石亭主の一般論としての分析であり、個別の問題を語っているものではない点お含みください。

以前にも述べましたが、吉本隆明氏の「共同幻想論」(河出書房)にはフロイトに関連して次のような記述があります。

「前略…ある事象にたいして心を迂回して触れたがらないとすれば、この事象はかならずといっていいほど…中略…願望の対象でありながら、恐れの対象でもあるという両価性をもっている」

秦氏の神社は伏見稲荷大社に代表される稲荷神社など日本全国に広がり、幅広い崇敬を受けています。つまり彼らは、崇敬、崇拝の対象となっている訳です。と同時に、恐れの対象でもあるので心理的には忌避したい、ないものとしたい、との意識が働きます。恐れの対象であるのはカテゴリ「日本人の特殊性の謎を解く」や「秦氏の謎を解く」でも書きましたように、日本人の特殊性の発生源が秦氏であることによるものと思われます。

全てが神様になって祀り上げられていれば問題はないのでしょうが、実際には人が存在しているため、その場合強い忌避感情が働きます。よって、どの地域であれ地元と言う場合秦氏の存在を含まない地元になると考えられるのです。

以上のような心理面の経緯から、秦氏は聖と穢の両価性を持った存在と受け止められるようになりました。ただ実際には、人々が意識して両価性を持った存在と受け止めているのではありません。一方では神社にお参りして神として深く敬い、他方では忌避するのを何ら意識することなく行っている訳です。

こうした秦氏に関連する問題は、日本人の精神史全体を俯瞰する中で考えるべきものと思料されます。「人類進化の謎を解く」から「秦氏の謎を解く」までの一連のシリーズは、そうした視点も踏まえて書いています。

日本人の精神構造を決定付けたのが秦氏であるとすれば、それには正面から向き合う必要があります。上記シリーズをご一読頂ければ、日本人の深層に潜む全ての問題が氷解すると思うのですが……。また日本人がなぜかくも内向きで外交下手なのかという現代的課題も同時に解決の道筋が付けられるはずです。

避けては通れないので書いたのですが、今日はやや重い内容になってしまいました。ご不快に思われる方がおられたとしたらお詫びします。東海の秦氏シリーズはこれで最終回とします。

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東海の秦氏 その9


今回は島田市初倉を見ていきましょう。静岡県榛原郡、現在の島田市初倉には秦氏が居住しており、谷口原にある敬満神社は、秦氏の租神である功満王を祀っているとされます。周囲は牧ノ原台地の茶畑が広がり、隠れ里的な場所を好む秦氏にしては、やや場違いとも思える広々としたエリアです。敬満神社については以下Wikipediaより引用します。

現在の祭神は「敬満神」(けいまんのかみ)である。明治以降、祭神を少彦名命としていたが、昭和13年に敬満神に訂正された。元々の祭神はこの一帯に勢力を持った秦氏の祖の功満王であるとする説もあるが不詳である。
社伝では垂仁天皇26年の創建と伝えられる。文徳天皇実録・日本三代実録に記載があり、延喜式神名帳では名神大社に列している。最終の神階は正四位下で、遠江国内では最高位である。徳川幕府から社領を寄進されるなど、皇室・武家からの信仰も受けた。


かなり歴史の古い神社と思われますが、秦氏がこの地に入植し地元の神社を取り込んだため、功満王を祀ると言う説が出たものと考えられます。

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解説板です。

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鳥居と拝殿。

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手水舎(てみずや・ちょうずや)です。

さすがに大井川沿いの神社。見事な溜り石のように見えます。欲しくなりました。

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敬満神社拝殿です。

話は急に変わりますが、NHKの龍馬伝も終盤に差し掛かっています。ドラマ終了後のアナウンスは、決まって「龍馬暗殺まであと何カ月」で、これは視聴者の期待感を盛り上げようとするNHKの策略かなどと思ってしまいます。その龍馬を暗殺したメンバーの一人に、今井信郎と言う人物がいます。この人物に関しては以下Wikipediaより引用します。

今井 信郎(いまい のぶお、天保12年10月2日(1841年11月14日) - 大正7年(1918年)6月25日)は、幕末から明治時代初期に活躍した武士で、徳川方に着き、京都見廻組に参加しており、近江屋事件で暗躍したとされている。維新後は、明治11年(1878年)に榛原郡初倉(現在の静岡県島田市初倉地域)に入植し、自由民権運動を展開した三養社に携わり、初倉村の村長を務めた。平成15年(2003年)、地元有志により牧之原入植後の業績を顕彰しようと、居住跡に石碑が建立された。


本人は見張り役で実際に手を下してはいないとのことで、裁判所も認めているそうです。そして龍馬の生まれ育った土佐は、元々土佐の在地豪族であった長宗我部氏の支配地でした。長宗我部氏は、ご存知の方も多いと思いますが、秦川勝の子孫(諸説あり)とされています。

そのせいか、高知市には北秦泉寺、中秦泉寺、西秦泉寺、東秦泉寺、秦南町など秦氏ゆかりの地名が多く見られます。長宗我部氏が秦川勝の子孫でなかったとしても、地名の数からして相当数の秦氏がこの地に入植していたのは間違いないと思われます。

長宗我部氏は関ヶ原の戦いにおいて西軍に与し、江戸時代は下士として忍従の生活を強いられます。ひょっとしたら、土佐藩の郷士(下士のカテゴリに入る)であった龍馬にも秦氏の血が流れているのかもしれません。

そんな龍馬暗殺に加わったメンバーの一人が、秦氏の居住地の村長さんになるとは、何とも皮肉なというか不思議な歴史の巡り合わせと思わずにはいられません。なお、龍馬暗殺の首謀者にも諸説あって、薩摩藩であったと言う議論まであります。謎解きの対象としては面白そうにも思えますが、時代が近すぎて却って難しくなりそうです。

ところで、龍馬伝は幕末の激動期を描いており、現代からは遠く離れた時代のようについ思ってしまいます。けれども、暗殺メンバーの今井信郎が亡くなったのは大正7年。当時酔石亭主の祖父が30歳台半ばでしたから、祖父の中では今井信郎と酔石亭主の時代が一連のものとして繋がっているのです。

過去は遠いように思えて、実は意外に近いものなのです。うんと遠いはずの鎌倉時代でさえ、120歳の人を6人並べれば到達できる程度の過去に過ぎません。だとすれば、現代に残る過去の痕跡から、昔の人の息遣いを間近に感じ取ることもできるはず。そう思うと歴史探訪も楽しくなってきませんか?

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神社近くの大井川にかかるとても有名な木橋です。

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もう一枚。

日本一長い木橋で、時代劇の撮影などにも使われています。名前は蓬莱橋。誰がこの橋を蓬莱橋と名付けたのでしょう?名付け親は秦氏との関連を認識していたのでしょうか?意識せずにそう名付けたとしたら、秦氏のマインドコントロールかも…。いずれにしても、秦氏いるところ蓬莱ありですね。ひょっとしたら、どこかに徐福伝承が埋もれているかもしれません。

注:蓬莱橋があるのは島田市宝来町です。解説板によれば、島田と初倉の経済交流が活発化したので、時の静岡県令(現在の知事)に橋をかける願いを出し、許可され、1879年(明治12年)に完成したとのこと。県令が現在の川勝知事であれば、秦川勝系の秦氏が蓬莱橋と命名せよと言ったのかも、と書けるのですが、そこまでうまくはいきません。

               ―東海の秦氏 その10に続く―

東海の秦氏 その8


今日は大井川流域を見ていきます。まずこの一帯には榛原郡があり、地名に秦の文字が入っていることから、秦氏の居住地域があったと理解できます。

加えて大井川と言う川の名前自体が秦氏の命名によるものと思われます。秦氏は6世紀頃京都の葛野川に堰堤を作り、以降、渡月橋の上流が大堰川(おおいがわ、大井川)、下流は桂川と呼ばれるようになったのですが、大月の桂川、葛野川と同様、静岡の大井川は京都の大堰川の名を持ち込んで付けたものと見て間違いなさそうです。

以上を前提に今回のテーマに入りたいと思います。ご記憶にあるかどうかわかりませんが、以前桓武天皇の子である葛原親王が東国に下向した折、親王家の家令である秦福代が同行した可能性を指摘しました。(カテゴリ:相模国の秦氏、タイトル:頼朝以前の鎌倉 10月2日)それを大井川流域にある秦氏の痕跡から証明していきます。

では、大井川を河口から30kmほど遡りましょう。国道一号線の新大井川橋を渡り、大井川鉄道に沿って北上します。途中道路はかなり高度を上げ、大井川の絶景が眼下に広がります。よそ見をすると危ないのですが、しばらく走ると川の右岸(下流に向かって右側)にある小集落福用に至ります。福用の地名と秦福代。ほぼ同じ名前です。福用の西には小福代という地名も残り、過去には福用、福与、福世、福代を姓にする家が多かったと伝えられています。

現在福用に福用、福代姓を名乗る人はいませんが、1500年頃、地震による崩落で村全体が埋まり、村人はこの地を離れざるを得ず、その時避難した人々が流域に住みつき、福世、福与姓を名乗ったという昔話があるそうです。また初倉には福用姓の方がおられるとのことです。

以上の根拠から、集落名の福用は秦福代から取った地名と推定されます。秦福代がこの地に到来したとすれば、福用には地名以外にも秦氏の痕跡があるはずで、次にそれを探っていく必要があります。ということで、この地に鎮座する神社を見に行きます。

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福用駅です。可愛らしい駅舎ですね。

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お茶畑が広がる福用の村落。のどかで穏やかな雰囲気が漂っています。

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白光神社へ至る道もお茶畑の中。

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白光神社。

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解説板。

福用の西には八高山があり、山頂には白光神社奥宮が鎮座しています。時間の関係もあり山登りはできなかったのですが、奥宮の御由緒によれば、福用の地は初倉村を治めた「秦氏」ゆかりの「福代氏」がこの集落を治めたとも記録されている、とのことです。初倉はかつて「秦の倉」と呼ばれていたそうで、屯倉の管理を担当していた秦氏らしい地名です。

以上、福用の地名は秦福代が大井川を遡りこの地に居を構えたことに由来すると理解できます。なお、初倉には葛原親王の時代以前に秦氏が入植していたはず。だとすれば、葛原親王に同行した秦忌寸福代はまず初倉に入り、その後親王と別れて大井川を遡ったか、あるいは福代の一族が初倉に残留し、後に川を遡って福用の地に入ったものと推定されます。また八高山と言う名や白光神社も秦氏の関与がありそうなネーミングですね。

さらに、『竹下村誌稿: 大正13年 (1924年):五和村三代村長渡辺陸平氏編』によれば、「兎に角此初倉に正倉ありと云ひ続後記承知十四年(847年)八月、榛原郡人、秦黒成の女。正六位上・秦忌寸部落長福用云々の記事もありて、本郡に秦氏の居住せしと云ひ―中略―。五和村の大字に福用あり古は相応の家格を有せし部民の住居せし如き大なる古墳あるのみならず現に郡内福用の字を用いて姓とする家多しと云へば此福用は或は前記秦忌寸福用に縁由ある部曲の居住せしより起こりたる名なりしやも知る可らず」とあります。

やや読みにくいのですが、要は、福用の地名は秦忌寸福用に由来するのではないかとする内容です。なお竹下村は、初倉地域と福用地域の中間に位置し、山内一豊が大井川の流れを瀬替えして出来た「五和」という地域にあるそうです。

では、上記の記事の年代と葛原親王の活動時期が整合しているかチェックしましょう。葛原親王の生没年は786年~853年です。また、福代が土佐大目に任命されたのは承和15年(848年)となり、いずれも時代的に重なっています。(土佐大目を兼任していて東国に下向できるのかとの疑問はあります。ただ、平安京にいても土佐の実質的管理は不可能ですから、いわゆる名誉職だったのではと推測します)

また「続日本後紀」の承和14年(847年)に「遠江国蓁原郡人、秦黒成女、一たび二男一女を産む、正税稲三百束及び乳母を賜う」とあります。三つ子を生むのは当時珍しかったのでしょう。これを読んであれっ、と思ったのですが、「日本書紀」天武天皇4年(675年)10月の条に、「相模國言さく、高倉郡の女人、ひとたびに三の男を生めりとまうす」とあり、同様に三つ子の出産について書かれています。相模国の名が初めて文献に出たのはこの記事ですが、高倉郡は親王の御所があった場所とされ、何となく見えない糸で繋がっているような気がします。

地名その他の資料から福代が親王に同行し、初倉に入り、この地で親王と別れ福用に入ったか、または福代の一族が福用に入ったのは、ほぼ間違いなさそうです。ただし、親王が本当に東国へ下向したのか、確認する資料はありません。ひょっとしたら、福代が親王の名代として東国に向かい、彼の名において葛原に御所を設けたのかも……。まあ、この辺りは解けない歴史の謎としておきましょう。

なお、福用関連の記事作成に当たり、福用ご出身で島田市市議の坂下様より貴重な情報の数々をご提供いただきましたこと改めてお礼申し上げます。

福用に関しての調査も終わりましたので、目の前に広がる大井川の河原で探石します。

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大井川の流れ。ブルーの水流が息を飲むほど美しい。

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もう一枚。川の中に頭を出した岩が、水石の土坡に見えてしまいます。

福用は茶畑が広がる小集落で、秦氏ゆかりの地であり、大井川の流れも美しく、水石まで探石できる素晴らしい場所でした。

             ―東海の秦氏 その9に続く―

東海の秦氏 その7


静岡の秦氏関連で面白いのは、安倍川に沿った地域に秦氏と関係の深い白髭神社が多数鎮座していることです。となると、神社の鎮座地に秦氏特有の地名があるはず。そう思って調べてみると、幾つか怪しい地名が出てきました。

静岡市清水葛沢
静岡市清水蛇塚(京都の蛇塚古墳は秦氏の古墳とされています)
静岡市桂山(桂山には漆畑という名前が多い。明らかに秦氏関連)

安倍川流域も含め、静岡県だけで白髭神社は54社を数えるようです。

しかし、なぜ静岡市に秦氏の痕跡が多く残っているのでしょう。しかも、静岡の地名が秦氏に由来し、秦氏の中心地域が駿府城と県庁所在地となっています。これは、京都の御所が秦氏の居住地だったのと似たような関係です。

この疑問は比較的簡単に解けそうに思えます。なぜなら安倍川に沿って、気を発する糸魚川静岡構造線が走っているからです。糸魚川静岡構造線が発する気を感知した秦氏は、静岡の地に拠点を設けたとは考えられないでしょうか?

構造線の太平洋への出口付近に当たるのが安倍川で、この川を挟んだ賎機山と羽鳥に秦氏の拠点があるのは、決して偶然とは言えません。安倍川流域に白髭神社が集中している理由もそこにあると考えられます。

もっと簡単に考えると、ほとんどの水石産地は秦氏の居住地域だったりして……。糸魚川静岡構造線については以下Wikipediaより引用します。

糸魚川静岡構造線(いといがわしずおかこうぞうせん)とは、親不知(糸魚川市)から諏訪湖を通って、安倍川(静岡市)に至る大断層線である。略称は糸静線(いとしずせん)またはISTL(Itoigawa-Shizuoka Tectonic Line)。(由比町に至るという説もあり)


気の発する地でもある静岡市周辺は秦氏の痕跡だらけでした。深掘りしていけば、さらに面白いものが飛び出す可能性を秘めています。

などと思いながら地図を眺めていると、羽鳥地区の藁科川を挟んだ南側に産女(うぶめ)という地名までありました。


大きな地図で見る
グーグル画像です。

画像左下側が産女で、209と表示ある橋の上流のこんもりしている場所が木枯の森、画像右上の建穂が建穂神社所在地です。

おお産女は、かの有名な妖怪作家・京極夏彦の「姑獲鳥(うぶめ)の夏」に由来するのかと思いましたが、そうではなさそうです。これは秦氏と関係ないのですが、調べてみると実に奥が深いものでした。

産女子安観音縁起によれば由来は以下の通りです。

永禄3年、今川義元(よしもと)が桶狭間(おけはざま)で織田信長に敗れた後、あとを継いだ義元の子の氏真も四方から攻められ、ついに、武田晴信によって、領土を奪われ、藁科渓谷を志太郡徳山村土岐(しだぐんとくやまむらとき)の山中へと逃げてきました。氏真に従って、ここまで落ちてきた武士に信濃の人、牧野喜藤兵衛清乗(まきのきとうべえきよのり)という者がいました。清乗の妻もいっしょに逃げてきたのですが、ちょうど臨月で、正信院近くの「清水のど」のあたりで、急に産気づき、ひどい難産で、とうとう出産できずに亡くなってしまいました。清乗は、手厚く妻を葬りましたが、成仏できなかったとみえ、夜な夜な、幻となって村をさまよい、「とりあげてたもれ(助産してください)」と、悲しげに頼みました。村人は哀れに思い、「とりあげてさし上げたいと思いますが、あの世に去った人のこととて、いかにすればよいやら」といいますと、「夫のカブトのしころ(錣)の内側に、わが家に伝わる千手観音を秘めてございます。その御仏に祈ってくださればよいのです。これからは、子どもの恵まれない方、お産みになさる方は、この御仏にお祈りしてください。必ず、お守りくださいます。」といいました。そこで、村人は、千手観音を見つけだし、さっそく、正信院に納め、清乗の妻のために祈ってやりました。すると、清乗の妻の幻があらわれ、お礼をいい、「この村をお守りしたいと思いますので、私を山神(さんじん)として、祠(ほこら)をお建てください」といいますので、近くの「いちが谷」にお宮を建て、産女大明神としてお祭りしました。以後、村ではお産で苦しむ者がいなくなったといいます。後に、村の名を産女(うぶめ)、正信院の山号も通称「産女山」と呼ぶようになりました。

戦国の悲しい物語ではありますが、実は愛知県豊川市牛久保にも海見(うぶめ)という地名があります。しかも牛久保には徐福伝承があり、秦氏の居住地域(詳細は別途書きます)でもあり、牛久保城主は牧野出羽守保成(やすなり)でした。秦氏とは直接関係ないものの、この物語の場所はいずれも秦氏に関係しています。三河稲垣氏の関連でも産女が出てきますので、参考までに以下Wikipediaより引用します。

文明年間 (1469年 - 1486年)には伊勢から三河宝飯郡牛窪に移り、稲垣藤助重賢が、牧野氏に仕えたとある。
はじめ駿河・遠江の戦国大名今川氏に味方して松平清康軍を相手に奮戦した。藩翰譜には重賢の戦死の事実だけが記載されるに留まる。
だが、寛政重修諸家譜には、享禄元年(1528年)、吉田(豊橋市)方面から牛久保に軍勢が押し寄せたときに、稲垣重賢は防戦して宝飯郡産女塚で配下16名と共に討ち死にしたと、対松平氏戦に関する若干の記述がある。


静岡市と豊川市。産女と海見。秦氏と秦氏。一体どんな縁で似たような物語が生まれたのでしょうか?とても不思議に感じられます。

静岡を過ぎると焼津市に入ります。焼津にもかつて駿河国益頭郡八田郷があり、広幡の地名も残り秦氏の痕跡が認められます。そう思いながら地図で焼津を見ていると、大崩海岸続きに虚空蔵山がありました。これは怪しいと思い、調べてみると…。ここには當目山香集寺があります。お寺の由緒によれば、以下の通り。

當目山香集寺の本尊である虚空蔵菩薩は、聖徳太子の作といわれ、伊勢朝熊(国宝)、京都嵐山とともに日本三大虚空蔵尊の一つに数えられるもので、弘仁6年(1160余年前)弘法大師が當目山に安置したと伝えられています。

聖徳太子に空海に虚空蔵山と、全てに秦氏の関与が窺われます。でも、なぜここが虚空蔵山なのでしょう。答えは簡単に出ます。大崩海岸から虚空蔵山にかけては糸魚川静岡構造線の南端に当たり、またフォッサマグナの太平洋への出口だったのです。中央構造線の伊勢朝熊、糸魚川静岡構造線の虚空蔵山。全く同じ関係から気を知る空海がここに関与し、その背後には秦氏の影があると理解できますね。

次回は大井川周辺を見て回ります。

               ―東海の秦氏 その8に続く―

東海の秦氏 その6


藁科川での探石を終え、次に秦氏の関与があるとされる建穂神社(たきょうじんじゃ)に向かいます。この近くには建穂寺(現在は廃寺)が建てられており、建穂寺が建穂神社の別当だったと思われます。

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解説板です。ほとんど寺の解説になっています。

写真では読みづらいので以下記載します。

建穂寺は、白鳳十三年(六六二)法相宗の道昭が草創し、養老七年(七二三)に行基が再興したと伝えられる。創立年代には疑問が残るが、県内屈指の古寺として、天平七年(七三五)の「寺領寄進」の記録が寺の古さを特徴づけている。平安中期の『延喜式神名帳』に、建穂神社の名がみえ、「神仏混淆」の寺であった。安倍七観音の霊場でもあり、観音堂には珍しい稚児舞が伝わっていた。(現在は浅間神社廿日会祭に受け継がれ静岡県無形民俗文化財に指定)鎌倉時代の高僧南浦紹明は、幼年期を建穂寺で修行した。学問を目的とした建穂寺は、弘法大師の意志を継ぎ、今川 徳川両家に保護されたが、明治初期に経営が困難となり廃寺となった。文化財の一部は、観音堂内に保存されている。

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拝殿です。

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本殿です。

本殿には馬鳴(めみょう)大明神が祀られているとのことで、馬鳴は古代インドの仏教僧侶を意味します。この神の実体は馬鳴菩薩で、貧しいものに衣服を与える菩薩、養蚕機織の神として祀られています。養蚕に機織りと来れば、秦氏の関与があると感じられますね。

建穂寺は駿河では久能寺と並ぶ駿河有数のお寺だったようですが、両方の寺を結ぶ直線上に駿府城があるのは何か意味があるのでしょうか?

続いて建穂寺の観音堂へ。

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観音堂です。立派な仁王像があります。

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解説板。

建穂神社から観音堂に至る一帯がかつての建穂寺の寺域と思われ、当時は300以上の伽藍を有する大寺院でした。

観音堂から九住谷川を遡ると洞慶院に至ります。谷戸の奥の静かなお寺で、元々は馬鳴大明神の社僧寺であったとのこと。ここも秦氏との関連が窺われます。

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解説板。

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龍門橋の四本杉。心を清浄にする結界のような杉の配置です。

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本堂です。

洞慶院奥の谷筋からは静岳石が産出すると昔の水石の本に書かれています。行ってみたいとも思いましたが、予定時間をオーバーするので諦めました。

                 ―東海の秦氏 その7に続く―

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