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富士山麓の秦氏 その30


光照寺と秦川勝の関係を示す別の例を拾ってみました。以下Wikipediaより引用します。

川勝 広継(かわかつ ひろつぐ)は、戦国時代の丹波の武将。光照(みつてる)とも称した。本姓は秦氏で、秦河勝の後裔とされる。川勝氏(下田氏)は丹波国桑田郡・船井郡内を知行し、室町幕府に仕えてきた。戦国時代、広継は桑田郡今宮に住んで、12代将軍足利義晴、13代将軍足利義輝に仕えた。広継のとき川勝を称したのが始まりだという。その意味で、川勝氏の家祖とされる人物と言えよう(むろん、遠家祖は秦河勝である)。
後に北桑田郡美山町の市場村を支配して、京都北方に勢力を拡大するようになった。そして、美山町静原の島城を本城とし、八木の守護代内藤氏、京北の宇津氏、篠山の波多野氏など、丹波の戦国武将と対峙した。また、広継は菩提寺として桑田郡今宮に光照寺を建立した。16世紀前半を生きた人物。没年不詳。


全く別の話の中に光照寺と秦川勝が出てきます。秦氏の思考パターンを窺わせる面白い一例ですね。

さて、頼朝と秦氏の関連を窺わせる事例は他にもあります。谷村駅に近い都留市上谷から道志に入る途中に鍛冶屋坂と言う地名があります。(ところで、「その20」で書いた不二阿祖山太神宮を造ったのは天住の会で、その本部も都留市上谷5丁目にありました。なんか妙な感じですねぇ?)


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鍛冶屋坂一帯を示すグーグル地図画像。

頼朝が巻狩りを実施するに際し、谷村の鍛冶屋七郎左衛門が矢の根を製作して数百本を献納しました。その矢の根が世に稀なほど切れるため、稀代の姓を賜わったとのことで、これが鍛冶屋坂の地名の元となっています。近くには金山神社があり、境内には希代稲荷社が祀られています。この鍛冶集団は秦氏との関係が感じられます。

鍛冶屋坂、古渡、大明見の阿祖山太神宮と繋ぐと、頼朝は桂川に沿って富士山麓に入ったようにも思えてしまいます。(あるいは帰路を桂川沿いか?)つまり秦氏の居住エリアを辿りながら、富士山麓に入った(あるいは富士山麓から帰った)ようにも見えてしまうのです。

都留市にある曹洞宗補陀山普門寺も、頼朝が富士の巻狩りの折に武家の守りとして祠堂を建てたのがその始まりとされます。秦姓が山梨県下で都留市に最も多く、同時に頼朝の痕跡も多く残っている意味はもう明らかだと思われます。

問題は、道志村にも多くの頼朝伝説が残されていることです。山中湖から山伏峠を越えて道志川に入った長又の矢頭で頼朝が弓を引くと4km先の神地(矢先)まで飛んだと言う伝説。その伝説から長又には矢の根を御神体とした矢の根神社が創建されました。

長又には試し切りの岩である二つに割れた兜岩もあります。少し下った白井平には水越の姓が多いのですが、その理由は頼朝に水を献じ、水越の名前を賜ったことによります。道志川の支流室久保の上流に頼朝の弓の的となった石があり、的様と呼ばれています。

さらに竹之本の川辺にある頼朝の馬乗石。竹之本の櫓沢は頼朝が弓を射るため櫓を組んだことにちなんでいます。大室指の足型石は、源頼朝が富士の巻狩りの帰り同地で馬を止め石に足をかけ草鞋の紐を締めた時、かかとの跡が石に残ったものです。

頼朝は月夜野の子ッ沢(ねつさわ)で馬に乗り沢を駆けたため、大きな石に馬蹄形の凹みをつけました。これが頼朝の馬蹄石です。以上、道志川の上流から下流にかけて全域に源頼朝伝説が見られます。


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道志川流域を示すグーグル地図画像。各地名のチェックは画像を拡大して確認ください。

また道志川沿いには大渡と言う地名があります。その由来は以下の通りです。

大月市猿橋の八幡社が火事になり社の扉を開いたら大幡が空に舞い上がり飛んでいった。大幡は道志の馬場に舞い降りたので一帯を長幡と呼ぶ。大幡はここから再び飛んで大渡に舞い降りた。大幡は次に相州大山の麓、日向薬師へと飛び去った。


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大渡を示すグーグル地図画像。馬場(長幡)は大渡の上流部の馬場に位置します。画像を拡大してご覧ください。

この伝説には驚きました。大渡は大幡が変化したもので、都留市の古渡(こはた)が小幡の変化したものであるのと全く構造が同じだからです。言い換えれば、大幡が飛んだ伝説は秦氏の移動ルートを示すものに他なりません。秦氏は道志村経由でも秦野に向かったとわかります。

秦氏の痕跡が残る道志川流域に頼朝の伝承が点在する理由は明らかです。頼朝は1193年の巻狩りだけでなく、複数回富士山麓に赴いたのです。複数回訪問する目的は、阿祖山太神宮礼拝と光照寺にあったのです。

大幡が飛ぶ伝承は、秦氏の移動ルートを示しているとの推定が今回で成り立ちました。次回以降で、その推定をさらに確かなものとする事例を見ていきたいと思います。

              ―富士山麓の秦氏 その31に続く―

富士山麓の秦氏 その29


富士山の鬼門ラインは最終的に以下のようになります。

富士山本宮浅間大社→山宮→富士山→阿祖山太神宮→光照寺

やや高台に位置する古渡の光照寺は、富士山の噴火や溶岩流にも耐えられる真の鬼門にふさわしい場所でした。源頼朝は富士山の表鬼門に当たるこの地に武運長久を祈願するため光照寺を建立した。そうさせたのは秦氏に他ならないはずです。

しかし、光照寺が富士山の表鬼門に当たるとする根拠は、鬼門ラインの存在、頼朝が武運長久を祈願した、鎌倉時代には富士山の噴火がなかったと言う3点のみです。一応の根拠にはなりますが、鬼門ラインや噴火がないのは単なる偶然だと片付けられそうですし、頼朝が武運長久を祈願したのも伝承に過ぎません。古渡の光照寺が富士山の表鬼門に当たると主張するには、より具体的な証拠が必要となるのです。

そうした証拠がなければ、この議論も説得力に欠けることになるでしょう。と言うことで、早速曹洞宗大医山光照寺に向かいます。


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光照寺の位置を示すグーグル地図画像です。

寺の前には秦設備工業があります。地名だけでなく、古渡(=小幡)は秦氏の関与がある土地と理解されます。だとすれば、ここが鬼門に当たるとしてもおかしくありません。

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光照寺。

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光照寺本堂。

山の斜面が墓地となっています。今まで見てきた秦氏の痕跡はほぼ全てお墓にありました。藤沢市妙善寺のような墓碑が光照寺にもあることを期待して墓地に入りましょう。

墓地の中を歩いていると、ひときわ大きな墓碑が目に留まりました。何やら文字が彫られています。近寄って見ると、秦や川勝の文字が…。こ、これは!!

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墓碑。画像では文字が判別できないので、内容を以下記載します。

柞大祖ハ人皇三十二代用明天皇御子厩戸皇子ノ家臣秦ノ川勝也、川勝二十五代秦ノ孫三郎当国守護ノ為二来リ、古城二逗留中男子出生ス即秦次郎源六ト申ストナリ、建久六乙卯(一一九五)十月生トナリ、孫三郎ハ帰京ス、金札ノ時ナリ

大祖先は人皇三十二代用明天皇の子である御子厩戸皇子の家臣秦川勝である。川勝二十五代秦孫三郎が当国守護の為に来て、古城に逗留中男子を出生した。すなわち秦次郎源六と申すなり。建久六乙卯(一一九五)十月生まれである。孫三郎は帰京した。金札の時である。

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拡大画像。「秦ノ川勝也」などの文字が読み取れます。

墓碑には正に驚くべき内容が語られています。秦川勝25代目の秦孫三郎が当国守護のため当地に来て、古城に逗留中の建久6年(1195年)に秦次郎源六と言う男子が生まれたとのこと。

古城とはどこでしょう?「甲斐国志」巻之三十六山之部第十六之中の御正体山の項には、小幡村の沢々を過ぎ末は古城山に至るとありました。孫三郎は古城山(光照寺の北で海抜583m、グーグル画像で住吉神社のある辺り。拡大してご覧ください)の麓に逗留したと理解できます。住吉神社は海人系ですから、海人系の拠点に秦氏の拠点が重なっています。なお小幡村が現在の古渡となります。

富士の巻狩りが建久4年(1193年)ですから、秦孫三郎が同時期既に古渡の地にいた可能性は大きいと思われます。秦孫三郎は富士山の鬼門設置を目的として京を出立、古渡を訪問します。それに合わせて頼朝は巻狩りを主宰。巻狩り終了後に、元祖富士山の鬼門でありかつて聖地でもあった阿祖山太神宮を礼拝し、続いて古渡に出向き、秦孫三郎とともに表鬼門封じの儀式を執行したのです。

「金札(きんさつ)ノ時ナリ」の意味がわかりにくいのですが、多分以下のようなことではないでしょうか?

能楽の観阿弥、世阿弥はいずれも始祖を秦川勝としています。そして能の謡曲「金札」は、「金札宮」の縁起に由来するもので、観阿弥の作とされています。「金札」の内容は大略以下の通りです。

桓武天皇が平安京遷都の折、伏見の里(秦氏の伏見稲荷大社がある)に社殿造営の勅命を下し、勅使が遣わされた。勅使は一人の老翁に目を止める。すると老翁が歌を謡った。その時、不思議なことに天より金札が舞い落ちてきた。札には長く伏見に住んで、この国を守護すると書かれていた。そして天津太玉神(=老翁)が金札と弓矢で悪魔を降伏させ社殿に入ると、世の中は安寧な時代となった。金札とは、君(桓武天皇)を守り国を治める印であった。

この金札宮は伏見区の鷹匠町に鎮座し、伏見では最古の社とのことです。


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金札宮の位置を示すグーグル地図画像。住所:京都府京都市伏見区鷹匠町8

平安京遷都には秦氏が深く関与し、伏見には伏見稲荷大社が鎮座し、鷹匠町の鷹は秦氏のシンボルです。金札宮から東に向かうと桓武天皇陵となり両者の関係がわかります。観阿弥は南北朝時代の人物ですが、「金札」を謡曲に取り上げること自体、金札と秦氏との関係を示しています。

金札宮のホームページを見ると、伏見は「高天原より臥して見たる日本の事」と書かれています。内容は、大明見の富士高天ヶ原から鬼門ラインを通して見た古渡とダブっていますね。

以上から、ある事実が明確になります。秦氏は平安京の鬼門ラインと同様に、富士山にも鬼門ラインを設置しました。そして鬼門の終着点である光照寺で鬼門封じの儀式を秘密裏に執行したのです。「金札ノ時ナリ」の文言には、秦孫三郎と源頼朝の手で古渡に富士山の鬼門が設置され、戦乱の世が終わり日本に揺るぎない平和が訪れると言う意味が隠されていたのです。

この墓碑に記された文言の真の意味が、いかに奥深いものであるか良く理解できます。秦氏ならではの、壮大なスケールを持つ内容だとは思いませんか?

なお墓碑に刻まれている歴代先祖戒名の一番古いものは、読み取りにくいのですが、元亨2年と思われます。西暦では何と1322年になります。鎌倉時代の終わり頃にいた先祖がわかっているとは、凄いとしか言いようがありません。

平安京遷都に秦氏の深い関与があったのは、司馬遼太郎氏も認めているように良く知られています。平安時代に続く鎌倉時代の始まりにおいても同様に、秦氏は頼朝を守り、頼朝が国を治めるのを助けていたのです。

但し、秦氏は平安時代初期以降歴史の表舞台から姿を消しています。従って、その関与は極めて隠密裏に実行されました。「金札ノ時ナリ」が秦氏の関与を示すほとんど唯一の証拠として残ったのです。頼朝がここで武運長久を祈願した(=表鬼門を封じた)背後には秦氏の存在があったとはっきり理解できますね。

頼朝が鬼門ライン上にある阿祖山太神宮を訪問していたとすれば、山中湖村長池地区の和田義盛伝説もより一層真実味を帯びてきます。

余談ですが、和田義盛の子に和田義秀(朝比奈義秀)がいます。彼は和田合戦で最も奮戦した武将とされ、一族が次々と討ち死にする中、船で所領の安房国へ脱出、その後の消息は不明とされています。和田系図では高麗に逃れたとも書かれています。

また一説には、和田義秀は熊野灘の太地(捕鯨の町として有名)に逃れたとされます。捕鯨術は義秀の子孫である和田頼元が慶長年間に創始した技法とされています。ところがです。熊野には徐福伝承が色濃く残り、徐福が太地の民に捕鯨術を教えたとの伝承が存在しているのです。

親子そろって徐福伝承の地に逃れたとは一体どうしたことでしょう?背後にはきっと隠された事情があるに違いありません。和田義秀に関しては以下Wikipediaより引用します。

朝比奈義秀(あさひな よしひで)は、鎌倉時代初期の武将。鎌倉幕府御家人。父は和田義盛、母は不詳(後述を参照)。安房国朝夷郡に領地としたことで朝比奈を苗字とする。朝比奈氏(和田氏一族)の当主。

和田氏は桓武平氏三浦氏の一族とされますが、和田は海人系の名前であり、本当のルーツは別にあったのかもしれません。安房国も捕鯨が盛んで、江戸時代前期には、房総半島の安房国勝山(海人系や秦氏と関係ある勝山が出てきました)に太地の捕鯨船が漂着し、安房の漁民に捕鯨術を教えたとか。やはり和田氏と徐福の間には、何かしら目に見えない繋がりがありそうです。

あれこれ書きましたが、800年の富士山大噴火で富士山麓を逃れた秦氏が最初に定着したのが古渡(小幡)であったと推測されます。(あるいはそれ以前にも一部のメンバーが定着していた)

秦孫三郎は表鬼門設置の儀式執行を目的として小幡を訪問。同地の平安(実際には日本全土の平安)を願い頼朝とともに富士山の表鬼門を封じました。それが墓碑の「金札ノ時ナリ」と言う短く唐突とも思える表現の中に隠されているのです。

秦孫三郎の子供の名前が源六であり、源頼朝の源を取っているかのように見えるのは、その隠れた証明であるとも言えます。

なおWikipediaによれば、「景教とは中国語で光の信仰という意味であり、景教教会は唐の時代、大秦寺という名称で建造された」とあります。景は光や光明を意味するのです。これまで関東各地で秦氏の痕跡を見てきましたが、横浜市栄区の光明寺、久我山の光明寺、秦野の光明寺、古渡の光照寺と全て光が付くのは偶然なのでしょうか?

鎌倉大仏の謎解きで、「忍性は、東大寺大仏の主要人物である聖武天皇の妻光明皇后、行基、秦氏などと精神的な繋がりを持っていることになります」と書きました。光明皇后は景教徒だとの説もあります。以前、秦氏は景教の枠組みだけで捉えられるものではないと書きましたが、こうも光が出てくると秦氏景教徒説にも一定の根拠が…??

話を元に戻します。光照寺には他にも秦家の墓が多数見られます。

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秦家の墓。

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墓地からの光景。

秦姓が古渡地区に多い理由。それは、古渡が富士山の表鬼門の最終地点に位置し、秦氏は鬼門守護を目的として一定の人数を配置していたからです。やはり都留市は、秦氏の重要拠点であったと言えるでしょう。

                ―富士山麓の秦氏 その30に続く―

富士山麓の秦氏 その28


源頼朝による富士の巻狩りは1193年に実施されました。鎌倉幕府創設の翌年です。その時期に富士山の表鬼門に当たる阿祖山太神宮を訪問する理由は一つしかありません。幕府が立地するのは鎌倉です。富士山が噴火すれば、関東全域に火山灰が降り飢饉となる可能性もあります。そうなると、創設から間もない幕府に深刻な打撃を与えるのは間違いないでしょう。

頼朝は多分、平安時代噴火が続いた富士山の怒りを鎮めるため、富士山の鬼門に当たる阿祖山太神宮を訪問したのです。しかし、阿祖山太神宮を礼拝し武運長久を祈願すれば、古渡(光照寺)で同じ祈願をする必要はないはずです。ではなぜ光照寺なのか、その理由を考えてみます。

まず、平安京のみならず頼朝の鎌倉においても、秦氏の鬼門ラインが構築されていることは既に論証しています。富士山と比較のため平安京の鬼門ラインを見ていきましょう。

平安京の鬼門ラインは、松尾山(松尾大社)、木島坐天照御魂神社(通称蚕ノ社、元糺の森)下鴨神社(糺の森)、赤山禅院(泰山府君を祀り、京都御所から見て表鬼門に当たるため、方除けの神として信仰を集めている)、比叡山の四明岳へと続くラインです。このラインは大和岩雄氏の「秦氏の研究」(大和書房)によると、冬至日の入遙拝線でもあり、夏至日の出遙拝線でもあります。

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平安京の鬼門ラインを示すグーグル地図画像。線は大ざっぱに引いてあります。

赤山禅院は京都御所の鬼門ですが、鬼門ラインの最終地点は比叡山でした。同様の構造は富士山にも当てはまります。富士山の鬼門スタート地点は富士浅間大社で、ライン上に山宮があり、富士山の鬼門に当たる阿祖山太神宮跡地には泰山府君碑があります。

しかし、阿祖山太神宮跡地は鬼門の終着点ではなかったのです。800年の富士山大噴火で壊滅するような場所は真の鬼門とは言えないからです。

頼朝は秦氏の手引きで古渡に赴き、武運長久を祈りました。実際には、この場所で鬼門封じの儀式を執行したのです。(近江在の僧侶も参加しているようです)その前に、かつての鬼門であった阿祖山太神宮にも参拝し、そこで政子に手紙をしたため、硯水不動尊における伝承が成立したのでしょう。

東国鎌倉幕府の支配者たる頼朝にとっては、富士の怒りを鎮めることが最重要な課題。鎌倉幕府創設からわずか1年後に、1カ月もかけて富士の巻狩りが催された理由はそこにあったのです。

古渡(光照寺)における鬼門封じは抜群の効果を発揮します。平安時代に頻発した富士山の噴火は鎌倉時代には全く見られなくなりました。でも、秦氏がまだ歴史の表舞台にいた平安時代初期になぜ富士山の噴火が頻発したのでしょう?

平安京の鬼門ラインは秦氏にとって最も重要でした。一方、平安京から見て富士山は草深い東国の地。噴火しようがしまいがほとんど影響はありません。富士山の鬼門封じが弱くても問題はなかったのです。阿祖山太神宮や富士高天ヶ原王朝に関連して秦氏が姿を見せていないのは、そのためとも思えます。

しかし鎌倉となると事情は大きく異なり、徹底した鬼門封じが必要となりました。よって頼朝は、秦氏の協力を得て新たな鬼門を設置したのです。

以下、地震も含めて平安時代から鎌倉時代以降における富士山噴火の歴史を概観します。

噴火:延暦19~21年(800年~802年)、貞観6年~7年(864年~866年)、承 平7 年(937年)、長保元年(999年)、寛仁4年(1020年)、長 元5年(1033年)、永保3年(1083年)、応永34年(1427年)
地震などによる山の崩壊:養和元年(1181年)、「太平記」によれば、元弘元年(1331年)富士山の禅定(山頂?)崩れるとあります。


延暦噴火と貞観噴火は宝永噴火(宝永4年、1707年)と合わせ、有史時代における富士の三大噴火とされています。つまり、平安時代には二つの有名な大噴火があったことになります。一方鎌倉時代(1192年~1333年)はほぼ空白状態になっています。なお、「宮下文書」には延暦の噴火が詳細に記されています。その事実を見ても、この文書を偽書とは断定できないことになります。

平安京における赤山禅院が鬼門ラインの最終地点ではなく真の鬼門が比叡山であったように、富士山における阿祖山太神宮は鬼門ラインの最終地点ではありませんでした。つまり、都留市古渡にある光照寺こそが真の表鬼門であり富士宮を起点とする鬼門ラインの最終地点だったのです。

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富士山の鬼門ラインを示すグーグル地図画像。線は大ざっぱに引いてあります。

阿祖山太神宮は800年の富士山大噴火で消滅しました。仮に社殿が再建されたとしても、表鬼門を封じる呪力は失われているのです。一度壊滅した場所は富士山の鬼門としてふさわしくない。鎌倉幕府を立ち上げた頼朝は新たな鬼門を設置する必要に迫られ、秦氏の協力により、かつて阿祖山太神宮までであった鬼門ラインを延長。ライン上に当たる光照寺を表鬼門としたのです。

               ―富士山麓の秦氏 その29に続く―

富士山麓の秦氏 その27


富士山周辺地域の検討は終了しました。しかし、未解決の謎が残っています。徐福や秦氏が大明見に鬼門を設置したはずなのにそれが無効力だった謎です。この問題は桂川を下りつつ徐々に解明していきたいと思います。

さて、富士北麓に居住していた秦氏は800年の富士山大噴火で相模国へ移住します。そのルート上にある秦氏の居住地域は「相模国の秦氏」において検討しました。しかし欠けている部分も多くあり、再度詳細に辿ってみたいと思います。

方法論としては、現在も秦姓が多く居住し、かつ秦氏地名の存在する地域を調べていきます。そうすれば、彼らの痕跡に当たるでしょう。と言うことで、富士吉田市を離れ139号線に沿って桂川を下ります。走り出せばすぐに都留市です。都留市の都留は既に書いたように徐福が死んだ後、鶴となった飛び去った伝説にちなんでいます。

だとすれば、都留市一帯を詳細に見ていく必要があるでしょう。まず秦姓ですが山梨県全体で44人中、都留市だけで16人となっています。全体数の36%が居られるなら、都留市は秦氏の拠点であったと考えて間違いありません。

次に地名から見ていきます。最初に目に付いたのが都留市桂町鹿留古渡(こわた)です。古渡のどこが秦氏地名かわからないとの声が上がりそうですが、古渡は以前「小幡」となっていました。それを証明するかのように都留市には小幡管工や小幡ガラス店があり、鹿留の今宮神社神楽の育成会長は小幡さんです。小幡姓で見ても山梨県全体で99人中、都留市が18人でトップとなっています。

古渡へ行くには明見から桂川に沿って北東に進みます。すると、富士急行大月線の東桂駅に至ります。その南、桂川の支流である鹿留川に沿った一帯が桂町鹿留古渡となります。


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古渡一帯を示すグーグル画像。
画像を適宜縮小・拡大して位置関係を確認ください。土地の形が大明見に極めて似通っていると思いませんか?

画像に光照寺と言うお寺が見られます。チェックしてみたところ、何とこのお寺には源頼朝が関与していました。頼朝は富士山での巻狩りに際し、武運長久を祈願するため寺を建立したのです。

巻狩り内容は以下Wikipedia を参照します。

富士の巻狩り(ふじのまきがり)とは、建久4年(1193年)5月に源頼朝が多くの御家人を集め、富士の裾野付近を中心として行った壮大な巻狩のことである。主な目的は軍事訓練であり、それと同時に頼朝が武家の棟梁としての立場を東国の武士たちに示すデモンストレーションでもあった。巻狩りの行動範囲は、富士の裾野の東方(現在の静岡県御殿場市や裾野市)に始まり、より西側の朝霧高原(現在の静岡県富士宮市)など広範囲に及んでいた。


1193年は鎌倉幕府創設の直後となります。これにも何か意味がありそうです。余談ですが、巻狩りの最中に曽我兄弟の仇討ちと言う大事件が勃発しています。「吾妻鏡」を見ると、5月2日に北条時政が先に出立し宿所の手配などしているので、時政が頼朝の暗殺を目的とした騒動であったとも受け取れます。

頼朝が駿河国に赴いたのは5月8日。曽我兄弟が事件を起こしたのは5月28日で、「吾妻鏡」には曽我五郎時致が頼朝の御前めがけて走り参ったとの記述もあります。そして6月7日、頼朝は駿河国から鎌倉に向けて帰りました。富士の巻狩りは1カ月に及ぶものだったのです。

では本題に戻ります。光照寺は頼朝が武運長久を祈願するために建立されました。しかし、どうも納得できません。富士の巻狩りの実施地域と都留市はあまりにも場所がかけ離れているからです。

なぜ頼朝はこんな場所で武運長久を祈願したのでしょう?ちょっと奇妙に思えませんか?古渡は富士山からは離れているし、しかも桂川から南の奥に入った隠れ里のような場所です。この裏には何か隠されたものがある。そう思い、あれこれ頭をひねっているとある考えが浮かんできました。

頼朝は富士の巻狩りの際、大明見の湧水に筆をひたし、政子に便りをしたから、その場所が硯水不動尊と呼ばれるようになりました。頼朝は朝霧高原から遠い大明見にまでなぜ出掛けたのか?その謎が光照寺の存在から解けそうな気がします。

以前掲載した鎌倉の謎解きの中で、頼朝は秦氏の影響を強く受けた人物と書きました。だとしたら、富士の巻狩りと言うビッグイベントの背後にも秦氏の影がちらついていると考えられます。

硯水不動尊は阿祖山太神宮から渓流沿いに奥に入った場所に位置しています。そこから何が導き出せるでしょう?富士山麓なら水はどこでも豊富にあります。わざわざ渓流の奥深くまで踏み入る必要などないはずです。

以上からある推定が成り立ちます。以前にも書いた通り、源頼朝の目的は巻狩りの実施ではなかった。彼の目的は富士高天ヶ原王朝の阿祖山太神宮訪問にあったと言う推定です。

頼朝がわざわざ別の理由でカモフラージュして富士山の表鬼門に当たる阿祖山太神宮を訪問した理由は何か?さらに都留市の光照寺で武運長久を祈願した理由は何か?この両方の疑問を重ね合わせることで答えが出てきそうです。

               ―富士山麓の秦氏 その28に続く―

富士山麓の秦氏 その26


「その24、25」で徐福と秦氏の実像を推理してみました。それでもなお、突っ込みどころや疑問点は幾つもありそうです。疑問を解きほぐそうとすると、別の部分でよじれが生じます。さらに踏み込んでも、歴史の迷路の中で混乱を増幅させる可能性すらあります。よって、酔石亭主の視点が正しいかどうかではなく、「このような見方があるかも」と言った程度でお読みいただければ幸いです。

前回で、富士山麓の現地調査は桂川流域を除きほぼ終了しました。しかし、まだ謎が残っています。徐福や秦氏は駿河湾の浮島に上陸後、なぜ気の集中する陸上プレート三重点(富士宮市)に拠点を設けなかったのかと言う謎です。気の集中する場所にふさわしく、富士宮には浅間神社の総本社である富士山本宮浅間大社が鎮座しています。まずこの神社の由緒から見ていきましょう。以下Wikipediaより引用します。

富士山本宮浅間大社(ふじさんほんぐうせんげんたいしゃ)は、静岡県富士宮市にある神社。式内社(名神大社)、駿河国一宮で、旧社格は官幣大社。日本国内に約1300社ある浅間神社の総本宮である。富士山を神体山としている。
富士信仰の中心地である。浅間大社の略称が多くで用いられ、大宮浅間とも呼ばれる。大同元年(806年)建立で、東海地方で最古の社である。
社伝によると、第7代孝霊天皇の時代に富士山が噴火し国中が荒れ果てた。その後、11代垂仁天皇が富士山の神霊「浅間大神」を鎮めるために、垂仁天皇3年(紀元前27年)頃に富士山麓にて祀ったのが当社の始まりと伝える。
当初は特定の場所で祀られていたのではなく、その時々に場所を定めて祭祀が行われていたが、景行天皇の時代に現在地の北東6kmの場所の山宮に磐境が設けられた。伝承では、日本武尊が駿河国で賊徒の計にかかり野火の難に遭ったときに、浅間大神に祈念して難を逃れたので、賊徒を平定した後に山宮に浅間大神を祀ったという。


上記の中に山宮が出てきます。山宮に関しても以下Wikipediaより引用します。

山宮浅間神社(やまみやせんげんじんじゃ)は、静岡県富士宮市にある浅間神社である。富士信仰の祭祀遺跡でもある
富士山本宮浅間大社の元となる富士信仰の大神が最初に奉斎された場所で、大神が現在の本宮浅間大社に遷されることで「山宮」として関わってきた。その為、本宮浅間大社も含め、全国に約1300社ある浅間神社のなかで最も古いと考えられている。境内には遥拝所・御神木などがあり、祭祀遺跡としての形を残している。
富士山本宮浅間大社の社伝によると、日本武尊は東国遠征の途中、駿河国にいるところで賊徒の攻撃にあった。追い込まれた日本武尊は、富士の神(浅間大神)を祈念し窮地を脱することに成功した。尊はその神の恩恵から富士大神を祀ることとし、その地が山宮浅間神社であると伝えられている。

浅間神社の実質的な創始に日本武尊が関係しているとあります。尊は駿河国の焼津で賊徒の攻撃にあい、浅間大神に祈念したそうですが、焼津と富士宮では随分と距離があります。焼津には大沼もありません。やはり尊は明見の地で賊徒の攻撃にあったのです。

「山宮」に関してWikipediaには、「大神が現在の本宮浅間大社に遷せられることで「山宮」として関わってきた」とあります。でも山宮は、なぜ現在の富士山本宮浅間大社がある場所に遷座されたのでしょう?きっと理由があるはずです。

通常遷座地は、それ以前に古代人の祭祀地として聖なる場所であったケースが多いと見られます。富士山本宮浅間大社の以前にもこの地には社があったはず。そう思って調べて見ると、ありました。富知(ふち、ふぢ)神社です。ネーミングに「富士」以前の古さが感じられます。 

富知神社の所在地は浅間大社北東部で富士宮市朝日町12-4となります。創建は第七代天皇孝霊天皇の2年(紀元前288年)で、不二神社、福知神社、福地明神社などとも称されていました。大同元年(806年)坂上田村麻呂は浅間大神を山宮から現在の富士山本宮浅間大社の地に遷座したのですが、その際富知神社が現在地に遷されたようです。

富知神社が福地明神社とも称されていたことから、この神社の創建に徐福の子孫や徐福系秦氏が関与していた可能性があります。彼らは富士宮に来ていたのです。それなのに、社を残したままこの地を立ち去ってしまった。奇妙ですね。

彼らが富士宮を拠点としなかった理由。それを検討する場合、方位を考慮すべきと思われます。平安京の鬼門ラインは秦氏が設置しました。同様の観点から、徐福や秦氏が富士宮を拠点としなかった理由も見えてきそうです。

富士山は大噴火を繰り返す危険極まりない山でした。と同時に、聖なる山(=蓬莱山)でもあったのです。聖なる山の危険を避けるにはどうしたらいいでしょう?鬼門ライン(北東ライン)を設置して危険を抑えるしかありません。

大明見地区の検討で阿祖山太神宮が富士山の表鬼門に当たる点はチェック済みです。しかし、鬼門には裏鬼門があります。鬼門とは反対の南西の方角が裏鬼門で、この方角も忌み嫌われるのです。

そこで昭文社の山梨県地図を取り出し、大明見から富士山を経て南西にラインを引いてみました。すると、どこに到達するでしょうか?そう、富士宮です。鬼門の起点が裏鬼門に当たる富士宮でした。富士宮から蓬莱山である富士山を経て到達する表鬼門の地は、徐福子孫と秦氏にとってより重要だったのです。

よって彼らは大明見の地を選んだのです。偶然か必然か不明ですが、そこには既に海人系の阿祖山太神宮が鎮座していました。現在のこの場所には富士山の表鬼門を示す泰山府君大神の石碑まであるのです。

富士宮に徐福や秦氏の痕跡がない理由。それは富士宮が裏鬼門であり鬼門ラインの起点だったからでした。徐福や秦氏は気の発する富士宮に後ろ髪を引かれつつも、さらに移動を続け富士山の表鬼門に当たる明見地区に入ります。その結果、明見地区には徐福の痕跡が濃厚に残ったのです。

しかしです。ここでも大きな疑問が出てきます。表鬼門の地である富士高天ヶ原王朝(阿祖山太神宮)は800年の富士山大噴火で壊滅しました。富士高天ヶ原王朝など影も形もなくなったのです。

徐福子孫や秦氏が表鬼門を設置したはずなのに、無効力だったとはどうしたことでしょう?それとも、阿祖山太神宮は鬼門に位置していなかったのでしょうか?富士山麓における検討は終わったのに、なおも疑問が残ってしまいました。徐福子孫や秦氏が桂川を下り相模国に入ったなら、その過程を見る中で答えを得られるかもしれません。

次回からは桂川流域に探索の場を移します。シリーズの続きなので記事タイトルは「富士山麓の秦氏」のまま継続する予定です。

               ―富士山麓の秦氏 その27に続く―
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