FC2ブログ

富士山麓の秦氏 その25


今回も徐福の子孫と秦氏の関係です。「秦さんはどこにいる? その12(久我山の秦氏)」9月19日で、藤沢の徐福伝承がある妙善寺福岡家のお墓についてレポートしています。その中で、福岡家の祖先に秦太郎蔵人可雄と言う人物がいて、1419年に死去し秦野市今泉村の光明寺に葬られた旨書きました。

でも、少し考えると疑問が湧きます。妙善寺の福岡家はなぜ祖先が秦姓で、現在は福岡姓になったのでしょう?墓碑にはおおよそ以下のように書かれています。

「故人である粛政の祖先は秦の徐福から出ている。徐福は始皇帝の戦乱を避けて海を渡航し、我が神州まで渡来して、富士山の山麓に居住した。それ故、子孫は皆、秦を姓とした。福岡を氏と為すものは、徐福の一字を取ったものである。近くの地に秦野の名があるのは、一族の旧蹟に関係するものらしい。これは、祖先の地を明らかにするに十分である」天文二三年甲寅(一五五四年)一月十一日 福岡家累代の墓 福岡平一郎

これには重大な混同があると考えられます。まず、徐福の子孫の姓には必ず「福」の一字が入ります。それが秦姓になることはありません。徐福の長男は福永を改め福岡としているので、福岡姓は基本的に徐福子孫の姓と考えられます。800年の噴火で寒川に逃げたのも福岡徐教でした。

(注:墓碑は秦を姓、福岡を氏としています。氏は血縁、擬制を含めた同族集団を意味し、姓は地位や職掌を表す呼称です。秦の場合ですと氏は秦氏で姓では例えば秦忌寸などとなります。忌寸(いみき)は、684年(天武天皇13年)に制定された八色の姓(やくさのかばね)で新たに作られた姓(かばね)で上から4番目となります。ただ墓碑の時代ではそのような区分で書いていないと思われます)

つまり墓碑の内容が、徐福→長男の福岡→現在の福岡なら問題ありません。徐福→子孫は秦を称した→現在も秦姓なら、秦氏が徐福を取り込んだとして辻褄は合わせられます。ところが福岡家の墓碑の内容だと、徐福→長男の福岡→現在の福岡の間に秦野の秦氏が割り込んでいる形となるのです。これを合理的に説明するにはどうしたらいいのでしょう?

前回で、「富士山麓に入った秦氏は徐福の子孫と婚姻関係を結んだ。それにより秦氏は、徐福を自分の中に取り込んで子孫と称することが可能となった」と書きました。この視点なら合理的な説明が可能になります。

藤沢市妙善寺の徐福伝承は、福岡徐教の子孫である寒川の福岡家と徐福伝承を持つ秦野の秦氏が1419年以降に婚姻関係を結び、名実ともに秦氏が徐福の子孫となったことを伝えているのではないでしょうか?

もちろんそれよりずっと以前に、徐福の子孫と秦氏が婚姻関係を結んだ可能性は十分にあります。(徐福伝承のある土佐、熊野、東三河、富士山麓のいずれも秦氏の痕跡が濃いからです)つまり1419年以降、先祖に倣った形で福岡家と秦氏の婚姻が再び実行され、現在の福岡家になったとも考えられます。

「秦さんはどこにいる? その12(久我山の秦氏)」で、「秦氏は徐福伝承を持ち運びながら移住を繰り返したので、いつしか自分たちの祖先は徐福であると言う話に転化してしまったのでしょう。その伝承が長く伝わったため、秦姓を福岡姓に改名してしまった、と理解されます」と書きましたが、その内容は上記のように訂正する必要があります。

いずれにしても、前回の検証から、富士山麓の徐福子孫とされた羽田氏は秦氏ではありませんでした。それでも長池地区の羽田氏は秦氏であるとしておきましょう。なぜなら、「甲斐国志」などの史料にそう記載され、しかも彼らは、徐福の子孫である秦氏が改名し羽田姓となったと言う思想を近年まで保持していたからです。

どうしてそうなるのか?それは秦氏の定義に依ります。秦氏とは、秦氏の思想を受け継いでいる一族を意味するのです。血脈が秦氏でなくても秦氏になれるのです。それはご都合主義的な議論だと反論が出るでしょう。でも、決してご都合主義ではありません。

この問題をユダヤ人の定義から考えてみます。古代から中世におけるユダヤ人の定義は、「ユダヤ教を信仰する人々」でした。であるなら、長池地区の羽田氏に関しても同様の視点から見ることができるはずです。よって、長池地区の羽田氏は秦氏だったのです。

同時に、富士山麓には徐福の子孫を名乗る一族、本流の秦氏、徐福系秦氏も居住していたのです。そしてこの時点で徐福の子孫と秦氏が婚姻関係を結んだ可能性もあるのです。

やはり、徐福に関して明確にせず、徐福伝承を秦氏が持ち運んだと言う以前の考え方は訂正すべきと思われます。

確たる証拠はありませんが、徐福は多分日本に渡来した。それからおよそ600年の後、秦氏が日本に渡来した。一部の秦氏は、徐福の子孫が日本国内を移動した経路を辿り各地を移動した。どの時点・どの場所かは不明だが、移動の途中で秦氏は徐福の子孫と婚姻関係を結んだ。これにより秦氏は徐福の子孫と自称できるようになった。これが、徐福系秦氏の実像と推定されます。

ではなぜ、徐福子孫と後に続く秦氏は富士北麓の地を拠点に選んだのでしょう?

富士山は蓬莱山であることがまず挙げられます。富士山の鬼門に当たる明見に富士高天ヶ原王朝があったのも大きな理由になるはずです。明見の地形も理由になります。大明見・小明見は平野がV字を横にしたような形で、開口部は桂川に面し、それ以外は山に囲まれた、守りに固い隠れ里的な場所なのです。だから彼らはこの地を重視したと考えられます。

でも、ここで待ったの声が掛かります。なぜ徐福と秦氏は大地の発する気が集中する陸上プレート三重点の富士宮を拠点にしなかったのか、その答えがないからです。この問題は、源頼朝も関係しそうなので別途検討してみます。

             ―富士山麓の秦氏 その26に続く―

富士山麓の秦氏 その24


現在富士山麓の徐福伝説で語られる内容はおおよそ以下の通りです。

徐福が富士北麓に来て彼らの子孫は秦氏を名乗ったが、後世、羽田と改名した。山中湖の北側にある長池村は,以前は長命村と呼ばれており,蓬莱山に不老不死の仙薬を求めた徐福の子孫が住みついたとされる村である。よって長池村は羽田姓が非常に多い。

これを酔石亭主流に解釈し、全体を再構成してみます。既に書いたように、今まで曖昧にしてきた部分があります。徐福と徐福の子孫を自称する徐福系秦氏との分別を避けてきた点です。この問題も今回でクリアしなければなりません。

徐福が富士山麓渡来したか否かは、遺物もない現状から五分五分で確定できません。しかし、少なくとも徐福の子孫は富士山麓に入っているとしなければ筋が通りにくいようです。従って、今後はその前提でお読みいただきたいと思います。

紀元前217年頃日本に渡来した徐福の子孫が富士北麓に住みついた。それからおよそ600年の後、応神天皇期の4世紀後半に秦氏が日本に渡来した。秦氏の一部は徐福を祖先に取り込みたいと思い、海人系安曇族の協力で土佐、熊野、東三河を経由し富士北麓に入った。

富士山麓に入った秦氏は徐福の子孫と婚姻関係を結んだ。それにより秦氏は、徐福を自分の中に取り込んで子孫と称することが可能となった。同地に来た武内宿禰は徐福の子孫や秦氏から様々な歴史を学んだ。よって武内宿禰は子供の八代宿禰を羽田八代宿禰に改名させた。羽田八代宿禰は富士山麓の原住民に機織りを教えた。

羽田八代宿禰に感謝の意を表した富士山麓の原住民は、羽田を名乗った。800年の富士山大噴火を避け、徐福の子孫と徐福系秦氏は桂川に沿って相模国に入った。但しその人数は多くない。徐福系秦氏は海老名、厚木辺りで留まり、徐福の第32代子孫福岡徐教一族は寒川に入って寒川神社を創建。徐福を寒川比古命として祀った。

富士山北麓の羽田を称する原住民(武内宿禰の子孫を自称する民)たちは一旦避難するも、噴火が収まり自分たちの土地である山中湖から富士吉田一帯に戻った。従って、この一帯には現在でも羽田姓が多い。

このように考えれば、富士山の大噴火があったにもかかわらず、また秦氏は噴火を避けて相模国に向かったにもかかわらず、羽田姓が山中湖周辺から富士吉田市にかけて多い理由が説明できます。つまり、現在富士山麓に居られる羽田氏は、秦氏ではなく地元民の可能性が高くなります。

以上が酔石亭主の推論となります。なお、富士吉田市の羽田氏(武内宿禰系)と山中湖村長池地区の羽田氏(徐福、秦氏系)が別の系統である可能性はなおも残っています。

でも、徐福の子孫が寒川に入った証明があるのでしょうか?寒川には羽田姓、秦姓ともに一人ずつしかいないので、とても証明できないように思えます。しかし、徐福の子孫は必ず名字に「福」が付きます。

「富士古文書」によれば、徐福32代目の福岡徐教の時に800年の富士山大噴火が起き、彼らは大宮司とともに古文書を持って相模国へ移住したとされます。だとすれば、寒川町に福岡姓が多いはずです。

そこで、徐福の長男福永が改名した福岡姓を検索してみましょう。検索の結果は実に驚くべきものでした。

神奈川県の総人口は約900万人で、寒川町の人口は約4万7千人。神奈川県全体の約0.5%に過ぎません。次に神奈川県の福岡姓を調べると、全体で372人でした。ところがです。寒川町における福岡姓は45人も居られるのです。

福岡姓45人は神奈川県全体の12%に当たり、通常では考えられない人数と言えます。この偏りは、徐福の子孫を名乗る一族が富士山麓から桂川、相模川沿いに下り相模国に入って、寒川神社を創建した事実を反映しているのではないでしょうか? その子孫が今も寒川に居住されているとすれば、寒川町における福岡姓の多さを完全に説明できるのです。(そもそも寒川自体が桂川上流部の古名です)

それは同時に、徐福の渡来の証明と子孫の存在の証明にもなるのです。また同時に、寒川神社に祀られている寒川比古命が大山祇神であり、徐福であることの証明にもなると思われます。


                ―富士山麓の秦氏 その25に続く―

富士山麓の秦氏 その23


武内宿禰関連での難問は他にもあります。それを見ていく前に武内宿禰に関して以下Wikipediaより引用しましょう。

武内宿禰(たけうちのすくね・たけのうちの-・たけしうちの- 、景行天皇14年(84年) - 仁徳天皇55年(367年)4月?)は、『古事記』『日本書紀』で大和朝廷初期(景行・成務・仲哀・応神・仁徳天皇の5代の天皇の時期)に棟梁之臣・大臣として仕え、国政を補佐したとされる伝説的人物。建内宿禰とも表記される。…中略…
第13代成務天皇と同年同日の生まれという。 第12代景行天皇の時に北陸・東国を視察して、蝦夷の征討を進言した。


武内宿禰でちょっと気になるのは景行天皇の時に北陸・東国を視察したとあることです。日本武尊はもしかしたら、武内宿禰の行動が下敷きになって創作されたものかもしれません。だとしたら、武内宿禰は現地に機織りを伝える一方、富士高天ヶ原王朝を討伐したのでしょうか?またも混乱しますね。

この問題は判断不能なのでさて置いて、武内宿禰の子に葛城襲津彦と言う人物がいます。以下Wikipediaより引用します。

葛城襲津彦(かつらぎ の そつひこ、曽都毘古・沙至比跪、 生没年不詳、4世紀後半~5世紀前半頃?)は大和葛城地方の古代豪族葛城氏の祖として『記紀』に記されている。編年がほぼ正しく同時代史料が元となったと考えられる百済三書のひとつ、百済記にその名が見えるので、実在の可能性が高い。


葛城襲津彦は弓月君とその民を日本に連れてくるよう応神天皇から指示されています。長くなりますが、弓月君に関しては以下Wikipediaより引用します。(引用ばかりで済みません…)

弓月君(ゆづきのきみ/ユツキ、生没年不詳)とは『日本書紀』に記述された秦氏の先祖とされる渡来人である。『新撰姓氏録』では融通王ともいい、秦の帝室の後裔とされる。
帰化の経緯は『日本書紀』によれば、まず応神天皇14年に弓月君が百済から来朝して窮状を天皇に上奏した。弓月君は百二十県の民を率いての帰化を希望していたが新羅の妨害によって叶わず、葛城襲津彦の助けで弓月君の民は加羅が引き受けるという状況下にあった。しかし三年が経過しても葛城襲津彦は、弓月君の民を連れて本邦に帰還することはなかった。そこで、応神天皇16年8月、新羅による妨害の危険を除いて弓月君の民の渡来を実現させるため、平群木莵宿禰と的戸田宿禰が率いる精鋭が加羅に派遣され、新羅国境に展開した。新羅への牽制は功を奏し、無事に弓月君の民が渡来した。

弓月君は、『新撰姓氏録』(左京諸蕃・漢・太秦公宿禰の項)によれば、秦始皇帝三世孫、孝武王の後裔である。孝武王の子の功満王は仲哀天皇8年に来朝、さらにその子の融通王が別名・弓月君であり、応神天皇14年に来朝したとされる。渡来後の弓月君の民は、養蚕や織絹に従事し、その絹織物は柔らかく「肌」のように暖かいことから波多の姓を賜ることとなったのだという命名説話が記されている。(山城國諸蕃・漢・秦忌寸の項によれば、仁徳天皇の御代に波陁姓を賜ったとする。)その後の子孫は氏姓に登呂志公、秦酒公を賜り、雄略天皇の御代に禹都萬佐(うつまさ:太秦)を賜ったと記されている。


上記から、秦氏の先祖である弓月君と武内宿禰の子である葛城襲津彦は深い関係があることになります。と同時に羽田八代宿禰は徐福と関係が深いことになります。

そもそも応神天皇は秦氏の大王ともされ、宇佐八幡宮に祀られています。日本における秦氏の事実上の始まりは応神天皇時代と言って差し支えないのです。そして天皇の背後には武内宿禰の存在がありました。応神天皇の子は何度も書いたように大山守皇子で、富士山麓や徐福に関係します。途方もなく錯綜していますねぇ~。ホント、ため息が出そうです。

応神天皇は仲哀天皇と神功皇后の子供であると「古事記」には書いてあります。しかし、「古事記」を読んだだけでも、仲哀天皇の死は明らかに謀殺と思われ、応神天皇の父は武内宿禰であると考えられます。(注:父は海人系の住吉大神との説もあり、海人系の案内で各地を移住した秦氏の姿を反映しているようにも思えます)

いかがでしょう?これらを総合すると、大和朝廷の系統が仲哀天皇で途切れ、秦氏系に入れ替わったような印象さえ受けます。それを仕掛けたのが武内宿禰…。武内宿禰一家の秦氏への関与は尋常ではありません。

武内宿禰とその子供は、秦氏の大王ともされる応神天皇のみならず、日本に渡来した当時の秦氏に深く関与があり、徐福にも関与があり、徐福の子孫を自称する秦氏が改名した羽田氏にも関係があるのです。武内宿禰一族は徐福や秦氏にとって影の参謀のような存在ですね。

いずれにせよ、武内宿禰とその子供の存在は「富士山麓の秦氏」をより複雑なものにしてしまいます。なぜなら羽田氏は、もうご理解いただけるように徐福→徐福の子孫である秦氏→羽田氏以外に、武内宿禰→羽田八代宿禰→羽田氏の2ラインあることになってしまうからです。長池村の羽田氏は羽田八代宿禰ラインなのでしょうか?あるいは、徐福ラインなのでしょうか?

様々な情報の洪水に溺れそうな気分です。上記の問題は資料がない以上不明とするしかありません。でも、富士山麓に居住する羽田氏は徐福子孫である秦氏が改名したものかどうか、決着を付ける必要があります。既に書いた部分もありますが、次回で再度整理してみます。

                 ―富士山麓の秦氏 その24に続く―

富士山麓の秦氏 その22


富士高天ヶ原王朝の最重要地点(阿祖山太神宮、七神廟の一つである麻呂山)は前回で見終わりました。次に重要な場所が小明見の向原に鎮座する富士浅間神社です。このシリーズの初めに、地元の伝承で徐福の子孫とされる羽田氏は本当に秦氏なのかと言う疑問を提示していますが、この場所に謎を解くヒントが隠されていそうです。

115_convert_20111202103834.jpg
向原の冨士浅間神社です。

118_convert_20111202103904.jpg
拝殿。


大きな地図で見る
神社を示すグーグル地図画像。

116_convert_20111202103933.jpg
解説石板があります。内容は重要なので以下記載します。

羽田一族隆昌記
羽田氏の始祖は人皇第八代孝元天皇の曾孫武内宿禰である 宿禰は徐福の学問に心服し其の子を門人として修業させたが成長の後は徐福の国の秦の意を取り入れて羽田八代宿禰と名付けた 父の武内宿禰は、景行天皇 成務天皇 仲哀天皇 神功皇后 応神天皇の五朝に歴任して大功があった 
羽田八代宿禰は神功皇后摂政五十四年の時 誉田別尊の二皇子明仁彦政本彦を守護して福地山(富士山)に来てこの地に止まった
延歴十九年福地山大噴火の後阿田津山の裏の麓である古原の要害地に七社明神大社の祈願所を創建し其の前方に館を立て其の右方に
真王神社 御祭神として大山咋命 別雷命 孝元天皇 武内宿禰を祀り
「再建に付き羽田八代宿禰を合祀」産業発展と子孫繁栄の祈願をなすこの神社は後に松尾神社と改め今日に至って居る 昭和四十一年一月十二日富士浅間神社炎上の折り松尾神社も亦炎上の厄に遭い有志深く之を憂い同四十七年五月松尾神社再建委員会を結成羽田一族貮百戸の浄財を礎にここに新社殿竣工の喜びを見るに至るも 依って羽田一族の隆昌記と再建の経緯を録して後世に伝う


121_convert_20111202103957.jpg
解説石板にある松尾神社。

解説石板の文面はやや不明瞭な部分もありますが、「富士古文書」の以下の内容から引いていると思われます。

時に、武内宿禰、大神宮へ奉幣にさて、徐福の来朝を聞いて大いに悦び、その門に入って教えを受け、後に一子矢代宿殊をも門人にした。矢代宿殊は秦人に学んだので姓を羽田と改めた。 徐福は武内宿禰の請をいれて、塾を開いて学を講じた。大神宮のほとんど全神官が学生になった。徐福は日本の古文史に興味を持ち、三十六神家につき、その口碑・伝言・文書などによって十二支談を作った。

武内宿禰は300年近くを生きたとされる伝説的人物ですが、それでも紀元後の話であり、紀元前217年頃に渡来した徐福とは直接の接点がありません。徐福の遠い子孫から教えを受けたとするのが精一杯です。

なお解説石板には「古原の要害地に」と記載あります。古原は麻呂山のある地域で向原の南に位置しています。だとすれば、麻呂山の太神社が向原富士浅間神社(松尾神社)の元宮と言うことになりそうです。

いずれにせよ、この石板には重要な内容が記載されています。解説石板の最初に、「羽田氏の始祖は人皇第八代孝元天皇の曾孫武内宿禰である 宿禰は徐福の学問に心服し其の子を門人として修業させたが成長の後は徐福の国の秦の意を取り入れて羽田八代宿禰と名付けた」とあるからです。

この石碑を建てた羽田さん一族は武内宿禰を祖先としていました。今までの流れでは、徐福→子孫は秦氏を称す→秦氏→羽田氏、となっていたはずです。

ところが解説石板によれば、羽田一族は武内宿禰の子孫であり、秦氏の一族ではありません。
しかし、松尾神社は京都の松尾大社の例を引くまでもなく、秦氏系神社です。

かなり混乱を招きそうな事態となりました。羽田氏は徐福子孫を称する秦氏の一族なのでしょうか?あるいは羽田氏は、武内宿禰の子孫であり秦氏ではないのでしょか?

富士吉田市の羽田氏は武内宿禰の子孫であるとして、山中湖長池地区の羽田氏は徐福の子孫を自称する秦氏が改名したものなのでしょうか?仮にそうなら、同じ羽田姓に二つの全く異なる流れがあることになります。

まず武内宿禰の子である矢代宿殊(=羽田八代宿禰)に関して見ていきましょう。彼は波多氏の祖とされています。

波多氏に関しては以下Wikipediaより引用します。

武内宿禰の長男である羽田八代宿禰(はたのやしろのすくね)を祖とする。姓は臣のち朝臣。八多(八多朝臣)、八太(八太臣)、羽田(羽田臣・羽田朝臣)とも表記される。大和国高市郡波多郷の地名に由来し、高市郡にあった延喜式内社の波多神社を氏神とした。祖の波多(羽田)八代宿禰は弟の巨勢小柄宿禰(こせのおからのすくね)とともに神功皇后による三韓征伐に従う。


もう少し羽田八代宿禰に関して調べる必要があります。「甲斐国志」で調べたところ「巻之百二十三 産物及製造」に以下の記述がありました。超分厚い本の最終巻です。

製造品 郡内絹 郡内トハ都留郡ノ自称ナリ、絹綿ノ事ハ、旧ト波多八代宿禰ノ事跡二拠ル、〈古蹟部二詳ニス〉八代ハ山背ノ義ニテ、富士山ノ北ヲ云、波多ハ絹綿ノ肌膚軟ナル義ナリ、秦氏ノ事古語拾遺二見ユ

製造品 郡内絹 郡内とは都留郡の自称である。都留郡の絹綿のことは波多八代宿禰の事跡による。八代は山背の意味で富士山の北のこと。波多は絹綿の肌触りが柔らかなことを意味する。秦氏に関しては古語拾遺に見られる。

山梨県八代町の町名と羽田八代宿禰の八代はリンクしていると考えて良さそうです。地名と人名がリンクしている以上、羽田八代宿禰の実在は否定できないと思われます。なおこの人物は、波多八代宿禰と羽田八代宿禰の二通りの表記がありますが、本ブログでは羽田八代宿禰で統一します。

さて、富士吉田織物協同組合のホームページによれば、以下のごとく富士北麓の織物技術は徐福が伝えたとあります。

富士吉田市を中心とした富士山の北麓は、約1000年前から織物が織られていた、まさに織物のふるさと。その歴史をひもとくと、実はさらに昔の2200年前以上にさかのぼることができ、中国から織物が伝えられたという伝説が残されています。紀元前219年、秦の始皇帝の家来の徐福がこの地に織物の技術を伝えたというもの。

機織りに関する他の情報も、おおむね富士吉田織物協同組合の徐福説に拠っています。しかし酔石亭主は、実在している人物の羽田八代宿禰説に軍配を上げたくなります。「甲斐国志」に「都留郡の絹綿のことは波多八代宿禰の事跡による」とあるからです。ただ、「甲斐国志」には羽田氏(波多氏)と秦氏の混同が見られます。うまく切り分けられていないのです。困りましたね。

120_convert_20111202104025.jpg
神社には神楽殿もあります。

119_convert_20111202104049.jpg
解説板。

小明見地区は以上です。なお明見の地名に関しては、阿曽(=富士山)が見える土地(阿曽見)が転じて明見になったものと思われます。阿曽は海人系の地名ですから、徐福以前の明見はやはり海人系の地であったのです。

               ―富士山麓の秦氏 その23に続く―

富士山麓の秦氏 その21


ようやく大明見地区を見終わりました。富士高天ヶ原王朝所在地である阿祖谷の位置特定もできて収穫は大きかったと思います。今回からは小明見地区を見て回ります。

古屋川に沿って下り明見第一駐在所の信号を右折すると、背戸山の尾根の先端部手前がトンネルとなっており、抜けるともう小明見です。


大きな地図で見る
一帯を示すグーグル画像。

トンネルを抜けてすぐに三峯神社がありました。

101_convert_20111201095007.jpg
三峯神社。

由緒は不明です。基本的に三峯神社は、日本武尊が伊弉諾尊(いざなぎのみこと)・伊弉册尊(いざなみのみこと)を祀ったのが始まりです。だとすれば、この三峯神社も富士山麓に多くの足跡を残した日本武尊に関連するのでしょう。

103_convert_20111201095031.jpg
小明見の光景です。こちらも大明見同様のどかですね。

102_convert_20111201095103.jpg
もう一枚。

次に明見湖に向かいます。富士山周辺の湖に関して、一般には富士五湖(山中湖、河口湖、西湖、精進湖、本栖湖)と呼ばれていますが、かつては、富士八湖と呼ばれ、富士五湖に四尾連湖、明見湖、駿河の浮島沼が加えられていました。浮島沼は徐々に干上がり、仙瑞(泉瑞)に取って代わられます。

明見湖は徐福の時代(紀元前200年ごろ)はもっと大きかったようで、湖の周囲も富士高天ヶ原王朝に関連しています。明見湖は背戸山の尾根の北に位置します。グーグル画像を拡大して参照ください。

105_convert_20111201095127.jpg
明見湖です。現在はこじんまりした池のように見えます。

106_convert_20111201095151.jpg
明見湖の解説板。

湖の周囲には神社があります。まず明見之龍神社。

107_convert_20111201095219.jpg
明見之龍神社です。

明見湖に棲む龍神「明見之龍神」を祀ったのが、「明見之龍神社」とされています。現在建て替え中のようで、コンクリの基礎と社名を書いた木札以外何もありません。

次が、明見湖から少し坂を上がったとことにある徐福雨乞地蔵祠です。

104_convert_20111201095247.jpg
徐福雨乞地蔵祠。

徐福像は新しそうで、調べてみると1997年に建てられたものとか。徐福の遺跡と言えるようなものではありません。どうもここまで見た限りでは大した痕跡はなさそうです。小明見で最も注目されるのは、麻呂山です。ここには富士高天ヶ原七廟の一つ麻呂山の神廟があった場所と思われ、天照大神が祀られています。

つまり麻呂山は、阿祖山太神宮に匹敵する富士高天ヶ原王朝の聖地とも言えるのです。場所を地図で確認してみましょう。


大きな地図で見る
グーグル地図画像。

小高い丘のように見えますね。平和宮殿などと言う妙な名前の建物があり、その脇に石段があって山頂とおぼしき場所の建物が天照皇大神となっています。神社名は太神社です。小明見全体も狭い場所なので、車ですぐに到着します。道はやや狭いですが、問題はないでしょう。

114_convert_20111201095318.jpg
麻呂山です。古墳のような感じもします。

113_convert_20111201095347.jpg
石段を見るとまたも三宝法団でした。

108_convert_20111201095428.jpg
急な石段の先に小さな社です。これが太神社でしょうか。社を参拝し、さほど広くもない山頂を少し歩きます。

111_convert_20111201095458.jpg
山頂部に巨大な石碑が。

新しく立てられた碑で、三宝法団と彫られています。石碑の一つが「邪馬台国アラハバキ」とは一体何なのか皆目見当もつきません。無視します。

さて、徐福はBC208年の死んだとされ、中室の麻呂山に、つまりこの場所に埋葬されたそうです。そして、大山守皇子がここに徐福の祠を建てたとされているのです。祠は探すまでもなく簡単に見つかりました。

110_convert_20111202064342.jpg
徐福祠です。

さすがに立派な石祠です。しかし、後世のものでしょう。この種の石祠が多く建てられたのは江戸時代で、古くても鎌倉時代までと思われます。徐福祠は、江戸中期頃に建立されたと推定できます。

109_convert_20111201095522.jpg
隣に大きな石碑がありました。

第六天魔王と彫られているようです。

山中湖平野の平野屋には魔王様神社があって徐福が祀られているとの未確認情報があります。第六天魔王の石碑は、その関連とも思われます。

第六天魔王に関しては以下Wikipediaより引用します。

天魔(てんま)とは第六天魔王波旬(はじゅん=悪魔)のこと、仏道修行を妨げている魔のことである。天子魔(てんしま)・他化自在天(たけじざいてん)・第六天魔王(あるいは単に魔王)ともいう。あるいは天魔の配下の神霊(魔縁参照)のこと。


太神社は天照大神を祀っているのですが、この神は通常女神です。ところが地図画像の表記は天照皇大神。男神のような書き方と思えませんか?実は、富士古文書によると富士高天ヶ原七神廟を造ったのは男神の天照大神とされているのです。地図画像にそれが反映されているとすれば、なかなかのものです。いずれにしても、天照大神を祀る麻呂山の神廟は七廟のうちで最も古く由緒あるものでした。

112_convert_20111201095553.jpg
崩壊したと思われる石祠。これが何であったのか知りたいところです。

現在の形はどうであれ、富士高天ヶ原七神廟の一つが残っているのなら、具体的裏付けがあることになります。言い換えれば、「富士古文書」は100%偽書であると断定できないのです。書かれた内容が神話的であっても、書いた人たちの歴史まで否定する姿勢は正しくないと思われます。

               ―富士山麓の秦氏 その22に続く―
プロフィール

酔石亭主

Author:酔石亭主
FC2ブログへようこそ!

最新記事
カテゴリ
最新トラックバック
月別アーカイブ
カレンダー
01 | 2020/02 | 03
- - - - - - 1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
天気予報

-天気予報コム- -FC2-
最新コメント
FC2カウンター
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
QRコード
QRコード
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる