富士山麓の秦氏 その35


今回は大幡(秦氏)が秦野に至るまでを探索します。ルートは道志村大渡(大幡)→中継地点→日向薬師→秦野となります。まずは中継地点を探しから…。

地図を睨んでいると、二つのルートが浮かんできました。道志村馬場から青野原に出て、宮ケ瀬より64号線を下り別所温泉、七沢温泉を経由して日向薬師に入るルート。もう一つは半原から相模川の支流である中津川に沿って下るルートです。両ルートの間には高取山(鷹取山)があり、移動ルート上に暗号化した地名を残す秦氏の習性から、二つのうちのいずれかに間違いないと思われます。

なおヤビツ峠に出るルート(現在の70号線)に沿って高畑山があり、秦氏が秦野に入るためこのルートも使用したことは間違いありません。それは「相模国の秦氏」で既に書いていますし、今回は大幡の移動ルートに沿って検討しているため横に置きます。徐福子孫や徐福系秦氏は桂川をそのまま下り、途中から名前を変えた相模川に沿って移動、寒川近辺に入ったと思われますが、これも大幡と関係がないので横に置きます。

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上記四つのルートを示す電子国土画像。赤線は大ざっぱに引いてあるので、単なるイメージとご理解ください。

画像左側から見て最初の赤線が、70号線でヤビツ峠を抜け秦野に直行するルート。画像左端に高畑山があります。次が64号線で別所温泉、七沢温泉を経由して日向薬師に入る想定ルート。その次が中津川沿いの想定ルート。最後が相模川沿いのルート。なお、画像上の高取山は経ケ岳の下ですが、昭文社の神奈川県道路地図では仏果山の上にも高取山があります。

さて日向薬師に至るための中継地としては、古代の痕跡の残る土地が最有力の候補となります。その視点から調べると、中津川沿いのルートに八菅神社がありました。画像で鳶尾山の北に神社マークがあるのがそれです。この地には何と日本武尊の伝承が残されていました。富士山麓でも頻繁に顔を出した人物が登場しているなら、有力候補地と見て間違いありません。早速行ってみましょう。


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八菅神社を示すグーグル地図画像。住所:愛甲郡愛川町八菅山141-3

厚木から129号線を北上すると、相模川と中津川に挟まれた一帯に下依知、中依知などと言った地名があります。依知秦氏と何らかの関係でもあるのでしょうか?

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中津川の河原から見た八菅山(はすげさん)です。

日本武尊に関しては「新編相模風土記稿」下之巻二、八菅山の項に以下の記載があります。

相伝フ日本武尊東征ノ時。此山ヲ望ミ形チ龍二似タリトテ。蛇形山ト名ケシトナリ。今山中二左眼池右眼池鼻池口池舌畑等ノ唱ヘアルハ。当時ノ稱呼残セルナリト云。

日本武尊東征が東征の時にこの山を望み、形が龍に似ていたので、蛇形山と名付けた。今も山中に左眼池、右眼池、鼻池、口池、舌畑などと言われる場所があるのは、当時の呼称が残っているからだ。(左眼池と右眼池は現在も残っており別途写真を掲載します)

ここにはまた神塚があり、日本武尊が鉾を立てたところで、五輪塔が建っているとのことです。蛇形山が現在は八菅山と号されている理由は、「新編相模風土記稿」によると以下の通り。

又八菅山ト号スルハ大宝三年。七社権現勧請ノ時奇瑞アリテ。名ヅケシト云。

また八菅山と号するのは大宝3年(703年)(修験道の開祖である役の行者がこの地を訪れ)、七社権現勧請の時、奇瑞があって名付けたと言われる。

奇瑞とはどのようなものか、七社権現の項を見ると以下の通りでした。(漢文で読みにくいので大意を書きます)

昔八丈八手ノ玉幡(ぎょくばん)が天よりこの山に降臨し、八本の菅根が忽然と生え出した。それ故に八菅山と称す。

玉幡とは高御座(たかみくら)の八角の棟の下にかける旗の形をした飾りです。メノウや水晶などの宝玉で飾られた幡なので玉幡と呼ばれます。幡が降臨したなら秦氏と大喜びしたのですが、そうは問屋が卸しません。富士山の噴火は800年で玉幡の降臨は703年。年代がマッチしないのです。年代は昔のことだからと目をつぶっても、ストーリー的に大幡との繋がりが見られません。困りましたねぇ~。

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八菅神社の鳥居です。

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八菅神社の拝殿。横長の社殿です。

八菅山は日本武尊のみならず役の行者まで登場する修験道の聖地でもありました。さらに応永26年(1419年)の八菅勧進帳によれば行基の開創ともされています。

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解説板です。玉幡の降臨が詳しく記されています。

さて、日本武尊、役の行者、行基と超有名人が関係する八菅神社であれば、秦氏が立ち寄らないはずがないと思えます。しかし、神社にそれを示すものは見当たりません。早速「新編相模風土記稿」で調べてみます。すると、ありました。下之巻二、八菅山の項の記事です。

山中二堂庭幡、幡之坂、以上二所、往昔幡降臨ノ地ト云。

八菅山の山中には堂庭幡、幡之坂の二カ所があり、遠い昔に幡が降臨した地と言われている。

この幡は、八菅山の山名由来となった玉幡ではないと理解される記述です。以上から、幡(秦氏)が八菅山に飛来したと確認できました。日向薬師側でも「新編相模風土記稿」に簡単な記述があります。

縁起曰。神亀二年。幡天ヨリシテ降ル云々。

縁起によれば神亀2年(725年)、幡が天から降ってきたそうだ。

幡が日向薬師まで飛んだことを確認できる記述です。次は秦野です。「新編相模風土記稿」下之巻二をチェックしたところ、落幡村の項に以下の記述がありました。

往古。善波太郎当所ニテ。幡曼荼羅ヲ射落セシヨリ。地名起レリト云。

遠い昔、善波太郎が当所において幡曼荼羅を射落としたのが地名の起こりと言う。

日向薬師の伝承は725年ですから、富士山噴火の800年以前となります。落幡村の記事は鎌倉時代の伝説ですから、内容が変化しています。時代のずれはあるものの、幡の動きは桂川及び道志川流域の伝承に接続するものと見てほぼ間違いないでしょう。

でも、今一つ説得力に欠けそうに思え、ネット上で調べてみました。すると、藤沢市のホームページに中将姫の関連で以下の記載が…。

『新編相模風土記稿』によれば、次の所に中將姫に関わる伝承が残されている。以下は、愛川町の八菅山(はすげさん)と伊勢原市の日向薬師(ひなたやくし)、及び秦野市の落幡(おちはた)を結ぶ伝承である。「その昔、中將姫が織り上げたという大きくて立派な幡が、津久井の方から飛んできて、八菅の北の坂(幡の坂)へ落ち、更に舞い上がってこの家(雲台院…字宮村の中央部。地名は、幡)の庭に落ちてきた。行者(八菅山は、修験の道場)たちが総出で祈りあげると、幡はまた天空へ舞い上がり、鶴巻の落幡に落ちた。土地の人々はあまりにも立派な幡なので、相談の結果、日向薬師へ寄進に及んだ」と伝えられる。


日向薬師は寄進となっていますが、ストーリーはものの見事に繋がっています。道志川の大渡に飛来した大幡(秦氏)が東に向かえば津久井に出ます。津久井から中津川沿いに下ると、八菅山に至るのです。そこから大幡は南に下り、日向薬師に入ったと考えられます。次いで秦野方面に向かい、秦野市鶴巻において「落幡」つまり秦野に落ち着いたことになります。

問題は突然登場した中将姫ですが、以下Wikipediaより引用します。

中将姫(ちゅうじょうひめ、天平19年8月18日(747年9月30日)- 宝亀6年3月14日(775年4月22日))は、奈良の当麻寺に伝わる当麻曼荼羅を織ったとされる、日本の伝説上の人物。平安時代の長和・寛仁の頃より世間に広まり、様々な戯曲の題材となった。

当麻寺は二上山の東南麓に位置しています。二上山は八菅山同様修験道の行場でもあります。従い、中将姫云々は修験者によって持ち込まれ、付加されたのでしょう。よって上記の幡の伝承から中将姫の部分を除いても問題ありません。また中将姫は機織姫であり、秦氏に接続する要素があったとも考えられます。

ただ、「新編相模風土記稿」をチェックしても藤沢市と同様の記述が見当たりません。一冊の厚さが6cmもある本を4冊調べるので見落としもありそうです。藤沢市の記述は二次資料であり、「新編相模風土記稿」で見つけたら差し替えしようかと思っています。

落幡には落幡神社が鎮座しており、以下Wikipediaより引用します。

落幡神社(おちはたじんじゃ)は神奈川県秦野市鶴巻南二丁目にある神社。「落幡(おちはた)」は鶴巻の旧名であり「落幡」という地名に関しても伝承があり、“その昔、中将姫が織り上げたとされる大きく美しい幡(旗)がこの地に舞い降りたことからこの地は落幡と呼ばれるようになった”というものと“鎌倉時代の武将である善波重氏(太郎)がこの地で幡曼荼羅という妖怪を射落としたことから落幡と呼ばれるようになった”という二つの異なる伝承が存在する。


こちらにも中将姫が登場しているので、藤沢市の記述はまず間違いなさそうです。以上で、都留市から秦野に至る大幡(秦氏)の移動ルートが、大幡飛来伝承からほぼ完全に復元できました。これだけ見事に移動ルートが辿れるとは本当に奇跡的です。

なお「新編相模風土記稿」上之巻一に「神武帝東夷ヲ征スル時。山上ヨリ当国。眺望アリテ。嵯峨身ナル哉ト。詔アリシヨリ起レルト云フ」とあります。相模国の地名由来に関し、相模国に来た秦氏が嵯峨をしのんで「嵯峨見」と命名したと以前に書きましたが、それに近い記述となっています。

秦氏の移動ルートが非常に複雑になってしまったので再度整理してみます。

800年の富士山大噴火により、秦氏と徐福の子孫は桂川に沿って下り避難します。最初の到着地は富士山の真の鬼門に位置する都留市鹿留古渡(=小幡)でした。

次の居住地は大幡川沿いの一帯です。この地には大幡、高畑、切畑、加畑など秦氏地名が数多く残り、機神社までありました。続いて向かったのが大月市で、大月も葛野川も秦氏地名です。岩殿山の裏手には畑倉(=幡倉)と言う秦氏地名もあります。

猿橋において秦氏は二手に分かれます。猿橋から南下した一隊は幡野に入り、幡野山に八幡社を創建。朝日小沢から南に下り峠を越えて秋山街道に入ります。彼らは秋山街道から南に下り、山を越えて道志川に出ます。道志川沿いを下れば、馬場(長幡)から大渡(=大幡)の地に到達します。

秦氏は道志川をさらに下り、津久井から半原を経由して八菅神社に入ります。そこからさらに下り日向薬師に入り、日向薬師を出て秦野に入ったのです。

青野原から宮ケ瀬に入り、現在の70号線を南下するメンバーはヤビツ峠から秦野市に入ります。秦野は幡野の地名を持ち込んだものと思われます。ヤビツ峠から秦野に下る途中の大日堂には、秦川勝に関する石碑が残り、彼らの痕跡があります。詳細は「相模国の秦氏 その6」2010年4月27日を参照ください。(このルートには大幡の伝承がありません)

一方、大月からさらに桂川を下ったのは、徐福の子孫と徐福系秦氏です。彼らは相模原市藤野町小渕に入りました。そこで始皇帝の尊像を秦氏地名の鷹取山の大岩の下に納めます。尊像は慶長年間に村里に移され、江戸時代になり唐土大明神となったのです。この唐土大明神を祀るのが三柱神社です。詳細は「相模国の秦氏 その14」2010年11月19日を参照ください。

小渕を出立した一行は桂川が名を変えた相模川に沿って下り寒川町に入り、寒川神社を創建します。富士山麓から避難した徐福子孫は福岡徐教で、その子孫が寒川町に居住しているため同町では福岡姓が多く居られます。なお小渕から桂川を下り、青野原へ出てヤビツ峠を越え秦野に入った徐福系秦氏もいたものと推測されます。

藤沢市妙善寺にある福岡家の墓碑には徐福の子孫は秦を名乗ったと彫られています。これは秦野に入った秦氏と寒川の福岡氏が婚姻関係を結び、そのような記載が可能になったと想定されます。詳しくは「富士山麓の秦氏 その25」2011年12月6日を参照ください。

以上、800年以降の秦氏と徐福子孫の動きを復元してみました。これが正しいか確信はありませんが、今まで検討してきた諸要素を繋ぎ合わせると上記の考え方が最も妥当なように思えます。

35回も続いた「富士山麓の秦氏」はこれで一応終了とします。本シリーズでは秦姓や福岡姓の分布、大幡飛来伝承、秦氏地名の分布、富士山の鬼門ラインなど、今までにない視点から徐福や秦氏の謎に挑戦しました。一定の成果はあったと思いますが、まだ不十分な点もあり今後とも追及を続けます。近いうちに補足記事も書く予定です。

なお道志川沿いや秋山街道沿いは実地調査せずに書いています。機会があれば訪問し別途レポートしてみたいと思っています。
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富士山麓の秦氏 その34


朝日馬場に秦氏の痕跡がないかチェックしたのですが見当たりません。ただ、この地には石船神社が鎮座しています。(神社の位置は「その33」の馬場を示すグーグル地図画像を参照ください)

神社には何と、後醍醐天皇の皇子である護良親王(もりながしんのう)の首級が安置されているとのこと。670年以上も前の首級なんか腐って残るはずがないと、つい思ってしまいました。でも本当の話のようで、江戸時代に日本初の復顔術が施され、都留市指定有形文化財になっているそうです。髑髏から復顔された首級は毎年1月15日に公開されるとか。

護良親王は以前にもご紹介した鎌倉宮の土牢で足利氏により殺害されます。建武2年(1335年)のことで、南朝が始まる前年です。ところが首級は、親王が寵愛する雛鶴姫によって持ち出されました。追手を避けるため、姫は相模国の大山から津久井の青山を経て秋山街道に入り、秋山村無生野で亡くなります。悲嘆にくれた供の者たちは、姫を葬り首級を石船神社に納めて祀りました。

無生野は雛鶴峠の近くで雛鶴神社もあります。ところが首級は石船神社に納められました。ここで疑問が湧いてきます。姫一行はなぜ秋山村無生野などと言う辺鄙な場所へ向かったのでしょう?姫は無生野で亡くなったのに、なぜ首級はもっと先の石船神社にあるのでしょう?


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無生野や雛鶴神社を示すグーグル地図画像。

答えは一つしかありません。後醍醐天皇は南北朝時代における南朝の天皇です。そこからどんなストーリーが生み出されるでしょうか?

姫は多分、京の都ではなく富士吉田市の阿祖山太神宮跡地に向かっていた。理由は太神宮跡地が間もなく隠れ南朝の地になると知っていたからです。姫は、自分の命が無生野で終わっても、せめて親王の首級だけは太神宮跡地にもっと近い場所で祀りたいと考えた。そうした姫の意識が従者の行動に反映し、首級を朝日馬場の石船神社で祀る結果となった。

そんなストーリーが考えられます。いや、上記以外に姫が無生野まで辿り着いた理由を探せないのです。いかがでしょう?隠れ南朝の存在がトンデモ話ではなく、現実的なものとして迫って来るように感じられませんか?

推測だけの余談はさて置き、大幡(秦氏)は次に道志川へと向かいます。朝日村久保を出て道志川流域に入るには、秋山街道から再び南に下り山越えする必要があります。でも、ここで疑問が湧いてきます。

そもそも秋山街道に入るには、都留市から139号線を大月方面に向かい、禾生駅の前を右折して35号線に入ればよく、このルートならずっと簡単に朝日馬場へ行けるのです。なぜ秦氏は大月まで出て、そこから南下して山越えなどと言うやたら面倒なルートを選んだのでしょう?

彼らには、都留市を出て大月に向かう必然性があったのです。それは何か?理由は多分、大月が富士山の鬼門ライン上にあるからです。この理由以外に合理的な説明はできません。秦氏は富士山から流出した溶岩の最先端部が猿橋となることを確認し、移動経路を南へと転じたのです。

では、話を元に戻します。朝日馬場から秋山街道を東に進むと、街道のすぐ北側はリニア実験線となっています。実験線と秋山街道に挟まれた位置に高取(鷹取)山があって、これは秦氏地名です。(画像上に高取山は見当たりません。昭文社の神奈川県道路地図に出ています)。

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電子国土画像。

朝日小沢から道志村馬場までのルートを赤線で辿りました。馬場は画像に表示されませんが、竹之本と大栗の中間に位置します。

さて大幡(秦氏)は、高取山に近い辺り(朝日曽雌)で秋山街道を離れ、秋山川の支流沿いに南に下ったと思われます。南には秦氏地名の菜畑山(なばたけうら 1283m)があり、その東には赤鞍ヶ岳(1299m)があります。今度は1200m級の山越えとなり大変な難路ですが、彼らはこの二つの山の間にある峠を越えたと想定されます。位置関係は電子国土画像を参照ください。

赤鞍ケ岳と菜畑山の間の峠を越え道志川に出ると、もう大幡が飛来した馬場(長幡)に至ります。馬場からさらに道志川を下れば、大渡(大幡)です。本当に大変なルートを彼らは歩いたのだと思えてきます。それにしても、大幡飛来伝承と秦氏地名を辿ればほぼ秦氏の移動ルートを確定できるのですから凄いですね。


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大渡を示すグーグル地図画像。

連続して山を越えた大幡(=秦氏)は、「甲斐国志」によれば、大山の麓にある日向薬師(開山は霊亀2年で西暦716年)に到達しました。


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日向薬師を示すグーグル地図画像。

寺伝によれば、日向薬師は秦氏と関係の深い行基の開山とされています。行基開山は事実かどうか疑わしいのですが、秦氏との関係でそのような伝承となったのでしょう。

「吾妻鏡」にも建久5年(1194年)8月8日条に、源頼朝が大姫の病気平癒祈願のため行基が開山した「日向山」へ参詣したと記載されています。秦氏の影響下にある頼朝が日向薬師に参詣したのは頷ける話です。

さらに九州の日向は天孫降臨の地であり、猿田彦が天孫を案内しています。日向薬師の近くには白髭神社があり日向薬師と白髭神社の関連が窺えます。一般的に白髭神社は猿田彦を祀ります。猿田彦は秦氏とともに日本人を呪縛したメンバーでもあり、そこに秦氏が来るのは自然だと思われます。(この白髭神社の祭神は高麗若光と熊野権現です。高麗若光は猿田彦を敬っていたとされます)

大幡飛来伝承は秦氏の移動経路を示すものでした。それを伝承や地名だけでなく、史料面からも見ていきましょう。「甲斐国志」にある「大幡一旒空中ヨリ飛来リ」は、豊前国宇佐神宮の「託宣集」にも似通った記述が見られます。「託宣集」の場合、八幡神が示現する場面で、内容は以下の通りです。

辛国の城に、始めて八流の幡を天降して、吾は日本の神となれり

また「その16」において、「正倉院南倉大幡残欠」(絹製の幡)に秦勝国の名が見えると書きました。これは、大幡と秦氏が結び付いている証明となります。以上、伝承と地名に史料を加えて勘案すれば、大幡は秦氏を意味していると断定できます。

「甲斐国志」と道志村の伝承によれば、道志村大渡の次が大山の日向薬師となります。しかし、道志村大渡と日向薬師では間の距離がありすぎです。どこかに中継地点があり、そこを経由して日向薬師に着いたと考えたくなります。では、どこを?それが問題です。

問題は他にもあります。秦氏の到達地点は秦野のはず。幡野山に飛来し日向薬師に至った大幡は、最後に秦野に到達したとの伝承がなければ意味がありません。そして秦野の地名は、まず間違いなく幡野山の幡野に由来していると思われます。

それにしても不思議です。秦氏が上記ルートで移動したなど資料を幾ら探しても出てきません。けれども、大幡の伝承や秦氏地名、秦姓のある地域などで辿って行くと、極めて具体的に彼らの動きが見えてくるのです。そう、秦氏地名や伝承は秦氏が歴史の中に埋め込んだ暗号だったのです。

自分たちの動きを意図的に隠し暗号化した秦氏。いかに彼らが謎の多い一族であるのか、この事実からも理解されます。彼らの思考パターンや動きからすれば、大幡は必ず中継地点を経由して日向薬師に飛来し、最終地点である秦野に到達しているはずです。秦氏が片手落ちの行動を取るはずがありませんから…。次回はそれを探っていきましょう。

                ―富士山麓の秦氏 その35に続く―

富士山麓の秦氏 その33


今回取り上げる地域は、関東の方でもほとんど馴染みがない場所ばかりです。しかし、各地に散りばめられたヒントから秦氏の移動ルートを探るのは、推理小説を読むよりも面白いと思います。
移動経路をご理解いただくためグーグル地図画像や電子国土画像を掲載しますが、是非地図を横に置いてお読みください。では始めましょう。

「その32」で書いた幡野の八幡社に関して、「甲斐国志」で調べてみます。巻之七十二神社部十七之下に出ていました。内容は以下の通り。(関係ない部分は省いて記載します)

八幡宮(駅ヨリ南三拾町幡野山上ニアリ)支村幡野ノ産神ナリ 里人相伝古へ何時ノ比ニカ有ケン大幡一旒空中ヨリ飛来リ此地二止ル 因テ神殿ヲ建立シ其幡ヲ納メテ神体トシ八幡宮トイハイ奉ル 因テ此地ヲ幡野ト名ヅク 凡ソ大幡、幡倉、加幡等ノ村里皆幡ノシハシ止リシ地ナリ 其幡飛行ノ時鈴一ツ落テ朝日村久保ト云地ニ止ル 土人神祠ヲ造営シテ之ヲ納ム 朝日小沢ヨリ朝日村二越ユル峠ヲ鈴音ト云是亦其縁ナリ 後此祠火災二遭ヘルニ其幡自ラ飛出テ相模国日向ノ薬師二止マルト云 今日向ノ薬師ヲ尋ヌル二然ル幡存セリ

猿橋より南三十町の幡野山の上に八幡宮があり幡野村の産神である。里人の言い伝えでは遠い昔いつの頃かは定かでないが、大幡が一流空中より飛来してこの地に止まった。よって神殿を建立しその幡を納めて神体とし八幡宮として拝した。よってこの地を幡野と名付けた。およそ大幡、幡倉、加幡等の村里は皆幡の止まった地である。その幡が飛行するとき鈴が一つ落ちて朝日村久保と言う地に止まった。里人は神祠を造営してこれを納めた。朝日小沢より朝日村に越える峠を鈴音と言うのはその縁による。祠はその後火災に遭い幡は自ら飛び出して相模国の日向薬師に止まると言う。今日向薬師を訪問するとその幡が存在していた。

この内容は極めて重要です。大幡や加畑(=加幡)は「その31」で見てきたように、古渡(小幡)から桂川を下った地にあり、さらに下った大月の岩殿山の北には畑倉(=幡倉)があります。ここまでずっと桂川に沿って移動してきた大幡(秦氏)は、猿橋において桂川と別れ、南に下ります。(秦氏の別動隊はそのまま桂川を下りますが、ここでは触れません)そして、幡野の地にある幡野山まで至ってしばし止まったのです。

前回幡野山に関して甲引山八幡神社のある山と比定しました。ところが詳細地図を見ると、幡野山は違う場所にありました。電子国土画像を参照ください。

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電子国土画像。

画像では明示されませんが、「朝日小沢」の朝の字の上あたりが幡野山(597m)と詳細地図には記載あります。(「小沢」の右あたりが幡野です)しかし、幡野山の山頂に神社があるとは考えられません。現在の詳細地図では597mの山が幡野山となっているものの、「甲斐国志」にある幡野山は「その32」にて記載した甲引山八幡神社が鎮座する山としておきます。

甲引山八幡神社の祭神は応神天皇で、神社の由緒では朝鮮での戦に敗れた軍隊(朝鮮軍)がこの地に渡来し、彼らが地元の人々に養蚕や織物を伝えたとされています。由緒の内容はやや曖昧で大ざっぱですが、秦氏の祖とされる弓月君の渡来に関連していると推定されます。

弓月君の渡来に関しては以下Wikipediaより引用します。

弓月君(ゆづきのきみ/ユツキ、生没年不詳)とは『日本書紀』に記述された秦氏の先祖とされる渡来人である。『新撰姓氏録』では融通王ともいい、秦の帝室の後裔とされる。
帰化の経緯は『日本書紀』によれば、まず応神天皇14年に弓月君が百済から来朝して窮状を天皇に上奏した。弓月君は百二十県の民を率いての帰化を希望していたが新羅の妨害によって叶わず、葛城襲津彦の助けで弓月君の民は加羅が引き受けるという状況下にあった。しかし三年が経過しても葛城襲津彦は、弓月君の民を連れて本邦に帰還することはなかった。そこで、応神天皇16年8月、新羅による妨害の危険を除いて弓月君の民の渡来を実現させるため、平群木莵宿禰と的戸田宿禰が率いる精鋭が加羅に派遣され、新羅国境に展開した。新羅への牽制は功を奏し、無事に弓月君の民が渡来した。


上記内容からしても、神社の由緒にある朝鮮軍とは弓月君率いる秦氏の一団であり、幡野山は甲引山八幡神社が鎮座する山と考えて間違いないでしょう。さらに、神社では12年に一度の大祭において、天皇が朝鮮出兵を指示した勅書と軍旗を開帳するとのことです。

そして、朝鮮軍(秦氏)がこの地に来たことから都留郡が「軍内」と呼ばれ、「軍内」が転じて「郡内」になりました。「甲斐国志」に「製造品 郡内絹 郡内トハ都留郡ノ自称ナリ」とあり、なぜ都留郡が郡内と自称されるのか意味がわからなかったのですが、これではっきりします。都留郡は秦氏の居住エリア内にある土地(=軍内=郡内)だったのです。

都留郡の都留は徐福が鶴になって飛び去った故事に由来しています。一方郡内は、秦氏が都留郡に渡来したことに由来しています。つまり都留郡の地は徐福と秦氏が重なって存在するエリアであり、それがはっきりと地名に表現されているのです。

話を大幡の移動に戻します。幡野山に止まった大幡(秦氏)は、次に朝日小沢に向かいます。幡野入口バス停を左折せずそのまま南下すると朝日小沢です。


大きな地図で見る
朝日小沢を示すグーグル地図画像。

大幡はその後朝日小沢から峠を越えて朝日村久保に止まりました。「甲斐国志」には「幡が飛行するとき鈴が一つ落ちて」、とありますが、「その32」で写真を掲載した魂神社の左脇に鈴が吊り下げられているのは、その故事によるものと思われます。この点も甲引山八幡神社のある山を幡野山とする根拠になりそうです。秦氏は鈴音と言う峠を越えて朝日村久保に到達します。この峠はどこにあるのでしょう?

電子国土画像を見ると朝日小沢の東に秦氏地名の高畑山があります。そして高畑山からの稜線が九鬼山へと紫のラインで引かれています。紫のラインが朝日小沢から大平へと続く道(林道鈴懸峠線)と交差する場所が鈴音とされる峠です。調べて見ると、現在の峠名は鈴懸峠(あるいは鈴ケ音峠)となっていました。驚いたことに、現在の峠名は大幡伝承の峠名と同じだったのです。

交差する場所から右に続く紫ラインが少し尖った場所が鈴ケ尾山で、これも鈴に関連しています。秦氏は朝日小沢から高畑山の西側に位置する鈴ケ音峠を越えて、朝日村久保に入ったとわかります。

朝日村久保は秋山街道に入る手前の地域と思われます。一帯には馬場、朝日馬場と言う地名があります。大幡が天から降ったのは道志村馬場(長幡)でしたから、馬場はその元になる地名とも想定されます。この一帯に秦氏はしばし止まったのです。


大きな地図で見る
馬場を示すグーグル地図画像。

画像に久保自治会館とあるのが、朝日村久保を意味していると理解できます。また地図画像を拡大して見ると、久保自治会館の近くに小幡管工と言う会社名が出てきます。古渡(小幡)にいた秦氏がこちらまで移動したことを示す貴重な例と思われます。今回は大幡が秋山街道沿いの朝日村久保に至るまでを見てきました。次回は朝日村久保から道志川に至る経路を検討します。

              ―富士山麓の秦氏 その34に続く―

富士山麓の秦氏 その32


「富士山麓の秦氏」シリーズも32回目に到達しなお続いています。さほど広くもない地域に様々な伝承や遺跡があり、長くなってしまったのでしょう。

大幡地区を見終わったところで、「その30」の記事を参照します。この記事で「大月市猿橋の八幡社が火事になり社の扉を開いたら大幡が空に舞い上がり飛んでいった。大幡は道志の馬場に舞い降りたので一帯を長幡と呼ぶ。大幡はここから再び飛んで大渡に舞い降りた。大幡は次に相州大山の麓、日向薬師へと飛び去った」と書きました。長幡には長幡神社があります。


大きな地図で見る
道志村馬場を示すグーグル地図画像。

既に書いたように、これは明らかに秦氏の移動経路を示しています。すなわち大幡である秦氏は富士山麓から古渡(小幡)、大幡地区を桂川に沿って移動し、秦氏地名である大月に至ったのです。では、八幡社のある猿橋の南に向かいましょう。

20号線を桂川に沿って走り大月市に入ります。大月には岩殿山の近くに畑倉の地名があり、桂川の支流に秦氏地名の葛野川があります。

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猿橋から見た岩殿山。

有名な猿橋は志羅呼(しらこ)と言う人物が猿の谷渡りを見て架けたとされますが、志羅呼は新羅に通じ秦氏と関係がありそうです。

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解説板です。

「その名はあるいは白癬(しらはた)」とあるのが秦氏を意味していそうです。それにしても嫌な名前ですね。水虫さんが秦氏だなんて想像したくもありません。

ところで大月には桃太郎伝説が伝わっています。内容としては、百蔵山に実った桃が川に落ち、上野原にある鶴島の川に流れた。川で洗濯をしていたおばあさんはこの桃を拾った。家に持ち帰って割ると中から男の子が出てきたので桃太郎と名付けた。成長した桃太郎は犬目で犬を、鳥沢でキジを、猿橋でサルを家来にして岩殿山の鬼を退治した。と言うものです。

話は変わりますが、大明見にあった大山守皇子(応神天皇の子供)の石像が手にしていた玉は桃であると推定しました。理由を再度掲載します。

道教では三千年に1回しかならない桃の実を食べると、不老長寿が得られるとされています。大山守皇子は不老長寿薬を探して日本に渡来した徐福の祠を小明見に建てたとされます。これらを総合すると、石像が手にしていたのは桃と推測されるのです。

そして都留市、大月市、上野原市、藤野町にかけては、秦氏の居住地があり、徐福伝説も伝わっています。秦川勝にも伝承があります。三輪川を流れ下った甕を開けたところ、中から子供が出てきて、その子が成長し秦川勝になったとか。桃太郎伝説の原型のような話ですね。上野原の鶴島では桂川に鶴川が注いでいます。鶴島と鶴川の鶴は徐福が死んだ後に鶴となって飛び去った伝説を彷彿とさせます。

以上を纏めるとある考えが浮かんできます。大月に存在する桃太郎伝説。それは、秦川勝の伝承(甕の中に入って川を流れた)に徐福(鶴川と桃)を合体させたものだったのです。

話を元に戻し、猿橋の南にある八幡社へと向かいます。20号線と別れ猿橋小入口の信号を南に走り、509号線をどんどん走って行くと…。おや、気になる名前のバス停が!!

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幡野入口のバス停です。

幡野と言うからには秦氏地名であり、八幡社はこの近くのはずです。バス停を左に折れるとすぐに橋があります。

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橋です。

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橋の先はのどかな光景。秦氏は本当に良い場所を拠点にしています。

021_convert_20111212113319.jpg
さらに進むと山里の風情です。


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グーグル画像。画像の甲引山八幡神社が大幡飛翔伝説に出てくる八幡社と思われます。

八幡社は幡野山に鎮座しているのですが、ようやく山の麓に到着しました。

019_convert_20111212113403.jpg
幡野山です。

この山上に甲引山八幡神社があります。古渡、大幡などを転々と移動した秦氏は、幡野の山の上に社を建てたのです。

地元の方にお聞きすると神社までは歩いて20分程度かかるとのこと。次の予定等を考慮して山登りは諦めます。でも、どうしてこんな山の上に社を建てたのでしょうね?山の麓には里宮があるとのことなのでそちらに行きました。

023_convert_20111212113449.jpg
社です。

これは多分甲引正八幡神社の里宮ではなくグーグル画像からして魂神社だと思います。

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社から見た光景。秦氏の居住地はどこも隠れ里的で美しい場所です。

               ―富士山麓の秦氏 その33に続く―

富士山麓の秦氏 その31


光照寺のある古渡を後にして、139号線を大月方面に向けて走ります。すると…、何やら物凄い水煙が上がっています。車を止めて見に行きましょう。

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田原の滝です。

膨大な水量が流れ落ち水煙が上がっていました。まるでナイアガラの滝(テレビでしか見たことありませんが…)のようです。台風12号で山中湖の水位が上がり、その水を現在も桂川に流し続けているので、写真のような水量になっていると思われます。(訪問時点は11月初めであり、現状は不明です)

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もう一枚。右側の柱状節理が何となくコンクリっぽいですね。

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解説板。

渓流再生工事が実施されたとあり、やはり修景されていました。それでもこの水量は一見の価値があります。


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滝の位置を示すグーグル地図画像。

田原の滝を過ぎると谷村町です。この一帯には秦氏との関連を示す、勝山八幡神社(勝山と秦氏の関係)、高尾神社(鷹は秦氏のシンボル)、長安寺の裏山の白木山(白木は新羅)などがあります。

谷村駅からさらに139号線を進みます。前回古渡は小幡であり、道志村の大渡は大幡である事実を見てきました。桂川に沿って点在する幡の地名は秦氏を意味しているとわかります。

都留市の西側には大幡と言う地名が見られ、ここにも秦氏の痕跡がありそうです。富士急大月線都留市駅の前で139号線と別れ、40号線、705号線へと車を走らせます。

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705号線にて撮影。

道は三つ峠山、御巣鷹山、清八山、鶴が鳥屋山に囲まれた谷戸地形の中へ入って行きます。秦氏のシンボルである鷹、徐福の化身である鶴のいずれも山の名前に入っています。写真では山に囲まれた様子が見て取れます。705号線は大幡川に沿っています。


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一帯を示すグーグル地図画像。画像を拡大・縮小して位置関係をチェックください。

大幡川やその支流に沿って、加畑、横畑、高畑、下大幡、上大幡などの秦氏地名が見られます。

038_convert_20111211183430.jpg
大幡川。

そして流域の上大幡と高畑のほぼ中間に機神社が鎮座しています。

031_convert_20111211183504.jpg
機神社の案内柱です。

032_convert_20111211183540.jpg
機神社の舞殿でしょうか。参道の石段前と言う変わった位置にあります。

034_convert_20111211183617.jpg
拝殿です。

「甲斐国志」巻之十八村里部第十六上の大幡村の項を見ると、「どこからか大幡一旒舞い来てこの地に止まったのでこれを神に祀り村名もこれより起こった。今丸のこしと言う地に祠あり、御機明神と称しタナバタ姫を祀ると言う」とあります。道志村の大渡と全く内容を同じくしています。

秦氏がこの地に来たのは間違いありません。さらに機神社も秦氏と繋がります。交野市には織姫を祀る機物神社がありますが、秦氏が祀るから機物(はたもの)神社と称するとの言い伝えもあり、これと同じ例と考えられます。

大幡村近くの加畑村に関しても、「甲斐国志」に以下の記述がありました。

天武紀神服(カンハタ)部或ハ綺戸(カハタ)二作ル山城国加幡村紙幡寺アリ釈書ニ蟹幡二作ル皆借字ニテ神服正字ナルベシ

加畑には色々な表記があるが、神服が正しい字だと言う意味でしょうか?それはさて置いても、非常に面白いと内容だと思います。山城町綺田(かばた)には蟹満寺があり、綺幡寺・蟹幡寺・紙幡寺・加波多寺とも称されていました。創建は680年頃でこの地は蟹幡(かむはた)郷と呼ばれていました。蟹満寺は秦氏の氏寺である広隆寺の末寺になっていたこともあります。これらから、加畑村の地名は秦氏に由来すると明確に判断できます。

結局、綺田と加畑は同じで神服(カンハタ)だったのです。神の字音はシンで秦、服(ハタ)も秦ですから、秦秦(ハタハタ)となります。ハタハタは鰰で神の魚。魚の名前にも秦氏の関与があったとわかります。秦氏は、自分たちが神であると言う暗号をあちこちに埋めておいたのです。

藤沢市の図書館で借り出した「甲斐国志」は酔石亭主にとって、秦氏探求のバイブル状態になってしまいました。さらに上流に進みます。

036_convert_20111211183700.jpg
大幡川の上流部。

037_convert_20111211183737.jpg
案内板。

宝鉱山とあります。明治時代に発見された銅鉱山ですが、秦氏はここで銅が産出されることを知っていたのかもしれません。大幡川流域に秦氏地名ばかりある理由が宝鉱山であるとするのは、彼らの特性からしてすんなり理解できます。

                  ―富士山麓の秦氏 その32に続く―
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