秦さんはどこにいる? その24 (久我山の秦氏 補足の補足)


急ぎ足で記事を書くとやはり見落とす点が出てくるようです。前回で伏見区に久我の地名があると書きましたが、かつて山城国の北部に久我国があったとの記事を発見。それを証明するかのように、上賀茂神社の摂社として久我(くが)神社が鎮座していました。なので、補足の補足を書く破目に…。久我(くが)神社に関してはWikipediaより以下引用します。

久我神社(くがじんじゃ)は、京都市北区にある神社で、賀茂別雷神社(上賀茂神社)の境外摂社(第八摂社)である。
上賀茂神社の祭神である賀茂別雷命(かもわけいかづちのみこと)の祖父にあたる賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)を祀る。
『山城国風土記』逸文に、祭神が神武東征の際に、八咫烏(やたがらす)に化身し大和国まで神武天皇を先導、その功績により、一族を率いて山城国に入り、鴨川(賀茂川)の上流、久我国と呼ばれたこの地を賜って居を定めたとされる[1]。当地を開発し、後に賀茂県主(かものあがたぬし)の祖神になったと伝えられる。賀茂一族の氏神である当社は、近代まで氏神社(うじがみしゃ)とも呼ばれていた。


久我(くが)神社所在地は京都市北区紫竹下竹殿町47。何と鴨川上流が久我国だそうです。伏見区にある久我の地名、鴨川の久我国と上賀茂神社摂社である久我(くが)神社。この両者をどう考えればいいのでしょう。ホント困りますね。そこで、手許にある「風土記」の「山城国風土記逸文」賀茂の社を読んでみました。すると…、

賀茂建角身命は葛木山の峰から移動し、山代国の岡田の賀茂に至り、葛野河と賀茂河とが合流するところにおいでになり、久我の国の北の山の麓に住居をお定めになった、とあります。「風土記」という基本史料の記述を見落としていたのでは話になりません(~_~;)

賀茂氏の移動は雄略天皇期と思われ、秦氏も賀茂氏と共に同じルートで大和から山城国へと移動したと思われます。そう考えると久我国の存在の背景が見えてきそうです。実は伏見区にも久我神社(こがじんじゃ)が伏見区久我森の宮町8-1に鎮座しているので、由緒を調べてみました。内容は以下の通り。

当社は、八世紀末平安遷都に先立ち桓武天皇が山背長岡に遷都された延暦三年(七八三)頃、 都の艮角(北東)の守護神として御鎮座になったと伝えられ、以来千二百年の星霜を経た延喜式内社である。
往古、山背久我国造として、北山城一帯に蟠踞した久我氏の祖神興我萬代継神(こがよろづよつぐのかみ)を祀った本市における最も古い神社の一つであり、久我氏の衰頽後賀茂氏がこれに代わってその始神を祀ったのではないかとも、あるいは起源は古く、平安・長岡遷都以前に遡り、「山城国風土記」逸文に云う賀茂氏が大和から木津川を経てこの久我国 (葛野・乙訓にわたる地方の古称)の伏見地方に居をすえ祖神を祀ったのが当久我神社であり、更に賀茂川を北上して今の賀茂の地に鎮まったのではないか、とも考えられている。これらの事から歴史的に頗る深い由緒と信仰の跡を偲ぶことができるのである。
また久我の里では、当地方の西の方(乙訓座火雷神)から丹塗矢が当社(玉依比売命)にとんできて、 やがて別雷神がお生まれになったとも伝えられている。


伏見区久我の久我(こが)神社由緒も明確には書かれていません。しかし、賀茂氏の移動ルートから考えると、彼らは「風土記」に記載されているように、葛野河と賀茂河とが合流するところで一旦留まっています。それが乙訓(現在の伏見区久我)と考えられます。

以上から、乙訓を根城にしていた久我氏を秦氏が倒し、一方賀茂氏は久我の地名を賀茂に持ち込んで久我国と称し、賀茂氏の手で上賀茂神社の摂社である久我(こが)神社が創建された可能性が見えてきます。
 
久我(こが)神社の由緒に、「久我国(葛野・乙訓にわたる地方の古称)の伏見地方」とありますが、これはおかしいと思います。久我氏はかつて山城国の国造だったので、山城国全体を自分の姓に引き寄せて久我国としたので、後世になって混乱する元を作ってしまったとも思われます。(あくまで推測ですが…)

山城国乙訓郡(現在の長岡京市と向日市の全域、京都市西京区および南区、伏見区の一部)の久我郷を本拠としていた久我氏は古代の実力豪族だったため、彼らの影響が秦氏と賀茂氏の両者に残り、久我郷(久我国)が乙訓と京都市北区に存在すると言い伝えられたのです。と言うことで、京都における久我は前回書いたとおり秦氏と関係する伏見区の久我であるとしておきます。
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秦さんはどこにいる? その23 (久我山の秦氏 補足)


以前「久我山の秦氏」シリーズを書いていて気になったのが、この場所の地名由来です。そこでちょいと調べてみると、一般的に、久我は陸(くが)を意味するとか。久我山一帯は台地状の土地なので「陸」+「山」すなわち久我山と言うことでしょうか?

あまり納得できないものの、当時、久我山は秦氏地名ではないと思って放置していました。しかし、かつて自分が住んでいた地名を移住先に持ち込むのは秦氏の常套手段。これだけ秦氏が密集しているなら、久我山は絶対に秦氏と関係ある地名のはずです。と言うことで、あれこれ調べ始めました…。

まず久我について見ていきます。よくあるケースですが、久我は氏族の名前かもしれません。そう思い調べてみると、久我氏は山城国乙訓郡久我郷を拠点とした古代豪族で、山城国造である久我直の祖に「天背男命」がいると判明しました。

山城国乙訓郡と言えば秦氏と関係あります。Wikipediaによれば、「乙訓は昔この地方が「弟国」と呼ばれていたのが語源とされる。なお、「兄国」は葛野郡(現在の京都市西部)だと言われている」とのこと。

葛野郡は正しく秦川勝を頭領とする秦氏の一大拠点で、その弟に当たる地域が乙訓でした。これだけでも乙訓は秦氏関連とわかります。他の例を挙げます。長岡京の造宮長官である藤原種継の母は乙訓の秦氏である秦朝元の娘です。「秦氏の謎を解く その11」でも乙訓に関して書いていますので参照ください。

乙訓郡には現在の伏見区も一部含まれます。伏見と言えば秦氏関係ですぐに思い浮かぶ神社があります。誰もがご存知の伏見稲荷大社ですね。乙訓も伏見も秦氏絡みでそこに久我郷があったなら、久我と言う地名がまだ残っているかもしれません。早速チェックしてみましょう。


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グーグル地図画像。

ありました。伏見区に久我の地名です。(ただし「くが」ではなく「こが」と読む)何と秦氏地名の桂川に沿っています。近くには巨椋池(おぐらいけ)があり、これも「おぐら=小倉」で秦氏に関係する名前です。では、久我と秦氏の関係をどう理解すればいいのでしょう?多分、以下のようなものと思われます。

元々古代豪族である久我氏の土地だったものを、当時の最強渡来人秦氏が乗っ取り自分のものにした。しかし地名は先住者に敬意を払って久我をそのまま踏襲した。

だとすれば、久我山の秦氏は伏見区久我に居住していた秦氏が移住したものと考えられますが、そう簡単には決めつけられません。

久我山の久我は陸(くが)を意味するそうですから、こちらからも探ってみましょう。陸(くが)は、クヌガ(国処)から変化したと言う説があるようです。地名で見ると、兵庫県相生市陸があります。何と、こちらも秦川勝と関係がありそうな事態に…。


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相生市陸を示すグーグル地図画像。

相生市陸の南には坂越(赤穂市)と言う地名があり、ここには大避神社が鎮座しています。


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大避神社を示すグーグル地図画像。

大避神社に関しては以下Wikipediaより引用します。

大避神社(おおさけじんじゃ)は兵庫県赤穂市坂越(さこし)にある神社。祭神は大避大神(秦河勝)
坂越浦に面して鎮座し、秦河勝、天照皇大神、春日大神を祀っている。 神社の創立時期は明らかではないが、千種川流域を開墾したとされる秦河勝が大化3年(647年)に没し、地元の民がその霊を祀ったのが始まりとされる。
河勝は、太子亡きあとの皇極3年(644年)蘇我入鹿の迫害をさけ、海路をたどって坂越に移り、千種川流域の開拓を進めた後、大化3年(647年)に八十余歳で没した。


秦川勝が千種川流域を開墾したせいか、坂越以外の周辺地域に数多くの大避神社が鎮座しています。しかし、妙な点もあります。秦川勝が蘇我入鹿の迫害をのがれて坂越に移ったとされているのですが、相生市陸の西、宝台山の周辺には山ほどスサノオを祀る須賀神社が多数集積しているのです。そして須賀神社には蘇我氏の影が見えるのです。


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宝台山を示すグーグル地図画像。拡大してご覧ください。須賀神社だらけです。

相生市若狭野町入野にある池は、昔入鹿の淵と呼ばれていました。理由はこの一帯が蘇我入鹿領地だったからとされています。蘇我入鹿は蘇我馬子の孫ですが、相生市矢野町小河には宇麻志(うまし)神社があり、蘇我馬子が祀られています。宇麻志(うまし)=馬子なのです。

となると、秦川勝が蘇我入鹿の迫害をのがれて坂越に移ったのが正しいのかどうか、疑問に思えてきます。敵の迫害を逃れるため敵の支配地に行くなんてあり得ませんから…。

高知県の幡多一帯もまた同様に須賀神社が24社も鎮座しています。秦氏と蘇我氏。かなりの繋がりがありそうですね。しかし、相生市における秦氏と蘇我氏の関係を整理するだけでも、膨大な時間が必要になりそうです。現地訪問も不可欠ですが当面は難しく、いずれ機会があればとしておきましょう。

相生市三濃山には秦川勝の忠犬伝説があり、由来を聞いた空海は大同年中(806年~809年)に寺を建立。貞観6年(864年)に、赤穂郡大領となった秦造内麻呂は、秦川勝を偲んで三濃山に観音寺(求福教寺)を建てたとされます。それ以外にも秦氏関連の伝承は数多くありますが、これもまた別の機会にとしておきます。


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三濃山を示すグーグル地図画像。

なお相生市周辺には高取峠(鷹取峠)、高雄山(鷹尾山)、光明山など秦氏と繋がりそうな地名があります。などと思って地図を見ていると…。陸の西に有年牟礼と言う地名もありました。


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有年牟礼を示すグーグル地図画像。

牟礼に見覚えありませんか?そう、久我山の西にあるのが牟礼です。


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久我山を示すグーグル地図画像。

全くどんぴしゃりと言う感じですね。相生市には久我の元になる陸があり、その西には有年牟礼がある。久我山の西にも牟礼がある。両者は基本構造が同じ土地であり、秦氏の居住地である点も同じ、となります。なお、牟礼は古代朝鮮語で山を意味しています。以上からすると、陸(久我)+牟礼(山)=久我山、となったのではないでしょうか?

赤穂市の有年牟礼・山田遺跡からは秦と刻んだ須恵器が出土しています。東京の牟礼は三鷹市にあり、鷹は秦氏のシンボルなのでどちらの牟礼も秦氏絡みと判断されます。

さらに、京都の久我、相生市の陸、秦野も秦川勝絡みと考えることができます。「秦さんはどこにいる? その18(久我山の秦氏)」において、この地の秦氏は秦野から移住したと推論しましたが、今回の検討からそう考えて正しそうな気がします。

ところで、本記事の初めの方に、久我氏は山城国乙訓郡久我郷を拠点とした古代豪族で、山城国造である久我直の祖に「天背男命」がいると書いています。急に話は飛ぶのですが、富士宮の星山には倭文神社が鎮座しています。

その由緒によると、日本最古唯一の織物、製紙の神である健羽雷神を奉祭する神社で、古代高天ヶ原時代、当地に星神として君臨して居た香々背男が、貫戸、岩本付近の神々を糾合して、中央政府に反乱を企てたので経津主神と、武甕槌命は健羽雷神を遣して之を討滅せしめた。以後、健羽雷神は、星山に永住し、織物製紙の業を興したので諸神の崇敬を集め当神社に祀られた、などとあります。


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星山を示すグーグル地図画像。

実はこの近くで秦川勝が姿を現しているのです。詳しくは「東海の秦氏 その1」を参照ください。「日本書紀」皇極天皇3年(644年)の記事によれば、東国富士川周辺の大生部多(おおふべのおお)という人物が虫を祭ることを村里の人に勧め、「これは常世の神で、この神を祭れば豊かになって若返る」と言って、民の財宝を捨てさせ貧しくさせた。民を惑わす悪行に秦川勝が怒り、大生部多を討ったとされます。

上記は、乙訓郡久我郷に居住していた久我氏の祖である天背男命(あるいはその子孫)を、秦氏(秦川勝)が倒し自分たちの拠点としたことを反映しているのではないでしょうか?

香々背男(=天背男命)は久我氏の祖であり、健羽雷神を秦川勝と見立てればピッタリ一致します。秦氏は養蚕・機織りが得意技なのも、健羽雷神は織物製紙の業を興した、との由緒に一致します。

製紙業も、(財)紙の博物館会報「かみ はく友の会ニュースレター No.6」(2005年3月1日)によると、「我が国の紙造りは、之を得意とする新羅加羅出身の渡来氏族、秦氏によるとされている」とあり、こちらも一致します。これらからすると伏見区久我もやはり捨てがたい。でも…、

秦川勝は大生部多(おおふべのおお)を富士川周辺で討ったのですが、相生市の相生は、以前は「相生(おお)村」と呼ばれていました。何と相生市でも関連しそうです。ところがどっこい、相生市の地名由来はWikipediaによれば以下の通りです。

大嶋城の城主となった海老名氏が相模国(現在の神奈川県海老名市)出自であることから、浦名として呼ばれていた「おお」に相模生まれの漢字を宛てたのが「相生」の由来であるという説が有力である。


ちょっと困りましたが、Wikipediaの記述は「相生」と言う表記の由来に過ぎません。音は相生湾の漁村大(おお)浦に由来しているようです。しかし、大浦の大を取って地名にするでしょうか?大浦は大きい浦ですから大は形容詞的であり、そんなはずはありません。

以上から久我山の地名由来は、伏見区久我と相生市陸の両方に関係しそうです。と言うか、山城国の秦氏→播磨に移住→秦野に移住→久我山に移住の経路を辿ったとすれば、全部ひっくるめて辻褄が合いそうに思えますが…。

あまり深く考えずに書いたので生煮えの部分が多くなりました。でも、思いもよらない方向性が出て結構面白いですね。「秦さんはどこにいる? 久我山の秦氏」の補足としては以上です。

秦さんはどこにいる?その22


今回で秦さんシリーズは終了です。では、東北から北海道を見ていきましょう。

福島県:全体で105人と多い。福島市21人。大沼郡三島町17人。伊達郡国見町16人。会津若松市12人。
宮城県:全体で17人。
岩手県:全体で5人。
山形県:全体で10人。
秋田県:全体で20人。大館市に14人。
青森県:6人。
北海道:148人。岩見沢市11人。小樽市10人。

北に行くにつれて秦姓の分布が薄くなっていき、一県全体で20人程度では検討対象にはなりません。ただ秋田県の場合、大館市に秦姓が集中しています。社名としては大館市に秦機工がありました。また勝山の地名もあります。この地に多くあるのは縄文時代の遺跡です。しかし、秦氏の痕跡を示す決定的な情報はありません。

青森には三戸郡新郷村戸来にキリストの墓があるとされますが、ここまで来ると守備範囲から外れます。

福島県は全体でも個別都市でも相当数の秦姓が存在しています。福島市には秦接骨院、秦畳床工業所がありました。秦畳床工業所の場合、住所は福島市宮代字屋敷畑で秦氏地名の匂いもします。近くには鍛冶畑の地名もあり、鍛冶(金属)と畑(農業)は結び付かず鍛冶秦が元になっていると推測されます。

福島県の羽田姓を見ると全体が227人。福島市が135人と圧倒的です。但し、福島の場合は「はた」ではなく「はねだ」と読むケースがほとんどではないでしょうか?その場合、名前の由来は全く異なります。

大沼郡三島町の秦姓は不可解です。高畑と言う山はありますが、他に具体的な痕跡などありません。只見川沿いの人口2千人に満たない狭小地に、なぜこれほど秦姓が集中するのでしょう?その理由はじっくり考えたいと思います。


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大沼郡三島町を示すグーグル地図画像。

伊達郡国見町には秦糀店がありました。周辺には鍛冶屋敷、畑中、半田、天王畑、稗畑、山畑などの地名があります。国見町の南の桑折町には半田山があり、銀が採掘されていました。半田は秦氏地名であり、桑折は養蚕に関連しそうです。養蚕と鉱物資源の両方を求めて秦氏はこの地に入植したのでしょう。また小手姫伝説も秦氏の関与がありそうです。以下Wikipediaより引用します。

小手子には、現在の福島県川俣町に落ち延びて養蚕を伝えたという「小手姫(おてひめ)伝説」がある。
小手子の子、蜂子皇子は厩戸皇子(聖徳太子)の計らいで京を逃れ、山形県鶴岡市の出羽三山の開祖となったと伝えられるが、小手子も、蜂子皇子を捜し求めて、実父と娘・錦代皇女とともに東北に落ち延びた。旅の途中に錦代皇女を亡くした小手子は、故郷の大和の風情に似た、現在の福島県伊達郡川俣町や伊達市月舘町の地域にとどまり、桑を植え養蚕の技術を人々に広めたという。その後小手子は、蜂子皇子に会えないことを悲嘆して、川俣町大清水地内にある清水に身を投げたと伝えられている。


養蚕に聖徳太子とくれば秦氏の関係と思ってしまいます。


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伊達郡国見町、半田山、桑折町を示すグーグル地図画像。

会津若松市には秦接骨院があり、西会津町にも秦工作所がありました。現在は㈱アトムです。

また会津若松市には神指と言う地名があります。「新編会津風土記」によれば平安時代前半(860年代)に源融(みなもとのとおる)の家来だった秦氏がこの地に来て、山王権現の安住の地を探していたところ、夢の中に現れた翁が、指を差し「ここより北の林の中に香木があるので、村人に開墾してもらい、安住の地にしなさい」と言ったことから、香指と呼ばれるようになり、神指となったとか。

夢の中に現れる翁は秦氏そのものなので、この地に来た源融の家来に秦氏が霊夢を見させたとするのが妥当なようです。なお、源融は源氏物語における光源氏の実在モデルとされています。

864年に源融は陸奥出羽按察使(東北地方を監督する役職)に任じられ陸奥国に出向いたとされます。これに同行した家来の一人が、(実際には源融は出向かず家来に行かせた可能性もあり)会津若松に常駐する折、源融の指示で秦氏の居住区に住んだためこのような話ができたのでしょう。

では、源融と秦氏の接点はどこにあるのでしょう?源融は嵯峨天皇の子ですが、嵯峨天皇は譲位して、現在の嵯峨野清涼寺がある地に離宮を建設。離宮の一部を源融に与えます。それが清涼寺の前身である棲霞観山荘でした。この地はもちろん秦氏の荘園であり、源融は秦氏と接点があったと考えられます。源融には有名な歌があります。

みちのくの しのぶもぢずり 誰ゆゑに 乱れそめにし 我ならなくに

陸奥国のしのぶもじずりの乱れ模様のように、私の心はちぢに乱れています。いったい誰のせいでこんなに思い乱れているのでしょう。 それは他ならぬあなたのせいなのですよ。

「しのぶもぢずり」とは、乱れ模様に染められた布のことで、福島県北部の信夫郡で作られていました。

東北では福島県に秦姓が突出して多いのですが、主たる理由は蒲生氏郷の会津移封によるものだと思われます。彼の郷里は近江国蒲生郷若松の森(現在の日野町西大路にある日野城)で会津若松の地名は氏郷の郷里にちなんでいます。氏郷は移封の際近江の木地師を引き連れてきました。


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日野城を示すグーグル地図画像。

この木地師(=轆轤師)集団の主力が秦氏であったと考えられます。木地師は轆轤(ろくろ)で椀や盆などを作る技能工を意味し、彼らの里は現在の永源寺町にある蛭谷と君ヶ畑でした。この場所は依智秦氏の拠点である秦荘(現在の愛荘町)の南、日野町の北です。秦荘に関しては「秦さんはどこにいる?その6」9月11日を参照ください。場所は日野城を示すグーグル地図画像を動かして確認願います。

木地師の頭領は小椋家と大蔵家ですが、小椋(=小倉)の地名は秦氏と関係があります。秦王国にある宇佐神宮は小倉山に鎮座し、秦氏の拠点である嵯峨野にも小倉山があり、徐福系秦氏に関連して調査予定の富士山麓にも小倉山があります。つまり小椋は秦氏地名なのです。大蔵も同様ですね。また君ヶ畑は秦氏地名であり、この一帯はかつて小椋谷と呼ばれていました。

秦氏は虚空蔵信仰を持っており、虚空蔵菩薩は古来より漆器業や工芸技術の守護仏として信仰されてきました。以上のように、虚空蔵信仰を介しても秦氏と木地師は繋がっているのです。詳しくは大和岩雄氏の「日本にあった朝鮮王国」(白水社)の「秦氏と虚空蔵信仰」の項を参照ください。

会津若松に入った秦氏系木地師集団の一部は、良材を求めて山奥に足を向けます。山奥の大沼郡三島町に秦姓が多い理由がここで明確になりました。木地師である秦氏が良材を求めて山奥に入ったため、大沼郡三島町に多くの秦姓が見られるのです。現在も三島町には工人の郷として多数の工房があります。

福島における秦氏の主力は依智秦氏系の木地師でした。東北で盛んに作られるこけし。その深源には秦氏の存在があったと考えられます。

北海道の小樽市には秦海事・行政書士事務所があります。いずれにしても北海道の秦さんは近年入植したものと思われます。

「秦さんはどこにいる?」シリーズは今回で終了です。表面をさっと撫でただけなので、大した内容にはなっていません。それでも、思ってもみない事柄が幾つか飛び出してきました。また秦姓の分布から彼らの足跡をたどるのも、日本初の試みと思っています。いつか各県ごとにもっと詳しく調べたいですね。

秦氏関連では次に、富士山麓における徐福系秦氏の謎を追及したいと思います。

秦さんはどこにいる?その21


今回は茨城県、栃木県、群馬県を見ていきます。

茨城県:全体で29人。各地に分散して偏りはない。
栃木県:全体で18人。佐野市に10人と集中。
群馬県:全体で17人。各地に分散して偏りはない。

茨城県は検討不要。群馬県では伊勢崎市宮前町赤城神社にある貞治5年(1366年)の多宝塔に秦姓の名前が彫られています。伊勢崎市で織物が盛んなのは、秦氏の関連とも思われます。

栃木県では佐野市に秦姓が集中しています。市内に秦園芸店もありました。例幣使街道に沿って金吹町、金屋下町、金屋仲町、大祝町、金井上町、大蔵町など金属関連や秦氏を連想させる大蔵があります。でも、これだけでは秦氏と関連付けられません。さらに検討してみましょう。

神武天皇が上陸した佐野浜(和歌山県新宮市)は、天皇の名の狭野命から名付けられています。新宮市と言えば…、徐福も新宮市に上陸したとされています。中国サイドで唱えられている神武天皇=徐福説も根拠なしとは断定できないですね。佐野市に関しては以下Wikipediaより引用します。

佐野市(さのし)は、栃木県南西部(安足)に位置する市。旧安蘇郡。2005年2月28日に旧佐野市、安蘇郡田沼町、同郡葛生町の新設合併により発足。


安蘇郡(あそぐん)の安蘇は海人系の地名で秦氏が後を辿って入った可能性はあります。一帯は古墳時代に独自の文化圏を形成していた場所。この地には一瓶塚稲荷神社があります。佐野市観光協会の一瓶塚稲荷神社の縁起には、「平将門征伐で功労のあった鎮守府将軍俵藤太秀郷公が、天慶5年相州鎌倉松ヶ岡稲荷大明神に詣で、下野国富士村に勧請し衣食住の祖神、商売繁盛の守護神として創建されました」などとありました。天慶5年は942年です。

思わぬところで鎌倉の地名由来に関連する重要事項が出てきました。酔石亭主は鎌倉の地名由来を、藤原鎌足が鎌を大蔵の松ヶ岡に埋めたことによると推定しています。松ヶ岡稲荷は現在の鶴岡八幡宮脇に鎮座する丸山稲荷神社の前身であり、当然秦氏系の神社です。詳しくは「鎌倉の地名由来を考える」2010年6月22日、「鎌倉の地名由来を考える 続編」2010年7月9日をご参照ください。

その松ヶ岡稲荷を下野国富士村に勧請した際、秦氏が同行したとも考えられます。富士村の名前自体匂いますね。なお、俵藤太秀郷は藤原秀郷で藤沢北家・魚名の後裔とされています。藤沢北家の祖は房前で祖父が鎌足となります。

つまり藤原秀郷は先祖の藤原鎌足が大蔵の松ヶ岡に鎌を埋めた、すなわち秦氏の松ヶ岡稲荷大明神に鎌を奉じた故事を知っており、下野国に勧請したと考えられるのです。

秦さんシリーズのおかげで、鎌足説を補強することができました。なお、この時代には「関東平氏の鎌倉」で書いた平良文も活躍しています。

上記から平安時代の鎌倉における、松ヶ岡稲荷大明神の重要度が見て取れます。それを知るから頼朝は、鶴岡八幡宮を松ヶ岡の地に鎮座させたのです。面白いことに、秦野の波多野氏は前九年の役で活躍した佐伯経範が祖とされていますが、後に藤原氏に改め藤原秀郷流を称しています。

もう一点、以前気になったことがあります。下野国上毛野・下毛野と秦王国のあった豊前国上毛・下毛がよく似た地名であることです。ひょっとしたら、両者は同じではないでしょうか?「古事記」によれば上毛野君や下毛野君の祖は豊城入彦命(とよきいりびこのみこと)で、崇神天皇の第1皇子。天皇の命で東国を治めました。

豊城入彦命の名前は特徴的で豊(=秦氏)の城に入った男を意味しています。下野国には秦氏の支配地域があり、豊城入彦命が下ったと考えれば辻褄も合います。佐野市に秦姓の多い理由はそこにあるとしたいのですが…、いかがなものでしょう?ちょっと無理がありそうですね。

秦さんはどこにいる?その20


秦さんシリーズも結構長続きして、20回目となってしまいました。今回は埼玉県と千葉県の秦姓を見ていきます。

埼玉県:全体で160人。川越市45人。さいたま市西区11人。それ以外は一桁で分散。
千葉県:全体で126人。長生郡一宮町17人。船橋市14人。それ以外は一桁で分散。

埼玉県は川越市に秦姓が圧倒的に多く、分布に偏りが見られます。渡来人が多いと思われる熊谷市、比企郡、入間郡(毛呂町のみ2人)などは軒並みゼロでした。新座市もたったの2人です。高麗姓で見ても、朝霞市の13人を除けば分散して結果はほとんど同じです。

668年の高句麗滅亡後日本に亡命した高句麗人は約1799人とされています。それがほとんどいなくなったとは、本当に不思議ですね。秦氏のように本姓を維持せず日本化したのかもしれません。将来、消えた高句麗系渡来人の謎解きにでも挑戦したら面白そうに思えます。

川越市の秦姓集中は理由が不明です。川越には秦氏地名がほとんどないことから、久我山の秦氏同様比較的近年に入植した可能性があります。中世の川越において勢力を持ったのが河越氏です。河越氏は桓武平氏に連なる坂東八平氏の1つ秩父氏の嫡流でした。秦氏とは関係ありそうに思えません。

川越市には笠幡と言う地名があり、元は高麗郡笠幡村であったことから渡来系の居住する地であることは確かです。しかし高麗氏と秦氏は別の氏族。川越市の秦さんは手掛かりがありません。図書館で郷土史を調べるとともに、地元郷土史家のご意見を聞きたいものです。

唯一の可能性としては、高麗氏が大磯に上陸してから関東各地に移住するに際して、秦氏も同行していたと言うものです。神奈川県大磯町の高麗山の麓には高来神社があり、神社の別当寺であった高麗寺(現在は廃寺)の梵鐘建造に当たり大檀那として秦氏の名前があるからです。高来神社に関しては以下Wikipediaより引用します。

高来神社(たかくじんじゃ)は、神奈川県中郡大磯町高麗(こま)に鎮座する神社。高麗神社とも呼ばれる。旧社格は郷社。社名は一説に朝鮮半島にあった高句麗からの渡来人に由来するといわれる。


ところが川越市の高麗姓はゼロで辻褄が合いません。埼玉県の高麗姓は全体でも43人です。やはり高句麗系渡来人はどこかに消えてしまったようです。

さいたま市には秦テーラー、秦クリーニング店があります。上尾市にも秦工務店がありました。ところが川越市には秦を冠した社名がありません。これも不可解です。

既に書いたように、埼玉には幡羅郡(現在の熊谷市一帯)には幡羅郷があり、上秦郷(かみつはた)・下秦郷(しもつはた)が置かれていました。幡羅郡は7世紀頃に成立したとされますので、これとほぼ同時期に、朝廷の政策によって、秦氏も含めた渡来人が関東の各地に入植し、開拓に従事したのではないかと推測されます。けれども、熊谷市に秦姓の方は居られません。

埼玉県深谷市はかつて武蔵国榛沢郡榛沢郷があり、何となく匂います。調べて見ると深谷市新戒300に古櫃神社があり、解説板には以下の内容が書かれています。

古櫃神社(新戒)
全国で唯一の社名をもつ当社は、新戒の鎌倉街道北側に鎮座している。創建は鎌倉期秦河勝の裔で、新開荒次郎忠氏が肥沃な当地に館を構え、祖神の大荒明神を勧請し、伝来の社器を櫃に入れて社の下に納め、館の守護神としたことによると伝える。新開荒次郎忠氏は鎌倉時代丹党の旗頭で、源頼朝の重臣なり。…以下略。


古櫃とは契約の聖櫃みたいなイメージの言葉です。しかし深谷市の秦姓は1人、新開姓も同様に1人でした。埼玉県の秦さん関連は実地調査を入念にしない限り理解不能なようです。

千葉県では長生郡一宮町に17人も秦姓の方が居られます。長生郡で気になるのは、山中湖周辺の長池村には徐福伝承があり、以前は長生村と呼ばれていたことです。もしかしたら山中湖の秦氏がこの地に移住したのかもしれません。(何の根拠もありませんが…)


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長生郡一宮町を示すグーグル画像。長生村もあります。

一宮町では細田横穴群や柚ノ木横穴群などの横穴群が見られ、古い土地であると確認できます。町域に鎮座する玉前神社が上総国の一宮であったことから、一帯は一宮庄と称されました。

東波見地区には矢畑、矢畑新田など秦氏系と思われる地名が見られます。また一宮町の町議会議長が秦さんでした。会社名では㈱秦組があります。

しかしなぜこの地域に秦姓が多いのでしょう?推測するには、秦姓以外でチェックしてみるしかありません。秦から派生した姓は多くないので、一宮町に多く頭に長の付く姓を見たところ、長谷川姓が二番目で60人居られました。これがヒントになりそうです。

金春禅竹の「明宿集」には、秦川勝が武芸を伝えた子の子孫は長谷川党であると書かれています。長谷川は大和を流れる初瀬川に由来しています。田原本町には秦川勝ゆかりの法貴寺があり、秦川勝が聖徳太子から賜った薬師三尊を献上して建立されたとされ、川勝の子である秦明高の墓と伝えられる五輪の塔もあるそうです。

だとすれば、長谷川党の祖先は秦明高なのでしょうか?(五輪塔は平安末期から使われていますので、秦明高の死後直ちに建てられたものではありません)「明宿集」の内容は伝説的で鵜呑みにはできないし、そもそも秦氏のありようからして武士にはならないはずです。

いずれにせよ、法貴寺は初瀬川に勢力を持っていた長谷川党の氏寺でした。鬼平犯科帳の長谷川平蔵も長谷川党の一員です。法貴寺境内には池坐朝霧黄幡比賣神社と言う神社が鎮座しており、秦氏が崇敬した機織りの神社です。

以上から推測するに、長生郡一宮町においては長谷川姓と秦姓がペアになっていると思われます。ただ長谷川姓はどこでも見られますので、ほとんど当てずっぽうですが…。

ちなみに埼玉県の長谷川姓を見ると、全体で3456人、熊谷市が251人で最も多く、行田市199人、久喜市161人、川越市148人と続きます。熊谷市は秦氏地名があるのに秦姓がなく、長谷川姓でトップ。秦姓の最も多い川越市では、長谷川姓が県内で四番目となっています。どうも秦・長谷川両姓に関連がありそうな結果となりました。(長谷川姓はどこにでもあるので、単なる偶然かも知れませんが…)

埼玉県と千葉県の秦姓は、実地調査しない限り歯が立たないと言うのが実感です。
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