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鎌倉・藤沢の義経伝説 その20


台風が過ぎてから急に涼しくなってきました。7月にしてもう秋風が立ったのでしょうか?

今回は手抜き工事で、白旗神社例祭の露店を巡ります。(弁慶の塚は意外に難しく、しばし棚上げに…)

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大鳥居の前から。

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今一つ来場者数が少ないような…。

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お店の数は結構多い。

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月光仮面とか鉄腕アトムとか、オバQさえもありません。

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こうしたごちゃごちゃ感のある雰囲気が楽しいですね。

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うまく当てられるかな?

縁日に出店する屋台もこの来場者数では経費(一般的に、ショバ代その他で2万円弱と原材料費)が出ないので、将来は減少していきそうな気がします。店舗営業しているお店が宣伝的に出店するなら負担は少ないので、そうした方向性が必要かも…。

           ―鎌倉・藤沢の義経伝説 その21に続く―

鎌倉・藤沢の義経伝説 その19


義経が白旗に埋葬された理由、首を洗った井戸、首塚、義経を祀った白旗神社など、藤沢における義経伝承地もほぼ完全に確認することができました。ここで、地元藤沢に伝わる義経伝承を見ていきましょう。

代表的なものは小川泰堂の「我が棲む里」文政13年(1830年)です。泰堂は藤沢出身で医術を学び、かつ安売り市を提唱するなど経済面でも藤沢の発展に貢献した人物。また日蓮の伝記も書いているという多才ぶりです。

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泰堂の住居笑宿庵跡。


大きな地図で見る
グーグル地図画像。

藤沢本町郵便局の角を曲がり、東洋宣教使徒教会のある敷地が住居跡です。

墓も住居近く(本町一丁目3番21号)にあったのですが、泰堂が日蓮の伝記などを書いたこともあり、池上本門寺大堂正面に改葬されたとのこと。よって2007年に教育委員会から藤沢市指定文化財を解除されています。

また平野道治は、鶏肋温故 (けいろくおんこ)と言う藤沢の地誌を天保13年(1843年)に編纂しています。彼は相模州藤沢宿の旅籠「ひらのや」の主人でした。「我が棲む里」と内容はほぼ同じなので、義経の首に関する部分を「鶏肋温故」の白旗大明神社で見ていきます。

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「鶏肋温故」のコピー。

其後、当藤沢の河辺に金色(こんじき)の亀、泥にまみれたる首級を甲に負て出たり。村人大に驚きあやしみけるに、傍に在ける一人の童、忽チ狂気の如くニ成て申けるハ、我レハ源ノ義経也。吾不幸にして讒者の舌頭にかかり、身を奥州高舘の露と消るのみならず、首級さへ捨られて怨魂やるかたなし。汝等よく葬り呉よと終りて倒れぬ。諸人殊に驚き、此首を井に洗ふてしかして今云首塚の地に埋め塚となし、人々群集し詣でけると也。其後、鎌くら御所に於て義経の怨霊種々の怪をなし、右大将をも悩しける。依て、次郎清親に命じて彼首塚より壱町余北なる山上に社を営て、御悩平愈を祈りければ、程なく本腹ましましけるとなん

金色の亀が義経の首を背負って現れ村人が驚いていると、傍らの童子が狂気を見せて、「我は源義経である。不幸にして讒言者の口車により奥州で死に、首も捨てられ怨魂やるかたない。お前たちよく葬ってくれ」言って倒れた。皆驚いて首を井戸で洗い、今で言う首塚の地に埋め、塚として詣でた。その後鎌倉御所において義経の怨霊が様々な怪異をなして頼朝を悩ませた。よって次郎清親に命じて首塚より一丁ほど北にある山の上に社を建て平癒を祈ったところ程なく回復したそうだ。

なお次郎清親とは、以前に藤沢の地名由来で書いた藤沢次郎清親のことです。彼の屋敷は片瀬にあり、藤沢の地名の元となった人物です。片瀬に諏訪神社の上社、下社の二社があるのは清親の影響によるものでしょう(詳しくは「千畳敷カールへ行きました その3、4」昨年7月30日、31日を参照ください)

白旗交差点には藤沢高校がありそこには社宮司神社が鎮座しています。この神様は諏訪が発祥元となっており、清親との関係も推測されます。

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社宮司神社と書かれた案内の柱。

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鳥居越しの神社。

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もう一枚。

いつものことですが、少し話がそれました。さて、「鶏肋温故」に書かれた内容は相当脚色されています。書きっぷりは、まるで歌舞伎の一場面のようにも思えます。成立した時代を勘案すると歌舞伎の影響があったと推測されるのですが、いかがなものでしょう?以下Wikipediaより引用します。

天保三年 (1832) はじめ、七代目團十郎は長男の六代目海老蔵に八代目團十郎を襲名させ、自らは五代目海老蔵に復すことにした。…中略…
この「十八番」の演目が今日知られているものに定着するのは、8年後の天保十一年 (1840) 三月のことである。七代目は以前から能の『安宅』を下敷きにした新しい義経弁慶流転譚の構想を温めており、この数年来は試行錯誤を繰り返しながらこの新作を創作してきたが、ちょうど初代團十郎の「没後百九十周年」にあたるこの年、ついにこの演目を初演するまでにこぎ着けた。これがいわゆる松羽目物の嚆矢となった『勧進帳』である。やがて屈指の難役として知られるようになる主役の弁慶を勤めるのはやはり自分をおいて他になく、凛とした二枚目に成長した倅八代目には地のままで義経を勤めさせた。


また「勧進帳」の原形は、初代市川團十郎が元禄15年(1702年)に初演したものとか。

歌舞伎の影響が明確に見て取れるのが首塚の碑です。

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首洗い井戸にある首塚の碑を再度掲載。

碑には「九郎判官源義経公之首塚」と彫られ、右側には「武蔵坊弁慶弁慶之霊」、左側に「亀井坊 伊勢坊 片岡坊 駿河坊 各霊」とあります。この何とか坊は義経四天王のことで、
亀井坊は亀井六郎重清、伊勢坊は伊勢三郎義盛、片岡坊は片岡八郎弘経、駿河坊が駿河次郎を指しています。このどこに歌舞伎の影響が出ているでしょう?

ポイントは「坊」と言う表記です。義経の四天王は歌舞伎において山伏(=修験者)姿で登場しました。このため彼らは「坊」と言う表記になっているのです。またこれは、義経の白山修験道との関連―以前書いたように白山修験道に丸抱えされて奥州に逃げのびた姿―を暗示しているようにも思えます。

藤沢の義経伝説にはもちろん弁慶も絡んでいます。『東海道名所記』(浅井了意作の仮名草子。万治年間(1658~1661年)の成立と考えられる)によると、腰越に送られた義経と弁慶の首は、検分の後、夜のうちに白旗神社に飛んできたとされています。首が飛ぶのは日本における怨霊チャンピオンである平将門の影響でしょうね。

弁慶の首が飛んできた話があるなら、弁慶の塚も藤沢にあるはずです。でなければ筋が通りません。次回は弁慶の塚を探索します。

             ―鎌倉・藤沢の義経伝説 その20に続く―

鎌倉・藤沢の義経伝説 その18 (義経の首塚)


今回はいよいよ義経の首塚を探索します。位置関係を見るため再々度案内板を掲載しました。

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案内板。

白旗交差点から国道467号線を白旗神社に向かうと、中間点に妙善寺へと向かう道があります。この部分を拡大します。

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拡大案内板。

白旗横町町内会館が首洗い井戸の北にありました。首洗い井戸の案内板によると、井戸の北40mの地点に首塚があることになります。しかし会館までだと40m以上になってしまい、妙善寺への道の南側に塚があったと推定されます。探すのが難しいので、山本半峯著「白旗横町の今昔」を開いてみました。すると…。

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明治10年時点における白旗横町の地図が…。

何と地図の中に義経首塚道と表示されています。ただ地図に違和感を覚えました。理由は簡単。北が下側になっていたのです。

位置関係を見やすくするため、ひっくり返して北を上にしました。このため文字が逆さになっています。

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北を上にした地図。

上から順に白旗神社、白旗川とあり、妙善寺方面とあります。その下に八百屋さんでしょうか八百徳とあり、そのすぐ下が義経首塚道です。しかし首塚の位置は示されていません。

地図を見ていくと、その下が山本松五郎商店倉庫、お仮屋、米穀肥糧商高梨商店と続いています。これを参考にして現在の状況から首塚の位置が割り出せそうです。

と言うことで、現場に向かいましょう。なお、お仮屋は祭礼の際に使用される仮のお宮を意味しています。宮司さんが宿泊し、神輿がここから繰り出していくのです。

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白旗交差点から北上します。

写真は交差点から白旗神社を撮影したもの。この範囲の右手に義経の首塚があるのです。

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通りにあるお店の写真。

何と高梨商店が現在も営業しています。その隣が林農器具店。そのまた隣の比較的大きなビルが山本ビルとなります。

とすると…。高梨商店の位置からして、現在の山本ビルがお仮屋と山本松五郎商店に当たると理解できます。だんだん義経首塚道が近くなってきました。

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山本ビルの角。小さな路地らしきものが見えます。

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山本ビルとクリーニング大光舎の間の路地。

遂に発見しました。この路地がかつての義経首塚道に間違いありません。しかし…。

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路地の全体像です。

ご覧のように、路地の先は行き止まりになっていました。山本ビルの表示も画像右側の壁面に見えます。残念ながら、路地は小規模なマンションに遮られているようです。マンションを見るには妙善寺方面の道に行くしかありません。

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妙善寺への道の入口と義経首塚への路地。

妙善寺方面へ歩を進めます。すると白旗横町町内会館があり、その前に鳥居が…。

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白旗横町会館と鳥居。これが現在のお仮屋的役割を持っているのでしょう。

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内部には神輿があります。

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二階には社もありました。

さらに妙善寺方面に進むと、義経首塚道の奥に見えたマンションが…。

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イトービルとあります。その先は…。

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イトービルのマンションと、より大きなマンション(コスモ藤沢グランソル)があります。

二つのマンションの間には比較的大きな木が一本見えます。この木の辺りに向けて義経首塚道が延びているはずですが…、はっきりしません。そこで、電子国土画像にてチェックします。義経首洗い井戸の北に線を伸ばし、義経首塚道と交わる地点、そこが首塚になるはずです。

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電子国土画像。

赤丸の右側建物と接する位置が首洗い井戸です。その北約40mの義経首塚道と交わる地点がほぼ十字の中心となります。つまりイトービルの下に義経首塚があったことになります。
位置は北緯35度20分54.83秒、東経139度28分44.37秒。若干の誤差を見込んでも、この直径数mの範囲内に間違いなく義経の首塚があったのです。


大きな地図で見る
グーグル画像で見ると…。

大きな木の向うのお部屋の下辺りが首塚でした。マンション住人はご存知なのでしょうか?知っていてここに入居されたとしたら、とても豪胆なお方です。

大変残念ですが、首塚はイトービルの下となり現存していません。ビル建設の基礎工事の際、敷地を掘り下げるでしょうから、首は土砂とともにダンプに乗せられどこかに廃棄されたか埋め立てなどに再利用されているはずです。

白旗神社で長きにわたって神として祀られている義経の最も重要な遺跡が、このような扱いを受けていたとは信じ難いのですが、今となってはいかんともしがたい状態です。

首塚は明治以降様々な経緯を経て現在の状況になりました。ただ、その経緯は長くなるので省きます。興味のある方は藤沢文書館で「白旗横町の今昔」をご覧ください。係りの方にお願いすれば、すぐに取り出していただけます。

マンションの下となってしまった義経の首塚。将来マンション側の合意を得て、大きな木の下に首塚の碑を建てるべきと思います。いずれにしても、今までの検討結果からすれば、義経は衣川で自害して首は白旗の地に埋葬されたと見て間違いなさそうです。

           ―鎌倉・藤沢の義経伝説 その19に続く―

鎌倉・藤沢の義経伝説 その17


7月17日は午前11時30分から神輿御渡の安全を祈願する発輿祭(はつよさい)、正午からは義経・弁慶神輿御渡の行事が執行されました。記事の回数も同様に「その17」ときちんと行事の日取りに合わせています。それにしても本当に暑い一日でした。

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発輿祭のために待機中の義経&弁慶神輿。

神輿はあっても、白旗神社の祭神あるいは配神に弁慶は入っていません。弁慶はその存在すら確実視されていないのに、神輿だけはあるのです。ちょっと不思議な感じもするのですが、江戸時代以降義経と弁慶は常にペアで語られてきたせいでしょうか?弁慶に関しては、後日もう少し詳しく見ていきたいと思います。

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巨大な天狗の面も脇にありました。

義経は牛若丸と呼ばれた幼少時代、鞍馬山で修行をしています。鞍馬はもちろん鞍馬天狗で有名です。そんな関連から天狗の面も行事に参加していると推測できそうです。鞍馬天狗に関しては以下Wikipediaより引用します。

鞍馬天狗(くらまてんぐ)は能の演目の一つ。五番目物、天狗物、太鼓物に分類される。牛若丸伝承に題を採った曲で、大天狗と牛若丸との間の少年愛的な仄かな愛情を、華やかな前場と、山中での兵法相伝を行う後場の対比の中に描く。


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発輿祭が始まりました。

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何やら祭文を読み上げています。

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神楽を舞っています。

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発輿祭が終了すると、いよいよ神輿の出発です。

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暑さのせいか台車の車輪が大きな音を立ててパンクしました。

通常は神輿を担ぐのですが、今年は大震災に配慮したのか台車出の御渡りとなったようです。神輿は本来できるだけ荒々しくかついで災厄を祓うもの。かつがなかったので義経公の御霊がお怒りになったのかも…。

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横町の子供たちが太鼓を叩いています。

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神輿は鳥居を潜り抜けます。

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義経の首が流れ着いたとされる白旗川を渡ります。

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橋の上でもう一枚。

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境内を出た神輿は1号線のバイパス下を抜け北に向かいます。

交通量の多い道を通るのは大変です。バイパスを抜けたところで、またしても義経神輿の台車がパンクしました。焼けるようなアスファルトと台車の重量の相互作用で破裂したものと思われます。それにしても、発輿祭で神輿御渡の安全を祈願しているのに二度もトラブルに見舞われるとは、今年は日本国の厄年なのでしょうか?

            ―鎌倉・藤沢の義経伝説 その18に続く―

鎌倉・藤沢の義経伝説 その16


この記事もいつの間にか「その16」まで回を重ねてしまいました。書いているうちにイメージが膨らみ、回数が増えてしまうのはいつもの通りです。ただ、記事は一定の視点で体系的に書いているつもりですので、「その1」から順にご覧いただければ幸いです。

さて、7月15日から白旗神社において白旗まつり・例祭が執り行われています。(最終日は7月21日)記事の進行とうまくタイミングを合わせることができたので、順次ご紹介したいと思います。今日ご紹介するのは16日(土)の訪問分です。行った時点では特に行事はありませんでした。

神社からかなり離れた湘南高校周辺まで旗が立てられ、縄で結界が張られています。

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旗と結界。

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石段下から見た神社拝殿。色とりどりの提灯が吊るされています。

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拝殿。提灯と笹竜胆の神紋入りの幕などが華やかに社殿を飾っています。

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提灯の一つに領家町とあります。

この町名には何か意味がありそうに思え、Wikipediaで調べてみました。以下引用します。

平安時代中葉の10世紀後期から11世紀の頃、地方の有力農民である田堵(たと)による田地開発とその私有地化が活発化した。このような開発田地の所有者を開発領主というが、その土地所有は法的根拠に欠け、国衙に収公される可能性も高く、非常に不安定なものであった。そのため、開発領主の多くは、中央の有力貴族や有力寺社へ荘園を寄進することで、荘園の支配権・管理権を確保するようになった。このとき、寄進を受けた者が領家である。


白旗神社は鎌倉権五郎景政が開発し伊勢神宮に寄進した土地(荘園=大庭御厨)の中にあります。すなわち、白旗における「領家」は大庭御厨を寄進された伊勢神宮を意味します。白旗交差点の周辺がかつての「領家」で、それが町内会の名称で今も使われているのです。「領家」には、荘園からの上がりを管理する組織とそれを統括する伊勢神宮の出先機関があったのでしょう。

藤沢本町の西にある伊勢山も「領家」の存在と対になっていると考えられます。かつてここには、伊勢神宮を遥拝するための遙拝所がありました。よって伊勢山と呼ばれるようになったのですが、遙拝したのは領家に駐在していた伊勢神宮の駐在員だったのでしょう。

彼らは、「こんな草深い東国の地にはもういたくない。天照大神様早く私をあなたのお膝元に帰らせてください」などと心の中で思いながら、伊勢の方角に手を合わせ祈ったはずです。あくまで想像ですが…。

藤沢に天孫系の神社はほとんどありません。しかし、伊勢山の南には鵠沼皇大神宮(所在地:藤沢市鵠沼神明2-11-5)が鎮座しています。既に書いたようにこの境内地には大同3年(808年)に石楯尾神社が創建されています。その場所に天長9年(832年)烏森神社の社殿が建てられ、鵠沼皇大神宮の前身が創建されました。

この神社が鵠沼皇大神宮と呼ばれるようになったのは永久5年(1117年)で、 鎌倉権五郎景政が大庭荘を伊勢神宮に御厨として寄進(1104年頃)し、神社が藤沢、茅ヶ崎、寒川を含む御厨の総鎮守と定められてからのことです。よって、天照大神を祀る鵠沼皇大神宮の実質的な創建は大庭御厨成立後と考えられます。

以上を総合すると、大庭御厨が成立して現在の白旗交差点付近に領家(=伊勢神宮)の出張所が設置された。伊勢からやってきた駐在員が伊勢神宮を遥拝する遙拝所を伊勢山に設置した。伊勢山は一種の山宮となる。そして里宮としての鵠沼皇大神宮がほぼ同時に成立した、と考えられます。

つまり領家町、伊勢山、鵠沼皇大神宮は三点セットとして存在していたのです。拝殿に吊るされた提灯一つにも、奥の深い歴史が詰まっていました。だから歴史探索はやめられない…。


大きな地図で見る
領家町、伊勢山、鵠沼皇大神宮を示すグーグル地図画像。

藤沢本町駅東側の白旗交差点一帯が領家町、本町駅の西側はすぐに伊勢山、湘南高校の南側が鵠沼皇大神宮。

以前、伊勢山にある妙見碑をご紹介しています。伊勢神宮の度会氏は妙見信仰を持っていたので、その関連でここに妙見碑が建てられたと推測したのですが、間違っている可能性が出てきました。

碑は伊勢山の南側斜面で発見されたそうです。白旗神社関連であれこれ資料を見ると、山の南側の古い地名は「風早」でした。実は、千葉氏の一族に風早氏がいます。系図的には、千葉介常胤―東胤頼―胤康(四男)と続き、胤康が下総国葛飾郡風早郷に居住して風早四郎左衛門と称しました。

以上から、千葉氏の流れを汲んだ風早一族がこの地にいたので妙見碑が建てられたとする方が妥当なように思えてきます。結局、藤沢にある妙見碑はいずれも千葉氏の関連だったのです。

            ―鎌倉・藤沢の義経伝説 その17に続く―
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