鎌倉・藤沢の義経伝説 その25


義経を支えるのは弁慶と四天王でした。四天王のうちの二人に関して藤沢に痕跡が残っています。 亀井坊=亀井六郎重清と駿河坊=駿河治郎清重です。重清と清重。似たような名前が気になりませんか?

まず駿河坊です。片瀬の諏訪神社バス停から江ノ電方面に向かいます。片瀬4丁目に駿河次郎清重の墓と「笈焼き松」があったそうです。


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周辺のグーグル地図画像

駿河坊は頼朝の追手に追われ、この地で笈(旅の用具をいれるもの)を焼き松の下で自害したと伝えられています。しかし住宅が建てられ、この史跡はもう跡形もありません。

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墓があったのはこの辺りと推測されます。

次が亀井坊です。藤沢には亀井野と言う地名があって、亀井坊に由来している可能性があります。そこで亀井野の地図を眺めていると…、ありました。六会小学校の手前に亀井神社が鎮座しています。


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グーグル地図画像。

と言うことで一路亀井神社へ。まあ、すぐ近くですけど…。途中には新しくできた亀井野わいわい市場があります。これができて、寒川のわいわい市場には行かなくなりました。

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わいわい市場。

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野菜類が数多く陳列されています。

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背後は広大な農地。

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高く聳えるのはドリームランドのホテルだった建物です。

わいわい市場を出て北上します。

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亀井神社全景です。

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拝殿。

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扁額。

亀井六郎重清は紀伊国における熊野社家鈴木重国の子です。またも熊野修験の関連が出てきました鈴木氏に関しては以下Wikipediaより引用します。

鈴木を名字とする家の多くは穂積を本姓としており、熊野三山信仰と関係が深い。穂積姓鈴木氏は熊野本宮の出身で、蟻の熊野詣でで知られる熊野本宮大社に詣でる信者たちの世話や指導をする熊野御師の筆頭として、神官を受け継ぐ家系である。鈴木氏は熊野神社の勧進や熊野を基地とする太平洋側の海上交通に乗り、神官として東日本を中心とした全国へ広まった。…中略…
平安時代の末に藤白鈴木氏から出た鈴木三郎重家・亀井六郎重清の兄弟は、源義経に郎党として仕え、陸奥国衣川で主君を守って戦死した。このため、藤白鈴木氏が全国の鈴木氏の本家筋と見られたのも東日本で鈴木姓が爆発的に広がったのも、中世日本社会で広く見られた義経人気にあやかったものとみる向きもある。


「熊野を基地とする太平洋側の海上交通に乗り」とあるところが、菟足神社にある案内板の徐福伝承記事とも重なりますね。この亀井六郎重清が崇敬する神社が亀井神社だったそうです。しかし、それだけでは何のことかわかりません。

ところで亀井野は、関東平氏の流れを汲む渋谷重国の領地でした。重国に関しては以下Wikipediaより引用します。

渋谷重国(しぶや しげくに、生没年未詳)は、平安時代末期、鎌倉時代初期の武将。河崎重家の子。桓武平氏の流れをくむ秩父氏の一族。…中略…
平治の乱では源義朝の陣に従う。義朝が敗れたのち、所領を失って陸奥へ逃れようとした佐々木秀義とその子らを渋谷荘に引き留めて援助し、秀義を婿に迎えている。


さて、この佐々木秀義が亀井六郎の父親との説もあります。気になるのは、六郎の父が鈴木重国で渋谷重国も重国だったことです。見えないところで複雑に入り組んでいるような気がするので、詳しい方に解明していただきたいのですが…。

いずれにしても、義経の四天王の一人に熊野修験が絡んでいることは注目に値します。義経四天王の2名に関する遺跡も藤沢にありました。これらからしても、義経の首は白旗の地に埋葬されたと見て間違いなさそうです。

白旗神社の前身は寒川神社で、寒川に鎮座する寒川神社は800年の富士の噴火から逃れた秦氏が関係すると考えられ、ここに寒川文書(宮下文書)があったのもその証明になると思われます。

では、富士山麓に居住していた秦氏の実体はどのようなものだったのでしょうか?それを解明しないと、義経と秦氏の関係も画竜点睛を欠く(最後の詰めを欠く)ものになってしまいます。なので、いずれ富士山麓の秦氏を探求してみたいとは思っています。「鎌倉・藤沢の義経伝説」は今回で終了とします。
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鎌倉・藤沢の義経伝説 その24


ここまでの検証で判明したのは、義経の背後には修験道の二大勢力である熊野修験と白山修験の存在があり、そのまた背後には秦氏がいると言うことでした。義経が伝説的な人物と化した理由もまた、秦氏が変容した自由往来の民たちの手になるものでした。

それは秦氏の関与する聖徳太子信仰が空海の弘法大師信仰に流れ込み、現在まで続いているのと同質と言えるでしょう。

さて今回は、八王子権現を管理していたとされる荘厳寺についてです。

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「我が棲む里」の荘厳寺に関するコピー。古義真言宗の古いお寺のようです。

「我が棲む里」の八王子権現に関する項の中に真言宗荘厳寺が白旗神社、山王権現、大神宮、八王子権現の四社の別当として管理に当たっているとあります。

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「我が棲む里」のコピー。

荘厳寺は過去に相当な権限を持っていたとこの内容から想像できるのですが、なぜそれほどの力を持っていたのでしょう?

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荘厳寺です。

実際の寺は、案に相違して小さなものでした。元暦元年(1184年)、覚憲僧都が草創したとのことで、長い歴史を持っています。「我が棲む里」によれば、荘厳寺旧地は常光寺西の妙善寺の旧地の山下にあったとのこと。こんなところで妙善寺が顔を出しています。荘厳寺が白旗神社の別当寺だったのは、妙善寺と秦氏の関係が影響を及ぼしているようにも推測されます。

そこで白旗神社のホームページを再度参照してみました。建久9年(1198年)荘厳寺住職覚憲が別当職になるとあり、宝治3年(1249年)9月源義経公を合わせ祀ると書かれています。

由緒 往昔一ノ宮寒川神社を勧請し建久九年荘厳寺住僧覚憲別当となる、文治五年源義経奥州にて敗死し、…中略…宝治三年丁丑九月義経を合せ祀る、社前領家町に首塚、首洗井あり

ここで留意すべきは、覚憲が別当になった当時、神社は寒川神社だったことです。そして荘厳寺の古義真言宗は秦氏と繋がりの深い空海の直系的な宗派であり、徐福系秦氏の子孫の墓がある妙善寺に旧地がありました。

だとしたら、秦氏と繋がりのある寺が荘厳寺だったのではないでしょうか?またこの寺は、藤沢最古の寺となっています。

しかも覚憲は秦氏系の寺である大安寺の別当も務めています。空海と密接だった秦氏系の勤操(ごんそう)もまた大安寺の僧でした。

秦氏と縁の深い空海直系の覚憲が寒川神社(その下には多分秦氏の古墳がある)の別当になり、1249年になって義経が祀られ白旗神社が成立します。こうした複雑な経緯は白旗の地に秦氏が影響を及ぼしていることの証明になるでしょう。

そうした歴史があったから、義経を守る弁慶塚は荘厳寺と言う議論が出てきたのです。義経の死後にも秦氏が関与していそうな雰囲気がいっそう強くなってきました。

なお荘厳寺には義経の位牌があります。天保3年(1832年)に宥全和尚が作ったもので、古くはありません。但し、それ以前にも義経の位牌はあったそうです。位牌が作られた背景には、小川泰堂の「我が棲む里」文政13年(1830年)があると見られます。

              ―鎌倉・藤沢の義経伝説 その25に続く―

鎌倉・藤沢の義経伝説 その23


弁慶塚は確かに存在する。しかしここに弁慶の首が埋葬された確証はない。ここが頭を悩ます部分でした。で、実際のところはどうだったのでしょう?まず「鶏肋温故」に当たってみます。

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「鶏肋温故」のコピー。

白旗神社の項に「例歳七月十五日当社及八王子権現ノ神輿ヲ仮殿二移シ」、とあります。また、八王子社の項では、武蔵坊弁慶の首塚があるところで、例祭は白旗と同じ、とあります。

この内容から、義経と弁慶は完全にペアになっているとわかります。ペアになったのは以下の理由によると思われます。

「東海道名所記」に義経と弁慶の首が白旗に飛んだと記載あること、歌舞伎で弁慶の存在が重要視されていること。

次に仮殿と言う言葉に注目しましょう。仮殿は「その18」に掲載した明治時代の地図にあるお仮屋のことです。現在白旗神社から出発する義経神輿と弁慶の神輿(八王子権現の神輿)は、江戸時代にはお仮屋に移され、そこから町に繰り出していたのです。

このお仮屋が初めて建てられたのは、宝暦2年(1752年)のことでした。この年号が気になりませんか?そう、弁慶塚に彫られていた年号と同じです。ここから次のような推測が成り立ちます。

お仮屋が建てられた当時、歌舞伎の影響もあり、義経の霊を祀るなら、弁慶も同時に祀るべきだという機運が地元で高まってきて、弁慶塚の建立に繋がった。その前提には、1650年代半ばに書かれた「東海道名所記」の、「弁慶の首が白旗神社に飛んだ」と言う記述がある。

以上より、弁慶塚が建立されたのは歌舞伎と「東海道名所記」などの影響によるものと推測されます。つまり、八王子権現社に弁慶の首が埋められた訳ではないのです。弁慶の神輿が現在は白旗神社にあるにもかかわらず、祭神どころか配神にもなっていないのは、その証明となるでしょう。弁慶の塚は現存するが首は埋葬されていない、それが今回の結論となりました。

なお、義経の首塚に弁慶の首も埋められていると言う見方まであるようですが、これも「東海道名所記」などの影響によるものと思われます。

ところで、「東海の秦氏 その10」2010年11月16日、で取り上げた豊川市菟足神社の大般若経五八五巻は、国の重要文化財に指定されており、長い間弁慶の書と伝えられていました。(実際は違いますが、大般若経は熊野修験の流れと言われています)

この神社は熊野から渡来した秦氏創建の神社とされ、一方弁慶は熊野の出身(新宮市から熊野川を越えた三重県紀宝町には「弁慶産屋の楠跡」石碑がある)だったからそうした言い伝えになったものと思われます。

「東海の秦氏 その10」で、菟足神社にある案内板(豊川市教育委員会設置)を掲載しました。そこには以下のように書かれています。

熊野に渡来した徐福一行は、この地方にも移り住み、その子孫が秦氏を名乗っている。…中略…
三河地方が古来から熊野地方とは海路による往来が行われ、熊野信仰の修験者により熊野に伝わる徐福伝承が伝えられた。

この記事は熊野修験と秦氏の係わりを示しています。(詳しくは「東海の秦氏 その10」を参照ください)
実際には三河地方(特に豊川市小坂井町、豊橋市日色野町)に秦氏姓が多いことから、徐福伝承は熊野信仰の修験者により三河に伝えられたのではないと思われます。

徐福伝承はあくまで秦氏によって伝えられたのです。しかし後年になって、秦氏と混じり合った熊野修験者が熊野から三河地方に渡来した可能性は否定できません。同じ修験道である白山修験の創設者泰澄は秦氏系であることからもそれは窺えます。そうした流れの中で、菟足神社にある熊野修験の大般若経は弁慶の書であるとの伝承が生まれたのでしょう。

これらの複雑な関係から、秦氏の影響を受けた義経と熊野修験の流れを汲む弁慶はやたら深く結びつけられたと考えられるのです。

続いて、八王子権現に関する「鶏肋温故」の記事をもう一度見てみましょう。

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「鶏肋温故」。

八王子権現は常光寺の傍らにあり、武蔵坊弁慶の霊を祀るそうだ。これは白旗明神を義経と言うのに対応しているのである。考えを巡らしてみると、当社は現在白王山荘厳寺にて管理している。しかし、常光寺を八王山と号し、当社を八王子権現と称すれば、これは正しく常光寺一山の鎮守であるべきで、暇があればなお考証が必要である。

八王子権現は荘厳寺にて管理している、しかし常光寺の鎮守であるべき、とあります。矛盾した書き方ですね。でも、なぜ荘厳寺が弁慶塚の関連で出てくるのでしょう。その背後には、何らかの事情があったはずです。「暇があればなおも考証が必要だ」と「鶏肋温故」にも書かれていますので、暇人の酔石亭主が次回にでも考証してみます。

             ―鎌倉・藤沢の義経伝説 その24に続く―

鎌倉・藤沢の義経伝説 その22


「その21」の「車田」に関してさらに調べた結果、湘南高校の北側角に車田白旗稲荷が鎮座していると判明しました。

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神社全景。

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石柱に車田町氏子中とあります。

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小さな社殿。

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庚申塔です。元禄2年(1689年)の建立で、右下に車田村とあります。

とすると、車田は湘南高校の南ではなく、高校の北側すなわち伊勢山の南、県道43号線(旧東海道)に沿って引地川近くまでの範囲が車田だったのでしょう。


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グーグル地図画像。白旗稲荷とあるのが車田白旗稲荷。本六町内会館とあり、この本六町がかつての車田。

なお、白旗神社のホームページによれば車田は白旗神社の直轄田とのことです。しかし、車田の言葉の由来からすれば、鵠沼皇大神宮に供えるための神田に違いないはずで、おすそわけが白旗神社にあったのではと推測します。その後、白旗神社の直轄になったのかもしれません。

暑さのせいか歳のせいか、どうも最近は調査不足の度が過ぎているようで…(^_^;) 義経公が祟っているのでしょうか?これ以上は不足がないと決め付けて、今回ようやく弁慶の塚に突入です。

義経と対になって語られる武蔵坊弁慶。彼の遺跡は義経以上に多くあります。例えば白旗神社には、弁慶の力石が拝殿脇に置かれています。

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力石。

満福寺にも同様に弁慶の手玉石がありました。ところがです。弁慶に関する史料はほとんどなく、実在したかどうかさえはっきりしません。力石も手玉石も誰かが適当に置いたもので、直接弁慶との関係はないと見られます。Wikipediaには弁慶について以下のように書かれています。

武蔵坊弁慶(むさしぼうべんけい 武藏坊辨慶、生年不詳 - 文治5年閏4月30日(1189年6月15日))は、平安時代末期の僧衆(僧兵)。源義経の郎党。…中略…
元は比叡山の僧で、武術を好み、義経に仕えたと言われるが、『吾妻鏡』には文治元年(1185年)11月3日に「辨慶法師已下相從」11月6日に「相從豫州之輩纔四人 所謂伊豆右衛門尉 堀弥太郎 武藏房辨慶」と記されているだけで、その生涯についてはほとんど判らない。一時期は実在すら疑われたこともある。しかし、『義経記』を初めとした創作の世界では大活躍をしており、義経と並んで主役格の人気がある。…中略…
熊野別当湛増(『義経記』では「弁しょう」、『弁慶物語』では弁心)が、二位大納言の姫を強奪して生ませたとされる。母の胎内に18ヶ月(『弁慶物語』では3年)いて、生まれたときには2、3歳児の体つきで、髪は肩を隠すほど伸び、奥歯も前歯も生えそろっていたという。父はこれは鬼子だとして殺そうとしたが、叔母に引き取られて鬼若と命名され、京で育てられた。

弁慶の父親とされる湛増に関しても以下Wikipediaより引用します。

湛増(たんぞう、大治5年(1130年) - 建久9年5月8日(1198年6月14日))は平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活躍した熊野三山の社僧で、21代熊野別当である。18代別当湛快の次子。源為義の娘である「たつたはらの女房(鳥居禅尼)」は、湛増の妻の母に当たる。「たつたはらの女房」を湛増の実母とする俗説があるが、これは明らかな間違いである。武蔵坊弁慶の父とされるが、文学的伝承のみで確証はない。

上記から、弁慶は異常出産によって生まれた鬼と理解できます。京極夏彦氏の「姑獲鳥の夏」にはこの辺の内容が詳しく書かれています。いずれにせよ弁慶は、常人とは異なる存在だったのです。

と言うことで今回は、歌舞伎によってスターダムにのし上がった弁慶の塚探しです。史料に当たるのが早道なので、「鶏肋温故」で調べてみます。すると、ありました。八王子大権現社 の項によれば以下の通りです。(「その21」でアップした「我が棲む里」八王寺権現社にもあります)

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「鶏肋温故」のコピー。

八王子権現は、常光寺の傍ニ在、武蔵坊弁慶の霊を祭ルよし、是白旗明神を義経と云に対してなるべし、按るに当社今白王山荘厳寺にて別当す、然れとも、常光寺を八王山と号し、当社を八王子権現と称すれば正しく是常光寺一山の鎮守なるべし、猶暇日考証すべし

八王子権現は常光寺の傍らにあり、武蔵坊弁慶の霊を祀るそうだ。これは白旗明神を義経と言うのに対応しているのである。考えを巡らしてみると、当社は現在白王山荘厳寺にて管理している。しかし、常光寺を八王山と号し、当社を八王子権現と称すれば、これは正しく常光寺一山の鎮守であるべきで、暇があればなお考証が必要である。

八王子権現の管理は、常光寺か荘厳寺かとの議論があるようです。もう一度白旗交差点にある案内板を参照しましょう。

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案内板。

案内板の右下側にお寺が固まってあります。その中に常光寺があり、ここに弁慶塚があることになります。

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立派な常光寺の山門。

記念碑と書かれた石が左手に…。碑文を見ると、なんと藤沢警察発祥の地とか。この一帯が昔の藤沢の中心だったことが見て取れます。

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石碑。

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境内には庚申塔もあります。右が万治2年(1659年)、左が寛文9年(1669年)のもの。

弁慶塚を探して裏山の墓地に登りますが見当たりません。運よく和尚さんがおられたのでお聞きしました。ご指示に従って行くと、古い石段が…。

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石段。

石段の上に巨木がどっしり根を下ろしています。義経を命懸けで守る弁慶の姿そのものでした。

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巨木。

石段を上がり切ると平場があって、庚申尊の傍らに小屋掛けした塚があります。

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庚申塔と塚。

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弁慶塚。うっすらと文字が読み取れます。

昔の写真を見ると、弁慶塚と彫られ(弁は古い字体)、また横に宝暦二年(1752年)と製作年が入っていたそうです。なお弁慶塚に行くには常光寺の山門を潜るのではなく、白旗交差点寄りの一本手前の道を入って行くと、裏山に向かう石段(八王子権現跡地への石段)が見えますので、そちらからの方がわかりやすいと思います。

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済美館(画像右手の新しいビル)と池田屋の間の道に入ります。

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荘厳寺墓地の裏手に出ると道の左手に石段が見えます。

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八王子権現跡地への石段です。

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八王子権現跡地です。左手奥に弁慶塚への石段があります。

八王子権現に関しては以下Wikipediaより引用します。

八王子権現(はちおうじごんげん)は近江国牛尾山(八王子山)の山岳信仰と天台宗・山王神道が融合した神仏習合の神であり、日吉山王権現もしくは牛頭天王(ごずてんのう)の眷属である8人の王子を祀った。神仏分離・廃仏毀釈が行われる以前は、全国の八王子社で祀られた。

弁慶塚のある八王子権現も明治維新後廃されたのかもしれません。

以上で弁慶塚の存在は確認できました。問題は、本当に弁慶の首がここに埋葬されたかどうかです。それを確かめるのが難しく、悩まされました…。

           ―鎌倉・藤沢の義経伝説 その23に続く―

鎌倉・藤沢の義経伝説 その21


記事をアップした後になって、調査不足が発覚するケースがしばしばあります。今回もそうしたケースが出てきましたので、恥ずかしながら追加的に書くこととしました。(弁慶の塚はまたも先送り…)追加すべき部分は「その16」の中にあります。

『白旗交差点の周辺がかつての「領家」で、それが町内会の名称で今も使われているのです。「領家」には、荘園からの上がりを管理する組織とそれを統括する伊勢神宮の出先機関があったのでしょう』

「その16」において、「領家」には伊勢神宮の出先機関があったのでしょうと、推測で書いています。しかし良く調べてみると、実際に出先機関はあったのです。参考になったのは『天養記』でした。

『天養記』「官宣旨案」は、天養2年(1145年)大庭御厨に対する源義朝の狼藉(大庭御厨濫行)を訴えた大神宮の解状 に対して出された宣旨で、狼藉が実際にあったのは1143年4月のことです。宣旨の内容を以下抜粋します。

その最中高座郡内字鵠沼郷、今俄に鎌倉郡内と称し、事を彼の目代の下知に寄せ、義朝郎従清大夫安行並びに字新籐太及び廰官等、去年九月上旬の比、旁々濫行を致し、伊介神社の祝荒木田彦松の頭を打ち破り、死門に及ばしむ。訪行の神人八人の身を打ち損い、供祭料魚を踏み穢し、郷内の大豆、小豆等を苅り取る所なり。

伊介神社とは鵠沼皇大神宮のことです。それを示す大庭御厨の領域図は以下の通り。

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大庭御厨の領域図。こうして見ると随分広いですね。

義朝の家来たちは鵠沼郷に鎮座する鵠沼皇大神宮の宮司荒木田彦松を殺害し、神人8人に傷を負わせました。荒木田氏は伊勢神宮内宮の禰宜として江戸時代の末まで神官を務めています。

上記の内容から、伊勢神宮の言わば本部出張員社宅が「領家」にあって、出張員は鵠沼皇大神宮に務めていたとわかります。通勤時間は徒歩で10分程度。「その16」では以下のように書いたのですが…。

『彼らは、「こんな草深い東国の地にはもういたくない。天照大神様早く私をあなたのお膝元に帰らせてください」などと心の中で思いながら、伊勢の方角に手を合わせ祈ったはずです。あくまで想像ですが…』

神への祈りも空しく、荒木田さんは本社に帰任する前に殺害されてしまったのです。酔石亭主も海外駐在経験があり、現地は日本より治安が悪かったので、常に神経を張り詰めさせていました。もちろん、荒木田さんの時代はもっと治安が悪かったはず。そんな中で神聖な仕事に従事される方が殺されるとは、本当に言葉を失います。

このように、「領家」と言う地名には奥深いものがあったので、他にも伊勢神宮との関連を連想させる地名がないか調べることにしました。

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「新編相模国風土記稿」をコピー。

この中に「車田」と言う地名があります。これは間違いなく伊勢神宮に関連した地名でしょう。「車田」は特殊な稲の植え方を示しています。

「車田」の場合、田の中央に杭を立て、その外側を車輪のように同心円状に植えていきます。車田で収穫された米は伊勢神宮に(この場合は鵠沼皇大神宮に)神饌米として奉納されるため、穢れた糞尿などは一切使用せず、わらや穀物殻を肥料として、生活汚水の入らない田で作られました。

「車田」とはそのような場所であったのです。現在の湘南高校辺りが「車田」になります。高校はちょっとした高台なので、その南の平坦地つまり鵠沼皇大神宮の北側で神饌米を作っていたのでしょう。

では次に移ります。「その16」で以下のように書いています。

『以上を総合すると、大庭御厨が成立して現在の白旗交差点付近に領家(=伊勢神宮)の出張所が設置された。伊勢からやってきた駐在員が伊勢神宮を遥拝する遙拝所を伊勢山に設置した。伊勢山は一種の山宮となる。そして里宮としての鵠沼皇大神宮がほぼ同時に成立した、と考えられます。つまり領家町、伊勢山、鵠沼皇大神宮は三点セットとして存在していたのです』

しかしです。「我が棲む里」の以下のコピーをご参照ください。

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「我が棲む里」のコピー。

八王子権現社の項7行目下から、「壁土山の側らなる大神宮なり、」と言う文章があります。壁土山と言う山の傍らに大神宮があるとすれば、これこそが伊勢神宮を遙拝するための場所です。
では、伊勢山はどうなってしまうのでしょう?まず下の写真を参照ください。

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写真。

駅は小田急藤沢本町駅です。線路の左右に森が見えます。この小田急線に削り取られた部分が、家の壁土を取った山すなわち壁土山です。線路右側の森はそのまま伊勢山に続いていますので、壁土山は伊勢山の一部と見て間違いないと思います。


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壁土山を示すグーグル画像。

結局のところ、伊勢神宮関連は領家町、伊勢山(壁土山)、鵠沼皇大神宮、車田の4点セットだったのです。ちなみに、藤沢北部の菖蒲沢には豊受大神もあります。由緒は伝わっていませんが、鵠沼皇大神宮のペアとして創建されたものと推測されます。

「新編相模国風土記稿」コピーには「風早」の地名も出ています。実際にどこかで使われていないか調べたところ、ありました。

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伊勢山橋の脇にある真源寺です。山号が風早山とあります。

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本堂。

以上、調査不足の点が多々あり、あれこれ追加を書きました。今後も同じような事例が出るかもしれませんが、ご了承ください。

             ―鎌倉・藤沢の義経伝説 その22に続く―
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