関東平氏の鎌倉 その16


笠間大橋から国道一号線方面に向かって走り、田谷で右折するとすぐに大船ラドン温泉が現れます。昔ここで入浴したのですが、茶色いお湯であまり効能はなさそうに感じられました。


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この施設は本年6月末に閉館となるそうです。ラドンも放射性同位体ですから原発の影響で客足が鈍った結果かもしれません。もしそうなら東電から賠償を頂くべきですね。ちなみに、WHOはラドンが癌の原因になると警告しています。ラドンガスが放出するアルファ線により DNAが傷つき肺がんを引き起こすとか。でも一方で温泉の効能は蓄積されたデータがあり、どう考えるかは自己判断するしかなさそうです。

で、そのお隣にあるのが通称「田谷の洞窟」、正式には定泉寺田谷山瑜伽洞(じょうせんじ・たやさん・ ゆがどう)です。自然のものではなく、人の手により掘られた人工洞窟です。

寺の創建は天文元年(1532年)と新しいのですが、洞窟の歴史は古く古墳時代の横穴墳墓が元になっているらしい、とされています。鎌倉時代には真言密教の修行の場として開鑿され、落武者が穴を伝って逃げたとの伝説も残っています。洞窟の概要は以下Wikipediaより引用します。

洞窟は定泉寺本堂の裏手にある小さな舌状台地の地下にあり、上中下の三段構造で途中道がいくつも枝分かれしている。内部には行者道という順路が定められており、これから外れた道には入ることができないようになっているため道に迷うことはない。一部封鎖されている場所があるのには、ただ単に道が崩れていて危険であるという理由と宗教的な理由とがある。行者道に沿って電灯が設置されており、行者道に関しては足元もきちんと整備されている。
洞窟は10個前後の広い空間を通路で結ぶような形で作られているが、この広い空間や通路の壁面や天井には曼荼羅、十八羅漢、刈萱道心の仏教説話などが彫られている。また西国三十三箇所、坂東三十三箇所、秩父三十四箇所、四国八十八箇所の壁画は、それらをすべて回ることで巡礼したことの代替とするものである。さらに、足柄山の金太郎を描いたものなど庶民的ともいえる彫り物もある。洞内には音無川などいくつもの水が流れており、やわらかい地層の中にこれらの彫り物が保たれているのはこの湿気のためである。洞内には仏像などが安置されてもいる。瑜伽洞は現在でも住僧や一般からの希望者による修行の場であり、厳粛な宗教空間となっている。
上記の通り、内部には崩壊がおきているため正確なところは明らかではないが、この洞窟の全長はおよそ1キロメートルほどと推定されている。測定可能な部分については全長が約540メートルであることが判っている。また内部の気温は季節を問わず16℃前後となっている。


地下迷宮に立体曼陀羅が展開される壮大かつ厳粛な宗教的空間ですが、内容は結構庶民的とも言えそうです。

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狭く見える洞窟の入り口。

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近寄ります。

内部の写真撮影は禁止なので、残念ながらご紹介はできません。洞窟内は、受付でロウソクを受け取ってその火を掲げつつ歩くのですが、冷たい風ですぐに消えてしまいます。でも、電燈が雰囲気を壊さない程度に点いていますので、歩くのに不都合はありません。ゲーム機では味わえないダンジョンのRPGが実体験できますよ。

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境内にあった安産祈願の玉石。

それほど知られてはいない田谷の洞窟ですが、一見の価値はあると思います。ぜひ足をお運びください。

酔石亭主の独断による湘南地方の三大洞窟は、江の島の岩屋洞窟(波の浸食によるもの)、龍口寺の地下壕、田谷の洞窟となります。自然洞窟、人工洞窟の違いのみならず、歴史も背景もそれぞれに異なっており、行く価値はあると思われます。ただ、龍口寺の地下壕は整備されたものではなく、危険が伴うのでお勧めできません。

さて、長尾氏の始祖である景弘(長尾次郎)の子供が長尾定景で、彼は三代将軍源実朝を殺害した公暁を討った人物です。定景の墓所は久成寺にあります。住所は鎌倉市植木4949。


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寺は小田原北条氏の家臣である梅田秀長が永正17年(1520年)に屋敷を寄進して創建され、日舜上人により開山されました。

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山門と本堂。

端正な佇まいです。山門は鴻池家の夫人が龍口寺に寄進したものを明治の始めに移築したとのこと。歴史が感じられます。また天正19年(1592年)には徳川家康が北条攻めの際に来駕。寺領三石を賜ったそうです。北条氏ゆかりの寺なのに当時の住職はさぞ複雑な気持だったのでしょうね。

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盆栽のように手入れされた松。

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本堂。

長尾一族の墓は長尾台から寺に移されたとされます。長尾砦を北条氏が築城した際、墓が邪魔になって移したのでしょうか?梅田秀長は玉縄城の武将なので、そう考えると筋が通りそうです。

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墓所の石碑。

あるいは、久成寺は玉縄城の南西すなわち裏鬼門に当たるので、その守りに長尾一族の霊を当てたのかもしれません。

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長尾一族の墓石。

ところがそれらの推測は間違っていたようです。寺の解説石板(写真は光が反射して見にくいので掲載しません)によれば、以下の通りでした。

上杉謙信公ノ祖長尾新六定景一族ハ法華ノ信徒ナリシ故ヲ以テ昭和三十二年四月長尾城址ヨリ移シ霊ヲ祀ル

長尾城址に墓だけがあったとは考えにくいのですが…、つい最近のことでもあり、そう書かれている以上信じるしかなさそうです。

関東平氏の鎌倉は一応これで終了です。やや中途半端ですが、引き続き別の記事の中でも取り上げていきたいと思います。

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関東平氏の鎌倉 その15


御霊神社の背後の山には長尾城跡があるので行ってみます。結構大きな砦だったようで何段もの平場らしき痕跡がありました。また見張り用の物見塚、空堀などもあるそうです。何より柏尾川自体が天然の防御施設と言えるでしょう。

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山の上は意外に広い畑地となっています。

畑地から少し下った道沿いに長尾砦址の解説板がありました。

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解説板。

解説板には書かれていませんが、景弘が築城したとのことです。ただ、長尾氏の居館を砦と考えるのかはっきりしません。本格的築城は北条氏の時代ということなのでしょう。

それにしても、ややわかりにくい解説板です。(この地の御霊神社は景政が祭神と書いてあるのに、神社での解説板は大国主命となっており異なっています)
神社と砦址の解説板の作成主体が異なるため祭神が違ってしまったのでしょうが、混乱を招くので統一して欲しいものです。

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解説板向かいの畑地。

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山上の畑地から六国見山を望む。

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クスノキの巨木がありました。長い時代の変遷を見守って来たのでしょうか?

近くに小洒落た住宅も進出しています。そのうち一帯の畑地も造成されて宅地に変わるのかもしれません。いずれにしても、この場所にかつて城があった雰囲気は感じられます。

畑地周辺には様々な花が咲いています。

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ダリア。

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もう一枚。

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菖蒲が咲いていました。

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アジサイもあります。

山上の別世界を楽しんで長尾砦址探訪を終えました。

             ―関東平氏の鎌倉 その16に続く―

関東平氏の鎌倉 その14


今回は長尾氏の足跡を訪ねて長尾台に向かいます。さすがにチャリンコでは厳しいので車で行くことにしました。


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画像の御霊神社が長尾氏の居館跡とされています。長尾氏に関しては以下Wikipediaより引用します。

長尾氏は桓武平氏の流れを汲む鎌倉氏の一族である。鎌倉氏自体が、相模の古代豪族の末流だとする説も有力だが、長尾氏が鎌倉氏一門の古い一族であることは確かである。長尾の家名は、鎌倉景明の息子で大庭景宗の弟である景弘が、相模国鎌倉郡長尾庄(ながおのしょう、現在の横浜市栄区長尾台町周辺)に住んで長尾次郎(ながお じろう)と称したことに始まリ、坂東八平氏のひとつに数えられる。
源頼朝が挙兵したとき平家の側につき、さらに平家滅亡後は同族・三浦氏の配下となった。長尾新六定景は公暁を討ち取るという功績も挙げたが、宝治合戦で一族がほぼ全滅・没落した。長尾家のわずかな生き残りは、鎌倉時代末期から南北朝時代初頭頃に関東へ入部した上杉氏に仕えた。


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神社の鳥居。

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御霊神社。

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御由緒。読みづらいので以下記載します。

長尾臺御霊神社並由緒
鎌倉郡豊田村長尾臺字宮之前参百七十二番地
村社御霊神社

一、祭神 大国主命
一、由緒 鎌倉権五郎の景政の玄孫景弘始めて長尾の地に住し長尾次郎と称す是長尾氏の祖なり景弘の長子新五為景己が祖先を奉斉せる村岡村宮前御霊宮の分霊を勧請し当神社を創立せり後相原天皇の御代永正の頃社領二段を有せり


幾つか疑問があります。なぜ御霊神社の祭神が大国主命なのでしょう?そもそも村岡の宮前御霊神社の祭神に大国主命はいないのです。また鎌倉権五郎景政の玄孫が景弘もよくわかりません。まあ、鎌倉氏の流れは諸説ありどれが正しいのかは決められないのですが…。

ちなみに、二伝寺の石板では、景村―景明が長尾氏の祖となっています。その次が景弘と言うことになります。あるいは景経―景忠―景弘と言う説も…。一応鎌倉氏の部分は不明として以下のような系図としました。

平良文―忠通―(鎌倉氏)―景弘(長尾次郎)―長尾定景…長尾景虎(上杉謙信)

驚いたことに戦国武将の上杉謙信は長尾氏の子孫なのです。こんな場所から超有名人の先祖が出ているなんて面白いですね。酔石亭主は藤沢以前この近くに居住していたこともあり、親しみを覚えてしまいます。

なお長尾定景は、三代将軍源実朝を殺害した公暁を討った人物として有名です。定景の墓所は後で見に行きましょう。(実際には藤沢に近い定景の墓所を先に訪問)

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長尾氏の居館跡解説板。

次回は長尾城跡を訪ねます。

              ―関東平氏の鎌倉 その15に続く―

関東平氏の鎌倉 その13


今回は藤沢市遠藤の妙見神社を見に行きましょう。遠藤には諸之木と打越の二カ所に妙見社があり、打越へと向かいます。場所は慶応大学湘南藤沢キャンパスの北側。


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妙見神社です。

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解説板。

解説板の内容からしても、私的信仰に近い小さな社です。周囲は宅地造成されつつあり、社も本来の場所から移転している可能性があります。小さな社ですが、なぜこんな場所にあるのか不思議です。まずそれを解明する必要があるでしょう。

例えば遠藤は人名に由来している可能性があります。そう考えチェックしたところ…、遠藤氏は東氏を祖とし、東氏は千葉常胤の六男胤頼が東を称したのに始まると判明しました。彼らは千葉氏の流れだったのです。

また遠藤氏は摂津国渡邊党遠藤氏と同族と考えられ、遠藤氏から出た遠藤盛遠は鎌倉時代の怪僧文覚上人となっています。Wikipediaによれば藤沢市遠藤の地名由来は以下の通り。

1177年-1180年ころ(治承年間)に、遠藤盛遠(文覚の俗名)の采地であったことから。


遠藤氏の出自は上記から桓武平氏である千葉氏に連なりますが、諸説あるようです。ただ、藤沢市遠藤の地名は遠藤盛遠こと文覚上人に由来しているのはほぼ間違いないと思われます。文覚上人に関しては以下Wikipediaより引用します。

摂津源氏傘下の武士団である渡辺党・遠藤氏の出身であり、北面武士として鳥羽天皇の皇女統子内親王(上西門院)に仕えていたが、19才で出家した。…中略…
頼朝が平氏や奥州藤原氏を討滅し、権力を掌握していく過程で、頼朝や後白河法皇の庇護を受けて神護寺、東寺、高野山大塔、東大寺、江の島弁財天など、各地の寺院を勧請し、所領を回復したり建物を修復した。…中略…
頼朝が征夷大将軍として存命中は幕府側の要人として、また神護寺の中興の祖として大きな影響力を持っていたが、 頼朝が死去すると将軍家や天皇家の相続争いなどのさまざまな政争に巻き込まれるようになり、 三左衛門事件に連座して源通親に佐渡国へ配流される。 通親の死後許されて京に戻るが、六代はすでに処刑されており、 さらに元久2年(1205年)、後鳥羽上皇に謀反の疑いをかけられ、対馬国へ流罪となる途中、鎮西で客死した。


以上より、千葉氏系の遠藤氏との関係で藤沢市遠藤の二カ所に妙見社が建てられたものと推測されます。

諸之木は慶応大学の東側になりますが妙見社は場所がわからず、ギブアップしました。いずれ探索してみたいと思います。また、藤沢市用田の御手洗水に用田寒川社があり、「御所見小史」によると八幡妙見稲荷も配祀しているとされます。

千葉県ならどこにでもある妙見社ですが、重要地域であるはずの鎌倉・藤沢周辺は本当に少ないですね。

ところでこの記事のタイトルは関東平氏の鎌倉ですが、鎌倉市で関東平氏に由来する地名は梶原氏の梶原だけのようです。一方藤沢市には数多く関東平氏に由来する地名があります。例えば、葛原親王の葛原、平良文(村岡五郎良文)の村岡、今回訪問した遠藤氏の遠藤、大庭氏の大庭、俣野氏の俣野などです。

関東平氏の最上流部に当たる葛原親王と平良文のいずれもが藤沢に居を構えたのですから、藤沢市は関東の歴史の発祥地とも言える場所と言って差し支えありません。市はもっと歴史的側面をPRすべきと思います。

全国展開した千葉氏系統の地名が遠藤しかないのはちょっと寂しいですが、鵠沼海岸には国分さんがおられることでもあり、よしとしましょう。

なお横浜市栄区には長尾台と言う地名があり、これは長尾氏に由来しています。長尾氏関連の場所は大船駅から東海道線に沿って戸塚方面に向かい、線路をまたぐ笠間大橋から南側の柏尾川右岸一帯となります。

ちなみに長尾台は旧鎌倉郡に属するので、鎌倉における地名由来の一つに数えられます。と言うことで、次回は長尾台に長尾氏の痕跡を探っていきましょう。

             ―関東平氏の鎌倉 その14に続く―

関東平氏の鎌倉 その12


前回からずいぶん時間が経過してしまいました。今回も藤沢における妙見信仰の痕跡を見ていきましょう。過去に何度も登場した龍口寺に再登場してもらいます。

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龍口寺仁王門の彫刻です。

龍が彫られています。ここが5頭竜伝説の地であると再認識させられます。境内には龍の口刑場跡があり、日蓮が斬首されそうになった「龍ノ口法難」の場所とされています。

日蓮は千葉氏の千葉神社を崇敬しています。千葉神社ホームページによれば以下の通り。

鎌倉時代、日蓮が宗門の興隆を祈願すべく参詣した際にありがたい吉祥があり、日蓮はこの妙見神こそ我が宗門の守護であるとされたそうです。現在でも日蓮宗では妙見大菩薩を信仰の対象としており、日蓮は請願成就ののち自筆の法華経を奉納しました。


日蓮の生誕地は旧安房郡天津小湊町(現千葉県鴨川市)の小湊であり、千葉氏の妙見信仰は子供のころからなじみやすいものだったとも思われます。日蓮宗大本山となった清澄寺がある山は、標高383mの妙見山であることからも、それが見て取れます。清澄寺に関しては以下鴨川市のホームページより引用します。

日蓮聖人修行の地、そして日蓮宗立教開宗の聖地として知られる日蓮宗大本山清澄寺は、天台宗の寺として開創されましたが、その後、真言宗を経て、昭和24年に日蓮宗へ改宗し現在に至っています。
日蓮宗の開祖日蓮は、天福元年(1232)5月12日、12歳の時、小湊からこの寺に入り、道善法師に師事し、出家得度。勉学修行に励んだ日蓮聖人はさらに諸国を出て、各宗の奥義を学び建長5年(1253)4月28日、32歳の時帰山。旭が森で立教開宗の第一声をあげました。


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大本堂屋根と五重塔。

日蓮を開祖とする日蓮宗にとって龍口寺が非常に重要なお寺であれば、ここには妙見関連の施設があるはずです。と思って見廻すと…。

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光松妙見堂です。

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石柱。

以前法善坊と呼ばれていた光松妙見堂は享保5年(1720年)の建築で、それほど古いものではありません。堂内には龍口法難光の松に彫られた妙見大菩薩尊像が安置されているそうです。外からでは見えませんが…。

以上から、龍口寺における妙見堂は日蓮幼少期における妙見信仰あるいは千葉神社の関連かと思われましたが、必ずしもそうとは言えなさそうです。彼は伊勢神宮にも赴いており、度会氏の氏寺であった天台宗浄明寺に参籠、その折に妙見菩薩が示現し、法華経行者守護の誓いを立てたとされているからです。

伊勢山の妙見碑は度会氏の関係と推測したのですが、龍口寺も同様に度会氏との関連を捨てきれません。日蓮と日蓮宗における妙見信仰は、千葉氏の関連あるいは度会氏の関連のいずれの可能性もあると言えるでしょう。

龍口寺の本堂脇から七面堂に続く石段を登ると、やぐららしきものが左手に…。

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穴の入口。

随分と深そうに思え、足を踏み入れました。中は洞窟となってずっと奥まで続いているので、これはやぐらではありません。防空壕あるいは旧陸軍の地下壕のようです。軍事基地のある光景に戻ったような気分になりました。

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地下壕に入ったところ。

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恐る恐る前に進みます。

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さらに一枚。

内部は真っ暗で懐中電灯がないとこれ以上進めません。落盤の危険もあるので、と言うより臆病風に吹かれただけですが、奥には行きませんでした。

まだあるかもしれないので探してみます。ありました。大本堂裏手にも穴が…。

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大本堂裏手の地下壕入口。現在入り口が塞がれていない地下壕は稀だと思われます。

家に帰ってから調べてみると、大本堂裏手の地下壕はアリの巣のように相当奥深くまで穴が掘られていると判明しました。二つの地下壕は境内背後の山全体に広がり、陸軍の掘ったものとされています。しかしこんな地下壕でどう米軍の侵攻を食い止めるつもりだったのでしょう?

単にトンネルが掘られているだけで、高射砲などの防衛施設はありません。だったら、地元の方たちの防空壕あるいは寺の寺宝を隠すために掘った穴と言う可能性も出てきます。

一応陸軍の地下壕と言うことにして、なぜここに地下壕があるのでしょう。実は湘南海岸一帯各地には日本軍の軍事施設が数多くあります。披露山公園、稲村ケ崎、江の島、高麗山、吾妻山などです。これらは、第二次世界大戦中に日本軍が構築した防御遺構ですね。

現在は若い人たちで賑わう湘南も、終戦の直前は非常に危険な状況の一歩手前にありました。米軍はコロネット作戦(Operation Coronet )という本土上陸作戦を策定していたからです。作戦はダウンフォール作戦(Operation Downfall)の一部を構成し、湘南の茅ヶ崎と九十九里浜へ同時上陸するものです。日本軍は米軍の意図をほぼ正確に察知し、本土上陸を阻止するため湘南の各地に防御施設を建設したのです。龍口寺の地下壕もその一つと言うことになるでしょう。

米軍の作戦地図を見ると、茅ヶ崎近辺に上陸してから真っ直ぐに北上しつつ、一部の部隊は海岸沿いに三浦半島へ入り、横須賀基地や東京湾の守りとなっている観音崎要塞などを陸から攻撃。主力はなおも北上してまた一部が海老名辺りから横浜方面へ向かい、さらに北上する部隊が相模原辺りでそのまま内陸に向かう部隊と東京に進撃する部隊に分かれ、九十九里浜からの上陸部隊と東京で会合するような形になっています。

なお、Coronetとは婦人の頭飾りを意味しますが、北上しつつ東に幾つも分岐する部隊の様子がちょうど羽飾りのように見えることから、そう名付けられたようです。

作戦名は何とも可愛らしいのですが、三浦半島へ向かう部隊は藤沢市、鎌倉市、逗子、葉山などを蹂躙しつつ行軍するので、風光明美な湘南一帯は完全に踏みにじられ焦土と化すことになったでしょう。

作戦は史上最大の作戦とされたノルマンディー上陸作戦をはるかに凌ぐ大規模なものでした。日本が徹底抗戦を続け、この作戦が実施されていたら…、明るい湘南を代表する加山雄三もサザンも存在していなかったかもしれません。

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コロネット作戦図。


              ―関東平氏の鎌倉 その13に続く―
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