北鎌倉の安倍晴明再考 その9


藤沢の安倍晴明に関しては前回でほぼ終了したものの、補足的に書きたいことが出てきたので「その9」にて追加します。何が書きたいかと言うと、北鎌倉の十王堂に関連する事項です。現在十王堂は廃堂となっていますが、斎藤牛肉店あたりにかつて所在していました。


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斎藤牛肉店を示すグーグル地図画像。

「十王」とは、秦公王、初江王、宋帝王、五官王、閻魔王、変成王、大山王、平等王、都市王、五道転輪王を意味しています。秦公王は秦氏の関係でしょうか?秦氏の氏寺である広隆寺はかつて秦公寺(はたのきみでら)とも呼ばれていました。ただ、秦公王は秦広王とも呼ぶようなので秦氏とは直接関係はないとも思えます。大山王は泰山王とも呼ばれ泰山府君のことです。

十王は地獄において亡者の審判を行う裁判官的な存在でした。言い換えればこの世とあの世の境界を取り仕切っている存在と考えられます。十王堂が北鎌倉山ノ内に建立されたのは、この場所が鎌倉の内と外を分ける境界だったからに他なりません。

十王堂の手前で小袋谷川が直角に曲げられ往還と交差しているのには、象徴的な意味もありそうに思えます。すなわち十王堂橋はあの世とこの世の境界に当たる三途の川を象徴していたとも考えられるのです。

しかも驚いたことに、この場所は稲村ケ崎近くの白山神社とかつて本郷台近くの鍛冶ヶ谷に鎮座していた白山神社を結ぶ鬼門ライン上にあるのです。鎌倉における鬼門ラインの詳細は鎌倉の地名由来を考えるを参照ください。

鬼門の考え方は陰陽道に由来します。だとすれば、二つの白山神社を繋ぐラインが鬼門ラインであると同様に、十王堂も二つあって繋がっているのかもしれません。そこで、十王堂に相当するものが他にないか考えてみました。すぐに思いつくのは十王岩です。

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十王岩からのライン。ライン上端部に十王岩があります。

十王岩からのラインは鶴岡八幡宮を経て若宮大路を真っ直ぐに下っています。東への傾きがありますが、一般的には鎌倉の南北軸と考えられています。また十王岩は鎌倉の境界とも思われます。しかし、十王岩と北鎌倉の十王堂とでは有意性のある連結ができません。

もう一つが閻魔大王などを祀る円応寺です。この寺は建長寺の近くにあってやはり北鎌倉の十王堂とは連結できません。困りましたねぇ。そこで円応寺に関してWikipediaで調べてみました。すると…。

『新編鎌倉志』等によれば円応寺は1250年(建長2年)の創建で、開山は建長寺開山蘭渓道隆の弟子にあたる桑田道海(智覚禅師)とされる。しかし、桑田道海は1309年の没で、年代が合わないこと、1250年といえば師の蘭渓道隆が開山した建長寺の落慶より以前であることなどから、当初から禅寺として建てられたことには疑問が持たれている。
円応寺は当初は由比郷見越嶽(鎌倉大仏の東側)に建てられたようだが、ほどなく滑川の川岸へと移転した。鎌倉市材木座5丁目11番地に新居閻魔堂跡を示す石碑が残る。現在の川岸から200-300メートルほど東側に離れているが、閻魔堂創建当時はこのあたりが川岸だったと想定される。なお滑川下流部は別名閻魔川とも呼ばれるが、これはこの閻魔堂に由来する。


とても有力なヒントが出てきました。「円応寺は当初は由比郷見越嶽(鎌倉大仏の東側)に建てられたようだ」とあります。由比郷の見越嶽は鎌倉大仏の東側すなわち甘縄神明神社の裏手に当たります。しかし、酔石亭主はこの説に反対です。根拠は以前に書いていますが、万葉集(巻14- 3365)の次の歌にあります。

可麻久良乃 美胡之能佐吉能 伊波久叡乃 伎美我久由倍伎 己許呂波母多自

鎌倉の見越の崎の岩崩(いはくえ)の君が悔ゆべき心は持たじ

鎌倉の見越の崎の岩崩のように、あなたが悔いるような心は、私は持ってはいません

「くえ」、とは大雨などで山や土手の斜面、あぜ道が崩れることです。では、鎌倉の見越の崎の崩れやすい岩とはどこを指しているのでしょう?この場所の候補地は、稲村ケ崎の他に腰越の小動崎、甘縄神社背後の御輿ヶ嶽などがあり、現在では特定できないとされています。しかし本当にそうでしょうか?

酔石亭主は見越しの崎という言葉に注目してみました。見越しとは、隔てている物の上を越して見ること、を意味します。稲村ケ崎の上を越して見ることができる場所。それは霊山ケ崎の山頂部以外にありません。小動崎の上を越して見る適当な場所はなく、御輿ヶ嶽は内陸部になりますのでこの歌に該当する場所ではありません。

詳細は、新田義貞鎌倉攻めの謎を解く その11の記事を参照ください。崩れやすい岩とは海岸にあって台風や地震など被害を最も受ける場所。つまり、現在でも頻繁に崩れる稲村ケ崎に近い白山神社のある山なのです。


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稲村ケ崎近くの白山神社を示すグーグル画像。

これで北鎌倉の十王堂と円応寺の前身が鬼門ラインで結ばれました。

では、十王岩はどうでしょうか?試しに稲村ケ崎近くの白山神社と横浜市栄区東上郷町に鎮座する白山神社を結んでみます。


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東上郷町の白山神社周辺を示すグーグル地図画像。光明寺にも注目ください。

すると、驚いたことに十王岩の真上を通過していました。

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電子国土画像。それぞれ白山神社を繋いだものです。

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部分拡大したもの。

部分拡大したものでは、鬼門ラインが十王堂のほぼ真上を通過しています。もう一つのラインは見事に十王岩の上を通過しています。しかし…。実は十王岩のラインには問題があるのです。

本郷台近くに創建された白山神社は、正中元年(1324年)八軒八戸 に遷座し、昭和51年に東上郷町に移されました。もう一つのラインは、昭和51年に東上郷町へ移された後の白山神社と結ぶラインだったのです。詳細は鎌倉の始祖染屋太郎大夫時忠 その2を参照ください。

昭和に入って鬼門ラインを意識した移転が実施されたとは考えられず、このラインは誤りになりそうです。いや、誤りとは必ずしも断定できないようにも思えます。なぜなら、白山神社のすぐ近くには仙福寺(秦川勝の創建になる寺)が移転した光明寺があるからです。本郷台の鍛冶ヶ谷付近にあった仙福寺と白山神社がともに上郷町付近に移転したのは単なる偶然だったのでしょうか?

仮に必然だとしたら、秦氏や安倍晴明の呪縛・仕掛けにより、無意識裡に神社とお寺を移転していたとも考えられます。そうした可能性をゼロとすることはできないのです。仙福寺に関しては歴史の宝庫本郷台周辺を巡るを参照ください。

ちなみに、鎌倉市材木座5丁目11番地に新居閻魔堂跡があるのですが、これは滑川の川岸がこの近くにあったのではないと思います。鎌倉時代は一帯が湾の状態になっていたので、湾沿いに新居閻魔堂があったと理解すべきでしょう。

白山神社を結ぶ鬼門ラインには、特殊技能民である秦氏や由井の民だけでなく、陰陽道の安倍晴明あるいは安倍一門の関与があったとはっきりします。以上で「北鎌倉の安倍晴明再考」は終了です。
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北鎌倉の安倍晴明再考 その8


今回は簠簋内伝の来歴にスポットを当て晴明伝説の深源を探っていきます。但し内容は史実ではなく物語のようなものです。では奈良時代の初めに遡り簠簋内伝について見ていきましょう。

簠簋内伝は元々唐の皇帝が秘蔵する書物で、森羅万象を網羅する秘密の書とされます。その評判を聞いた元正天皇(生没年は天武天皇8年(680年)~ 天平20年(748年))はこの書を欲し、藤原不比等が阿倍仲麻呂を推挙。密命を帯びた彼は遣唐使の一員に加わって唐に向かったのでした。

阿倍仲麻呂に関しては以下Wikipediaより引用します。

阿倍 仲麻呂(あべ の なかまろ、文武天皇2年(698年) - 宝亀元年(770年)1月)は、奈良時代の遣唐留学生。姓は朝臣。中務大輔・阿倍船守の子。弟に阿倍帯麻呂がいる。
唐で科挙に合格し唐朝諸官を歴任して高官に登ったが、日本への帰国を果たせなかった。


唐に渡った阿倍仲麻呂は玄宗皇帝の寵愛を受けたのですが、奸臣によって幽閉されます。朝命を果たせない仲麻呂は、己を恥じで断食の末憤死しました。

でもこれは、晴明伝説における阿倍仲麻呂で、実際には官位を重ね、天平宝字5年(761年)から神護景雲元年(767年)まで6年間もハノイの安南都護府に総督として在任しています。ハノイは酔石亭主も3年ほど過ごした場所ですが、彼も市内のホアンキエム湖のほとりを散策したのかもしれません。仲麻呂は「天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山にいでし月かも」の歌でも有名です。

一方朝廷側は何の連絡もないのに業を煮やし、仲麻呂を逆臣と断じた上で吉備真備(きびのまきび)に唐へ渡るよう命じます。首尾よく入唐し玄宗皇帝に謁見した真備は簠簋内伝を借り受けたいと上申します。

すると奸臣たちが真備に難題を突き付けます。囲碁の勝負、暗号のような「野馬臺の詩」を読解せよと言った無理難題ですが、仲麻呂の霊の助けも借りて囲碁の勝負に勝ちます。また「野馬臺の詩」をも読み解きます。玄宗皇帝は真備の才能に深く感じ入り、簠簋内伝を渡します。ところが、またも奸臣が真備を謀殺しようと密談。

これを知った囲碁勝負の官人の妻隆昌女が危急を知らせ、自ら命を絶ちます。(この辺の経緯を書くと長くなるので、はしょります)真備は命からがら唐から逃げ出し、養老2年(718年)に帰朝。天皇に簠簋内伝献上します。あれほど簠簋内伝を欲しがった天皇なのに、なぜかお前が管理せよとの勅命が下りました。(そうしないと晴明伝説ストーリーにならないからですが…)

吉備真備は簠簋内伝を封印し、許可なく封印を開かないよう厳命します。こうして簠簋内伝は吉備家に伝わることとなりました。吉備家は後に加茂性を賜ります。その子孫が陰陽道の大物賀茂保憲で、彼は安倍晴明の師となるのです。

ここまでが晴明伝説の前段に当たります。さて阿倍仲麻呂の子満月丸の子孫が摂州阿倍野に住んでいました。彼はたぐい希なる才能を持ち、世間は稀に見る人物と評します。それに舞い上がったのか、彼は自分の通り名を取って安倍希名と名乗るようになり、家の再興を信太大明神に祈願します。すると、賀茂保憲の元で陰陽道を学ぶべしとの託宣を得ることができました。

吉備真備から9代目の子孫である保憲は、陰陽道を極めた人物として、世間から高い評価を受けていました。その門を叩いた希名の能力を保憲は瞬時に見極め、入門を許します。厳しい修業に明け暮れる希名は、あっという間の陰陽道の奥義を習得。保憲は希名に門外不出の簠簋内伝を納めた宮をお参りさせます。

そして娘の葛子と婚姻を決め、さらに自分の名前の一字を与えて安倍保名と名を改めさせたのです。陰陽道の免許皆伝となり葛子との婚姻も決まった保名は、阿倍野の信太大明神に参拝します。日も暮れた境内で保名は何かの気配を感じます。何と樹の根元に白狐がうずくまっていたのです。びっくりした保名の耳に、橘元方など狐狩りの男たちの声が響いてきます。

事情を悟った保名は、素早く白狐を社殿の下に隠し、危機から救います。保名により命を救われた狐は、涙を流しながら森の中へと逃げ去っていきました。

ちょうどその頃、保憲と葛子に危機が迫っていました。橘元方が葛子を成明親王に差し出せと保憲に難題を突き付けていたのです。

言うことを聞かない保憲に腹を立てた元方は讒言を繰り返します。その結果保憲父娘は所領を没収され相模国の藤沢に流刑されることとなったのです。と言うところで、藤沢の安倍晴明の最初「北鎌倉の安倍晴明 その6」に戻ることになります。

保名が嘆き悲しんでいると葛子がひょっこり帰ってきます。もちろんこの葛子は保名が助けた白狐の化身。本当の葛子ではありません。いぶかる保名に白狐はうまく話を作って丸め込み、二人は夫婦の契りを結びます。しばらくして二人の間に一人の子供が生まれるのですが、この男児こそが後の安倍晴明だったのです。

ところが、罪を許された保憲父娘が都に帰ってきます。事が露見した葛子(白狐)は「恋しくば尋ね来て見よ 和泉なる信太の森のうらみ葛の葉」と言う有名な歌を残して、保名の元から去って行きます。

去るに当たり白狐は、まだ幼子である晴明に自分の前世を語りました。自分の名前はかつて吉備真備を助けた隆昌女で、簠簋内伝に取り憑いて日本に渡ってきたというのです。保名が晴明の部屋に駆け入ると、白狐の姿は既になく、例の歌が障子に書き残されていただけでした。

そして稀代の陰陽師安倍晴明の活躍となるのです。彼の宿敵は芦屋道満。またの名を秦道満。彼はどのような人物なのでしょう?「秦氏の謎を解く その1」にて以下のように記載しています。

秦川勝の子孫に著名な秦道満がいますね。彼は安倍晴明と並ぶ陰陽師です。陰陽道を代表する呪術図形セーマン・ドーマンは、晴明と道満に由来しています。しかも、秦道満または秦勝道の子とされるのが有名な八百比丘尼で、八百歳まで生きたこの尼の伝説は漂白の巫女によって受け継がれてきました。

秦川勝から秦勝道、秦道満へと続く秦氏の系譜は、八百比丘尼からいわゆる七道者へと引き継がれます。彼らは漂白遊行の陰陽師。七道者とは猿楽、アルキ白拍子、アルキ御子、金タタキ、本タタキ、アルキ横行、猿飼を指しているのです。

平安期以降の秦氏は、下級陰陽師や芸能の徒、漂泊遊行の徒、山岳修験者として、どちらかといえば下層の民になり、最後は非人扱いとなってしまいました。古代における秦氏は、陰で日本の権力者を支え、時代が下るにつれて民衆や民間信仰の中に埋没し潜行していったのです。


つまり、安倍晴明は宮廷陰陽師の系譜に、芦屋道満は下級民間陰陽師の系譜に繋がる者だったのです。不思議なのは、秦川勝の没地が播磨国の坂越とされ、芦屋道満の生誕地は播磨でこの地に流され、何と安倍晴明自身も播磨守に任じられていることです。

播磨における秦氏に関しては秦さんはどこにいる? その4で書いていますので、参考としてください。内容的には非常に不十分ですが…。

結局播磨は秦氏の拠点であり陰陽道の拠点でもあり、それらが集約されて秦川勝、安倍晴明、芦屋道満などの伝説が形成されたのでしょう。


北鎌倉の安倍晴明再考 その7


前回で晴明と藤沢の関係について探りました。陰陽道の師である賀茂保憲と自分の母(伝説によると実母は葛子に化けた白狐)に当たる葛子が流されたのは、桓武平氏始祖の地である藤沢だったのです。晴明がその地に行ってみたいと思うのは自然の感情のようにも思えてきます。だとすれば、藤沢に晴明の旧跡があってもおかしくはないですね。

次に村岡と北鎌倉を繋いでみましょう。兜山にはかつて七面宮がありました。兜岩の写真を拡大すると岩の上に石碑が見えます。

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兜岩の上にある石碑。見にくいのですが、七面大明神と彫られています。

当初兜岩の上あるいは横にあった七面宮も現在では村岡御霊神社境内に鎮座しています。

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現在の七面宮。右が七面宮です。お隣は折笹矢竹稲荷。

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折笹矢竹稲荷の解説石板。

兜山では日蓮も雨乞いの儀式を執行しており、その関係を呪術都市鎌倉探訪記 その2にて書いています。では、七面宮と晴明の間にどんな関係があるのでしょう?

七面宮は日蓮宗が重視する吉祥天を祀っているのですが、今回は晴明との関係から見ていきます。それには、安倍晴明が編纂したとされる「三国相伝陰陽輨轄簠簋内伝金烏玉兎集(さんごくそうでん おんみょうかんかつ ほきないでん きんうぎょくとしゅう)」をチェックする必要があります。(実際は晴明没後に編纂されたと考えられています)

簠簋内伝(書名が長いので以下これで統一)の第一巻はなぜか「牛頭天王縁起」となっています。きっと理由があるはずなので内容を見ていきましょう。

「牛頭天王縁起」によると、吉祥天を前身とする商貴帝と言う王がいて、帝釈天に仕えていた頃は「天刑星(てんぎょうしょう)」と言った。この天刑星が人間界に転生し名前を牛頭天王に改めたとあります。

晴明塚(兜岩)に吉祥天を祀る七面宮が鎮座していた必然性が見えてきました。吉祥天の転生した姿が牛頭天王だったのです。

そこで北鎌倉へ…。北鎌倉の晴明石は現在八雲神社(スサノオノミコトを祭神としており、かつては牛頭天王社と呼ばれていた)に置かれています。晴明が編纂したとされる簠簋内伝の最初が牛頭天王に関する記述。晴明石はかつての牛頭天王社に置かれている…。

驚くべきことに、きちんと筋道が立っています。これで安倍晴明に関して村岡から北鎌倉へと繋がる線が出てきました。

ではもう少し細かく村岡から北鎌倉へのルートを探索してみましょう。兜岩から歩き柏尾川を渡るとすぐに菅原道真を祀る天満宮があります。


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天満宮一帯を示すグーグル地図画像。鎮座地は上町屋町内会館の脇です。

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鳥居越しに見た天満宮。

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扁額です。賽銭箱に菅原道真の梅紋が。

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寛文10年の庚申塔もありました。

社伝によれば天慶年間(937年から947年)に平良文が霊夢を見て天満宮を勧請したのが始まりとされています。ここでも平良文でした。(実際の創建はもっと遅い時代だと思います)

続いて柏尾川に沿って大船方面に向かいます。ちょっとした山が見えてくるのですが、これが北野神社(山崎天神)で菅原道真を祀り、歴応年間(1338年から1342年)夢窓疎石が京都の北野天満宮を勧請したものとされています。そして北野神社にも牛頭天王が祀られています。

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鳥居越しに見た北野神社。

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北野神社拝殿。

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拡大画像。

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手水舎。神紋は梅です。天満宮と同じ。

短い距離の間になぜ菅原道真が二度も出てくるのでしょう?平安時代における怨霊の最高峰は菅原道真で、貴族たちは彼の祟りをいたく恐れました。延長八年(930年)清涼殿に雷が落ちて建物が焼け落ちます。晴明はこれを道真の眷族の祟りと喝破し、帝は北野神社を建立し道真を祀ったのです。

そんな経緯があったから、晴明の行き先に二つの道真を祀る社があると考えるのは、考えすぎでしょうか?

考えすぎだとしても、七面宮→吉祥天→牛頭天王→山崎の北野神社(牛頭天王も祀る)→北鎌倉の八雲神社(かつての牛頭天王社)と繋がっていきます。しかも山崎の北野神社は北鎌倉の八雲神社と関連があります。

八雲神社例大祭における 「行合の神事」は、山ノ内の八雲神社と山崎の北野神社の御輿とが行き合い、夫婦の御輿となって練り歩き天王屋敷にて男神の「八雲御輿」と女神の「北野御輿」が交わって懐妊する神事です。両社の関係が見て取れますね。

両社の創建は安倍晴明の時代よりずっと後だとの意見もあるでしょうが、そもそも晴明伝説は両社の創建よりもっと後になって成立したものです。簠簋内伝の最初に牛頭天王縁起があり、八雲神社境内に晴明石があり、牛頭天王は陰陽道の最高神泰山府君と同神です。いかがでしょう?この三者に共通する内的な回路(地下水脈)があると思えませんか?

ところで、安倍晴明は白狐の子です。狐はもちろん稲荷大神で秦氏となります。秦氏に関連するタブーが白狐になるのです。今でもお年寄りは稲荷社を勝手に動かすと祟られると言います。強力な禁忌が時代を越えて機能しているとわかりますね。

一方、スサノオ(牛頭天王)に関連するタブーは白瓜です。スサノオを祀る祇園社では、祇園祭の期間中に瓜を食べてはいけないと言った伝承があります。スサノオを祀る愛知県の津島神社では、御葦(みよし=神葭)放流神事という極秘の神事があります。

この神事は疫神である牛頭天王を葦に仮託して川に流すもので、六月十一日の『御葦刈り』から始まり、『御葦放し』で終わるのですが、津島では、この御葦流し以前は、白瓜を食べてはならないとの禁忌がありました。そして『御葦放し』の最中は、津島の民家は全て灯火を消し静まり返りました。もし灯火をつけている家があれば白瓜を投げ込むのですが、その家は必ず凶事があると人々は恐れました。

白狐と白瓜が強力な禁忌を持っていると理解されます。そして、白狐から獣偏を取ると白瓜になってしまうのです。日本国最大のタブーに関与する白狐(秦氏)と白瓜(スサノオ族)。両者は密接な協力関係にありました。白狐の子である安倍晴明が牛頭天王(スサノオ)を重視する理由はそこにあったのです。

さて、牛頭天王縁起が第一巻となる簠簋内伝ですが、実はこの書物こそが安倍晴明の前史を探る鍵になります。次回はその来歴を見ていきましょう。

北鎌倉の安倍晴明再考 その6


北鎌倉山ノ内における安倍晴明を書き終え、藤沢市にも安倍晴明の旧跡が存在していることを思い出しました。場所は藤沢市村岡の御霊神社裏手です。

神社が鎮座する山の裏側に下ると鎌倉古道が部分的に残り、道は神戸製鋼所脇に続いています。神戸製鋼所敷地内の一角に兜山(兜岩)があって、安倍晴明はここで雨乞いの儀式(五龍祭)を執行したとされているのです。現在では工場のフェンス越しになりますが、兜岩を見ることができます。


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グーグル地図画像。ハイツNANAから少し東に歩くと左手に兜岩が見えてきます。

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御霊神社の鎮座する山を裏手から撮影。

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兜岩。

(木々の葉が落ちる冬場でも、兜岩の全容はなかなかうまく撮影できません。夏の工場一般公開時期にでも行ってみたいものです)

ここは晴明塚とも呼ばれ、藤沢市内において唯一晴明の痕跡がある場所です。現在は藤沢市ですが、かつての村岡郷は鎌倉郡に含まれており、本記事も「北鎌倉の安倍晴明再考」のタイトルを使用することにしました。

実は兜岩に関して、呪術都市鎌倉探訪記 その4で詳しく書いていますので参照ください。今回は同じ内容をまた書くのではなく、少し異なった切り口から藤沢市における安倍晴明について考えてみます。

復習になりますが、この場所が晴明塚とされる理由を見ていきましょう。はっきりした根拠が二つほどあります。

村岡御霊神社に関する神奈川県神社庁のホームページ最後に、付近の旧跡として「兜山(兜松)清明塚」と記されています。また「新編相模国風土記稿」にも、藤沢市宮前に安倍晴明が雨乞い祭を執行した晴明塚があると記されています。以上から晴明塚の所在地は確定しています。

晴明は多分、藤沢市に入ってから北鎌倉へと向かったのです。一体何が藤沢市と晴明を繋ぎ、それが北鎌倉の晴明屋敷や晴明石へと接続させたのか?まずはその経路を探ってみます。

あくまで伝説ですが、安倍晴明は安倍保名と白狐の間に生まれた子とされています。安倍保名は陰陽道の達人賀茂保憲を師と仰ぎ、その娘である葛子と結婚しました。

ところが保憲父娘は橘元方の讒言により相模国の藤沢に流刑となるのです。しばらくして、藤沢にいるはずの葛子が阿倍野にいる保名の元にやってきます。もちろん藤沢に流された葛子が許しもなく阿倍野に戻れるはずがありません。

この葛子は以前保名が助けた白狐の化身だったのです。そして二人の間にできた子供が安倍晴明となり、保憲から陰陽道の神髄を学ぶことになります。

以上から、晴明と藤沢を繋ぐ回路が出てきました。続いて、保憲父娘の時代の藤沢を見ていきます。保憲の生没年は延喜17年(917年)~ 貞元2年(977年)で、鎌倉権五郎景政の大庭御厨はまだ成立していません。保憲時代の藤沢など、ほとんど原野状態と言って過言ではないはずです。では当時の藤沢にどんな歴史があったのでしょう?

桓武平氏の祖である葛原親王(かずらわらしんのう)は藤沢に来たとされます。生没年は延暦5年(786年)~ 仁寿3年(853年)。保憲が藤沢に流される半世紀以上も前に、親王は同地に足跡を残していました。(既に何度か書いていますが、親王は秦氏と近い関係にあり、彼が東国に下向した折、親王家の家令である秦福代が同行した可能性があります)

よって藤沢北部には葛原と言う地名があり、葛原親王を祀る皇子大神が鎮座しています。葛子と葛原。何か関連するものがありそうな気がします。そして京都における秦氏の支配地域は葛野でした。


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皇子大神一帯のグーグル地図画像。

皇子大神の詳細は頼朝以前の鎌倉を参照ください。

もう一つが村岡の御霊神社です。神社庁ホームページによれば由緒は以下の通り。

祭神の崇道天皇は桓武天皇の御宇延歴十三年五月に現在の京都市上京区上御霊前通り上御霊監所に祀れし給しこと、その後この地(村岡)に村岡五郎平良文公が住し天慶三年平将門が征討の為御霊神社を勧請し戦勝祈願をなしたるを始めとす、のち鎌倉権五郎影政を合わせ祈り二柱たりしが北条時頼の命により葛原親王、高見王、高望王、の三柱を加えて県下に十六の分社がありその後村岡総鎮守として現在に至っている。

天慶三年とは940年のことです。平良文の生没年は仁和2年(886年)~天暦6年(953年)となります。系図で見ていきましょう。(部分的にWikipediaより引用)

 桓武天皇 天平9年(737年)~ 延暦25年(806年)
   ┃
 葛原親王
   ┣━━━━━━━┓
  高見王?    高棟王(平高棟)
   ┃
  高望王(平高望)
   ┣━━━┳━━━┓
  平良文 平国香 平良将
          


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村岡の御霊神社です。

平安中期の藤沢市で歴史を有する地域は上記二カ所と思われます。つまり、桓武平氏の祖となった人物の地である葛原と村岡が保憲父娘の行き先であったと推定されるのです。それにしても不思議ですね。葛子と葛原の奇妙な名前の部分的一致。村岡御霊神社の鎮座地裏手に晴明塚がある事実。晴明と桓武平氏は何らかの関わりがあるのかもしれません。だから安倍晴明は平将門の子供との説も出るのでしょう。

北鎌倉の安倍晴明再考 その5


今回はもう一カ所の晴明石と晴明井戸を推理します。ほとんど想像だけで書くことになりそうですが…。

「呪術都市鎌倉探訪記 その10」で既に晴明井戸の所在地を推定しています。もう一つの晴明井戸と晴明石がここにあったと仮定して話を進めましょう。


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「呪術都市鎌倉探訪記 その10」に書いた晴明井戸の所在地。

場所はグーグル画像の鹿島産業裏の空き地(駐車場)です。

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所在地の写真。

稲荷社と自噴井戸があり、晴明屋敷から川を挟んでお隣となるので、ここが知事家兼道の屋敷と推定しました。「吾妻鏡」の記述によれば、兼道の屋敷には「鎮宅の符」が押されていました。押したのはもちろん晴明。これにより屋敷は200年間も火災に遭わなかったのです。

さらに北辰(北極星)と北斗(北斗七星)を神格化したのが鎮宅霊符神です。鎮宅の符と小袋谷川によって象られた北斗七星の形がペアになってこそ、その効力は存分に発揮されるのではないでしょうか?しかも、「吾妻鏡」の記述こそが北鎌倉における晴明伝説の元になっているのです。

だとすれば、晴明屋敷のお隣にあり、稲荷社があり、自噴井戸があり、北斗七星形の脇に位置するこの場所が知事家兼道の屋敷と推定して何らおかしくはなく、この場所にもう一つの晴明石と晴明井戸があったと推定する根拠になります。

ここで、「新編相模国風土記稿」の記述を再度参照しましょう。

晴明石
往還中二二所アリ。各大ニ三尺許。石ノ傍ラニ各井戸アリ、安倍晴明ガ加持水ニシテ火難ヲ防グ奇特アリ。ト云伝フ。大船村多聞院持。


上記の記述を読んで疑問を感じませんか?晴明石は「大船村多聞院持」と書かれています。すなわち大船にある多聞院の管理・所有下にあると記されているのです。多聞院は以前に訪問記事を書いています。「鎌倉の谷戸を巡る その7」(2010年5月6日)を参照ください。


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多聞院を示すグーグル地図画像。

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多聞院です。

なぜ遠く離れた(直線距離ではそれほど遠くでもありませんが)この寺が晴明石の管理者なのでしょう?実は多聞院の前身は瓜ヶ谷にあった観蓮寺とされています。ここで円覚寺古地図を見てください。

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円覚寺古地図。

下側で直角となった小袋谷川の下部に瓜谷と記載あります。晴明石が多聞院の管理下にあるなら、その傍らにある晴明井戸も当然多聞院の管理下となります。

多聞院の前身である観蓮寺は瓜ヶ谷にあった。晴明石は多聞院の管理下にある。その前提で考えると、晴明井戸と晴明石は多聞院の境内すなわち瓜ヶ谷側にあるべきです。よって、もう一つの晴明石と晴明井戸が鹿島産業の空き地にあったと考えて矛盾はありません。

一方、往還を隔てた向こう側は円覚寺の領域と思われます。ベルタイム珈琲のご主人のお話や、十王堂に安置されていた十王像が円覚寺の桂昌庵に移されていることからもそれは推測されます。また山ノ内は往還を挟んで上町、下町と分かれています。

つまり、ベルタイム珈琲脇の路地に晴明井戸があったら、それは円覚寺の管轄であり観蓮寺持ちと言えなくなるのです。往還中にあった晴明石はどうなのでしょう?絵図を見ると明らかに往還の中心線より瓜ヶ谷側にあります。何とかセーフと言うところでしょうか?往還中に置かれる前には、小袋谷川の柄杓状地内すなわち晴明屋敷内にあったとすれば、多聞院持ちとの記述と完全に整合します。

以上から、ベルタイム珈琲脇の路地にあるとされる晴明井戸は後世のものであるとほぼ断定できそうな気配です。となると、晴明石の近くにある黒塀の家の井戸も後世のものの可能性が強くなります。

不可解なのは、天保12年(1841年)に完成した「新編相模国風土記稿」には晴明石が往還の二カ所にあると記述されているのに、それ以前の文化3年(1806年)に成立した「浦賀道見取絵図」には一カ所しかなく、また一個の石しか見えていない点です。この両者を矛盾なく整合させる視点はどこにあるのでしょう?

ではもう一つの晴明石の歴史を推測してみます。

円覚寺古地図が作られた1685年以前の段階で、一つの晴明石と晴明井戸は小袋谷川の柄杓状地内すなわち晴明屋敷内にあった。もう一つの晴明石と晴明井戸は川を挟んで隣接する知事家兼道屋敷内にあった。場所は鹿島産業裏の空き地である。

円覚寺古地図の推定作成年である1685年から「浦賀道見取絵図」が製作された1806年の間に、晴明屋敷跡地にあった晴明石は往還中に移された。もう一つの晴明石はJRの踏切脇(お蕎麦屋さんの鎌倉五山の脇)に移された。(注:「新編相模国風土記」の晴明石が二カ所にあるとの記述は、1685年以前の話を書いたか、JR踏切脇に移されたものを書いたと推定される)

もう一つの晴明石はJRの踏切脇に移されたのは、ここが若宮幕府における北境であり、安倍晴明あるいは安倍一門の陰陽師が鬼気祭などの儀式を執行した場所だったから。だとすれば、その場所には北境を示す標石があったはず。

と言うことで、もう一度この場所を見てみましょう。

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安倍晴明の石碑を裏から撮影。

平石が晴明石で、脇にある丸石が若宮幕府の北境を示す標石と思われます。平石は八雲神社の境内にある晴明石と石質は同じに見えます。寸法はやや小さそうにも見えますが、大差はなさそうです。これこそが行方不明になっていたもう一つの晴明石だったのです。妙に思えるのは、丸石が脇に置かれていることです。

この丸石と写真上端の鳥居の基礎(凹形の二個の石)を比較してください。古さ、石質ともにほぼ同じように見えます。一方平石は新しく見えます。当初は鳥居の後ろに丸石が置かれ、そこに晴明石を持って来たため丸石の位置が横にずらされたように見えませんか?

ついでに別の「浦賀道見取絵図復刻版」も参照ください。

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復刻版絵図。JR踏切脇に相当する一帯です。

字法明石橋の横に立石があります。しかも、往還の中にあります。もしかしたら、これが晴明石なのかもしれません。「新編相模国風土記稿」の往還中との記述にも整合します。以上がもう一つの晴明石に関する推定来歴となります。

なお、ここにある安部清明大神の石碑は2009年末以降に晴明石の上からおろされ、石の手前に設置されたようです。多分セメントが劣化してぐらぐらしてきたため、晴明石からおろしたのでしょう。

石碑の裏には明治39年7月と彫られているので、その時点で石碑が平石(晴明石)の上に設置されたと推測されます。そして2009年末以降のある時点で平石の手前に移されたのです。従って、「呪術都市鎌倉探訪記 その11」(2011年3月5日)に書いた内容(明治時代になって現在の場所に石碑が建てられた)は間違いでした。

さて、様々な史料や推測を交え晴明石と井戸に関して書いてきましたが、どれも一長一短で終わらざるを得ません。

「浦賀道見取絵図」のみを基礎資料とすれば、八雲神社参道(古地図では今泉道)先の往還中(現在は21号線)に晴明石橋と晴明石があるのは、位置がやや異なっているものの基本的に正しいと思われます。またベルタイム珈琲のご主人が示された晴明石の位置は、実物を見ておられるのですから100%正しいと思われます。

但しその正しさは「浦賀道見取絵図」が完成した1806年以降のものと言えます。1806年以前に関しては、井戸と石がそれぞれ二カ所にあると言う「新編相模国風土記稿」の記述、多聞院の前身である観蓮寺は瓜ヶ谷にあった点、円覚寺古地図には晴明石橋と晴明石がない点などを考慮すると、俄然雲行きが怪しくなってくるのです。特に円覚寺古地図には、一軒一軒の詳細まで記されている以上、石橋があったら必ず記載するはずだからです。

また、晴明石が一個行方不明と言うのは、戦後の道路拡張の際行方がわからなくなったとは考えられません。「新編相模国風土記稿」にそれぞれ二カ所と記載されているのに、今泉道近くの往還中には一個しかなかったので、もう一個は行方不明にしたものと思います。(実際にはJR踏切脇に存在)

晴明井戸と晴明石が小袋側の柄杓状地内になかった場合(つまり晴明屋敷など存在しなかった場合)、円覚寺古地図に晴明石橋がない点から判断して晴明井戸と晴明石はともに後世(円覚寺古地図が完成したと思われる1685年以降)の捏造が考えられます。

鎌倉には満福寺の弁慶石や、御霊神社にある鎌倉権五郎景政の袂石・手玉石があります。これらは実際のものとは異なり、何らかの伝承に基づき後世になって設置されたものと考えられます。晴明井戸や晴明石、晴明石橋もそれらの同類と考えることは可能なのです。(もちろん弁慶や、景政の伝承がある地に、過去への思いを馳せるため設置されたとしたら、完全な捏造とも言い難い部分はあります)

ここでもう一度「浦賀道見取絵図」の復刻地図を参照ください。

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復刻地図。

どう考えても不自然なのは、晴明石が晴明石橋の上にあることです。石があれば溝の水流は石を避けて通るはずです。ところが絵図のような形だと、山からの水流が往還に溝を作った。往還に溝があっては不便なので石橋が造られた。次に石橋の上に石が置かれた、という順番になります。絵図は晴明石、晴明石橋のいずれもが後世になって設置されたものであることを物語っているとも考えられるのです。

晴明石や晴明石橋、晴明井戸に関してあれこれ考察を加えましたが、結論を出すには至らず、両論併記的に終わるしかありませんでした。ただ、北鎌倉の安倍晴明は単なる伝説であったとしても、三代将軍実朝から四代将軍九条頼経の時代に活躍した安倍泰貞など、安倍氏系陰陽師は鎌倉において間違いなく重要な地位を占めていました。晴明伝説が生まれる素地は十分にあったのです。

以上、結論はともかく北鎌倉の晴明井戸や晴明石を考える上で必要な要素は、本論考でほぼ全て網羅したと思います。(もちろん100%ではありませんが…)本記事を参考にして、さらに議論を深めて頂ければ幸いです。

本シリーズはカテゴリ「呪術都市鎌倉探訪記」に含めます。

最後に一言…。北鎌倉における安倍晴明のキーワードは北斗七星に代表される「北」と晴明井戸に代表される「水」でした。一方、鎌倉幕府の支配者は源頼朝以下3代の源氏と得宗家北条氏となります。源は(みなもと)で水源を意味し、北条の名前には「北」が含まれます。安倍晴明と鎌倉幕府のキーワードに見られる奇妙な一致。これは偶然の符合なのでしょうか?そんなはずはありません。武家の都鎌倉の実態は、陰陽師が裏で支配する呪術都市だったのです……。
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