鎌倉大仏の謎 その18


前回で、幕府は金銅大仏を三浦一族の墓所に造立しようと考えた、との推定に達しました。
この場所は三浦一族の墓所であるのみならず、大仏造立を発願していた頼朝の墓所の隣でもあるのです。この二つの意味を考えたとき、幕府の意志が明瞭に見えるように思われます。けれども安達氏は幕府の意向に反対し、多分、造立費用のかなりの部分を自ら負担すると申し出たのではないでしょうか。幕府はやむなく同意します。

以上の経緯を経て、安達氏が主導し、幕府が陰から支援し、忍性の律宗組織が資金・建造に関与し、ようやく金銅大仏が1252年に鋳造され始めました。忍性は桑ケ谷にも療養所を開設しますが、ここは甘縄神明神社と大仏の中間点にあります。桑ケ谷に忍性の療養所があること自体、彼の安達氏との関係、大仏への関与を明確に示すものだと思われます。


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グーグル地図画像。

大仏、桑ケ谷療養所、甘縄神明神社の位置関係を示します。療養所は雷神堂の辺り。

そして金銅大仏は1264年までに完成します。ここまで見た限りではなお、安達氏が幕府に疎まれる一族であったという最後の条件を満たしていません。では、4代目の安達泰盛以降彼らがどうなったかを見ていきましょう。以下Wikipediaより引用します。

4代泰盛は、時頼の嫡子北条時宗に実妹(覚山尼)を養女として嫁がせ、覚山尼は9代執権北条貞時を産み、泰盛は時宗の舅、貞時の外祖父として北条氏以外では最有力の御家人の一人となる。元寇に際して越訴奉行、恩賞奉行を務めた。…中略…北条得宗家に仕える御内人の代表である内管領の平頼綱と対立し、弘安8年(1285年)の霜月騒動で頼綱の讒言により、執権となった貞時の命で討たれ、一族の多くが殺害された。

…中略…安達一族も泰盛の弟顕盛の孫である安達時顕が安達家の家督を継承している。頼綱滅亡の翌年には騒動の罹災者の復権が進んだが、時顕が文保元年(1317年)に霜月騒動で討たれた父宗顕の33回忌供養を行った際の記録には、その頃まで泰盛の供養がタブーであった事が記されている。


1285年は「吾妻鏡」が編纂されるおよそ15年前となります。編纂当時の北条氏にとって安達氏は頼朝の意志を継いで大仏を造立し、執権貞時の命で討たれた一族でした。泰盛の供養が1317年までタブーであったとすれば、安達氏が主導した金銅大仏造立に関する記事を書くのもまた不可能だったことになります。

大仏造立に関する最後の条件、「幕府に疎んじられた」という部分も、以上で完全にクリアされました。また彼らは、幕府の意向に反して自ら大仏造立を主導しています。しかも安達氏に協力した忍性と律宗組織は鎌倉の裏社会、穢れの部分を受け持つ組織でした。

頼朝が発願し安達氏と忍性が主導した金銅大仏造立の詳細を幕府の歴史書に記すことはできない。編纂者あるいは北条氏の中にそうした意識が生じていたとすれば…。「吾妻鏡」に、忍性の存在と金銅大仏造立の経緯が見られないのは当然と言えましょう。

東大寺大仏から鎌倉大仏へと続く500年の地下水脈を受け継いだのは、安達氏と忍性(律宗組織)でした。彼らの手によって、金銅の鎌倉大仏は1264年までに造立され、現在の私たちはその姿を拝することができるのです。

鎌倉大仏の謎解きは以上で終了です。それにしても、かなり長いシリーズになってしまいました。もっと細かく書きたいとも思いましたが、多くの方に論じられている部分を後からなぞっても意味がないので、ポイントを絞り、推理小説の手法もお借りして一応完結させたものです。なお、関連の事項で洩れている部分もあり、そのうち書いてみたいと思います。
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鎌倉大仏の謎 その17


今回は義時やぐらを探しに行きます。まずグーグル地図画像を参照ください。


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グーグル地図画像です。

画像で白旗神社の手前を東に進むと、山に入る道が二本あります。この二本の道が並行して石段になるまでの間が、義時法華堂とされる場所ですが、既にご説明しましたように法華堂としては平場が大きすぎます。二本の道が狭まり並行になる地点の左横が三浦一族の墓やぐらです。

島津忠久のやぐらに続く石段の前をそのまま通り過ぎて、山裾に沿って歩きます。すると道は直角に曲がります。曲がる少し手前に、山に入る階段らしきものが見えます。それが義時やぐらに続く道です。

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山に入る階段。

この階段を過ぎて直角に曲がる地点まで進みましょう。見上げると整地されたような土地になっています。

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直角に曲がる地点にて撮影。

そこで試しに画像の上端13と住所表示のある方へ回り込んでみます。

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谷戸のほぼ全景。静かな雰囲気です。

テニスコート奥の左に上がる坂道を登ります。すると最近造成されたと思われる平場に出ます。この平場は直角に曲がる地点の上まで続いています。

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平場の写真。やぐらの痕跡が見られます。

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平場から山側を撮影。

ここにはもう一つやぐらの痕跡があります。ということは山を3m程度削り取ってこの場所を造成したと考えられます。直角に曲がる地点の上に向かいます。途中にコンクリで覆われた二基の石祠が…。祠の横には五輪塔の頭部分が放置されていました。

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石祠の一つです。

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見下ろすと趣のある日本家屋とお庭があります。

その先は小さな広場となって、広場の先は竹藪となって行き止まりの形になっていました。この一帯はかなりやぐらが集積していたものと推定されます。直角に曲がる地点に戻り、その手前の山に上がる階段を登ります。すると…。

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竹藪に入りました。

この竹藪は平場となっています。人の手で造成されたものと思われ、奥行きは4mほどあります。平場からさらに山を登ると…。ありました。義時やぐらです。お隣は北条政子のやぐらとされています。

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義時やぐら。

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北条政子のやぐら、とされています。

寿福寺の裏手、静謐を極めたような墓所に政子の墓があります。お隣には政子の子である実朝の墓もあります。こちらが本来の政子の墓でしょうが、(政子が葬られたのは頼朝が雪の下に建立した勝長寿院とされています)弟の義時と並んでいる写真のやぐらも本物のような気がします。

竹藪の平場に戻り、先ほどの整地された側に数歩進むと、すぐに藪が途切れます。竹藪の向うは先ほどの整地された小広場です。竹藪の平場はそのまま小広場に続いている雰囲気。つまり、かなり横長の平場がここに存在していたことになりそうです。とすると…。

北条義時の法華堂とされる平場と、義時の墓は一定の距離があります。以上から次のような推定が成り立たないでしょうか?

ここの墓やぐらが義時のものであるとすれば、竹藪の平場は小さな法華堂を建てるために造成されたと考えられる。やぐらの場所は「吾妻鏡」に義時の墓は頼朝法華堂東の山上にあるという記述とも整合する。一方、三浦一族の墓の真横にある義時法華堂とされる建物は三浦一族を供養する目的で建てられたものだった。

すると最後に残る疑問、なぜ義時法華堂跡とされるあの平場は不必要なほど広いのかと言う謎―を解明する必要があります。

首をついひねってしまいますが、理由をあれこれ考えてみました。まず、島津重豪が整備した可能性があります。しかし土地造成までしたという記事はありません。だとすれば、鎌倉時代において平場は既に存在していたのでしょう。

ここで、金銅大仏の造立は三浦一族の怨霊を鎮めるためであったと言う説を別の角度から検討してみたいと思います。

安達氏は怨霊を利用してこの機に大仏造立を進めようと考えた、と仮定します。一方、幕府すなわち北条氏も多分、三浦一族の怨霊を鎮めるため大仏を造立すべきと考えたはずです。幕府は取りあえず三浦一族を供養するためのお堂を建立したのではないでしょうか?それが北条義時の法華堂とされる建物跡です。お堂の前庭は多分狭いものだったはず。

次に、幕府の立場に立った場合、大仏はどこに造立されるべきでしょうか?当然墓所のある土地に造立しようとなるはずです。三浦一族の墓がある平場は大仏造立の目的で、鎌倉幕府によって拡張工事が始まります。

しかし幕府の意図を知った安達氏は大反対します。安達氏の考えでは大仏造立の地は深澤里以外にないからです。

三浦氏討伐の最大の功労者である安達氏の反対には幕府も耳を傾けざるを得ません。結果、平場は現在の広さになったまま放置されたのです。反対がなければ拡張工事はさらに続き、より広大な平場となるはずでした。

現在残るこの平場は、幕府が大仏造立の目的で造成し、途中で放棄したものであると推測するのですが、いかがなものでしょう?

             ―鎌倉大仏の謎 その18に続く―

鎌倉大仏の謎 その16


今回は三浦一族の墓を見に行きます。やぐらから急な石段を下ります。石段の下には鳥居があって目の前には広大な平場が広がっています。

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鳥居です。前回と同じ写真です。

上の写真で鳥居の右手崖に、やや大きめのやぐらが口を開けています。

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やぐらです。

このやぐらが三浦一族の墓とされるものです。現在でも供養されている様子です。それにしても、幕府の最有力御家人であった三浦一族500余人が毛利家や島津家の墓所の足下で供養されているとは、何と言う歴史のいたずらでしょうか。

ともあれ北条氏最大のライバルであった三浦氏はこうして滅亡するのですが、三浦氏攻撃を主導したのが安達氏だったのです。その後、9月の大風による大仏殿倒壊など天災が続いたため、三浦氏の祟りだとの噂が流れました。怨霊を鎮めるため、三浦氏討伐の主役だった安達氏が中心となって金銅大仏の造立を企画した、というのが三浦氏の怨霊をベースにした金銅大仏造立説です。

この怨霊説には一定の根拠があり、宝治元年(1247年)に三浦氏が滅び、同年9月に木造大仏もタイミング良く亡失したので、その後再建計画を立て、5年後の1252年から金銅大仏の鋳造が始まったとするのは、年代的にも整合性があると言えます。

しかし酔石亭主は怨霊説に異論があります。なぜなら安達氏は、今まで論証してきたように、最初から大仏造立の意志を持っていたからです。むしろ、三浦氏の怨霊を利用して大仏造立を促進したのではないかと思われます。

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墓の前の広大な平場。

これは一体何なのでしょう?誰が、何のためにこのように広い平場(端から端まで約30m)を造成したのか?酔石亭主はここを訪れた際、それが不思議でなりませんでした。あれこれ調べた結果、2005年に発掘調査が行われ、元仁元年(1224年)に死去した北条義時の法華堂跡の可能性が高いと判明したそうです。

「吾妻鏡」元仁元年(1224年)6月18日には、故右大将家「法華堂」東の山上を以って墳墓と為す。とあります。

発掘レポート: http://www.shonan-it.org/hojyo/index.html

しかし妙です。

この場所は山裾に近く山の上ではありません。墓は山上とする「吾妻鏡」の記述とは整合していないのです。仮に北条義時の法華堂があったとして、建物と前庭を含む全体面積は現状の三分の一程度で十分のはずです。

頼朝の法華堂にしても山の中腹のごく狭い敷地に存在していました。供養目的の法華堂にこれほど広大な平場は必要ないのです。遺跡発掘資料によると義時のものとされる法華堂は約8.4mの正方形の建物でした。なのに、ここには不必要なほどの広大な空き地が存在している。一体何のために…。

北条義時法華堂の疑問はなおもあります。義時は法名を得宗と称され、以降北条氏は北条得宗家と呼ばれるようになりました。北条氏にとって重要な人物の法華堂真横に、かつて最大のライバルであり、しかも安達氏の手を借りて滅亡させた一族三浦氏の墓所を設けるでしょうか?また法華堂はお墓のある場所に建てられるべきもののはずです。しかしこの場所に義時の墓とされるやぐらなど存在していません。北条義時法華堂は本当にここなのか疑問が湧いてきます。

実はこの場所からさらに東に北条義時のものとされるやぐらがあります。次回はそれを探しに行きましょう。

              ―鎌倉大仏の謎 その17に続く―

鎌倉大仏の謎 その14


前回、安達氏/北条氏と三浦氏の激突前に後鳥羽上皇の怨霊説を入れたので、中途半端で終わってしまいました。今回は宝治合戦と呼ばれる彼らの争いを見ていきましょう。

1247年の5月段階で、北条時頼のみならず三浦氏頭領の三浦泰村も衝突は避けたいとの意向を持っていました。6月には和睦が成立するのですが、これに納得できない安達景盛は泰盛に出撃を命じ、軍勢が泰村の館を急襲したのです。和睦の成立に安堵していた泰村は腰を抜かさんばかりにびっくり仰天して、迎撃態勢に入ります。一旦戦端が開かれれば穏健派の時頼も止めることはできず、兵を動かします。

一方泰村の弟光村は主戦論者で、永福寺に籠もり戦う意志を見せていました。泰村の館での攻防は一進一退で北条方は攻めあぐねます。午後になって風向きが変わると、館に火がかけられます。もはやこれまでと悟った泰村は、自分の無実と敵意のないことを示すため、一族を率いて源頼朝の法華堂に向かいます。それを知った光村は、やむなく敵陣を突破して法華堂に入り泰村と合流。一族郎党500余名が法華堂で自害しました。権勢を誇った三浦一族も遂に頼朝の墓前で滅びたのです。(もっと細かく書きたいのですが長くなるのではしょります)


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三浦一族関連のグーグル地図画像。

前回で書いたように横浜国大付属小、中学校が三浦泰村の屋敷跡となります。屋敷は鶴岡八幡宮と頼朝が開いた大倉幕府(清泉小学校辺り)の中間に位置していることから、いかに三浦一族が幕府の中で重要な地位を占めていたかが理解できます。泰村の屋敷から法華堂までは、画像でわかるように至近距離となります。

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白旗神社です。神社は左側の建物です。

白旗神社は現在の清泉小学校にあった大倉幕府の北隅に当たります。神社は法華堂跡が明治になって神社となったものです。ここの階段を登ると頼朝の墓(法華堂のあった場所)に至ります。

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法華堂跡の解説石板。

文字がはっきり読み取れます。宝治元年6月5日三浦泰村がここに立て籠もり、一族郎党五百余人が自害しお庭は朱に染まったと書かれています。

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頼朝の墓です。

墓を建てたのは島津家25代当主である島津重豪ですが、近年損壊し補修されているとのことです。

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平場から墓を撮影。

法華堂はこの平場を前庭として西向きに(=写真撮影した側に向いて)建てられていたそうです。現在の石段より西側に本来の登り道があったことになります。

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この辺りが登り道だったのでしょう。

ところで、三浦一族500名余りが法華堂で自害して果てたとすると、平場から写真撮影した正にその場所で武将たちが腹を掻き切ったか、首に刀を刺して命を落としたことになります。特に三浦光村は、刀で何度も自分の顔を削ぎ、誰だか判別できないようにして自害したそうです。誠に鬼神も涙する凄絶な武士の最後ではありませんか。彼らの恨みの深さもまた測り知れません。そう思うと、足元から何か壮絶な気配が立ち昇っているような気がして、ちょっと怖くなりました。

こうした経緯で、北条氏最大のライバルであった三浦氏は滅亡します。そして三浦氏を滅亡に追い込んだのが、他ならぬ安達氏だったのです。

                ―鎌倉大仏の謎 その15に続く―

鎌倉大仏の謎 その13


安達氏について、第二の条件は幕府の有力御家人と言うことで満たしており、第三の条件である資金力も当然満たしています。最大の問題は第四の条件で、安達氏が幕府から疎んじられるような一族であったかどうかです。

ということで、今回は安達藤九郎盛長以降の安達氏の動静を見ていきましょう。安達氏は将軍家から甘縄神明神社の境内を屋敷地として与えられました。

でも…、これってちょっと変じゃありませんか?頼朝の信任厚い人物なら大倉幕府のすぐ近くに屋敷を構えるはずです。例えば、北条氏と肩を並べる実力御家人三浦一族が大倉幕府と鶴岡八幡宮の間に屋敷を構えたように…。


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位置関係を示すグーグル地図画像。

鶴岡八幡宮の東にある横浜国大の付属小、中学校が三浦氏の屋敷跡で、清泉小学校が頼朝の大倉幕府跡です。現代なら永田町に大邸宅を構えているようなもの。最強御家人三浦氏の面目躍如ですね。

ではなぜ安達氏は当時鎌倉の境界領域とも言える僻地を自邸として拝領したのか。これは間違いなく先祖との繋がりを意識する安達氏から願い出たものです。安達邸は将軍家がたびたび渡御する仮御所にもなっていました。将軍家も安達氏の出自に一定の認識があったことを示す好例ですね。

ちなみに、佐助ガ谷は鶴岡八幡宮の御旅所(いざという場合の避難所)になっていました。甘縄神明神社と佐助ガ谷。両者の意味合いには相通じるものがあります。

さて盛長の子が景盛で、彼は3代将軍源実朝とその母北条政子の側近として仕えています。景盛の娘である松下禅尼は執権北条泰時の嫡子北条時氏に嫁ぎ、4代執権北条経時、5代執権北条時頼を産みました。安達氏は源氏だけでなく北条氏もお気に入りの御家人であったと言えます。(ここまで見ただけでは、北条氏から疎んじられたという条件を満たしていません)そして、景盛の子が義景で、孫は泰盛となります。

以上で安達氏の主要メンバーは出揃いました。次に、何が契機になって安達氏が鎌倉大仏造立へと進んでいったのかを考えてみます。当時北条氏の最大のライバルであったのが三浦氏でした。一つ間違えば執権職は三浦氏のものになっていたほど両者の実力は伯仲していたのです。

そんな状況下、安達氏は三浦氏の風下に甘んじていました。当時景盛は高野山に籠っていたのですが、我が子や孫の歯がゆさから、高野山を出て鎌倉へと戻ってきます。景盛は当時の執権北条時頼と長時間にわたり密談。三浦氏討つべしと説き、子である義景や孫の泰盛を厳しく叱咤します。

時は宝治元年(1247年)、鎌倉には「鎌倉大仏の謎 その2」で書いたように不穏な空気が流れていました。1月は羽蟻の大群が鎌倉を覆い、光物が飛行します。2月に入ると海水が血のように変色、大流星が飛び、兵革(戦争)の予兆とされる黄色い蝶が鎌倉中に充満します。続いて4月には人間の死体のような大魚が漂着、民衆の不安感が高まってきました。

景盛が鎌倉に入り時頼と密談したのは、鎌倉を覆う不安感が最高潮に達した4月11日のこと。

実はこの時点で木造大仏は造立されており、1243年に開眼供養を終えています。三浦氏の風下に立たされていた安達氏に、大仏に関与する余裕はなく、従って木造大仏は浄光と背後に控える忍性の律宗組織が実行部隊となり造立されたと思われます。

さらに4月25日には日暈が表れます。これも合戦を象徴するものとされ、相次ぐ戦争の予兆に困惑した幕府は、後鳥羽上皇の怨霊に原因を求めます。そして上皇の怨霊を鎮めるために建立されたのが、鶴岡八幡宮の西麓にある新宮神社とされています。ということで、新宮神社に行ってみましょう。

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途中で台湾リスちゃんを見かけました。

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新宮神社です。

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もう一枚。

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解説石板です。

延応元年(1239年)5月鎌倉中で大騒動が起きたが、これは後鳥羽院が隠岐で崩御してその怨念によるものだから宝治元年(1247年)4月大臣山に今宮を建て院の尊霊を勧請した云々とあります。

4月25日に日暈が現れてから神社を建てたとすると、随分慌てて着工したようです。それにしては、1239年から1247年まで結構な年月が経過しています。因果関係がよくわかりませんが、まあ怨念話ですからこの程度のものでしょう。

写真でご理解いただけますように、神社の佇まいにおどろおどろしさはありません。むしろ清浄な静けさが漂っています。社は鶴岡八幡宮西側の大駐車場脇から入ったところにあります。


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新宮神社の場所を示すグーグル地図画像。

鶴岡八幡宮を参拝された方の何割がここに来られるのでしょう。多分、1%以下ではないかと思われます。丸山稲荷社にしても、ほとんど参拝される方はいないはず。結構重要な社が見過ごされているのは、神社側に意図的な部分があるのかもしれません。どちらも一見の価値がありますから、鶴岡八幡宮参拝の折にはぜひお寄りください。

ところで、木造大仏は後鳥羽上皇の怨霊を鎮めるために造立されたとの説があります。怨霊説ですね。後鳥羽上皇は承久3年(1221年)、討幕の兵を挙げました。かの有名な承久の乱(変)です。しかし上皇の試みは失敗に終わり、隠岐に流され、既に書きましたように延応元年(1239年)2月に崩御します。

一方木造大仏の事始めは歴元元年(1238年)なので、時代的に1年ほどずれがあります。1年のずれは小さいので、大仏は上皇の怨霊を鎮めるために造立されたと考えることもできますが、その場合、新宮神社を改めて建立する必要はありません。従って木造大仏の怨霊説は成立しないと思われます。ただ、金銅大仏に関しては一定の説得力がありそうな気もするので、その辺りはもう少し後で見ていきましょう。

              ―鎌倉大仏の謎 その14に続く―

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