新田義貞鎌倉攻めの周辺 その12


今回は聖福寺に関する謎解きの最終回です。前回の記事は山道の途中にある熊野権現社を見て終わりましたが、道は尾根筋まで続いています。少しの距離ですから謎解きの前に登ってみましょう。

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登り終えると尾根に沿って山道が続いています。

よく整備されています。かつては聖福寺ヶ谷から極楽寺などに抜ける生活道路だったと思われます。那智の滝(=音無の滝)のありかを探れないかと思い、正福寺公園の裏側に向かいました。

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両側の崖下が見下ろせる痩せ尾根です。

このあたりが一番狭まっており下に滝があったのではないかと想像されます。しかし、確認はできません。さらに歩きます。すると、突然視界が開けました。

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竹藪が切り込まれ、よく手入れされた山道です。

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聖福寺ヶ谷のほぼ全景。

住宅が建て込んではいますが、いかにも谷戸と言った風情です。あまり知られていない鎌倉の絶景ポイントがまた増えました。

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幹や枝をくねらせたヤマザクラ。

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さらに進むと大きな岩が…。

明らかに人の手が入っています。岩の手前半分を削り取っているのです。ここには小堂か修験者の廟があったのではないでしょうか?あるいは修行の場…。そう思って見ていると、削り取られた部分に文字らしきものが見えます。

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拡大画像。

文字が彫られているのは間違いなさそうですが、判読できません。誰か専門の方に解読願いたいものです。

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岩の先は二股に分かれ、右手は小さな切通しになっています。

鎌倉らしい山道を歩くことができました。

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別の角度から海側を見ます。聖福寺ヶ谷は左端になります。住宅だらけです。

山歩きを終え、今まで検討してきた内容を整理し大胆に推理してみましょう。

鎌倉権五郎景政が由比ヶ浜(甘縄)に居住していた頃、彼は熊野神を鎌倉に勧請しました。場所は前回で確認できたように音無川源流部です。その際、神社の近くに神宮寺的役割を持つお堂が建てられたと思われます。この時点で、熊野権現社(=新熊野)と聖福寺の前身となるお堂が建立されたのです。

景政が由比ヶ浜から大庭に移住する際、熊野権現社を大庭に分社しました。従い、大庭神社旧跡の解説板には、「権現社とも呼ばれています」と書かれているのです。熊野権現社の移動に伴い、お堂も部分的に移転します。あるいは熊野権現社を大庭に分社したことにより、神宮寺であるお堂の僧侶が数人程度大庭に移住したのです。これにより、鎌倉の熊野権現社とお堂、大庭の熊野神社とお堂がペアのような存在となりました。

建長6年(1254年)、聖福寺が北条時頼の手で聖福寺ヶ谷に創建されます。場所はお堂のあったところ(聖路加幼稚園周辺)と思われます。これにより、鎌倉の熊野権現社と聖福寺がペアになりました。

その結果、大庭において熊野神社のペアとなっているお堂も聖福寺と見做され、聖福寺が大庭にあるとの伝承が成立したのです。

しかし、「吾妻鏡」の建長6年(1254年)4月18日 庚申の条に見られるように、聖福寺鎮守諸神の神殿が上棟されます。聖福寺は熊野権現社の神宮寺であったのに、今度は聖福寺を鎮守する神殿が建てられたのです。ここに聖福寺は熊野権現社の神宮寺としての立場を越え、名実ともに北条氏すなわち幕府の寺として独自に発展することになりました。

よって、鎌倉権五郎景政が勧請した熊野権現社はその役割を終え、北条時頼と近い関係にある忍性の手で、文永6年(1269年)に現在地(当時の極楽寺領域内)に移され熊野新宮として創建されたと推測されます。熊野権現社(=新熊野)がこの時点で熊野新宮となったのです。ただし、聖福寺が廃寺となっても熊野権現社の小祠はそのまま残され、昭和に至るまで聖福寺ヶ谷の変遷を見守り続けました。

このストーリーであれば、大庭に聖福寺があるとの伝承にもかかわらず、新田義貞が鎌倉攻めの際着陣した聖福寺は、鎌倉の聖福寺であったと確認できるのです。

なお上記とは別に参考書籍として「鎌倉市史」の総説編を読んでいたところ、驚くべき内容を発見しました。市史の48ページには「正福寺谷は勿論のこと甘縄附近も大庭御厨の飛び地であったことには相違ないのであって、…以下略」と書かれています。しかし具体的な裏付けがないので探したところ、鎌倉の四境・七口の項(180ページ以降)に詳述されていました。

あれこれ論証されていますが、「新田義貞が鎌倉攻めの際大庭に陣取ったとは考えられない」と言うのが主な論点のようです。

また同時に、聖福寺は大庭にあるとの見解を持つ史料についても記載されていました。内容としては、『「地名辞典」は、…中略…「東鑑」の聖福寺は大庭であってここではないといっている』と言うものです。聖福寺所在地の問題がいかにややこしいか、これらの史料からも見て取れますね。

なお、景政は由比ヶ浜に居館を建て、その地を甘縄と号したとされます。「鎌倉市史」が甘縄も大庭御厨の飛び地としているのは、坂ノ下に景政を祀る御霊神社があることによりますが、酔石亭主は甘縄に景政の居館があったからだと考えます。(景政の鎌倉における支配領域が広く、坂ノ下も甘縄の範囲内と考えれば結果的には「鎌倉市史」と同じになります…)

加えて鎌倉最古の甘縄神明神社は祭神が天照大神…。この神社が景政と伊勢神宮を接続する回路になったのではないでしょうか?

結局、聖福寺所在地の謎の根源には鎌倉権五郎景政と彼が勧請した熊野神社があったのです。

「鎌倉市史」は鎌倉の聖福寺ヶ谷を大庭御厨の飛地とほぼ断定しています。この説は十分な説得力を持つと言えるでしょう。景政にとって鎌倉の聖福寺ヶ谷(新熊野を自ら勧請した地)は極めて重要な場所だったので、大庭に移転した後も飛地として確保していたと考えて何ら不自然ではないからです。

また、それほど重要な場所にある熊野権現社とお堂だったので、大庭に移住後そこに分社し、お堂の一部も移転するのは当然の行為と思われます。

さらに、鎌倉の聖福寺一帯が大庭御厨の飛地だとすれば、「吾妻鏡」にある「相模の国大庭御厨の内その地を卜する所なり」の文言がそのまま鎌倉の聖福寺を指すとしても全く問題はありません。

様々な検討を経て、何とか聖福寺問題に決着を付けることができました。新田義貞が着陣したのは大庭ではなく、間違いなく鎌倉の聖福寺だったのです。

以上で聖福寺の謎解きは終了です。
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新田義貞鎌倉攻めの周辺 その11


今回の記事はかなり長くなりそうです。

さて、聖福寺跡地とされる場所は江ノ電稲村ケ崎駅の脇を流れる音無川に沿った聖福寺ヶ谷の最奥部です。鎌倉にしてはかなり細長く奥の深い谷戸が形成されています。


大きな地図で見る
聖福寺ヶ谷を示すグーグル画像。

江ノ電稲村ケ崎駅の脇をほぼ北にまっすぐ伸びているのが聖福寺ヶ谷です。では海岸からスタートして、聖福寺ヶ谷を音無川に沿って遡りましょう。

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いつも見る稲村ケ崎です。

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高射砲陣地跡。

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音無橋です。 大正15年2月架橋。関東大震災で元の橋が崩落した後再建されました。

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音無橋から海岸方面を撮影。ワンちゃんを散歩させている方がいます。

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橋の下付近にある音無の滝です。

音無川の名前の由来は、音無の滝に由来しています。音無の滝は、その落ち口が砂であるため流れ落ちる音がしなかったことに由来しているとか。だとすれば、川床が鎌倉砂岩でかなり音がするこの滝は本来の音無の滝ではありません。音無の滝は多分川の源流部にあるのでしょう。

今回の探索は、聖福寺の所在地と寺に隣接していたはずの熊野神社です。前回で頭を悩ませた熊野新宮と聖福寺・新熊野の関係も解き明かす必要があります。

実は、聖福寺の所在地に関して「新田義貞鎌倉攻めの謎を解く その8」(2010年12月19日記事)で詳しく書いています。本論考の中で、寺のあった場所は解説石板のある聖福寺ヶ谷の最奥部ではなく、もっと海寄りの場所と特定しました。義貞の軍勢が谷戸奥にまで入ると、着陣後の行動に支障が出るからです。

さらに、解説石板が設置された現在の聖福寺跡地とされる場所からは、それを証明する堂宇の礎石など発見されていません。聖福寺の所在地は解説石板の設置された聖福寺ヶ谷最奥部ではないのです。

ここで、もう一度「鎌倉攬勝考卷之七」をチェックしましょう。「聖福寺廢跡 極樂寺より西南のかたに、大いなる谷あり。その蓮邊に北條時建立せし由。又熊野社も有けり」と記載あります。

極楽寺の西南の方角に聖福寺はあった。では谷戸のどのあたりに聖福寺はあったのでしょう?酔石亭主はグーグル画像の聖路加幼稚園周辺にあったと推定しています。詳しくは下の電子国土画像を参照ください。

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電子国土画像。

上端の小さい円が聖福寺跡地を示す解説石板のある場所。下側の大きい円が実際の聖福寺跡地と考えられる場所。極楽寺から北西に矢印を伸ばすと聖福寺跡地(と解説石板に記載される場所)に至ります。

「鎌倉攬勝考」の記述どおり極楽寺から南西に矢印を伸ばすと聖路加幼稚園周辺に至ります。酔石亭主はここが真の聖福寺跡地と考えています。と言うか、「鎌倉攬勝考」の記述通りに考えれば自動的にそうなるのです。もちろん文献だけでは十分と言えず、何らかの証拠を見いだしたいところです。

「鎌倉攬勝考」には、「又熊野社も有けり」と記載されています。この文面からすれば、熊野神社はやはり聖福寺の境内或いは隣接地にあったことになります。だとすれば、御霊神社近くの熊野新宮とは別の熊野社があることになってしまいます…。どうもうまく行きませんねぇ。

この検討は後に回し、取り敢えず江ノ電稲村ケ崎駅脇の谷戸奥へと続く道路を進みましょう。少し歩くと左手に谷戸が分岐しています。グーグル画像で聖路加幼稚園がある谷戸です。この谷戸に何らかの痕跡があればいいのですが…。

谷戸に入っても住宅が建て込んでいます。これは無理かなと思いましたが、少し先に工事現場があって、そこに「やぐら」らしき穴が二つありました。最初の穴を撮影します。

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平井戸です。

やぐらではなく奥の深い平井戸でした。この種の井戸は浄智寺など鎌倉のお寺で見られるものです。その隣が横穴墳墓であるやぐらでした。

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やぐらです。

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崖のやや高い位置にもやぐらが。

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聖路加幼稚園。

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谷戸の奥まった場所。趣のあるお宅があります。

いかがでしょう?古代人のお墓があり、平井戸もある谷戸は聖福寺跡地としての資格を備えているように思えませんか?この推論を確かめるため、是非一帯の発掘調査をして欲しいと思います。(実際には住宅が密集して無理です)

鎌倉の寺院の多くは一つの谷戸の全域が寺領となっています。聖福寺ヶ谷の谷戸全域が聖福寺の境内で、最奥部にも小堂があった可能性を否定することはできません。しかし、新田義貞が着陣した寺の中核部は音無川の最上流部ではなく、もっと海寄りの場所(聖路加幼稚園周辺)にあったのです。これで聖福寺の位置が確定できました。

次が熊野新宮と整合しない新熊野(熊野神社)の所在地です。

熊野神社は修験に関連しますので、山深い場所にあると考えるのが理にかなっています。ひょっとしたら、音無川の源流部(現在は正福寺公園)にあったのではないでしょうか?(そこに熊野神社があったら、何度も書いているように熊野新宮との整合性に問題が出てきますが…)

矛盾を抱えつつ、聖福寺ヶ谷をさらに奥へと歩きます。

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この辺りが谷戸の最奥部となります。

ものの見事に住宅開発されてしまい、社らしきものは見当たりません。こうなれば史料や古地図などに頼るしかなさそうです。手掛かりを求めて昔の地図でチェックしてみます。国土地理院の昭和25年の地図を見ると…。ありました。

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地図。

何と、この地図にははっきりと熊野権現社が出ています。他に滝不動と那智ノ滝と書かれています。鎌倉市は重要な遺跡を滝ごと潰させてしまったのです。驚くべき所業と言わざるを得ません。この体たらくで世界文化遺産の登録が目指せるのでしょうか?大いに疑問です。

それはさて置き、地図と現地を比較してみます。


大きな地図で見る
グーグル画像。

このオレンジ色の屋根のあるあたりが、熊野権現社及び滝のあった場所と推定されます。

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その場所の写真。

撮影した写真では道路奥に見える車庫のシャッターの上となります。但し、オレンジ屋根の家は取り壊されて現存していません。道路のマンホールの下からは水の流れる音もはっきりと聞こえます。(水流音は家の手前ではなくその一つ前の左に向かう道路に続きます)

オレンジと黒屋根の二軒の家の手前を左に進むと正福寺公園で、その前に聖福寺跡地を示す解説石板が設置されています。つまり、熊野権現社の所在地は現在の聖福寺跡地を示す解説石板所在地とほぼ同じです。

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聖福寺跡地を示す解説石板。

以上から、鶴岡八幡宮社務記録にある聖福寺新熊野とは、音無川源流部にある熊野権現社のことであると確定できました。また音無の滝とは国土地理院地図にある那智の滝であるとほぼ断定できそうです。問題は熊野権現社と熊野新宮の関係ですが、この点は別途検討します。

しかしです。ここでも別の問題が持ち上がりました。昭和25年の国土地理院地図に熊野権現社と記載ある以上、昭和に入ってもなお社が現存していたのです。これをどう考えればいいのでしょう?

多分、聖福寺の本来の立場を示す名残として、新熊野の小祠がそのまま残されたのです。いつの頃か聖福寺が廃寺になっても小祠はその命脈を保ち、昭和に至るまで現存し続けました。それが鎌倉市と住宅開発した西武の暴挙により、那智の滝も含めて潰されてしまったのです。

では、住宅開発で取り壊された熊野権現社はどうなったのか?もう一度国土地理院の地図を見てください。熊野権現社らしき建物の前から点線の道がくねりながら山の中へと続いています。まるで神様がこちらに来なさいと呼んでいるような…。

早速行ってみましょう。グーグル画像の拡大画面では戸田工務店の前の道を山に入ります。

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戸田工務店前。

道は昭和の地図とほぼ同様に山の中へと入っていきます。すると、山道の右手にありました。

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熊野権現社の石碑です。木の葉で隠れ熊野しか見えません。

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社です。

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石祠になっています。

石祠の作りはどう見ても新しく、昭和のものと思えます。取り壊される前には、石祠同様の小規模な社が音無川源流部にあったのでしょう。不動明王像もありますが、これが滝不動のことでしょうか?

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不動明王像。こちらはかなり古そうです。

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不動明王像の後ろにある祠。これも古い。

以上で鎌倉における聖福寺跡地と新熊野(=熊野権現社)の場所が特定されました。しかし、新熊野(=熊野権現社)と熊野新宮の関係はまだ解けていません。これを今までの探索結果から推論します。

いつの頃か、鎌倉権五郎景政が音無川源流部に新熊野(熊野権現社)を勧請しました。それとともに新熊野の神宮寺の役割を持つお堂が建てられます。新熊野の神宮寺であったお堂は鎌倉時代に入り北条時頼の手で聖福寺となり、幕府の寺として独自に発展します。

それに伴い、聖福寺は熊野神社の神宮寺、つまり神社に附属して建てられた仏教寺院という立場を離れてしまいます。神社と寺の主従逆転ですね。このため、時頼と親しい忍性が極楽寺の境内に新熊野を移し熊野新宮が創建されたのです。忍性が御霊神社の山向こうに熊野新宮を創建したのは景政との関係を知っていたからとも推測されそうです。

一方新熊野の小祠(=熊野権現社)はそのまま残され、いつの頃か聖福寺が廃寺になっても小祠は命脈を保ち、昭和に至るまで現存し続けました。昭和に入り熊野権現社が取り壊された際、神社の御正体は熊野新宮に移されたとか。これにより、二つに分かれたものが一つに戻ったような感もあります。

これで鎌倉においても大庭同様に聖福寺、熊野神社、御霊神社、鎌倉権五郎景政がセットになっていると確認できました。

ところがです。「鎌倉攬勝考」によると聖福寺は極楽寺の南西にあり、「吾妻鏡」に従えば大庭御厨にあることになり、両史料の記述は相互に矛盾します。では、聖福寺は鎌倉と大庭のどちらにあったのでしょう?必要なデータはほぼ出揃い、答えも出たようなものですが、次回でそれを検討します。

新田義貞鎌倉攻めの周辺 その10


あれこれ考えるのに少し時間がかかりましたが、ようやく先が見えてきたのでまた記事を続けます。まず、下の画像を参照ください。坂ノ下の御霊神社一帯を示すグーグル画像です。


大きな地図で見る
グーグル画像。

画像左端上の拡大・縮小マーク下あたりが、聖福寺跡を示す解説石板の所在地となります。熊野神社も画像にあります。この画像を見て気になることもありますが、取り敢えず熊野神社について見ていきましょう。この神社は熊野新宮と呼ばれています。

熊野新宮に関しては以下Wikipediaより引用します。

熊野新宮(くまのしんぐう)は極楽寺の鎮守社。単に新宮社とも。極楽寺開山忍性の行跡を記した『忍性菩薩行状略頌』に文永6年(1269年)創建の記述が見られる。鎌倉幕府の崇敬を受けた。幕府滅亡後は足利氏の庇護の下に入り、建武2年(1335年)には足利直義が土地を寄進している。


熊野神宮を創建したのは忍性とあり、鎌倉権五郎景政とは関係なさそうに思えます。ところがです。既に書いたように、鶴岡八幡宮の社務記録には、建長6年(1254年)1月28日条「当社御正体正宝等、被奉渡聖福寺新熊野」とあるのです。

新熊野と熊野新宮。まず間違いなく両社は同じものです。だとすれば、忍性の創建以前に熊野新宮は新熊野として存在していたのです。新熊野を勧請したのは、既に書いたように、鎌倉権五郎景政と推測してほぼ間違いないと思われます。

しかし、「聖福寺新熊野」の表現から、新熊野(熊野神社)は聖福寺の境内或いは隣接地に鎮座していると考えなければなりません。聖福寺と熊野神社の所在地が画像のように離れていると、「聖福寺新熊野」の表現に合致しなくなります。最初に書いた「画像を見て気になることもある」とはこの問題だったのです。

聖福寺の所在地に関する謎を探求する中で、別の謎が出現しました。ホントに困りましたねぇ。

悩んでいても仕方ないので、この問題は一旦横に置き、江ノ電極楽寺駅から熊野新宮に向かいます。

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忍性が創建した極楽寺山門。

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解説板。

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熊野新宮への案内柱。

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鳥居と拝殿。

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拝殿。

由緒は以下の通りです。

もと新宮社と称し、文永六年(七百余年前)忍性菩薩の勧請と伝えられ、鎌倉時代極楽寺全盛当時より熊野新宮と号し、同寺の鎮守として広く神地を有し、厚く幕府の崇敬を受けて栄えた。…以下略。

鎌倉における熊野神社に関しては以下Wikipediaより引用します。

熊野神社とは、熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)から勧請された神社を指す。
有史以前からの自然信仰の聖地であった熊野(紀伊国牟婁郡)に成立した熊野三山は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての中世熊野詣における皇族・貴紳の参詣によって、信仰と制度の上での確立をみた。しかしながら、中世熊野詣を担った京からの参詣者は、後鳥羽上皇をはじめとする京都の皇族・貴族と上皇陣営に加勢した熊野別当家が承久の乱において没落したことによって、歴史の表舞台から退き、かわって、東国の武士や有力農民が前面に出てくるようになる。
こうした一般の参詣者とそれに伴う収入に経営の基盤を求めた13世紀半ば以降の熊野三山は、全国に信仰を広め、参詣者を募るため、山伏や熊野比丘尼を各地に送り、熊野権現の神徳を説いた。この過程で、全国に数多くの熊野神社、すなわち熊野三山から勧請された神社が成立した。…中略…
極楽寺一帯には、もともと熊野新宮のほか、八雲神社と諏訪明神社の2社があったが、いずれも関東大震災で倒壊したため、1928年(昭和3年)に合祀された。関東大震災の折には、熊野新宮も損傷を受けており、1927年(昭和2年)に社殿が再建されている。

大変詳しく記載されており参考になりました。鎌倉権五郎景政は東国武士として熊野神社を勧請した先駆けのような人物とわかります。景政は既にご紹介した山形の熊野大社以外に、関東の有力な熊野神社と関係がありそうです。但し鎌倉ではありません。サッカーやパワースポットとして有名な師岡(もろおか)熊野神社(横浜市港北区に鎮座)です。

由緒によれば、同社は聖武天皇神亀元甲子年(724年)に全寿仙人によって開かれたそうで、「関東随一大霊験所熊埜宮」であるとのこと。

景政との関連を窺わせるのが、「い」の池の片目の鯉の伝説です。由緒によれば、遠い昔、熊野神社の権現様がこの地の悪者を退治したときに、弓矢で片目を射られた。その時に、「い」の池に棲む鯉が目を権現様のために差し出したので、以来「い」の池の鯉は全て片目になったと言われる、とのことです。

ここでは神社の権現様となっていますが、内容は明らかに景政の伝説が元になっています。伝説のおおよその内容は以下の通り。

後三年の役(1083~1087年)において源義家方の先鋒軍として戦った景政は、清原軍の放った矢が右目に刺さっても敵を倒し、自軍に帰りました。そして彼が目を洗った厨川には片目の鰍が棲むようになったとされています。師岡神社と景政の話は全く同じパターンだとわかりますね。

関東屈指の熊野神社に景政の伝説が流れ込んでいることは、熊野と景政の関係を如実に物語っていると言えるでしょう。

以上で熊野新宮を見終わりました。けれども、熊野神社と景政の関係以外に得られたものはありません。熊野新宮と聖福寺の所在地が離れている謎を解くヒントは、まだ何も出ていないのです。この謎を解明するには、聖福寺跡地に行ってさらに詳しく調べるしかなさそうです。

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熊野新宮の水仙です。

新田義貞鎌倉攻めの周辺 その9


鎌倉権五郎景政は居館を由比ヶ浜(甘縄あたりともされる)から大庭に移したとされています。なお彼の居館は古舘にもあったとされています。(「八雲大社例大祭の謎 その1」2011年3月23日参照)由比ヶ浜から続く前浜の坂ノ下には景政を祀る御霊神社が鎮座しています。


大きな地図で見る
御霊神社を示すグーグル画像。今回のルートはこの画像の範囲内です。

何と、御霊神社の裏山を隔てた場所に熊野神社が鎮座しています。坂ノ下を中心として周囲に鎌倉権五郎景政の拠点と御霊神社、熊野神社があるのです。大庭と全く同じ構造であると明確に理解できます。だとすれば、聖福寺は前回の推測通り鎌倉と大庭の二カ所にあったのでしょうか?そんなはずはないのですが…。

答えを得るにはともかく現地を見るしかありません。と言うことで、何度目になるのか忘れましたが、江ノ電極楽寺駅より御霊神社に向かいます。極楽寺の切り通しに解説石板があります。

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解説石板。忍性が開いた極楽寺切通の由来が彫られています。

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坂を下る途中にある虚空蔵堂。

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虚空蔵堂脇の舟守地蔵。なぜか本シリーズは舟形の地蔵さんばかり出てきます。

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本堂。

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星月井です。

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解説板。

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趣のあるお宅です。

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御霊神社参道前の力餅屋。傍らに鎌倉権五郎景政の古い石柱が立っています。

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石柱。参道を進み江ノ電の踏切を渡ると神社に入ります。

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御霊神社拝殿。

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側面より見た拝殿と本殿。

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扁額は鎌倉権五郎神社となっています。

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弓立ての松。

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袂石と手玉石。

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それぞれの石。こんな石を手玉に取るとはさすが景政。

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石上神社。

解説板には、「昔、御霊神社の前浜沖にあった巨石に多くの船が座礁し多数の人命が奪われた。海神の怒りと悟った村人はこれを曳き上げ その上部を祀って石上神社と称した。…以下略」と記載あります。

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その石です。上部に加工の跡が…。石を引き上げる際に必要だったのでしょうか?

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拝殿屋根に神社の神紋が…。並び矢です。

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境内を出て少し歩くと蕎麦懐石の懐古亭です。

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坂ノ下から坂を下った光景です。

さすがに見所の多い御霊神社とその一帯です。今回は写真紹介だけで終わってしまいました。

新田義貞鎌倉攻めの周辺 その8


稲荷神社前まで戻り左折して少し歩くと、大庭神社旧跡に到着しました。

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旧跡を示す石碑。

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解説板。

板なので風化してボロボロです。内容は以下の通りです。

この神社は御霊社又は権現社とも呼ばれています。ここが式内社の大庭社旧跡とされたのは江戸時代(文化・文政)のことです。式内社は平安時代(醍醐天皇の時)につくられた延喜式(法律の一種)の神名帳に載せられている神社です。…以下略。

上記由緒に関して、権現社は熊野権現を意味していると思われます。神社の現社名は熊野神社で祭神は熊野久須比命となります。御霊社は村岡御霊宮から分社したもので、御霊社は鎌倉権五郎景政に関係があります。

景政は寺領であった大庭を伊勢神宮に寄進し、一帯は大庭御厨となりました。そしてすぐ近くの稲荷神社あたりには景政の馬繋ぎ場があったのです。そこから何が導き出せるでしょう?

元々この地には大庭の地主神を祀る大庭神社がありました。そこへ景政が移住したことにより、御霊社とも、権現社(熊野神社)とも呼ばれているのです。以上から、景政が大庭に移住するに当たり、熊野神社を鎌倉から勧請したと想定されます。そして、鎌倉の熊野神社の神宮寺が聖福寺でした。

だとすれば、聖福寺、熊野神社、鎌倉権五郎景政は三点セットになっていると考えられます。もちろん、聖福寺の創建は北条時頼(1226年~1263年)とされており、景政(1069年~没年未詳)の時代とは離れています。この問題をどうクリアすればいいのでしょう?さらに景政が熊野神社を鎌倉から勧請したと言うのも、単なる推測に過ぎません。具体的な根拠が必要です。

難しい問題を考える前に神社を見ていきます。

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鳥居です。

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社殿です。

この神社は本来地元民が地主神を祀る大庭神社でした。ところが、鎌倉権五郎景政が大庭に移住して熊野神を祀ったため、地元の神である大庭の神が軽く扱われ消滅したのです。(現在の大庭神社は引地川親水公園の川を挟んで東側にあります)

では、鎌倉権五郎景政と熊野神社の関係を探りましょう。

あれこれ調べたところ、景政は山形の宮内熊野大社と関係を持っていました。同社の由緒に以下の記載があります。

十二所権現は、神話の天神(あまつかみ)七代、地神(くにつかみ)五代を祭っている。合わせて十二社という。当社の熊野宮は、寛治五(1087)年に、源義家公のご命令により、鎌倉権五郎景政が、紀州の熊野宮・有馬三所の大神・あわせて十二所の神様・那智・新宮から、十一所の御神体を勧請し遷し鎮めて、四海泰平をお祈りした。

以上から景政が熊野権現と関係を持っているのは明らかです。鎌倉にある聖福寺と熊野神社はセットになっています。大庭の熊野神社と景政はセットになっており、大庭に聖福寺があるとの説があります。

時頼と景政の時代が合わない点は別途検討するとして、縄文時代から続く大庭の地に景政が熊野神を勧請し、その神宮寺が聖福寺で稲荷神社が鎮座する台地か谷戸付近にお寺があったとすれば、話の筋は十分通りそうになります。

でも、困りましたね。聖福寺が稲村ケ崎近くの谷戸でなく大庭にあるとすれば、今度は新田義貞による鎌倉攻めの筋が通らなくなってしまうからです。それとも、聖福寺は鎌倉と大庭の二カ所にあったのでしょうか?再度ポイントを整理します。

鎌倉には景政の拠点があり、彼を祀る御霊神社が坂ノ下に鎮座し、坂ノ下から遠からぬ場所に「聖福寺新熊野」すなわち聖福寺と熊野神社があります。大庭にも景政の拠点があり、大庭神社旧跡は御霊社であり権現社(熊野神社)であり、聖福寺が付近にあったとの説があります。つまり、聖福寺に関連して鎌倉と大庭は全く相似形となっているのです。

ところが聖福寺を建立したのは北条時頼で、鎌倉権五郎景政とは200年近く時代が隔たっています。この錯綜した状況を解き明かすには、検討場所を鎌倉に移す必要があるでしょう。特に景政を祀る鎌倉坂ノ下の御霊神社周辺をしっかり把握しなければなりません。今回の検討はここまでとして、大庭の探索は一応終了します。

大庭神社旧跡の近くには冬のケヤキが…。

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昨年末撮影のイチョウ同様に葉を付けています。(この写真も昨年末のものです)

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もう一枚。

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リスもいました。台湾リスがここまで進出したのでしょうか?

次回は坂ノ下一帯を探訪します。
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