頼朝以前の鎌倉


前回から少し間が開いてしまいました。今回はさらに時代を下り、鎌倉幕府成立以前の鎌倉を見ていきましょう。

源頼朝が幕府を開く以前の鎌倉は鎌倉党が支配する地でした。鎌倉党といってもあまり馴染みのない名前だと思われますので、その流れを以下のように系図風に書いてみます。ただし、これらには諸説あり定まっていない点お含み置き願います。

桓武天皇(737年~806年)―葛原親王(786年~853年)―高見王(生没年不詳)―平高望王(生没年不詳)―村岡五郎良文(平良文)(886年~953年)

良文の5代孫が鎌倉権五郎景政(景正)で、大庭に居住した子孫が大庭氏を、梶原に居住した子孫が梶原氏を長尾にいる者が長尾氏を、俣野にいる者が俣野氏名乗ったとされ、彼らが鎌倉幕府成立前の鎌倉党の主だった面々となります。以下はWikipediaより引用。

景正の死後の鎌倉党の系図は諸説あるが、一説としては次の通りである。(『系図纂要』及び『桓武平氏諸流系図』を主とする)景正の嫡子の鎌倉景継が後を継ぎ、さらにその息子の義景が三浦郡長江村にて長江氏を称し、義景の弟である重時は板倉重家の跡を継いで板倉氏を称した。景正の息・景門は安積氏を称し、その末裔は只野氏(多田野氏)を称した。また、景正の子景秀の孫の家政は高座郡香川郷にて香川氏を称し、景経の息子の景縄は古屋氏(降矢氏)を称した。 景正の叔父の系統では、景通の息子の景久が鎌倉郡梶原郷にて梶原氏を称した。もう一人の叔父である景村の系統では、孫の景宗が大庭御厨に因んで大庭氏を称し、景弘は鎌倉郡長尾郷にて長尾氏を称した。
この様にして鎌倉郡周辺に盤踞する武士団鎌倉党が形成されたのである。 なお、鎌倉党の一族は名前に概ね「景」の字が用いられている。


細かく見ていくとややこしいのですが、要は桓武天皇の子である葛原親王の子孫たちが鎌倉党になっていると考えてください。そして葛原親王は秦氏の強い影響下にある人物でした。その理由は下記の通りです。

葛原親王が生誕したのは長岡京の乙訓で、ここは秦氏の支配地域であり、平安京に移ってからは秦氏最大の拠点である葛野が活動地域でした。また親王は秦氏の氏寺である広隆寺の西に平等寺を建立、後に寺域は広隆寺に吸収されています。父親の桓武天皇は秦氏にとって最重要なキーパーソンですから、その息子に対して目配りがあるのも当然かと思われます。

次に、「続日本後記」によれば葛原親王の家令は秦忌寸福代で、承和15年(848年)紫宸殿において除目があり、福代が土佐大目を兼任したそうです。家令とは親王家などが持つことを許された公的な家政機関の長を意味し、会社で言えば総務・経理担当取締役に当たり、親王家の運営において要の役割を担っています。また土佐大目とは土佐における国司の役職です。除目については以下Wikipediaより引用。

平安中期以降、京官、外官の諸官を任命すること。またその儀式自体である宮中の年中行事を指し、任官した者を列記した帳簿そのものを指す(除書ともいう)。


葛原親王は妻の照玉姫と東国に下向し、現在の藤沢市葛原に御所を構え、そこから高倉郡葛原村の地名ができたとされます。ただ、既にご存知のように高倉郡の名は「日本書紀」天武天皇4年(675年)に既に見られ、この説が正しいかどうか疑問はあります。

003_convert_20101001083246.jpg
親王を祀る皇子大神参道。場所はややわかりにくい。

005_convert_20101001083407.jpg
皇子大神社殿です。

007_convert_20101001083523.jpg
扁額です。

010_convert_20101001083634.jpg
解説板。

この下向に際し、秦忌寸福代は親王に同行したと酔石亭主は推測しますが、その根拠は追って別の記事にて書く予定です。

また『秩父慈光寺栄朝大禅師系図』によれば、高見王の母は秦忌寸福代の息女とされています。よくありがちな話ですが、それが正しければ、鎌倉党には秦氏の血脈が入っていることになります。

「鎌倉の謎を解く」で佐助ガ谷に秦氏がいた可能性を指摘し、その根拠の一つとして、近くに葛原岡がある旨記載しましたが、この地名は葛原親王に由来しており、ここからも佐助ガ谷と秦氏との関連が窺えます。

ちなみに、親王の妻照玉姫は病に倒れ、天長元年(824年)9月28日、公田にて亡くなりました。その後里人の手で塚が築かれ、上臈塚・皇の御前塚・女臈塚と称されたのですが、文禄元年2月、僧侶である信永により皇女神社が建立されています。この神社も本郷台の近くに所在しています。

以上から、鎌倉の始まりには秦氏の関与が窺えます。それが頼朝の時代における佐助ガ谷の老翁に繋がっていくのでしょう。この記事を書いていて、倉が付く地名には秦氏の関与が見られることに気が付きました。例えば、嵯峨嵐山にある小倉山、島田市の初倉、大月市の畑倉、鎌倉などです。

理由は比較的簡単で、秦氏は朝廷の直轄領である「屯倉(みやけ)」の運営を財務官として任されていたからだと思われます。今で言えば財務官僚ですが、以前の大蔵官僚の方が蔵という文字が入りイメージとしては近そうです。

屯倉は深草屯倉や茨田屯倉など秦氏の支配地域に数が多く、また通常屯倉は一国に一カ所ですが、秦王国があった豊前国には、勝碕屯倉、大抜屯倉、肝等屯倉、我鹿屯倉、桑原屯倉の五カ所があり、これらは秦氏の強い影響によるものと思われます。

鎌倉の地名由来は、藤原鎌足が大蔵の松ガ岡(今の鶴岡八幡宮)に鎌を埋めたからだと書きましたが、倉に秦氏の関与がある以上、このネーミングには藤原氏と秦氏が関与し、また鎌は産鉄を象徴しているので、鎌足が霊夢を見た由井の里の特殊技能集団とも関連し、結局鎌倉の地名は、藤原氏、秦氏、由井里の民の三者合作的なものと言えるでしょう。染屋太郎大夫時忠はこの三者の協力を足掛かりとして、中央における地位を固め、鎌倉の始祖の立場を得たのかもしれません。

頼朝以降の鎌倉に関しては数多くの史料・論考があり、酔石亭主の出る幕はなさそうです。ただ、興味深いテーマでも出てくれば、個別の記事として書いてみたいとは思っています。

スポンサーサイト

鎌倉の始祖染屋太郎大夫時忠 その2


以前、「歴史の宝庫 本郷台周辺を巡る」(6月26日)で白山神社について書きました。現在の本郷台近くに創建された白山神社は、正中元年(1324年)あるいは至徳元年(1384年)に、八軒八戸に遷座し、昭和51年に東上郷町に移されています。そこで、白山神社と関連する事項を見ていきましょう。

006_convert_20100921091345.jpg
八軒八戸にある昇竜橋です。

横浜最古の石橋とされ、白山神社が八軒八戸に鎮座していた当時の参道となっていました。

007_convert_20100921091500.jpg
橋の解説板。場所は文教堂の裏手なのでわかりやすいと思います。

012_convert_20100921091736.jpg
旧白山神社への石段。石段を上がると平地があるのですが、鬼気迫る雰囲気があります。

011_convert_20100921091613.jpg
平地からまた石段があります。この上が本殿だったのかも。

017_convert_20100921092005.jpg
現在の白山神社。

現在の白山神社は昇竜橋のある八軒谷戸を新興住宅街に向かって進んだ奥に鎮座しています。新たな社殿はコンクリートの建物となって、歴史の味わいに欠けるようです。住宅地の中にあり場所はややわかりにくい。

酔石亭主が気になったのは、旧白山神社の近くに長者ケ久保という地名があることです。「新編相模国風土記稿」によれば、いたち川に関連して「一は東南長者ケ窪より出、下川と呼ぶ」と記されています。

001_convert_20100921091122.jpg
長者ケ久保に向かう木橋です。

003_convert_20100921091233.jpg
小さな耕地もありました。谷全体がかなりおどろおどろしい雰囲気。

場所は非常にわかりにくいのですが、森の家バス停と上郷バス停の中間にあるENEOS横の細い下り道の先が長者ケ久保です。


大きな地図で見る
一帯のグーグル地図画像。

23号線の印の下のガソリンスタンドマーク下が長者ケ久保で、老人ホームクロスのスの横が昇竜橋と旧白山神社、庄戸中(実際は庄戸小)の左の道を北に進み、東にカーブするところで左折してすぐの場所が現在の白山神社です。なおグーグル地図を拡大して見ると、鎌倉の十二所との境界付近に長者ケ久保一号緑地という記載があります。

本郷地区の昔話によれば、長者ケ窪(久保)には「長者」と呼ばれる大金持ちが住んでいたとのこと。こんな場所に長者がいたとは信じられませんが、それはさておき長者というからには、産業振興、交易あるいは農業によって莫大な富を得た人物のはずですね。

下川は柏尾川の支流いたち川の上流部に当たるのですが、疑問に思ったのは、長者と呼ばれるにふさわしい耕作地や、産業振興の場所もない山の谷間でどのようにして長者になれたのか、という点です。

そこまで考えて、ハッと閃きました。前回で見たように、長者久保は甘縄神明神社を創建した染屋太郎大夫時忠の居住地ではありませんか。時忠は由井の長者と呼ばれていました。でも、どうして彼は長者になったのでしょう?唯一考えられる理由は、稲村ケ崎の砂鉄です。しかも、そこには白山神社が鎮座しているのです。

翻って、上郷町の長者ケ久保はどうでしょう?「歴史の宝庫 本郷台周辺を巡る」で書いたように、すぐ近くには上郷深田製鉄遺跡がありました。

地名が同じで、産鉄が共通し、白山神社も共通するとなれば、上郷町における長者ケ久保の長者とは時忠を意味しているはずです。それをさらに裏付けるかのように、現在の白山神社鎮座地の背後にある瀬上市民の森にも、秦野と同じ漆窪と言う地名が見られます。

俄然話が面白くなってきました。染屋太郎大夫時忠は秦野、鎌倉の由井、横浜市栄区上郷の三カ所に拠点を持っていたと思われるからです。しかも、秦野の漆窪に近い曽屋には白山神社が鎮座しています。

以上を纏めると、染屋太郎大夫時忠と秦氏、白山神社はセットになっていると判断されます。(当初の白山神社は秦川勝が創建した仙福寺の近くに鎮座しており、由井里の白山神社を結ぶラインは鎌倉の鬼門ラインに当たっていました)

一点気になったのは、上記したいずれの地域も、いわゆる被差別との関連が窺えることです。つまり、神奈川においては染屋太郎大夫時忠と秦氏、白山神社、被差別がセットになっているのです。

被差別民は鎌倉において重要な役割を果たしています。例えば、極楽寺の長吏(被差別民の頭)は鶴岡八幡宮の例大祭において、行列の先導役を務め、現在御霊神社の祭礼として催される「面掛行列(昭和の初めまで非人行列とも呼ばれた)」も、当時は鶴岡八幡宮の例大祭において行われていました。彼らは鎌倉幕府の創始者である源頼朝と関係が深かったことから、このような立場を得たものと思われます。

これらから、秦氏と時忠はどんな関係にあったのか、時忠は鎌倉の創始者であるだけでなく被差別の発生にも関与していたのではないかなど、新たな疑問が湧き上がってきます。

染屋太郎大夫時忠は別名漆屋でもあることから、漆塗りを生業とする一族の出かと思われますが、彼の時点では産鉄の特殊技能集団を配下においていたと想定され、ここから秦氏との関連が出てきたものと推測されます。

時忠と被差別との関係は、資料がないため読み解くのは難しそうです。時忠というより、秦氏と産鉄系特殊技能集団、白山神社が被差別に連結するルートとなっているような気もします。いずれにせよ、鎌倉の創始者である染屋太郎大夫時忠の背後には、深い謎と闇が広がっていたのです。

ちなみに長者窪、長者久保といった地名は、なぜか青森、秋田、福島、群馬など東北地方に多く見られます。時忠が東北方面に関与していた可能性も浮上してきますね。


鎌倉の始祖染屋太郎大夫時忠


相模国鎌倉郡の各村誌には、「文武天皇から聖武天皇の神亀年間に至るまで、藤原鎌足の玄孫である染屋太郎大夫時忠が鎌倉に居住し東八ヶ国の総追捕使として東夷を鎮ず」と書かれています。長谷にある鎌倉最古の甘縄神明神社(甘縄神明宮)は、草創が行基で和銅3年(710年)、創建は染屋太郎大夫時忠とされています。(行基は鎌倉でしばしば名前が出ますが、東国に来た事実を示す文献はありません)

上記の記事は時忠が鎌倉において創始者的な立場にあることを示しています。では、江ノ電長谷駅から甘縄神明神社に向かいましょう。

018_convert_20100918080352.jpg
途中にある鎌倉彫のお店です。人力車が横に置かれ風情があります。

033_convert_20100918080940.jpg
出桁造りの商家。長谷にはまだこうした商家が数軒残っています。

019_convert_20100918080507.jpg
甘縄神明神社の社殿は急な石段の上にあります。

05_convert_20100920105633.jpg
拝殿です。

024_convert_20100918080719.jpg
本殿。

07_convert_20100920105751.jpg
境内秋葉神社の横に鳥居があり山に登ると小さな祠が…。

09_convert_20100920105919.jpg
祠です。これが時忠かも…。


染屋太郎大夫時忠の解説石板は神社から離れた住宅街の中にあり、やや見つけにくい。場所は、鎌倉文学館の信号から海側に向かい10数メートル進んだ右手となります。

04_convert_20100920105503.jpg
解説石板。

文字が薄れ見にくいので、石板の内容を再度以下します。
「染屋太郎大夫時忠は藤原鎌足の玄孫(やしゃご)に当り南都東大寺良弁僧正の父にして文武天皇の御宇(697‐707)より聖武天皇の神亀年中(724‐728)に至る間鎌倉に居住し東八箇国の総追捕使となり東夷を鎮め一に由比長者の称ありと伝へられるも其事蹟詳ならず 此處の南方に長者久保の遺名あるは彼の邸址と唱へらる 尚甘縄神明宮の別当甘縄院は時忠の開基なりしと云ふ」

時忠は謎の人物とされ実在したかどうか定かではないのですが、『大山縁起絵巻』(真名本)には、「良弁者相模国鎌倉郡由伊(井)郷人也、俗姓漆部氏、当国良将漆屋太郎大夫時忠子也」と、東大寺初代別当の良弁に関連して書かれています。

『東大寺要録』においても、時忠は漆屋太郎大夫時忠となっています。漆部は相武国造に任じられた姓であることから、染屋太郎大夫時忠は相模の有力氏族の出であるのは間違いありません。

なお漆部直伊波という実在の人物がいて、神護景雲2年(762年)に相模宿禰姓を賜り、相模国造に任じられています。彼が時忠という説もあり、その名前は由伊の伊と波(波ですから鎌倉を連想させる)が合成されてできたような気もしますが、いかがなものでしょう。

時忠の生誕地は鎌倉極楽寺の由井あるいは秦野の大住郡漆窪と考えられ、大住郡は大隅郡とも表記するのですが、秦王国の秦氏は鹿児島の大隅国に移住しており、両者の地名の間には符合するものがありそうです。鹿児島と神奈川の間に秦氏の連絡網があったのかもしれません。なお大隅国に移住した秦氏は大隅八幡宮を708年に創建、正八幡宮を称しました。

大住郡漆窪は現在の秦野市北矢名付近と考えられ、漆窪や大夫久保の地名が見られます。また周辺には矢名以外に矢倉、曽屋などの地名が見られます。ヤハゥエ神のヤが含まれる地名が多いのは、秦氏の存在によるのでしょう。


古代の鎌倉


日本人の精神史に決定的な影響を与えたのが秦氏で、日本国の深源には彼らの存在がありました。秦氏のストーリーは宇宙の果てまで展開して終わったのですが、もう一度スケールを縮め、まだまだ謎めいたものが数多くありそうな鎌倉の成り立ちや、相模国における秦氏について、数回にわたり見ていきたいと思います。なお、「相模国の秦氏」で既に論じた内容と重複する部分が出るかもしれませんが、この点はご了承ください。

まずは鎌倉の始まりから……。

最初に鎌倉の名前が出てくるのは、「古事記」の景行天皇の段で、「ヤマトタケルの子孫である足鏡別王は鎌倉別の祖なり」とあります。鎌倉別の「別」とは貴人が地方に下ってその地を治めることを意味するのですが、景行天皇の御世に鎌倉の地名があった訳ではなく、実際にはずっと時代が下ることになるのでしょう。和銅5年(712年)に書かれた「古事記」から読み取れるのは、少なくとも8世紀前半には鎌倉の地名が存在していたという点です。

大和朝廷時代、相模国には師長国造(しながこくぞう、酒匂川流域周辺を治める)、相武国造(さがむこくぞう、相模川流域周辺を治める)、鎌倉別があったと考えられます。ちなみに律令制(701年)が成立して後、相武国造は高座郡と大住郡に分かれたとされます。相武国造は以下Wikipediaより引用。

相武国造(さがむのくにのみやつこ・さがむこくぞう)は相模国東部を支配した国造。
伊勢津彦。出雲神の子で、建御名方命の別名とされる。成務朝に3世孫の弟武彦命が相武国造に任じられたという。『古事記』に相武国造が日本武尊を焼き殺そうとして逆に攻め滅ぼされた記述がある。
氏族 漆部氏。または壬生氏。姓はともに直。


相模国が初めて文献に出るのは、「日本書紀」天武天皇4年(675年)10月の条となります。面白いのは記事の内容で、「相模國言さく、高倉郡の女人、ひとたびに三の男を生めりとまうす」とあり、三つ子の出産について書かれていました。なお高倉郡は藤沢、茅ヶ崎の一帯を指しています。

神奈川県綾瀬市にて発見された木簡には以下のように記されています。
鎌倉郷鎌倉里□□□寸稲天平五年九月
天平5年は西暦733年で、木簡は鎌倉という地名が存在していたことを、文献以外で確認できる貴重な資料だと思われます。

次に「正倉院文書」の天平7年(735年)、「相模国封戸租交易」には、「鎌倉郡鎌倉郷のうち30戸分の田135町109歩の租の半分が、食封として高田王に与えられた」と記載があります。

以上から8世紀前半には鎌倉の地名は間違いなく存在していたことになります。

問題は、師長国造、相武国造と同時期に既に鎌倉別があったかどうかですが、それを確認できる資料はなさそうです。しかも相模国が文献に初めて出るのは675年。一方藤原鎌足の生没年は614年~669年とされています。

酔石亭主は鎌倉の地名由来の項で、藤原鎌足が鎌を埋めたので鎌倉となったという説を展開したのですが、鎌足以前に鎌倉別があったとすれば、この説は間違いとなってしまいます。ただそれを確定する史料はなく、相模国の名が文献に載る以前に鎌足は死去していることから、現時点では鎌足説はなおも有効としておきましょう。さらに相模国鎌倉郡の各村誌を見ても鎌倉別は出ておらず、村誌の編者に鎌倉別に関する認識がなかったと思われ、これも鎌足説を補強する材料となります。

また秦氏との関係が想定される天武天皇の時代に相模国の名が出てくるのは、何か象徴的なものがありそうな気がしてなりません。

注:本記事は「相模国の秦氏」のカテゴリに含めていましたが、カテゴリを「頼朝以前の鎌倉」に変更しました。

鎌倉の地名由来を考える 続編


鎌倉の地名由来に関してちょっと気になる点があり、金沢街道(六浦路)に沿ったエリアに行ってみました。まず浄妙寺に立ち寄ります。このお寺、山号は稲荷(とうか)山。正式には『稲荷山浄妙廣利禅寺』と言います。

047_convert_20100709134823.jpg
本堂です。

最初からお稲荷さんが登場するとは驚きです。秦氏や由井の民との関係も疑われそうな気配。詳しく見ていくと、浄妙寺の始まりは極楽寺という真言密教のお寺でした。極楽寺は由井の民の拠点であり、真言密教は空海、稲荷山は秦氏と怪しいメンバーがあっという間に勢ぞろいです。本堂右手の坂を鎌足稲荷神社の案内に沿って歩きます。すると鎌足稲荷神社の解説板が・・・。

083_convert_20100709135131.jpg
解説板です。やや読みにくいので、下記します。

大織冠(たいしょくかん)藤原鎌足公は乳児の時、稲荷大神さまから鎌を授けられ、以来、常にお護りとして身につけ、大神さまのご加護を得られました。大化元年(645)、中大兄皇子(後の天智天皇)らとの協力のもと蘇我入鹿を討って大願を成就された鎌足公は、翌大化2年(646)東国に向かわれ、相模国由井の里に宿泊されました。その夜、「あなたに鎌を授けて守護してきたが、今や入鹿討伐という宿願をなし遂げたから、授けた鎌を我が地に奉納しなさい」との神告があり、お告げのままに鎌を埋納し、祠を営んでお祀りしたのが、当神社の始まりです。鎌倉の地名は鎌足公が鎌を埋納したことによるとされています。

この内容が気になる点です。『鎌倉の地名由来を考える』、『鶴岡八幡宮の謎を解く』において藤原鎌足が鎌を埋めたのは現在の鶴岡八幡宮のある場所だと特定しました。一方浄妙寺の鎌足稲荷神社の解説板によると、浄妙寺のある場所に鎌が埋められたと読めますし、稲荷大神の出現は頼朝のケースと全く同じパターンです。

二つの説が真っ向から矛盾しているので頭を抱えたくなるのですが、矛盾しているものは矛盾しないように再構成することで問題を解決できるはず。そんな観点からこの謎に迫ってみましょう。

まずは産鉄との関連です。浄妙寺から川に沿って上流に向かうと青砥橋です。この場所には青砥藤綱邸があったので、橋の名に青砥と付けられたようです。青砥藤綱は皆さんもご存じと思いますが、川に10文を落とし、たいまつを50文で家来に買わせ、お金を探し出した人物です。また歌舞伎の白波五人男の中にも出てくるので有名ですが、実在の人物か疑わしいとされています。

そこで青砥だけに注目してみましょう。青砥とは天然砥石の中砥石のことです。この砥石で砥ぐのは鉄ですから産鉄系の匂いがします。さらに進むと十二所神社に至るのですが、この東側が鑪ヶ谷(たたらがや)というタタラ製鉄に関連した地名となり、朝比奈切通しを超えると金沢区に入り、こちらにも製鉄遺跡があります。

以上から抽出できるものがあります。浄妙寺は以前極楽寺と呼ばれ、一帯は谷戸地形であり、近くで砂鉄も産することから、極楽寺と基本構造を同じくする場所であると考えられます。しかも、浄妙寺から十二所辺りまでの一帯は大倉郷と呼ばれていたようです。

大倉と鎌足稲荷神社があり、極楽寺と相似した場所で、解説板にここが鎌を埋めた地だと書いてある以上、浄妙寺説はかなり有力になりました。けれども、鎌を埋めた場所の比定地が鶴岡八幡宮と浄妙寺の二カ所あっては、どちらが正しいのか悩むところです。

これはあくまで酔石亭主の直感なのですが、浄妙寺は違うような気がしてなりません。鎌足稲荷神社を見ても、雰囲気的にここが鎌を埋めた場所だとは思えないのです。

080_convert_20100709134947.jpg
鎌足稲荷神社です。

では、浄妙寺の近くに可能性のありそうな場所がないでしょうか?そこで、浄妙寺から滑川に沿って下流へ300mほど歩きます。すると、鎌倉最古の寺杉本寺がありました。しかもです。このお寺は大蔵山と号します。もしかしたら鎌を埋めたのは杉本寺かも…ということで、急な石段を登り杉本寺の本堂に向かいましょう。以下Wikipediaより引用。

杉本寺(すぎもとでら)は、神奈川県鎌倉市二階堂にある天台宗の寺院。山号は大蔵山。本尊は十一面観音で、坂東三十三箇所・鎌倉三十三箇所の第1番札所である。鎌倉最古の寺とされている。この寺は、天平6年(734年)行基が十一面観音を安置して創建したのに始まると伝えられる。
                        

090_convert_20100709135258.jpg
杉本寺です。

杉本寺は大蔵山観音院杉本寺と称するのですが、それは天平3年(731年)行基が大蔵山において観音様をお祀りしようと発願し、十一面観音を自ら彫り安置したことに由来しています。

天平6年(734年)には光明皇后が右大臣藤原房前と行基に命じ、東国安寧のためのお堂を建立させます。行基は秦氏と関係が深い人物ですから、ちょっと匂ってきました。また杉本寺の中興の祖である慈覚大師円仁は、851年(仁寿元年)にこの寺において自作の十一面観音を祀りました。実はこの円仁も気になる人物です。

円仁はなぜか摩多羅神と深い関係を持っています。彼は東洋のマルコポーロとも称される人物で、唐に渡りかの地でおよそ9年を過ごし帰国するのですが、帰国の船の中で順風を祈ると摩多羅神が出現、この神を日本に招来したとされます。

帰朝後円仁は摩多羅神を常行三昧堂の守護神として祀りました。円仁は後に摩多羅神を秦氏の広隆寺に移したとされるのですが、摩多羅神の本来の姿はミトラ神=弥勒菩薩であり、弥勒菩薩は既に広隆寺に存在しています。

ミトラ神=弥勒菩薩=摩多羅神の関係と、それに係わる秦氏の恐ろしさを何かの機会に知った円仁は、慌てて摩多羅神を広隆寺にお返しした、というのがこの話の真相だと思われます。

一方藤原鎌足は没後、桜井市の多武峯(とうのみね、現在の談山神社)に移されて祀られます。そして多武峯の常行堂には摩多羅神が祀られているのです。『多武峯縁起絵巻』によると、鎌足が生まれたときに鎌をくわえた白い狐が現われ、生まれた子の足元に置いたため、その子を「鎌子」と名づけたとのことです。秦氏すなわち摩多羅神を介して藤原鎌足、円仁、源頼朝が連結されてしまいました。

そして光明皇后ですが・・・、彼女は藤原鎌足の子である不比等の娘です。いよいよ杉本寺が怪しくなってきました。おじいちゃんに縁のある場所にお堂を建てたいと思う孫娘の気持ち、わかりますよね。

光明皇后は奈良の大仏を建立した聖武天皇の母で、東大寺の正倉院にはこの二人にゆかりの品が数々収められています。その中に、白瑠璃椀(ガラス製の椀)があるのですが、これはササン朝ペルシアの古墳から発掘されたものと同一です。また、正倉院には酔胡従面や漆胡瓶などササン朝ペルシア由来の品々が数多く収蔵されています。

001_convert_20100709134547.jpg
白瑠璃椀です。

やや褐色で透明なカットグラスです。ハニカム状に全面カットされ実に見事です。

003_convert_20100709134646.jpg
底面もカットされています。

どのようして白瑠璃椀の写真を撮ったかって?正倉院を管理する宮内庁に頼み込んでお借りしたのですよ…なんてことは絶対に不可能。これは酔石亭主所有の品です。当時の製法を用いて忠実に再現されたもので、実物に遜色ありません。

続日本紀(しょくにほんぎ)には聖武天皇が天平8年11月3日に、波斯(はし=ペルシャ)人・李密翳(りみつえい)らに位を授くることあります。李密翳は天平8年(736年)に遣唐使船で日本に渡来した人物で、光明皇后のアドバイザー的な役割を果たしたようです。彼は景教徒(古代キリスト教の教派)という説もあり、秦氏景教徒説(これが正しいとは思いませんが)とも接続する部分があります。

光明皇后は医療施設である施薬院や貧しい人に施しをする悲田院を設置したのですが、実は忍性が極楽寺に開設した施設は光明皇后の施設と思想的に直結しており、その底流には由井の民に接続するものがあります。ちなみに忍性の生没年は建保5年(1217年)- 乾元2年(1303年)。

以下Wikipediaからの引用です。

極楽寺の実質的な開祖である忍性が当寺に入寺したのは文永4年(1267年)のこととされている(『忍性菩薩行状略頌』)。極楽寺の古絵図を見ると、往時の境内には施薬院、療病院、薬湯寮などの施設があり、医療・福祉施設としての役割も果たしていたことがわかる。


忍性は行基ゆかりの寺で修業していますし、聖徳太子信仰も受け継いでいたようです。行基も聖徳太子信仰も秦氏に関係が深いですね。

また、浄妙寺の場合稲荷山ですが、杉本寺は大蔵山で、どちらに鎌を埋めたかと聞かれれば、杉本寺に軍配を上げたくなります。

杉本寺には白山大権現まで鎮座しています。

092_convert_20100709135410.jpg
白山大権現の鳥居です。

093_convert_20100709135636.jpg
小さな社です。

社の背後にはやぐらがあって、社の右後ろに見える灯篭のような石塔が白山大権現です。白山と言えば由井の民を連想しますが、白山大権現についてWikipediaは下記のように説明しています。

白山権現(はくさんごんげん)は白山の山岳信仰と修験道が融合した神仏混合の神であり、十一面観音を本地仏とする。白山大権現、白山妙理権現とも呼ばれた。神仏分離・廃仏毀釈が行われる以前は、全国の白山権現社で祀られた。養老元年(717年)修験道の泰澄が加賀国(当時は越前国)白山の御前峰に登って瞑想していた時に、緑碧池から十一面観音の垂迹である九頭龍王が出現して、自らをイザナミ(伊弉冊尊)の化身で白山明神・妙理大菩薩と名乗って泰澄に顕われたのが、白山権現信仰ならびに白山修験場開創の由来と伝わる。


ちなみに泰澄は秦氏の出だと言う説もあります。これが正しいかどうか酔石亭主には判断できませんが、少なくとも白山神社の背後に秦氏がいることは間違いなさそうです。

以上、杉本寺にぞろぞろ登場する関係者を勘案すれば、鶴岡八幡宮以外のもう一つの伝承地はこちらの可能性が高そうです。ただ杉本寺と浄妙寺は近接しているので、両者を一括りにして考えた方がいいのかもしれません。(以降その観点で進めます)

鶴岡八幡宮と杉本寺のどちらにも大蔵という地名があり、杉本寺の近くには鎌足が鎌を埋めた伝承もあることから、まるで鶴岡八幡宮と杉本寺の両者が対になっているような印象を受けてしまうのですが、いずれにせよ、この問題はきちんと整理しておく必要があるでしょう。

6月30日の『鎌倉八幡宮の謎を解く』において、藤原鎌足が鎌を埋めた松が岡とは『新編鎌倉志』によると、鶴岡八幡宮境内にある丸山稲荷明神の旧名松ガ岡明神のあった場所としています。と記載しました。

6月22日の『鎌倉の地名由来を考える』においては、『詞林采葉抄』に『鎌倉山とは、鎌を埋める倉という言葉である。途中略。鎌を今の大蔵の松が岡に埋められたことより鎌倉郡という』と書かれている旨記載しました。

両者に共通するのは松ガ岡ということになります。丸山稲荷社の前身が松ガ岡明神であり、杉本寺にも浄妙寺にも松ガ岡がない以上、鎌を埋めた場所は現在の鶴岡八幡宮とせざるを得ません。そもそも鶴岡八幡宮は大倉山にあり、大倉山に鎌を埋めたから鎌倉という地名が成立したと考えるのは納得できる話です。

また、鎌倉幕府の中心である鶴岡八幡宮が鎌倉の地名由来の場所であることは、論理的にも整合していると思われます。ちなみに、鎌倉という地名は『古事記』景行天皇の段に鎌倉の別という記述がみられることから、遅くとも和銅5年(712年)の『古事記』成立時点では鎌倉という地名が存在していたことになります。藤原鎌足の生没年が推古天皇22年(614年)- 天智天皇8年(669年)ですから、整合性もありますね。

以上より、鎌足が鎌を埋めたのは杉本寺・浄妙寺であるという説は却下せざるを得ないのですが、ではなぜ杉本寺と浄妙寺周辺に、大蔵山という地名、鎌足が鎌を埋めた伝承、秦氏や由井の民に関連する事項が色濃く存在しているのでしょう?

この矛盾に合理的説明を与えられなければ、問題に決着がついたとは言い難いですね。

そもそも鎌足稲荷神社はいつ創建され、何を物語っているのでしょう?鎌足は日本最強の氏族藤原氏の創始者であり、稲荷神社の稲荷大神は謎の一族秦氏の神です。両雄並び立たないはずのメンバーが手を握った形で一つの神社を成立させているとは、あまりに不可解です。

これは酔石亭主の独断ですが、鎌足稲荷神社は平安時代初期かそれより少し以前に創建されたのでは、と推測しています。なぜなら、この頃秦氏は平安京に都を移転させるため、藤原氏の血脈の中に入り始めているからです。

その象徴として鎌足稲荷神社はあったと考えると、上記の時代に創建されたと見るのが妥当に思えるのです。(鎌足の時代も、秦氏を象徴する稲荷大神=白狐と鎌足の関係が見られますが、まだ関係があるだけという段階にとどまっていたと考えられます)

それにしても、鎌倉に幕府が開かれることはその何百年も前に決まっており、事前設計もなされていたという雰囲気がますます濃厚になってきませんか?

今まで検討してきた点を総合すると、杉本寺・浄妙寺周辺エリアの立ち位置が見えてきます。佐助ガ谷は鶴岡八幡宮に万一の事態が起きた場合の御旅所(現代で言えば核攻撃にも耐えうる地下シェルターのようなもの)でした。

杉本寺・浄妙寺も同様の視点から見てください。この周辺に鎌倉という地名が成立するに必要な大蔵山があり、鎌を埋めた伝承があり、秦氏や由井の民、頼朝に関連する事柄が色濃く残っていると言うことは、鶴岡八幡宮を幕府の中心にできなかった場合に備え、そのバックアップをこのエリアに用意していた、ということです。

つまり、鶴岡八幡宮が鎌倉幕府の中心にならなかったら、杉本寺・浄妙寺が幕府の中心部となるよう事前設計されていたのです。そう考えれば、この周辺に怪しいメンバーが集結し、鎌倉の地名由来に関連する事柄があるという矛盾が、矛盾のない形で再構成できるのです。


ちなみに、元八幡である由比若宮から杉本寺のある大蔵山に線を引くと、由井の民の白山神社から鶴岡八幡宮に引いた線と平行になります。これは偶然ではないでしょう。

鎌倉幕府成立前と成立後のいずれにもバックアップが設置され、事前設計されていたとは驚くべきことです。この種の作業・仕掛けは秦氏の得意とするところですが、実は別の時代において、彼らはこれよりはるかに緻密で複雑な仕掛けを事前設計しています。それらの謎に関してはまた別の機会に検討していきましょう。

以上で鎌足が鎌を埋めた場所の問題に最終決着がつきました…と言いたいのですが、どんなものでしょう。浄妙寺では納得できないし、杉本寺にしても果たして行基や円仁が本当に訪れているのか、確証はありません。浄妙寺と杉本寺を一括りにするのもやや強引ですし…。

ただ、行基や円仁が来ていないにしても、この場所に彼らの伝承が残っているのには、それに見合った何かが必ずあるはず、とも思います。いずれにせよ、まだまだ論考に無理やよく練られていない部分がありそうなので、ご意見やご批判を頂ければ幸いです。
プロフィール

酔石亭主

Author:酔石亭主
FC2ブログへようこそ!

最新記事
カテゴリ
最新トラックバック
月別アーカイブ
カレンダー
07 | 2017/08 | 09
- - 1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30 31 - -
天気予報

-天気予報コム- -FC2-
最新コメント
FC2カウンター
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
QRコード
QRコード
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる