江島縁起再検討


「ワンダーアイランド江の島の謎を解く その1」にて江島縁起の解読に挑戦し、5頭竜が棲んでいたのは柏尾川流域の深沢で、竜が初めて出現して人を喰ったのは柏尾川が片瀬川となって相模湾に注ぐ辺りだと比定しました。

しかしそうすると矛盾する部分が出てきそうで、もう一度じっくり読み込んでみました。以下読みやすい岩本院所蔵の江島縁起にて関連する部分を抜粋します。内容は江島神社の江島縁起とほぼ同じですが、表現は微妙に異なっています。(大差はありません)

『いにしへは武蔵相模の境に、鎌倉海月のあひたに長湖あり。そのめくれる事四十余里、是を深澤といふ。爰に竜王有りてすめり。

この時五頭竜初て湖水の南山谷津村の湊にいてゝ人々をくらふ。こゝを初喰澤となつく。西岳を江野と云。此澤は湖塘の水門、南海の入口也。谷前に長者あり、子十六人うめり。毒蛇の為にのまれぬ。悲歎懊悩して、旧宅をはなれて西里にうつる。是を長者塚といふ。竜邑里にみちて人をのむ事やます。郷党みな他所へうつる。世これを子死越といふ。』


まず武蔵国と相模国の境という観点から見ると、相模国鎌倉郡と武蔵国久良岐郡(現在の横浜市)のほぼ境辺りを柏尾川が流れています。また40余里の湖があって、ここが深沢と呼ばれ、竜が棲んでいたとあり、これだけの湖に相当する場所は、現在の柏尾川流域の手広から梶原一帯であろうと想定されます。

ちなみに、律令制度時代の1里は5町に相当し、約450mで、40里は18kmになります。現在の柏尾川の全長は、横浜市戸塚区柏尾町から藤沢市川名で境川と合流するまでの約11km。これに河口までを加えると、14km程度になり、湖水は柏尾川を指しているとほぼ断定できそうです。

続いて縁起には、5頭竜は湖水の南山の谷、津村の湊に初めて出現し、人を喰ったので、ここを初喰沢と名付けたとあります。酔石亭主としては、柏尾川は境川と藤沢市川名で合流して片瀬川となり、江の島の北側で相模湾に注ぎ、河口近くの龍口明神社も津村に属しているので、津村の湊とは片瀬川の河口と比定しました。

しかし次の、「西岳を江野と云」、という一文で矛盾を生じます。片瀬川河口の西は鵠沼の平地であり、山はないからです。

そこで、津村の湊を腰越の小動岬の西に注ぐ神戸川と比定すれば、西岳が竜口山を指し矛盾は解消されます。

ところが縁起では、「この沢(初喰沢)は湖の水門(=湊)で、南の海の入り口」だと続きます。神戸川は柏尾川と接続しておらず、湖の湊にはなり得ません。こちらが立てばあちらが立たずの記述に悩まされるところですが、矛盾は一旦横に置き次に進みます。

谷前の長者は子供を喰われ旧宅のある津村を去って西の里に移り住みます。また郷党もみな他所へ移ったので、世に子死越といふ、となります。津村が片瀬川河口であるとすれば、そこから西に移っても子死越(腰越)はありません。この部分において書かれた津村は、間違いなく神戸川上流域となるはずです。

確認のため、ボロボロになった昭文社の地図(鎌倉市 1/10000)をもう一度見直してみました。深沢から鎖大師を過ぎ、山を越えると、湘南モノレール西鎌倉駅に出るのですが、駅の左右に津村という地名があり、その右手の新興住宅街の中(蟹田谷)に昭和53年に遷座した龍口明神社があります。鎖大師の先には切通しもあります。

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龍口明神社。まだ新しく、清々しい雰囲気の社です。

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賽銭箱。ここにも三つ鱗紋(酔石亭主にとっては三神山紋)がありました。

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解説板。

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谷戸坂切通しです。

深沢から津村・腰越村・竜の口を経て江の島に至る江の島道の切通しです。残念ながら切通しに立ち入りはできません。柵の外から撮影したものです。


大きな地図で見る
グーグル地図画像です。

地図画像の左下の河口が片瀬川河口で、腰越と書かれた場所が神戸川河口です。地図の西鎌倉駅周辺が津村の中心に当たります。その右手が昭和53年に遷座した龍口明神社です。

昭文社の地図では、神戸川の下流部から海岸沿いが腰越、中上流部の川の右手が腰越・津、左手が津西となっています。遷座した龍口明神社の所在地や地図の記載から判断すると、津村の中心は神戸川流域の上流部になるのは間違いありません。

そこで、津村の湊を片瀬川河口ではなく神戸川河口と比定すると、竜が出現したのは神戸川河口とならざるを得ません。この場合、西鎌倉駅付近の津村の郷党が(川に沿って下り)村を離れたので子死越(腰越)と呼ばれた―とするなら位置関係の不自然さはなく、また竜の出現場所と子供を喰う場所(=津村)も川の河口と上流部で関連性があり、縁起の内容にぴったり符合するのです。

深沢・柏尾川と津村・腰越・神戸川が真っ向から矛盾した記述になり、誠に悩ましいことになりました。これらを矛盾なく連結させるには、深沢にいた竜が南山を越えて、山向うの谷である津村(神戸川)に現れたとしたらどうかと考えました。

しかしこれでも、初喰澤は湖水(=柏尾川)の水門(=湊)と書かれていることから、矛盾から逃れられません。全部のストーリーが神戸川流域のことであるとしても、武蔵相模の境であるという記述、湖水は40余里であるという記述に矛盾します。

現時点での結論としては、江島縁起には深沢・柏尾川流域と津村・腰越・神戸川の両地域が混在して書かれているとするしかなさそうです。現存する縁起は全て写本であるため、この種の混同が起きたのかもしれません。

江島縁起を矛盾のない形で読み解くことはできなかったのですが、頭の体操としては大変に面白いものでした。


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ワンダーアイランド江の島の謎を解く その5


今日は江の島と対になっている龍口寺の謎を見ていきます。

まず、龍口寺境内に鎮座する稲荷社の写真です。

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稲荷社。

小さな社の石段に石板が置かれ、玉子を置くな、と書かれています。石段と石板は同じ材質であることから、いたずら書きではなさそうです。だとすれば、お寺の方あるいは社を信仰される方が、明確な意図を持って置いたと推測されます。では、どのような意図でこの注意書きが置かれたのでしょう?意味がわかる人は手を挙げてください。

多分、ほとんどの方はわからないのでは、と思います。酔石亭主も同様ですが、意味不明な事柄は何としてもその意味を解き明かしたいのが人情というもの。ということで、いつものようにあれこれ調べた上で考えを纏めてみました。以下簡単にご説明してみましょう。

蛇は玉子を丸のみします。そのため、蛇神を祀る社では願い事を丸のみしてくれるという俗信から、生卵をお供えする例がしばしば見られます。例えば三輪山に鎮座する大神神社の大物主は蛇神ですから、生卵が供えられます。

龍口寺は竜伝説が濃厚に残り、龍口明神を祀る旧社も寺の隣にあります。蛇も竜も同じ眷族ですから、お寺の稲荷社に竜が祀られていると勘違いした人が、過去に玉子をお供えしたのでしょう。稲荷社に油揚げならともかく、玉子ではまるで見当違いになってしまうので、このような注意書きが置かれたものと推察されます。

謎が解けてすっきりしましたか?でも、こうした俗信の奥底にはもっと深い意味があるはずです。上記の解釈だけでよしとする訳にはいきません。では、この話の深源はどこにあるのでしょう?以下はあくまで酔石亭主の独断と言うことでお読みください。

韓国には脱解王(新羅の四代目の王)に関する伝承があって、内容は概ね以下の通りです。

倭国(日本)の東北一千里にある多婆那国(またの名を竜城国という)の王妃が妊娠して大きな卵を生んだ。王は卵を捨てろと命じたが、王妃は卵を箱に入れて海に流した。やがて箱は辰韓に流れ着き中から一人の男の子が出てきた。箱を開き、殻を割って出てきたことから男の子は「脱解」と名付けられた。男の子は、「私は龍城国の王子で、龍城国はここから遙かに遠い日本の北東一千里にあります」と言った。彼は後に新羅4代目の王となった。
男の子は住むに良い場所を探していた。ある峰に瓠公の家があり、彼は赫居世の時代から王に仕える重臣だった。彼は瓢箪に乗って日本から海を渡ってきたので瓠公と呼ばれていた。脱解王はうまく瓠公をだましその家を乗っ取った。

多婆那国は丹波国と考えられ、丹波は浦島伝説発祥の地でもあります。よって丹波の竜城つまり竜宮城から箱(うつぼ舟と同じ)に入った卵(瓢箪と同じ)が流されて、新羅の地に漂着、中から出てきた男の子が新羅の脱解王になったと解されます。基本的は瓢箪が絡む死と再生のストーリーと同様ですが、問題は王が竜の血脈を引いていることです。

浦島伝説の鍵となるのはご存知のように玉手箱です。玉の入った手箱とは、まさしく脱解王が流された箱に等しいのではないでしょうか。

元伊勢の一つで豊受大神が伊勢に遷座した丹後の籠神社には、この地から一人の日本人が新羅に渡って王様になった、との伝承があります。そこで、籠神社という文字に注目ください。竹冠に龍となっています。丹波が竜の地であると理解できますね。

以上、竜伝説には卵(あるいは玉)が結びついていました。ですから江の島の岩屋内の竜も玉を掴んでおり、竜に玉は付きものとなっているのです。現代でもその意識は残っており、アニメのドラゴンボールが良い例になります。

従って、竜を祀る龍口明神社には、過去に卵が供えられたのでしょう。一方で、龍口寺全体が竜伝説の地であるため、寺の境内にある稲荷社にも卵が供えられ、それは困るということで、玉子を置かないこと、との注意書きが用意されたと推定されます。注意書き一つにも、日本と朝鮮半島を結ぶ奥の深い歴史が隠されていたのです。

ところで、山梨県の竜王町には玉幡という地名が見られます。玉幡は、明治になって西八幡と玉川での2村で豊明村ができ、後に玉幡村となったものですが、竜と玉、豊と幡があり秦氏との関係も想定できます。そもそも山梨県の巨摩郡(こまぐん)は高麗に由来しており、高句麗からの帰化人が多数居住していました。竜王町の竜王は、有富山慈照寺に湧く竜王水に由来するとの説もありますが、滋賀県の竜王町は竜伝説に由来していると思われ、山梨もその深源は竜族にあると推測します。

もう一つ不明な点が龍口寺にはあります。この地はかつて刑場だったため刑場跡の碑が建てられています。日蓮も危うくここで処刑されそうになりました。

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刑場跡の写真。

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刑場跡の解説板。

刑場跡自体に謎があるのではありません。下の写真にある御影石の石柱に注目してください。

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石柱。

『橘 結社』という文字が彫られています。これは一体何なのでしょう?結社などというからには、怪しい秘密組織なのでしょうか?あるいは、ゆい社と読ませているのでしょうか?調べてみると、横浜にあった組織のようで、龍口寺五重塔の第二層を寄進したのが橘結社でした。それ以外のことは何一つわかりません。なお、五重塔の竣工は明治43年(1910年)で今からちょうど100年前のこととなります。

そこでまず橘について調べてみます。

『日本書紀』によれば、垂仁天皇の御世、田道間守(たじまもり)が常世国(=豊の国=不老不死の国)に遣わされ、不老不死の果実である橘を持ち帰りました。橘にはまた、常世神という虫を生ずる樹木だとの伝承もあります。

富士川のほとりにおいて大生部多(おおふべのおお)が、この虫(芋虫)は常世の神であり、祭れば富と長寿を約束されるとして虫を祀ったそうです。秦川勝は民を惑わすとして、大生部多を成敗しました。また田道間守は『古事記』によれば天日槍の後裔となります。天日槍は新羅の王子で脱解王の子孫と考えられます。

天日槍は阿加流比売を追って新羅から渡来したのですが、阿加流比売にも卵生神話が見られます。酔石亭主が三神山と比定した香春岳には香春神社があり、ここに祀られている姫神は阿加流比売とも言われています。香春神社の神官は秦氏系の赤染氏ですが、彼らは常世連(とこよむらじ)の姓を賜っています。さらに橘氏の氏神を祀る梅宮大社の祝は月読祝で秦氏が担っています。

橘には様々な要素が混入しており整理できそうにありません。一応橘は秦氏の関与が濃いと見て、結が由井であれば、橘結社は秦氏と由井の民の合同組織のようにも見えますが、いかがなものでしょう?まあ、その可能性は0.001%程度でしょうか。

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日蓮の霊窟。法難の折に日蓮が入れられた土牢です。元々はやぐらだったのでしょう。

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もう一つ窟が。

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墓石を建てるため浅く削った崖に木の根が這い、5頭竜のようにも見えます。

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五重塔です。

江の島関連はこれでおしまい。

ワンダーアイラインド江の島の謎を解く その4


その1にて竜が棲む深沢は柏尾川流域と書きましたが、「吾妻鏡」には相模の国深澤里の大仏堂云々という記事が見られ、あの大仏の場所までが深沢となっていました。記事からすると、深沢郷は柏尾川流域から現在の笛田、常盤も含み長谷までと、広範囲にわたっていることになります。

通常、昔の里は山や川が境界となっているはず。それにも拘わらず、峠越えする手前と後のいずれもが深沢なので酔石亭主も混乱を来たしました。(単に勉強不足ということですが…)これを合理的に解釈するには、古くから峠を越える道があったので、深沢の範囲が広くなったとするしかないでしょう。今一つ納得できないのですが、いずれにしても長谷方面に竜が棲む40里の湖水など存在できません。ということで、江島縁起における深沢の位置については当初書いた通りで変更なしとします。

では江の島に戻りましょう。

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奥津宮です。

奥津宮の次に岩屋へと向かいます。

岩屋は手前の第一岩屋と第二岩屋があり、第一岩屋は中で左右に分かれています。では第一岩屋に足を踏み入れましょう。手渡されたろうそくの明かりを頼りに、というほどでもありませんが、奥に進みます。入口付近は作り物めいた感があるものの、次第に信仰の場である岩屋本来の雰囲気が強くなっていきます。左側の洞は胎蔵洞と呼ばれています。

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胎蔵洞の行き止まりです。

その名の通り岩肌がやけにぬらぬらして、胎内あるいは女陰そのものの姿に見えます。自分は死んでも子孫はこの穴から再生するという、死と再生の最も原初的な信仰を表しているのでしょうか?女陰を見せた弁財天像と胎蔵洞との間には、明確な繋がりがあるようです。

次に右側の金剛洞に向かいます。胎蔵、金剛となると真言密教の影響も感じられます。金剛洞の突き当たりには石祠が置かれ、ここが江の島信仰の始まりの場所であると書かれています。

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石祠。

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石祠上の岩盤から植物がぶら下がって…。

暗闇の中、どのようにして光合成をしているのでしょう?

続いて第二岩屋へと足を向けます。あっけなく突き当たりに…。

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玉を掴んだ竜が置かれています。質感がソフビの竜を思わせ、やや有難味に欠けます。

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洞内から見た海。

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波蝕棚。

海蝕崖が波の浸蝕作用によって削られてできた平坦な岩床面を、波蝕棚と呼びます。関東大震災における江の島の隆起は約1メートルだそうで、震災前までは海中にあったと思われます。

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岩屋入口の断崖に萎びた大根のようなものが入って…。

触ってみると灰が固まったような石であるのは間違いないですが、どんな経緯で第三紀凝灰質砂岩にこの石が貫入したのかよくわかりません。誰かご存知の方はご教示ください。

         ―ワンダーアイランド江の島の謎を解く その5に続く―

ワンダ―アイランド江の島の謎を解く その3


前回、江の島に亀が多いのは蓬莱山である江の島を支えるため、と書きました。「では江の島のどこに亀がいるのか?」と疑問の声が上がるでしょう。江の島の亀については以下の写真を参照ください。

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中津宮近くの亀石。

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実際の亀。

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奥津宮の八方睨みの亀。

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解説板。蓬莱山を背負うと書いてあります。

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岩屋の遊歩道下の海中にいる亀。この亀は海中の岩を彫って作ったものです。

江の島のあちこちで見られる亀は、竜宮城とも関係が深い動物です。浦島太郎伝説によれば、亀を助けた浦島太郎は竜宮城に案内され、楽しい時を過ごし、戻ってみたら知る人は誰もおらず、玉手箱を開けたら白い煙が出て白髪の老人に変わり、既に三百年の時が経過していた、とされます。

だとすれば、江の島にも浦島伝説があるのでは、と思いたくなって見回すと、まず片瀬江ノ島駅は竜宮城そのものです。

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片瀬江ノ島駅。

瑞心門も竜宮ですね。

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もう一度瑞心門の写真。

竜には玉が付きものですが、龍口明神社の祭神は玉依姫です。浦島伝説こそ姿を消したものの、江の島には竜宮城に関連するキーワードが存在していると思われます。ちなみに、横浜には浦島伝説が残っています。

次に中津宮を見ていきましょう。

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中津宮です。朱色が実に鮮やか。

お隣の弁天堂(法隆寺夢殿を模した八角堂)内にかの有名な弁財天が鎮座しています。

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弁財天(弁才天)です。

撮影禁止なので、外に掲げられた写真を撮ってきました。(見られる写真ではありませんがご容赦のほど)この写真では琵琶を弾いていますが、実物は琵琶を持っていません。また弁財天の下には座布団が敷かれています。なぜかというと、ちょっとお見せできない部分を覆うためなのです。大和岩雄氏の『天照大神と前方後円墳の謎』(六興出版)には女陰を見せた弁財天の写真が掲載されています。

弁財天はインドのサラスヴァティー川を神格化した神です。日本においては銭洗い弁天に象徴されるように、お金が増えるという要素が強くなって弁財天と表記されています。また中世においては、頭に人首蛇身の像を乗せた宇賀弁財天像が作られました。なぜ宇賀神と弁財天が習合したのか不明ですが、両者合体により異様な神になったことは確かだと思います。

江の島は断層線に沿って海が深く入り込み、東と西に山が分かれたような状態となっています。

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切れ込んだ断崖。ちょっと怖いくらいです。

中津宮から奥津宮に行く途中には、出桁造りの商家が向かい合い、ずらっと並んだ桁が独特の形状を見せ魅力的な景観を作っています。

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商家の写真。

江の島には江戸中期の変わった庚申塔があります。

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庚申塔の写真。

この庚申塔は群猿奉賽像庚申塔と呼ばれ、何と36匹もの猿がそれぞれ異なった姿態を見せています。

        ―ワンダーアイランド江の島の謎を解く その4に続く―


ワンダーアイランド江の島の謎を解く その2


今回は江の島の成立に係わった有名人を見ていきます。とにかく大物ばかりというのが印象で、本当に彼らが江の島に来たのか疑わしくもあります。多分、江島神社の格を上げるためにこのような伝承が作られたのでしょう。

まず江の島を開基したとされる役小角です。彼は文武天皇4年(700年)4月に江の島を訪れ、金窟に参籠して天女の示現を拝しました。
役小角は修験道の開祖とされます。雄略天皇が葛城山を歩いていたとき、通行を妨げる人物がいて誰何したら「我は悪きこともひと言、善きこともひと言、言い離つ神、葛城の一言主大神ぞ」と大見えを切って、天皇を平伏させた神が一言主ですが、時代が下ると役小角に呪法で縛られてしまいます。神の零落と役小角の力量を物語る貴重な逸話と言えますね。

次に出てくるのが秦氏系とされている泰澄です。泰澄は元正天皇養老4年(723年)に来島。縁起によれば、一心に精進して生身の天女を拝したとされます。泰澄があまりにも真剣だったので、心を動かされた巫女さんが、私は天女だと言って一糸まとわぬ姿でお出ましになったのでしょう。泰澄については以下Wikipediaを参照します。

泰澄(たいちょう、天武天皇11年6月11日(682年7月20日) - 神護景雲元年3月18日(767年4月20日))は、奈良時代の修験道の僧。越前国麻生津(福井市南部)の出身。三神安角(みかみやすずみ)の次男。加賀国(当時越前国)白山を開山したと伝えられる。

泰澄に続いて登場するのが弘法大師空海になります。空海が実際に江の島に行ったのではなく、弘法大師信仰の広がりが江の島と関係づけられたのではないかと想像します。縁起によれば、空海は弘仁5年(814年)に島に渡り、金窟に参籠して7日目に天女が現れたとのこと。其体八臂具足相好光明猶如満云々とあり、よほどの美人巫女さんが生身の体を晒したのでしょう。

空海に続いて出てくるのが道智です。縁起によれば以下の通り。
道智が島に渡ると、毎日天女が現れ面倒を見てくれた。不思議に思った道智が、藤で作ったひもを天女の裾につけ、後をつけていくと、彼女は竜窟に入った。道智が後をつけたと知った天女は、供養したのにこんな難にあうのかと怒りの声を発した。竜女の怒りで暴風が起き、道智は島を追われた。それ以来島に藤は生えなかったとのこと。

この話は、『古事記』の三輪山伝説に似通った部分があります。三輪山伝説は、玉依姫が孕んだので、父母が男の衣の裾に糸をつけ後を追ったところ三輪山に至り、相手はこの山の神だったというものです。玉依姫は龍口明神社の祭神でもあり、三輪山の神は蛇神である部分、衣の裾に糸をつけて後を追うところが江島縁起とまるで同じですね。違っているのは男女が入れ替わっている部分です。

次が慈覚大師円仁で、彼は唐に渡り帰国の船中で摩多羅神が出現、日本に勧請したとされる人物です。縁起によれば、仁寿3年(853年)に津村湊に至り、島に渡って修業し、妙音を発する天女を拝したとのこと。また弁才天よりお告げを受け、上之宮(現・中津宮)の社殿を創建したそうです。

縁起に登場するのは日本を代表する偉大な人物ばかりですが、皆女性には弱いらしく、天女様の前でメロメロになった様子が見て取れますね。縁起に出てくる天女は、いわゆる神殿淫売に類する存在と思われ、大和岩雄氏の『天照大神と前方後円墳の謎』(六興出版)に詳しいのでご参照ください。

寿永元年(1182年)には源頼朝の祈願により文覚が弁才天を勧請したとされます。中世における江の島信仰のスタートと言えましょう。

まだまだ著名人も出てきますが、切りがないので人物伝は一応終了し、江の島に足を踏み入れましょう。江の島は境川から流入する土砂により陸側と連結された陸繋島となっています。島には幾つもの海蝕洞があって、これらの岩窟が信仰の対象となり、江島神社の創建へと繋がっています。

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江島神社解説板。

参道が尽きると急な階段があり、瑞心門を抜けた正面には童子を侍らせた天女を竜が見守る彫像が見られます。

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瑞心門。

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彫像。

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瑞心門から大鳥居、竜口山方面を望む。

汗をかきながら急な石段を上がると辺津宮に至ります。

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辺津宮前の茅の輪くぐりです。罪けがれを祓う目的でくぐります。

ところで辺津宮のお賽銭箱は面白いですね。

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賽銭箱の写真。

でも、箱の形が巾着みたいで面白いと言っているのではありません。ここは誤解ないようお願いします。箱の中央を見てください。山を三つ重ねたような紋が彫られています。これが面白いというか興味をそそられるのです。江の島を歩いていると、この紋があちこちで目に入ります。

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石灯籠に彫られた紋です。

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もう一枚。

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もっとも新しそうな紋。

何だか、伊勢神宮外宮から内宮に至る参道の石灯籠に彫られたダビデの星(二つの正三角形を逆に重ねた六芒星)みたいな雰囲気が感じられませんか。伊勢神宮同様いわくつきの紋であれば面白いのですが…、実はこの紋には明確な由来があって、龍宮の解説板を見ればすぐにわかります。

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解説板。

解説板には、竜(大蛇)の落した三つの鱗を北条氏が家紋にしたとあり、そのいきさつは『太平記』に詳しく書かれています。ここまで明確だとそうなのかなと思ってしまうのですが、どうも紋の形状を見ると納得がいきません。そこで例によってあれこれ考えてみました。

まず三つ鱗紋は紋様に属しますが、紋様で動物由来は他に亀甲紋しかありません。亀甲紋の場合は亀甲の形がはっきりと出ていますが、三つ鱗紋は三角山が三つある形にしか見えず、形状からすると三つ鱗とするにはかなり無理があると感じられるのです。ではどう考えればいいのでしょう?

これは酔石亭主の独断ですが、江の島の紋は三つ鱗紋ではなく、徐福が不老不死薬を探し求めた東方の三神山、すなわち瀛州(えいしゅう),方丈(方壺),蓬莱(蓬莱山)を紋様化したものとは考えられないでしょうか?江の島に亀が多いのは、蓬莱山である江の島を支えるためなのです。実際、江島五巻縁起には「慈覚大師が南海の霊嶋を望むに、嶋の中に三嶺あり。方壺瀛州蓬莱をはさんで三台にかなえり」と書かれています。

ただ、江の島は海蝕作用により東西二嶺あるようにも見えますが、三嶺あるとは考えにくく、江の島を蓬莱に見立てると、瀛州と方丈はどこにあるのかという疑問が湧いてきます。そこで江の島の灯台から撮った写真を見てください。

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写真。

瀛州が画像やや左手の竜口山、方丈が右手の小動岬とすれば、全部揃います。実際昔の写真だと竜口山が独立した島のようにも見えます。

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昔の写真。

以上より、江の島の三つ鱗紋は今後三神山紋と呼びましょう。(勝手に決め付けて済みません。一種の思考実験だと思ってください)

ちなみに、秦王国にある宇佐八幡宮の大神氏に連なる緒方氏も三つ鱗紋を家紋としています。これは大和大神神社の三本杉紋の変形とされますが、秦氏の神仙思想が影響して三神山紋に変化したと考える方がすっきりします。事実、彼らの父祖の地である豊前国の香春岳(かわらだけ)は見事な三連山となっているのです。(現在は石灰岩採掘により著しく変貌し、過去の面影はありません)なお大和岩雄氏は『日本にあった朝鮮王国』(白水社)で、香春岳は「秦王国」の天香山、と記しています。
      
         ―ワンダーアイランド江の島の謎を解く その3に続く―
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