鎌倉の谷戸を巡る その25


法性寺奥之院の敷地内には鳥居があり、扁額には山王権現と彫られています。

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鳥居。

鳥居を潜り急な石段を登ると、左手の山の上に謎めいた洋館が見えてきます。

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洋館です。木立に囲まれ、場所柄もあって怪しげな雰囲気が漂っています。

実際にお住まいのようで別に謎でも怪しげでもないのですが、三十数年前曼荼羅堂に行った際も確かあったと思います。日本において山の上の一軒家は珍しいですね。

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山王権現山頂からの眺望。霞んでいます。

奥之院に戻りお寺の墓地に向かいましょう。墓地の一角からは大切岸(おおきりぎし)が見渡せます。ここは日蓮上人の縁起にちなみ、お猿畠とも呼ばれ、猫の額ほどの段々畑もあります。一帯は鳥の鳴き声だけが耳に届き、まるで閉じられた別世界のよう。段々畑に至る道は見えず、耕作される方は、どうやってここに来るのかちょっと不思議な気もします。

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大切岸。

大切岸は鎌倉の防御遺構とされていますが、単なる石切り場と言う説もありこれが何なのかいまだに定まってはいません。ただ、石切り場なら平地に近い場所が幾らでもあるはずで、わざわざ山の尾根に近いところから切り出す必要性はないと思われます。とすれば、やはり防御遺構ということでしょうか。造られた目的が何であれ、大切岸は一見の価値がある場所と言えるでしょう。切岸に関しては以下Wikipediaより引用します。

切岸(きりぎし)とは、斜面を削って人工的に断崖とした構造で、斜面を通しての敵の侵入を防ぐために作られた。鎌倉時代から戦国時代にかけて造られた城、特に山城の周囲に多く、また鎌倉の周囲の丘陵斜面にも作られた。


墓地から名越切通しへは山道となります。途中にこんな岩窟が……。

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岩窟。

やぐらにしては縦長で明るい造りになっています。これが日蓮の隠れた岩窟かもしれません。

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山を人工的に切り落としています。切岸の造りかけのようにも思えます。

山道を上がると洋館の脇に出て、名越の切通しへと続いています。

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名越切通し。

道を遮るように大きな石が置かれています。人工的に置いたのか、あるいは道をつける際に出てきた自然石なのか、議論の分かれるところではあります。

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もう一枚。

近くには曼荼羅堂跡もあります。曼荼羅堂へは以前に行ったことがありますが、現在は非公開となっていて中に入れません。ここも異界的な別世界で、アジサイや花菖蒲の咲く頃は極楽のような美しい光景が広がっています。でもそれらは本来、生きている私たちのためのものではありません。咲き乱れる花々は、恨みや未練を残してこの世を去った死者たちの御魂を慰めるために植えられているのです。

などと思いつつ、洋館の脇に戻り大切岸方面に向かうとすぐ、山の上に二つの石廟が置かれています。市指定の文化財で、神社の石祠と異なり、異様に大きなサイズです。誰のものかは全く不明。

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石廟。これは大きい方の石廟です。

石廟の先は大切岸の上に出るのですが、逗子の眺望が見事です。ただ視界がやや霞んでおり、ご紹介できるような写真は撮れずじまいでした。大切岸の上は狭い尾根道になっています。

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大切岸上の尾根道。写真左側が大切岸の絶壁です。


大きな地図で見る
グーグル画像です。

画像下の小坪トンネルを抜ける道路が311号線で、法性寺へは画像下の端辺りで左折して横須賀線を渡り、渡ったと同時に左折して寺の谷戸に入ります。法性寺本堂と書かれた上の薄茶色の場所が大切岸で、妙行寺と書かれた辺りに洋館があり、妙行寺の左側の画像端に見える建物が火葬場です。詳細は画像を拡大してご覧ください。なお妙行寺とは終戦後小山白哲老師が曼荼羅堂跡に建てたお寺のことです。

今日の予定を終了し、車に乗って帰ります。小坪トンネルに入ると、トンネルの中を若い女性がこちらに向かい一人で歩いていました。随分勇気がある方だと思ってもう一度見ると…、おや、女性の姿が見えません。幽霊に出会ってしまったと思いましたが、車は前に進んでいるのですから見えなくなるのは当然です。

名越は、遠い過去から現在に至るまで葬送の地であり続けています。夥しい死者の印象が土地に刻印され、それが連綿と現在まで続き、名越に火葬場が建設されたのでしょう。この土地に幽霊情報が多いのは、敏感な方が土地に刻印された死者の情報を感知し、それが幽霊の形を取って見えたからだと思います。その方面の感度が鈍い酔石亭主では、見たくても見えませんが……。

帰りは若宮大路から由比ヶ浜に出て、海岸線を走りました。重苦しい雰囲気の漂う名越周辺と比較して、空と海のあまりの明るさに戸惑いも覚えます。けれども、由比ヶ浜も駐車場建設の際は、夥しい数の人骨が出土したそうです。以下Wikipediaより引用します。

1953年、鎌倉簡易裁判所用地で大量の人骨が発見され、1955年まで調査が行われ、900体以上の人骨が発見された。これらの人骨はほとんどが青年壮年の男性のもので、年齢や性別に関係なく戦いのものと思われる刀創・刺創・打撲創が散見された。また一部の骨には動物にかじられた痕跡もあり、また経文らしき漢字が墨書された頭骨もあった。これらによって新田義貞による掃討作戦の後に、死体が放置され、それを野犬化した闘犬により肉を荒らされた、またそれを僧侶が埋葬した、という事実が浮かび上がる。
また、最近では由比ガ浜地下駐車場を建設する際の調査で3000~4000体の人骨が発見された(由比ガ浜南遺跡)。由比ヶ浜は庶民の遺体放置の場ではあったが、この中には鎌倉での戦いにおける戦死者の骨もあるものと見られる。


滑川の河口付近は特に多く遺棄されたようです。そこまで考えてあれっ、と思ったのですが、滑川という名前には骨が含まれています。ひょっとしたら、この川の名は無数の人骨にちなんでいるのかもしれません。若者たちが遊ぶ明るい鎌倉の海ですが、その背後には無数の死者が重層している事実を忘れてはならないでしょう。

            ―鎌倉の谷戸を巡る その26に続く―
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鎌倉の谷戸を巡る その24


ようやく歩き回るのに適した季節となったので、鎌倉の谷戸巡りを再開し、一昨日は法性寺界隈を巡ってみました。法性寺は、逗子方面に向かい小坪トンネル(幽霊が出るので有名)を抜けた先を左折し、九木踏切を渡ってすぐの場所にあります。

ちなみに、九木踏切も白い服を着た女の幽霊が出るとかで、心霊スポット系のブログには詳しく取り上げられています。幽霊はともかく、事故が起きやすそうな踏切であることは確かで、近くには慰霊碑もあり、通行には十分な注意が必要でしょう。幸い酔石亭主は事故に遭うことも、幽霊を見ることもなく、無事通り過ぎました。

山門を潜り抜け、車から降りて歩きます。本堂から奥之院までは舗装された坂と急な石段が続き、年のせいか足がやけに重く感じられました。

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坂の上から谷戸を見下ろします。写真からも高度感が見て取れます。

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奥之院です。

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もう一枚。

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扁額。両山奥之院と書かれています。やや変わった名前ですが、理由は解説板に。

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解説板。内容は以下の通りです。

當山は文應元年(1260年) 八月二十七日、日蓮聖人、松葉ヶ谷草庵焼討御法難の砌(みぎり)、山王権現の霊應白猿の導くに任せ難を此の山腹の岩窟に避け給いし霊跡にして、猿畠山法性寺と号す また、大聖人の上足師孝第一日朗聖人の全身舎利を奉安する御廟にして、池上本門寺、比企ヶ谷妙本寺両山の奥の院と称す。

この解説板を読んで疑問が湧きあがりました。日蓮を導いた白猿とは誰なのかという点、また岩窟とはどこかという点です。まずは白猿から……。

日蓮が法難にあった際、彼を導いたのは山王権現の霊応(というか神の使い)とされる白猿でした。もちろん猿にそんな知恵はありませんので、実際には人間が導いているはずです。ではどのような人間が日蓮を避難させたのでしょう?

そこで山王権現に着目しました。山王権現とは日吉大社が祀る比叡山の地主神(=大山咋神)であり、日吉大社の神使は猿であるとされています。であれば、日蓮を救ったのは日吉大社系列の修験者あるいは行者ということになりそうです。でも、どのようなルートから日蓮と日吉大社が結びつくのでしょう?

日蓮は比叡山に登り天台宗を学んでおり、彼の教えのベースには天台宗がありました。そして、天台宗の広がりとともに日吉神社が各地に建立されています。ここに日蓮と白猿を繋ぐ回路があったのです。日蓮を導いた白猿とは、日吉大社系列の行者・修験者あるいは台密の行者でした。厳しい修業を積んだ彼らが、白装束に身を包んで峰から峰を軽々と越えていく姿は白猿そのものであり、猿に擬せられて当然と思われます。

つまりこの話は、日蓮が松葉ヶ谷の草庵で「立正安国論」を著して北条時頼に建白し、それに怒った他宗の信徒や僧侶によって草庵を焼き討ちされ、日吉大社系あるいは台密の行者・修験者の手引きで岩窟に逃げ延びたということでしょう。

次に日蓮が隠れた岩窟です。奥之院の脇には岩窟のようなやぐらがあります。

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岩窟です。中には五輪塔が…。

これが日蓮の隠れた岩窟と伝えられていますが、実は、安国論寺の裏山にも日蓮が逃れた岩窟がありました。Wikipediaによれば以下の通りです。

安国論寺(あんこくろんじ)は神奈川県鎌倉市大町(名越)にある日蓮宗の寺院。山号は妙法蓮華山。池上法縁。長勝寺・妙法寺と並び日蓮の鎌倉での布教の中心となった松葉ヶ谷草庵跡とされ、松葉ヶ谷霊跡安国論寺とも言う。開山は日蓮とするが、弟子の日朗が文応元年(1260年)に、日蓮が前執権北条時頼に建白した「立正安国論」を執筆した岩穴(法窟)の側に安国論窟寺を建てたのが始まりである。
その他、南面窟(松葉ヶ谷法難時に、白猿に導かれて避難した場所)や日朗上人荼毘所(日朗が出家剃髪した場所で荼毘に伏して欲しいとの遺言による)がある。


混乱させられますが、二カ所あるうちのどちらが日蓮の避難した岩窟なのでしょう?鎌倉において、人が長期間隠れるに適した自然の岩窟は存在しないはずです。いずれの岩窟もやぐらとして、あるいは修業の場として日蓮以前に人工的に掘られたものと思われます。ですから日蓮は、修験者の修業の場である岩窟に逃げ込んだのでしょう。

まず、松葉ヶ谷が安国論寺だとすると、その裏山の南面窟ではすぐに見つかってしまう危険性が大です。とすれば、法性寺の岩窟の方が安全度は格段に高くなります。また寺の背後には名越の切通しがあり、この地は鎌倉と外界を分ける境界となっています。

さらに法性寺周辺地域は、死者を葬る葬送の地であり、その意味でも異界的な要素が色濃く漂っています。言い換えれば、この一帯は極めて探索しにくい場所に当たり、死者に引導を渡す行者が隠棲していても不思議ではありません。

以上からすると、法性寺の岩窟が日蓮の隠れた場所と比定できそうです。ただここでも問題があります。そもそも法性寺は、日蓮が白猿に導かれ岩窟に入って法難を逃れたことから、弟子の日朗によって寺の建立が始められたものです。日蓮の重要な聖跡である岩窟に、誰かのお墓である五輪塔を置くとは考えられません。

法性寺の岩窟と五輪塔は、日朗のものとも考えられますが、日朗の庵所は奥之院手前の建物であり、五輪塔は鎌倉末期のものとされているようです。

どうもすっきりしませんが、現時点での結論としては、日蓮は日吉大社系あるいは台密系の誰かの手引きで、奥之院脇ではない周辺の岩窟あるいは行者の修業場所に隠れたとするのが妥当なように思えます。

            ―鎌倉の谷戸を巡る その25に続く―

鎌倉の谷戸を巡る その23


前回浄妙寺を訪問したついでに、報国寺のある谷戸にも寄ってみました。

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報国寺山門。

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解説板。

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苔と石段。

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巨大なやぐら。

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空に伸びる竹。

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竹をもう一枚。

報国寺を出て、脇の道を宅間ガ谷戸の奥に向かって歩きます。すると洋館が目に入ります。

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華頂宮邸の前庭です。

華頂宮(かちょうのみや)は、慶応4年(1868年)に伏見宮邦家親王の第12王子、傳経親王によって創設された宮家。1924年(大正13年)に断絶し、華頂侯爵家が祭祀を承継した。また、鎌倉市には1929年(昭和4年)に建設された華頂博信侯爵邸がある。1996年(平成8年)に鎌倉市が土地と建物を取得し、通称旧華頂宮邸として庭園部分が一般に公開されている。             上記はWikipediaより引用

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華頂宮邸の解説板。

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内庭より華頂宮邸。

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華頂宮邸テラスより庭と谷戸奥を望む。

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日本家屋。華頂宮邸に付属しているようです。

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華頂宮邸を出て谷戸を進むと、川が二股に分かれ、上にのしかかるような巨岩が。

         -鎌倉の谷戸を巡る その24に続く-

鎌倉の谷戸を巡る その22


今回は、鎌倉の地名由来で訪問した浄妙寺を別の角度から取り上げます。浄妙寺の右手脇の坂を登ると鎌足稲荷神社でした。

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神社よりの眺望。

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その戻り道で…。猫ちゃんに睨まれてしまいました。

浄妙寺の境内に戻り、左手のお抹茶を頂ける喜泉庵の脇を登っていきます。

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喜泉庵です。白砂の庭がまぶしい。

右側は墓地となっていますが、さらに登っていくと、左側に突如としてパラソルとテーブルが置かれた洋風の空間に出ます。ここは石窯ガーデンテラスの外庭。鎌倉のお寺には似つかわしくなさそうな開けた光景ですが、場面の一瞬の転換に、鎌足がどうのこうのとあれこれ考え込んでいたこちらの意識も、さっと転換させられてしまいます。

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外庭から目を転じると、立派な洋館建築が…。

この洋館、元々は大正時代に建てられた古い邸宅とのことで、興味もそそられます。喉も乾いたことですし建物の中に入ってみましょう。

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洋館のアプローチから見た外庭。

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洋館のエントランス。

室内は冷房が効いているのですが、オープンテラスの方が風を感じられそうで、そちらの席に向かいます。

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室内から外を。

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オープンテラス。白いパラソルが並んでいます。

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パラソルと庭。

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庭から見た洋館。

ねっとりした暑さはあるものの、空の広がりと庭の緑、木々の向うの山々しか視界に入りません。耳には、風がそっと揺らす木々の葉音や鳥の鳴き声が届きます。アイスコーヒーをオーダーし目を閉じると、あたかもバリ島のリゾートにいる気分。

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こんなスペースもあります。

もう15年以上も前になりますが、酔石亭主はアマンダリ、アマンキラ、アマンプリ、ダタイなどいわゆるアジアリゾートに行く機会を持つことができました。アマンキラのエントランス越しに見る海の絶景、アマンダリの、アユン川の渓谷に浮かぶようなエッジレスプールの光景に衝撃を受け、逆に日本のリゾートと称するものがいかに貧弱な存在であるかを思い知らされたものです。当時はまだ日本人ゲストも少なく、デッキチェアーに寝そべり優雅な時間を過ごすことができました。

日本のリゾートが同じレベルに達するのはいつになるのかと思っていましたが、まだまだのようです。優れたリゾートにするには、取り巻く自然と一体感のあるグランドデザインが必要なのですが、そんな場所がないという問題もありそうです。

しかし日本には古来より借景という手があったはず。NHKでも放映されていましたが、京都東山の別荘群は街中にあってもそれを感じさせず、自然に包まれたような風情は日本文化の粋を見せています。もちろん別荘の維持管理には莫大な費用と手間がかけられ、自然に見せていますが実際には徹底的に手が入ったものです。手が入ったものなのに、自然なように見せるところが何とも凄いですね。

酔石亭主は、別荘群の一つである野村別邸碧雲荘に海外のお客さんを案内したことがあるのですが、彼らはお寺にはさほど興味を示さなかったものの、この日本庭園には目を輝かせていました。(注:通常中には入れません)

野村別邸碧雲荘:野村財閥の創立者である野村徳七が近代最高の造園家小川治兵衛に作庭させたもので、建築物は数寄屋大工の北村捨次郎を起用。国の重要文化財に指定されています。

すっかりくつろいだ気分になって、浄妙寺を後にしました。

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本堂側から山門をパチリ。

              ―鎌倉の谷戸を巡る その23に続く―

鎌倉の谷戸を巡る その21


『鶴岡八幡宮の謎を解く』で歩いた折、気ままに撮った写真をご紹介します。

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若宮大路にぽつんと置かれた人力車。

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若宮大路沿いにある酒屋の三河屋さんです。出桁造りの堂々とした商家建築です。

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鶴岡八幡宮境内にある斎館の庭です。

斎館は国内外の賓客をおもてなしするところで、流鏑馬馬場に沿っています。苔の緑がしっとりと落ち着いた雰囲気を醸し出しています。この季節、埃っぽくなくて鎌倉散策には向いています。多少雨でも降っていた方が風情も増すでしょう。

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若宮大路幕府旧蹟の解説石板です。

鶴岡八幡宮の東側を南に下ってすぐの場所にあります。近くには大仏次郎旧宅が・・・。現代で言えば、鶴岡八幡宮が皇居で幕府が国会議事堂と言ったところでしょうか。そんな場所に居を構えられたなんて、さすがに大仏次郎ですね。

ところで、藤原鎌足は由井の里で霊夢を見て、鎌を鶴岡八幡宮のある場所に埋めました。その後鎌足は鹿島神宮に向かいます・・・。
彼の行程に沿って、由井の里の白山神社と鶴岡八幡宮を結ぶ矢の軸のラインをそのまま延長して見ましょう。エッと声を上げそうになりますが、何と鹿島神宮と直線で結ばれてしまいました。これって偶然でしょうか?偶然にしてはあまりにも出来過ぎています。

そもそも鎌足は『大鏡』によれば、常陸国の出身で鹿島に氏の神を住まわせたとされています。また藤原一族が祀る奈良の春日大社は、鹿島神宮の分霊を奈良に迎えて造立されました。鎌足の出身は大和国説と常陸国説の二説があるのですが、彼の鎌倉での行動を見る限り、常陸説を採用したくなります。

しかも、鹿島神宮は中央構造線の最東端部に位置し、境内にある要石は地震を押さえているとされています。また鹿島の地下には蛇紋岩の巨大な岩体があって、磁気異常を引き起こしているとのこと。古代の最強氏族である藤原氏も、秦氏同様気の力を知る一族だったのでしょうか?

急に話題を変えます。島津氏は秦氏に連なる惟宗氏の流れを汲み、子孫の惟宗忠久が源頼朝から島津荘の地頭に任じられ島津と称したのが始まりとされているのですが・・・、この忠久、頼朝の側室である丹後局の子であるとの説もあります。今となってはどれが真実か不明ですが、頼朝と秦氏の系統があらゆる場面でニアミス寸前にまで接近していたのは事実でしょう。

           ―鎌倉の谷戸を巡る その22に続く―

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