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信濃国の秦氏 その12

信濃国の秦氏
06 /01 2012

古代牧に対する秦氏の関与が一応確認できたので、大野牧に対して秦氏が関与している可能性も高くなりました。続いて所在地が不明とされている大野牧の範囲を見ていきましょう。「波田町の石造物編」に以下のような図がありました。

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図。

この図において上海渡の東に牧ノ内と言う地名が見られます。これは大野牧の範囲内を意味していると思われます。同様に、牧があった埴原には牧ノ内の地名が見られます。


埴原の牧ノ内を示すYAHOO地図画像。牛伏寺もあります。

もう一つの図を参照ください。

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図。

画像の左端に山形村とあり、唐沢があります。既に「大磯・高麗山の秦氏」で見てきたように「唐」が付く地名は秦氏との関係が想定されます。以上から大野牧は少なくとも梓川の南側、波田町の白山の麓より山形村一帯にかけて広がっていたと理解されます。

Wikipediaには「また、仁和寺文書でも、大野牧があった地区を大野庄と呼称するように変転している。現在の梓川のことは、この大野を流れていたことから、「古くは大野川と言っていたと思われる」」と書かれており、大野牧の広がりがどの程度であったかはさて置いても、波田町から南側(梓川の南側)一帯であることはほぼ間違いなさそうです。結局波田町における秦氏の痕跡は、全て白山周辺に存在すると考えられます。


大野牧一帯を示すYAHOO地図画像。唐沢の地名も見られます。

酔石亭主が宿泊した「民宿かねもと」は唐沢川の扇状地に位置し、正しく大野牧の中心部にあることになります。

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民宿近くから見た旧大野牧。いかにも牧とするにふさわしそうな地勢と思われます。

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もう一枚。

大野牧の所在とその範囲をある程度確定したところで、牧の成立年代を検討してみたいと思います。Wikiの記述では8世紀の初めです。しかし波多氏が、埴原・内田地区から寛正・文明年間に移住して大野牧の牧長になったのであれば、1460年から1486年の間となり大幅に時代を下ってしまいます。(秦氏に関する波多氏や波田氏の表記は「波田町誌」に従っています)

この矛盾点は、8世紀の段階で秦氏の手により大野牧が造られ、寛正・文明年間に埴原・内田地区から波多氏が移住したと考えれば辻褄は合わせられます。他の資料からもっと見ていきましょう。

「続日本紀」の文武天皇の四年(700年)三月丙寅(一七日)には、諸国に令して牧地を定め、牛馬を放たしめた、とあります。大野牧が8世紀初めに成立したとの間接的根拠にはなりそうです。

「甲斐国志」には「類聚三代格ニ、天長四年(827年)置甲斐国牧監 事云々、本朝世紀等ニ記ス左馬権少属秦忠見左馬小允小野国興等牧ノ御馬ヲ 牽進スル事見ユ」とあり、牧に秦氏の関与があるとわかります。「本朝世紀」には「天慶元年八月七日、是日、甲斐国真衣野・柏前両牧御馬廿疋牽進。左馬権少属秦忠見持参解文」と言った記事もあります。時代的にも鎌倉時代よりずっと以前です。

(注:左馬権少属は大初位下を意味しています。大初位は従八位または従九位の下、少初位の上の位階で、律令制において、さらに大初位上と大初位下の二階に分けられています)

以上、秦氏の存在が想定される波田町に大野牧がある点、朝廷が700年に牧地を定めた点、日本最古の牧に秦氏の関与がある点、秦氏が甲斐国の牧に関与している点などから、大野牧は8世紀に成立し秦氏が牧長を務めたと言うWikiの記述に酔石亭主も賛同したいと思います。

ここまでで、大井堰の築造時期と秦氏の関与、大野牧の成立時期と秦氏の関与に関して一定の成果を得ることができました。しかし波多腰姓の問題はまだ残っています。

「波田町誌」には波田町の地名由来と秦氏(波多氏、波多腰氏、波田氏)の起源に関して諸説が提示されていますが、どの説を採用すると明言されておらず、いずれも推測の域にとどまっています。

ただ、町誌として非常に詳しく調べられている点は特筆ものと思われます。読んでみると、各説に関して十分理解できない点も多々あります。(何しろ、お借りした本を宿泊当日の夜に読んだだけですから…)さりながら貴重な情報ではあるので、町誌の論点を以下のように整理し纏めてみました。

東の波多氏が西に移住した説。
① 埴原・内田の波多氏が寛正・文明の頃現在の波田町に越して(移住して)波多腰氏になった。
② 源氏姓波田氏を名乗る埴原牧の牧人が鎌倉時代に大野牧に移住した。
東の波多氏は巨勢氏であり西に移住した説
① 埴原・内田の地頭である波多氏は、昔は巨勢氏(輿)と称し鎌倉時代にこの地を領していたが、鎌倉時代末頃今の波田町に移住した。
② 波田氏と同族の巨勢氏が大和から埴原に移住し牧を経営し、今の波田町に移った。
③ 輿氏(巨勢氏のこと)は埴原の西越(にしこせ)地区に古くから住んでいた。波田氏が西に移ってから輿氏が埴原牧を相続し波多腰を名乗った。
安曇族の一氏族、八太造とする説
波田町の盛泉寺は天文21年( 1552年)神林領主常和泉守公の菩提寺として開基。(一説には鎌倉期の神林地頭常澄氏の開基)常澄氏は安曇族の一氏族八太造の子孫であることから、それにちなんで「波多」となった。

これだけではほとんど理解できないと思います。酔石亭主の場合は推論を積み上げていくスタイルですが、町誌の場合は文献に沿って組み立てるのでどうしても時代が新しくならざるを得ないようです。

それでも、町誌の記述から抽出される部分はあるでしょう。まず、各説は鎌倉時代から室町時代を対象にしている点。次に、秦氏(波多氏、波田氏)は東山麓から西山麓にある今の波田町に移住した点。さらに、波多腰姓は巨勢氏の影響があると見られる点です。(注:巨勢氏と秦氏が同族かは疑問です。八太造が安曇族であるのかも未確認です)

波多腰姓の問題は次回以降に考えていきたいと思います。

                ―信濃国の秦氏 その13に続く―

信濃国の秦氏 その11

信濃国の秦氏
05 /31 2012

波多腰姓の謎は追って探るとして、今回は長らく放置していた大野牧に関して詳しく見ていきましょう。以下Wikipediaより再度引用します。

8世紀初めに、波田・安曇・山形・和田にかけての地域に、大野牧という養馬を目的とした牧場(御牧=みまき=勅旨牧)が造られた(延喜式)。これは、663年に白村江の戦いで新羅と唐の連合軍に敗れ、応援していた高句麗が668年に滅ぼされた背景に、自国の騎馬の貧弱さがあると考えた朝廷が勅旨をもって、全国に33の御牧を造ったが、その1つであり、中信地方には、大野牧以外にも、埴原牧(松本市中山・内田・塩尻市片丘広丘)と猪鹿牧(穂高)が造られた[4]。その後、大野御牧の牧長であった秦氏は、牧内の水利のよい場所を私墾田として開発し、ここを不輸・不入の特権を持つ荘園として実権を握る。


8世紀に大野牧が造られたことと、秦氏が牧長になった時点がそのまま一致しているのか今一つ明確ではありません。また、大野御牧の牧長が秦氏である点の根拠や出典も示されてはいません。

一方和田堰(=大井堰)の秦氏築造は、京都における葛野大堰の築造により川の名前が大堰川(=大井川)に変化した点から導き出されてきた部分もあります。同様に、日本における最も古い牧に秦氏の関与があったかどうかを見ていけば、大野牧に秦氏の関与があった証明になるのではと思えてきます。

と言うことで、今まで何度も取り上げた関西における秦氏の重要拠点寝屋川市に飛びます。この地には秦や太秦、川勝などの秦氏地名があって伝秦川勝の墓まであります。でも、なぜ秦氏は寝屋川一帯を自分たちの拠点としたのでしょう?それを探る中から秦氏と古代牧の関係を浮き彫りにしたいと思います。


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寝屋川市を示すグーグル地図画像。(もう何度も掲載していますが…)

まずは古代牧の起源を探る必要があります。寝屋川市の数キロ南、四條畷市蔀屋(しとみや)で鉄製の馬具の一部などが発見されました。大阪府教育委員会が実施した平成13年度からの蔀屋北遺跡発掘調で、馬の全身骨格や様々な馬具が出土し、この地こそが日本最古の牧であり、「日本書紀」にも記された河内馬飼(かわちのうまかい)の本拠地であると確認されたのです。


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四條畷市蔀屋一帯を示すグーグル地図画像。

さらに、寝屋川市太秦のすぐ近くにある長保寺遺跡(寝屋川市昭栄町/出雲町)一帯は古墳時代中期における古代の港跡と考えられ、遺跡からは外航用準構造船、各種土器、船材・扉材などが出土しました。また塩を入れる小さなコップ形の容器と馬の歯が共に出土したことから、馬の飼育が行われていたと想定され、河内馬飼との関係が想定されています。


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寝屋川市昭栄町一帯を示すグーグル地図画像。拡大すれば全部が隣接しているようなものとわかります。

さらにこちらのホームページを参照ください。
http://www.geocities.jp/kakejiotto/jiichi/n013.html

寝屋川の歴史を知るのに格好の資料ですが、No.013讃良寺(さらじ)の項に以下のように記載されています。

旧讃良郡に存在の郷名は和名抄にあげられていますが、今もって不明とされている郷に牧岡郷があります。この地は、小路・国守町・打上にわたっていたと推定されます。牧のある丘で「牧岡」と呼ばれ、馬の飼育に当った馬飼部の本拠地であって、「寝屋」の地名の起こりも牧場の従事者の宿舎のあったによると考えられ、上古市内でも文化地帯であったと思います。

河内国讃良郡は現在の大阪府寝屋川市太秦を含み、国守町や打上は太秦に隣接しています。すなわち秦氏の拠点にまで古代牧が広がっていたのです。しかも驚いたことに、寝屋川の地名由来まで書かれています。記述によれば、馬飼いの宿舎である「寝屋」が川の近くにあったので、川が「寝屋川」と呼ばれ、一帯を寝屋川と呼ぶことになったと理解できます。

また寝屋川市のホームページには以下のように記載されています。

長保寺遺跡では、井戸枠に再利用されていた古代船の船体の一部が出土し、復元すると船形埴輪で知られる大型の外洋航海も可能なものとなります。この船は朝鮮半島との軍事・交易などに利用されたのかも知れません。こうした遺跡で出土した土器には朝鮮半島南部のものと同様な特徴をもつものがあり、このころすでに朝鮮半島との交流が考えられます。本市には、秦・太秦といった渡来人にちなむ地名があり、こうした遺跡との関連を考えなくてはなりません。この時期の北河内~中河内の生駒山地西麓部では、馬の骨や歯が多数出土しており、こうした遺跡は、『古事記』や『日本書紀』に登場する河内馬飼(かわちのうまかい)氏とよばれる馬の飼育に携わった人々に関連するものでしょう。


以上から、寝屋川市一帯が秦氏の拠点であった意味も明確になります。秦氏は港湾の管理と日本最古の牧を管理するためこの地を自分たちの重要拠点としたのです。河内馬飼は秦氏に使役されていた牧人だったのでしょう。

日本最古の牧に秦氏の関与が想定されるなら、秦氏の居住する波田町一帯にある(とされる)大野牧に秦氏の関与があると見てほぼ間違いなさそうに思えます。

               ―信濃国の秦氏 その12に続く―

信濃国の秦氏 その10

信濃国の秦氏
05 /30 2012

前回、あまりにも話がややこしくなったので途中で打ち切ってしまいました。改めて「波多腰は東と西がある」について考えていきます。まず、東の波多腰氏の支配地をより具体的に見ていきましょう。


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グーグル地図画像。中山と埴原。


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グーグル地図画像。片丘。

地名の中山と片丘に着目ください。松本平の東側にあり、中山が北で片丘が南に位置しています。(注:地名が入るようにするため画像を二枚に分けました)この地域内の埴原と内田は「諏訪御符礼之古書」に波多判官大夫跡と記されています。古書にある寛正・文明年間の頃、埴原の牧長を務めていた秦氏(波多氏)は西の波田町に移住し大野牧の牧長になったとの説も町誌には書かれています。

また、牛伏寺の釈迦如来の胎内銘には「中興修理 応永13年 波多腰大和守清勝」との銘があることから波多氏は埴原・内田から波田町に移住した後も旧地と繋がりを持っていたと理解されます。

以上の点を踏まえ、波多氏が引っ越したから波多越→波多腰になったと考えれば、筋道が通りそうに見えます。実際に波多腰姓は波田町に集中しており、埴原・内田ではほとんど見られない(推測ですが)ようですから…。

しかしWikiの記述では、秦氏が大野牧の牧長になったのは8世紀の初めと読めます。また今までの検討結果から和田堰は700年代の後半から800年初頭にかけて、秦氏の手により築造されたと理解されます。これらの視点から見ると、秦氏はもっと早い時点で波田町に入植していたと考えざるを得ないのです。では鎌倉時代以降とする町誌の視点をどう組み入れればいいのでしょう?

例えば、以下のような筋立てはいかがでしょうか?
秦川勝の子である秦広国が更級郡桑原に入植し、秦氏の一族はそこから筑摩郡に広がった。安曇野に入った秦氏は降旗あるいは降幡を名乗った。塩尻方面に入った秦氏は古畑を名乗った。波田町に入った秦氏は波多氏を名乗り、大井堰の築造、大野牧の運営に当たった。埴原・内田に入った秦氏も波多氏(波田氏)を名乗り、埴原牧の運営に当たった。埴原・内田の波多氏は1400年代に入って波田町に移住し、既に当地に根を張っていた波多氏と合流した。

以上で何とか筋道は立つのですが、引き続き問題となるのは、なぜ彼らが波多腰姓を名乗ることになったのか、です。「その5」においてある程度書いていますので参照ください。検討内容からして波多腰氏は秦巨勢氏の名前が変化したものとも考えられます。

しかし、どのような流れでそうなったのかを証明しない限り、単なる推測にすぎません。一定の根拠があれば、たとえ推測であっても信憑性が出てくるのです。波田町には秦氏の匂いがプンプンするのに、波多腰氏がどのような存在かわからないという大きな謎が残ってしまいました。

答えを得るには、秦氏が最初に移住したとされる信濃国更級郡桑原郷(現在の千曲市桑原)に行ってヒントを探るしかなさそうです。

             ―信濃国の秦氏 その11に続く―

信濃国の秦氏 その9

信濃国の秦氏
05 /29 2012

波田小学校前に戻り南に下り、宿泊予定の民宿を目指します。すると途中に何やら巨大な邸宅らしきものが…。


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グーグル画像です。

森に囲まれたような赤い屋根の家がその邸宅です。藤沢だったら50棟分の敷地でしょうか。早速見ることに…。

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雀オドシ(この地方独特の屋根飾り)が付いた古い本棟造りの住宅。

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もう一枚。

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解説板。

何と波多腰さんのお宅でした。こちらの祖先が明治になって波田堰を造られたのです。和田堰(大井堰)を造った先祖の秦氏に倣って工事をされたようにも感じられます。しかし、波多腰氏が秦氏なのか否かはまだ確定できていません。お屋敷を過ぎれば「民宿かねもと」はもうすぐです。


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民宿の位置を示すグーグル画像。住所:長野県東筑摩郡波田町8493-3

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「民宿かねもと」。

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もう一枚。

部屋に入って一休みしてから外に出ました。周囲はひたすらリンゴ畑が広がっています。

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リンゴの花。

民宿のご主人が庭の手入れをされていたので、声をかけてみます。様々な地域情報を持っておられると期待してのことですが…。お話してみると期待以上の収穫が得られました。内容は以下の通りです。

波多腰は非常に古い一族で東と西がある。(この段階では意味が不明でした)
本家から土地を分けてもらい、波多腰を名乗った者もいる。(血縁関係がなくても波多腰姓の方が居られると言うことです)
この一帯には波多腰姓以外に大月あるいは大槻姓も多い。(大月が秦氏に関連した名前であることは既に論証済みです。大和には秦氏の祖弓月君にちなむ弓月が嶽もありますが、由槻が嶽(ゆつきがたけ)とも表記します。大月→大槻は同様のケースと思われます)
鷺沢には河岸段丘のところに集落もあったが今は何もない。


さらに分厚い「波田町誌」までお借りすることができました。これだけの情報と資料に接することができるとは、予想以上の成果です。民宿のご主人が深い造詣と郷土愛を持っておられる方と理解できます。瓦で焼くステーキなども出る夕食と朝食込みで一泊6,300円はとても安いと思います。歴史探索の目的で波田町にお越しの際はぜひご利用ください。

民宿のPRはさて置き、全く念頭になかった「波多腰は東と西がある」の意味について検討してみます。西は言うまでもなく波田町一帯です。東とはどこでしょうか?白山から真東に線を伸ばしてみます。すると、昭文社長野県地図には史跡埴原牧跡がありました。埴原牧は大野牧(Wikiは秦氏が牧長であるとする)に対応しているような気がします。


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一帯を示すグーグル地図画像。

ただ「埴原」の読み方がわかりません。調べて見ると「はいばら」でした。「はいばら」をパソコン入力すると「榛原」になります。秦が入っていますね。そして駿河国の榛原郡は秦氏の居住地でした。詳細は「東海の秦氏 その8」、「その9」を参照ください。

榛原郡と大井川。埴原と和田堰(大井堰)。両者の関連性が窺えます。次に、お寺では牛伏寺があります。牛伏寺の仏像は若澤寺と共通のものが多く、両寺院は対になっているように思えます。以上から、東とはこの埴原一帯を意味しているようです。

町誌によれば牛伏寺は波田氏の氏寺で、ここの波田氏が波田町に移住して西の波田氏になったのでは、と記されています。秦氏の存在範囲が広がってきました。牛伏寺に関しては以下Wikipediaより引用します。

寺伝では聖徳太子が42歳の時に自ら刻んだ観音像を本尊として鉢伏山に安置したのが始まりという。寺名については、756年(天平勝宝7年)、唐からもたらされた大般若経600巻を善光寺へ奉納する途中、経典を運んでいた2頭の牛が倒れたことから「牛伏寺」の名が付いたという。なお、参道途中に建つ牛堂には2頭の牛が祀られている。
以上はあくまでも伝承であって、牛伏寺創建の時期や事情については確たる史料がなく、鎌倉時代以前の沿革は定かでない。牛伏寺が位置する鉢伏山の山頂には牛伏権現と称して蔵王権現を祀っており、元来、山岳修行、修験道の山だったと思われる。寺はもとは裏山に位置し、現在地に移ったのは1534年(天文3年)である。


寺の創建に聖徳太子の関与があるなら、秦氏も関与していた可能性があります。寺の写真に関しては以下を参照ください。
http://cubic360.yebisu.asia/Gofukuji2f_swf.html

http://cubic360.yebisu.asia/GofukujiNyoraidenf_swf.html

こんな風に撮影できるのですから凄いですね。

波多腰氏に関して、東にかつて居住していたのは上記からしてほぼ間違いないようです。ただ町誌は、波田町の地名由来や秦氏(波多腰氏)に関して様々な説を列記しており、じっくり考えないと理解が及ばないと感じられました。波田町の秦氏は一筋縄ではいかないのです。諸説あってしかも波田町以外にも広がりがあるようですから…。

秦氏の波田町を越えた広がりに関連して、沙田神社の石柵に「降旗元太郎」と刻まれていたのも気になります。

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石柵の写真を再度掲載。

同氏の経歴は以下を参照ください。
http://www.shimintimes.co.jp/yomi/kyakko/kyakko34.html

降旗元太郎氏は政界に進出し、長野県の養蚕・製糸業発展にも寄与した地元きっての著名人でした。長男の降旗徳弥氏は信濃日報社長、信越放送取締役、長野放送社長、衆議院議員、第2次吉田内閣の逓信大臣、松本市長などを歴任。映画監督の降旗康男氏は三男となります。彼は1999年に「鉄道員」で日本アカデミー賞監督賞・脚本賞を受賞しています。どなたも物凄い経歴の持ち主ですね。

では降旗姓に関してちょっと調べてみましょう。チェックしたところ、実に面白い結果が出ました。長野県全体で475人に対して、松本市が173人、安曇野市が89人、大町が89人です。松本市に降旗姓は多いのですが、松本を越え梓川の北に広がり、安曇野市と大町市を合わせれば松本市以上の数字となります。

面白くなってきたので降幡もチェックしてみました。全体で222人に対して安曇野市が108人、大町市が22人、松本市が44人と、より北部に密集する傾向があります。町誌を見ると古幡之牧にいた降幡氏が波田町に移住したとの説も書かれていました。これが事実なら、降幡氏は秦氏の流れである可能性も高くなるのですが、諸説あって定まらないこと甚だしい…。

他に古畑と言う姓もあったと記憶しています。ついでに調べてみましょう。長野県全体で672人に対して、松本市162人、波田町の南にある山形村41人、塩尻市132人、安曇野市と大町がそれぞれ22人でした。古波田姓は全体で4人に対して松本市が3人です。

波多腰姓は波田町に集中し、降旗・降幡姓は松本を中心に北側に広がり、古畑姓は南側に広がっていました。松本の秦氏は、何らかの事情により波多腰氏、降旗氏、降幡氏、古畑氏へと様々に改姓したのでしょうか?このようなケースは初めてなので、理解に苦しむところではありますが…。

波田町の秦氏を調べようと思っていたら、その広がりは、南は塩尻から北は大町までの範囲を含み、ますます奥深く、かつややこしくなり始めたようです。混乱しそうなので今日はここで打ち止めとします。

               ―信濃国の秦氏 その10に続く―

信濃国の秦氏 その8

信濃国の秦氏
05 /28 2012

安曇野みさと温泉室山ファインビューに向かうには波田町の中心となる波田駅に近い波田小学校前を北に折れます。ただ、波田小の風情がまた素晴らしく写真を撮ることに…。

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波田小です。赤松林の中に山を背景とした赤い屋根が印象的です。

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歩道橋から。

背後の山がよく見えます。こんな場所で勉強できる子供たちは幸せですね。

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解説板。解説板を立てるほど見事なものであると理解されます。

波田小前を左折して進むと小さな川が…。

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川です。

これも開削された用水路の一つでしょう。コンクリで固められ風情はありませんが…。周囲の畑はリンゴ畑です。

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リンゴ畑。

さらに進むと梓川を渡ります。結構広い河原があり石がごろごろしているので、つい川に降りてしまいました。

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梓川。小さな馬蹄石のような石を一個拾い切り上げました。

道は安曇野の山裾をゆっくりカーブしながら続いています。リンゴの白い花を見ながら走る実に気持ちのいい道です。しばらく走ると、社の森が目に入りました。大宮熱田神社です。


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波田町から大宮熱田神社への移動経路を示すグーグル地図画像。

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鳥居。

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神社の鳥居と脇に立つ巨木。県内第一のモミの巨木だそうです。

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堂々たる社殿。

神社の紹介はこちらを参照ください。
http://www.i-turn.jp/matsumoto-azusagawa-oomiya-atutajinjya.html

安曇野を開拓するに際して梓川の恩恵を授かるため守護神として祀られたのが神社の起源とのこと。

神社の祭神である梓水大神は瀬織津姫とされ、瀬織津姫は白山と関係が深いので、波田町の白山とも関係してきそうです。この辺は突っ込むと面白そうですが、今回のテーマからは外れるのでここでは取り上げません。

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縁結びの仲良しの木です。

神社を出てみさと温泉室山ファインビューに向かいます。

リンゴ畑の中を東に進むとこんもりした山が見えてきました。室山です。山の独立峰的な立地とネーミングから信仰に関係があると睨んでいます。富士山麓の小室山や大室山と同じですね。


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大宮熱田神社から室山までの移動経路を示すグーグル地図画像。

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案の定山頂には小さな社が…。

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解説板。

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山頂公園からの眺望。やや霞んでいます。

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みさと温泉室山ファインビューのロビーからの眺望。

全面ガラス張りで絶景であることは間違いありません。早速温泉に入ります。露天ぶろは赤松林越しに松本平を見下ろす気分のいいものですが、泉質は特記する程のものではなさそうです。景色の良い普通のお風呂と言ったところでしょうか。

やや霞んでいますが、ここからほぼ真東には浅間温泉があります。泉質はこちらの方が良かったかもしれません。浅間温泉は天武天皇と関係する可能性があることからもそう言えそうです。

「日本書記」によると、天武天皇は14年(685年)、「束間温湯」(つかまのゆ)に行宮を造るよう命じました。天武天皇が行宮を造ろうとしたのは病気の療養のためでしょうか?しかし、こんなところまで旅をすればそれこそ病気を悪化させてしまいます。

天皇は療養ではなく遷宮を目論んでいたのです。だから、三野王(みののおおきみ)や小錦下采女の臣筑羅等を信濃に派遣し地形を調査させていますし、「信濃國之圖」まで提出させています。

では、「束間温湯」(つかまのゆ)とはどこなのでしょう?一般的には現在の浅間温泉或いは美ヶ原温泉とされています。筑摩(ちくま)郡はかつて(つかま)と呼ばれていました。束間の湯とは筑摩の湯を意味しているのです。筑摩郡の郡域は広いので、筑摩の湯ではどこかわかりません。もう少し範囲を限定するため、筑摩野(つかまの)で以下Wikipediaより引用します。

筑摩野(ちくまの、つかまの)は、長野県中部(中信地方)にある松本盆地のうち、梓川よりも南側で、波田地区・山形村・朝日村の西山、塩尻市の南山である長興寺山や比叡の山、松本市の東山である筑摩山地に囲まれた部分の総称である。筑摩(つかま)はもともと信濃国10郡の1つで、古代には「束間」「豆加萬」などの字もあてられた。


筑摩山地は麻績の聖山や姨捨山(正名は冠着山)まで含みますが、梓川の南と絞れば、筑摩野は現在の158号線より南の地域と想定されます。もしかしたら、浅間温泉も美ヶ原温泉も「束間温湯」ではないのかもしれません。いずれにしても場所の特定は難しそうです。

ところで、天武天皇(当時は大海人皇子)が壬申の乱で勝利したのは、科野などの軍勢が味方に加わったからとされています。特に騎馬軍団の功績が大きく、大野牧の馬たちも貢献していた可能性があります。

信濃国が壬申の乱で味方したこと。松本平において秦氏が地盤を固めつつあったこと。天皇の養育係は安曇氏と同族の大海氏(凡海氏)であったこと。その安曇族の重要拠点が安曇野から筑摩一帯であったこと。などが、筑摩への遷宮を決断する要因になったのでしょう。

しかし天皇は信濃国に行幸することなく病没。「束間温湯」を楽しむことはできずに終わりました。

              ―信濃国の秦氏 その9に続く―

酔石亭主

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