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信濃国の秦氏 その7

信濃国の秦氏
05 /27 2012

大野牧と波多腰姓に関しては未確認のままですが、取り敢えず白山の山麓周辺に秦氏の痕跡があると考えて、他の場所を見ていきます。白山の麓、淵東周辺には波多神社や仁王門、田村堂、阿弥陀堂などがあります。グーグル地図画像を参照ください。


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淵東(えんどう)周辺を示すグーグル地図画像。駅名は渕東です。

地図上には阿弥陀堂以外の所在地が記されていないのですが、全部阿弥陀堂周辺に集まっています。行き方は簡単で、渕東駅の手前を上波田阿弥陀堂に向かって進むだけ。すぐに仁王門や隣の波多神社、仁王門奥の田村堂、阿弥陀堂に至ります。駐車するスペースもありますので、車で入って問題ないと思われます。まず上波田一帯がどんな場所なのか解説板でチェックしましょう。

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解説板。

かつてこの地には若澤寺(にゃくたくじ)があり、田村堂や仁王門はその遺物とのことで、最も重要な存在が若澤寺であったとわかります。ただ寺は明治の廃仏毀釈により取り壊されてしまったとのこと。信濃日光と言われるほど荘厳なものだっただけに残念ですね。

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若澤寺を示す絵図の写し。何と豪壮な佇まいでしょう。

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山頂部。

白山社とあります。若澤寺は白山社の修験道がベースとなって創建されたものと推定されます。寺は山号を水沢山、あるいは慈眼山と言い、秦氏と関係の深い行基(668年~749年)の手で天平勝宝年中(749~758年)に創建されたそうです。有名寺院の創建を何でも行基にしてしまうのは問題ですが、若澤寺の創建に秦氏の関与もあったような気がします。

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「波田町誌」より。

画像右手の若澤寺の什物帳の所有者は波多腰氏であると記載されています。これも秦氏の関与を示すものと言えそうです。また波田氏が鎌倉時代から室町時代にかけて内田・埴原から大野牧の地頭として波田の地に移ったとあります。この記載内容が事実だとしても、和田堰の検討結果からすれば第二波の移住となり、それ以前に秦氏は同地に入植していたと推定されます。大野牧に関しては追って詳細に検討する予定です。

なお、若澤寺には坂上田村麻呂(758年~811年)も関与していたとのことで、平安時代の大同年間(806~809年)に東征の途次、南安曇郡穂高町の豪族が有明山にこもって抵抗したのを征服できたことを仏に感謝するために修復・造営せしめたそうです。なるほど田村堂のネーミングは田村麻呂に由来していたとわかります。田村麻呂に関しては以下を参照ください。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9D%82%E4%B8%8A%E7%94%B0%E6%9D%91%E9%BA%BB%E5%91%82

江戸時代に壮大な七堂伽藍を構えた若澤寺は、信濃日光と称されるほど壮大な規模を誇った寺になりました。しかし廃仏毀釈により歴史の表から消え去ってしまったのです。

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仁王門です。

若澤寺の末寺、西光寺の仁王門だったとのことで、仁王門建立は金剛力士像(仁王像)造立の鎌倉末期と同じ時期のようです。

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内部の金剛力士像に関する解説板。

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田村堂です。このお堂は覆屋であり田村堂は建物の中にあります。

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解説板。

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田村堂。室町時代後期と推定される建立当初は総金箔貼りだったとのこと。

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丁石です。

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解説板。

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線刻の不動明王。

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解説板。天正2年(1574年)に建てられたとありかなり古いものとわかります。

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水澤不動尊。

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阿弥陀堂です。

阿弥陀堂は若澤寺の末寺であった西光寺の地蔵堂が移築されたものとのことです。堂内に安置された阿弥陀如来像は江戸初期の作だとか。阿弥陀堂の近くに上海渡と言う地名があります。海渡(かいと)は垣外・垣内とも表記して、阿弥陀堂(或いは屋敷)の境界の外・内を意味しています。上波田の場合は阿弥陀堂が存在して、海渡の地名がセットになっています。

またかつて鼠海渡と言う地名もあったとのことで、これは波田町にある盛泉寺が「常和泉守」の開基であることに関連しているそうです。それは鎌倉時代の法燈国師の出自が常澄氏であり、常澄は「常に不寝見」の意で朝廷から不寝番を命じられていた一族であり、波田町の鼠海渡は「不寝番」があったところの地名とのこと。

実はこの地名、波田町における地名由来の一つに関係しています。常澄氏は八太造の子孫だったので、この地が波多となったと言うものです。この説では、八太造は安曇族の一支族(未確認です)とのことで秦氏とは関係なくなってしまいますが…。
(注:平成22年、波田町は松本市に編入されていますので、正式には松本市波田となっていますが、便宜上今後も波田町と表記します)

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波多神社です。

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解説板。

神社の名前とは裏腹に秦氏の関連を示すものは見当たりません。由緒には、「1143年に紀伊国から熊野権現を勧請して合祀したと伝えられる」と書かれています。熊野権現が合祀される前の状況はほとんど不明のようですが、「波田町誌」によると、神亀5年(728年)に地神が祀られたとも言う、とあります。これを創建年代とすれば、秦氏の入植から少し経過した時点と思われ、あくまで推測ながら秦氏の可能性も多少はありそうです。

この日はあれこれ見過ぎて、消化不良のまま終わりそうです。一つ指摘できるのは、白山を取り巻くように様々な歴史遺産が集積していると言うことです。疲れが出てきたので、安曇野みさと温泉室山ファインビューに向かいます。絶景の日帰り温泉が目的です。

               ―信濃国の秦氏 その8に続く―

信濃国の秦氏 その6

信濃国の秦氏
05 /26 2012

今回も和田堰に関連した事項から見ていきます。以下の関東農政局ホームページ記述を参照ください。

 梓川右岸は、明治になって開削された波田堰、黒川堰を除くと、ほとんどこの和田堰からの分水であり、つい近年まで頭首工のあった赤松から水を取り入れていました。和田堰は、神林堰、中川堰、新村堰、榑木(くれき)堰、島堰などを分水し、最も強い水利権を持っていました(しかし、江戸期になるとこの地域の支配は松本藩、高遠藩、幕府領と入り乱れ、厄介な水争いの原因となります)。


波田堰、黒川堰を除くとほとんどの堰が和田堰からの分水だそうで、この堰の重要性が見て取れますね。波田堰は明治のもののようですが、「波田」の名前が気になったので調べてみました。

松本市文化財ホームページに以下のように書かれています。

波多腰家は中波田にある旧家で、屋号を丸八といい、享保14年(1729)から代々庄屋を勤めていました。波多腰家が現在の敷地に移転したのは、寛延元年(1748)と伝えられています。
波多腰家住宅は、波多堰を開削完成させた波多腰六左の生家として知られています。元治元年(1864)に下波多村の庄屋となった六左(1839~1900)は、水利関係のある村々と折衝して波多堰開削の同意を得て、明治元年(1868)松本藩に開削を願い出て、許可を受けています。六左は心血を注ぎ、莫大な資材を投じて、延長75町21間(約8.3キロ)の波多堰を完成させ、200町歩の良田を開きました。六左は戸長、波多堰開渠掛、群会議員などを務め、藍綬褒章を受けています。
屋敷地には、主屋のほか、味噌蔵・米蔵・納屋・土蔵が並び、表門、中門、南門など11棟が登録有形文化財に登録されています。建物の建築年代は江戸時代から昭和時代にわたりますが、屋敷構え全体が良好に保存されており、近世における下波多村の庄屋層の屋敷景観をよく伝える貴重な遺構です。


ここで思わず声を上げそうになりました。松本市における秦姓はたったの一人、羽田姓でも11人です。では波多腰氏ではどうなのでしょう?検索すると驚くべき結果が出てきました。波多腰氏は長野県全体で100人。内訳は松本市が96人、安曇野市が4人です。松本市の96人はほぼ波田町に集中していると思われることから、波田町の秦氏とは波多腰氏だった可能性があります。ちなみに波多姓で検索すると長野県はゼロです。

しかし波多腰とは妙な名前(失礼しました)です。多分腰は別の文字だったのでしょう。どんな文字が適当か推測してみます。腰は越で秦越氏なのかもしれません。その場合は、中国の越出身の秦氏になります。北鎌倉の光照寺で書いた一遍は越智氏の出で、越智氏は越氏とも表記され、徐福の子孫と家伝書(内伝)には書かれています。しかし信濃国に徐福伝承はほとんど存在せず(注:元首相の羽田孜氏は先祖が始皇帝、徐福とされていますが…)、この可能性は薄そうに思えます。

もう一つの可能性は巨勢氏でしょうか?秦巨勢氏で適当かどうか考えてみます。まずは巨勢氏に関して以下Wikipediaより引用します。

巨勢氏(こせうじ)は大和国高市郡巨勢郷を本拠とした古代豪族。許勢、居勢とも書く。『記紀』によると武内宿禰の五男、許勢小柄宿禰を祖する。巨勢臣・雀部(ささきべ)臣・軽部臣につながる。6世紀以降、集中的に『日本書紀』に現れる。


内容が簡単すぎてよくわかりません。武内宿禰は富士山麓の秦氏でも登場し、子供には羽田八代宿禰がいます。でも彼は秦氏と直接関係はないはず。困りましたね。巨勢郷は秦氏の祖である弓月君の居住地である御所市朝妻とも近く、また九州では秦姓の多いうきは市も巨勢川があり巨勢氏の支配地域となっています。

その関係から波多腰氏は秦巨勢氏の名前が変化したものとも考えられますが、何の確証もないのでこの問題は一旦棚上げするしかありません。波田町には秦氏の匂いがプンプンするのに、波多腰氏がどのような存在かわからないという大きな謎が残ってしまいました。

ここまでの検証で、和田堰は秦氏の手で7世紀後半から8世紀初頭にかけて築造された点はほぼ確認できました。しかし、波多腰姓の謎と大野牧に関しては未確認なままとなっています。厄介な問題を残しながら今回は終了です。

              ―信濃国の秦氏 その7に続く―

信濃国の秦氏 その5

信濃国の秦氏
05 /25 2012

前回で和田堰の築造は秦氏の手によるものと推定しました。Wikiの記述もそうなっており、まず間違いなさそうです。秦氏は松本平の田畑に灌漑用水を供給する重要な役割を担っていたのです。調べて見ると、この地には他にも多くの堰が造られていました。

関東農政局ホームページより以下引用します。

平安中期に編纂された『和名抄(わみょうしょう)』によれば、松本市周辺には大井郷があり、安曇野には高家郷、八原郷、前科郷、村上郷という郷(律令制における末端の行政区画)が記されています。また、朝日村には洗馬牧、洗馬庄(藤原系の荘園)。波田町には大野牧、大野庄。左岸には西牧、猪鹿牧などが記されています。牧とは朝廷の牧場を意味します。
 松本市の大井郷は、7世紀(8世紀とも言われています)、梓川から取水する大井堰(現和田堰)の開削とともに開発され、その範囲は新村・和田・島立・島内(いずれも松本市)と考えられています。島立、新村には条里制が施行されたようです。
 日本で最古の用水は、607年、聖徳太子が築造した五ヶ井用水(ごかゆようすい:兵庫県加古川市)とされていますが、この和田堰もそれと競うほど古い歴史を持っていることになります。


上記によれば、大井郷の成立は7世紀あるいは8世紀となります。大井郷の名前は和田堰(=大井堰)に由来しているのは明らかです。一方沙田神社と御乳神社の勧請は大化5年(649年)なので、時代的にはほぼ見合っています。これらから、和田堰が7世紀後半から8世紀にかけて造られ、秦氏がその築造及び管理・運営に当たったとの判断は間違いないと思われます。

なお五ヶ井用水に関しては「秦さんはどこにいる? その4」に書いていますので是非参照ください。この地には治水、土木技術専門集団の首長である秦川勝がいたとされ、実際の築造は秦氏の手によるものと推測されます。

ちなみに、松本市岡田地区には岡田神社が鎮座しています。地区内の灌漑用水は大口堰(松本市大字稲倉本郷地区)から供給されているのですが、大口堰の取水口付近には水口神社が鎮座しています。この神社は大口堰に向いていて、白雉5年(654年)、岡田神社と同時に勧請されたとのこと。勧請時期は和田堰の推定築造年代とほぼ重なりそうです。

もちろん神社の創建時期は伝承に過ぎず、本家本元である葛野大堰にしても築造年代は5世紀後半、6世紀後半、8世紀初頭と諸説あって確定していません。しかし秦広国の信濃国入植時期、各神社の創建年代、和田堰の推定築造時期に矛盾する点はないと思われます。


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岡田神社を示すグーグル地図画像。

岡田神社の詳細は以下を参照ください。
http://www.genbu.net/data/sinano/okada_title.htm

和田堰の築造年代を探るため、他の状況証拠を見ていきます。新村の安塚古墳群は8世紀初頭のものとされています。7世紀後半から8世紀初頭に築造された和田堰からの給水で豊かになった秦氏あるいは在地豪族がこの古墳を造ったとすれば、話の筋も通りそうに思えます。

和田堰は秦氏の築造で間違いなさそうですが、葛野大堰の場合この築造により川の名が葛野川から大堰川に変わりました。一方梓川の名前は変わっていないようです。堰がそれほど重要ではなかったのでしょうか?そんなはずはありません。和田堰が波田町に入った秦氏の最初の事業とすれば、最も重要なものだったはずです。

仮に梓川の名前自体が既に秦氏と関連しているのなら、変更する必要はないとも思えます。そこで梓川の名前の由来を見ていきましょう。以下Wikipediaより引用します。

一方で、流域は古来より梓の産地であり、梓弓の材料として朝廷にも献上されていて、このことが川の名前の由来になったとも言われている。


なるほど梓弓ですか。梓弓もWikipediaで見ていきます。

梓弓(あずさゆみ、あづさゆみ)は、神事などに使用されるアズサの木で作られた弓。
古くは神事や出産などの際、魔除けに鳴らす弓(鳴弦)として使用された。甲斐国や信濃国から都に献上され、現在でも遺品として残されている例がいくつかある(正倉院中倉の3張など)。

神事や出産の際の魔除けとあります。以前に秦氏で検討した鏑矢と同じみたいですね。出産と産の宮(沙田神社)も繋がりそうです。続いて鳴弦に関しWikipediaから引用します。

弓に矢をつがえずに弦を引き音を鳴らす事により気を祓う退魔儀礼。魔気・邪気を祓う事を目的とする。後世には高い音の出る鏑矢を用いて射る儀礼に発展した。鏑矢を用いた儀礼は蟇目の儀(ひきめのぎ)と呼ばれる。

やはり鳴弦は鏑矢の元になった儀礼のようです。そして鏑矢は「秦氏の謎を解く その11」にて書いたように、秦氏が構築した平安京の謎と深くかかわっています。これだけでも秦氏との関係が推測されますが、万葉集(巻3-311)には以下の歌がありました。

按作村主益人従豊前國上京時作歌一首
梓弓 引き豊国の 鏡山 見ず久ひさならば 恋しけむかも


梓弓を引く(神事がしばしば行われ、弓の音色が響き渡る)豊国の鏡山を 久しく見なかったらさぞ恋しいことでしょう。

豊国は豊前国で秦王国です。「梓弓引き」が豊国の枕詞のように使われていることから、秦氏と梓弓の関係が浮き彫りになります。さらに長歌で見ていきます。

天皇、宇智の野に遊猟したまふ時、中皇命の間人連老をして獻らしめたまふ歌
やすみしし わご大君の 朝には 取り撫でたまひ 夕には い寄り立たしし
み執らしの 梓の弓の 中弭の 音すなり
朝猟(あさかり)に 今立たすらし
夕猟(ゆうかり)に 今立たすらし
み執らしの 梓の弓の 中弭の 音すなり
反歌
たまきはる宇智の大野に馬並めて朝踏ますらむその草深野


(お休みになっていた)わが大君(舒明天皇)が 朝には 手にとって撫でられ 夕べには そのそばに寄り立っていらして ご愛用の 梓の弓の、中弭の 音が聞こえます 朝狩に 今お発ちになるらしい 夕狩に 今お発ちになるらしい ご愛用の 梓の弓の、中弭(なかはず)の 音(弓を引いている音)が聞こえます

この長歌には様々な議論があるようです。しかし現在のテーマとは関係ないので取り上げません。まず、間人連老(はしひとの むらじおゆ)について考えてみます。間人とは波斯人でペルシャ人を意味しているとされます。

み執らしの 梓の弓の」は、「ミトラしの梓の弓の」で、古代ペルシャの神であるミトラ神を意味していると思われます。隠れた意味は、「邪気を払うミトラ神の梓弓」と言うことになります。ペルシャ系である間人連老ならではの技と思われませんか?

ミトラ神は太陽神であり、幼神ミトラは弓と矢を持った姿となります。ミトラ神の太陽神としての姿は天照大神に繋がり、弓と矢は秦氏の謎と連結します。関連性を追って行くと実に興味深いですね。

梓弓の万葉歌は数多く見られますが、以下のようにとても面白いものがあります。

梓弓 引見弛見 不来者不来 来者来其乎奈何 不来者来者其乎

梓弓引きみ弛べみ、来ずは来ず、来ば来そを、何ど来ずは来ばそを

梓弓を引いたり弛めたりするように、もう、来ないのなら来ない、来るのなら来るとはっきりさせて。それなのに、どうして来るだの来ないだのと…、(いい加減にしないと私怒るからね)

何となくパッソのTVCMに出てくる「でんでらりゅうば」に雰囲気が似ていませんか?

出ん出らりゅうば 出て来るばってん 出ん出られんけん 出ーて来んけん 来ん来られんけん 来られられんけん 来ーん来ん

出ようとして出られるならば、出て行くけれど、出ようとしても出られないから、出て行かないからね。行こうとしても行けないから、行くことはできないから、行かない、行かない。

口ずさんでいると、頭にこびりついて離れなくなりそうです。話が脱線しまくっているので元に戻します。

秦氏系の松尾大社には「鳴弦破魔弓神事」と言う儀式があります。これは、拝殿にて宮司が「松尾の神に祈らむ梓弓、弦の音聞けば悪魔退く」と和歌を唱え、弓の弦を三度鳴らし、疫鬼の退散を念ずる神事とされ、邪気祓いの鏑矢を天空に放つ「蟇目の儀」と同じとされています。秦氏と梓弓の関係がこの神事からも見て取れますね。

さらに「中皇命」は「中皇女」あるいは「中皇女命」の誤りであり、間人皇女 (孝徳天皇の皇后)とする説が有力とされています。間人皇女→間人連老→ミトラ神となればどんぴしゃりと思えます。なお聖徳太子の生母は穴穂部間人皇女ですが、間人皇女 とは別人です。穴穂部間人皇女が生母となると、聖徳太子にはペルシャ人の血が入っている?話がややトンデモ説寄りになってきたようです(~_~;)

反歌の「宇智の大野に馬並めて」は秦氏が開いたとされる大野牧を彷彿とさせます。

ミトラ神は日本に入り秦氏によって摩多羅神(秦氏の大酒神社祭礼である牛祭に出現する神)となりました。福岡県朝倉市杷木志波5458に鎮座する麻氐良布(まてらふ)神社は謎の神社とされていますが、その音から摩多羅神や天照大神との関連が推測されています。また天照大神をまつる伊勢神宮内宮の御手洗川は、ミトラ神川であろうと以前書いています。万葉集には以下のような歌もあります。

河内王を豊前国の鏡山に葬れる時、手持女王の作る歌三首。
豊国の 鏡の山の 岩戸立て 隠こもりにけらし 待てど来まさず
手持女王 巻3-418


(河内王は)豊国の鏡山の岩戸を立ててお隠れになったようだ。いくらお待ちしていてももうお帰りにはなられない。

鏡山で梓弓を引く神事が頻繁に行われたのは、この辺りに天照大神を葬った天の岩戸があったからとも推測されます。(注:鏡山は秦王国の信仰の中心である香春岳の麓にあります)天照大神と秦氏との関係は既に詳しく書いていますが、豊国に天の岩戸があるとすれば、ミトラ神を介した天照と秦氏の関係もより明確になってきます。

以上、梓川→梓弓(鏑矢)→豊国→ミトラ神→摩多羅神→天照大神→鏡山(香春岳)→天の岩戸と連想ゲームのように連結し、全部が相互に関連しながら秦氏と繋がっていきます。

よって梓川の名前は秦氏と関連し、和田堰の築造に伴い変更する必要がなかったものと推測されますが…、実はそうではありません。Wikipediaには、梓川が梓弓に関連すると言う記事の前に、以下のような内容が書かれています。

仁科濫觴記によれば、成務天皇の代に諸国の郡の境界を定めた際(古事記には「国々の堺、また大県小県の県主を定めた」とある)、保高見ノ熱躬(ほたかみのあつみ:後に「熱躬」を「安曇」と改称)が郡司であったため熱躬郡とし、境界の川も「熱躬川」とした。この熱躬川が、天智天皇7年(668年)に「梓川」と改称された、とある。

秦氏より先に松本平に入った安曇族が、川の名を熱躬川(=安曇川)としたものの、668年に梓川と改称されたのです。668年と言う年代に注目ください。和田堰の想定築造年代である7世紀後半から八世紀初頭のちょうど中間の時点に当たります。つまり、梓川への改称は秦氏の入植後であり、和田堰の築造に関係すると思われる時点なのです。ここからも、梓川は秦氏が命名したものであったと理解できます。

引用や脱線が多く長くなり過ぎたので、今回はこれで終わります。

                ―信濃国の秦氏 その6に続く―

信濃国の秦氏 その4

信濃国の秦氏
05 /24 2012

沙田神社と御乳神社は「その3」の検討結果からして、諏訪大社(御柱や例祭の類似)、海人系安曇族(祭神が豊玉姫、玉依毘売姫で海人系)、秦氏(波田町鷺沢嶽に奥社が鎮座)の影響を受けていたためややこしくなっているような気がします。しかし波田町に秦姓はいないのです。困りましたね。ともかく鷺沢なる場所を見に行きましょう。現地に足を踏み入れる時間がなかったので、対岸から観察しました。

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川のすぐ上は鷺沢浄水場で、左上の建物は小石興業の砕石プラントです。

これではわかりにくいのでグーグル画像で参照します。


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グーグル画像です。拡大してご覧ください。

保健センターの梓川を挟んだ対岸が浄水場で、その背後が鷺沢であると確認できます。現場の様子や画像を見ても、遠い昔この地に神社が2社も鎮座していたなど信じられません。しかし、民宿のご主人の話ではかつて集落もあったようです。あくまで想像ですが、こんなことをするのは秦氏以外に考えにくいと思われます。

実はWikipediaの波田町の項を見ると以下のように書かれています。

8世紀初めに、波田・安曇・山形・和田にかけての地域に、大野牧という養馬を目的とした牧場(御牧=みまき=勅旨牧)が造られた(延喜式)。これは、663年に白村江の戦いで新羅と唐の連合軍に敗れ、応援していた高句麗が668年に滅ぼされた背景に、自国の騎馬の貧弱さがあると考えた朝廷が勅旨をもって、全国に33の御牧を造ったが、その1つであり、中信地方には、大野牧以外にも、埴原牧(松本市中山・内田・塩尻市片丘広丘)と猪鹿牧(穂高)が造られた。
その後、大野御牧の牧長であった秦氏は、牧内の水利のよい場所を私墾田として開発し、ここを不輸・不入の特権を持つ荘園として実権を握る。872年に編纂された『貞観寺領目録』には、「信濃国 大野庄 百二町二段五十歩 在筑摩郡」と記録されている。…中略…
秦氏はまた、灌漑工事が得意であった。波田赤松の地に堰堤を造り大井口水門とし、大井堰(和田堰)を開削して、この用水をもって筑摩野の原野に水田を開いた。『和名抄』(937年)には、筑摩郡の6郷として、良田・崇賀・辛犬・錦服・山家・大井が載っている。大井郷はこの大井堰が郷名になったものと考えられ、『和名抄』編纂以前に大井堰はできていた。


要約すれば、波田町を中心としたエリアに秦氏が造った大野牧があった。大井堰(和田堰)は秦氏が築造したというものです。この記述をもって波田町には秦氏がいたとするのは簡単です。しかし、大野牧と大井堰(和田堰)に関して、本当に秦氏の手によるものかもう少し詳しく検討する必要がありそうです。

まず大井堰から考えてみます。考えるまでもなく、かつて京都の葛野川に堰(葛野大堰)を築造したのは秦氏で、その結果葛野川の名前が部分的に変わり、大堰川(=大井川)と呼ばれるようになりました。波田町の大井堰も全く同様なネーミングに考えられます。

この種の土木工事は秦氏の得意技であり、名前の付け方まで秦氏的で、和田堰(一般的には和田堰の名称なので、以降和田堰に統一表記します)の和田も秦氏に連結する地名と来ればWikiの記述通りと考えてほぼ良さそうです。


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和田を示すグーグル地図画像。

では堰はどこに開削されたのでしょう?Wikiには「波田赤松の地」とあります。実は松本電鉄新島々駅前から鷺沢へと向かう途中に大井口水門跡地がありました。新島々から鷺沢方面に走っていると右手に巨大な石碑が現れますのですぐにわかると思います。

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和田堰旧取入口跡の石碑。

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取入口付近の川の様子。

痕跡はありませんが川筋が別れていますので、ここで分流させたのかも…。


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和田堰の位置を示すグーグル画像。

場所の全体を示す写真を撮り忘れ自信はないのですが、野麦街道が梓川の堤防に突き当たったような場所が和田堰跡であったと思います(^_^;)

秦氏が築造した堰に思いを馳せていると、改めてその位置関係に驚かされました。秦氏が施工したと推定される堰は鷺沢のすぐ近くにあったからです。秦氏と関係の深い白山の麓に鷺沢があり、その少し下流に秦氏が開削したと思われる和田堰がありました。この両者の存在は無関係ではなさそうです。

だとすれば、鷺沢にかつて集落があった理由もはっきりします。この集落は和田堰における取水口の管理をしていたのです。多分開削当時においては秦氏の技術者が駐在していたのでしょう。なぜなら、島立条里一帯250ヘクタールに灌水するには毎秒5トンもの水量が必要とされ、その管理は専門の技術者でなければ不可能と想定されるからです。

そして水の供給と安全を祈願して沙田神社・御乳神社がこの地に建立されたと推定されます。となると、神社を建立したのは秦氏以外にありません。後年になって諏訪大社系、安曇族系に取って代わられ、神社の祭神や祭祀が別のものとなったのでしょう。しかし過去のありようが反映され、御柱は波田町の鷺沢山から切り出されることになったのです。

京都の葛野川に堰を造ったのは葛野秦氏です。「その1」で書いたように、秦川勝が聖徳太子より恩賞として信濃国更級郡桑原郷(現在の千曲市桑原)を賜り、長男秦広国が信濃国に移り住んで統治したのが長野県における秦氏の始まりと考えられます。

上記から、秦広国が朝廷の命を受け、傘下の秦氏が和田堰の工事を実施した可能性も見えてきます。沙田神社の創建が由緒通り649年とすれば年代的にも整合します。また神社の由緒に「信濃国司が勅命を奉じ」とあるのも朝廷の命を受けたものと理解されます。

波田町の秦氏は葛野系秦氏が最初の入植地である桑原郷から移住した、あるいは葛野の技術者が直接派遣されたものと考えて間違いなさそうです。でも、波田町に秦姓の方は居られない…??まだまだ信濃国には奥深い謎が隠されているようです。

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参考までに新島々駅近くの堰。

現地に行くまではこれが和田堰跡だと思っていました。沙田神社を訪問しなければ、鷺沢まで足を伸ばすことはなく、和田堰跡を見逃していた可能性が大きかったと思われます。多分、新島々駅近くの堰を「これが和田堰跡でしょうか」などと間違った内容を書いていたはずです。

沙田神社に立ち寄り由緒を読んでいたおかげで鷺沢に向かい、途中で和田堰跡を発見することができたのは本当に幸運でした。「その3」にて「沙田神社が導いてくれたような気がする」と書いたのはそうした意味からです。(それにしても、和田堰に関して書かれたブログがほぼ皆無なのは不思議です)

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昭和電工の放水路。新島々の堰近くにあります。

昭和電工赤松発電所から流れる豊富な水で、農業用水として利用されているようです。

              ―信濃国の秦氏 その5に続く―

信濃国の秦氏 その3

信濃国の秦氏
05 /23 2012

「その2」において秦氏地名と思われる波田町の西に白山がある点を確認しました。白山修験の開祖である泰澄は秦氏との説もあり、白山と秦氏は密接です。だとすれば、白山周辺に何かヒントが転がっているかもしれません。早速白山の麓に向かおうと思いますが、前回書いたようにまず沙田神社を訪問します。


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沙田神社一帯を示すグーグル地図画像。

沙田神社とはどんな神社なんでしょう?解説板があるので読んでみます。

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解説板です。

光に反射して画像では読みにくくなっています。内容を抜粋して以下記載します。

孝徳天皇の御宇大化五年六月二十八日この国の国司勅命を奉じ初めて勧請し 幣帛を捧げて以って祭祀す。其の後大同年間坂上田村麿将軍有明山妖 賊征伐にあたり本社の御神力の効する所なりとて国司と謀り社殿を造営する 降って文徳天皇の仁寿元年勅評を蒙り社の造営あり同三年二条大納言 有季を勅使として神位を賜る。…中略…尚波田村地籍鷺沢嶽より鎮座 せる奥社その付近一丁七段歩の山林は当神社の御旧跡地として毎年例祭には該 山より萱を刈取仮殿を造り萱穂・柳葉六十六本を六十余州になぞらえて邪神 を鎮め平げ天下泰平を希ねがう神事が古式により行はれ今日に至っている。

大化5年(649年)に勧請されたとすれば、「その1」で書いた秦広国が信濃国に移住する推定時期とほぼ重なりそうです。何となく面白くなってきました。

祭神は彦火火見尊(ひこほでみのみこと)、豊玉姫命、沙土煮命(すいじにのみこと=しおつちのおじ、塩の神様、潮道を司る神)とのことです。どの祭神名からしても、海人系の神社と思えます。安曇野は海人系安曇族の居住地ですから、その影響が大きいのでしょう。

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神社の鳥居と参道。

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驚くような巨木が…。

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拝殿です。

手前の建物は由緒の中にも出ている仮殿です。何やら柱らしきものが立っています。これはひょっとしたら、そう、御柱です。

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一之御柱。

四之御柱まであり、社殿を囲んでいます。この神社、安曇族のみならず、諏訪大社の影響も受けていました。詳細は書きませんが、神社の例祭も諏訪大社の例祭と類似したものがあるようです。ちょうど安曇野と諏訪湖の中間にある神社なのでそうなったのでしょう。

これでは秦氏と全く関係ないと思われるのですが…、いや、神社の由緒で気になる点がありました。かつては「松本市波田鷺沢嶽」に鎮座していたとされる点です。鎮座地が波田町と来れば、これは秦氏との関係が疑われます。地図で見ると、場所は波田町の思いっ切り奥まった場所で、新島々の駅よりさらに奥です。


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鷺沢の位置を示すグーグル地図画像。

何と白山の麓が鷺沢でした。秦氏との関係でまず行ってみようと思っていた場所に、沙田神社が導いてくれたような気がします。「波田町の石造物編」で調べて見ると、鷺沢の山の上には奥社が鎮座しているとのこと。由緒にあるように付近の山林は当神社の御旧跡地となっていて、毎年の例祭にはこちらから萱を刈り取って仮殿を造るようです。現在はともかく、本来は秦氏が祀った社の可能性もあります。多分奥社がそうなのでしょう。

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「波田町の石造物編」にある奥社の写真。白山山頂の石祠も見えています。

(注:「波田町の石造物編」は、今回宿泊した「民宿かねもと」のご主人から見せて頂いたものです。この資料をお借りできたため図書館に行く時間を省けました。ご主人には改めてお礼申し上げます)

石柵にちょっと気になる名前が刻まれていました。

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降旗(ふるはた)とあります。この地に降臨した秦氏あるいは古い時代に入植した秦氏を意味するようにも思えます。

ところで沙田神社は三之宮とも産之宮とも称されています。産宮とは産む宮です。豊玉姫が八尋の鰐となって出産する場面が連想されますね。ひょっとしたらこの神社は三之宮ではなく産之宮が正しいのかもしれません。(信濃国二の宮が矢彦神社と小野神社の二社となっているので、このどちらかが三之宮とも考えられます。あくまで想像ですが…)

で、近くに出産と関連する神社でもないかと思ったら、ありました。御乳神社なる面白い名前の社が…。

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御乳神社(乳の宮)です。


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位置を示すグーグル地図画像。沙田神社の南西に位置し、すぐ近くです。

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拝殿。

産の宮と乳の宮、明らかに対応しています。どんな神社か解説板でチェックしてみましょう。

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解説板。

何とこの神社も波田町鷺沢に祀られていたとあります。大化5年(649年)に祀られたとは、沙田神社と同じです。両神社は関係があると見て間違いありません。祭神は玉依毘売命。綿津見大神(海神)の子で、豊玉姫の妹だから同じく海人系です。ただ、御乳は「おにゅう」と読むのではないでしょうか?「おにゅう」は丹生で死と再生の象徴である水銀の原料を意味します。産之宮も再生を意味していますし、ますます秦氏臭くなってきました。

大体、鷺沢などと言う梓川の最奥部みたいな場所に二社も鎮座していたとは怪しすぎます。波田町に入る前から、もうややこしい話になってきそうな気配。先が思いやられます。でも、これらの神社に導かれて白山の麓に向かわされたような気もしています。さもなければ、鷺沢に足を向けるなど考えもしないでしょう。

               ―信濃国の秦氏 その4に続く―

酔石亭主

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