信濃国の秦氏 その17


旧和田宿での検討を終え、長久保宿方面へと中山道を下ります。(実際には江戸方面に向かうことになり、上りと書くべきでしょうが、道は下っているので下りとします)

宿場の町並みが途切れ、しばらく走るとこんもりした森が見えてきます。若宮八幡神社です。これは羽田家が祀る神社です。


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若宮八幡神社の位置を示す地図画像。

社名は表示なし。鎮座地:小県郡長和町和田1215 位置は中山道沿いの上組の下あたりです。

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社殿。

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解説板。以下のように書かれています。

若宮八幡宮
祭神は、仁徳天皇である。
本殿は、一間社流造の間口1.5m、奥行1.7mの大きさで、棟札には享保六年(千七二一)建立とある。正面と側面に廻縁をつけ隅組擬宝珠柱混用の高欄をめぐらし、脇障子には、輪違文に六辨花が彫刻された各部分の調和がとれた建築である。
天文二三年(一五五五)和田城主大井信定と武田信玄が矢ケ崎で合戦、信定父子を始め、一族郎党ことごとく戦死しその父子の首級がここに埋葬された。
元禄六年(一六九三)その回向の為、信定寺第六世来安察伝和尚が、当境内に墓碑を建立した。


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墓石です。

和田領主が大井信定、羽田家先祖が秦(羽田)幸清です。羽田家が祀る神社の中に和田領主の墓が羽田幸清の墓と並んである…。大井氏が羽田氏に見守られているように見えてしまいます。領主と家来(家老ですが)の墓が並ぶなど、通常ではあり得ないことのように思え、大井氏の大井は大堰ではないかと勘繰りたくなります。同族なら並んでいてもおかしくはありませんから…。

若宮八幡神社からさらに下ると、また家並みが見えてきます。正確な場所はわからないのですが、柳又のバス停付近かと思います。実はこのあたりに羽田本家のお宅があると和田宿本陣でお聞きしました。どれが本家宅なのでしょう?もちろん地域で最も立派なお宅のはずです。

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多分こちらでしょう。

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もう一枚。

羽田本家の玄関には「秦陽館」と書かれた額が掲げられているそうです。それが今もあるかどうか…。少なくとも門には見当たりません。

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その額です。やはりこちらが羽田本家でした。

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もう一枚。

写真は羽田分家の方のご厚意でご案内いただき、中で撮影させていただいたものです。またここには書きませんが、色々なお話もお聞かせいただきました。改めて深くお礼申し上げます。そんな訳で、通常この額の撮影はできないことお含み置きください。

羽田孜氏の本家が秦氏であったことを証明するかのような「秦陽館」の額を拝見できたのは、正に感動的でした。波田町における民宿のご主人のお話やお借りした資料などもそうですが、こちらが求めるものが図らずも出現するのは秦の神の導きのようにも思えてしまいます。本当に不思議ですね。

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邸内に立つ改築記念碑です。

羽田貞義撰文とあります。この人物に関しては「その15」で書きましたが、後でも出てきます。碑文の一部分を抜粋します。

天文年間此ノ地ノ領主大井信定武田信玄ト戦ヒテ敗ルルヤソノ家老羽田幸清亦殉死シ其子武久居ヲ此土ニトシ居宅ヲ構エシ以来三百有餘年云々とあります。

碑文も天文年間とするのみで、何年と特定してはいません。問題は其子武久です。「その15」では以下のように書いています。

戦国時代
秦幸清:天文年間に武田氏との戦闘で討死。
秦幸清の長男羽田筑後守竹久:武田氏に従い、武田の滅亡後は真田家に仕え大坂夏の陣で討死。
次男の羽田六右衛門房幸、三男の羽田右近之介幸正:真田家に仕え大坂夏の陣で討死。
四男羽田信久、五男羽田吉久:徳川方に与した。長和町和田の羽田氏は羽田吉久の後裔に当たる。


碑文の武久が羽田幸清の長男竹久を意味しているのであれば、大坂夏の陣で討ち死にしているはずです。よって、五男の羽田吉久が羽田本家の先祖になると思っていたのですが、碑文を見る限りでは羽田吉久ではなく羽田武久のようです。五男吉久は単なる書き間違いで、正しくは五男武久なのかもしれませんが、現時点では確認のしようがありません。この問題は棚上げとして、羽田本家を離れ長久保宿に向かいます。

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矢崎城跡の写真です。


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矢崎城跡を示すグーグル画像。

この場所で大井信定と秦幸清が武田軍と激闘を繰り広げ、討ち死にしたのでしょうか?いつか具体的な戦闘状況・年月日を示す資料が出ればと期待しています。では、もう少し羽田氏に関して見ていきましょう。羽田家の家系図によると、祖先は秦の始皇帝です。信濃秦氏の流れからすれば、秦川勝の子である秦広国の子孫が羽田本家になります。

元首相の羽田孜氏は始皇帝と徐福が祖先だとしていますが、徐福に関してはあり得ない話だと思われます。「新撰姓名録」を見る限り、始皇帝を祖先とする秦氏はいても、徐福を祖先とする秦氏は書かれていないからです。

多分、徐福子孫と自称する徐福系秦氏が存在することから、それを取り込んでしまったのでしょう。これから500年の歳月が経過すれば、羽田家の徐福伝説も固定化するかもしれません。

驚いたことに、後醍醐天皇の忠臣である秦武文(はだのたけぶん)も羽田家の祖先だそうです。寝屋川市の秦川勝墓所には正六位上兼右近衛府生秦武文と刻まれた石塔があるので、彼も秦川勝の流れに連なった人物とわかります。

以前にも書きましたが、後醍醐天皇の一宮である尊良親王は元弘の乱の失敗で土佐に流され秦武文は一宮の御息所(みやすどころ)を土佐へお連れしようと尼崎から船出しようとします。しかし、御息所を松浦五郎によって奪われ、武文は腹をかき切って自害する羽目に…。親王の没年は1337年なので、この伝説的な話はそれ以前のものと思われます。だとすれば1330年代前半の、武文が自害する以前にできた子供の子孫が秦幸清になったと考えられます。

他にも信濃国には土佐と関係する秦氏系の人物がいます。信濃にいた秦川勝の後裔秦能俊(家系がどう秦川勝に繋がるかは不明)は、保元の乱(1156年)において崇徳天皇に味方して敗北。敵の追及を逃れるため信濃から土佐長岡郡宗部(そかべ)郷(現南国市)へ移住しました。能俊は長岡郡宗我部村岡豊山に城を築き、長岡郡宗我部村の地名を取って長宗我部と名乗るようになったのです。

新開氏の一派はいつの頃か四国に移住し細川氏の配下になります。三好氏が細川氏を倒すと新開道善は三好方につき、牛岐城(うしきじょう)を拠点としました。彼は阿波を狙っていた長宗我部元親に敵対したのです。秦氏の子孫同士が戦うとは何の因果でしょう?ちょっと不思議ですね。

長宗我部元親は三好氏の勝瑞城を陥落させ、和議と称して新開道善を丈六寺に誘い出し、道善を謀殺。丈六寺の血天井が当時の歴史を物語っています。まあ、本当かどうかはわかりませんが…。

丈六寺に関しては以下を参照ください。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%88%E5%85%AD%E5%AF%BA

四国における新海姓をチェックしたところ以下のようになりました。
阿波国の徳島県:全体数98人。徳島市21人、秦姓が多い美馬町16人。
香川県:全体数106人。高松市36人、讃岐市28人、多度津17人。
他県の人数は少ないので記載しません。徳島と香川が拮抗しているのには何か意味がありそうです。

ここまで書いてあれっと思ったのですが、信濃秦氏の系統は四国と縁が深いようです。その理由を追及すると何かが出てくるかもしれません。でも、四国まで行くのは難儀ですね。

長久保宿の近くには、京都の松尾大社の分霊を勧請した松尾神社が鎮座しています。祭神は大山咋命。こんな場所に松尾神社が鎮座しているのは秦氏の関係としか考えられません。所在地:長和町長久保字宮所791

神社の詳細は以下を参照ください。
http://aidu.konjiki.jp/nagano/nakasen/nagakubo/matu.html

信濃国における秦氏は次のように纏められます。

始皇帝…弓月君…秦酒公…秦川勝―秦広国
波田町の秦氏:秦広国…巨勢氏と婚姻?→波多腰氏
長和町和田の秦氏:秦広国…秦武文…秦幸清―羽田武久or羽田吉久?…羽田貞義―羽田武嗣郎(三男)―羽田孜―羽田雄一郎
佐久の秦氏:秦広国…新開荒次郎忠氏…阿波国へ…新開道善
長宗我部流秦氏:秦広国…秦能俊(長宗我部能俊
)詳細は以下のホームページ参照。
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/tyoso_k.html

以上、秦の始皇帝から弓月君、秦川勝、秦広国へと続き、様々な変遷を辿った信濃国秦氏の動きを書いてみました。まだまだ内容に不十分な点もあり、訪問していない場所も多くあります。いずれもっと詳しく調べたいと思っています。

「信濃国の秦氏」はこれにて終了とします。
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信濃国の秦氏 その16


和田城のある山の左手中腹に神社らしき建物が見えます。

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新海神社です。(位置関係は「その15」に掲載した和田宿マップを参照。⑮が神社です)

和田宿マップによると、新海神社は大井氏宗家の本拠地である佐久の新海三社神社から分社され祀られたものだそうです。これをどう理解すればいいのでしょう?佐久は長和町同様、信濃国における秦氏の存在が現在に至るも確認できる地域です。そこから神社が勧請されているのです。

ここで急に場面を転換して、埼玉県深谷市に飛びます。深谷市新戒(しんかい)300に古櫃神社と言う変わった名前の神社が鎮座しているからです。


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古櫃神社を示すグーグル地図画像。由緒は以下の通り。

古櫃神社(新戒)
全国で唯一の社名をもつ当社は、新戒の鎌倉街道北側に鎮座している。創建は鎌倉期。秦河勝の裔で、新開荒次郎忠氏が肥沃な当地に館を構え、祖神の大荒明神を勧請し、伝来の社器を櫃に入れて社の下に納め、館の守護神としたことによると伝える。新開荒次郎忠氏は鎌倉時代丹党の旗頭で、源頼朝の重臣なり。永禄年中深谷上杉氏に属す。深谷上杉氏は北条氏に協和しており、北条氏が滅ぶと新開氏も深谷上杉氏とともに滅んだが、四国に移った一族は阿南市牛牧城主となり、地域発展に貢献し、城跡には新開神社がある。年間の祭事は、春・秋の祭りなどあり、五穀豊穣と奉賽の祭りが行われ、七月の八坂祭は特に盛大に行われ、市内最大の神輿を渡御して健康を祈る。

新戒(しんかい)の地名と新海、新開荒次郎忠氏が繋がっています。しかもそれらは秦川勝とも繋がっているのです。だとすれば、新開氏は秦川勝の子である秦広国の流れに連なっているのでしょう。さらに新開荒次郎忠氏は頼朝(秦氏の影響を受けている)の重臣でもありました。

由緒にある「祖神の大荒明神(おおさけみょうじん)」は秦川勝を意味します。秦川勝には以下のような伝承があります。

昔大和国洪水の折に、初瀬川大いに漲り、大なる甕一つ流れ来たって三輪の社頭に止まる。土人開き見るに玉の如き一男子あり云々。後に又小舟に乗って播磨に着し、大荒明神となりけり。

この内容で思い浮かぶものがありませんか?そう、桃太郎のお話と瓜二つです。桃太郎伝説の原点になったのは秦川勝だったのです。だから秦氏地名の地である大月にも桃太郎伝説が存在しています。(注:佐久市にも佐久市内山大月と言う地名があります)

話を戻します。佐久を本貫地とする新開氏の一派は武蔵国の新戒(榛沢郷大寄郷)に移住し、古櫃神社を創建しました。なお四国に移住した新開氏の一派は、天正10年(1582年)に同じ秦氏の血を引く長宗我部元親により倒され滅亡します。

では、新開氏の佐久における本領はどこでしょう?彼らの本領は佐久郡伴野庄田口郷(現在の長野県佐久市臼田)とされます。場所を地図で確認します。


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グーグル地図画像。

一方、長和町和田に鎮座する新海神社の元となった新海三社神社は佐久市田口2394に鎮座しています。何と、秦川勝の子孫である新開氏の本領と新海三社神社は同じ場所にあったのです。両者の関係が見て取れますね。

新海三社神社に関しては以下を参照ください。実に丁寧に纏めてあります。
http://www.genbu.net/data/sinano/sinkai_title.htm

上記ホームページには新開氏の開(さく)が、佐久の地名となり、「新開(にいさく)」から、新海という社号になったようだ、とあります。

酔石亭主もこの説に賛成ですが、内容をもう少し大きな視野で見ていきます。古櫃神社の由緒によると、秦川勝は新開氏の祖神であり大荒明神(おおさけみょうじん)でした。すなわち大荒=大避で京都太秦の広隆寺近くに鎮座する大酒神社(元名は大辟神社、坂越では大避神社と表記)に繋がっていきます。

元名が大辟神社になった理由は、秦氏の祖である功満王が漢土の兵乱を避けたことからとされていますが、この説には疑問を感じます。他にはどんな説があるのでしょう?

「大避」に関して、中国では「大闢」という文字が使われ、中国読みすると「ダヴィ」となるので大酒神社はダビデ神社だなどと言うトンデモ説もありますが、無理な解釈だと思います。酔石亭主の理解は以下の通り。

大避は大裂けで大地を切り裂き(開き)開発することを意味しています。大辟神社の名前は、秦氏が葛野を大々的に切り開いた(大開→大裂→大避)ことに由来し、それを大酒と表記するのは祭神の一人である秦酒公の影響でしょう。

秦川勝の子である秦広国の子孫は佐久地方に入植し、一帯を新たに開発しました。その行為が彼らの名前を新開(新たに開く)とさせたのです。

以上から、佐久の地名は新たに大地を切り開いた秦氏系新開氏の開(さく)に由来していると理解されます。結局、大荒、大避、新開、新海、佐久のいずれも意味は同じで葛野秦氏にちなんでいることになります。

よって佐久地方には、現在もなお秦姓の方が多く居られる結果となっているのです。(注:詳しく調べてはいないのですが、一般的には「柵」や木花之佐久夜毘売に由来していると言う説が有力なようです)

佐久でもう一つ気になる名前があります。それは井出氏です。以前、「富士山麓の秦氏 その9」にて豊嶋郡の秦井出氏(秦井手氏)に関して書いたことがあります。井出姓は長野県全体で1928人。その中で佐久市は653人、南佐久郡小海町277人、南佐久郡佐久穂町で195人を数え、新海姓と微妙に重なり、長野県全体の6割近い数字となっています。

井手は井戸や水路を意味し、秦氏の氏寺である広隆寺付近を流れる水路(桂川より分水)は広隆寺井手と呼ばれているそうです。全部が繋がっているように感じられるのですが、如何なものでしょうか?

そして新海三社神社は、佐久郡伴野庄・平賀庄・大井庄の三庄の総社でした。よって大井庄を本貫地とする大井信定の大井氏は、新海神社を長和町の和田城近くに勧請したのです。大井庄は岩村田一帯です。


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岩村田一帯を示すグーグル地図画像。

大井庄(岩村田)は新海三社神社からは結構離れているようにも見えるのですが、よほど神社の勢力が強かったのでしょうか?あるいは、こうも考えられませんか?

大井は既に見てきたように大堰で秦氏と関係がある。佐久には秦姓が多い(長野県全体の一割)。大井氏の家老が秦幸清。大井氏の居城は羽田姓(当時は秦姓)の多い長和町和田。和田城の近くに新海神社が鎮座。

こんな視点から見ると全てが秦氏繋がりのようにも見えてしまうのですが…。(あくまで酔石亭主の想像ですよ)

大堰の地名を長野県内で拾ってみました。

長野市大字東和田字大堰向西沖
佐久市中込字東大堰手前
北佐久郡御代田町大字馬瀬口字大堰添


長野市の和田に大堰とは怪しいですね。佐久市にも大堰があり、大井氏の岩村田とはすぐ近くです。やはり、秦氏→大堰→大井氏と関連しそうな雰囲気があります。

大井氏に関しては以下Wikipediaより引用します。

紀氏のうち長谷雄流に属する一族は実直の頃、国衙の関係者として武蔵国に土着した。伊勢国との関わりが深い。一族には大井氏の他に、品川氏・春日部氏・堤氏・潮田氏が居る。なお春日部氏は源頼政の郎党であったと考えられる。
大井氏(小笠原支族)
小笠原長清の七男朝光が、承久3年(1221年)の承久の乱における「宇治川の合戦」での戦功により、信濃国佐久郡大井庄の地頭となって土着したのが起源とされる。


参考までに長野県における新海姓を見ていきます。全体数256人中、佐久郡佐久穂町72人、佐久市62人、南佐久郡川上村49人、南佐久郡南牧村29人となっています。何と全体の8割以上が佐久を冠する地に居られることになります。ただ、彼らが新開氏の子孫(=秦氏の子孫)かどうか何とも言えません。

                  ―信濃国の秦氏 その17に続く―

信濃国の秦氏 その15


今回の最終目的地が小県郡長和町和田です。波田町に続き、またも秦氏の存在が想定される地域に和田の地名がありました。長野県の羽田姓で調べてみると、全体で300人中、長野市86人、小県郡長和町50人、大町市19人などが主なものです。長和町と言う小さな地域に全体の16%強も羽田姓の方が居られるのですから、この数には明らかに有意性があります。さらに和田宿から和田峠に向かう途中には、波田町と同様に唐沢があります。


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唐沢を示すグーグル地図画像。

これらのネーミングから、信濃国の秦氏は地名に関連性を持たせていると理解されます。

秦氏関連ではよく知られていることですが、元首相である羽田孜氏の父羽田武嗣郎(はたぶしろう)氏は秦氏の流れを汲む人物とされ、小県郡和田村(現在の長和町)の出身です。このあたりはじっくり検討するとして、中山道和田宿から見ていきましょう。


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和田宿を示すグーグル地図画像。

和田と表示された辺りが旧和田宿となります。和田宿は慶長7年(1620年)、中山道の設置に伴い成立しました。幕末の文久元年(1861年)3月、宿場の大半が火災で焼失してしまいますが、この年の11月に皇女和宮の御下向が控えていたところから、幕府より2千両ほど拝借して町並みを復興させたそうです。(注:現地で頂いた中山道和田宿マップを参照しました)

和田峠はガーネットの産地で、酔石亭主も数回採集に出向いています。また霧ヶ峰から和田峠一帯は黒曜石も産出し、旧石器時代の人々がナイフや鏃(やじり)の原材料とするため採集に訪れたとされています。秦氏の時代よりも遥か以前から人々がこの地で活動していたのです。

ちなみに、和田村の和田は大綿津見神(オオワタツミ)に由来する海人系安曇族の地名で、羽田姓の多い河口湖周辺にも足和田山や南都留郡足和田村の地名があり、一帯には徐福伝承が濃厚に残っています。つまり、羽田孜氏の和田村と秦氏と徐福伝承の地である富士北麓一帯には海人系で共通するものがあるのです。

和田宿周辺所で気になるものを何カ所かピックアップしてみます。

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頂いた和田宿の地図。

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かあちゃんの家。地図の⑦になります。

現在は農家レストランとなっていますが、実はこの建物が明治維新まで定名主を務めた羽田氏の役宅であったとのことです。本陣の案内の方にお聞きしたところ、羽田本家は和田宿に家があったが、長久保宿方面に下った柳又バス停近くに移られたそうです。(注:聞き取りなので正確かどうか自信はありません。脇本陣も羽田家だったようです)

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脇本陣です。(和田宿の写真は別記事にてご紹介します)

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和田宿から見た和田城跡。真ん中の落葉樹となったあたりが城跡だそうです。

和田城と長和町における羽田氏は密接不可分なもののようです。この城はかつて大井信定の居城でした。秦幸清(羽田治郎左衛門幸清、1520~1554年、現在の長和町における羽田氏のご先祖)は家老として大井信定に仕えます。ところが武田晴信(信玄)の信濃侵攻により、秦幸清は下和田の矢崎城(和田城の支城、後で写真をアップします)において討たれてしまいました。この折に和田城主大井信定も討ち死にしたとのことです。

実は、武田晴信がいつ矢崎城と和田城を攻めたのか判然としません。後で見る若宮八幡神社の解説板には天文23年(1555年)とあります。(天文23年は1554年のはずですが…)一方、中山道和田宿マップには天文22年(1553年)に武田晴信(信玄)と戦い、自害して果てた和田城主大井信定父子の菩提冥福を弔うため、翌天文23年に信定寺が建立された、とあります。

他のブログでは天文22年に信定寺が創建されたと言うのが主流となっています。大井信定が天文23年に討ち死にする前に菩提を弔う寺が建てられるはずがありません。

羽田本家の家系図には、羽田幸清が天文23年(1554年)6月15日、下和田の矢崎城において主君の大井信定と共に討死、墓は下和田若宮八幡社境内にある、と書かれているようです。

混乱させられますが、ほとんど史料がないようなので仕方ありませんね。本ブログでは、天文年間に武田晴信が大井氏の和田城と秦幸清が守る矢崎城を攻略した、としておきます。(注:「秦さんはどこにいる? その7」では、天文23年に攻略と書いていますが…(^_^;))

迫害を避け一族の無事を確保するためか、これ以降長和町の秦氏は羽田氏に改名したようです。(羽田孜氏もそのように語っておられます)羽田氏の流れを以下のように追ってみました。

戦国時代
秦幸清:天文年間に武田氏との戦闘で討死。
秦幸清の長男羽田筑後守竹久:武田氏に従い、武田の滅亡後は真田家に仕え大坂夏の陣で討死。
次男の羽田六右衛門房幸、三男の羽田右近之介幸正:真田家に仕え大坂夏の陣で討死。
四男羽田信久、五男羽田吉久:徳川方に与した。長和町和田の羽田氏は羽田吉久の後裔に当たる。
江戸時代
文政年間(1800年代前半):羽田忠左衛門、羽田雄助。
現代
羽田貞義―羽田武嗣郎(三男)―羽田孜―羽田雄一郎


(注:上記は寄せ集めで書いたので正しいとの保証はありません)

今回の内閣改造で、国交相には羽田雄一郎氏が起用されるとのことです。さすがですね。

以上から、長和町和田における羽田姓は秦氏が改姓したものであると確認できました。和田や唐沢の地名も秦氏が存在した傍証となるでしょう。もっと調べたいこともありますが、羽田氏の家系については一旦打ち切ります。和田城のある山の左手中腹に何やら気になるものがあるからです。

               ―信濃国の秦氏 その16に続く―

信濃国の秦氏 その14


前回で波多腰姓の謎に一定の視点を提示することができました。秦巨勢大夫説が正しいとすれば、善光寺さまさまですね。ところで、長野県飯田市には元善光寺があります。由緒はWikipediaによると以下の通りです。

古くはこの地を麻績の里(おみのさと)と呼んだ。推古天皇10年(602年)にこの地の住人本多(本田)善光が、難波の堀江(現在の大阪市)で一光三尊(善光寺如来)の本尊を見つけて持ち帰り、麻績の里の自宅の臼の上に安置したところ、臼が燦然と光を放ったことからここを「坐光寺」としたとされる。
その後、皇極天皇元年(642年)、勅命により本尊は芋井の里(現在の長野県長野市)へ遷座され、この寺が善光の名をとって善光寺と名付けられたことから、坐光寺は元善光寺と呼ばれるようになった。遷座された本尊の代わりに勅命によって木彫りの本尊が残され、また「毎月半ば十五日間は必ずこの故里(飯田)に帰りきて衆生を化益せん」という仏勅(お告げ)が残されたことで、「善光寺と元善光寺と両方にお詣りしなければ片詣り」といわれている。


なぜこのようなことになっているのでしょう?理由は明確だと思います。善光寺の創建伝承には秦氏が主導的役割を果たしました。一方、飯田市には秦姓の方が数多く居られます。長野県の全体112人に対して飯田市に35人、天龍村に15人、泰阜村で10人と南信地域だけで全体の5割を占めているのです。従い、善光寺の伝承が秦氏の手で飯田市に伝えられ元善光寺となったと理解されます。秦氏には良くあるケースですね。

そう結論を出したところで、麻績村を離れ秦川勝の子である秦広国が入植した信濃国更級郡桑原(現在の千曲市桑原)へと向かいます。ここで注目すべきは治田(はるた)神社です。と言うか、この神社以外に見るものはなさそうです。

千曲市のホームページによれば、711年(和銅4年)更級の里に養蚕を伝えた秦氏が稲荷を祀る。とあります。当初は秦神社と呼ばれていたそうです。「はるた」と「はた」。似通った音ではありますが、どうなんでしょう?実は治田(はるた)神社には上宮と下宮があります。


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治田神社上宮を示すグーグル地図画像。下宮は表記ありませんが忠魂殿の隣に鎮座。拡大すれば出てきます。

昔は治田山に鎮座していたものが里に降りて2社になったようです。上宮の鎮座地が千曲市大字桑原字宮沖1。下宮は千曲市大字稲荷山1650-1となっています。まず上宮から見に行きましょう。

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立派な木の鳥居です。

鳥居のお隣はこれまた立派なお宅で、袖うだつが上がっています。

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由緒です。

やや文字が小さいのですが、諏訪大社系や秦氏系とおぼしき保食神が祀られています。諏訪の神様が祀られているのは武田信玄の影響のようです。彦坐命は開化天皇の子供とか。あまり秦氏とは関係なさそうにも思えてきます…。

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石祠や石碑もあります。

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社殿。

上宮を出て下宮に向かいます。

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下宮の鳥居と拝殿。

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解説板。文字が消えかかって読み取れませんが、特記する程の内容ではなさそうです。

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摂社が数多くあります。

治田神社に関しては以下を参照ください。
http://www.genbu.net/data/sinano/haruta_title.htm

両神社を見終わりました。治田(はるた)が秦(はた)はやや語呂合わせ的な感がしないでもありません。治田はむしろ墾田(はりだ)のような気がします。秦氏が私的に開発した墾田に由来するのではないでしょうか?

そう言えば、推古天皇は豊浦宮から小墾田宮(おはりだみや)に遷っています。この宮では聖徳太子らを中心として、冠位十二階の制定、十七条憲法の制定、遣隋使派遣などの重要施策が決められていたようで、会議には秦川勝も参加していたでしょう。治田神社の治田はもしかしたら小墾田宮にちなむものかもしれません。逆に、小墾田宮を建造したのが秦氏で、そこから治田=秦になり、治田神社=「はた神社」となった可能性もあります。

それにしても、秦氏にとって信濃国の最初の地に痕跡が少ないのは不思議です。古い場所ほど現在は痕跡がないのは、秦氏探求でよく見られるケースではありますが…。多分当地に入植後、筑摩郡や佐久、飯田周辺に分散配置されたのでしょう。

神社の鎮座地が桑原と稲荷山であることが、秦氏の痕跡を伝える地名であるとするしかなさそうです。

大した収穫もなかったので、ついでに大雲寺を訪問しました。

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城郭のような佇まいです。

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もう一枚。

難攻不落の要塞でしょうか?

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さらに一枚。時期が早ければ、枝垂桜が綺麗だったと思われます。

寺に関しては以下を参照ください。
http://www.city.chikuma.nagano.jp/app/kanko/080519152516680/080519154545604/20080520154136597.html

お寺を出て信州の鎌倉と称される別所温泉に向かいます。酔石亭主の単独行ならどこでもいいのですが、女房殿にご満足いただくため、ある程度楽しめる宿にせざるを得ません。宿泊したのは旅館花屋です。

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花屋の外観。

宿の中に入ったら、もう別世界です。古くても手入れの行き届いた、とても趣のある宿だと思えました。花屋に関してはいずれ別の記事でもう少し詳しくご紹介します。

               ―信濃国の秦氏 その15に続く―

信濃国の秦氏 その13


波田町において波多腰姓の謎を解くことはできませんでした。となれば、信濃秦氏の原点である信濃国更級郡桑原郷(現在の千曲市桑原)に行ってヒントを探るしかなさそうです。

と言うことで、波田町を出て車を走らせます。松本市から北上し明科で403号線に入ると右手の山は虚空蔵山です。さらに進めば、麻績(おみ)村に入ります。村は北国西街道沿いに位置し、かつて麻績宿が設置されていました。今もその雰囲気が残っています。

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麻績村の古いお宅。

麻績宿に関しては以下を参照ください。
http://www.ichiro-ichie.com/03koshinetsu/nagano/omi/omi01.html

麻績の地名で連想されるのが麻績王と言う名前の人物です。時代が秦川勝の子である秦広国と近いので、ちょっと調べてみましょう。「日本書記」の天武4年(675年)4月18日には、三位麻続王に罪があり、因幡に流す。一人の子供は伊豆島に流し、もう一人は血鹿島(五島列島の島)に流すとありました。壬申の乱の関係で罪に問われたのでしょうか?Wikipediaの天武天皇の項には抵抗勢力の処罰とあります。

ところで、天武元年(672年)8月25日に大納言巨勢臣比等とその子孫が流罪との記事があります。何となく麻績王と対応しているような気がしてきました。

聖徳太子の関連では巨勢比良夫がいます。「日本書記」によれば、用明天皇2年(587年)7月、聖徳太子は仏教を守護するため物部守屋を討つのですが、この際巨勢比良夫が共に戦っています。当然秦川勝も一緒に戦ったのでしょう。(或いは秦川勝の父である秦国勝?)当時、秦氏と巨勢氏は共に敵と戦った盟友関係にあったのかもしれません。

秦川勝の生没年は不明で、6世紀後半から7世紀半ばの人物と見られます。秦川勝は644年に駿河国富士川周辺で、大生部多を討っています。587年に15歳であったと仮定し、650年頃死去したとすれば、80歳近い長寿を全うしたことになります。

問題は聖徳太子の子(「上宮聖徳法王帝説」による)とされる山背大兄王が 蘇我入鹿により皇極天皇2年11月11日(643年12月30日))に暗殺されている点です。これに関連して秦川勝の名が出てこないのは、643年の時点で既に死去していた可能性もあります。

赤穂郡の坂越は秦川勝の終焉の地とされ、彼を祀る大避神社が鎮座し、郡内に21社もあったとされます。周囲には高取峠や高尾山など秦氏地名も見られます。ところが同時に、蘇我氏の影響がある須賀神社が幾つも鎮座しているのです。秦川勝は蘇我入鹿の迫害をのがれて坂越に移ったとされているのに、逃れた地には蘇我氏の影が濃いとはどうしたことでしょう?この点に関しては「秦さんはどこにいる? その23」でも少し触れています。

蘇我氏と秦氏の関係は非常にややこしいので、現地調査もしていない段階では何とも言えません。一応秦川勝が650年頃に死去した前提で考えると、波多腰氏とは秦川勝+巨勢比良夫=秦巨勢氏となりそうです。まだ、単なる推測の域を出ませんが…。

もう少し巨勢氏を見ていきます。巨勢胡人の子に巨勢大海(こせおおあま、生没年不明。推古天皇の時代の人物)がいます。この名前に注目してください。

大海=おみ=安曇族の海人系=麻績(おみ)とならないでしょうか?秦川勝の子で信濃国を統治した秦広国に対応する人物が安曇族と関係を持った巨勢大海とすれば、大海は麻績と繋がりそうです。以上から、麻績王と巨勢氏は何らかの密接な関係があったと思われます。巨勢氏が海人系の安曇族と関係を持ち、秦氏は既に海人系と関係があるので全体が繋がりそうになってきます。

麻績村からさらに進むと聖徳太子から秦川勝が賜った信濃国更級郡桑原郷(現在の千曲市桑原)です。そのまま北東に進むと長野市で善光寺があります。善光寺の名前で何かが閃きました。そう、善光寺の創建には確か聖徳太子が絡んでいたはずです。ちょっと調べてみましょう。まず善光寺縁起です。とても長いので簡略に書きます。

百済から献上された仏像に関し、仏教に反対する物部尾輿たちは尊像を難波の堀江に投げ捨てました。物部尾輿の子・守屋を攻め滅ぼした聖徳太子が難波の堀江で祈ると如来様は一度水面に浮上され、再び御姿を水底に隠されました。その頃、信濃の国に本田善光という人がいて、国司に伴って都に行った折、難波の堀江にさしかかりました。すると、水中より燦然と輝く尊像が出現。 善光は歓喜して礼拝し、如来様を背負って信濃の我が家に帰りました。

これだけではよくわかりません。別の資料に当たってみましょう。「伊呂波字類抄」の推古天皇10年4月8日に以下の記述があります。

信濃国人若麻績東人(本田多善光のこと)が京へ出向き、帰る日にこの仏を伝え奉る。背を離れず、麻績郷へ着くと、住まいを奉って寺とし、四十一年礼拝供養

若麻績東人とあります。麻績王と何らかの繋がりが感じられます。と言うことは、巨勢氏との関係も想定されます。面白くなってきましたので、さらに別の資料に当たります。「扶桑略記」です。内容は以下の通り。

推古天皇一〇年(六〇二)四月八日、仏の託宣があり、信濃国水内郡にお移しした。この仏像がすなわちいま善光寺の三尊である。ある記に云う。信濃国善光寺阿弥陀仏がすなわちこの像である。推古天皇の御時壬戌四月八日、秦巨勢大夫に信濃国へ請け送り奉るよう命ずる。

何とまあ、驚いて腰を抜かしそうになりました。秦巨勢大夫とあります。秦氏と巨勢氏は海人系を経由しなくてもダイレクトに繋がっていました。波多腰氏の祖先は秦巨勢大夫だったことになります。しかし、そう簡単に断定していいのでしょうか?

秦巨勢大夫を現代で書くと、例えば、鈴木田中大夫になってしまいます。名字が二つ並んだ人物などいません。秦巨勢大夫とは秦大夫と巨勢大夫をくっつけて表記したものと考えざるを得ないのです。ではどんなストーリーとなるでしょう?

推古天皇の時代、秦巨勢大夫に信濃国へ仏像を送るよう命じられるのは聖徳太子を除いて他にいません。命じられた秦大夫とは、聖徳太子より恩賞として信濃国更級郡桑原郷を賜った秦川勝を措いて他にいないのです。だとすれば、巨勢大夫とは今までの検討結果から巨勢比良夫しかいないことになります。

では、「伊呂波字類抄」に出てくる若麻績東人とはどんな人物なのでしょう?名前からして、麻績王と関連する人物に間違いないと思われます。そして麻績王は巨勢氏と関係のある人物です。全くの想像ですが巨勢大海の子が麻績王なのかもしれません。

ストーリーは以下のようになりそうです。聖徳太子は秦川勝に百済からの仏像を善光寺(実際には麻績郷)に運ぶよう命じた。秦川勝は盟友である巨勢比良夫に委託した。巨勢比良夫は自分たちと関係の深い若麻績東人に命じて実際に運ばせた。つまり秦川勝は元請けで、巨勢比良夫は下請け、若麻績東人が孫請けの関係となります。

(注:若麻績東人はほとんど合成語のようで、東国の人である、若い麻績と理解されます。長野県における若麻績姓を調べたところ、全体で13人と非常に少なく、内12人が長野市となっています。チェックしたところ、現在も若麻績東人の子孫ではないかと思われる方が―過去の歴史で色々変遷はあったようですが―善光寺の関係者としておられました。)

さてそうなると、波田町における波多腰氏の素性が見えてきます。信濃国における秦氏は、秦川勝の長男である長男秦広国が信濃国に移り住んで統治したのが始まりと考えられます。巨勢氏も同じ頃信濃国に入り、秦氏と巨勢氏が婚姻関係を結んだのでしょう。「扶桑略記」に秦巨勢大夫とあるのは、その当時の印象が残っていたからではないでしょうか?しかし秦巨勢では「鈴木田中」と同じで姓としては成り立たず、波多腰に改名したと推定されます。

これで波田町の秦氏の実態が判明しました。秦広国傘下の秦氏と巨勢氏が婚姻関係を結び波多腰姓となり、彼らは朝廷の政策で波田町に移住。和田堰を築造し大野牧を開いたのです。

なお「扶桑略記」は堀河天皇の寛治8年(1094年)までを扱っているので、平安時代に成立したとされています。「波田町誌」が想定する波多腰姓の成立時期は鎌倉時代以降ですから、それ以前に波多腰の元となる秦巨勢が存在している以上、波田町の秦氏は秦広国からそれほど下らない時代に、既に入植していたと推定されます。

上記のような観点からすれば、波田町における和田堰の築造と大野牧の成立時期、それらに対する秦氏の関与が波多腰姓とその成立時期とも矛盾することなく連結してきます。これで、めでたしめでたしと思ったのですが、なおも心中には不安が残っています。「波田町誌」は東の輿氏(巨勢氏)が波田町に移住した説を最も数多く掲載しているからです。この説を再度以下に記載します。

東の波多氏は巨勢氏であり西に移住した説
① 埴原・内田の地頭である波多氏は、昔は巨勢氏(輿)と称し鎌倉時代にこの地を領していたが、鎌倉時代末頃今の波田町に移住した。
② 波田氏と同族の巨勢氏が大和から埴原に移住し牧を経営し、今の波田町に移った。
③ 輿氏(巨勢氏のこと)は埴原の西越(にしこせ)地区に古くから住んでいた。波田氏が西に移ってから輿氏が埴原牧を相続し波多腰を名乗った。

まず、巨勢氏が牧を経営する能力があったかを知る必要があります。「日本書記」の天武14年(685年)には巨勢朝臣馬飼に畿内の役を任じた、とありますので、牧を管理する任に当たっていたことは確かなようです。年代的にも和田堰築造や大野牧の成立時期と見合っています。西越地区は中山の中山霊園近くに西越公民館があることから確認できます。


大きな地図で見る
西越公民館を示すグーグル地図画像。

となると、輿氏がポイントになりそうです。輿姓で検索してみると…、驚いたことに長野県全体で76人中、松本市が64人と圧倒的な人数となっていました。上記の説から、輿氏は松本平東部の埴原・内田周辺に集中している(未確認ですが)はずです。実際に輿姓が存在している以上、町誌の記載内容も無視はできません。

しかし上記の説は、どれも輿氏(巨勢氏)が波田町に移住して波多腰になったと見るのが正しそうに思えます。言い換えれば、7世紀後半の波田町には秦氏が既に存在しており、そこに輿氏が移住して改姓、或いは秦氏と婚姻し改姓したものと判断されるのです。

結論的には、波多腰姓の起源は秦巨勢大夫説と輿氏の波田町移住に伴う改姓説の二つがあり、どちらとは断定できない結果となりました。いずれにせよ「信濃国の秦氏」は同国における秦氏の存在を検討するものであり、波多腰姓成立の経緯はともかくとして、波田町に秦氏が存在していたことは間違いなさそうです。

                 ―信濃国の秦氏 その14に続く―
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