記紀・風土記の秦氏 その5


前回までで、「記紀」や「新撰姓氏録」における秦氏を垂仁天皇、応神天皇、仁徳天皇から雄略天皇の条にまで下りました。雄略天皇期には他にも秦氏関連の記事があるので見ていきましょう。

雄略天皇12年条冬10月
木工闘鶏御田(つけのみた)が伊勢采女を犯そうとしたと疑い、殺そうと思って物部に引き渡された。その時伺候していた秦酒公が、御田にそのような意図がないことを天皇に悟らせようとして琴を弾いて歌った。天皇は琴の歌の真意を悟ってその罪を許された、とあります。(全文は長いので、省略して書きました)

御田は斐陀(飛騨)の国人で木工を専業としており、秦氏の職掌に近いものがあるので秦酒公は彼を救うべく努力したのでしょう。また酒公は天皇の傍に伺候できるだけの高い立場を持っていたと理解されます。闘鶏(とうけい)は鶏を戦わせることを意味しますが、酔石亭主としては(つげ)で地名の都祁と理解します。そして都祁には秦氏や多氏が居住していました。


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都祁を示すグーグル地図画像。

都祁は弓月君から連想される弓月嶽(巻向山)の北東に位置し、都祁波多野には式内の神波多神社が鎮座しています。詳細は以下を参照ください。
http://www.genbu.net/data/yamato/kanhata_title.htm

このように考えると木工闘鶏御田とは、都祁にいた秦氏系或いは秦氏配下の木地師が飛騨に移住したものと想像されます。飛騨の匠の祖は秦氏だったのかもしれません。

雄略天皇15年 やや長いですが、重要と思われるので全文を記載します。

十五年に、秦民を臣(おみ)・連(むらじ)等に分散ち、各(おのもおのも)欲(ねがひ)の随に馳使ひて、秦造(はだのみやつこ)に委ねず

15年に秦の民を臣や連に分散し、それぞれの思うままに使って、秦造には委ねなかった。

是に由(よ)りて、秦造酒、甚だ以ちて憂として、天皇に仕へまつる。天皇、愛しび寵みたまひ、詔して秦民を聚(つど)へて、秦酒公に賜ふ。

秦酒公はこれを気に病みながら天皇に仕えていた。天皇は酒公を寵愛して、秦の民を集めて酒公に与えられた。

公、仍(よ)りて百八十種の勝(すぐり)を領率ゐて、庸・調の絹・縑(かとり)を奉献り、朝庭(みかど)に充積(みてつ)む。因りて、姓を賜ひて禹豆麻佐(うづまさ)と曰ふ。

酒公は百八十種の勝を統括することになり、庸・調の絹・上質な絹織物を献上し、朝廷に山ほど積み上げた。そこで姓を与え、禹豆麻佐(うづまさ)と言う。

十六年の秋七月に、詔して、桑に宜き国県に桑を殖ゑしめたまふ。又秦民を散ち遷して、庸・調を献らしめたまふ。

十六年の秋七月に、詔して、桑に適した国や県に桑を植えさせた。また秦の民を分離して移住させ、庸・調を献上させた。

以上を見る限り、秦氏は何度となく集められたり、分散させられたりしていることになります。秦氏の痕跡が各地に見られるのはこの影響でしょうか?

太秦の由来もここに語られています。(うづ)とは大きいことを意味すると思われ、大族である秦氏の由来譚になっています。

桑を植えさせるのは、養蚕、機織りを得意技とする秦氏の職掌を示しています。

               ―記紀・風土記の秦氏 その6に続く―
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記紀・風土記の秦氏 その4


前回で弓月君は応神天皇から大和朝津間腋上地(現在の奈良県御所市朝妻)を賜り、ここに居住したと書きました。秦王国のある九州を飛ばして奈良に直行するのはちょっとおかしいと思われます。そこで調べたところ、福岡県久留米市に御井朝妻と言う地名がありました。


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御井朝妻を示すグーグル地図画像。

ここは谷川健一氏が「白鳥伝説」(小学館)で邪馬台国に比定している場所です。弓月君はまず御井朝妻に居住してから豊前に移り、豊前より海路大和に移動して、朝妻の地名を持ち込んだのかもしれません。

それはさて置き、今回は摂津国の秦氏から始めます。

摂津国
氏族名     姓     同祖関係     始祖 
秦忌寸     忌寸   太秦公宿祢同祖  功満王之後也 
秦人           秦忌寸同祖    弓月王之後也

河内国
氏族名     姓     同祖関係     始祖 
大里史     史    太秦公宿祢同祖  秦始皇五世孫融通王之後也
秦宿祢     宿祢            秦始皇五世孫融通王之後也
秦忌寸     忌寸   秦宿祢同祖    融通王之後也
高尾忌寸    忌寸   秦宿祢同祖    融通王之後也
秦人           秦忌寸同祖    弓月王之後也
秦公      公             秦始皇孫孝徳王之後也
秦姓                    秦始皇帝十三世孫然能解公之後也

和泉国
氏族名     姓     同祖関係     始祖
秦忌寸     忌寸   太秦公宿祢同祖  融通王之後也
秦勝           同祖

摂津、河内、和泉といずれも過去に取り上げた場所です。河内国では高尾忌寸(鷹尾)が存在し、秦氏のシンボルが鷹である点も確認できます。そうした地域に秦氏が多く居住していたのは、「新撰姓名録」の内容からも明らかだと思います。

河内国には河内国茨田郡幡多郷(大阪府寝屋川市川勝町)があり、現在でも秦町や太秦の地名、伝秦川勝の墓もあって秦氏の中枢的エリアと思えます。


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一帯を示すグーグル地図画像。

「古事記」の仁徳天皇の条には以下の記載があります。

また秦人を役ちて茨田堤(まむだのつつみ)また茨田三宅を作り、また丸爾池(わにのいけ)、依綱池(よさみのいけ)を作り、また難波の堀江を堀りて海に通はし、また小橋江(をばしえ)を堀り、また墨江の津を定めたまひき。

秦氏の得意技である土木工事が記載され、後の京都における葛野大堰に繋がってきます。堤は現在も門真市宮野町に鎮座する堤根神社(つつみねじんじゃ)本殿裏に残っています。


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神社の位置を示すグーグル地図画像。

奈良県田原本町には秦庄があり、その南西には田原本町満田と言う地名が見られます。茨田の地名は秦氏によって田原本町満田より持ち込まれたものと思われます。


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田原本町満田の位置を示すグーグル地図画像。

この地域はまだ訪問していないので、実感として記事を書けません。いずれ同地を訪問した上で、詳しく書きたいと思っています。摂津国と和泉国も同様に簡単な記事は以前書いていますが、詳細は同地を訪問した上でとしておきます。

さて、今までの記事で不十分な点もあり、以下補足を書きたいと思います。

「その1」において「弱水」はホータン(巨丹、現在の新疆ウイグル自治区和田)と書きました。一方、「倭国伝」(講談社学術文庫)の「三国志」夫余伝に、夫余の北に弱水があると記載あり、注によるとこの川は松花江か黒竜江とのことです。しかし、中国東北部の寒い地方が常世国とすれば、常世国(蓬莱)イメージから大きくかけ離れます。よって弱水はホータンを指すとしておきましょう。

「その3」において徐福と秦氏の関係を書きましたが、日本における史料で両者の関係を探ることはできません。そこで中国から見た日本史が書かれている「倭国伝」を参照し、何かヒントがないか検討してみます。

まず「後漢書」(巻八十五・東夷列傳)を開きます。ここに徐福に関連して以下のような記述が見られました。

又有夷州及澶州。傳言秦始皇帝遣方士徐福将童男女數千人入海、求蓬莱神仙不得、徐福畏誅不敢還、遂止此州、…以下略

また、夷州と澶州が(会稽郡の海の彼方に)ある。秦の始皇帝はそこに方士徐福を派遣し、徐福は幼い男女数千人を率いて海上に出て、蓬莱の仙人を求めたが会うことはできなかった。徐福は罰を恐れて帰国せず、その州に留まった。

一般的には会稽郡との位置関係から、夷州は台湾で澶州が沖縄とされています。しかし、夷州は単なる野蛮な国の総称であり特定の国を指してはいないと思われます。

「三国志」の魏志倭人伝には有名な邪馬台国の卑弥呼に関する記述があります。次に「隋書」の倭国伝を見ていきます。ここには倭国の王多利思比狐(聖徳太子)が隋の煬帝に国書を送り、「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや云々」と書かれていたので煬帝が怒ったとの有名な一文もあります。

続いて翌年裴清が倭国に派遣されますが、以下の記述が見られます。

又至竹斯國、又東至秦王国。其人同於華夏、以為夷州、疑不能明也。

また筑紫国に至る。又東の秦王国に至る。その人は中国人と同じである。それを夷州(野蛮な国)とするのは疑わしいが明らかにはできない。

大和岩雄氏の見解によると、秦王国は豊前にある秦氏の国で酔石亭主も賛同します。さて、「後漢書」で徐福は夷州、澶州に留まったとあり、「隋書」では中国人と同じ人が住む秦王国を夷州(野蛮な国)であるとするのは疑わしいが、この点を明らかにはできない、と記述しています。(注:大和岩雄氏は著書の「日本にあった朝鮮王国」で「疑不能明也」に関して別の解釈をしています)

「後漢書」と「隋書」の記述を突き合わせると、徐福は夷州である秦王国に来たとも言えそうです。けれども、この解釈には相当無理がありますね。もう少し中国側の記述が詳しいものであれば、徐福と秦氏をうまく結びつけられたかもしれません。本当に残念……。

                 ―記紀・風土記の秦氏 その5に続く―

記紀・風土記の秦氏 その3


今回は弘仁6年(815年)に編纂された古代氏族名鑑、「新撰姓名録」から秦氏の存在を見ていきます。姓名録には、本貫、種別、細分、氏族名、姓、同祖関係、始祖、記事などの項目があって、本貫は氏族発祥の地、種別は氏族の出自、細分は出身国を意味します。

秦氏の場合、種別は諸蕃(しょばん)となっています。諸蕃とは「三韓」と呼ばれた朝鮮半島の国々を出自とする渡来系氏族を指す言葉ですが、細分では「漢」と種別とは矛盾した形になっています。この矛盾は、彼らが始皇帝の子孫との伝承を持つ一方、朝鮮半島を経由して渡来した事実によるものと思われます。

まず左京を本貫地とする秦氏を見ていきましょう。左京に関しては以下Wikipediaより引用します。

「左京」とは、天皇の在所すなわち御所から見て左側の意。天皇は南面して高御座に座っていたので左は東になる。そのため地図上では右にありながら左京と呼ばれる。


氏族名      姓    同祖関係     始祖   
太秦公宿祢   宿祢            出自秦始皇帝三世孫孝武王也

記事
男功満王。帯仲彦天皇[謚仲哀]八年来朝。男融通王[一云弓月王]誉田天皇[謚応神]十四年。来率廿七県百姓帰化。献金銀玉帛等物。大鷦鷯天皇[謚仁徳]御世。以百廿七県秦氏。分置諸郡。即使養蚕織絹貢之。天皇詔曰。秦王所献糸綿絹帛。朕服用柔軟。温煖如肌膚。仍賜姓波多。次登呂志公。秦公酒。大泊瀬幼武天皇[謚雄略]御世。糸綿絹帛委積如岳。天皇嘉之。賜号曰禹都万佐


功満王が仲哀天皇8年に来朝した。融通王(弓月王)が応神天皇14年に27県の人民を率いて帰化し、金銀玉帛などを献上した。仁徳天皇の御代に127県の秦氏を以て諸郡に分置し、蚕を養い絹織物を貢がせた。天皇は、秦王の献上する糸、綿、絹帛(きぬ)は、自分が用いると柔らかで、暖かいこと肌膚(はだ)のようだ、と言われた。よって波多(はた)の姓を賜った。次に次登呂志公(とろしのきみ)、秦公酒(はたのきみさけ)、雄略天皇の御代に糸、綿、絹帛を山のように積み上げたので、天皇は喜び、号を賜いて禹都万佐(うづまさ)と言う。

氏族名     姓     同祖関係     始祖   
秦長蔵連    連    太秦公宿祢同祖  融通王之後也
秦忌寸     忌寸   太秦公宿祢同祖  融通王五世孫丹照王之後也
秦忌寸     忌寸   太秦公宿祢同祖  融通王四世孫大蔵秦公志勝之後也
秦造       造                始皇帝五世孫融通王之後也

記事には秦氏の渡来、彼らが養蚕や機織りの特殊技能を持つこと、秦姓の由来、太秦(うずまさ)の地名由来となる「禹都万佐」などについて記されています。正しく秦氏の基礎資料と言えるでしょう。また、秦氏が始皇帝を始祖と(自称)する点も記載されています。一方、徐福はどこにも出てきません。

他に色々見慣れない言葉がありますので、確認していきます。まず「姓」ですが、これは大和朝廷が各豪族の貢献度に対して授与したもので、氏姓(しせい)制度に基づいています。

宿禰(すくね)は、天武天皇13年(684年)に制定された八色の姓(やくさのかばね)における姓(かばね)の一つであり、真人(まひと)、朝臣(あそん)についで3番目となります。連(むらじ)は、八色の姓において上から7番目。忌寸(いみき)は 、上から4番目となります。

造(みやつこ)は部民(べみん)を率いて大和朝廷の職務を分担する中級の伴造(とものみやつこ)に与えられた姓で、賜姓の時期は6世紀ごろとされます。八色の姓制定時には秦造(はたのみやつこ)が4番目の忌寸(いみき)を賜姓されています。

左京の秦氏を見ただけで、彼らの位置付けや基本事項がよくわかりますね。次が右京を本貫地とする秦氏です。

氏族名     姓     同祖関係      始祖 
秦忌寸     忌寸   太秦公宿祢同祖  功満王三世孫秦公酒之後也
秦忌寸     忌寸   太秦公宿祢同祖  功満王後也
秦忌寸     忌寸   太秦公宿祢同祖  始皇帝十四世孫尊義王之後也
秦忌寸     忌寸               始皇帝四世孫功満王之後也
秦人            太秦公宿祢同祖  秦公酒之後也

始皇帝があちこちに出てきます。次が山城国です。

氏族名     姓     同祖関係      始祖 
秦忌寸     忌寸   太秦公宿祢同祖  秦始皇帝之後也

記事
功智王。弓月王。誉田天皇[謚応神。]十四年来朝。上表更帰国。率百廿七県伯姓帰化。并献金銀玉帛種々宝物等。天皇嘉之。賜大和朝津間腋上地居之焉。男真徳王。次普洞王。[古記云。浦東君。]大鷦鷯天皇[謚仁徳。]御世。賜姓曰波□。今秦字之訓也。次雲師王。次武良王。普洞王男秦公酒。大泊瀬稚武天皇[謚雄略。]御世。奏□。普洞王時。秦民惣被劫略。今見在者。十不存一。請遣勅使括招集。天皇遣使小子部雷。率大隅阿多隼人等。捜括鳩集。得秦民九十二部一万八千六百七十人。遂賜於酒。爰率秦民。養蚕織絹。盛□詣闕貢進。如岳如山。積蓄朝庭。天皇嘉之。特降籠命。賜号曰禹都万佐。是盈積有利益之義。役諸秦氏搆八丈大蔵於宮側。納其貢物。故名其地曰長谷朝倉宮。是時始置大蔵官員。以酒為長官。秦氏等一祖子孫。或就居住。或依行事。別為数腹。天平廿年在京畿者。咸改賜伊美吉姓也


多くの秦氏祖先の名前が出てきますが、あまり意味がないので無視します。ここで重要なのは、「賜大和朝津間腋上地居之焉」という一文です。弓月君は応神天皇から大和朝津間腋上地(現在の奈良県御所市朝妻)を賜り、ここに居住したことになります。そして雄略天皇期に賀茂氏と共に京都盆地へと北上したのです。


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朝妻を示すグーグル地図画像 

近くに伏見という地名もあります。伏見(深草)は秦氏の重要拠点の一つですが、朝妻近くにある伏見の地名を持ち込んだのでしょうか?

秦氏の祖である弓月君が渡来して奈良盆地に直行したら、九州の秦王国はどうなってしまうのか、という問題が発生します。秦氏はまず九州に上陸して豊前国に根を張り、そこから大和へ移住したと考えるのが自然なはずですが、姓氏録の記述では朝妻に直行したような雰囲気があるからです。

大和岩雄氏は「日本にあった朝鮮王国」(白水社)において、秦氏の渡来を五世紀前後に最初の渡来があり、百年間ほど、断続的に渡来したと考えられる、と書いています。しかし、渡来してどこに最初に定着したのかは書かれていません。秦王国のある豊前国が最初の定着地である前提で書かれているようには思えますが…。

取り敢えずは、弓月君の一団は奈良盆地に入ったが、その後も断続的に渡来し豊前国に定着したグループがあったとするしかありませんね。この問題を誰かが研究されて、答えを出していただけたらと思っています。

続いて、記事の「普洞王男秦公酒」以降を見ていきます。普洞王の子である秦酒公(日本書記の表記、はだのさけのきみ)に関連する事項が中心となります。

雄略天皇の御代、普洞王のとき、秦の民が劫略を被り、今はかつての十分の一もいない状態となった。秦酒公は天皇に彼らを召し集めて欲しいと要請した。天皇は小子部雷(チイサコベイカツチ)に、大隅阿多隼人らを率いさせて捜索し、秦の民を集めさせた。その結果、秦の氏九十二部、一万八千六百七十人を得て、酒公に賜わった。酒公は秦の民を率い、養蚕をさせ絹織物を作って盛んに献上し、丘のように山のように、朝廷にうづ高く積み上げた。天皇はこれを喜び、酒公を特別に御寵愛され、禹都万佐(ウツマサ)という号を賜わった。たっぷり積めば利益があるので、酒公は長谷朝倉宮のそばにおいて八丈大蔵を秦氏に建てさせた。このときが大蔵官員の始まりで、酒公は初代長官となった。

現代語訳の能力が低いため正しくない部分もあるでしょうが、その際はご寛容ください。本ブログにおいては、おおよその主旨がわかれば十分だと勝手に思っています。

さて、雄略天皇の時代になると、「日本書記」の年代(在位が457年~479年)と実年代がほぼ一致してくると思われます。従い5世紀の後半には、養蚕や機織りに従事し、また財務官僚として力量を発揮すると言う秦氏の特徴が明確に現れてきたと見られます。

酒公は松尾大社で見られるように酒造を意味すると考えられ、醸造・発酵技術を持った秦氏を示しています。同時に、大酒神社=大避神社=大裂神社と考えれば、裂は土地を開発する意味となり、土木技術を持った殖産一族秦氏の意味も含んでいると思われます。

山城国を続けます。

氏族名     姓     同祖関係     始祖 
秦忌寸     忌寸            始皇帝十五世孫川秦公之後也
秦忌寸     忌寸            秦始皇帝五世孫弓月王之後也
秦冠                     秦始皇帝四世孫法成王之後也

大和国
氏族名     姓     同祖関係      始祖 
秦忌寸     忌寸   太秦公宿祢同祖  秦始皇四世孫功満王之後也 


「新撰姓氏録」は平安時代初期に編纂され記載内容は、左京と右京及び五畿内に住む豪族の姓氏に限られています。内容は各豪族が自己申告したものなので、どこまで信憑性があるか何とも言えません。

また、徐福を祖先とした記述がないのは、左京と右京及び五畿内の秦氏が始皇帝を祖とする伝承だけを持ち、徐福系秦氏は別グループであることを示唆しているように思えます。秦氏と徐福がいつの段階で何を契機として結び付いたのかを示す史料はなく、この問題を解明するのは不可能な状況です。

中国における文献は、日本の僧である寛輔(弘順大師)が顕徳5年(958年)に中国に渡って、徐福は日本に渡来し子孫は秦氏を名乗ったと語り、それを義楚が自分の著書である「義楚六帖」に載せたのが最初とされます。徐福と秦氏が連結したのはここからかもしれません。

「義楚六帖」により中国内で徐福は日本に渡来したとの説が広がり、日本に逆輸入されていきました。時代が下ると徐福伝承は熊野系とも連結していきます。

弘安2年(1279年)には宋の無学祖元が来朝し、徐福の渡来地を熊野として「献香紀州熊野霊祠」と題する詩を献じ、徐福と熊野を結び付ける最初の記述となっています。また、南北朝時代の1368年に明の太祖に謁見した僧絶海は「熊野峯前徐福祠 云々」と詠い、徐福伝承が熊野と関連付けられています。但し徐福伝承と熊野系との実際の結び付きは、熊野信仰が広まった平安末期頃(1190年代)と思われます。

話が熊野系にまで飛んでしまいました。いずれにせよ文献だけから判定すると、「新撰姓氏録」の編纂時点である弘仁6年(815年)で徐福伝承は秦氏と結び付いていなかったとも言えそうです。

だとしたら、弘順大師は誰からどのようにして徐福が日本に渡来し、子孫は秦氏を名乗ったとする情報を得たのでしょう?疑問はさらに深まりますが、情報源は徐福子孫を自称する秦氏しかありません。その場合、958年以前に徐福伝承と秦氏は結び付いていたことになります。全く整理しにくいこと、この上ありませんね。

なお、徐福系秦氏は安曇族などの海人系と結び付き、日本の沿岸部を海路移動したグループだろうとの想定は可能です。

次は摂津国の秦氏に移りますが、長くなっているので次回とします。

                ―記紀・風土記の秦氏 その4に続く―

記紀・風土記の秦氏 その2


今回は第15代応神天皇に関連する内容を見ていきます。秦氏にとって最も重要な内容が「日本書紀」に記されています。応神天皇14年に秦氏の祖である弓月君が百済より来朝し以下のように奏上します。

「臣、己が国の人夫百二十県を領いて帰化り。然るを、新羅人の拒くに因りて、皆加羅国に留れり」

弓月君は百二十県の民を率いての帰化を希望していました。しかし、新羅の妨害によって叶わず、全員が加羅国に留まっていると天皇に奏上します。天皇は武内宿禰の子である葛城襲津彦を派遣したのですが、3年経過しても襲津彦は帰還せず、応神天皇は16年8月平群木莵宿禰と的戸田宿禰を加羅に派遣。新羅を牽制しこの間に襲津彦と共に弓月君の民が渡来しました。

秦氏の祖がようやく日本に渡来でき、めでたしめでたし、と言いたいところですが、この記事には幾つかの疑問があります。まず、弓月君とその民が渡来したとは書かれていますが、秦氏の名前はどこにも見られません。

次に新羅が弓月君の渡来を妨害したとありますが、新羅の建国は356年となります。当時の新羅は北九州程度の大きさしかない弱小国家でした。一方応神天皇の在位は4世紀後半(370年以降)と考えられます。つまり当時の新羅は、弓月君の渡来を妨害するだけの実力がなかったと思われるのです。新羅が急速に国力を増すのは6世紀に入ってからです。

ちなみに、紀元前660年を神武元年とする「日本書記」の記述にそのまま従うと、応神天皇の在位期間は紀元270年~310年となり、新羅は存在していないため、単なる荒唐無稽な話になってしまいます。

秦氏の渡来に関して「古事記」の応神天皇の項には、「また秦造の祖が参渡り来つ」と極めて簡単に記載されています。さらに「新撰姓氏録」の山城諸蕃には、秦忌寸、太秦公宿禰同祖、秦始皇帝之後也、巧智王、弓月王、誉田天皇(謚応神)14年来朝、とあり秦氏の祖である弓月君が渡来したとここで確認できます。(注:姓氏録に関しては後で纏めて見ていきます)

応神天皇と秦氏の祖である弓月君が結びつけられたのは、八幡神が応神天皇であるとされていることによるのでしょう。では、弓月君の渡来はいつごろなのか?

応神天皇は想定実年代では370年から390年頃の天皇と思われ、秦氏関連の記事が比較的多い雄略天皇は460年代から480年代と見られます。秦氏は雄略天皇期に大和から山城国へと移住したと考えられ、葛野大堰が築造されたのもこの時代と想定されます。

だとすれば、少なくとも5世紀の半ば以前に、弓月君は日本に渡来していなければなりません。多分、5世紀の初め頃に渡来したのでしょう。ただ、渡来してまずどこに定着したかを考えると別の問題が出てきそうです。

さて、秦氏の大王かもしれない応神天皇に関してもっと知りたいと思い、以前に購入していた「興亡古代史」(小林恵子 文芸春秋)を開いてみました。小林氏によると、日本の史料である記紀の記述で古代史を解明することは不可能であり、東アジアどころか世界を視野に入れて日本の歴史を展望すべきとしています。

それは実に頷けるのですが、各論になると酔石亭主の能力ではほとんど歯が立ちません。例えば、応神天皇は五胡十六国の秦の苻洛が変身したもので、秦氏と関係の深い聖徳太子は西突厥の達頭(タルドウ)とのこと。

同氏は海外も含む膨大な文献を参考にして書いているので、単なるトンデモ説とは完全に一線を画しています。それらの文献を読んでいない酔石亭主のレベルでは、残念ながら内容に関して論じることは不可能になるのです。もしご興味があるなら、この超難解(あくまで酔石亭主にとってです)な本を読んでみてください。

                ―記紀・風土記の秦氏 その3に続く―

記紀・風土記の秦氏 その1


今まで秦氏に関してあれこれ検討してきました。しかし、基礎的な史料はあまり参考にしていません。基本史料の内容は他の方のブログやホームページに詳しく記載あり、改めて取り上げる必要性はあまりないと思ったからです。ただ、基本史料自体の中にも酔石亭主の視点から解釈可能なものもありそうで、やはり取り上げるべきと思い直しました。

そこで「古事記」、「日本書紀」、「風土記」を中心に秦氏関連の記事を拾い出していこうと思った次第です。もちろんこれ以外に、「新撰姓氏録」なども参照します。「記紀」や「風土記」に見られる秦氏関連記事はさして多くありませんが、拾い上げた記事を通して秦氏の実像に迫れればと思います。まずは「日本書記」巻第六 第11代垂仁天皇の記事から…。

「日本書紀」によれば、田道間守は垂仁天皇の命により常世の国に行き、苦労の末不老不死の非時(ときじく)の実(=橘)を持ち帰ります。ところが、天皇は既に死去していました。

それを知った田道間守は、「遥かに弱水を度る。是の常世国は、則ち神仙の秘区にして、俗の臻らむ所に非ず云々」と嘆き、自ら死を選びます。意味は「遥か遠い弱水と言う川を渡った。この常世の国は神仙の住む秘密の場所で、俗人が行けるところではない」と言ったところでしょうか。

この常世国とはどこにあるのでしょう?岩波文庫の「古事記」注では済州島あたりではあるまいかとする説がある、と書かれていますが、酔石亭主はミニ特異点であるホータン(巨丹、現在の和田)が常世国であると思います。ホータンに関しては以下Wikipediaより引用します。

タリム盆地の南、チベットへと向かう崑崙山脈の北麓に位置している。古代では「于闐」と称されるオアシス都市で、天山南路における要地であった。古くから白玉(ホータン玉)の産地として著名であった。仏教が盛んだったが、11世紀にカラハン朝が征服したことでイスラーム化が進んだ。


ホータン王国の詳細は以下を参照ください。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9B%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%83%B3%E7%8E%8B%E5%9B%BD


大きな地図で見る
ホータンを示すグーグル地図画像。

巨丹は秦氏の謎解きにとって極めて重要な場所なので、カテゴリ「歴史に秘められた謎を解くその1」から「その10」において詳しく記載しています。是非参照ください。以降、上記記事をお読みいただいた前提で進めます。

まず、弱水と言う川のある土地が巨丹かどうかチェックする必要があります。巨丹は秦氏が日本に渡来するに当たり一時居住した中継地点であり、崑崙の地にあります。そして、西晋代の書『玄中記』には「崑崙之弱水」と書かれているのです。弱水とは多分、死と再生の象徴であるホータン玉を産出する白玉河を意味するのでしょう。これで弱水が巨丹であると確認できました。

不老不死の橘がある常世国と、死と再生の象徴ホータン玉を産出する巨丹は同じ場所であり、同じキーワードで繋がっていたのです。

次に秦氏は摩多羅神を奉じていますが、摩多羅神は毘沙門天でもありました。そして大唐西域記によれば、巨丹は毘沙門天の住む土地とされているのです。

以上から、秦氏の名前こそ出てきませんが、垂仁天皇の記事の中に秦氏関連で重要な内容が含まれているとわかります。

また巨丹において、世界は毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)の顕現したものであると説く華厳宗が成立し、それを日本に導入したのが何度か出てきた秦氏の良弁(東大寺の初代別当)です。聖武天皇は『華厳経』の教えに従って盧舎那大仏造立を発願しました。

華厳宗に関しては以下Wikipediaより引用します。

日本における華厳宗は、第3祖法蔵門下の審祥によって736年に伝えられた。金鐘寺(後の東大寺)の良弁の招きを受けた審祥は、この寺において『華厳経』・『梵網経』に基づく講義を行い、その思想が反映されて東大寺盧舎那仏像(奈良の大仏)が建立(743年-749年)された。とは言え、造立する前に『華厳経(大方広仏華厳経)』の教理の研究がまず必要であった。

東大寺のホームページには以下記載されています。

天平12年(740)2月、河内国知識寺に詣でた聖武天皇は、『華厳経』の教えを所依とし、民間のちからで盧舎那仏が造立され信仰されている姿を見て、盧舎那大仏造立を強く願われたという。とは言え、造立する前に『華厳経(大方広仏華厳経)』の教理の研究がまず必要であった。『華厳経』の研究(華厳経講説)は、金鍾山寺(羂索堂)において、大安寺の審祥大徳を講師として、当時の気鋭の学僧らを集め、良弁の主催で3カ年を要して天平14年(742)に終了した。この講説により、盧舎那仏の意味や『華厳経』の教えが研究され、天平15年(743)10月15日に発せられた「大仏造顕の詔」に、その教理が示されたのである。

河内の知識寺の北には秦寺と呼ばれた教興寺があり、高尾山(鷹尾山)一帯は秦氏系の金知識衆が居住していました。知識寺も秦氏系の寺であったと想定されます。大安寺もまた秦氏系の多い寺となっています。

常世国にあるとされる不老不死の橘に関して、さらに見ていきましょう。橘氏の氏神を祀った梅宮神社の神官は代々秦氏が務めていますし、奈良県高市郡明日香村にある橘寺は、秦氏と関係の深い聖徳太子が自分の生誕地に創建し、寺の名は田道間守が常世国へ赴き持ち帰った橘の実を植えたことに由来しています。聖徳太子のブレーンである秦川勝に関しても以下の話があります。

「日本書紀」皇極天皇3年(644年)の記事によれば、東国富士川周辺の大生部多(おおふべのおお)という人物が虫を祭ることを村里の人に勧め、「これは常世の神で、この神を祭れば豊かになって若返る」と言って、民の財宝を捨てさせ貧しくさせた。民を惑わす悪行に秦川勝が怒り、大生部多を討ったとされます。

時の人はこれを見て以下のような歌を作ったそうです。
「太秦は 神とも神と 聞え来る 常世の神を 打ち懲らますも」

大生部多は虫を常世の神として祀り民衆を惑わしたのですが、この虫は橘の樹で生育し、蚕に似ている(=アゲハチョウの幼虫)とされています。蚕は変態する姿から死と再生の象徴となっています。

さらに、田道間守が嘆いた「俗人の臻らむ所」の「臻」に秦が含まれている点も留意すべきです。「臻らむ」とは秦氏が到った、すなわち日本に渡来したことから成立した言葉ではないかと推定されるからです。また「和田」と言う地名と秦氏は結び付いていますが、なぜか巨丹も現在では和田と呼ばれているのです。ちょっと不思議ですね。

以上から常世国とは死と再生の地である巨丹を意味していると理解できます。ところが、常世国は巨丹だけでなく日本をも意味しています。そこで、「日本書紀」の雄略天皇二十二年秋七月の条を参照します。ここには、浦島太郎の伝説が以下のように語られているのです。

丹波国余社郡(よさのこほり、与謝郡)管川(つつかわ)の人、水江浦島子、舟に乗りて釣りし、遂に大亀を得たり。便ち女に化為る。是に浦島子、感でて婦にし、相逐ひて海に入り、蓬莱山(とこよのくに)に到り、仙衆に歴り観る。語は別巻に在り。

別巻とは風土記逸文「丹後国」の浦の島子(浦島太郎)に見られる内容を意味しているようです。長い物語になっているのでここには記載しません。でも、なぜ同じ常世国が二つの異なる場所を意味しているのでしょう?それには中国の影響があると見られます。

秦の始皇帝は徐福に命じて蓬莱(日本)にある不老不死薬を探させました。徐福は始皇帝に、はるか東の海に蓬莱(ほうらい)・方丈(ほうじょう)・瀛洲(えいしゅう) という三神山があって、仙人が住んでいるので不老不死の薬を求めに行きたいと奏上。不老不死を求める始皇帝はこれを許可したと言う話になっています。(徐福に関してはカテゴリ「富士山麓の秦氏」などで取り上げています)

不老不死を希求する中国の皇帝たちは、西の崑崙(巨丹)と東の蓬莱(日本)に目が向いていました。そして、この二つの場所は取りも直さず死と再生を司る秦氏の最重要拠点だったのです。秦氏を象徴するのは「豊」ですが、常世(とこよ)国とは秦氏が支配する豊(とよ)国すなわち日本であったのです。

また済州島が常世国であるとの説は、この島に秦姓が多く、徐福が三神山のひとつである瀛州( 済州島)の漢拏山に上陸したとの伝承があることに関係しているのでしょう。

以上、垂仁天皇の項に秦氏は出てこないのですが、秦氏に繋がる重要なメッセージが含まれていると理解されます。

                ―記紀・風土記の秦氏 その2に続く―

(注:本シリーズは連続して書かない点お含みください。気が向いたら史料を調べアップしていくスタイルにします)
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