FC2ブログ

熱田神宮の謎を解く その47


「説その2」(尾張氏は大和・高尾張邑が本貫地で、その後尾張一宮となる真清田神社に遠祖である天火明命を祀り、小牧市小針辺りが本拠とする説)の検討を続けます。真清田神社を見るだけでは難しそうなので、別の視点から考えます。真清田大神すなわち天火明命(と思われる神)が降臨したのは妙興寺の東・丹陽町多加木とされています。


大きな地図で見る
真清田大神降臨伝承地を示すグーグル地図画像。ほぼ真ん中のこんもりした場所。

問題は真清田神社サイドにここが降臨伝承地との由緒がないことです。それは何を意味しているのでしょう?うんと簡単に言えば、降臨したのは天火明命ではなかったということです。妙興寺一帯の地名は大和町妙興寺ですから、Wikiの記事が説明するように大和からこの地に人々が移住したこと自体は事実と思われます。しかしそれは天火明命ではない…。では、どんな神なのでしょう?丹陽町多加木周辺に何かヒントでも転がっていないでしょうか?

地図画像をにらめっこしていると丹陽町多加木の東に「あづら」と言う変わった地名がありました。ここには阿豆良神社(あずらじんじゃ)が鎮座しており、創建時期は垂仁天皇57年(28年)とされ、とても古い神社です。鎮座地は一宮市あずら1-7-19。


大きな地図で見る
鎮座地を示すグーグル地図画像。

神社の概要は以下Wikipediaより引用します。

祭神の天甕津媛命は出雲風土記などに記載されている出雲神話の神という。社伝によると、以下の話が伝わっている。
垂仁天皇の皇子品津別皇子7歳になっても言葉が話せなかったという。皇后の夢の中に天甕津媛命が現れ、「今まで私を誰も祀ってくれない。祠を立て神に祭るなら、皇子は言葉を話せるようになり、天寿を全うするだろう。」ということを伝えたという。垂仁天皇は部下の建岡君に、天甕津媛命を探し出すように命じた。
建岡君は美濃国花鹿山(現岐阜県揖斐郡揖斐川町の花長上神社)に登り、榊の枝で縵を作って神に祈り、「此の縵の落ちた所が神を祭る所であろう。」と言うと、縵を遠く投げたという。この縵が落ちた地に創建されたのが阿豆良神社という。

ほぼ同じ話が「古事記」にあり、品津別皇子が物を言わないのは出雲大神の祟りとしています。祟りを鎮めるため天皇が皇子を曙立王、菟上王とともに出雲に遣わし、大神を拝させると皇子は話せるようになりました。その帰り、皇子は肥長比売(ひながひめ)と同衾したのですが、この比売が蛇体であったため、畏れて逃げたとされます。彼女の名前にも蛇が表現されています。すなわち出雲・肥川(斐川)の長(ナーガ=蛇)である比売となります。

縵(かずら)は上記の場合髪飾りを意味しますが、蔓性植物を総称しています。縵が落ちた場所の地名が丹羽郡の吾縵(あずら)郷となり、社名の表記が変わって阿豆良になりました。なお江戸時代は吾蔓大明神と称していたとのことで、この名前からしても縵は蔓性植物を意味すると理解されます。

天甕津媛命は「出雲国風土記」において、出雲の郡の伊農の郷に鎮座しておいでになる赤衾伊農意保須美比古佐和氣能命(あかふすまいぬおほすみひこさわけのみこと)の后として記載されています。明らかに出雲系ですね。真清田神社の祭神が天火明命ではなく出雲系の大己貴命とすれば、阿豆良神社の祭神・天甕津媛命も同様に出雲系となります・

阿豆良神社には倭姫命が配祀され、摂社に一宮社(火明命を祀る)、二宮社(大荒田命を祀る)、津島社(素盞嗚尊を祀る)、国府宮社(大國魂命を祀る)などがあります。

配祀されている倭姫命は、既に書いたように垂仁天皇の14年に天照大神を奉じ伊勢へと向かう途中、尾張の地(中島宮)に立ち寄っています。中島宮の比定地は一宮市今伊勢町本神戸字宮山1476に鎮座する酒見神社です。次に摂社を見ていきます。一宮社は真清田神社です。二宮社「大荒田命」は既に訪問した大縣神社です。津島社は津島神社でいずれアップしますが、現在のテーマとは関係ありません。

なお、阿豆良神社のすぐ近く、一宮市丹陽町猿海道字六反田に鎮座する小豊神社は、創建年代・由緒ともに不詳ですが、祭神は乎止與命となります。乎止與命は上知我麻社の祭神で、元々は松炬島の千竈に鎮座していたと推定され、現在は星崎に鎮座する星宮社の境内に鎮座しています。詳細は「その9」を参照ください。


大きな地図で見る
小豊神社を示すグーグル地図画像。

ところで、天甕津媛命の名前がちょっと気になります。どこかで似たような名前が出てきたはずだからです。そう、かつては松炬島と呼ばれていた星崎に鎮座する星宮社の祭神・天津甕星(あまつみかほし)です。おや、上記したように乎止與命も星宮社の境内に鎮座しています。何か見えない糸で繋がっているような…。

もしかしたら、天津甕星が阿豆良神社の近くに祀られているかもしれません。例えば、まだ検討していない国府宮社はどうでしょう?と言うことで、国府宮社に行ってみます。

国府宮社とは稲沢市国府宮1-1-1に鎮座する尾張大國霊神社を意味します。はだか祭で有名ですね。


大きな地図で見る
尾張大國霊神社の位置を示すグーグル地図画像。

004_convert_20130416091106.jpg
参道の桜と立派な木造の鳥居。

006_convert_20130416091140.jpg
楼門と桜。

019_convert_20130416091202.jpg
巨大な楼門。

020_convert_20130416091227.jpg
楼門と桜。

008_convert_20130416091256.jpg
楼門は重要文化財です。

010_convert_20130416091321.jpg
蕃塀。

013_convert_20130416091347.jpg
尾張式の社殿。

尾張大國霊神社を見ても解説板はなさそうです。これだけ立派な神社なのに妙ですね。祭神は尾張大國霊神とされていますが、それだけでは何もわかりません。意図的に神様を曖昧にしているのでしょうか?ちょっと怪しいので、神社のホームページを参照します。
http://www.konomiya.or.jp/main/about

尾張総社・国府宮とあり尾張国において最重要な地位にある神社であると理解されます。由緒には、尾張人の祖先がこの地に移住開拓し、云々とあり、外部から入った神となりそうです。いずれにしても、神社の由緒だけでは何もわかりません。やはり隠したい何かがありそうな雰囲気です。

そこで、尾張大國霊神社の平成祭礼データをチェック結果、以下の記載がありました。

天背男命(尾張族の祖先)の子孫である中島直(後に久田氏、野々部氏を称して明治維新まで奉仕しました)をして奉仕せしめられたという。…中略…神職には古くから尾張族の遠祖、天背男命の子孫が代々奉仕して来ました。

出てきましたよ。天背男命(あませお)は天香香背男(あめのかかせお、あめのかがせお)や天津甕星の別名(同神)であり、「日本書紀」では悪神として登場し、天孫降臨のさいに最後まで反抗した神です。神社の位置関係や名前からして天甕津媛命は天津甕星と対になっていると考えられ、二人の間には何らかの関係(例えば兄・妹や同族)がありそうです。

となると、天津甕星は出雲族と考えられます。しかし、平成祭礼データでは天背男命(=天津甕星)は尾張族の祖先となっています。一方、「天神本紀」では天背男命は山背久我直等祖とされています。

山背国は秦氏の最重要拠点ですが、既に書いたようにかつては出雲族の地であり、秦氏が創建したとされる松尾大社も出雲族の信仰を秦氏が取り込んだものと理解されます。そうした状況を反映した摂社が尾張大國霊神社にないか調べてみましょう。すると、ありました。国府宮駅から尾張大國霊神社へと向かう途中に、境内別宮とされる大御霊神社が鎮座しています。(大御霊神社の鎮座地は尾張大國霊神社を示すグーグル地図画像参照)

003_convert_20130419060957.jpg
大御霊神社。

この神社の祭神は、大年神の御子神の大国御魂神とされます。「秦氏の研究」などで著名な大和岩雄氏は大年系の神は秦氏と関係が深いとしていますが、一方で大国御魂神は大国主命ともされ、出雲系と秦氏系が融合したような雰囲気があります。

以前「久我山の秦氏」で、久我の地名に関して見てきました。現在でも秦氏が創建した伏見稲荷大社の鎮座する伏見区に、久我の地名が存在します。天背男命が山背久我直等祖であるとすれば、国府宮周辺にも久我の地名が存在するかもしれません。調べたところ、尾張大國霊神社近くに陸田町(くがたまち)の地名がありました。盛り上がった土地や堤防を陸(くが)と呼んだことから、久我(くが)の地名が成立しているので、どんぴしゃりとなります。どうやら、地名からも天背男命(=天津甕星)の存在が確認できそうです。


大きな地図で見る
陸田町の位置を示すグーグル地図画像。

尾張氏の背後には物部氏がいてその背後には出雲族がいると言うのが、今まで見てきた尾張国の構造ですが、尾張北部においては出雲族がかなり前面に出ているように思えます。それでも結局、天背男命は尾張族の祖にすり替えられてしまったのです。

天津甕星に関して検討するとそれだけで一つのシリーズとなりそうなので、とてもここでは書けません。ただ星神である天津甕星を祀る神社は常陸国に多くあり、同時に常陸国は物部氏の拠点でもあります。房総半島においても物部氏と出雲族が存在しています。

長々と書いてきましたが、尾張大國霊神社に鎮座する神様の実体は天津甕星のようです。丹陽町多加木に降臨した真清田大神は天火明命ではなく、天津甕星であった可能性が高くなってきました。となると、真清田神社の祭神も天火明命や大己貴命ではなく、天津甕星となりそうな気配です。でも、それは論証可能でしょうか?面白そうな謎解きなので、一つ挑戦してみましょう。

真清田の真清は「ますみのかがみ」(真澄鏡)であり鏡を意味します。鏡は蛇の目を連想させることから蛇目(かかめ)と呼ばれ、それが転じて「かがみ」になりました。「かがみ」は鏡と蛇の両方を意味する言葉となったのです。「かか」は蛇であり天津甕星の別名である天香香背男(あめのかかせお、あめのかがせお)は蛇神となります。そして出雲族は竜蛇族でした。

蘿藦(ががいも)の古名は「和名抄」によると「かがみ」です。この蔓性植物は形が蛇の身体に相似しているため「かがみ」と言われるようになりました。阿豆良(あずら)神社の社名は、蘿藦と同じ蔓性植物である縵(かずら)が元になっています。ここから阿豆良神社は蛇神と関係がありそうです。

そして縵のみならず、蛇体である肥長比売との関係からも蛇神と関連があり、天津甕星との関係が想定されます。よって、阿豆良神社の祭神・天甕津媛命も蛇神であり、天津甕星と対になっているのです。さらに蛇神は一般的には星神とされます。

天津甕星に関して以下Wikipediaより引用します。

平田篤胤は、神名の「ミカ」を「厳(いか)」の意であるとし、天津甕星は金星のことであるとしている。「カガ」は「輝く」の意で、星が輝く様子を表したものであると考えられる。

Wikiの記述からも、天津甕星=天香香背男(あめのかがせお)は星神であると理解され、また「カガ」は蛇をも意味することから蛇神でもあることになります。以上から真清田神社の隠れ祭神は天津甕星と考えられます。

その9」において松炬島であった星崎に鎮座する星宮社の祭神が天津甕星であったことを見てきました。

そして、松炬島は熱田神宮の元々宮であると書いています。酔石亭主が尾張氏の最重要拠点と考える松炬島のみならず、真清田神社が鎮座する一宮市、尾張大國霊神社が鎮座する稲沢市まで天火明命ではなく、天津甕星が祀られている可能性があるのです。改めて考えると不思議でなりませんね。

以上から、尾張氏の支配地域とされる一宮市から稲沢市国府宮にかけての一帯は、当初、尾張氏の支配領域ではなかったことになります。尾張氏が勢力を増して尾張国全域を自分の統制下に置いた結果、これら神社が尾張氏系と見做されるようになったと言うのが実情ではないでしょうか?それは尾張氏の本貫地ともされる東谷山周辺も同様と思われます。よって、尾張氏は高尾張から一宮市(中島郡)に降臨して小牧市小針を本拠にしたと言う西村説には疑問を感じます。

               熱田神宮の謎を解く その48に続く

熱田神宮の謎を解く その46


真清田神社の祭神は天火明命とされていますが、Wikipediaには以下のように記載ありました。

天火明命は、神武天皇33年にこの地を「尾張」と名づけ開拓した天香山命の父神である。天香山命の子孫が尾張氏とされ、天火明命は尾張氏の祖神とされる。 なお、祭神については古くから諸説ある。


尾張を開拓したはずの天香山命が、なぜ真清田神社に祀られていないのか疑問もあります。それは別としても、祭神については古くから諸説あるとのこと。どんな説があるのかネット情報を検索したところ、大己貴命(オオナムチ)や国之常立神(クニノトコタチ)などが出てきました。尾張氏とは全く関係のない神です。でも、チェックした範囲の記事には根拠が書かれていません。もっと詳しく調べる必要がありそうです。一宮市史などをチェック結果、以下の内容が判明しました。

真清田神社には伝正徹筆による由緒・「古縁起」(真清田神社縁起)が伝わっています。正徹(歌人で東福寺の僧)がこの由緒を書いたのは応永25年(1418年)のことらしいのですが、本当かどうかは不明です。「古縁起」によれば、崇神天皇の夢によって国之常立神を勧請し祭神としたそうです。完全に伝説の世界で具体的な根拠はなさそうです。

卜部兼凞(1348年~1402年)の「大日本国一宮記」によれば、祭神は大己貴命となっています。ただ、この書は江戸時代に加筆されており、その時点で大己貴命となった可能性が高いようです。しかし、何らかの伝承が元になっている可能性も否定できません。

祭神を天火明命とするのは、江戸時代の吉見幸和(神道家)が「宗廟社稷問答」、「大日本史」などで唱えた説です。また「真清」は真清鏡(ますのかがみ)に由来するとの説から鏡作に関係し、天火明命後裔の鏡作氏と関係が想定されます。岐阜県の各務原(かがみはら、一宮市の北東に位置する)の地名も、銅鏡などを作る鏡作部の存在と関わってきます。さらに尾張には尾張氏を祀る神社が多いことから明治政府は祭神を天火明命とすることで公式に認めました。

鏡作坐天照御魂神社に関しては以下を参照ください。
http://www.genbu.net/data/yamato/kagami1_title.htm

鎮座地が田原本町で秦氏の拠点であるのも気になります…。いずれにしても、祭神が正式に天火明命となったのは明治以降となるのです。祭神をどう考えればいいのか検討が必要ですね。

ところで、一宮市には大神神社が鎮座しています。鎮座地は一宮市花池2-15-28。この神社に関しては以下Wikipediaより引用します。

旧鎮座地の地名は大和町宮地花池(現在の古宮公園の位置)であり、大和国から移り住んだ人々が創始したともされる。他に、天火明命(尾張氏の祖神)の十世の孫である大美和都禰命(オオミヤツネノミコト)が祭神であったとする説もある。神紋は桜井市の大神神社と同じ三杉である。
当社が尾張国一宮であるとする説があり、近くには同じく尾張国一宮とされる真清田神社がある。大神神社の社伝では、大神神社と真清田神社を相殿として一宮としたと伝える。


いかがでしょう?真清田神社の近くには尾張国一宮かもしれない大神神社が鎮座していました。大神神社の祭神は大物主神で、奈良県に鎮座する大神神社の祭神と同じです。大物主神なら大己貴神との関係はありますが、尾張氏とは全く関係ありません。さらに一宮市博物館の展示パネルを見たところ、以下のようなものがありました。

104_convert_20130413093509.jpg
郡郷と条里遺構。

展示パネルには美和郷があります。明らかに三輪山の美和で繋がりがあります。

真清田神社も大神神社も大和から来た人々が創始したと考えられるものの、尾張氏とは関係なさそうに見え、出雲系の匂いが漂い始めています。いずれにしても、真清田神社の祭神が古代から天火明命であったとする確証はどこにもないのです。博物館にはもう一つパネルがありました。

105_convert_20130413093537.jpg
もう一つのパネル。

真清田神社の北側に酒見御厨とあります。記事の流れとは直接関係ありませんが、ここは倭姫命(第11代垂仁天皇の第4皇女)が伊勢に入る前に天照大神を奉じて立ち寄った場所(元伊勢)で、中島宮とされています。現在は酒見神社(鎮座地は一宮市今伊勢町本神戸字宮山1476で、主祭神は天照皇大御神)が鎮座しています。酒見神社に関しては以下Wikipediaより引用します。

天照大神の御霊代を祀る地を求めて旅をしていた倭姫命は、垂仁天皇14年、美濃国伊久良河宮(現岐阜県瑞穂市居倉天神神社と伝えられる)から尾張の神戸であった当地にしばらく滞在し、神体を宮山に祀った。その後、地元の人々によって社殿が作られたのが当社の始まりであると伝える。社伝によれば、その時の社殿は全て丸い柱で造られ、草葺きの屋根で吹き抜けであったという。


今伊勢町に関しても以下Wikipediaより引用します。

平安時代に記述された「太神宮諸雑事記」に、尾張国造により、中嶋郡が中嶋神戸として、伊勢神宮領として寄進されたという内容の記述がある。中嶋神戸は、今伊勢町本神戸と推測される。


「太神宮諸雑事記第一」の記述内容は、「次尾張国中嶋郡一宿御坐、国造進中嶋神戸」となっています。倭姫命が立ち寄った地が、尾張国造により伊勢神宮に寄進され神領となったのです。時代を考えると、ここに記載された尾張国造は初代尾張国造とされる乎止與命(おとよのみこと)となりそうです。乎止與命は酔石亭主説では尾張版日本武尊であり、倭姫命は日本武尊の叔母に当たります。

となると、尾張氏の存在が垂仁天皇時代に確認できるとも言えますが、乎止與命=尾張版日本武尊の前提からすれば乎止與命も皇族となり、一宮には皇族の流入があったと考えられます。ますます尾張氏の影が薄まったような雰囲気となりました…。

                  熱田神宮の謎を解く その47に続く

熱田神宮の謎を解く その45


日本武尊は景行天皇の子であり、彼が持つ草薙神剣と尾張氏の祖である宮簀媛との関係が熱田神宮の創始へと繋がっていきます。ところが草薙神剣は物部氏のものであったとも想定され、その大元は出雲族の剣であったと考えられます。つまり、朝廷、尾張氏、物部氏、出雲族などの錯綜した関係が熱田神宮の謎をさらにややこしくしているのです。

ここまで、そうした状況を解きほぐす形で議論を進めてきました。あまりなじみのない問題を取り上げたのでうまく行ったかどうかは神のみぞ知るですが…。

いずれにしても、熱田神宮の謎に最も深く関与するのは尾張氏です。その肝心の尾張氏の出自に関して、まだ明確な答えがありません。と言うか、諸説あって答えを出すのは不可能な状態です。本シリーズの最後に、尾張氏の出自に関する諸説を取り上げます。大ざっぱに見て、尾張氏の出自には8説あるので(あり過ぎじゃないかと思いますが…)、以下順を追って書いていきます。

説その1:太田亮氏の唱える説によれば、尾張氏は大和葛城の高尾張から美濃へ移り、大高、熱田へと移動したというものです。この説はかなり強力です。美濃への移住部分は、垂仁天皇の時代に尾張大海媛(崇神天皇の妃。別名の葛城高名姫は葛城高尾張に由来?)が生んだ皇子八坂入彦を奉じて美濃に入ったとするもので、岐阜県可児市久々利にある景行天皇の泳宮(くくりぐう)近くに八坂入彦陵があります。「日本書記」によれば、景行天皇が美濃に行幸し、八坂入彦の娘八坂入媛を娶ったとあります。大高は尾張氏の祖である宮簀媛の居住地であり、尾張氏はその後熱田に移って定着したとするものです。

久々利に関しては以下Wikipediaより引用します。

可児市の南西部、久々利川が形成したごく小規模な扇状地の上に位置する小集落である。「くくり」という地名は、かつて当地に景行天皇堯幸の際、当地の八坂入彦皇子の娘弟媛を見初められ、口説き落とすべく滞在。その際造営された仮の宮「泳(くぐり)の宮」からきていると言われる。「泳の宮」の由来は、庭の池に放した鯉の泳ぐ様子「水くぐる」からきているらしい。


八坂入彦に関しては以下デジタル版 日本人名大辞典より引用します。

記・紀にみえる崇神(すじん)天皇の皇子。母は尾張大海媛(おわりのおおしあまひめ)。「日本書紀」によれば,景行天皇4年美濃(みの)行幸のおり,天皇は八坂入彦の娘の弟媛(おとひめ)を妃にしようとしたが,弟媛は辞退し,姉の八坂入媛(やさかのいりひめ)を推した。八坂入彦皇子ともいい,「古事記」では八坂之入日子命としるされる。

岐阜県の土岐川流域を中心とした一帯には、日本武尊も含め上記のように大和王権の皇族が入り込んでいます。彼らが土岐川に沿って下り東谷山に至って4世紀中頃に白鳥塚古墳などを築造したと考えれば、これらの古墳が畿内地方のものと類似している点も説明が付きます。また時代的にも、地理的にも整合性があると思われます。

問題は大和王権の皇族の美濃への流入は確かだとしても、それに尾張氏が同行しているとの確証はないことです。また太田説は、尾張氏は尾張の在地豪族が発展したものではなく、外部よりの移住者であったとするものです。その根拠が大和にある高尾張の地名です。でも、この地名由来は逆に考えることも可能です。すなわち、尾張氏が朝廷と密接になって大和に出先の屋敷を構えたので、その地を高尾張と名付けたとも考えられます。

説その2:西村大民氏(「尾北の歴史」の著者)の説は、本貫地が高尾張で、その後尾張一宮となる真清田神社に尾張氏の遠祖である天火明命を祀り、小牧市小針辺りが本拠だったとします。小針に鎮座する尾張神社には「尾張名稱発源之地」と刻まれた石碑があります。解説板は以下の通りです。

小針は、尾張名称発源の地と言い伝えられている。江戸時代に尾張藩が編纂した『尾張符誌』によれば、小針村は、古くは尾張村であって、尾張の名称はこの地から起こったとしている。 『尾張志』によれば、 小針は、古代には「小冶田」、「小墾」、「尾冶」とも書いたという。 小針の中心に「尾張神社」があるが、この周辺には、古墳時代を中心とする遺物散布地が濃密に分布していて、小針には、早くから大規模な集落が営まれていたと考えられる。また、かつて土器田・鏡田・一色畑・政所などの地名が存在しており、古代社会の存在を物語るものと言われている。
「尾張名稱発源之地」の石柱碑は、昭和十五年十一月に北里村青年団の献金によって建立されたものである。

尾張には高針、平針、大針など同じ系統の地名があり、小針が尾張の地名発祥地とは考えにくいと思われます。尾張氏がこの地にまで勢力を拡大した結果、例えば尾冶と表記されそれが小針に転じたのではないでしょうか?

続いて西村説に基づき、尾張一宮となる真清田神社(ますみだじんじゃ)を見ていきます。


大きな地図で見る
神社の位置を示すグーグル地図画像。

087_convert_20130412105806.jpg
名鉄一宮駅です。

一宮市の人口約38万人からするとあまりにも立派すぎる駅舎です。藤沢市は約41万人なのに駅は小さく、とても比較にはなりません。一宮の一つ手前の駅が妙興寺で物凄い巨刹であるため、「 尾張に杉田(過ぎた)の妙興寺」との言葉が生まれました。杉田はこの一帯で多い名前だそうです。となると、「一宮に杉田の一宮駅」なんて言葉も生まれそうです。

いい加減な言葉を作ってはいけないので念のため調べてみると、愛知県全体で杉田姓は653人で、最も多いのが岡崎市の150人。次いで豊橋市の59人。一宮市は僅か10人との結果でした。杉田姓の主力は三河に多いと理解されます。「 尾張に杉田の妙興寺」と言う言葉はちょっとおかしいですね。

駅前の広い歩道を歩くとイスラムの教会みたいな建造物が見えてきました。

086_convert_20130412105835.jpg
ドーム状の建造物。

085_convert_20130412105902.jpg
実はアーケード街でした。その先に真清田神社が見えています。

073_convert_20130412105923.jpg
真清田神社。さすが尾張一宮。ただただ立派の一言に尽きます。

075_convert_20130412105949.jpg
神門の手前に神橋があり、渡ってはならぬと刻まれています。

076_convert_20130412110018.jpg
拝殿です。

080_convert_20130412110042.jpg
解説板。

創建の由緒が書かれています。神武天皇33年とは紀元前628年となるので、恐ろしく古い神社となります。社伝では、天香山命がこの地を開拓した天火明命の御霊を勧請したのが始まりとされ、祭神は天火明命です。解説板には八頭八尾の龍に関する記載もありますが、木曽川水系の流れをそう表現したようにも思えます。いずれにしても、典型的な尾張氏の神社に見えるのですが…。

081_convert_20130412110105.jpg
摂社の服織神社。


一宮は織物が盛んだったので服織神社が鎮座しているのでしょうか?祭神の萬幡豊秋津師比賣命は天火明命の母神で、機織りの祖神とされ、社殿は昭和40年(1965年)に造営されています。

真清田神社を見終わりました。さて、天火明命は御子である天香山命を伴って神武33年に大和葛城の高尾張邑から一宮の地に降臨したのでしょうか?

                 熱田神宮の謎を解く その46に続く

熱田神宮の謎を解く その44


歩き続けると鳥居が見えてきました。東の宮の鳥居です。

017_convert_20130406085309.jpg
鳥居。

018_convert_20130406085418.jpg
解説板。

021_convert_20130406085501.jpg
かなりひどい状態の案内板。もうすぐ東の宮です。

022_convert_20130406085525.jpg
東の宮が見えてきました。

023_convert_20130406085550.jpg
石段。

024_convert_20130406085611.jpg
境内。手前はかつて拝殿でもあった跡でしょうか?

025_convert_20130406085641.jpg
社殿。

026_convert_20130406085705.jpg
蛙岩。

誰かが目をいたずら書きしています。困ったものですね。もうすぐ山頂です。

028_convert_20130406085730.jpg
山頂。霞んでいて眺望は良くありません。

西の宮に向けて下ります。

しばらく歩くと…。

039_convert_20130406085759.jpg
何だか細長い岩らしきものが見えます。

040_convert_20130406085829.jpg
近寄って見ると、巨大な二つの岩でした。御船岩です。

041_convert_20130406085901.jpg
もう一枚。どうしてこんな形になったのでしょう?

この岩には大碓命が乗ってきた船が岩になったとの伝承があるとか。どちらの船(岩)に乗って来たのでしょうね?新たな伝説を勝手に付け加えるならば、もう一つの岩は日本武尊の乗る船が岩になった、でいかがでしょう?小碓命が大碓命を鶴里柿野で匿ったと言う酔石亭主説にも整合します…。

歩き続けると、何やら石垣が見えてきました。多分大碓命のお墓でしょう。

043_convert_20130406085928.jpg
大碓命陵、とされるもの。

044_convert_20130406085953.jpg
陵墓の正面。

045_convert_20130406090021.jpg
陵墓の中。古墳のように盛り上がっています。

050_convert_20130406090044.jpg
大碓命陵からもの凄く急角度な石段を下ると、西の宮の社殿です。

055_convert_20130406090114.jpg
西の宮の鳥居。

054_convert_20130406090136.jpg
解説板。

本来は鳥居から入るべきですが、今回は逆コースとなったので、鳥居と解説板が最後となってしまいました。山から下り、猿投庵と言う水石販売業者のお宅を訪問しました。もの凄い数の石があり圧倒されます。

079_convert_20130406090200.jpg
庭に置かれた石。質の良いジャクレ溜りです。

                熱田神宮の謎を解く その45に続く

熱田神宮の謎を解く その43


猿投神社の創建は仲哀天皇元年で、天皇の勅願により現在の地に祀られました。猿投山の東峰には東宮、西峰に西宮が鎮座しており、本社、東宮、西宮の三社で猿投三社大明神と称されています。と言うことで、猿投神社の脇から猿投山に向かって歩きましょう。

登山者用駐車場の道路を挟んで反対側に何やら解説板らしきものが…。ちょっと寄ってみます。

056_convert_20130406061158.jpg
解説板。なるほど、神社の鬼門除けの目的で山中観音堂が立てられたようです。

057_convert_20130406061224.jpg
観音堂境内。

059_convert_20130406061319.jpg
観音堂。

058_convert_20130406061251.jpg
こんなインド風の石像があります。

001_convert_20130406060818.jpg
登山ルートを示す案内板。

やや見にくいのですが、現在位置のAからB、C、D、E(東の宮)、山頂、G(西の宮)のルートで歩きます。西の宮へ先に行くと階段が急で大変なので東の宮から廻るコースとしています。なお本記事は登山の記事ではないので、ルートに関する詳しい解説はしていません。案内板だけを頼りに登ると道を間違える可能性もあるので、ご注意ください。

002_convert_20130406060848.jpg
歩いていると水神様の祠がありました。

003_convert_20130406060928.jpg
すぐに観光水車が見えてきます。

007_convert_20130406060949.jpg
水車解説板。

008_convert_20130406061011.jpg
御鞍石。水車も石も案内板に表記あります。途中で少しルートを外れ展望台に行きます。

012_convert_20130406061040.jpg
巨岩がありました。

014_convert_20130406061105.jpg
岩の展望台。霞んでいて展望はよくありません。

016_convert_20130406061131.jpg
こんな岩が。水溜り石? いや、多分これは鳥居の礎石だったと思われます。

ちょっと歩き疲れてきたので続きは次回に…。

               熱田神宮の謎を解く その44に続く
プロフィール

酔石亭主

Author:酔石亭主
FC2ブログへようこそ!

最新記事
カテゴリ
最新トラックバック
月別アーカイブ
カレンダー
01 | 2020/02 | 03
- - - - - - 1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
天気予報

-天気予報コム- -FC2-
最新コメント
FC2カウンター
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
QRコード
QRコード
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる