名鉄島氏永(しまうじなが)駅周辺を巡る


真清田神社と大神神社を見終わり、名鉄一宮駅で名古屋方面に向かう列車に乗ると、一駅目が妙興寺になります。予定通り妙興寺で下車しようと思ったのですが、真清田神社には相当奥深い謎があったこと、二駅目の島氏永駅のすぐ近くには尾張国名神大社八座の一つ大神社(おおじんじゃ、おおのじんじゃ)が鎮座し、真清田神社との関係もありそうなことから、妙興寺駅をすっ飛ばし島氏永駅に向かうことにしました。妙興寺は昨年も訪問していますので後回しとします。

いつものことですが、まずは妙興寺から島氏永にかけての地名を拾っていきます。地図を見ると一帯には実に興味深い地名が数多くありました。妙興寺の所在地は一宮市大和町妙興寺2438で臨済宗妙心寺派のとても大きなお寺です。新陰流開祖の上泉信綱がここで修行して無刀取りを会得したとされます。この大和町は、大和から三輪氏が移住したことに由来するのでしょうか?

大神神社(おおみわじんじゃ)のすぐ近くには旧鎮座地である古宮の地名がありました。実は、古宮の地名がもう二つあります。一つは一宮市大和町馬引古宮で、もう一つは大神神社の西、一宮西インターの近くにあり、住所は一宮市刈安賀古宮です。二つの古宮は一体どの神社の旧鎮座地だったのでしょうね?


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大和町馬引古宮を示すグーグル地図画像。

妙興寺周辺には西浦、東浦、北浦、山王浦、薬師浦など海に関係する地名が集中しています。さらに、島氏永駅周辺には島子安賀町、島小原町など頭に島の付いた地名が数多くありました。やはり一宮市一帯は、尾張古図の時代、海に取り巻かれた島状態だったようです。

古宮の地名がある大和町馬引には、なぜか郷戌亥(いぬい)、郷辰巳(たつみ、南東)、郷丑寅(うしとら、北東)、郷未申(ひつじさる、南西)などの方位地名が存在し、一帯の地名と古代史が思わぬ結びつきを示していそうに思えます。


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大和町馬引の方位地名を示すグーグル地図画像。

画像からおわかりのように、四つの地名が各方位に従って存在しています。実に珍しいし、他にも辰巳河原、大和町乾出や東西南北のそれぞれが付いた地名もあります。詳しくは地図を拡大して参照ください。これらの地名は美和郷の中に含まれるので、三輪氏との関係が想定されるのですがいかがなものでしょう?

愛知県海部郡(現・あま市)美和町篠田には戌亥出の地名、美和町木田には戌亥(いぬい)の地名があります。海部郡美和町の例からも、方位地名は三輪氏との関連が想定されます。こうした方位地名で、例えば戌亥の場合は、愛知県一宮市と隣接する稲沢市に集中しています。言い換えれば、ほぼ美和郷内に方位地名が集中しているのです。三輪氏と方位。きっと意味があると思いますが、どう解釈していいのか現状ではわかりません。他の県では、福島県に方位地名が幾つかあります。

一宮駅のほぼ東に柚木颪(ゆぎおろし)と言う変わった地名があります。この地名は柚木郷と颪郷が一緒になったもので柚木は柚(ゆず)の巨木にちなみ、颪はこの地に神をおろし、神明社(鎮座地:一宮市柚木颪神明204)を創建したことにちなんでいるようです。

妙興寺の南には於保(おほ)と言った地名も見られます。於保は明らかに古代史族の多氏にちなむ名前です。と言うことは、大神社(おおじんじゃ、おおのじんじゃ)に関係する地名となります。面白い地名を拾っていたら、ようやく大神社に行き着きました。大神社鎮座地は一宮市大和町於保郷中2311で、多氏などの祖神である八井耳命が主祭神となっています。


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大神社鎮座地を示すグーグル画像。

大神社のすぐ南には二之宮、さらに南には二ノ宮と言った地名が見られます。この地名にも何か意味がありそうです。ひょっとしたら、真の尾張国二宮は大神社であったのかもしれません……。

既に書いたように、大神社は尾張国の名神大社(みょうじんたいしゃ)八座の一つとなっています。名神大社とは式内社の中でも特に格の高い神社を意味し、国家的な問題が起きた際などに臨時に奉幣・祈願を行う 「名神祭」が執行される神社です。いかに大神社が重要視されていたか理解されます。と言うことで、早速大神社に行ってみましょう。鎮座地は島氏永駅のすぐ近くです。参道が南北に長いことから、かつては参道に見合うだけの広大な敷地を有していたと推測されます。

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鳥居と大神社と刻まれた石柱。

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吹き抜けの拝殿。

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祭文殿でしょうか?

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拝殿を通して見る本殿。

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本殿。尾張の神社はその形式から撮影に難儀します。

さて、大神社鎮座地はかつての美和郷すなわち大和から移住した三輪氏の領域に含まれると考えられます。鎮座地が大和町於保であることは、その傍証になりそうです。でも、なぜここに多氏系の大神社があるのでしょう?その意味を探りたいと思います。

うんと単純に考えれば、大和国十市郡飫富郷にいた多氏が三輪氏と共に尾張に移住したため、大神社が創建され於保の地名が成立した、となります。つまり、一宮市一帯は大和勢力が大挙して移住した土地だったのです。やはり一宮市大和町の大和は大和勢力の移住に由来する地名と考えて良さそうです。けれども、古代の大和には数多くの豪族が存在していました。三輪氏と共に移住したのが、他の豪族ではなく多氏であったのはどうしてでしょう?

この疑問を解く鍵は三輪山の太陽信仰にあると思われます。古代には三輪山頂上に日向神社(現・高宮神社)が鎮座しており、社名からも太陽祭祀に関係があるとされています。そして、多氏が祀る多神社は奈良県磯城郡田原本町に鎮座し、その鎮座位置が三輪山山頂の真西となり、三輪山の春分、秋分の日の出を拝することができます。三輪山を祭祀する一族三輪氏と多氏は、太陽信仰を通じて密接な関係があったのです。

酔石亭主がしばしば引用する大和岩雄氏は「日本古代試論」(大和書房)において、多神社の鎮座位置が三輪山の春分、秋分の日の出を拝する位置で、多神社を基点に南北に線を引き、三輪山の冬至、夏至の日の出を拝する位置が、神武天皇と神八井耳命陵のある畝傍山の北と、石見の鏡作神社になる。としています。太陽信仰をベースにした多神社と三輪山との関係がここからも読み取れます。

三輪山を祭祀する三輪氏と多氏は三輪山の太陽信仰で深く結び付いていました。となると、一宮市における大神神社と大神社の間にも似たような太陽信仰がありそうに思えてきます。ところが、神社の近くで三輪山に相当する日の出を拝するような山はありません。この問題をどう考えればいいのか、酔石亭主の能力では答えが出ないようです。どなたか研究いただければと思います。

さて本記事の中で、大神社のすぐ南には二之宮、さらに南には二ノ宮と言った地名が見られると書いています。この問題を検討するため、尾張国一宮から三宮までを全く別の筋から考えてみます。尾張国一宮の真清田神社は本殿真裏の現・三明神社鎮座地が三輪山の大神神社と同じ大物主神(或いは大国主命)を祀っており、その場所が原初の真清田神社でした。ここが尾張国一宮で、尾張国二宮は既に推測したように名神大社八座の一つである大神社を当てます。そして尾張国三宮は熱田神宮に擬せられていた一宮市の大神神社が該当するとすれば、尾張国の上位三神社は三輪氏と多氏が祀る大和系勢力の社で、全て一宮市に鎮座することになってしまいます。

(注:島氏永駅の南東に亀京寺があり、そのすぐ北に熊野神社などが合祀された神社があります。この鳥居脇の石柱には二之宮大明神と刻まれていました。しかし、こちらの神社は無格社であるため二之宮とするのは無理があります。また二之宮、二ノ宮の地名が大神社のすぐ南にあり、一帯の住所が一宮市大和町於保二之宮であることからしても、大神社を尾張二宮と考えたいところです。なお、二之宮大明神の写真等は後の回でアップします)

尾張国の上位三神社は三輪氏と多氏が祀る大和系勢力の社とするのは、トンデモ説に近いのですが、後代の三輪氏と多氏がそう自称していたとも考えられます。また驚くべきことに大神社の北、妙興寺駅と島氏永駅のほぼ中間には四之宮と言う地名までありました。一帯の住所は一宮市大和町於保四之宮。とても不思議だとは思えませんか?

ひょっとしたら多氏が祀る尾張国四宮がここにあったとか…?となると、三輪氏の手で祀られるのが真清田神社(一宮)と大神神社(三宮)で、多氏は大神社(二宮)と不明の神社(四宮)を祀っていたのかもしれません。三輪氏の方が上位氏族なので一宮を取り、二宮を多氏とたすき掛けみたいにしたのでしょう。


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四之宮の位置を示すグーグル地図画像。

他に面白そうな地名では毛受(めんじょ、大和町毛受)、油田(あぶらでん)などがあります。毛受(めんじゅ)氏は、群書類従本「尾張諸家譜」に収録された毛受氏系図によれば、清和源氏頼光流とのことで、毛受の地名に由来しています。仁徳・履中・反正天皇の陵墓は「古事記」によれば、それぞれ毛受の耳原(もずのみみはら、大阪府堺市)、毛受、毛受野にあるとされています。毛受の地名には他にも面白い話がありました。

「真清探桃集」にそっくりな名前の「真清探當證」によれば、履中天皇の第1皇子である市辺押磐皇子が殺害されてから、その子の億計王(後の仁賢天皇)と弘計王(後の顕宗天皇)は、丹波を経由して真清田神社に到着し、二人の皇子の護衛は、毛受や馬引、守基などに陣取ったそうです。

そう言えば、妙興寺の南で、名神高速のすぐ近くに丹波の地名(一宮市大和町妙興寺丹波)も存在します。億計王と弘計王が丹波経由で真清田神社に来たことに関係するのでしょうか?この問題はもう少し後で検討します。

油田(あぶらでん)と言う地名は様々な謎に満ちています。「真清探當證」によれば、仁賢天皇が崩御した後、天皇の遺言により大和町妙興寺字油田に埋葬したとされ、青桃丘松降御陵墓の名称が今なお残っているとのこと。そしてこの陵に皇后の春日媛が献灯したため、油田の地名が成立したとされます。持統上皇が東三河行幸の際、上皇に油を献上したので御油の地名が残ったのと似ていますね。と言うことで、早速油田に行ってみましょう。


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油田の位置を示すグーグル画像。

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油田公園。

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怪しい方にズームします。

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真清田大神降臨伝承地と刻まれた石柱。盛り土が小さな古墳のように見えます。

「真清探當證」の記述とこの石柱の記載内容からすると、仁賢天皇の陵墓が真清田大神降臨の地となってしまいます。何か関連でもあるのでしょうか?手前に解説石板があるのでチェックしてみましょう。

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解説石板。読みにくいので内容を以下記載します。

油田の由来
口碑によればこの地にむかし真清田大神が降臨し、後年現在の地に遷座したと言う。
当地の所在は、町名町界の変更がなされるまでは、大和町妙興寺字油田十三番地として親しまれた。
真清田神社の桃花祭に、妙興寺より一馬を引く由縁がそこにあると伝えられる。
油田の地名の起りは明らかでないが、その土地を燈明料所として真清田神社に寄進し、年貢の一部が納入されたことに由来するものと思われる。
しかし、町名町界の変更によりこの地も平成十五年五月からは、多加木ニ丁目十七番九に改められた。


解説石板によれば、昔、大和町妙興寺字油田に真清田大神が降臨し、後年現在の真清田神社社地に遷座したため、真清田神社の桃花祭に妙興寺より一馬を引くこととなったようです。となると、一宮市大和町馬引の馬引は真清田大神の遷座に由来するものと考えられます。

一宮市大和町馬引に方位地名が多く、加えて古宮の地名があるのは、真清田大神が一旦この地に留まり仮宮でも建て、あれこれ方位を考えた上で現在の真清田神社社地に遷座したと考えれば全部辻褄が合いそうに思えます。さらに油田は大和町に含まれることから、降臨した真清田大神とは、やはり大和から移住した三輪氏が奉斎する大物主神となり、天明火命ではなさそうです。

一方、油田の地名由来は解説石板と「真清探當證」の記述で全く異なっています。この問題を少し考えてみましょう。「真清探當證」には、履中天皇の第1皇子である市辺押磐皇子が殺害されてから、その子の億計王(後の仁賢天皇)と弘計王(後の顕宗天皇)は、丹波を経由して真清田神社に到着したとあります。億計王が真清田神社に来たとすれば、油田からはそれほど遠くありません。億計王が油田に至った可能性も否定できず、仁賢天皇が崩御した後、天皇の遺言により油田に埋葬された話と、当然ながらうまく繋がってきます。

この問題は史書にどう書かれているのでしょう?まず陵墓ですが、仁賢天皇陵は大阪府藤井寺市青山3丁目にある埴生坂本陵(はにゅうのさかもとのみささぎ)に治定されています。億計王に関してWikiは「安康天皇3年に父の市辺押磐皇子が雄略天皇に殺されると、弟の弘計王(後の顕宗天皇)と共に逃亡して身を隠した。まず丹波国与謝郡(丹後半島東半)に逃げ、後には播磨国明石や三木の志染の石室に隠れ住む。兄弟共に名を変えて丹波小子(たにわのわらわ)と称した。」と書いています。「古事記」には播磨国に入り身を隠し、馬飼、牛飼として使役されたとあります。

記紀の記述と「真清探當證」は全く整合していないと理解されます。やはり、億計王と弘計王は尾張に来なかったのでしょうか?しかしです。「日本書紀」によれば、市辺押磐皇子の同母弟である御馬皇子(みまのみこ)が身の危険を察知して、親交のある三輪君身狭(みわのきみむさ)のところに逃げようとしたところ、三輪の磐井で待ち伏せしていた雄略天皇の軍に捕らえられ処刑されています。だとすれば、億計王と弘計王も三輪氏を頼って逃げた可能性があり、三輪氏の拠点である尾張国の美和郷に逃げ込んでもおかしくはありません。

真清田神社の境内社・八龍神社に関して、「真清探桃集」には、祭神が鎮座する際、八頭八龍の大龍が下ったと記されています。ちょっと怪しい場所の一宮市泉2丁目に鎮座する花岡神社は、大正9年10月広畑町の八ツ白社・八ツ白龍神(現・泉3丁目12番13号)を勧請したのが始まりとされ、御祭神は白龍 ・黒龍の二神で、億計王と弘計王が卯つ木塚(同じ泉3丁目12番13号)に身を隠したことに由来するとのことです。

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真清田神社の境内社・八龍神社。


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花岡神社の位置を示すグーグル画像。

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卯つ木塚と八ツ白社。グーグルのストリートビューより。

真清田大神が鎮座する際大龍が下った話と、真清田大神が油田に降臨し、その同じ場所に仁賢天皇(=逃げ下ってきた億計王=白龍)の陵があるとの伝承は、上記の話とうまく繋がっているように思えます。二人が逃げた丹波が一宮市大和町妙興寺丹波であれば、油田のすぐ近くとなり、真清田神社へもそう遠くはありません。これらを総合すれば、荒唐無稽とされそうな一宮市の伝説にささやかな根拠が出そうになります。油田に仁賢天皇の陵墓があるとの説は無理にしても、例えば天皇の遺物を縁のある油田に埋め、それが天皇の埋葬話に転化した可能性はゼロではないと考えられます。

以上、島氏永周辺には驚くほど数多くの歴史が詰まっていました。島氏永駅から油田までの経路にも幾つか面白いものがあったので、次回以降書いていきます。

本記事も謎解き関連なので、カテゴリ「熱田神宮の謎を解く」に加えました。
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新春の真清田神社 その4


今回は前回の補足です。前回でアップした尾張名所図会の製作時期は江戸末期から明治初期とされ、1800年代ですからさほど古いものではありません。これより古い絵図がないかチェックしたところ、1653年に補修された真清田神社古絵図なる絵図があると判明しました。

驚いたことにこの古絵図には本殿背後に三つの鳥居と社が描かれています。これは明らかに三ツ鳥居或いは三輪鳥居と呼ばれる鳥居の形式で、大和の三輪山山麓に鎮座する大神神社の鳥居に酷似しています。

三ツ鳥居に関しては以下のWikipedia記事を参照ください。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E3%83%84%E9%B3%A5%E5%B1%85

真清田神社古絵図の画像は極めて不鮮明なので、かなり加工した上で三輪鳥居の部分をアップします。

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真清田神社本殿背後の三輪鳥居。上端のほぼ真ん中に見えています。

この位置は間違いなく現在の三明神社の鎮座地と同じです。だとすれば、古絵図に書かれたこの鳥居と社殿も三明神社と考えてほぼ間違いないものと推定されます。古絵図の補修が1653年とすれば、少なくとも元の絵図は1500年代或いはそれ以前に描かれたものになります。

以上より、三輪鳥居背後の社殿に祀られている神は、大和の大神神社と同じ大物主神である可能性が高くなりました。原初は一宮市の大神神社を創建した出雲族の大三輪氏が真清田神社の社地においても大物主神を祀ったものと思われます。大三輪氏(三輪氏、大神氏)は大物主神の子である大田田根子の後裔氏族であり、同神の祭祀を司っていました。(注:大三輪氏と大田田根子が実際に繋がるかは微妙な問題がありそうです)

真清田神社の現在の説明すなわち三明神社祭神は本宮の荒魂である、との内容を受け入れた場合、本宮祭神を大己貴命としてその荒魂はやはり大国主命になると考えられ、それは前回で書いた通りです。いずれにしても、原初の真清田神社は大和から移り住んだ大三輪氏が一宮市の大神神社や現在の真清田神社・社地において大物主神を祀ったのが始まりと考えていいでしょう。

次に真清田神社の神職を見ていきます。同神社神職は当初大三輪氏系の真神田氏でした。天野信景が著した「本国神名帳集成」によれば、(真清田神社の祭神は)真神田朝臣・大神朝臣等祖神也と記されています。「三代実録」には、「右京人左大史正六位上真神田朝臣金雄 賜姓大神朝臣 大三輪大田田根子命之後也」と記載あり、真神田氏が大田田根子の後裔となり、大物主神に接続します。

ただ、真神田氏に関してさらにチェックすると、「新撰姓氏録」物部氏族条の左京神別上には真神田曽祢連(まかみたのそねのむらじ)。神饒速日命の六世孫、伊香我色乎命の男、気津別命(けつわけのみこと)の後なり。とあります。

大和国神別には真神田首(まかみたのおびと)。伊香我色乎命(いかがしこをのみこと)の後なり。ともあります。

つまり、真神田氏は物部氏となっているのです。これは当初出雲族の地であった大和にニギハヤヒ率いる物部氏が入植した状況を反映しているようにも思えます。その結果、真神田氏は物部氏の傘下に入ったグループと入らなかったグループに分かれたのかもしれません。もちろんその逆に、出雲族の傘下に入った物部氏のグループがあった可能性もゼロではありません。(注:壬申の乱において功績があった大三輪真上田子人君が死後大三輪真上田迎君(おおみわまかみたむかえのきみ)の諡号を賜ったことから、真神田氏の名が始まった可能性もあります)

Wikiには、「崇神天皇7年(紀元前91年)に天皇が物部連の祖伊香色雄(いかがしこを)に命じ、三輪氏の祖である意富多多泥古(太田田根子)を祭祀主として大物主神を祀らせたのが始まりとされる。」と記載あります。ここにも、物部氏と三輪氏の祖である太田田根子との関係が見て取れます。やはりこうした事情が反映して真神田氏のありようが物部氏と出雲族の三輪氏系に分かれたように思えます。

補足は以上です。

新春の真清田神社 その3


境内でまだ見ていない神社がありました。それが別宮・三明神社です。別宮と言うからには非常に重要な神様が祀られていると思えます。早速見に行きたいところですが、鎮座場所が本殿の真裏となっているようで、鍵の付いた鉄柵に阻まれ立ち入りできません。参拝者がいない時期なら神職の方に鍵を開けてもらい特別にお参りすることも可能なようです。けれども参拝者の多いこの時期に、個人的な便宜をお願いするなど失礼で不可能です。

困ったことですが、これでギブアップしていては話も前に進まないので、神社を一旦出て敷地の外から境内の裏手に向かってみます。神社境内の裏手は公園になっており、幸いそこから三明神社を拝することができました。

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裏見の三明神社。小高い位置にあるのでほぼ全体が撮影できました。

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もう一枚。

三明神社がどのような神社なのかを追及する前に、真清田神社の全体像を考えていきたいと思います。真清田神社は尾張国一宮であり、主祭神は尾張氏の祖となる天火明命で、摂社の服織神社には天火明命の母神・萬幡豊秋津師比売命(よろづはたとよあきつしひめのみこと)が祀られています。尾張国一宮の神様が尾張氏の祖神とその母なら、祭神は全く問題なさそうに思えます。

ところが、天火明命が主祭神とされたのは実質的には明治時代となります。それ以前を調べると、中世が大己貴命、近世には国常立尊となっていました。国常立尊は根源神であり、抽象的な存在なので検討対象から省いてもいいでしょう。となると、大己貴命が真の祭神である可能性が浮上してきます。尾張国最上位の神様は尾張氏の祖神なのか、或いは出雲系の大己貴命なのか、少々厄介な問題を様々な視点から検討してみます。

いつものことですが、歴史の謎を調べるにはまず地名から入ります。和名抄によれば、一宮市は尾張国中島郡美和郷に含まれます。美和郷の範囲は予想以上に広く、一の宮村を本拠と為し、北は三輪川の酒神社(倭姫命の元伊勢・中島宮所在地)、西は南木、宮地花池、南は妙興寺から氏永、国府輪まで及んでいます。現在で考えると、名鉄の今伊勢駅から名鉄国府宮駅辺り(尾張大国霊神社)までが美和郷の南北軸になりそうです。


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美和郷の範囲を示すグーグル地図画像。

美和郷の南北はほぼ画像の範囲と思われます。かなり広い地域に美和郷が広がっていると理解されます。美和郷は「東三河の秦氏」でも出てきましたが、出雲族の土地となります。尾張国最上位の真清田神社は美和郷の本拠地に鎮座しており、そこは出雲族の居住地だったことになります。真清田神社の基層に出雲族が存在するのであれば、奉斎する神が大己貴命であっても不思議ではありません。美和郷の領域図(注:全域ではありません)は「熱田神宮の謎を解く その46」を参照ください。

こちらの記事でも真清田神社に関してあれこれ書きました。しかし、内容は不十分で分析も甘かったと思います。今回で何とか補足して納得のいくものにしたいのですが、どこまで書けるのやら悩ましい限り。まあ悩んでいても始まらないので、真清田神社の祭神に関して検討を続けます。次の取っ掛かりは神社の由緒から始めるのが筋でしょう。

まず以下の真清田神社関連ホームページを参照します。
http://www.jinja.in/single/113981.html

この中に、「尾張氏の一部が尾張国中嶋郡に移住した時に、祖神である天火明命を祀ったのが起源と考えられています」、「当社の鎮座は、社伝によれば神武天皇33年。」と記載ありました。(注:神武天皇33年は前回でご紹介の解説板にも書かれています)

神武天皇33年に尾張氏の一部が尾張国中嶋郡にまで移住して、勢力を伸ばしたとは考えられません。この時代に勢力を持ち得る一族はやはり出雲族と想定されます。もう一つ気になる記事を見ていきます。内容は次の通り。「平成5年には境内裏山に別宮三明神社を御造営し、荒魂を御奉齋しています 」

ここで最初に見た三明神社が出てきました。別宮三明神社の神様は荒魂とありますが、どの神様の荒魂なのでしょう。常識的に考えれば、本宮に鎮座する天火明命の荒魂となります。しかし、天火明命の荒魂など聞いたことはありません。ネット上に荒魂は瀬織津姫との見解もありましたが、その場合、元の神様は女神・天照大神となるはずです。現時点で元の神様を特定はしないものの、男神に間違いはなく、男神の荒魂が女神になるなどあり得ません。さらに瀬織津姫は境内社の愛鷹社にて祀られており、三明神社の祭神が同じ瀬織津姫ではおかしな話になります。

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愛鷹社。

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もう一枚。祭神に瀬織津姫が入っています。

三明神社の祭神は後で検討するとして、真清田神社の全体像を探ります。一宮市の図書館は駅ビル内にあって実に便利なので、こちらで調べてみましょう。本棚には、「真清田神社史」や国立国会図書館蔵の「真清田神社御由緒復刻版 天火明命の謎にせまる」などがありました。「真清田神社御由緒復刻版 天火明命の謎にせまる」を開くと、「創立の事」という項目が最初に出てきます。

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創立の事の記事。概要を以下に記載します。

神社神明細帳によれば当社の創建は崇神天皇の御代のこととされるが、当社の社記によれば、神武天皇33年3月3日、天香山命(天火明命の子)がこれを斎き祀った。天香山命の別名は高倉下で、熊野にいて神武天皇東征の折に神剣を献上して大功があったので、天皇の侍臣となり大和の高尾張邑にいたが、尾張国に遷し国を開拓した。父の天火明命を尊び海中島、嶼(こじま)の地を斎き祀られたのが今の中島郡である。往古から毎年3月3日を大祭日と定めた。

以上から、真清田神社は神武天皇33年3月3日に天香山命が父神・天火明命を祀ったのが始まりと理解されます。ところが、別名の高倉下は物部氏であり、尾張には既に書いたように物部系の影響も見られます。例えば、熱田区に鎮座する高座結御子神社(たかくらむすびみこじんじゃ)は熱田神宮の境外摂社で祭神は高倉下です。

また、海中島、嶼(こじま)の表現から、かつてこの地は海に浮かぶ中島であったと理解されます。以前ご紹介した尾張古図も、この記述内容に見合う形となっています。尾張古図はこちらを参照ください。
http://akon.sakura.ne.jp/gojo/ow-kozu.html

さらに、旧暦の3月3日に催された例大祭・桃花祭(現在は4月3日)は、創建月日にちなんで決められたものと理解されます。

以上から、尾張の地も大和とほぼ同様に、出雲族が基層にいて、物部氏が入り、その後勢力を拡大した尾張氏が支配権を得た形になっているようです。尾張氏を天孫系に読み替えれば全く大和と同じ形となりますし、倭姫命の元伊勢も中島郡の現・酒見神社となります。真清田神社鎮座地のありようはほぼわかったのでさらに検討を進めます。「熱田神宮の謎を解く その46」で以下のように書いています。

ところで、一宮市には大神神社(おおみわじんじゃ)が鎮座しています。鎮座地は一宮市花池2-15-28。この神社に関しては以下Wikipediaより引用します。

旧鎮座地の地名は大和町宮地花池(現在の古宮公園の位置)であり、大和国から移り住んだ人々が創始したともされる。他に、天火明命(尾張氏の祖神)の十世の孫である大美和都禰命(オオミヤツネノミコト)が祭神であったとする説もある。神紋は桜井市の大神神社と同じ三杉である。当社が尾張国一宮であるとする説があり、近くには同じく尾張国一宮とされる真清田神社がある。大神神社の社伝では、大神神社と真清田神社を相殿として一宮としたと伝える。


いかがでしょう?大神神社と真清田神社は共に尾張国一宮で、大神神社の社伝では、大神神社と真清田神社を相殿として一宮としたとのことです。両神社は極めて近い関係にあることから、祭神も同じかもしれません。真清田神社における祭神の謎にも迫れそうなので、もっと詳しく調べる必要があると思われます。と言うことで、早速大神神社に行ってみます。一宮駅からはやや遠いものの歩いて行ける距離です。


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大神神社の位置を示すグーグル画像。

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歩いていると、幟立公園に案内板がありました。

案内板にある薬師寺は大神神社の神宮寺だったようです。また大神神社の北西に古宮公園があります。名前からすれば、大神神社のかつての鎮座地はこちらだったことになります。

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薬師寺。

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大神神社の鳥居と石柱。

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拝殿。

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拝殿内部。

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賽銭箱。神紋は三本杉で、当然のことながら大和の大神神社と同じです。

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解説板。内容は以下。

崇神天皇の御代、疫病が流行したときに天皇が祀った神々の一柱。大和の国の一の宮大神神社の祭神で、三輪の神とよばれ、大國主神(大國様)の別名がある。大和の大神神社と同じく、大和系の人々が三輪の神を祀ったことにはじまるといわれる。鎮座地の花池は水が美しく、蓮田が多く、毎年熱田神宮に奉納する蓮が咲く沼であった。奈良時代に國司が赴任して、國中の神社を代表として國府宮の「尾張大國霊神社」を尾張の総社に指定、次いで花池の「大神神社」と「真清田神社」をまとめての「相殿・対の宮」ということで「尾張の一宮」に指定した。「文徳実録」「尾張國帳」には従一位大名神とあり三宮明神、三明神(神宝として珠・鏡・矢と三種の御証印があった)と称せられ、延長五年延喜式神明帳には式内社とあり勅祭神社であったことが判る。尾張の國中には、大名神八座、小一二三座あって、当時の大名神八座の一座である。

大神神社の祭神は大物主神とのことで、解説板には極めて重要な記述が見られます。例えば、『「文徳実録」「尾張國帳」には従一位大名神とあり三宮明神、三明神(神宝として珠・鏡・矢と三種の御証印があった)と称せられ、…中略…当時の大名神八座の一座であるとあります』の部分です、

まず重要なのが、大神神社は三明神と称せられていた点です。真清田神社の別宮・三明神社との関係が想定されます。大神神社は当時の大名神(=名神大社)八座の一座とあります。この八座は、熱田神宮とその摂社の計四社、大縣神社、真清田神社、一宮市大和町於保に鎮座する大神社、そして大神神社となります。

つまり大神神社は尾張国の錚々たる神社に肩を並べており、しかも鎮座地は熱田荘に含まれるため、熱田神宮との関係もあったのです。熱田神宮を尾張国三宮とするのは全く理解に苦しみますが、大神神社を熱田神宮に擬して三宮にした可能性さえ浮上してきます。全く驚きですね。

真清田神社と大神神社の関係をさらに検討していきます。真清田神社を示す尾張名所図会を参照ください。

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尾張名所図会。

画像のほぼ中ほどの上に三本杉とあります。三本杉は大神神社の神紋であることは、既にご存知の通りです。神社の境内に三本杉があるのは大神神社すなわち出雲族の影響と考えられないでしょうか?さらに境内の西に三明神とあります。上記画像でははっきりしないので、拡大します。

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三明神の画像。

画像のほぼ真ん中に三明神が鎮座しています。現在は本宮の真裏ですから、江戸時代における鎮座位置は異なっていたのです。かつては境内の行きやすい場所に鎮座していたのに、現在は隠すような位置にあるのはなぜでしょう?明治以降祭神が天火明命に変えられたのと関係があるのかもしれません。ここで、「真清田神社史」をチェックしてみます。「真清探桃集 巻之第二」に参考となる記事があります。「真清探桃集」は真清田清圓が 1723年に著したもので、彼は尾張藩士ですが、後に真清田神社の神主となった人物です。

「真清探桃集」によれば三明神宮は本宮の荒魂であり、印珠宮とも称され、三種の印珠を秘蔵する故に三明神宮と号すとされます。また、真清と三明は一体としてニ宮、二宮で一徳とされるとのことです。つまり、真清田神社と三明神社は密接不可分なものとされており、この重要性に鑑みて別宮の第一とされているのです。

神記によれば本宮の西二十尺に社があり、これが三明神宮であり、三十歩先に小丘があってそこから鏡など様々な品が出土し、これは神社地鎮の具であろうとしています。三明神宮の位置は尾張名所図会と一致しています。また、様々な祭器が出土したことは三明神宮の重要性を物語っています。

さらに、最も重要な例祭である3月3日の桃花祭において二輛の山車が出るのですが、一輛は西車或いは先車と称し、三明神の車で、三明宮は本宮の西に坐すためそう呼ばれるとのことです。その後に続く車を後車と呼び、また東車と呼びます。これは本宮が三明宮の東に坐すためとされます。この記述は実に重要です。なぜなら、三明宮の車が本宮の車に先んじて動き出すからです。つまり、密接不可分な三明神社と真清田神社の両神社に関して、三明神社の方がより重要な位置にあると理解される内容となっているのです。

真清田神社と三明神社は密接不可分で、桃花祭の催行手順から三明神社の方がより重要に見え、真清田神社と大神神社も密接不可分な関係にあり、大神神社は三明神と呼ばれていたことになります。よって、真清田神社と大神神社は三明神社を介して密接不可分な関係にあると言えそうです。では、真清田神社と大神神社にとって三明神はどのような位置付けになるのでしょう?

ここで、津田正生著の「尾張国神社考」を参照します。真清田神社に関して、「或人曰(いわく) 真清田の本社は大国主、花池(大神神社)は大物主」とありました。大神神社に関しても記載があります。この中に「天野信景曰 当社は一旦荒廃したので、御正体を真清田宮に蔵す。別宮の故なり」と記載ありました。

なお、大神神社の方の話では御正体はその後戻ったとのことです。(注:天野信景は江戸時代中期の国学者、尾張藩士で、「尾張国神名帳集説」(本国神名帳集説)の著者です。御正体は神仏習合の本地垂迹説に基づく考え方で、本地仏を表し、平安末~鎌倉初期ごろ鏡に仏像を浮き彫りにして神社に奉納されたもの。三明神社の三明も仏教的な匂いがします)

さらに「里人曰 三明神の舊地は今の宮地より乾二町ばかりで畔名を舊宮とも呼ぶあたり」と書かれています。やはり、古宮公園の辺りが旧鎮座地だったのです。

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古宮公園。

神社跡地を示すような痕跡は何もありませんが、地名が残り公園の名前になったため、神社旧地が特定できました。いかに地名が大事か理解される好例です。

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「ふるみやこうえん」の表示板。

ここまでを纏めてみます。真清田神社(本宮)の別宮である三明神社は本宮の荒魂を祀り、桃花祭の催行手順からして、本宮よりも重要な存在として位置付けられています。その三明神社は三明神と呼ばれている大神神社の御正体が遷されたものでした。大神神社の祭神は出雲系の大物主神となっています。

別宮三明神社と大神神社の上記関係を踏まえれば、三明神社の祭神は大物主神となってしまいます。一方、三明神社には本宮(天火明命)の荒魂が祀られているとされます。でも、天火明命の荒魂など聞いたことがなく、有力候補となる大物主神は大国主命の幸魂奇魂であり、荒魂ではありません。相互に矛盾しどちらの神も当てはまりそうにない問題をどう理解すればいいのでしょう?

真清田神社と大神神社の関係から真清田神社の祭神を大物主神と仮定してみます。すると、大物主神の荒魂が大国主命となり、三明神社は本宮(大物主神)の荒魂である大国主命を祀る形になって筋が通ってきます。(注:荒魂の逆は和魂で、和魂に幸魂奇魂が含まれるとも解されていますが、荒魂の逆を幸魂奇魂するにはややずれがあります)

次に、このような形となる経緯を推測してみます。真清田神社に遷された御正体はいつの頃か大神神社に戻されました。すると、三明神社は空っぽになります。困った真清田神社は、三明神社に大物主神の荒魂である大国主命を祀ったのではないでしょうか?当時の真清田神社本宮の祭神は大己貴命ですから、三明神社祭神が大国主命であっても、「真清探桃集」によれば真清と三明は一体であり特に問題はなさそうです。

上記の解釈が正しいか100%の確信はありませんが、いずれにしても原初の真清田神社は出雲系の人々が祀っていた社と考えて間違いなさそうです。時代が下り尾張氏が勢力を尾張北部まで伸長させた時点で、この神社も尾張氏の関係する神社としての扱いになったのでしょう。

まだ微妙な部分が残るものの、以上から真清田神社本宮の本来の祭神は出雲系の大己貴命で、三明神社の祭神は大国主命としておきます。

今回も単なる真清田神社の紹介ではなく謎解きとなってしまったので、記事カテゴリを「熱田神宮の謎を解く」に含め「その50」としておきます。

初詣 熱田神宮 その2


熱田神宮拝殿左手には北に向かい真っ直ぐ延びる小道があります。道の先に何があるのかは案内板で知ることができます。

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案内板。記載内容の概要は以下の通り。

この小径を進みますと「一之御前神社(いちのみさきじんじゃ)」にお参りできます。ご祭神は、ご本宮にお鎮まりになる熱田大神の「荒魂(あらみたま)」です。…中略…ご参拝に際しての注意事項 これより先は熱田神宮における最も神聖な場所です。

一之御前神社は熱田神宮における最も神聖な場所だそうで、この記述には大いに驚かされました。書かれた内容をそのまま受け止めると、一之御前神社は本宮以上に神聖な場所となってしまうからです。もちろん写真撮影も禁止となっています。「熱田神宮の謎を解く」を書き始めた2012年10月の時点では、一之御前神社は禁足地として近寄ることもできず、お参りはしておりません。なので、今回が初めての訪問となります。

熱田神宮最高の聖地に参拝できるとは、実に有難く期待に胸も膨らみます。ワクワクしながら小径を少し歩くと、神社のずっと手前に解説板がありました。解説板自体の撮影は多分問題ないでしょう。

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解説板。

天照大神の荒魂をお祀りしていると書かれています。案内板は熱田大神の荒魂ですから、両者は微妙に内容が異なっており、裏に何かありそうな気がしてきました。さらに歩くと一之御前神社の社前に至ります。

社は柵で囲まれ、社殿の前は扉のように閉じられ、見た限りでは開けられないようになっています。ここの神様は極秘に祀られていると理解される構造です。(注:写真撮影は不可ですが、画像検索すれば幾つか出てきますので、見たい方はそちらを参照ください)

さて問題は、これほどの禁忌となっている天照大神の荒魂とは一体何なのかと言う点です。ネット上では、伊勢神宮内宮に天照大神の荒魂を祀る社・荒祭宮(あらまつりのみや)があり、祭神の別名が瀬織津姫とされていることから、一之御前神社祭神も同様に瀬織津姫だとの意見が多いようです。ただ、そう安易に一之御前神社の祭神を瀬織津姫と決め付けていいのか疑問もあります。熱田神宮の来歴を考慮に入れ、もっと別の角度から検討する必要があるでしょう。

瀬織津姫は消された女神とされますが、詳細はWikipediaの以下の記事を参照ください。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%80%AC%E7%B9%94%E6%B4%A5%E5%A7%AB

では一之御前神社について詳しく検討するため、熱田神宮の祭神から見ていきます。

主祭神:熱田大神
相殿神:天照大神、素盞嗚尊、日本武尊、宮簀媛命、建稲種命

熱田大神とはどんな神様なのでしょう?確認のため熱田神宮のホームページをチェックすると以下のように書かれていました。

祭神の熱田大神とは、三種の神器の一つである草薙神剣(くさなぎのみつるぎ)を御霊代(みたましろ)としてよらせられる天照大神のことです。

熱田神宮のホームページは以下を参照。
http://www.atsutajingu.or.jp/jingu/about/

ホームページによれば、草薙神剣を御霊代(依り代、媒介)として天照大神が(熱田大神として)祀られているとのことです。これでは、主祭神の熱田大神が天照大神で、相殿神も天照大神となり、どう考えても筋が通りません。かなり苦しい説明を強いられている印象があります。

この問題をどう理解すればいいのでしょう?とても解けない難問のようですが、熱田神宮創建のいきさつを考慮すれば、さほど難しいとは思えません。既にご存知のように、熱田神宮は宮簀媛命が草薙神剣を熱田の地で祀ることから始まっています。よって熱田大神とは、天照大神ではなく草薙神剣の神霊を意味していると考えて間違いなさそうです。

熱田大神が草薙神剣を御霊代としてよらせられる天照大神のことであるとするのは、明治以降の話となりそうです。現在の熱田神宮の建築様式は、伊勢神宮の本殿と同じ「神明造」ですが、明治26年以前は「尾張造り」の建築様式であったことも、その裏付けとなります。以上から、熱田神宮の主祭神・天照大神は後から付加されたものとなります。

以上から、一之御前神社は草薙神剣の荒魂を祀っている神社となります。では、草薙神剣の荒魂とはどのような神様なのでしょう?答えを得るため、数多くの神剣が祀られている石上神宮(いそのかみじんぐう)をチェックしてみます。すると予想通り出てきました。草薙神剣の荒魂とは出雲建雄神(いずもたけおのかみ)を意味しているとのことです。詳細は石上神宮の以下のホームページを参照ください。
http://www.isonokami.jp/about/c3.html

出雲建雄神社は延喜式内社で、草薙剣の荒魂である出雲建雄神(いずもたけおのかみ)をお祀りしており、 同社縁起によれば、天武天皇の御代に御鎮座になり、神が 「吾は尾張氏の女が祭る神である。今この地に天降(あまくだ)って、皇孫を保(やすん)じ諸民を守ろう」 と託宣された、とのことです。

一方、出雲建雄神社解説板の由緒は以下のようになっています。

出雲建雄神草薙神剣御霊坐     
今去千三百余年前天武天皇
朱鳥元年布留川上日谷瑞雲立
上中神剣光放現「今此地天降諸
氏人守」宣給即鎮座給


出雲建雄神は草薙神剣の御霊に坐し、今を去る1300余年前天武天皇朱鳥元年(686年)、布留川の上流、日の谷に瑞雲立ち昇る中に、神剣が光を放って出現し、「今、此の地に天降る。諸々の氏人を守ろう。」と宣言され鎮座された。

この天武天皇朱鳥元年(686年)がとても気になります。そう、朱鳥元年は草薙神剣の盗難事件に関連する年なのです。「日本書紀」によれば、天智天皇7年(668年)僧道行が草薙神剣を盗み、新羅に向かって逃げたものの、嵐に遭い、迷って帰ってきたとされます。草薙神剣はなぜか熱田神宮に返還されず宮中に収められ、天武天皇が神剣の祟りによって病気となり崩御したため、朱鳥元年(686年)に熱田神宮に返還されました。

もちろんこの盗難事件は、草薙神剣を手に入れようとした朝廷側によって仕組まれたものであると思われます。

ところで、出雲建雄神社の縁起には、神が 「吾は尾張氏の女が祭る神である。云々」と託宣しています。尾張氏の女とは誰でしょう?そう、言うまでもなく宮簀媛命です。宮簀媛命は孝徳天皇の大化3年(647年、或いはその前)大高の地にて奉斎していた草薙神剣を蓬莱の地である現在地に遷座させました。熱田神宮前史として非常に重要な上、下知我麻神社と松姤社も大化3年に鎮座しています。

日本武尊と同時代の人物がなぜ大化3年に出てくるのか疑問もあるでしょうが、宮簀媛命は神剣を祀る巫女の名称と考えれば問題はありません。「熱田神宮の謎を解く」では宮簀媛命は女性神官(巫女)としての普通名称が宮主媛命であり、と書いています。

以上から、草薙神剣は熱田の地に鎮座した後、約20年で朝廷に召し上げられてしまったと理解されます。朱鳥元年(686年)、神剣の現物は尾張氏その他からの強烈なクレームにより熱田の地に戻されました。しかし神剣の神霊は、朝廷により天皇家の武器庫の役割を担っていた物部氏の石上神宮に遷されてしまったのです。

驚いた熱田神宮の尾張氏側は極秘に一之御前神社を創建し、草薙神剣の荒魂を自ら祀ることにしました。このことは絶対の秘密であるがゆえに、何と2012年の12月まで一之御前神社は禁足地とされていたのです。もちろんこの場所に神社があることは、隠しても隠しきれません。よって瑞穂区に一之御前神社の分霊が勧請されました。詳細は以下を参照ください。
http://jinjajin.jp/modules/newdb/detail.php?id=9143

ここには以下のような由緒が書かれています。

永禄7年(1564年)、尾張高田城主の村瀬浄心が、熱田神宮摂社の一之御前神社より御分霊を勧請したことに始まるとされるが、ご祭神が異なるため、その経緯がどういう変遷を経たのかは謎となる。ただし、「熱田神宮御遷宮宮記」に、所謂一之御前社は実に日本武命荒魂之霊也とある。

ご祭神が異なるため、その変遷が謎と書かれています。確かに謎となりますが、分霊を別の神と見せかけることで、絶対の秘密が知られないようにしたと理解すれば、謎も氷解します。随分熱田神宮側は苦労を重ねたようですね。そのご苦労は今も続いていて、一之御前神社の祭神を天照大神の荒魂としているのです。

このため、瀬織津姫が祭神になるとの誤解を招いてしまいました。まあそれも、神社側による意図的な誘導であったのかもしれません。結論的には、一之御前神社において祀られているのは瀬織津姫ではなく草薙神剣の荒魂となります。

以上が、一之御前神社に関する酔石亭主の推定ストーリーです。一之御前神社の参拝を終え、こころの小径を東に向かって歩きます。すると、妙なものが目に入りました。丘の斜面に穴が掘られているようで、頑丈な鉄扉で封印されています。

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封印された穴。

これは一体何でしょう?ネット上では古墳とか地下宮殿とかあれこれ推測されています。でもこれは、太平洋戦争中に掘られた防空壕ではないかと推定されます。調べたところやはり防空壕で、戦局が風雲急を告げる昭和20年5月に神剣を防空壕内に移し、その数時間後熱田神宮は被災したそうです。

さらに東に歩くと清水社となります。

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解説板。

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水を掛けるために参拝の方々が並んでいます。

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もう一枚。願い事は叶ったのでしょうか?

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大楠。

初詣の単なるご紹介のはずが、一之御前神社であれこれ考えすぎて疲れてしまいました。やはり熱田神宮は手強い……。

(注:本記事は単なる初詣紹介記事のつもりでしたが、期せずして熱田神宮の謎に踏み込んだためカテゴリを「熱田神宮の謎を解く」に含め「その49」とします)

熱田神宮の謎を解く その48


今回は「説その3」から検討します。これは高尾張から安食に移住し熱田に入ったという説です。既に書いたように、初代の尾張国造とされるのは乎止與命(おとよのみこと)で、妻は真敷刀俾命(ましきとべのみこと、宮簀媛命の母)となります。乎止與命は熱田神宮摂社の上知我麻神社(かみちかまじんじゃ)の御祭神で、真敷刀俾命は下知我麻神社の御祭神となります。そして真敷刀俾命は尾張大印岐(おわりのおおいみき)の娘でした。

この真敷が、尾張にあった間敷屯倉と関連しており、「安食」は間敷の転じたものとされますが、それが正しいかどうか確定されていません。なお、間敷屯倉は「日本書紀」の安閑天皇の条に記載されており、現在の春日井市勝川とされています。いずれにしても、大和の高尾張からの移住者が尾張氏だとするものです。

説その4:この説も外部よりの移住説で、吉備播磨から大和へ入り、熱田に定着したというものです。この説は大和から熱田へ移住したと単純化すれば、上記同様疑問を感じます。以上の4説は、尾張氏の出自が尾張国外だとする説です。

尾張には、尾張国北部を中心として、出雲族や出雲族を出自とする三輪氏、物部氏、日本武尊に代表される皇族の流入があり、また丹羽氏なども存在していましたが、勢力を増した尾張氏と融合した結果、外部よりの流入勢力の流れが尾張氏のもののように見えてしまったのではないかと推測します。既に書いたように、高尾張の地名は尾張氏が朝廷との関係を強め、出先機関を大和に設置して高尾張としたではないでしょうか?

以上が尾張氏の尾張国外発祥説です。続いて、尾張国内説を見ていきましょう。こちらも4説ありますが、内容は比較的簡単で、小針から熱田へ移動説、名和から熱田へ移動説、瑞穂から熱田へ移動説、御器所から大須へ移動し、最後に熱田定着したとの説です。

小針から熱田説は外部流入部分を省いた説となります。名和から熱田説は既に書いています。東海市名和町は、年魚市潟の南端に位置しており、氷上姉子神社は尾張氏の祖とされる宮簀媛の住居があった地です。宮簀媛は日本武尊から預かった草薙神剣を熱田神宮に祀ったことから、こうした説になったのでしょう。

瑞穂から熱田へ移動した説、御器所から大須へ移動し、最後に熱田定着した説は共に古墳の築造時期から導き出した説と推測されます。名古屋市における古墳の築造は御器所台地・瑞穂台地から始まり、5世紀中ごろには八幡山古墳が造られます。他には高田古墳群、瑞穂古墳群があります。これらの古墳被葬者は尾張氏と推測されますが、確認はできません。

6世紀前半には大須二子山古墳中心とした大須古墳群が築造され、既に書いた断夫山古墳、白鳥古墳が出現します。以上のような古墳築造の推移から尾張氏の本貫地が推定されている訳です。各古墳の大ざっぱな所在位置は最後にアップしておきますので参照ください。

酔石亭主としては、尾張氏は尾張国南部すなわち年魚市潟周辺地域(松炬島から名和一帯)に発祥し、6世紀には物部氏がいた熱田台地に入り、外部勢力が流入していた尾張北部も自分たちの統制下に置いていったと考えています。

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一宮市博物館展示の尾張における古墳の位置図パネル。

一宮から小牧にかけて多数の古墳が集積していますが、集中度においては笠寺台地から瑞穂台地にかけての名古屋市南部(年魚市潟周辺地域)が群を抜いてお入り、こちらが尾張氏発祥地と考えられます。

もちろんこれは酔石亭主の勝手な推測なので、それが正しいと主張するものではありません。特に物部氏や出雲族との関係は極めて難しく、表面を撫でたに過ぎないと言えます。まあ、こうした見方ができるかもしれない、と言った程度にご理解いただければ幸いです。

尾張氏に関してはもっと詳しく書くべきだったとも思います。でも、そうなるといつまでたっても終われません…。内容をはしょり過ぎたきらいはありますが、「熱田神宮の謎を解く」は今回で終了です。(熱田神宮や尾張氏関連で新たなテーマが出てきた場合にはまた続けます)

なお、尾張における古墳の位置図は下の写真を参照ください。点線部分が古代の海岸線です。熱田神宮の元々宮に当たる松炬島(笠寺台地)など年魚市潟周辺地域から発祥した尾張氏が、勢力を増すにつれて北上し、瑞穂台地や御器所台地に古墳を築き、熱田台地へと入った流れが見えてきそうです。

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