東三河の秦氏 その85 持統上皇東三河行幸の謎


「その84」を書いてから時間が経過してしまいましたが、前回で以下のように書いています。

邪馬台国の卑弥呼が巫女アマテラスとすれば、彼女の一族が秦氏の支配地域である豊前国に降臨したことが第一次天孫降臨になります。持統上皇が自らを天照大神に擬しているとすれば、また大和の藤原京を第二次高天ヶ原とすれば、彼女と文武天皇が秦氏の存在する東三河に行幸したことは、正しく第二次天孫降臨そのものであったと理解されます。

この二つの天孫降臨の間に極めて重要な天孫降臨が挟まっています。それは神武天皇東征(東遷)に代表される九州勢力の大和への移動です。神武天皇は天孫降臨した邇邇芸命(ににぎのみこと)の孫に当たり、天孫と呼ぶにふさわしい人物です。そのような人物の東征は神話ではなく現実としての天孫降臨と呼べるでしょう。(注:実際に神武天皇が存在したかどうかはまた別の話です)では、彼が来る前の大和の情勢はどのようなものだったのでしょう?(注:便宜的に大和の名称を使用しています)

大和は当初大国主命に代表される出雲族の影響下にありました。研究者によっては出雲族の本貫地は大和で、出雲は彼らが追われた地との見解さえ見られます。しかし、様々な出土物や伝承に鑑みると、やはり出雲族の本貫地は出雲であり、彼らの影響力が大和にまで及んでいたと理解すべきです。

一方で、大和において出雲族がどの程度の政治的、軍事的な力を有していたのかは、判断に苦しむ問題です。出雲から遠く離れた大和において、彼らが政治的、軍事的な力を有していたとは考えにくいからです。出雲族は三輪山一帯の祭祀を担っており、大和を自分たちの信仰圏内にしていたと言うのが合理的な解釈ではないでしょうか?もちろん、ある程度の政治力、軍事力は持っていたのでしょう。

当時奈良盆地の西側は湖や湿地帯となっていたようで、三輪山の麓に拠点を置いた出雲族は地元民を助け農地の開拓を実施し、彼らの間に出雲の信仰を広めていたのではと推測します。記紀には出雲の大国主命(大己貴命)が三諸山(三輪山)に住みたい(鎮まりたい)と言って鎮座し、これが三輪神社(大神神社)の神で大国主命の幸魂・奇魂であるとされています。そして大国主命の幸魂は大物主神(倭大物主櫛甕玉命)となります。詳しくは以下の大神神社(おおみわじんじゃ)ホームページを参照ください。
http://www.oomiwa.or.jp/frame/f02.html


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三輪山の位置を示すグーグル画像。

では、出雲族の地である大和に神武天皇が乗りこんで大和朝廷を立ち上げたのでしょうか?実はそれ以前に大和の地に降臨した人物がいます。そう、饒速日命(ニギハヤヒノミコト、以下ニギハヤヒと表記します)です。「先代旧事本紀」によれば、ニギハヤヒは神武東征に先立ち天磐船に乗って河内国の河上の哮峰(いかるがのみね、大阪府交野市私市の磐船神社)に天降り、その後大和国の鳥見の白庭山に移ったとされます。ニギハヤヒに伴って大和に天下りしたのは、遠賀川流域の鞍手郡における物部氏が多く、ニギハヤヒが物部氏の祖であること、降臨の出発点が北九州であることが確認されます。

磐船神社の由緒は以下の同社ホームページ参照。
http://www.osk.3web.ne.jp/~iw082125/yuisyo.html


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白庭山の位置を示すグーグル画像。今は新興の住宅地みたいになっています。

ニギハヤヒは物部氏の祖神で「先代旧事本紀」には、天照國照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてる くにてるひこ あまのほあかり くしたま にぎはやひのみこと)と記載されます。天照國照彦は天と国を照らす男で太陽神を意味し、男神アマテラスの神格を表現していると言えるでしょう。天火明は尾張氏の祖神である天火明命となります。櫛玉は櫛甕玉で大物主神となります。饒速日尊はもちろん物部氏の祖神です。

物部氏は歴史的に見ても軍事力を持った集団となりますので、ニギハヤヒが大和に入った段階で出雲族は政治的、軍事的には物部氏に従属する立場となります。一方、三輪山の祭祀権は依然として出雲族が保持していたものと思われます。以上から、神武東征の前段階で出雲族や物部氏が大和の地に根を張っていたことになります。

そうした情勢の中、大和に神武天皇が乗り込みます。「日本書紀」には磐余彦(神武天皇)が塩土老翁から、東に青い山に囲まれた美しい国があり、その中に天磐船に乗って飛び下る者がある、と聞かされ、飛び下った者はニギハヤヒと言うか、そこに行って都を造ろうと決意し、東征の旅に出立します。この記述からも、神武東征以前にニギハヤヒ(物部氏)の大和降臨があったと確認されます。

さて、磐余彦は浪速国の白肩津に至りますが、彼の前に長髄彦(ながすねひこ)が立ち塞がりました。このため東征軍は熊野から大和を目指します。そこでも敵が待ち受け、東征軍は危機に陥ります。危機を脱出できたのは、高倉下(たかくらじ)が武甕雷神から授かり磐余彦に奉った剣でした。高倉下を祀る神社は鞍手郡に多くあり、尾張氏の天香語山命と同一人物とされますが、ストーリーから判断すれば物部氏系となります。尾張氏の祖・天火明命と物部氏の祖・ニギハヤヒが同一人物とされるのと同じですね。

群がる敵を倒し、最後に難敵・長髄彦との決戦となります。東征軍が戦に勝てない中、金色の鵄(とび)が飛来し、その輝きに長髄彦の軍は惑います。長髄彦は磐余彦に対し、「天神の子が天磐船に乗って天下りした。それがニギハヤヒで自分の妹を嫁がせ、君として仕えている。ニギハヤヒこそが天神の子であるのになぜ人の土地を奪うのか」と問いを発しました。

磐余彦はニギハヤヒが天神の子ならその証拠を見せろと迫り、長髄彦はニギハヤヒの天羽羽矢などを磐余彦に示します。対する磐余彦も天羽羽矢などを示したので、長髄彦は畏れますが敵対する態度は変えません。ニギハヤヒは磐余彦に恭順の意を示し、遂に長髄彦を殺してしまいます。磐余彦は苦労の末に大和に入り初代神武天皇となったのでした。

神武天皇東征部分はうんとはしょって書いていますので、詳しくは「日本書紀」を参照ください。さて、この長髄彦はどのような人物なのでしょう?彼は登美の長髄彦と呼ばれます。登美は蛇を意味し、長髄彦の長はナーガでこれまた蛇を意味するとの説もあることから、蛇神である大物主神と同じ出雲系と考えられます。(注:「日本書紀」には、鵄の瑞兆により鵄邑(とびのむら)と名付け、今は鳥見(とみ、=登美)と言うのは訛ったからとありますが、長髄彦の名前が先行していることから、「日本書紀」の説明は後付けになります)

出雲族が三輪山を祭祀する地に物部氏の祖であるニギハヤヒが入り、出雲族は物部氏に従属したと考えれば、神武東征時点における長髄彦とニギハヤヒの関係は正しく出雲族と物部氏の関係となります。そこに天孫系の磐余彦が乗り込み、様々な軋轢があったものの、最終的に天孫系が大和の支配権を得ることとなったのです。

もちろん「日本書紀」は天皇家にとって都合のよい書き方になっています。では、初期段階における出雲族、物部氏、天皇家の関係はどのようなものだったのでしょう?参考になるのは第一代から第九代までの天皇の皇妃で、これを記紀などでチェックしてみます。神武天皇の場合、皇妃は大物主神の女、事代主神の女で明らかに出雲系です。その後は師木(しき、磯城)の県主(あがたぬし)、尾張連、穂積臣などの系統から出ています。これらはニギハヤヒの系統となります。

以上、第九代天皇までの各皇妃は出雲系と物部系から出ていることになり、物部系が圧倒的に多くなっています。尾張連に関しても、例えば尾張氏の祖・天火明命とニギハヤヒが同一人物であり、天火明命の子である天香語山命と高倉下も同一人物となっており、物部系と尾張系が未分化の状態です。

これらから、大和に天孫系が降臨した初期段階では、天孫系が出雲族や物部氏に入り婿している形であったと理解されます。その後、天孫系が力を増して出雲族や物部氏の上に立つようになります。けれども、記紀編纂時点においてなお、かつて天孫系は出雲族や物部氏の下の地位にあった事実を拭い去ることができず、記紀の記述の各所にその痕跡が出ざるを得なくなっているのです。

系図においても同様で、天照大神の子である天忍穂耳命と高天ヶ原の指令神・高木の神の娘である萬幡豊秋津師比売命(よろづはたとよあきつしひめのみこと)の子が天孫降臨の邇邇芸命であり、その兄が天火明命で「先代旧事本紀」によれば天火明命とニギハヤヒは同一人物となっています。邇邇芸命より天火明命とニギハヤヒが兄として上に置かれていることからも、物部氏や尾張氏の天孫系に対する高い位置付けが見えてきます。

長々と書いてきましたが、要は出雲族と物部氏の地である大和に天孫系が乗り込んだのが神武東征(=天孫降臨)となります。では東三河の場合はどうでしょう?東三河には大国主命や大己貴命を祀る、御津神社、砥鹿神社、石巻神社などが鎮座し、出雲族が津守氏の手配で東三河に上陸した経緯も既に書いています。

物部氏もまた東三河に色濃く存在しています。第6代考安天皇の御代、三河の国造になったのが大木食命で、彼はニギハヤヒの4世孫となります。砥鹿神社の祭神には大木食命も入っており、同神社が鎮座する一宮地区の大木村の地名は大木食命に由来しています。石巻神社の創建は不詳ですが、孝安天皇の御代に大木食命が大和の大神神社から分霊を勧請したとされています。そして大木食命の子孫である大木氏が代々石巻神社の神官を務めています。

第13代成務天皇の御代、出雲色大臣命(いずものしこおおみのみこと、出雲醜大臣命)の5世孫・知波夜命(ちはやのみこと)が三河国造に任ぜられています。出雲色大臣命はニギハヤヒの3世孫に当たり、豊川市の出雲神社(鎮座地:豊川市柑子町五反田)に祭られています。由緒は以下の通り。

「三河国内神名帳」に従五位上出雲天神とあり、三河国造の太祖を祀る社である。延宝9年(1681)2月9日、棟札に奉造立とあるのは、水害により社殿流出再建のもとで、出雲大天女を配祀したことを記す。明治12年出雲神社に改め村社に列し、大正9年4月2日、指定社となる。

神社の由緒が物部系と出雲系の密着度を良く示していますね。さらに、砥鹿神社の祭神大木食命は出雲色大臣命の子供となります。

ニギハヤヒの後裔・物部胆喰宿禰は成務天皇の大臣で、三川穂国造である美己止直(みことのあたい)の妹伊佐姫を娶っています。安本美典氏は「奇書『先代旧事本紀』の謎をさぐる」(批評社)において、「先代旧事本紀析疑」(原著者:御巫清直)の現代語訳を掲載しています。その中で原著者は、偽書ともされる物部系史書「先代旧事本紀」の編纂者を、三河国造の家柄で、平安時代前期の官吏であった興原敏久(物部中原宿彌)ではないかとしています。

西三河になりますが、真福寺(所在地:岡崎市真福寺町薬師山6)は推古天皇2年(594年)、物部守屋の子の物部真福(まさち)が願主となって建立したとされます。かつて隣には物部神社が鎮座していたそうです。

西三河最古の寺院であった北野廃寺(所在地:岡崎市北野町)も物部氏の関与があったとされます。この寺院は四天王寺式伽藍配置を持っていますので、聖徳太子や秦氏の関与もありそうに思えます。(注:大阪の四天王寺においては物部守屋も祀られている)

また村積山に鎮座する村積神社(岡崎市奥山田町字山田46)は推古天皇の時代、聖徳太子や蘇我馬子と争って敗れた物部守屋の次男・物部真福(三河の仁木郷に居住)が祀った神社とされ、持統上皇は三河行幸の折、山に登り桜をご覧になって「花園山」と命名されたとのことです。(注:三河の仁木郷は現在の岡崎市仁木町周辺)

持統上皇と文武天皇の行幸は、岩戸隠れから天孫降臨に至る日本神話を東三河と言う現実の舞台装置において具現化することを目的としていました。東三河において出雲族や物部氏の存在があり、そこに持統上皇(=天照大神)、文武天皇(=天孫降臨した邇邇芸命)が行幸したのは、神武天皇に率いられた九州勢力が出雲族と物部氏の地である大和に降臨したのと相似しており、同じ構造となっています。出雲族と物部氏が色濃く存在する東三河は、この意味においても現実の舞台装置として最適であったと言えるでしょう。

              東三河の秦氏 その86 持統上皇東三河行幸の謎に続く
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東三河の秦氏 その84 持統上皇東三河行幸の謎


今回は菟上王に関して見ていきますが、菟上王と菟上足尼との関係や秦氏との関係も視野に入れる必要があるでしょう。とは言っても、どこから見ていけばいいのかなかなか難しそうです。取り敢えず、系図から始めることに……。

開化天皇―彦坐王―大俣王―菟上王

記紀によれば、第9代開化天皇の子が彦坐王で、彦坐王が山代の刈幡戸辨(かりはたとべ)を娶して生まれたのが大俣王です。では、山代(=秦氏最大の拠点である山城国)の刈幡戸辨とはどんな人物でしょう?

彼女は秦氏系と推定されます。なぜなら刈幡とは、既に書いたように山城国相楽郡の蟹幡(かんばた)に由来すると考えられるからです。そして蟹幡は、神服、神畑(豊橋市に二カ所ある地名)へと繋がっていきます。相楽郡は秦氏の居住地と理解されますが、既に書いたように砥神山の東北側に相楽神社があり、相楽神社はかつて兎上神社と称されていました。相楽には見えない関連性がありそうです。蟹幡の詳細は「富士山麓の秦氏 その31」を参照ください。

刈幡戸辨の記述は「古事記」の垂仁天皇の条に出てきますが、面白いことに山城国相楽郡も垂仁天皇の条に出てきます。円野比売は大和国から丹波国へ向かう途中で自ら命を断つ決心し、 山代国の相楽に至ったとき木に縄をくくり付け首を吊ろうとします。しかし死ぬことはできず、弟国(おとくに、秦氏の拠点でもある京都府乙訓郡)に着いたとき、ついに深い淵に落ちて死にました。

以上から、大俣王には秦氏の血が入っていることになり、その子が菟上王(うなかみのおう)でした。菟上王とは菟足神社の祭神菟上足尼命を意味すると考えられないでしょうか?もしそうなら、菟上足尼命には酔石亭主の期待通り秦氏の血が入っていることになり、スムーズに秦石勝へ繋がっていきます。また、中継ぎ側の人物として考えることもできます。

(注:「先代旧事本紀」の 「国造本紀」によれば、菟上足尼命は葛城襲津彦(武内宿禰の子で、秦氏の祖である弓月君を出迎えに行った人物)の四世の孫で、雄略天皇の御代に「穂の国」の国造に任じられたとされます)

菟上王に関して別の視点から見ていきます。菟上王を祀っている神社は数えるほどしかなく、調べたところ伊勢国朝明郡(現、三重県いなべ市大安町宇賀1070)に菟上神社が鎮座していました。祭神は菟上王ですが、他にも多くの神々が合祀、配祀されています。詳細は以下を参照ください。
http://www.geocities.jp/engishiki01/ise/bun/is081105-02.html


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菟上神社の位置を示すグーグル画像。

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菟上神社の鳥居。

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石段。

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拝殿。

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扁額。

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本殿。

比較的小ぶりな神社と理解されます。しかし境内はとても清々しく地元から崇敬されているのでしょう。大安町の町名は奈良時代に大安寺の寺領であったことに由来しますが、この寺は空海の師である勤操(秦氏)など、秦氏系の強い寺です。(注:大安町の町名は昭和34年に郷土史を研究された小川重太郎氏が大安寺史料を調査し、当時の町長に進言して採用されたもの)宇賀は秦氏が創建した伏見稲荷大社の祭神・宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)と繋がってきます。)

さて、前回で菟上足尼の移動ルートに関して丹波、近江、東三河としましたが、近江から東三河までが距離がありすぎるので、別の中継地域があるかも知れず、例えば伊勢国と書きました。多賀大社からは大君ケ畑を経由して鞍掛峠を越え、鈴鹿山脈と養老山地に挟まれた谷を下れば、伊勢国に鎮座する菟上神社に行き着けます。


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鞍掛峠を示すグーグル画像。多賀大社から菟上神社までは画像を拡大して確認ください。

鞍掛峠は伊勢から京に向かう場合に利用する峠で、Wikiによれば「名称の由来は858年(天安2年)惟喬親王が藤原良房の追討を逃れ都から逃れる際、ここで馬の鞍を外して休憩をとらせたことに因んで名付けられた。」とのこと。古い歴史のある峠と理解されます。谷を下れば員弁川石の産地・員弁川となりますが、員弁(いなべ)郡は古代の祭祀氏族である猪名部氏にちなんでいます。

お隣の菰野町は「秦さんはどこにいる? その6」で書いたように秦姓の多い地域です。

三重県における秦姓は全体で165人。三重郡菰野町55人。四日市市36人。員弁郡東員町22人。津市14人となっており、県北部に集中していると理解されますね。その中でも最も秦姓の多い菰野町周辺地域について少し詳しく見ていきましょう。菰野町の岡村(近世)に関して角川日本地名大辞典によれば、以下の通りです。

もとは千草村の枝郷(元禄郷帳・天保郷帳)村の草分は信濃国より移住した秦氏ほか13人衆(倉品・山口・吉崎・白木・三枝・水越・芝田・藤山・大塚・山川・石田・桑原)であるといわれる

内容詳細は以下を参照ください。
http://www.jlogos.com/new2_result2.html?keyword=%E5%B2%A1%E6%9D%91(%E8%BF%91%E4%B8%96)&id=7363562

この中で千草村とありますが、これは千種と考えられます。そして、蘇我氏の圧迫から逃れて播磨国の坂越に入り、赤穂市内から坂越湾に流れる千種川流域の開拓をしたのはかの有名な秦川勝でした。川の流域一帯には多数の大避神社が鎮座しています。つまり千種村は秦川勝に関連する秦氏地名であり、江戸時代に信濃国から秦氏が移住して菰野町に秦氏が多くなった訳ではないのです。

員弁郡東員町長深にも秦姓の方は多く居られます。Wikiによれば、「七代目松本幸四郎は、明治3年(1870)大長村字長深で土木業をしていた秦専治、母りょうの三男として生まれ、豊吉と名づけられた。5歳の頃、舞踊の名門藤間流の家元二代目藤間勘右衛門が豊吉を藤間家の養子にした。」とのことです。従って現在の松本幸四郎氏や松たか子氏はいずれも秦氏の流れを汲む役者さんとなります。


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長深を示すグーグル画像。

朝明郡は、天武天皇が壬申の乱に際して 同郡の迩太川(朝明川)で天照大神を望拝した地とされています。正倉院文書には朝明郡蘆田郷出身の秦家主に関する記録が残されています。内容は以下を参照。
http://www.rekihaku.ac.jp/exhibitions/project/img/020319/64shin.jpg

以上から、菟上神社はこれら秦氏エリアに囲まれたような場所にあると理解されます。他に菟上王を祀った神社がないでしょうか?調べてみると、三重県四日市市伊坂町1388には菟上耳利神社が鎮座していました。伊坂町には字菟上の地名も存在します。社名は明治四十一年、菟上神社に同村字上ノ山の耳利神社を合祀したもので、耳利神社は「ミトシ」であり、御年神(大歳神)を意味しています。神社詳細は以下を参照ください。
http://www.geocities.jp/engisiki/ise/bun/is081105-01.html

御年神は大年神と同じで大和岩雄氏は大年神を秦氏系の神としています。前回で丹波国の大歳神社と多賀大社が犬の伝承で繋がっている点を書きました。その大歳神社と同系列の耳利神社が菟上王を祀る菟上神社に合祀されているのです。このことからも、菟上王=菟上足尼命は丹波、近江、伊勢を経由して東三河に至ったと理解されます。

菟上王と菟上足尼命を同一人物とするには時代的に合わない部分もありますが、菟上足尼命が自らを菟上王に擬していた可能性も排除できません。いや、やはり菟上王=菟上足尼命なのでしょう。「その6」において、菟足神社の昇格碑文に「平井なる柏木濱に宮造して」とあることから、菟上足尼命は皇族ではないかと書きました。菟上足尼命=菟上王だとすれば、その推測は正しいことになります。

さらに、上記したように伊勢においても菟上神社周辺地域は秦氏の密集地であり、丹波、近江、伊勢、東三河の全てに秦氏の存在が認められ、菟上足尼命の移動の背後に秦氏がいたと理解されます。

菟上王に関しては「古事記」にも出てきます。垂仁天皇の皇后沙本毘売(サホビメ)が生んだ皇子本牟智和気王(ホムチワケ)は成長しても言葉を発することがなく、曙立王(アケタツ)と莵上王の伴で出雲大神の宮を訪ねた結果、口がきけるようになりました。それを天皇に奏上したところ、天皇は喜び菟上王を返して、神の宮を造らせたとあります。

「古事記」の記載では出雲に行ったことになっていますが、神の宮を造った場所は丹波だと推測します。理由は、丹波道主命の子が菟上王で、菟上足尼命は丹波国の出身であり、丹波には元出雲と称される出雲大神宮が鎮座しているからです。そして菟上王(=菟上足尼命)の移動場所の全てが秦氏の居住地域であり、裏に秦氏の存在があると理解されます。

ところで、「歴史に秘められた謎を解く その9」にて以下のように書いています。

天孫降臨とは、筑紫地方にあった邪馬台国の部民が、日田盆地(ここには日向の地名が多い)を経由し、耶馬溪のある山国川を下り、豊前の中津(仲津)に到着した経緯を描いたものでしょう。天孫が降臨した場所である豊葦原中国(とよあしはらのなかつくに)とは、正しく台与(とよ)が祭祀する中津の国(豊前国=秦氏の国)ではないでしょうか。

邪馬台国の卑弥呼が巫女アマテラスとすれば、彼女の一族が秦氏の支配地域である豊前国に降臨したことが第一次天孫降臨になります。持統上皇が自らを天照大神に擬しているとすれば、また大和の藤原京を第二次高天ヶ原とすれば、彼女と文武天皇が秦氏の存在する東三河に行幸したことは、正しく第二次天孫降臨そのものであったと理解されます。

以上から、持統上皇の東三河行幸は岩戸隠れから天孫降臨に至る日本神話全体を東三河と言う現実世界において具現化することを目的としていたとの主張は正しいことになりそうです。

しかも、これら全ての背後には豊に象徴される秦氏が存在していました。東三河には豊橋、豊川、豊根、豊津、豊岡など頭に豊の付いた地名が異常に多いのは既にご存知の通りです。また天照大神の死と再生に秦氏の関与がある点は何度か書きました。そう、神話側と現実側を架橋する一族とは秦氏に他ならなかったのです。但し彼らは自分たちの存在をほとんど表に出していません。よって、神話側と現実側を繋ぐ影の中継ぎ側が秦氏だったことになります。

東三河の謎解きシリーズはこれにて終了です。84回も続いたとは自分でも驚きですが、実はまだ書き足りない部分もあります。年内でうまく纏められそうにないので終了と書いたものの、ある程度纏まれば来年にまた少し続けてみたいとは思っています。

東三河の秦氏 その83 持統上皇東三河行幸の謎


前回で神話側と現実側を架橋する中継ぎ側が存在するのではないかと書いています。例えば、天孫降臨神話に登場する天忍穂耳尊とこれに対応する現実側の草壁皇子の間には、ほとんど無限の時代差があることになります。持統天皇と天照大神に関しても、太陽神である天照大神には太陽を祀る巫女アマテラスの段階があり、巫女アマテラスは卑弥呼のイメージが投影されています。よって、卑弥呼と持統天皇との間には約450年の時代的隔たりがあることになります。

まあ、天忍穂耳尊と草壁皇子の時代差も無限ではなく、卑弥呼と持統天皇の時代差にほぼ等しいと考えるべきかもしれません。こうした隙間を埋めるため、神話側と現実側の間に中継ぎ側が存在していると考えられるのです。

中継ぎ側とは、神話側と現実側の間にいて、それなしには現実側が成り立たないような人物や氏族を意味します。言い換えれば、現実側をより確かなものとさせる人物となるのでしょう。この問題を追っていくため、草壁皇子(現実側だが、東三河において実在するか不明確)の存在を確かなものとさせる中継ぎ側の人物を検討します。

酔石亭主が時々参考にする「日本の神々」(白水社)の東海編に砥鹿神社があり、以下の内容が記されています。

社伝によると、当社の世襲神主家草鹿砥氏は穂別命の後裔であるという。この一族は穂別命と同族の日下部連の後裔と考えられており、当社は穂国造が奉祭したものと推定されている。

この穂別命とは誰でしょう?「古事記」には三川の穂別の祖である朝廷別王の名前があり、朝廷別王(或いはこの人物の後裔)が穂別命なのでしょう。「別」とは皇族で臣籍降下した分流・庶流の氏族を指していることからも、穂別命と朝廷別王は同一人物の可能性が高いと考えられます。

現実側の草壁皇子に対応する神話側は天忍穂耳尊。草鹿砥氏は三川の穂別の祖である穂別命(=朝廷別王)の後裔。草鹿砥氏は日下部氏で日下部氏は草壁皇子の養育氏族。草鹿砥氏は病快癒で文武天皇とも関係がある。こう書けば、朝廷別王の後裔である草鹿砥氏を抜きにして草壁皇子も文武天皇も東三河に存在できないことになります。以上から、神話側の天忍穂耳尊と現実側の草壁皇子を架橋する中継ぎ側として朝廷別王の存在が浮上してきました。朝廷別王を系図的に書くと以下のようになります。

第9代・開化天皇―彦坐王―丹波道主命―朝廷別王(三川穂別の祖)

ついでに日下部氏も系図的に書いてみます。

開化天皇―彦坐王―狭穂彦王(日下部連の祖)

以前にもこの系図は書いていますが、朝廷別王(三川穂別の祖)と狭穂彦王(日下部連の祖)の両者は同じ流れに収まっています。だから「日本の神々」には「当社の世襲神主家草鹿砥氏は穂別命の後裔であるという。この一族は穂別命と同族の日下部連の後裔と考えられており」と両建てで書かれているのです。

やはり朝廷別王は、東三河において実在を疑われる草壁皇子が存在していると思わせる中継ぎ側の役割を振られていると見ていいでしょう。さて、草鹿砥氏は既にご存知のように砥鹿神社の世襲宮司です。そして「三河國一宮砥鹿神社誌」によれば、朝廷別王も砥鹿神社の祭神となっています。朝廷別王と穂別命が同一人物であるとここからも理解されますね。

砥鹿神社に関連して気になる神社があります。蒲郡市豊岡町下久貝17に鎮座する砥神(とかみ)神社です。と言うことで、この神社を見ていきましょう。


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神社の位置を示すグーグル画像。画像を拡大すれば東に砥神山が出てきます。

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砥神山。いかにも神体山のような山容で三河富士とも呼ばれているようです。

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鳥居。

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社名を刻んだ石柱。

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社殿。

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扁額。

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社口大明神の石碑。かなり大きいです。

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神木のシイ。

扁額脇の祭神を記した板に創始は延喜2年(902年)とありますが、実際にはもっと古いと思われます。祭神は伊邪那岐(イザナギ)命、伊邪那美(イザナミ)命、木花咲耶姫命となっています。かつては砥神神社と多賀神社があって、後に合祀されたことから、多賀大社の祭神伊邪那岐命と伊邪那美命が祀られているようです。

砥鹿神社の「とが」と多賀大社の「たが」の音が似ているのはやや気になります。多賀大社は滋賀県犬上郡多賀町多賀に鎮座しており、Wikiによれば「『古事記』以前の時代には、一帯を支配した豪族・犬上君の祖神を祀ったとの説がある。」とのことです。

多賀大社はその鎮座地からしても、本来犬上氏が祖神を祀った神社だったのです。これはとても気になる見解です。「その46」では以下のように書いています。(注:長くなりますがご容赦ください。引用部分は赤括弧にしています)

菟足神社略記によれば菟上足尼命は籰繰神社、犬頭神社を創建し養蚕、機織りを奨励、犬頭糸や赤引きの糸を有名にした功績から、大神として仰がれるようなったとされます。(注:「菟足神社略記」に関しては原文を見ておらず、「穂の国八百年の旅」朝日新聞出版サービスを参照しています)

菟上足尼命は犬頭神社の社伝によると丹波出身とされるのですが、丹波国桑田郡は秦氏が桑を植え養蚕に従事したことから秦氏との関係が出てくるので、東三河における養蚕と機織りに秦氏系氏族の関与が推定されます。

菟足神社の祭神菟上足尼命は犬頭神社の社伝では「丹波国から来た穂国造の葛城上足尼」とされます。犬頭神社の祭神は保食大神で、神社の由来について「今昔物語集 参河国始犬頭糸語」に面白い説話があります。内容は幾つかのバリエーションがあるようですが、大差はありません。うんと大ざっぱに書けば以下のようになります。

三河国の郡司の妻が養蚕を営んでいたが、飼い犬が蚕を食べ、鼻の穴から絹糸を出した。その犬が死んだので神として祀ったのが犬頭神社である。犬を埋めた桑の 木には数多くの蚕がつき、上質な糸が採れたので国司が朝廷に献上、犬頭糸と呼ばれた。犬の頭を葬ったところに社を創建したのが犬頭神社で、犬の尾は大崎町に葬り、足は足山田に葬ったと伝えられている。

犬頭神社の鎮座地は豊川市千両町糸宅107ですが、千両は村が白糸をそれぞれ千両ずつ納めたことに由来し、糸宅は郡司の屋敷に由来しています。

社記によれば創建は舒明天皇の頃とのことで、天皇の生没年は593年、641年となっています。その頃に三河国の郡司が云々と言うのは、由緒に混乱があるようです。なぜなら郡司は、律令制の時代に中央から派遣された国司の下で郡を治める地方官だからです。 犬頭神社の由緒詳細に関しては以下を参照ください。
http://www.ooyasiro-jinjya.com/jinjya/chigiri/kentou.html

社記によれば、犬頭神社は犬上御田鍬(いぬがみのみたすき)と関係があり、犬上氏を犬頭と書いたとされますが、どう関係するのかは不明です。犬上氏は日本武尊の子・稲依別王 ( いなよりわけのみこ )の後裔とされ、犬上御田鍬は最後の遣隋使および最初の遣唐使を務めています。そこで、稲依別王に関して調べてみると犬に関連した伝説が伝わっていました。

滋賀県犬上郡多賀町富之尾に鎮座する大瀧神社に伝わるお話です。大瀧神社の境内末社・犬上神社は、かつてこの地に栄えた犬上族の祖神を祀った宮と言われています。伝説の内容は以下となります。

稲依別王が大蛇退治に出て昼寝をしていると、連れていた犬(小石丸)が勢いよく吠えだした。稲依別王の背後にいた大蛇が襲いかかろうとしていたからだった。目を覚ました稲依別王は静かにせよと言ったが、小石丸はますます大きな声で吠え続けた。怒った稲依別王、太刀で犬の首をはねてしまった。その首は大蛇の頭に噛みつき、そのまま一緒に川に落ち、大蛇は死んだ。稲依別王は小石丸の首をはねたことを悔やみ、この地に祠を建て亡骸を埋めて松の木を植えた。それが犬胴松である

詳細は以下を参照ください。
http://www.geocities.jp/engisiki/oumi/bun/oum220602-02.html

なお、滋賀県犬上郡豊郷町八目に鎮座する犬上神社にもほぼ同様の伝説が伝わっています。犬頭神社と伝説の内容は異なっていますが、犬が登場し死んで、木を植えるなど共通項が見られます。どうやら犬頭神社における伝説の基本形は遠く離れた犬上神社にあったようです。

長々と引用しましたが、丹波国出身の菟上足尼が創建したとされる犬頭神社は犬上氏の関与があったと理解されます。これを他の資料から確認できないでしょうか?調べたところ、「豊川市十年史」には以下のような記載がありました。

しかしながら、少くとも犬上氏が、この土地に居住していたことと、養蚕がこの地方で相当旺に行われていたことは容易に想像されることで、彼等の祖先に対する崇敬と、犬上氏の中心的な拠点が犬頭神社に象徴されたと考えることが出来る。

「豊川市十年史」の内容はデジタル化されており以下を参照ください。
http://oshimamd.sakura.ne.jp/kosyo/kawa10nen.pdf#search='%E6%9D%B1%E4%B8%89%E6%B2%B3+%E7%8A%AC%E4%B8%8A%E6%B0%8F'

秦氏との関連が想定される丹波出身の菟上足尼命は犬頭神社を創建し、犬頭神社は犬上氏である犬上御田鍬(いぬがみのみたすき)と関係があり、多賀大社は本来犬上氏の祖神を祀った神社で、その鎮座地(滋賀県犬上郡多賀町多賀)に近い滋賀県犬上郡多賀町富之尾に鎮座する大瀧神社(犬上氏の祖神を祀る)には犬頭神社と似通った伝承が存在しました。これはかなりややこしいですね。Wikiには多賀大社に関して以下の記載があります。

犬上君(犬上氏)は、多賀社がある「犬上郡」の名祖であり、第5次遣隋使・第1次遣唐使で知られる犬上御田鍬を輩出している。


犬上氏は多賀大社に深い関与があると理解されます。また多賀大社にはお守りとしてしゃもじを授ける「お多賀杓子(おたがじゃくし)」という慣わしがあります。砥神神社には社口大明神の巨大な石碑があり、明らかに「お多賀杓子」と社口大明神は関連しています。

砥鹿神社と繋がりそうな砥神神社は多賀大社と関連があり、多賀大社は犬頭神社と犬上氏で関連があり、犬頭神社の創建には秦氏との繋がりが深い菟足神社の祭神・菟上足尼が関係していることになります。話が随分錯綜していますが、多賀大社は砥神神社と犬頭神社の回路を通して砥鹿神社に影響を及ぼしているようにも思えてきます。だから社名も多賀(たが)と砥鹿(とが)で似通ったものになっているのでしょう。

砥鹿(とが)の名前は秦氏に関係すると「その75」で書いていますが、多賀大社のすぐ近くには依智秦氏の秦荘があります。丹波篠山の大歳神社(大歳神は大和岩雄氏によれば秦氏系の神)には多賀大社と関連する犬の伝承が伝わっています。大歳神社に関しては以下を参照ください。
http://www.raifuku.net/special/wolf/map/area/kinki/shrine/ootoshi/ootoshi.htm

以上、とにかくややこしいので整理し直してみます。

中継ぎ側の人物である朝廷別王は丹波道主王の子で、犬頭神社の社伝では、菟上足尼命は丹波国から来たとされます。ストーリーの始まりには丹波があると理解されます。

次に丹波の大歳神社の伝承から、丹波は近江に接続していると理解されます。近江の犬上氏は東三河の犬頭神社(菟上足尼創建)に接続しています。その犬上氏は多賀大社に深く関与しており、多賀大社は東三河の砥神神社に接続していきます。そして砥神神社は三河一宮である砥鹿神社に接続していくのです。ここまで検討して菟上足尼の動きが見えてきました。

彼は丹波国を出て近江に立ち寄り犬上氏一族と出会い、彼らと共に東三河を目指したのです。だから、犬頭神社に犬上氏の伝説が残り、創建は菟上足尼とされたのです。その動きの背後にあるのはもちろん秦氏であり、このため犬頭神社は養蚕と関係してくると考えられます。

秦氏の関与は丹波、近江、東三河の各地域に彼らの存在があることからも、推定されます。ただ、近江から東三河はやや距離が離れており、その間に別の中継地域があるかもしれません。例えば、伊勢国など……。

ところで砥神(とかみ)神社の読みを見ると、とても気になる点が出てきます。「とかみ」は菟上とも書けるからです。そう思って関連をネット上で探すと、さらなる驚きの情報が……。以下のブログには次のような内容が書かれています。
http://ryuuranokai.blog.fc2.com/blog-entry-102.html

砥神山の東北側に相楽神社があるが、この相楽神社というのが、以前は兎上神社(とかみじんじゃ)と呼ばれていて、熊野神社と八幡社が合祀されて今の相楽神社という社名になったということである。砥神神社には他にも、兎上、兎頭、戸神、十鹿見、遠鹿見といった書き方がある。

あるホームページを見ると、山形県にも富神山(とかみやま)があって、様々な別名を持ち、また各地の「とかみやま」を拾い上げており実に面白そうな記事となっています。URLは以下の通りです。
http://www4.ocn.ne.jp/~tokami/siseki/sisekimap.html

富神山の別名である戸神や十日見は砥神山の別名である戸神、十鹿見と同じかほとんど同じです。何か繋がりがあるのかもしれません。さらに上記の砥神神社に関連するブログには以下のような内容が書かれていました。

砥神神社の社伝によると、この地にしばらく滞在していた橘諸兄卿は、砥神山に光る物が現れるのをみた。そして、夢の中に白髪の老人が現れ「その山は縁故ある霊地であるから、すみやかにワシを祀るがよい」と告げた。恐る恐る「いかなる神におわしますか?」と尋ねると「ワシは登加美の神じゃ」と告げた。それで、砥神山の山嶺に「とかみの神」を祀ったのが砥神神社の始まりだと伝えられている。

砥神神社と砥鹿神社の創建伝承には非常に似通ったものがあると理解され、両者の繋がりが一層強く確認できました。砥神神社と菟足神社は菟上のキーワードで繋がり、菟上足尼は秦氏との関係が想定され、砥鹿神社が鎮座する本宮山は山麓に秦氏が多い点でも関連性を感じさせます。

橘諸兄卿は本宮山の草鹿砥氏と同様の役割を果たしているようです。梅宮大社は橘氏が一門の氏神を祀る神社で、当初山城国相楽郡に創建されました。砥神山の東北側に鎮座するのが相楽神社で、以前は兎上神社(とかみじんじゃ)と呼ばれていました。正しく「相楽」繋がりですね。さらに驚いたことに梅宮大社の宮司の多くは秦氏であり、橘氏と秦氏は関係がありそうです。砥神神社と菟足神社は菟上のキーワードで繋がることから、菟上で検索したところ菟上王がいました。菟上王の系図は以下の通りです。

開化天皇―彦坐王―大俣王―菟上王

いやはや驚かされますね。既に書いた朝廷別王、日下部氏の系図と比較してください。

第9代・開化天皇―彦坐王―丹波道主命―朝廷別王(三川穂別の祖)
開化天皇―彦坐王―狭穂彦王(日下部連の祖)

朝廷別王と菟上王が同じ流れの中に収まっています。となると、菟上王も中継ぎ側の人物でしょうか?しかも、秦氏と関係のありそうな菟上足尼と全く同じ名前です。次回は菟上王に関して調べてみます。

              東三河の秦氏 その84 持統上皇東三河行幸の謎に続く

東三河の秦氏 その82 持統上皇東三河行幸の謎


前回で撮影した石段の脇には守見殿神社が鎮座しています。昭和15年改築のものを手直ししているように思えます。元は薬師堂に奉斎されており、大己貴命の荒魂奇魂を祀っているらしいのですが、解説板は和魂となっておりよくわかりません。この神社には宝印伝授の特殊神事があります。

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守見殿神社。解説板の内容は以下。

ご祭神 大己貴命様の和魂(にぎみたま)
ご神徳 心豊かに思慮正しく諸疫病と厄災を防除し守護される宝印祭に秘伝の宝印を伝授する。


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乙女前神社遙拝所の石柱と杉の巨木。

乙女前神社は山頂から2.5km程離れた参道脇に鎮座しているとのことで、祭神は大山祇命、天鈿女命、少彦名命となります。地元では蔵王さんと称され、修験道の蔵王信仰との関連が見られます。古くは社殿など存在していなかったようです。

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奥宮です。

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解説板。

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天の磐座。

めいめい岩、行人岩とも称されています。これも修験道に関係がありそうです。何とも良い雰囲気で、確か左手の岩の背後に以前紹介した八柱神社があります。岩に手をつかずに先端部まで登り廻れば(廻廻=めいめい)願いが成就するとか。まあ、畏れ多く危険もありそうなのでチャレンジしてはおりません。

行人岩に関して、長野県阿南町の行人山には行人様の即身仏(ミイラ)がありますが、関係しているのでしょうか?いずれにしても、本宮山にはこれまで見てきたように、修験道の影響が見られます。吉野や熊野の修験道が、平安末期から鎌倉末期における熊野信仰の東三河流入と共に入り込んできたのかもしれません。吉野は既に何度も書いたように中央構造線に沿った地域です。中央構造線沿いには金や死と再背の象徴である水銀の鉱山が見られ、修験道の行者たちは鉱物資源を開拓する山師とも一体的に活動し、東三河を豊川・天竜川沿いに遡っていったのでしょう。

そうした活動が、江戸期における役行者像の建立に繋がり、期せずして東三河のあちこちで目にすることになったのです。修験道の流れは追っていないのですが、熊野信仰や徐福伝承、秦氏の流れとも重複する部分があるので面白そうです。これら全てに共通するのは特殊技能民と言うことでしょうか?「その64」で少し触れた三河吉野朝も多分その流れに乗っているのでしょうね。

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荒羽々気神社。こちらも巨木に囲まれています。

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解説板。

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鳥居。

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巨樹の解説板。

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巨樹。巨樹のパワーを頂けそうな気がします。

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前回撮影の御神木を再度別角度から撮影。

本宮山奥宮は車で簡単に行くことができ、その割には奥深さがあってパワースポット的な雰囲気にも満ちています。歴史探訪は別としても訪問する価値があり、元気な方は是非山麓から参道を歩いて参拝ください。

さて、持統上皇東三河行幸の謎を終盤では神話側と現実側の両面から探索しました。既に書いたように、神話側と現実側を架橋する中継ぎ側が存在するのではないかと現時点では考えています。ただ、荒唐無稽になりそうでまだ考えが纏まりません。もし纏まるようならいずれ書いてみたいと思います。まあ、ほとんど妄想に近いものになりそうですが……。

             東三河の秦氏 その83 持統上皇東三河行幸の謎に続く

東三河の秦氏 その81 持統上皇東三河行幸の謎


神社に行くと境内に遙拝所が設置されている場合があります。遙拝所とは遠く離れた神社を拝む場所を意味します。例えば酔石亭主が良く通った鶴岡八幡宮には宇佐神宮の遙拝所がありました。その敷地は結構広く、実に清浄な雰囲気が漂っていた記憶があります。鶴岡八幡宮は石清水八幡宮から勧請された神社ですが、八幡社の大元は宇佐神宮なのでこちらを遙拝しているのでしょう。

天照大神を祀る神明社の系統は伊勢神宮の遙拝所が多いようです。と言うか、伊勢神宮の遙拝所が後になって神社となったものと思われます。いずれにしても、一般的に各神社は自分たちの大元となる神社を遙拝しているものと思われます。

以前に本シリーズの参考のため御津神社を訪問しましたが、この境内にも遙拝所が設置されていました。その石碑を見て一瞬違和感を覚えた記憶があります。御津神社は既にご存知のように大国主命を祀る神社です。だとすれば、遙拝すべき対象は出雲大社のはずです。ところが、石碑には伊勢神宮遙拝所と刻まれていたのです。その時点ではちょっとした疑問が湧いた程度で、写真も撮影せず素通りしました。

しかし、改めて考えてみると疑問が膨らんできます。大国主命は日本における国津神の総頭領であり、伊勢神宮に祀られる天照大神に国を奪われた神です。その大国主命を祀る神社がなぜ伊勢神宮を遙拝しなければならないのか?筋が通らないことの裏には必ず何か隠されたものがある。それを解きほぐしていけば真実が見えてくる。これが酔石亭主の歴史探索の原則でしたが、御津神社訪問時にはそれをすっかり忘れていたようです。全くどうしようもないですね。ここで何とか挽回を図らねば……。

さて、前回で以下のように書いています。
律令国家の建設を推し進めようとした持統天皇は、伊勢の大神を天照大神に転換させ、皇祖神と位置付け、全ての神の上位に置こうとしたのです。…中略…翌大宝2年(702年)持統上皇は東三河に行幸します。上皇の立場からすると、地域の民の崇敬も受けている大三輪神を、地域においても神社の中に押し込めたと強くアピールする必要があったのでしょう。

持統上皇は大国主命を御津神社に封じ込んで、天照大神を大国主命の上位に置き、伊勢神宮を崇拝するよう強制したのではないでしょうか?だから、御津神社には伊勢神宮の遙拝所が設置されているとも考えられるのです。もちろんこの遙拝所と石碑は新しいものであり、上記の推論とは何の関係もなく設置された可能性は十分にあります。仮にそうであったとしても、過去の遠い記憶が現代の人々を動かし御津神社の境内に伊勢神宮遙拝所を設置させたと考えたいところです。

遙拝所の写真がないか探したところ以下のブログにありましたので、参照ください。
http://gudagudagekki.blog.so-net.ne.jp/2012-08-21

それはさて置き、今回は本宮山山頂に鎮座する砥鹿神社奥宮に向かいます。奥の院から駐車場に戻ると、大きな案内板が建っていました。

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案内板。

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解説部分を拡大します。

矢印方向に少し歩くと赤く巨大な鳥居が見えてきます。

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鳥居。

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石の鳥居と砥鹿神社奥宮と刻まれた石柱。

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境内に入ると樹齢千年とされる杉の御神木があります。

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幹の太さも神木の名に恥じないものです。

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杉木立と石段。

聖なる神域の中を歩むような雰囲気の場所です。巨木が林立しパワースポットとしての資格も備えているように思えます。残念なことに、現地での印象を写真では表現できません。

           東三河の秦氏 その82 持統上皇東三河行幸の謎に続く
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