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尾張氏の謎を解く その136


今回は富士浅間神社を訪問します。鎮座地はで徳重熊野社からさほど遠くない場所に位置しています。鎮座地を示すグーグル地図画像は「その134」を参照ください。

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鳥居です。

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境内。

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神楽殿。

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立派な社殿。コンクリート製ではありますが…。

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拝殿。

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拝殿に接近して撮影。

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本殿は見えにくいので、奥宮へ登る途中に撮影。 

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奥宮。

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奥宮本殿。

境内社は13社ほどありますが、現在の探索とは直接関係ないのでパスします。さて、富士浅間神社が伊副神社かどうか解説板を読んでみましょう。

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解説板。画像サイズを大きくしています。関係する内容を以下に記載します。

当神社は、古名を「伊福神社」と言う。
ご鎮座の年代は不詳であるが、西暦925年に書かれた「延喜式」と言う書物に早くもその名が見える事より、少なくとも千年以上の歴史を持つ近郷最古の神社である。中世、祐福寺の奥の院として富士山権現を勧請し、爾来福の神、子供の守り神として遠くの地方よりも参拝者が多い。
…以下略

由緒は真っ先に伊福神社と書いています。徳重熊野社はやや曖昧な部分もありましたが、こちらは実に明快です。もちろん明快だからと言って、それが正しいとは限りません。では、伊福部氏と関係する徳重熊野社と富士浅間神社をどう位置付ければいいのでしょう?

実に悩ましい部分ではありますが、両社の近くには針名神社が鎮座しています。ひょっとしたら、針名神社との関係において両社を考えればいいのかもしれません。針名神社に関してはもっと後の回で取り上げる予定なので、両社との関係はその折にでも検討したいと思います。

伊福部氏はこの先さらに南下していきます。その行先は海部郡伊福郷(現在のあま市七宝町伊福宮東)で、ここには伊福部神社が鎮座しています。この場所は宇福寺天神社の元の推定鎮座地からほぼ真南に位置しており、その意味でも地理的な連続性が感じられます。逆に見れば、宇福寺天神社の元の鎮座地である中島郡日下部郷に伊福村があって、伊副神社が鎮座していた証明の一つになるはずです。

式内社・伊副神社の検討は以上です。かなりの史料に当たったつもりですが、残念ながらどれも決定打にはなり得ません。けれども酔石亭主にとっては、伊福部氏が尾張国内をどのように移動したのかが最も重要な点で、その意味では一定の成果もありました。ここまでの検討により、尾張に入った伊福部氏の動きは以下のように推定されます。

尾張における伊福部氏の本拠地(伊富利部神社の鎮座する一宮市木曽川町門間一帯)から南下したメンバーは中島郡日下部郷に至った。そこからさらに南下したメンバーの一部は甚目寺の南辺りで古代東海道に入り、徳重熊野社や富士浅間神社の鎮座地周辺にやって来た。古代東海道に入らなかったメンバーは、そのまま南下して伊福部神社が鎮座する海部郡伊福郷に入った。

以上、式内社・伊副神社の検討を通して伊福部氏の尾張における動きを多少なりとも復元することができました。次回は海部郡伊福郷に鎮座する伊福部神社を訪問する予定です。

ここで急に話が変わります。先日テレビで伊吹そばに関する番組を見ていたところ、伊富貴さんと言う方の名前が出てきました。これは伊福部氏の関係かと思い、早速伊富貴姓で検索してみると、岐阜県で23人中15人が米原市となっていました。続いて伊吹姓でチェックすると、全国で814人。滋賀県全体で165人中、長浜市が107人となっていました。

この結果だけを見ると、二つの姓は伊福部氏関連と思いたくなります。けれども、別の見方もありそうです。米原市、長浜市のどちらも伊吹山を望む位置にあり、二つの姓は伊福部氏の関連ではなく伊吹山山麓にある伊吹村に由来する姓とも考えられるからです。伊吹そばに関しては以下を参照ください。
http://eateco.e-radio.jp/e1208002.html

伊吹山は日本蕎麦の発祥地とされ、標高450mの伊吹山中腹にかつてあった伊吹村大字太平寺では昭和の初め頃まで蕎麦が栽培されていたとのことです。復活した伊吹山のそば畑は、「尾張氏の謎を解く その39」にてアップしていますので参照ください。

              尾張氏の謎を解く その137に続く

尾張氏の謎を解く その135


今回は愛知郡の式内社・伊副神社の論社とされる徳重熊野社を訪問します。鎮座地は名古屋市緑区鳴海町字神ノ倉2。鎮座地の画像は前回を参照ください。

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徳重熊野社の社号標と参道。

なかなか趣のある参道ですが、車の通行量が多い道路に面しています。けれども、社殿は山の上になりますので、道路の喧騒は届かず落ち着いた雰囲気での参拝が可能です。

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鳥居。

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二の鳥居。この先から坂道となります。

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参道の坂。

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社殿が近くなると一気に急な坂となります。

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途中に水場がありました。

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鳥居と拝殿。

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拝殿。

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本殿。

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立派な境内社。

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由緒の解説石板。画像サイズを大きくしています。

あまりにも簡単な由緒です。「創祀は延喜式内社と思われる。」と書かれている部分は意味不明ですが、延喜式神名帳が延長5年(927年)に編纂されたものなので、それ以前の古社だと主張しているように思われます。

またこの場合の式内社は、祭神に伊副利部連命(イフクリヘムラジのミコト)がいることから尾張国愛知郡(実際には中島郡)の式内社・伊副神社を指しているものと推定されます。でも、草部神社と同様のとは言いませんが、もう少し丁寧な解説にしてほしいですね。

徳重熊野社に伊福部氏の関与があるのは祭神からも窺えますが、この神社がどのように位置付けられるのかは、由緒を見ても明確ではありません。次回訪問の富士浅間神社である程度見通せればいいのですが…。

                尾張氏の謎を解く その136に続く

尾張氏の謎を解く その134


前回で、尾張国中島郡日下部郷に伊福村があり、そこに伊副神社が鎮座していたと書きました。これは位置関係や史料の内容面からの推測です。一方「尾張国風土記逸文」は、尾張国愛知郡日下部郷に伊福村があるとしています。「和名抄」には愛知郡と中島郡に日部(くさかべ)があると書かれ、「延喜式神名帳」は愛知郡に伊副神社があるとしています。尾張国愛知郡日下部郷伊福村に式内社・伊副神社が鎮座していたとの古い史料でもあれば話は簡単ですが、うまく揃ったものはなさそうです。

一方、徳重熊野社(鎮座地は名古屋市緑区鳴海町字神ノ倉2)と富士浅間神社(鎮座地は愛知郡東郷町春木狐塚)の2社は式内社・伊副神社の論社となっており、神社庁は富士浅間神社を伊副神社に充てています。


徳重熊野社の鎮座位置を示すグーグル画像。表示はありませんが山の中に鎮座しています。


富士浅間神社の鎮座位置を示すグーグル地図画像。

では、徳重熊野社と富士浅間神社が「尾張国風土記逸文」の記事・愛知郡日下部郷伊福村に整合する場所なのでしょうか?両社は愛知郡に鎮座していますが、実は山田郡(領域は諸説あり)だった可能性もあり、山田郡は戦国時代半ばに愛知郡に編入されています。この辺りは実にややこしいので、一応両社は愛知郡に鎮座していたとしておきますが、日下部郷の存在は確認できません。他の史料を探してみましょう。

1707年に成立した「本国神名帳」を見ると、鳴海の庄駅中に従三位伊副天神があると書かれていました。ただ頭注には、鳴海の駅 頭護山如意寺の縁起によると、この社は今は絶えたとの記事が見られます。(注:本国神名帳は愛知県のデジタルライブラリで原文をチェック可能ですが、手書きなので読みにくい)

頭護山如意寺は現在も名鉄鳴海駅のすぐ近くの名古屋市緑区鳴海町字作町85に存在し、ホームページには「900有余年の歴史のある寺院で、現在地には1281年移転した。」と書かれています。となると、「本国神名帳」にある鳴海の庄駅中に従三位伊副天神は鎮座していた、言い換えれば現在の名鉄鳴海駅の近くに鎮座していたと推定され、しかも既に廃絶したことになります。それは以下の話からも確認されそうです。

尾張国の国司である藤原元命(ふじわらのもとなが)は数々の非道な行いにより989年に解任され、そのことが如意寺の由来とも結び付いていました。藤原元命は尾張に赴任して鳴海を自分の住まいとします。彼はこの地で悪行を重ね、従者の為家と共に青鬼に捕えられ地獄に送られそうになりますが、地蔵菩薩に救われます。為家は心を改め雲道開法師となり、康平2年(1059年)に如意寺を建立しました。藤原元命に関してはWikiに詳しいので以下を参照ください。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%8E%9F%E5%85%83%E5%91%BD

鳴海における上記ストーリーが従三位伊副天神と合わせて書かれていることから、「本国神名帳」に記載された伊副天神は現在の名鉄鳴海駅近くに鎮座していたと考えられます。鳴海なら間違いなく愛知郡で、天平15年(743年)の東大寺正倉院丹裏古文書に成海郷と記載あります。徳重熊野社の鎮座地は名古屋市緑区鳴海町字神ノ倉2ですが、こちらは鳴海駅からだと直線で約5.5㎞となります。

「本国神名帳」の成立は1707年とされており、古代東海道の両村駅を鳴海駅として間違えたのかもしれません。両村駅比定地は幾つかありますが、豊明市沓掛町上高根とすれば、特使が熊野者までの直線距離が4.3㎞ほどで、富士浅間神社までだと2.3㎞程度となります。


豊明市沓掛町上高根の位置を示すグーグル地図画像。

以上、「延喜式神名帳」に「尾張國愛智郡伊副神社」とあり、「尾張国風土記 逸文」によれば愛知郡日下部郷伊福村が存在すると確認され、「和名抄」には愛知郡の地名として日部(くさかべ)が存在します。各史料を読むと、表面的には愛知郡に伊副神社があるように見えますが、日下部郷も伊福村も不明なためとても断定できるほどのものではありません。

さらに他の史料に当たってみましょう。天保15年(1844年)に成立した「尾張志」を見ると、伊副神社に関して、「當社は今坐地當郡ならす考ありて別記にいへり」と記載ありました。當郡とは愛知郡を意味しており、伊副神社は愛知郡に鎮座していないとの見方があると書いている訳です。この記事から、伊副神社鎮座地は山田郡或いは中島郡と推定することも可能です。

一方「尾張志」で祐福寺村(富士浅間神社鎮座地の村)の項を見ると以下のように書かれていました。

延喜式神名帳に愛智郡伊副ノ神社と見え本国帳に従三位伊副天神と記し仙覚法師(1203年に生誕)が万葉集抄に引たる尾張風土記に伊福村とあるはこの村のことなるべし。村名を寺号とせしが…以下略

これはかなり重要な内容です。「尾張国風土記 逸文」の愛知郡日下部郷伊福村は富士浅間神社が鎮座する祐福寺村だと書かれているからです。祐福寺は建久2年(1193年)に創建された寺院です。詳細は以下のWikipedia記事を参照ください。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%90%E7%A6%8F%E5%AF%BA

日本福祉大学の「知多半島古代史像の追及・試論」には以下の記事があります。

『万葉集註釈』(万葉集抄のこと)所引「尾張国風土記」逸文には、愛知郡日下部郷伊福寺(村の誤記)が出てくる。

「万葉集註釈」はデジタル化されているものの、全20巻もあるのでとてもチェックできません。「尾張志」にある祐福寺村の記事は「知多半島古代史像の追及・試論」の内容とも関連していそうです。どうもすっきりしないのですが、伊福村の村名を取って祐福寺と言う寺号を持つお寺が創建され、今度はその寺号を村名にしたと言うことなのかもしれません。それを示すかのように、祐福寺と富士浅間神社はお隣同士となっています。ただ、伊福が祐福に転じるのはかなり無理があり、逆に伊福寺(伊福村)が中島郷の宇福寺に転訛したと考えることは十分に可能です。

明確ではないものの、富士浅間神社が愛知郡及び伊福村に鎮座していた伊副神社である可能性は出てきました。残る問題は日下部郷です。祐福寺村が日下部郷内に存在したのであれば、この場所が式内社・伊副神社の比定地となります。

と言うことで、愛知郡日下部郷の所在地を再検討します。愛知郡はほぼ現在の名古屋市全域と考えられ、千種区から東区にかけては物部郷があったとされています。物部郷に関しては上記だけでなく、中区、西区、中村区なども含むとの説もあります。郷名としての物部郷は多分千種区から東区一帯だったのでしょうが、当初は中区、西区、中村区だけでなくより広範囲な地域が物部氏の領域だったと推定しています。

さてそこで、以前「熱田神宮の謎を解く その19」で高牟神社を取り上げています。同社の解説板には、昔、このあたりは常世の草香島(くさかじま)と呼ばれていたと書かれています。そう、物部氏の支配地である物部郷の一部が朝廷の直轄地となり、日下部郷に変わったことから、このあたりが草香島と呼ばれるようになったのではないでしょうか?断定はもちろんできませんが、愛知郡日下部郷に関しては現在の千種区一帯の可能性があります。

前回で、「朝廷の直轄領としての日下部と、物部氏に結び付いた草香や日下は分けて考える必要もありそうです。朝廷の直轄領としての日下部は中島郡日下部郷でしょうが、尾張草香と目子媛の話は中島郡ではなく、愛知郡における日下部郷の話と考えるべきなのです。」と書きました。尾張草香と目子媛は高牟神社=常世の草香島周辺の出身で、そこが愛知郡日下部郷と考えれば整合性のある話となりそうです。

それはさて置き、式内社・伊副神社に関しては以下の可能性があります。

1. 中島郡日下部郷内に伊福村がありそこに鎮座していた伊副神社が遷座して宇福寺天神社になった。
2. 現在の名鉄鳴海駅近くに伊福天神が鎮座していたが廃絶した。
3. 徳重熊野社がかつての伊副神社。
4. 愛知郡(?)の祐福寺村(かつての伊福村?)に鎮座していた伊副神社が現在の富士浅間神社。


これほどややこしい問題に悩まされるとは、検討を始める前は露ほども思っていませんでした。

上記の中で可能性が高いのは、宇福寺天神社と富士浅間神社ですが、酔石亭主としては伊富利部神社と海部郡伊福郷に鎮座する伊福部神社との位置関係を重視して、宇福寺天神社がかつての式内社・伊副神社としておきます。では、徳重熊野社と富士浅間神社の2社はどうなるのかとの問題が残りますので、次回以降で検討してみます。

             尾張氏の謎を解く その135に続く

尾張氏の謎を解く その133


今回は前回に引き続き、「延喜式神名帳」に「尾張國愛智郡伊副神社」として記載されているのは宇福寺天神社、徳重熊野社、富士浅間神社のいずれなのか、或いは廃絶していて所在不明なのかを探っていきます。

まずは地名から見ていきましょう。神社の社名と地名が結び付いている例は少なからずあるからです。例えば、尾張海部郡伊福郷(現在の愛知県あま市七宝町伊福宮東)には伊福部神社が鎮座しており、地名と社名が結び付いています。今回の問題に関連して同じような例がないかチェックしたところ、「尾張国風土記 逸文」(平凡社)の福興寺の項に以下のような記載がありました。

同じ(尾張の)国の愛知の郡。福興寺。(土地の人は三宅寺と名づける。郡役所より南に去ること九里十四歩、日下部の郷の伊福(いふき)の村にある。)平城の宮に天の下をお治めになった天璽國押開桜豊彦(あまつしるしくにおしはるきとよさくらひこ)命の天皇(聖武天皇)の神龜元(七二四)年主政、外從七位下三宅連麻佐(みやけのむらじまさ)のお造り申しあげた所である。

「尾張国風土記 逸文」は他の書物に引用された形で残っており、福興寺の項は鎌倉時代に書かれた「万葉集抄」に引用されたものです。風土記は700年代の初め頃に編纂されたものですが、逸文も同じ時代か何とも言えません。けれども、引用が鎌倉時代ですから逸文も一応700年代初め頃のものとしておきましょう。

上記した逸文の記事から、愛知郡日下部郷に伊福村が存在すると確認されます。残念ながら伊副神社に関する記載はないものの、愛知郡に幾つもの日下部郷や伊福村があるとは考えられず、愛知郡日下部郷伊福村に伊副神社が鎮座していた可能性は高いと思われます。

他の史料にも当たってみます。900年代初めに成立した「延喜式神名帳」には、既に書いたように「尾張國愛智郡伊副神社」とあり、また承平年間(931年から938年)の「和名抄」には愛知郡の地名として、千竃(ちかま)や日部(くさかべ)などが書かれています。千竃は熱田神宮の謎解きに出てきた場所となります。以上の結果から、愛知郡日下部郷伊福村に伊副神社が鎮座していたと仮定してさらに検討を進めましょう。

愛知郡は現在の名古屋市全域にほぼ相当するので、次に日下部郷の所在地を探す必要があります。とここまで進んで、壁に突き当たりました。残念なことに、愛知郡日下部郷の所在地は不明とされているからです。ただ日下部郷に関して名古屋市西区や名古屋市天白区などの地域ではないかとの説もあるようなので、壁を乗り越えるため、もう一度前提なしに考え直してみます。

例えば、徳重熊野社と富士浅間神社は名古屋市天白区に隣接したような位置に鎮座しています。宇福寺天神社は名古屋市西区のすぐ北側に鎮座しています。郡域や郷域は時代によって変化すると考えれば、この3社はいずれも候補として可能性を持っているように思えます。従って次に検討すべき点は、時代的に最も古い史料と推定される「尾張国風土記 逸文」の記事に上記3社が整合しているかどうかです。

まず、3社の周辺に現在でも日下部の地名があるかチェックしてみます。徳重熊野社と富士浅間神社の周辺に日下部の地名は見られません。ところが、宇福寺天神社の場合その南西数キロのかなり広い範囲に日下部の地名がありました。


稲沢市日下部町周辺の位置を示すグーグル地図画像。

稲沢市には日下部町、日下部北町など多くの日下部を冠した町名があります。「稲沢市史」をチェックした結果、かつての日下部は以下の町を含む広範囲なものと書かれていました。日下部町、日下部北町、日下部南町、日下部東町、日下部西町、日下部中町、日下部松野町日下部花ノ木町を中心として、増田町、六角堂町、北市場町、高重町、奥田町、中ノ庄町、堀田町、七ツ寺町、大矢町、北島町。

「尾張国風土記 逸文」の記事から、地名に関連しそうなもう一つの名前を検討してみます。福興寺に関して土地の人は三宅寺と名づけていました。これは日下部郷の周辺に三宅と言う地名が存在していたことによると考えられます。地図でチェックすると、驚いたことにすぐ見つかりました。位置的には日下部関連の各町の西側です。


三宅の位置を示すグーグル地図画像。

「稲沢市史」によると、三宅は現在の稲沢市平和町三宅から三宅川沿いに、氷室町、坂田町、今村町、西溝口町、板葺町を含む南北に長い郷域とのことです。古代における日下部郷と三宅が上記の町域と重なるかどうか何とも言えませんが、かつてこの辺りに日下部郷と三宅郷があったのは間違いないと思われます。

「尾張国地名考」の「正生考」には、「御宅の遺址はいま西の宮とよぶ所是なり大石夥しくあり其邊の水田にも飛散たりみな御宅の礎石なり此宮に近年牛頭天王を祭れり君山翁の張州府志を撰書に就て巡村の頃までは外宮豊受大神を祀るよし也」と書かれていました。御宅(三宅)の遺跡が西の宮と呼ぶところにあるようで、地図上で探してみましたが発見できず残念です。

三宅は屯倉で、大化以前の大和朝廷の直轄領を意味し、官家、屯家、屯宅などとも表記します。本来は農産物などを保管する倉庫から出た言葉で、後に農産物の耕作地や耕作する田戸、田部なども含めるようになりました。

実は日下部も大和朝廷の直轄領を意味しています。宇福寺天神社南西数キロに日下部郷があり、その西側一帯には三宅の地名があって三宅川も流れていました。つまり、日下部郷と三宅郷を一括りに朝廷の直轄領と考えれば、稲沢市南東部の広い範囲が朝廷の支配地域になってしまうのです。

一方、徳重熊野社と富士浅間神社の周辺に三宅や屯倉、日下部の地名は見当たりませんし、この一帯は山間部に近く農業生産性は低そうで、直轄領を置くような場所ではありません。まだ断定はできませんが、宇福寺天神社が他の2社より有力な候補となりそうな気配です。

次に重要なのが、日下部郷の位置関係を示す、郡役所より南に去ること九里十四歩、日下部の郷の伊福(いふき)の村にある。との逸文記事です。郡役所とは郡家(こほりのみやけ)、郡衙(ぐんが)のことで、国の下部組織である郡の政務を司る場所を意味します。郡役所から南に9里は約4.5㎞となります。従って、3社の北約4.5㎞に郡役所がありそうかどうかをチェックする必要があります。と言っても、現在日本各地の郡役所所在地はほとんど判明しておらず、あくまで推定に過ぎませんが…。

まず、徳重熊野社と富士浅間神社の北約4.5㎞には窯業の生産地以外に何もなく、愛知郡役所があるような場所とは到底考えられません。一方、宇福寺天神社南西の日下部から北4㎞弱には国府宮駅があり、ここは中島郡で尾張国の国衙があった場所となります。具体的な地名としては国府宮駅の西側一帯の稲沢市松下が該当します。

驚いたことにこの辺りには国衙の地名もあったとのことで、地図画像で見るとコープ国衙などと言う名前のアパートも出てきます。またその西側は三宅川の上流部となり、朝廷の直轄地であった三宅郷とも川で接続していました。中島郡役所の所在地は不明ですが、国衙の近くに郡役所があると考えるのは合理的ではないでしょうか?現在でも愛知県庁のお隣が名古屋市役所となっています。


国府宮駅の西側一帯を示すグーグル地図画像。

徳重熊野社と富士浅間神社の場合、古代東海道に近い位置に鎮座している点が特筆されそうです。中島郡日下部郷に至った伊福部氏がさらに南下して尾張海部郡伊福郷に向かう途中、甚目寺の少し南辺りで一部のメンバーが古代東海道に入り、2社の鎮座地付近にまで至ったとも考えられます。もちろんこの動きは、彦坐王の生きていた時代よりかなり下った時点のものと推定されます。

うんと大雑把に検討した結果、宇福寺天神社が式内社・伊副神社である可能性が高そうですが、まだとても断定はできません。なぜなら宇福寺天神社の南西数キロにある日下部郷や三宅郷は、いずれも愛知郡ではなく中島郡内に所在するからです。郡域は時代によって変わると考えればこの問題はクリアされますが、単なる推測にすぎないので、もう少し詳しい検討が必要となります。

次に日下部郷と宇福寺天神社の位置関係を見ていきましょう。例えば稲沢市日下部町から宇福寺天神社までは直線で僅か2.4㎞程度しかありません。日下部郷のどこか(多分日下部郷と三宅郷の境界付近)にかつて鎮座していた伊副神社が遷座して現在の宇福寺天神社になったと考えても、さほど違和感はなさそうです。伊副神社は「本国神名帳」の記載では伊副天神であり、その意味でも宇福寺天神社は有力です。よって、宇福寺天神社の元の鎮座地(と推定される)日下部郷に焦点を当てて検討を進めます。

日下部郷の実像を探るため稲沢市日下部町の周辺を地図でチェックしたところ、愛知県稲沢市日下部中町6丁目に草部(くさかべ)神明社が鎮座していました。宇福寺天神社の鎮座する北名古屋市宇福寺天神から草部神明社までは、直線で僅か3㎞の距離しかありません。同社の由緒内容が参考になるかもしれないので、早速行ってみましょう。


草部神明社の位置を示すグーグル地図画像。

草部=日下=日下部で、Wikiには日下部氏に関して、「日下部氏 - 古代大和朝廷に臣従し建部氏や壬生部氏等とともに軍事的部民であったとされる。」と書かれています。

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草部神社境内。

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鳥居と境内。

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拝殿。

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境内図。

画像サイズを大きくしています。境内図によれば、手水舎のところに由緒を書いた解説板があるようです。後で見に行きましょう。

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本殿。

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手水舎にある解説板。画像サイズを大きくしています。

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解説板。画像サイズを大きくしています。

解説板が非常に長文で詳しいのは検討の助けになり有り難いのですが、長すぎて一枚の写真に納まりません。しかも、手水舎の上に斜めに掲げられており、ガラス板があるため背後の景色が少し写ってしまいました。二つ目の解説板は部分的に消していますが、これは酔石亭主のカメラや手が映り込んでしまい、みっともないので消したものです。消した部分は以下に赤字で書き出した由緒内容で青字にしています。なお、以下に書いたのは抜書きで全文ではありません。

祭神 天照皇大神 豊受大神

由緒
神社の記録が伝わっておらず正確なところは不詳であるが、社号「草部(くさかべ)」は地名の「草部郷(くさかべごう)」、伊勢神宮荘園名の「草部御厨(くさかべみくりや)」に由来すると考えられる。江戸時代初頭の尾張藩資料(寛文(かんぶん)村々覚書(おぼえがき))に当神明社に関する記載があるため、三百年余前に神明社として当地に鎮座されていたことは確かである。神明社は、古代末から中世(主に平安後期から鎌倉期頃)に伊勢神宮の荘園「御厨(みくりや)、御園(みその)」が各地に設置され、そこに伊勢神宮から分霊を迎えることにより各地に勧請(かんじょう)された。その後、室町時代や江戸時代には、伊勢信仰の高まり、伊勢神宮大麻の普及などに伴い、新田開発地への神社勧請の際などに、伊勢神宮荘園以外の地にも広く祀られるようになった。当社は、中世の「草部御厨」の地に鎮座されている神明社であることから、七百年~九百年前頃に伊勢神宮荘園に勧請された神明社の一社と思われる。

草部神明社が今に伝える尾張中島郡日下部の千五百年の歴史
当地の歴史
現住所は愛知県日下部中町六丁目。この地域は、古代(五世紀頃)に天皇家(大王家)の直轄領である「日下部(くさかべ)」が置かれたところと考えられており、大和朝廷成立への尾張地方の関わりを今に伝えている。平安中期の国郡郷名を伝える「和名類聚抄(わみょうるいじゅうしょう)」、長光寺の記録(地蔵堂の露盤銘「草部郷長光寺」)などから、古代から中世には現在の日下部地区を中心に六角堂、北市場、増田、奥田東部、清須北部などを含む稲沢市内東南部にかけて「草部郷」が存在したと考えられており、草部神明社の社号がその歴史を伝えている。中世には、伊勢神宮の荘園である「草部御厨(みくりや)」が置かれ、江戸期には国府庄日下部村となる。明治以降の大里村日下部などを経て現在に至る。

草部と日下部の意味と由来
草部(草香部の略語)と日下部は同意語で、神武天皇東征の故事「孔舎衛坂(くさかえのさか)の戦い」の地「河内(かわち)国・草香(くさか)村」の名に由来する。
「草香」は古代に「日下」とも表記され、古事記序文には、「日下」を「くさか」と読む旨の注記がある。草香を日下とも記述する理由については、草香の地が難波から見て日が最初に照らすところ(日の下)であるとの説や、大和朝廷成立前の物部王国が草香周辺にあったため(漢字の「日下」には「東方の国」の他、「天下」「都」の意味がある)との説がある。
なお、「日下(ひのもと)の草香(くさか)」が「日本(ひのもと)の倭(やまと)」に転じ、「日本」の国号につながったとの説も有力である。
「部(べ)」は、大和朝廷における人民支配の制度で、天皇家が私有する「御名代(みなしろ)」や豪族が私有する「部曲(かきべ)」などがある。「日下部」は、古事記や日本書紀などによれば、仁徳天皇の皇子「大日下王(大草香皇子)」、同皇女「若日下王(雄略天皇の皇后)」の御名代で、大和朝廷の拡張に伴い、全国に広く設置されていった。

全国の主な日下部
愛知県稲沢市日下部付近(当地)
尾張氏本拠地(真清田神社の付近)の草部で、尾張連草香やその娘で継体天皇妃の目子媛(日下媛との説あり。安閑・宣化天皇の母)との関わりもあり得る。

他の神社では見られないほど詳しく書かれています。まずはとても興味深い草部神明社の由緒内容を検討していきます。

由緒には「この地域は、古代(五世紀頃)に天皇家(大王家)の直轄領である「日下部(くさかべ)」が置かれたところと考えられており、」とあります。雄略天皇の皇后に草香幡梭姫皇女(くさかのはたびひめのひめみこ)がいて、中島郡の日下部郷は皇后のために設置された名代(特定地域の居住民に、王族の名や、その居所にちなんだ名を冠したもの)の部であり、彼女の生活の資養に充てられた料地となりそうです。よって日下部氏は、料地の管理のため配置された軍事部民とも考えられ、伊福部氏との共通性も見られます。

また日下部郷は尾張連草香(おわりのむらじくさか)とその娘の目子媛(めこひめ)が関係していそうです。仮に両者が中島郡日下部郷の出身であるとすれば、尾張草香は朝廷の直轄地の管理者として頭角を現した人物となります。由緒はさらに、「草香を日下とも記述する理由について、大和朝廷成立前の物部王国が草香周辺にあったためとの説がある。」としています。すなわち草香や日下は物部氏と関連しているのです。

酔石亭主も「熱田神宮の謎を解く その19」で、尾張草香と目子媛は物部氏ではないかとの疑問を提示していました。二人が仮に中島郡日下部郷ではなく愛知郡日下部郷の出身だったとしたら、物部氏である可能性はさらに高くなります。由緒にはまた、目子媛は日下媛との説あり。との記述も見られます。これは「神皇正統記」に安閑天皇の母日下媛は草香連の息女なり、と書かれていることによります。

ただ、朝廷の直轄地としての日下部と、物部氏に結び付いた草香や日下は分けて考える必要もありそうです。朝廷の直轄地としての日下部は中島郡日下部郷でしょうが、尾張草香と目子媛の話は中島郡ではなく、愛知郡における日下部郷の話と考えるべきなのです。いずれにしても、中島郡日下部郷にこれだけの歴史が秘められているなら、その前段階において伊福部氏の痕跡があってもおかしくはありません。

問題は草部神明社の鎮座地一帯が解説板に見られるように、尾張中島郡日下部であることです。一方「尾張国風土記 逸文」は福興寺に関して愛知郡日下部郷伊福村としており、郡名が異なっています。(注:和名抄では中島郡日部、愛知郡日部の表記です)「延喜式神名帳」では愛智郡に伊副神社があると書かれています。どれも帯に短し襷に長し状態ですが、これらをどう解釈するかもう一度考えてみましょう。

既に書いたように、逸文には土地の人が福興寺を三宅寺と名づけ、郡役所から南に9里14歩の日下部郷伊福村にあると記載されています。三宅は屯倉とも表記され、朝廷の直轄領にある役所や倉を意味しています。尾張中島郡日下部は解説板にもあるように朝廷の直轄領となっています。草部明神社の約6㎞西には三宅川が流れ、その一帯のかつての地名は三宅村でした。

さらに郡役所から南に9里は約4.5㎞となります。尾張国の国衙があった国府宮駅近くに郡役所があったとして、そこから草部明神社までは4㎞弱の距離となっています。仮に徳重熊野社と富士浅間神社を伊副神社に充てると、その北4.5㎞は窯業生産地以外に何もないような場所となってしまいます。

尾張国における伊福部氏の本拠地は伊富利部神社一帯ですが、ここからほぼ真南に13㎞ほど下ると日下部郷となり、さらに南に7㎞ほど下るとあま市七宝町伊福に至り伊福部神社が鎮座しており、由緒には伊福天神とも申すと書かれています。

この位置関係や史料面での検討から判断して、地名問題を横に置いた場合、尾張国中島郡日下部郷に伊福村があり、そこに伊副神社が鎮座していたとするのが整合性のある見方となりそうです。酔石亭主は上記の見方が正しいとしたいのですが、そう簡単には問屋が卸さないと思いますので、別の視点からも検討を続けます。

                 尾張氏の謎を解く その134に続く

尾張氏の謎を解く その132


今回からの探索に倭姫命は関係なくなります。倭姫命一行を見送った伊福部氏の主力は一宮市の伊福部氏エリアに留まりますが、その他のメンバーはさらに南に下ったものと思われます。理由は、「延喜式神名帳」に尾張国愛智郡鎮座の伊副神社が記載されているからです。残念なことに、どの神社が伊副神社に該当するのか、或いは廃絶しているのか定かではなく現在では不明となっています。

けれども、ここまでの伊福部氏の動きからすれば、式内社・伊副神社は一宮市から南下した位置に鎮座している(或いは鎮座していた)はずで、その視点からチェックすれば答えが出るかもしれません。と言うことで調べてみると、伊副神社の論社は現在3社ほどあり、その内の一社・宇福寺天神社は一宮市からやや東寄りに南下した位置に鎮座していました。伊福部氏の拠点・伊富利部神社から宇福寺天神社までは直線距離で約11㎞。これは伊副神社の有力候補になりそうです。善は急げで、早速行ってみましょう。


宇福寺天神社の位置を示すグーグル画像。

鎮座地は北名古屋市宇福寺天神858となり、地名と社名が一致しています。(注:正式名称は天神社ですが、本ブログでは同社の由緒が書かれた解説板に合わせ宇福寺天神社と表記します)

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宇福寺交差点の表示板。

宇福寺(うぶくじ)は地名なので、地名の元となる宇福寺が近くにあると思ったのですが、残念ながら見当たりません。遠い昔廃絶したのでしょうか?多分、かつては伊副神社の神宮寺として伊副寺があったのでしょう。お寺の存在はさて置いて、宇福寺の地名は明らかに伊福部氏と関係しています。ア行のイがウに転じるのは実に容易であり、伊福寺が宇福寺に転じたのはほぼ間違いなさそうです。

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天神社の境内。

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鳥居と拝殿。

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拝殿。

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本殿へと続く社殿。

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本殿。

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本殿脇の神明社。

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解説板。

当神社の創立は詳らかでないが最古の棟札として貞享3年(1686年)の造営の記録があり、また、尾張の地誌によれば、応永20年(1413年)修造の記録がある。またこれらの地誌は、当神社を延喜式神明帳記載の伊副天神ではないかと記している。延喜式は延長5年(927年)の成立であるので、もしこの推定が事実であるならば極めて古く由緒深い神社であると考えられる。…以下略

尾張の地誌は、当神社を延喜式神明帳記載の伊副天神ではないかと記している。とあります。由緒の記述から、こちらが有力候補であるのは間違いなさそうですが、同社以外に2社ある伊副神社の論社(ろんしゃ)をどう考えるかの整理が必要です。論社とは、似たような名や由緒を持つ神社が二つ以上あって、どれが「延喜式神名帳」に記されている神社か決定し難いものを言います。

宇福寺天神社以外の2社とは、名古屋市緑区鳴海町字神ノ倉2に鎮座する徳重熊野社と愛知郡東郷町春木字狐塚3801番地の1に鎮座する富士浅間神社です。この2社は近い位置にあり、宇福寺天神社からは富士浅間神社で約26㎞とかなりの距離があります。

「延喜式神名帳」に「尾張國愛智郡伊副神社」として記載されている神社に該当するのは、宇福寺天神社と他の2社に分けて考える必要がありそうです。もちろん、一宮市からほぼ南に下った場所に鎮座することを以って、宇福寺天神社が式内社・伊副神社に該当すると断言はできませんし、宇福寺天神社の鎮座地は愛智郡(愛知郡)ではなく中島郡になるはずです。

論社が3社あるだけでなく郡までも明確ではないため、事態はより複雑さを増しています。だからこそ、一般的には所在不明とされている訳です。うまく整理できるか不安もありますが、次回はもっと史料に当たり検討を重ねるしかありません。

                尾張氏の謎を解く その133に続く
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