尾張氏の謎を解く その141


長く続いてきた尾張氏の謎解きも「その141」をもって終了とします。最終回は尾張氏国内発祥説を検討します。これを考える前に、尾張氏系図の乎止与命(おとよのみこと)以前の部分が後代になって付加されたもの(捏造)である点をもう一度見ていきます。と言うことで、「先代旧事本紀」の尾張氏系図から検討に入りましょう。

「先代旧事本紀」巻五の天孫本紀にはニギハヤヒの十一世孫(注:系図によって何世かは異なっています)として乎止与命が記載され、この命は、尾張大印岐(おわりのおおいみき)の娘の真敷刀俾(ましきとべ、下知我麻神社祭神)を妻として、一男をお生みになった。とあります。次が十二世孫・建稲種命(たけいなだねのみこと、熱田神宮・本宮の相殿神)で、この命は邇波県君(にわのあがたのきみ)の祖・大荒田(おおあらた)の娘の玉姫を妻として、二男四女をお生みになった。とあります。

乎止与命と建稲種命はその記述内容からして明らかに続いています。ところが、乎止与命はその前の十世孫と続いているような表記になっていません。乎止与命の前は単に十世孫として淡夜別命(あわやわけのみこと)から小縫命(おぬいのみこと)までの人物が書かれているだけなのです。このため、乎止与命は淡夜別命或いは小縫命の子供として一般的には考えられています。

さらに不可解なのは、巻十の国造本紀に記載された内容です。ここには尾張国造(おわりのくにのみやつこ)の項目があり、成務天皇の時代に、天別・天火明命の十三世孫の乎止与命が国造に定められた。とあります。第13代の成務天皇は4世紀後半の天皇と考えられ、一方国造制度は正確には不明ですが、5世紀から6世紀頃に定められたとされています。よって小止与命が国造になるのはおかしな話です。

この点はまあ目をつぶるとしても、乎止与命の子となる建稲種命は第12代景行天皇の時代の人物で、日本武尊の副将軍となって東国征伐に参加しています。第13代の成務天皇期に登場した乎止与命の子である建稲種命が、第12代景行天皇の時代に活躍したとは考えられず、大きな矛盾が生じています。

このように、同じ史料で乎止与命の前後に幾つもの混乱が見られますが、最も大きな問題は、やはり初代尾張国造とされる乎止与命がその前と繋がっていない点でしょう。これは、乎止与命以前の尾張氏系図が創作(捏造)されたものであることを物語っていると見て間違いなさそうです。

以上から、尾張氏に関しては初代尾張国造(とされる)乎止与命を以って始まりとすべきとなりそうです。この時点で尾張南部の年魚市潟周辺地域を拠点とする集団は尾張氏を名乗ったことになります。では、尾張氏発祥の地はどこになるのでしょう?

現在の熱田神宮境内摂社に上知我麻神社があり、祭神は乎止与命になります。乎止与命が実質的な尾張氏初代であり、熱田にて祀られているなら、当然ここが尾張氏の発祥地となりそうですが、そうではありません。上知我麻神社は当初星崎の星宮社周辺に鎮座しており、この地は笠寺台地にありかつては松炬島と呼ばれていました。また社名の知我麻は千竈(ちかま)で製塩の窯が数多くあることを意味し笠寺台地に地名が残っています。

同社は、松炬島から大化3年(647年)に熱田の地に勧請されています。下知我麻神社と松姤社も同様に大化3年に遷座していることから、尾張氏はこの時期に笠寺台地や氷上邑(名古屋市緑区大高町火上山)から大挙して熱田台地に移動したものと考えられます。


松炬島(現在の笠寺台地)の位置を示すグーグル画像。呼続から星崎にかけての一帯が松炬島です。

かつては島状態でした。画像を拡大すると現在でも川に囲まれ、かつての雰囲気が多少は感じられます。


氷上邑の位置を示すグーグル地図画像。

松炬島に関しては「熱田神宮の謎を解く その9」、氷上邑に鎮座する氷上姉子神社に関しては「熱田神宮の謎を解く その10」にて詳しく書いていますので参照ください。

では、肝心要の熱田神宮はどうなのでしょう?熱田神宮史料「朱鳥官符」には、熱田大明神が尾張国の愛智郡の衛崎の松炬嶋の機綾村に大化二年丁未、歳五月一日、天下して鎮座した、と書かれています。

「朱鳥官符」はデジタル化されており、原文は以下のコマ番号5を参照ください。
http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0003917KTM&C_CODE=0357-013206&IMG_SIZE=&IMG_NO=5

大化2年は646年ですが、年代に関して干支を採れば大化3年となり、上知我麻神社の創建と同じになるので、やはり647年に笠寺台地や大高を本貫地としていた尾張氏が大挙して熱田台地に移動したと想定されます。熱田にも松炬嶋の地名が含まれていますが、これは笠寺台地=松炬島から持ち込んだ地名と考えられます。松姤社の松姤は松炬なので、ここからも地名の持ち込みが窺えます。

「朱鳥官符」に書かれた熱田大明神とは天照大神ではなく草薙神剣で、宮簀媛命(宮主媛命で、氷上姉子神社の巫女と考えられ、特定の個人を指すものではなく巫女を意味する普通名詞)がこの時点で草薙神剣を氷上姉子神社から熱田に移したと考えられます。

要するに、熱田神宮の創建は宮簀媛命が蓬莱の地である熱田台地に草薙神剣を遷した孝徳天皇の大化3年(647年)となるのです。裏付けとなるのは二次資料ですが名古屋都市センターの研究報告書(23P)に以下の記事があります。

宮簀媛命は、日本武尊から託された神剣を守るために氷上邑(ひかみむら、尾張氏の本拠地・現在の名古屋市緑区大高町火上山)に熱田神宮の元宮となる氷上姉子神社を創建した。その後、年齢を重ねてきたことを憂えた宮簀媛命は、神剣を末永く祀るにふさわしい地を尾張一族に諮り、大化3年(647)、かねてから尾張氏の斎場であった蓬莱の地(現在の名古屋市熱田区神宮一丁目)に移され、名称も改められた(「熱田神宮」が正式とされたのは明治元年)。 宮簀媛命は尾張国造乎止世命の娘であったことから、この地方に土着して勢力を持ってい た尾張氏一族は、神主や祝(はふり)などといった神職を司り幾世代もこの神社を守り続けたのだった。

名古屋都市センターの研究報告書は以下を参照ください。
http://www.nui.or.jp/user/media/document/investigation/h22/shimin1.pdf

熱田神宮の創建は同社ホームページでは景行天皇の43年(およそ1900年前)となっているものの、実際には1369年前でしかないと理解されます。名古屋都市センターの研究報告書は二次資料なので、この裏付けとなる史料を探しましたが、残念ながら見当たりません。ただ、記載内容は上、下知我麻神社及び松姤社の遷座と完全に連動していることから、正しいものだと推定されます。「朱鳥官符」の記述内容もまた研究報告書の記事の正しさを証明するものとなっています。

以上から、尾張氏の実質的初代である乎止与命は松炬島(笠寺台地)にいたことになり、ここが尾張氏発祥の地と考えても違和感はありません。さらに「熱田神宮の謎を解く その4」で書いたように、松姤社は宮簀媛命と日本武尊の出会いの場であるとされていますが、松姤は松炬であり、出会いの場も松炬島であることを論証しています。これらを総合すれば、尾張氏の発祥地は松炬島及び氷上邑とならざるを得ないでしょう。もう少し広く取れば、鳴海も含む年魚市潟周辺地域となるはずです。

(注:「熱田神宮の謎を解く その45」以降で尾張氏国内発祥説の各説について書いています。内容的には粗雑で今から思えば間違いもありますが、参考としてください。尾張氏尾張国内発祥説は各説があっても、尾張氏の始まりを乎止与命とすれば年魚市潟周辺地域とならざるを得ません)

乎止与命がいつの時代の人物か想定するのは困難ですが、国造制度が始まったころと見れば、早くても5世紀以降となります。400年代になって年魚市潟周辺で勢力を増してきた尾張氏は、5世紀以降朝廷の東国支配の先兵になり、伊勢湾の沿岸警備、船舶の提供、人員の提供など様々な支援を行って朝廷との関係を強化し、最終的には尾張国全体をほぼその支配下に置いたものと思われます。

以上で尾張氏発祥地の謎解きは終了ですとしたいのですが、実は自分で書いた内容に納得のいかない部分も残っています。例えば、尾張氏は朝廷に対する貢献が大であったので、天皇家の系図捏造と言う極秘事項にも加担でき、初期天皇や崇神天皇の皇妃が尾張氏から出た形の系図作成も許され(これは尾張氏が大和にいたと見せかけるためのものですが…)、さらに天火明命や天香山命を祖神とすることが可能になったと書いています。

ところがです。以前書いたように、天智天皇の668年、熱田神宮の草薙神剣が新羅僧道行に奪われました。道行は捕まり神剣は熱田神宮に戻されると思いきや、宮中預かりとなってしまうのです。この事件は三種の神器の一つである神剣を自分たちのものにしたかった朝廷側の捏造と考えられます。

天智天皇の時代はそうであったとしても、次の代は天武天皇となります。もうご承知のように、尾張氏は672年の壬申の乱において大海人皇子を支援しました。そのお蔭で大海人皇子は戦いに勝利し天皇に即位できたのです。だとすれば、大海人皇子は天皇に即位した時点で神剣を尾張氏に返還していなければなりません。

ところが実際に返還されたのは朱鳥元年(686年)で、天武天皇の即位からかなりの年月が経過しています。返還の理由も妙なもので、神剣の祟りにより天皇が病に倒れたからとされています。つまり天武天皇の即位から崩御までの間、神剣は返されることなく宮中にあったことになります。

この経緯を見ると、朝廷は尾張氏を軽く見ていたと思わざるを得ません。また壬申の乱において、尾張大隅は自分の私邸を大海人皇子の行宮に提供し軍事面での支援もしています。ところが、「日本書紀」における壬申の乱の記述に彼の名前は出てこないのです。

あれこれ探してみると、天武天皇13年(684年)12月2日では、尾張連など連姓の50氏が宿禰の姓を与えられたとありますが、50氏の中の一つとしての扱いです。持統天皇10年(696年)5月8日には、天皇は尾張宿禰大隅に直広肆の位と水田40町を与えたとあります。しかし壬申の乱の功績により、とは書かれていません。

彼の名前が壬申の乱に関係して出てくるのは、「続日本紀」天平宝字元年(757年)12月9日条で以下のような内容となっています。

従五位上尾治宿禰大隅壬申年功田卅町。淡海朝廷諒陰之際。義興警蹕。潜出関東。于時、大隅参迎奉導。掃清私第。遂作行宮。供助軍資。其功実重。准大不及。比中有余。依令上功。合伝三世。

大意は、大海人皇子が吉野を脱出して関東(鈴鹿の関の東)に出た際、尾張大隅が出迎えて先導し、自分の私邸を掃き清め行宮(不破関近くの野上行宮)として提供し、軍事物資も支援した。その功績は重いが、大功と言うほどではなく、中程度よりは大きいので、上功に当たり、三世に功田を伝える。と言ったところでしょうか。

「日本書紀」において尾張大隅はほぼ無視された形となっており、「続日本紀」でようやく壬申の乱に関係する記述となりますが、功の大小が議論され明らかに軽く扱われています。記紀の編纂は天武天皇の命によりスタートしたものと考えられるので、この時点で初期天皇家の系図捏造が行われ、その作業に尾張氏も加担したとすると、酔石亭主の仮説は史書の内容に矛盾する結果となってしまいます。

ただ、「古事記」の序には舊辞の誤り違えるのを惜しみ、先紀の誤りが混じるのを正すため撰録して献上させた、と言った文面があり、天武天皇や天智天皇以前の段階で既に初期天皇家の系図捏造と尾張氏の加担が実行されていた可能性は十分にあります。と言うか、天武天皇は帝紀(先紀)・旧辞自体の改竄を意図していたとも考えられますので、ここからも初期天皇家の系図捏造は天武天皇以前の可能性が高そうです。

その後の尾張氏は正史に登場することもなく、どうやら熱田神宮の大宮司職を務めるだけの存在になってしまったようです。ところがその大宮司職も平安時代後期に藤原南家の藤原季範に譲ってしまい、尾張氏は祝詞師としての田島氏と惣検校の馬場氏になってしまうのです。Wikiには藤原季範に関して次のように書かれていました。

季範の母の実家である尾張氏は、代々熱田神宮の大宮司職を務めていたが、員職の代に至り、霊夢の託宣と称して永久2年(1114年)外孫の季範に同職を譲る。これ以降、熱田大宮司は季範の子孫の藤原氏による世襲となり、尾張氏はその副官である権宮司に退いている。

この時点で尾張氏の命脈は絶たれたも同然と思われます。PDFのデータで『「熱田神宮大宮司千秋家譜」について』があり、天照大神に始まる系譜が掲載されているので参照ください。
www.mkc.gr.jp/seitoku/pdf/f7-4.pdf

「その137」にて伊福部神社の由緒を書かれた熱田神宮の大宮司・角田忠行氏に関して書いていますが、同氏は「熱田神宮略記」を著されており、近代デジタルライブラリで読むことができます。わかりやすく纏められているので、興味のある方は以下を参照ください。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1096390

尾張氏に関して別の視点からも見ていきます。熱田神宮の主祭神に関しては「熱田神宮略記」のコマ番号11に記載あり、「天璽 草薙大御剱 一座」となっていました。また相殿神として天照大神、スサノオ、日本武尊、宮簀媛命、建稲種命の五座が祀られています。ところが現在の熱田神宮ホームページでは以下の記載となっています。

熱田大神とは、三種の神器の一つである草薙神剣(くさなぎのみつるぎ)を御霊代(みたましろ)・御神体としてよらせられる、天照大神のことです。

相殿神は「熱田神宮略記」と同じになっています。熱田神宮ホームページは以下を参照ください。
https://www.atsutajingu.or.jp/jingu/about/gosaijin.html

上記から主祭神が「熱田神宮略記」と現在のホームページとでは異なっていると理解されます。現在のホームページでは主祭神が熱田大神で、熱田大神とは草薙神剣を霊代とする天照大神とのこと。この内容には理解しがたいものがあります。天照大神の霊代は鏡のはずで草薙神剣ではないからです。

また主祭神が天照大神なら、相殿神として祀られている天照大神はどうなるのでしょう?熱田神宮の本宮に天照大神が主祭神として、また相殿神として祀られているなど、どうにも理解できそうにありません。相当無理な操作をした結果、矛盾を来すような形になったのではと思われます。

背景を調べてみると、尾張造であった熱田神宮の社殿が明治26年に神明造に変っており、これに伴って祭神のありようにも変化が起きたと推定されます。具体的には、明治時代に大宮司の角田氏が熱田神宮の地位の向上を目的として、社殿を伊勢神宮と同じ形式にするよう政府に働きかけた結果、神明造に変わったとのことです。

角田氏の尽力により熱田神宮は伊勢神宮に次ぐ国家第二の宗廟としての地位を得ました。けれども、その代償は大きく主祭神は天照大神となってしまい、尾張氏の最重要神社としてのありようは薄められてしまったのです。

よく理解できないのは、社殿を神明造に変えた(この時点で主祭神も天照大神に変えたはず)のは当時の熱田神宮大宮司である角田氏のはずなのに、同氏が著した「熱田神宮略記」では祭神を草薙大御剱としている点です。背後に何があったのか現時点では不明ですが、角田氏としては祭神の矛盾には目をつむり、熱田神宮の地位向上を優先したのかもしれません。或いは、角田氏が大宮司を退任した後に祭神が変更されたのでしょうか?

角田氏の意図は別としても、結果的に尾張氏にとって重要な神社の主祭神が天孫系になってしまった訳です。天武天皇以降の朝廷が尾張氏を軽く見ていた点は既に書いていますが、この状況が近代になっても続いているように思え、ちょっと複雑な気分になりました。利用されて捨てられて、は現代の人間社会においてもしばしば見られる現象です。尾張氏も天皇家から利用され、用が済んだら打ち捨てられた氏族だったのかもしれません。

何となく悲哀を感じさせるお話になったところで尾張氏の謎解きは終了とします。結論はありきたりの尾張氏尾張国内発祥説となりますが、その論証は独自の視点で書けたのではないかと思っています。
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尾張氏の謎を解く その140


尾張氏吉備国発祥説は前回の検討で間違いだったと確認されました。でも、まだ他に尾張氏国外発祥説が存在します。と言うことで、次に尾張氏播磨国発祥説を見ていきましょう。手っ取り早いのは、播磨国において天火明命を祭神とする神社を探すことです。兵庫県たつの市龍野町日山449-1には粒坐天照(いいぼにますあまてらす)神社が鎮座しており、祭神は天照国照彦火明神となります。


鎮座地を示すグーグル地図画像。

同社概要はWikipediaより引用します。

日山(白鷺山)山頂にて推古天皇2年(594年)の創祀と伝わる古社で、現在は中腹から山麓にかけてが社地となっている。社名の「粒(いいぼ)」は「揖保(いぼ)」の地名の語源とされる。粒坐天照神社は平安時代は『延喜式神名帳』で名神大社とされていた。

粒坐天照神社の概要から何点か指摘できる部分があります。まず創建が6世紀の終わりと遅いことから、天火明命を祀る同社の存在をもって尾張氏播磨国発祥説を唱えることはできない点です。前回で伊福部氏が吉備国に来たのは6世紀の終わり以降ではないかと書いていますが、吉備国に向かったメンバーの一部が途中の播磨国に定住したと考えれば年代的にも筋は通ってきます。

次に、社名は粒坐天照神社ですが、天照の後にあるはずの御魂が抜け落ちているようです。いずれにしても、上記内容だけでは不十分なので、もっと創建の経緯を詳しく見ていきましょう。Wikiに記載はありませんが、神社の創建に伊福部氏の関与が見られます。その概要は以下の通りです。

第33代推古天皇の御世に伊福部連駁田彦(いふきべのむらじふじたひこ)という長者がいた。彼の屋敷の裏にあった社の上に童子が現れた。童子は「私は天火明命の使いで、天火明命の幸御魂はこの地に鎮まり、この土地と人々を守って既に千年を越えている。汝は正直で誠実なので、神勅を授けよう。神勅を奉戴し新しい神社を造営して奉祀せよ」と言った。また、「種稲を授けるので水田を耕作すれば豊かに稔る」と言った。授かった種稲で水田を耕作したところ大豊作となり一粒万倍となった。これにちなみこの土地は米粒を意味する粒(いいぼ、揖保)の郡と呼ばれた。人々は大いに感謝し、この神社を粒坐天照神社と称して崇めた。

いかがでしょう?吉備国に続き播磨国でもやはり伊福部氏で、天火明命と結び付いていました。尾張氏はどこにも出てこないと理解されます。上記記事で面白いのは創建の経緯です。この神社の創建においては、種稲が最も重要な要素となっています。そして古代における尾張氏の最重要人物が建稲種命(たけいなだねのみこと)でした。

建稲種命の父は乎止与命で母は眞敷刀婢命(ましきとべ、尾張大印岐の女)。日本武尊の妻となる宮簀媛命は彼の妹。彼の妻は邇波県君の祖である大荒田命の女・玉姫となります。尾張氏にとって必要不可欠な要素を全て体現した人物・建稲種命の名前が、粒座天照神社の最も重要な要素である種稲と同じであるのが実に不思議です。伊福部氏の中には、建稲種命に従うことで自らもより豊かになった記憶が残っており、後代の伊福部氏はそうした経緯を念頭に置いてこの神社の創建に関与したのかもしれません。なお、粒座天照神社の詳細は以下を参照ください。写真も多くあり参考になります。
http://enkieden.exblog.jp/20520461/

播磨国をさらに詳しく見ていきましょう。「播磨国風土記」を開くと天火明命が全く異なる姿で描かれていました。「播磨国風土記」飾磨郡(しかまぐん・しかまのこおり)の条によると、概略は以下の通りです。

大汝命の子の火明命は強情で行状も猛々しかった。これを思い悩んだ父神は子を捨てようと思い、因達の神山で水汲みするよう命じ、まだ帰ってこないうちに船出して逃げ出した。火明命は怒り狂って風波を巻き起こし、大汝命に追い迫り、父神の船を難破させてしまった。

ここでは天火明命の父神が出雲系の大汝命(=大国主命)となってしまいました。しかも、強情で行状も猛々しいとあります。天照大神の御魂(=鏡)であった天火明命のイメージが壊れたような状態となっていますが、これは伊福部氏の移動に伴って出雲系と伊福部氏の間に諍いがあったことを神話的に語っているのでしょうか?

続いて、「播磨国風土記」の揖保(いひぼ)の里の条を見ていきます。この里を粒(いひぼ)と称する理由は以下の通り。

天日槍命(あめのひぼこのみこと)が韓国から渡って来て宿所を葦原志挙乎命(あしはらのしこおのみこと=大国主命)に依頼した。志挙は海上にいることを許したが、剣で海水を掻き回した。その猛々しい行為を恐れた志挙は先に国を占めようとして、粒丘に上がり急いで食事をした。すると口から米粒が落ちた。だから粒の丘と呼ぶ。

これは粒座天照神社の由緒とは異なっていますが、似通った雰囲気も感じられます。大陸や大和、出雲の影響を受けた播磨国には様々な要素が入り込んでいるので、なかなか面白そうです。いずれにしても、上記の検討結果から播磨国に尾張氏の存在を認めることはできません。(注:これは尾張氏発祥地としての意味であり、後代になって尾張氏の一部が移住した可能性を否定するものではない点お含み置き下さい)

以上で尾張氏国外発祥説(高尾張説、吉備・播磨説)は葬り去られたことになります。また尾張氏国外発祥説は、主に伊福部氏の活動が尾張氏のものと誤認されたことにより発生したと理解されます。

                 尾張氏の謎を解く その141に続く

尾張氏の謎を解く その139


今回は尾張氏国外発祥説の別説である吉備発祥説に関して見ていきます。以前にも書きましたが、岡山市北区京山2-2-2には尾針神社が鎮座しています。


鎮座地を示すグーグル地図画像。

由緒詳細は岡山県神社庁ホームページより以下引用します。

当社の創立の年代は詳らかではないが、醍醐天皇延喜5年(905)から編纂された「延喜式」の神名帳に登載(延喜式式内社)されている。社殿背後の台地には高さ1〜2メートルの長大な巨石群あり、これらは天津磐境(あまついわさか)と言われ古代祭祀の遺跡である。また、ご鎮座地一帯は、往古「吉備国御野郡伊福郷」と称され、伊福部連(尾張連の一族)の居住地で、その祖神「天火明命」を奉斎し、創祀したと言われている。延喜の制では小社に列せられ備前国26社の1社として最古の社である。延喜式神名帳に「備前国二十六座御野郡八座」の中に「尾針神社」とある。…以下略。

神社庁ホームページは以下を参照ください。
http://www.okayama-jinjacho.or.jp/cgi-bin/jsearch.cgi?mode=detail&jcode=01091

社名は尾張氏を想起させる尾針神社なのに鎮座地は伊福部氏の関連であり、伊福部氏の祖神である天火明命を奉斎し創祀したとされるのですから、尾張氏ではなく伊福部氏を中心とした書き方になっています。図らずも、前回までで見てきた内容を証明しているように思えてきました。

由緒に「伊福部連(尾張連の一族)」と書かれているのは、伊福部氏と尾張氏のありようが整理されていないために併記した形となったものと推定され、文面の趣旨は明らかに伊福部氏が主体となっています。もう少し詳しく見るため、以下Wikipediaより引用します。

創建は不詳であるが、一帯は古くは「吉備国御野郡伊福郷」と称され、伊福部連(尾張連の一族)の居住地であったという。そしてその祖神・天火明命を祀ったことに始まるとされている。付近には同じく尾張氏ゆかりの式内社・尾治針名真若比咩神社が鎮座することから尾張氏との関係が示唆されており、伊福部氏が尾張から西遷したとする説や、逆に吉備から尾張へ尾張氏が東遷していったという説がある。
平安時代中期の『延喜式神名帳』には「備前国御野郡 尾針神社」と式内社の記載があるが、当社はその論社とされている。江戸時代には式内社の所在不明となっていたといい、当時の文献では酒折宮(現 岡山神社)の社地が元の境内と記すものもある。現在も岡山神社の末社の内に尾針神社が祀られており、論社のもう1つとされている。明治初年までは「栗岡宮」と呼ばれていたという。明治に入り「尾針神社」と改称した。


境内末社である若宮の祭神が天香山命となり、尾張氏の祖神(とされる)2神が出揃っていること、また社名が尾針神社であることから、ここが尾張氏吉備国発祥説の中心的な場所と理解されます。しかしです。鎮座地一帯は、往古「吉備国御野郡伊福郷」と称され、伊福部氏の居住地である点は確認されますが、尾張氏の痕跡は見られません。御野郡伊福郷に尾張氏の痕跡が見られないのは、古代の初期において尾張に移動したからだとの説明も可能なので、この問題を考えてみます。

美濃・尾張の検討から彦坐王をリーダーとした東方遠征部隊は主力が伊福部氏で、鏡(=天火明命)を奉じ、大和から尾張へと移動しました。よってその経路には伊福部氏が色濃く存在し、彼らが奉斎する神社には天火明命が祀られていたのです。一方大和から尾張までの経路上に尾張氏の痕跡は皆無となり、尾張氏高尾張邑発祥説は否定されました。同様に考えると、仮に吉備国で尾張氏が発祥したとする場合、どのような経路で尾張に至ったのかを詳しく検証しなければなりません。多分経路と推定される各国にも尾張氏の痕跡はないはずです。

尾張氏大和高尾張邑発祥説と吉備国発祥説のいずれも、途中の経路に尾張氏の痕跡が見られないと言う基本構造は全く同じと思われます。では、四道将軍の派遣に関連して大和の伊福部氏が吉備国に向かったのでしょうか?多分、伊福部氏が吉備津彦命に同行して吉備国に入ったのではなく、美濃或いは尾張に定着した後代の伊福部氏が吉備国に移動したことから、この地が伊福郷となったのです。

その理由は郡名にあり、御野郡は美濃を連想させるのですが、いかがなものでしょう?社名が尾針となっている点も尾張の伊福部氏が移住したからと考えれば納得でき、美濃・尾張の伊福部氏が連れ立って吉備に入った雰囲気が感じられます。

さらに検討を続けます。尾針神社から約1.6㎞北の岡山県岡山市北区津島本町20-8には尾治針名真若比咩神社(おじはりなまわかひめじんじゃ)が鎮座しています。


鎮座地を示すグーグル地図画像。

同社も岡山県神社庁の記事を引用します。

延喜式神名帳に、「備前国御野郡尾治針名真若比め神社」とあリ、総社神名帳に「尾張針田真若比女神社」、山本氏本に「従四位下尾張針田明神」と記載している式内神社である。本神社の鎮座地の西坂以東の山を半田山と言うのは、針田山の誤で、針田の名称はこの神の御名から出たもので、津島の産土神である。(「め」は口へんに羊) 

神社庁ホームページは以下を参照ください。
http://www.okayama-jinjacho.or.jp/cgi-bin/jsearch.cgi?mode=detail&jcode=01046

尾治針名真若比咩神社の祭神・尾治針名真若比咩命とはどんな神様なのでしょう?それを知るために、尾張に立ち返ります。名古屋市天白区天白町平針大根ケ越175には針名神社が鎮座しています。同社の主祭神・尾治針名根連命(おわりはりなねのむらじのみこと)は天火明命の十四世孫とされ、尾治針名真若比咩神社の社名・祭神と極めて近いものがあり、両神の関係が見て取れます。また既に見てきた犬山市に鎮座する針綱神社の祭神も同じ尾治針名根連命です。尾治針名真若比咩神社と針名神社の関係を探るため、早速針名神社を見に行きましょう。


鎮座地を示すグーグル地図画像。

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鳥居。

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参道です。

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紅葉が綺麗でした。

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神門です。

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由緒記。画像サイズを大きくしています。

ごく一般的な由緒で、取り立てて特別な内容は書かれていません。

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拝殿。

コンクリ造りですが立派な社殿と言えるでしょう。神域感は十分にある境内です。

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解説板。画像サイズを大きくしています。こちらの方が詳しくてわかりやすい。

針名神社の歴史
針名神社の創建は古く、延喜式神名帳の「従三位針名天神」の記載により、今から約1100年以上前と推察できます。
「延喜式」とは、延喜5年(905年)に醍醐天皇の命により編纂が開始された「養老律令」の施行細則を集大成した全五十巻に及ぶ古代法典であって、この「延喜式」の第九巻・第十巻に記載されている神社のことを式内社と呼び、針名神社も式内と冠しているのはこの史実によるものであります。
社地の元々は現在地より約800メートル北、天白川左岸の元郷に祀られておりましたが、慶長年間(1612年頃)に徳川家康の命により平針宿が成立したと同時期に現在の社地に遷し祀られたとされています。
主祭神の尾治針名根連命(おわりはりなねのむらじのみこと)は、尾張氏の祖先神で尾張国一宮の真清田神社の御祭神でもある天火明命(あめのほあかりのみこと)の十四世孫にあたり、父の尻調根命(尾綱根命)とともに犬山市の針綱神社にも祀られていて、古代豪族尾張氏の氏神と考えられております。
…以下略

針名神社は立派なホームページがあるので詳しくは以下を参照ください。
http://www.harina3.or.jp/history/

由緒を見ても、尾治針名真若比咩神社との関係までは書かれていません。国会国立図書館デジタルライブラリで尾張志をチェックしたところ、コマ番号3に以下の記載がありました。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/764866

針名神社
平針村にまして今は天神社と申す神名式に愛智郡針名神社本國帳に同郡従三位針名天神とある是なり祭神は尾治ノ針名連と神祇宝典に書せ給へるがことし針名ノ連は天孫本紀に天火明ノ命十四世ノ孫尾治ノ弟彦ノ連次尾治ノ針名根ノ連次意乎巳ノ連此連ハ大雀朝ノ御世爲大臣供奉と見え姓氏録左京神別下檜前舎人ノ連の條に火明命十四世ノ孫波刹那乃連公の後也とも見え尻調根ノ命の二男也神名式に備前ノ國御野ノ郡尾治ノ針名ノ眞若比女ノ神社といふある眞若比女ノ命ハ天孫本紀尾治氏ノ世系をかける條にはもらせれとこの針名連公の御妹か又は御女なとにもやあらむさて針名はもとこの尾張國の地名にてそこによれる御名なるへし今は此名廃れて考ふへきよしなし延喜神名式に見えたる上野國群馬ノ郡榛名ノ神社に同例の地名なから祭神は此所と異なるにかあらむ此平針村今の民家及神社寺院ともにもとは郷の北の方元郷といふ所にありしを後にここにうつしたれは古代よりの坐地にはあらす旧址は今世に元大神と呼來れり神主を村瀬右近と云


読みにくい内容ですが、「備前ノ國御野ノ郡尾治ノ針名ノ眞若比女ノ神社といふある眞若比女ノ命ハ天孫本紀尾治氏ノ世系をかける條にはもらせれとこの針名連公の御妹か又は御女なとにもやあらむ」の部分が重要で、両社の関係が示されています。

由緒には、眞若比女ノ命は天孫本紀の尾張氏系図には載ってはいないが、針名連の妹か御女(妻)ではないかと書かれ、針名神社祭神との関係が想定されており、両社の間に何らかの繋がりがあると理解されます。さらに調べを進めます。国会国立図書館デジタルライブラリで特選神名牒をチェック結果、尾治針名真若比女(咩)神社に関して以下の記載がありました。

尾治針名真若比女神社
祭神 尾治針名真若比女神

今按岡山藩神社書上に此社北方村の四日市御崎宮地に建たるは寛永四年の事にて一宮の社務大森氏の本社の廃地を歎きてかりにものせし也平賀元義が雑録に此祭神尾張連にて伊福氏祖神なり備前邑久郡に尾張郷あり尾張氏伊福氏も本国にありて其祖神を祭れるなり尾張国山田郡尾張神社愛智郡針名神社伊福神社ありて尾張に尾張氏伊福氏あり備前御野郡にも尾治針名真若比女神社ありて共に同じと云りさて本郡の北方金山笠井山より引続きて東西に斜なる山を半田山と云は針田山の音便にくつれたるにて針田神社ましし故なりさればこの半田山に清地を擇で宮地を定むべきにや又考るに津島天神社福井天神社ありもしくは津島天神ならんかと疑へる注進状に津島村と定めたるは武断に近し彼針田山の地いとよしありて聞ゆれば猶よく尋ねまほし


国会国立図書館デジタルライブラリは以下を参照ください。コマ番号は403。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1919019

上記で重要なのは「此祭神尾張連にて伊福氏祖神なり備前邑久郡に尾張郷あり尾張氏伊福氏も本国にありて其祖神を祭れるなり尾張国山田郡尾張神社愛智郡針名神社伊福神社ありて尾張に尾張氏伊福氏あり備前御野郡にも尾治針名真若比女神社ありて共に同じと云り」の部分です。以下現代文に書き直します。

尾治針名真若比女神は尾張連であり、伊福部氏の祖神である。備前邑久郡には尾張郷があり、尾張氏と伊福氏が本国(備前国)に存在していてその祖神を祀っているのである。一方、尾張国山田郡には尾張神社が鎮座し、愛智郡には針名神社と伊福神社が鎮座していて、尾張には尾張氏と伊福氏が存在している。備前御野郡にも尾治針名真若比女神社が鎮座していて共に同じと言える。

吉備国は持統天皇3年(689年)に備前国、備中国、備後国に分割されています。驚いたことに、尾治針名真若比女神は尾張連であり、伊福部氏の祖神であると書かれています。尾治針名真若比女神は尾張氏の系図にはなく、伊福部氏の系図にも見られません。つまり、尾張氏と伊福部氏のどちらにも関係ありそうで関係なさそうにも見えると言う、ややこしい状態となっています。

その点はさて置いて、上記の由緒は尾張と備前には尾張氏と伊福部氏がいて、それぞれが祖神を祀っていることから、尾張と備前は同じだとしている訳です。ここから、伊福部氏が尾張から西遷したとする説や、逆に吉備から尾張へ尾張氏が東遷していったという説が出てきたのは言うまでもありません。既に書いたように、4世紀頃の古代に吉備から尾張氏が尾張へ東遷したなら、その経路を特定し経路上に尾張氏の痕跡が見られるはずですが、そうした痕跡は何もなく、伊福部氏が尾張から西遷したと考えるしかなさそうです。

この場合においても、伊福部氏が尾張から西遷した経路上に伊福部氏の痕跡があるのかとの疑問が出てきます。答えは、そうした痕跡などない、となります。なぜなら、伊福部氏の西遷は600年から700年代の頃と考えられるからで、この時点では交通網も整備され、各地に痕跡など残さず移動が可能となっているのです。

ここで尾張と備前の比較検討をしてみます。尾針神社の鎮座地は吉備国(後の備前国)御野郡伊福郷で、そのすぐ近くには尾治針名真若比女神社が鎮座しています。尾張国愛知郡の針名神社の近くには徳重熊野社と富士浅間神社が鎮座しており、富士浅間神社の鎮座地はかつての伊福村であった可能性があります。伊福村があったかどうかは別としても、伊福部氏が居住していたのは間違いないと思われます。

つまり尾張と備前のごく狭い地域において、伊福部氏の居住地内に尾張氏の神社が鎮座している構図となっているのです。全く同じ構図の中で選択肢は、伊福部氏が備前から尾張に移住したか、尾張から備前に移住したかのいずれしかなく、この移住に尾張氏が加わっていた可能性もあります。そう考えれば、結論的には尾張から伊福部氏が備前に移住した、それに尾張氏も加わっていた可能性があるとするしかなさそうです。

なぜなら、天火明命十四世孫の尾治針名根連命は実在するとして5世紀初頭の人物と推定されるからです。5世紀初頭の人物の娘かも知れない尾治針名真若比女神が神として祀られるのは多分6世紀以降になるはずです。吉備国で発祥した尾張氏が尾張に来たと仮定した場合、その時期が6世紀以降であれば遅すぎるため、これをもって尾張氏吉備国発祥説が正しいとはなりません。

纏めれば、美濃・尾張の伊福部氏と尾張氏の一部がいつの頃かは不明だが多分6世紀の終わり以降吉備国(7世紀の終わり以降なら備前国)に移住し、これが尾張氏吉備国発祥説の元になったと考えられます。以上で、尾張氏国外発祥説の一つである吉備国発祥説は成り立たないことが明確となりました。

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最後に紅葉をもう一枚。針名神社の近くですが境内ではありません。

                尾張氏の謎を解く その140に続く

尾張氏の謎を解く その138


2016年も尾張氏の謎解きが最初の記事となります。終了まであと一息ですが、まずは尾張における伊福部氏を見ていきましょう。「天平六年尾張国正税帳」には主帳外少初位上勲十二等伊福部大麻呂とあり、郡の記載順序からして知多郡にも伊福部氏の存在が見られることになります。富士浅間神社周辺に来た伊福部氏が鳴海にまで下り、船で知多半島に上陸したとの推定もできそうです。

知多郡に関連する木簡には五百木部の記載もあり、ここからも伊福部氏が知多郡まで南下していた様子が見て取れます。但し、年代的には相当遅くなってからのことでしょう。知多郡の五百木部に関しては「阿久比神社」のところで書いていますので、参照ください。

こうして見ると、伊福部氏の美濃・尾張における存在感は尾張氏に匹敵するようにも感じられます。以上、尾張氏高尾張邑発祥説は間違いであり、天火明命と天香山命は本来尾張氏の祖神ではなかったとする酔石亭主の主張も、一定の根拠を持って確認されました。以下簡単に纏めます。

大和葛城山麓にある高尾張邑の地名は捏造されたものであり、葛城一帯に尾張氏の痕跡はない。葛城を本拠とした葛城族は崇神天皇の時代に滅ぼされた。後代の大和朝廷は葛城族の小国家を取り込んだ形で初期天皇の系図を捏造し、葛城族は土蜘蛛と貶められた。崇神天皇の時代に一旦滅んだ葛城族は葛城襲津彦の時代に復活し葛城氏となった。葛城氏は雄略天皇の時代に再び滅ぼされたが、葛城の地に葛城族の小国家が存在した印象は後の時代まで残ってしまった。

大和朝廷は豪族たちから系図捏造を指摘されるのを恐れ、葛城族を自分たちの下に置く策を考え、尾張氏に協力させた。具体的には尾張氏も葛城にいて葛城族の女と通婚していると言う形にすることだった。これにより葛城族は存在したが天皇家の下の尾張氏と同列に置く形が整うことになる。そして葛城地方に尾張氏が存在しているかのように見せかけるため、高尾張邑の地名を捏造した。この地名は出現の直後土蜘蛛を殺す記事と共に抹消され、葛城邑に戻された。

こうした操作により、初期尾張氏の系図は葛木(葛城)姓の女と通婚する形となった。また天皇家との関係においても、尾張氏の娘が考昭天皇皇妃で考安天皇の母となり、崇神天皇の皇妃となる形で捏造され、初期の尾張氏が大和にいたかのよう見せかけた。大和朝廷による策略は現代の私たちにまで影響を及ぼし、高尾張邑の地名と尾張氏系図を根拠として尾張氏高尾張邑発祥説が唱えられた。

鏡である天火明命と天香山命は共に金属系の神で伊福部氏が奉斎していた。彦坐王率いる遠征部隊は伊福部氏が主力となり、この2神(=鏡)を奉じて丹波、因幡、近江、美濃、尾張へと進軍した。後代の尾張氏は天火明命と天香山命を自分たちの祖神にしたいと朝廷に奏上、天皇家の系図捏造に協力した見返りとして尾張氏の願いは許可された。これが尾張氏高尾張邑発祥説と接続し、天火明命と天香山命が高尾張邑から尾張に来て開拓の祖神になったと誤認される結果を招いた。

注1:尾張氏高尾張邑発祥説の場合、一般的には乎止与命に時代に尾張に移動したとされている。
注2:天火明命と天香山命が高尾張邑から尾張に来て、の部分は「尾張氏の謎を解く その5」を参照ください。


大和朝廷による系図捏造当時、美濃・尾張の伊福部氏は尾張氏に従属的な立場にあった。この時点で尾張氏が天火明命と天香山命を祖神に取り込んだため、伊福部氏は尾張氏同祖として朝廷に奏上せざるを得なくなった。

尾張氏高尾張邑発祥説の検討は以上で終了です。次回は尾張氏吉備・播磨発祥説を検討しますが、多少長いものになるかもしれません。

               尾張氏の謎を解く その139に続く

尾張氏の謎を解く その137


今回は海部郡伊福郷(現在のあま市七宝町伊福宮東)に鎮座する伊福部神社を見ていきます。鎮座地の地名が海部郡伊福郷とは、海部氏と伊福部氏を合体させたように見えて面白いですね。


鎮座地を示すグーグル地図画像。

ここは尾張において、史料面は別として伊福部氏の痕跡を具体的に見られる南限となり、尾張氏の謎に関連する決定的な情報でも得られればと期待されます。決定的な情報とは、大和国葛城山山麓の高尾張邑から尾張に来たのは尾張氏ではなく伊福部氏であると言う酔石亭主の主張の根拠となる情報を意味します。言い換えれば、尾張氏高尾張邑発祥説を否定できる情報となります。もちろん今までの検討で、ほぼ否定できる状態にまで至ってはいますが…。と言うことで、早速行ってみましょう。

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鳥居です。

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赤鳥居。

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解説板。

随分簡単な由緒で、祭神は伊福部氏が敬愛する日本武尊とのことです。ちょっと理解しがたいですね。尾張における日本武尊は尾張氏との関係が主体で、彼が死ぬ原因となったのが伊吹山ですから、そこで何らかの関係があるのかもしれません。祭神の問題は少し別の視点から見ていく必要がありそうです。

例えば、美濃から尾張における日本武尊の実体は彦坐王と考えたらどうでしょう?日本武尊の名前は記紀を見ても明らかなように、彼が討伐した首長から献上された尊号で、大和国の勇猛な人を意味しています。そうした尊号に相応しい人物の実体が彦坐王であっても不自然ではないし、伊福部氏は彼に率いられて尾張まで来たのですから、間違いなく敬愛の対象となるはずです。

ただ、日本武尊の名前は特定の人物を指す固有名詞ではなく、彦坐王の名前もまた男の王と言う意味であり、両者の名前は普通名詞的なものでしかありません。どちらの側から見ても相手側を特定できないとは、古代史は本当にややこしいですね。ここでは一応、日本武尊の実体は彦坐王としておきます。

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舞殿。

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御神木。

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拝殿。

鏡が掛けられています。伊富岐神社や南宮大社と同じで、伊福部氏が鏡(=天火明命)を奉じて尾張にまで来たことを象徴しているのかもしれません。

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拝殿に掛けられた鏡。

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道路側から見た本殿。

さて、もっと詳しい解説がないか探してみると、拝殿に向かって右手の隅にありました。

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解説板。こちらも簡単な内容です。解説板の背後にある碑をチェックしましょう。

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石碑。

神鳳抄所載 伊福部御厨舊地 明治二十二年三月建之 正七位 角田忠行書」と刻まれています。神鳳抄はWikiによれば、「伊勢神宮(内宮および外宮)の領地の諸国一覧表である。」とのことです。この背後に大きな石碑が設置されていました。一体何が書かれているのでしょう?

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由緒が刻まれた石碑。

文字は薄れており、平仮名も崩してあるので実に読みにくいのですが、正しく驚愕の内容が刻まれていました。ネットを検索してもこの内容に触れたものはないようです。酔石亭主の能力では以下の文面が正確である保証はありませんが、とにかく書き出してみます。

愛知縣知事後五位勝間田稔篆額

この尾張国は神武天皇の御世天火明命の御子天香山命の住され給ひし国なりし由言伝えて、御裔の諸氏あまた有る中に伊福部と言ふあり。姓氏録に笛吹連(は)天火明命の後也。また伊福部宿祢(は)尾張連同祖天火明命の後也と見ゆ。伊福は気吹の假字にて笛に因れる名あり。この大神(天火明命)神代に笛を吹くことを始め給ひし御功によりて伊福天神とも申し其御裔を伊福部氏といふ。さてこの伊麥村(いむぎむら)は倭名抄なる伊福郷にて既に神鳳抄にも伊福部御厨と見えたるを、その後訛りて伊麥郷と転れるなり。もと伊福部氏の住まひし地なるが故にこれを地名となれるにて其の館跡を今に殿垣内といふ。その傍遠祖天火明命を祀られたり。本国神明帳に正四位下伊福部天神といふこれなり。斯くこの由緒深き名所の漸く失へ行かんことを嘆きて、今たびその郷なる古へ慕ふ忠誠人ら相謀りて其事石文に誌記して後世に伝へまくを其由一言をと請はるるままに、かかるわざに心を用ふる性にしあれば諾ひ頓に筆をとりてかかなむ。
明治二十二年三月 熱田神宮宮司正七位角田忠行


アッと驚くような内容ですが、以下現代文で簡略に書きます。

尾張国は神武天皇の御世に天火明命の御子天香山命が住まわれた国との言い伝えがあり、多くの子孫の中に伊福部がいる。姓氏録に笛吹連は天火明命の後とある。また伊福部宿祢は尾張連同祖天火明命の後也と書かれている。伊福は気吹の仮字であり笛にちなむ名である。この大神(天火明命)が神代に笛を吹くことを始められた功績により、伊福天神とも申して、その子孫を伊福部氏と言う。さてこの伊麥村(いむぎむら)は倭名抄にある伊福郷で、神鳳抄にも伊福部御厨と書かれているものを、その後訛って伊麥郷に転訛した。元は伊福部氏の居住した地であることから、これが地名となり、その館跡を今は殿垣内と言う。その傍に遠祖となる天火明命を祀った。本国神明帳に正四位下伊福部天神と言うのがこれに当たる。

内容をじっくり検討していきます。まずこの由緒は熱田神宮の宮司である角田忠行が書いたものでした。角田忠行に関しては以下のWikipedia記事を参照ください。なかなかの大人物です。

角田忠行(つのだ ただゆき、天保5年11月6日(1834年12月6日) - 大正7年(1918年)12月15日)は日本の国学者、神官。通称は由三郎。信濃国佐久郡長土呂村(現長野県佐久市)の神官角田忠守の子として生まれる。父は岩村田藩主の侍講、藩校達道館教授を務め、終身禄を受け藩士身分となった。
安政2年(1855年)脱藩して江戸に出奔し、藤田東湖に入門。その後は国学者平田鐵胤の門人となって塾の運営に関わった。文久3年(1863年)上洛して等持院にある足利三代木像梟首事件に首謀者の一人として関与し、幕吏に追われて伊那谷に潜伏。慶応3年(1867年)米川信濃と変名し澤為量に仕える。戊辰戦争では秋田藩の官軍恭順に尽力した。
維新後は明治政府に出仕し皇学所監察、学制取調御用掛、大学奏任などを務め、賀茂御祖神社少宮司、廣田神社宮司を経て、明治13年(1880年)熱田神宮大宮司となり、大正3年(1914年)までその職を務めた。

熱田神宮は三種の神器の一つを祀っていることから、伊勢神宮と同格であるべきとの主張があり明治時代の初めに伊勢神宮に準じた待遇にするよう政府に請願していますが、この時点では却下されています。その後大宮司となった角田忠行が同様の請願を行い明治22年(1889年)までに伊勢神宮に準じることが認められました。それと時を同じくして、伊福部神社の由緒が設置されたものと考えられます。全くすごい人物ですね。では由緒内容の検討に入りましょう。

まず驚いたのが、書かれた内容が基本的に笛吹連に関連していることです。伊福部神社の由緒は、「その9」にて書いた葛木坐火雷神社の由緒と明らかに照応していると理解されます。対比のため葛木坐火雷神社由緒の主要部分を以下に記載します。詳細は「その9」を参照ください。

天香山命ハ石凝姥命トモ奉申リ天照皇大神天岩屋戸ニ籠リ坐セル時天香久山ノ天波波迦木又竹ヲ切リ取リ笛ヲ造リ吹鳴シ亦金ヲ堀リ八咫鏡ヲ鋳造シ皇祖ニ奉リ大御心ヲ慰メ奉リシ神ニ坐シテ音楽及鐵工業ノ祖神ニシテ此ノ御鏡ヲ伊勢神宮ノ御神体ト奉仰ルモノナリ 
社家持田家ノ家譜ニ崇神天皇ノ御代ノ十年建埴安彦兵ヲ挙ゲテ帝都ヲ襲ハントス仍テ大彦命ハ笛吹連櫂子等ヲ率ヒ奈良山ニ於テ安彦ニ軍ト戦ヒテ和韓川ノ南ニ於テ櫂子ノ射放チタル矢ハ安彦ノ胸ヲ射貫キ之ヲ斃ス故ニ賊軍降テ平定ス依テ櫂子ノ戦功ヲ賞シテ天磐笛及笛吹連姓ヲ給フ其ノ夜天皇ノ御夢ニ此ノ磐笛ヲ以テ瓊々杵尊ノ神霊ヲ祭レバ国家安寧ナランコトニヨリ當社ノ相殿ニ奉祀セラルタルト有レバ崇神天皇御宇以前ノ古社ニシテ地誌其ノ他ノ古書 笛吹神社トアルハ所謂是也


片仮名交じりの由緒なので、現代文で簡略に書きます。

天香山命は別名が石凝姥命で、天照大神が天岩屋戸に籠ったとき、天香久山の天波波迦木と竹を切り取り、笛を作って吹鳴した。また天香山命は金(一般的に鉄或いは銅)を掘り、八咫鏡を鋳造して皇祖に奉った音楽と鉄工業の祖神で、この鏡が伊勢神宮の御神体となった。(注:尾張氏の祖神であるはずの天香山命が、上記由緒では尾張氏と無関係な笛吹と鏡作部の祖神・石凝姥命の事績において語られている点が注目されます)

社家持田家の家譜によれば崇神天皇の御代の十年建埴安彦が兵を挙げた。大彦命は笛吹連櫂子(かじこ、かじし)等を率いて建埴安彦と戦い、櫂子が放った矢は安彦の胸を射抜き賊軍は降伏した。天皇は櫂子の戦功を賞して天磐笛と笛吹連の姓を与えた。その夜天皇の御夢に、この天盤笛をもって瓊瓊杵命の神霊を祀れば国家安泰ならんとの御告げがあり、命は当社の相殿に奉祀された。崇神天皇時代以前の古社として、地誌などの古書に笛吹神社と記されているのが当社である。


両社の由緒及び、伊富利部神社の由緒に「伊冨利部の連は大和葛城山麓より尾はり田の国に国郡の主として、このあたり土器野なる地に居住し、其の祖を祭り業を行へり。時代は弥生後期古墳前期頃と学者の指摘する所なり。」と書かれた部分を総合すれば、かつての大和国高尾張邑を出て天火明命(=鏡)を奉じながら尾張国に来たのは尾張氏などではなく伊福部氏であると改めて確認されます。

今回の尾張氏の謎探索における起点となった葛木坐火雷神社と、終着点である伊福部神社の由緒により謎は完全に解けたことになります。以上より、尾張氏の祖神が天火明命、天香山命であるのは伊福部氏より取り込んだものと見て間違いないと思われます。

なお、木製の解説板に書かれた伊福部神社由緒には祭神が日本武尊とあり、石碑では天火明命を祀ったと記載されています。この問題は、既に書いたように日本武尊を彦坐王と考えれば解消します。伊福部氏は鏡(天火明命)を奉じながら彦坐王に率いられ移動しました。そうした伊福部氏のありようを考慮すれば、祭神が日本武尊(=彦坐王)と天火明命の両者であっても特に違和感はないと思われます。

さらに伊福部神社の鎮座地は海部郡内であり、彦坐王に率いられた伊福部氏に丹波の海部氏の一部が同行していたと考えれば、尾張氏は伊福部氏のみならず海部氏をも取り込んだため、「尾張国熱田太神宮縁起」に「海部氏これ尾張氏の別姓なり」との記述が現れたものと推定されます。平城宮址出土の木簡には、「尾治国海郡島里人 海連赤麻呂米6斗」と言った文面も見られます。

結論部分を先に書いてしまいましたが、伊福部神社の由緒内容を具体的に見ていきます。「この尾張国は神武天皇の御世天火明命の御子天香山命の住された国との言い伝えがあり」とある最初の部分は、あくまでも伝承との前提で、尾張国に来たのは天火明命ではなく天香山命と確認される内容となっています。

姓氏録に笛吹連(は)天火明命の後也。」の部分に関して、「新撰姓氏録」には、河内国神別(天孫) 笛吹連 火明命之後也と記載あります。他の関連する内容として、河内国神別(天孫) 吹田連 火明命児天香山命之後也と記載あります。また「先代旧事本紀」の天孫本紀には、六世孫建多乎利命は笛吹連・若犬甘連らの祖とあります。これらから、笛吹連は天火明命の後裔と確認できます。(注:既に葛木坐火雷神社で確認済み)

伊福部宿祢(は)尾張連同祖天火明命の後也と見ゆ。」の部分は、「新撰姓氏録」の「京師左京神別下 伊福部宿祢 尾張連同祖 火明命之後也」によるものと思われます。既に書いたように、伊福部氏は鏡(=天火明命)を奉じて尾張に来たものの、天皇家が初期天皇家の系図を捏造するに当たり、尾張氏に加担させたため、その見返りとして尾張氏は天皇家から天火明命を祖神とすることを許されました。伊福部氏からすれば、自分たちの奉じる天火明命が尾張氏の祖神になってしまったので尾張氏同祖として朝廷に申告せざるを得ず、「新撰姓氏録」のような内容になった、と判断されます。

次がこの碑文のハイライトとなります。「伊福は気吹の假字にて笛に因れる名あり。この大神(天火明命)神代に笛を吹くことを始め給ひし御功によりて伊福天神とも申し其御裔を伊福部氏といふ。」の部分ですね。伊福は気吹の仮字で笛にちなんだ名前とのこと。さらに天火明命が神代に笛を吹き始めたので伊福天神とも言い、その子孫が伊福部氏と言うとあります。ここで笛吹連と伊福部氏がしっかり連結されました。

さらに、碑文における「正四位下伊福部天神」の表記は式内社・伊副神社(後の社宇福寺天神社)に関して、「尾張志」が「本国帳(本国神明帳)に従三位伊副天神と記し」と記載している内容に照応しています。伊福部氏が中島郡日下部郷に来て伊副天神を祀り、その後海部郡伊福郷に至って再び伊副天神を祀ったと言う経過がこの碑文から窺えるのです。(注:この場合の天神は菅原道真ではなく、天津神の意味で伊福部氏の祖先神と考えられます)

葛木坐火雷神社の由緒やホームページでは、同社社家の持田家は笛吹連櫂子の子孫で、櫂子は天火明命の後裔であり、天香山命は笛吹連の祖となっています。伊福部神社の石碑に刻まれた由緒では、伊福は笛にちなんだ名前で、天火明命が神代に笛を吹き始めたので伊福天神とも言い、その子孫が伊福部氏でした。両社のストーリー構造は全く同一と理解されることから、葛木坐火雷神社の祭祀氏族は大和岩雄氏が主張されたように伊福部氏である可能性が高くなってきます。少なくとも伊福部氏はかつて葛木坐火雷神社と何らかの関わりがあったのでしょう。

従って、高尾張邑を含む大和葛城一帯にいた伊福部氏が近江、美濃経由尾張に到来し、その一部が海部郡伊福郷にまで南下して定着、後の時代になり伊福部神社の創建に繋がったと考えられます。この見方は、酔石亭主がこれまで追求してきた基本線に完全に沿っていることになります。

次に驚かされたのは、伊福部神社の由緒を書いているのが尾張氏の最重要神社・熱田神宮の宮司である点です。天火明命が尾張氏の祖神であるなら、その点を由緒の中心に据えて書くべきなのに、天火明命は笛吹を始めた神で伊福天神とも言って子孫が伊福部氏になるとしているのですから、完全に伊福部氏を中心に据えた書き方になっています。これは熱田神宮の角田忠行宮司自身が、尾張氏の祖神は天火明命ではないと言っているに等しい内容で、酔石亭主の視点の正しさを証明している内容と言えるでしょう。

それ以降の部分は木製の解説板にあるように、伊福郷が伊麥村に変わり、由緒ある村名が変わったのを嘆いた人々が県知事に願い出て、また伊福村に戻った経緯が書かれています。なお、神社の由緒に創建年が出ていないのですが、あま市七宝町伊福弐之割36にある東光寺の縁起によれば天平2年(730年)の創建となります。

大和葛城の伊福部氏が彦坐王に率いられ、丹波から因幡にまで赴いた後、近江、美濃を経て尾張に来たとする酔石亭主推定はこれで最終確認されたことになります。以上で大収穫のあった伊福部神社は終了です。少し話は変わりますが、平田篤胤の「古史成文」には以下のように書かれています。

故れ其の伊斯許理度賣命(いしこりとめのみこと)。亦の名天香山命は、天照國照彦火明亦の名は天糠戸の神の兒、鏡作造、水主直、六人部連、五百木部連、伊福部連、檜前舎人、竹田連、竹田川邊連、笛吹連等之祖なり。

内容はデジタル化されていますので、以下のコマ51を参照ください。
http://base1.nijl.ac.jp/iview/Frame.jsp?DB_ID=G0003917KTM&C_CODE=0026-09304&IMG_SIZE=&IMG_NO=51

「古史成文」に関しては以下Wikipediaより引用します。

『古事記』、『日本書紀』、『古語拾遺』、『風土記』などを材料とし、諸々の古典の中から伝承の異同を考察し、神代から推古天皇までの古伝を『古事記』の文体にならって補足や訂正し、平田が正説だと考える伝えを書き添えて記述する構想を練っていた。古伝に異説が多々あることを訝しく思っていた篤胤は、真の伝は必ず一つである、との見解に立ってこの『古史成文』を著した。

石凝姥命(=伊斯許理度賣命)は亦の名が天香山命で、天火明命(亦の名が天糠戸神)の子であり、鏡作造、五百木部連、伊福部連、笛吹連などの祖となります。ここには、今までに見てきた要素がほぼ全て含まれ、竹田連、竹田川邊連は竹田を一文字にすると笛になります。石凝姥命=天香山命と天糠戸神=天火明命が「古史成文」においてもほとんど伊福部氏との関連で書かれ、尾張氏の祖とされていないところがミソのように思えませんか?

本年の記事はこれで終了して、また来年も尾張氏の謎解きから始める予定です。それにしても、2014年の11月末頃から書き始め2016年に突入してしまう訳ですから、ずいぶん長い間この問題に取り組んできたことになり、感慨もひとしおと言ったところです。

                尾張氏の謎を解く その138に続く
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