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邪馬台国と大和王権の謎を解く その38


今回は出雲建雄神社の由緒を詳しく見ていきましょう。前回で既にアップしていますが、もう一度以下に記載します。

出雲建雄神は草薙の神剣の御霊に坐し、今を去ること1300余年前天武天皇朱鳥元年、布留川上の日の谷に瑞雲立ち上る中、神剣光を放ちて現れ、「今この地に天降り諸の氏人を守らん」と宣り給い、即に鎮座し給う。

天武天皇朱鳥元年は686年となります。熱田神宮の謎解きシリーズを最初から読まれた方は、すぐにこの年代の意味を理解されたことと思います。そう、天智天皇7年(668年)に発生した草薙神剣盗難事件に関係していますね。新羅僧の道行によって熱田神宮から盗み出された(とされる)草薙神剣は、新羅に持ち帰られる前に取り戻され、なぜかその後宮中預かりとなります。まあ、草薙神剣は天皇家の三種の神器の一つとされるのですから、そうなっても不思議ではありませんが…。そして686年に天武天皇が病に伏せり、これは草薙神剣の祟りによるものだとの占いが出て、同年の6月10日急遽熱田神宮に送り置かれました。

上記の話から、宮中預かりとなった草薙神剣は実際には朝廷の武器庫である石上神宮にて保管されていた(祀られていた)と理解されます。ところが剣は、686年に本来の所有者である熱田神宮に返還されてしまいました。剣を管理・保管していた物部氏や祭祀していた市川臣の子孫・布留氏からすると、自分たちが管理し祭祀していた剣の現物がなくなってしまったことになります。困った彼らは、出雲建雄神を草薙神剣の御霊として祀ることにしたと推定されます。従って、出雲建雄神社の創建は由緒内容からも理解できるように686年となるでしょう。

出雲建雄神は草薙神剣の御霊と由緒に書かれていますが、なぜか尾張とは関係ない出雲の名前が冠されています。ひょっとしたら、出雲建雄神の実態は素戔嗚尊なのかもしれず、その場合出雲の名前が冠されていても違和感はなさそうです。以前に愛知県武豊町に鎮座する武雄神社を訪問しましたが、こちらの祭神も素戔嗚尊(須佐之男命)となっていました。そもそも八岐大蛇の尾から草薙神剣を取り出したのが素戔嗚尊なので、彼が祭神であってもおかしくはありません。武雄神社の詳細は以下で以前に書いていますので、参照ください。
http://suisekiteishu.blog41.fc2.com/blog-entry-2111.html

いずれにしても、由緒内容だけでは不十分なので他の史料もチェックします。江戸時代に編纂された「大和志料」の中巻には、「飛鳥浄御原御宇天皇神主布留邑智夢布留川上立騰八重雲其雲中有神剣放光華照六合之内剣頭八龍并座明日到彼地見之有雲石八個于時神託人曰吾尾張氏女所祭之神而今天降於是保皇孫守諸民於是神宮前岡上立社祭之曰出雲武尾神亦曰天村雲神」との記述がありました。

大雑把な内容は、天武天皇の御代、布留邑智(ふるのおち)は夢で、布留川の上に八重雲が湧き立ち、その中に神剣が光り輝いているのを見た。翌日その地に至ると、八つの霊石があり、「吾は尾張氏の巫女が祀る神である。今天降って皇孫を保ち、諸民を守ろう」と告げたので、石上神宮の前の岡に社殿を建てて祀ったのが出雲武尾神でまた天村雲神とも言う。と言ったところです。大和志料はデジタル化されており、以下のコマ番号127を参照ください。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1143230

出雲武尾神でまた天村雲神(=草薙神剣)とも言う、との書き方からも、素戔嗚尊と草薙神剣の両者の存在が見えてきそうです。さて、由緒に登場する尾張氏の巫女は宮簀姫命を意味しています。以前に宮簀姫命は宮主姫命で固有名詞ではなく巫女を意味する普通名詞と書いた記憶がありますが、それは上記からも確認されます。以上の検討から、出雲建雄神社の創建は尾張の熱田神宮(当時の熱田社)に送り置かれた草薙神剣に関係していると見て間違いありません。

出雲建雄神社の由緒や「大和志料」の記事によると、布留川の上流に日の谷があり、ここに八つの霊石があるとのこと。同社創建の元になった場所がどこにあるのか知りたいと思い、天理市観光協会のホームページを見ると、以下の記述がありました。

長滝町の林道の山深い布留川の源流となるところに、大きな岩があります。この岩は「八つ岩」といわれ、石上神宮の奥の宮として崇められています。その言い伝えによると・・・ 「むかし、出雲の国のひの川に住んでいた八岐の大蛇は、一つの身に八つの頭と尾とをもっていた。素戔鳴尊がこれを八段に切断して、八つ身に八つ頭が取りつき、八つの小蛇となって天へ登り、水雷神と化した。そして、天のむら雲の神剣に従って大和の国の布留川の川上にある日の谷に臨み、八大竜王となった。今、そこを八つ岩という。
天武天皇のとき、布留の物部邑智という神主があった。ある夜、夢を見た。八つの竜が八つの頭を出して一つの神剣を守って、出雲の国から八重雲にのって光を放ちつつ布留山の奥へ飛んできて山の中に落ちた。邑智は、夢に教えられた場所に来ると、一つの岩を中心にして神剣が刺してあり、八つ岩は、はじけていた。そして一人の神女が現れて、『神剣を布留社の高庭にお祀りください』という。そこで、布留社の南に神殿を建て祀ったのが、今の出雲建雄神社(若宮)である。」といういわれが残っています。

天理市観光協会のホームページは以下を参照ください。
http://kanko-tenri.jp/meguru_tenri/05_yatuiwa.html

ホームページには八つ岩の写真と位置まで示してあり、大変参考になります。ただ、山の奥深くにあるので、現場に行くのはかなり難しそうな雰囲気です。なお、八つの霊石だの八大竜王だの、八や竜に関係した記述が多くなっています。八つ岩の近くには水神を祀る龍王社もありました。龍王社(奥宮)、出雲建雄神社(若宮)、石上神宮(本宮)の関係が成り立ちそうに思えます。

草薙神剣盗難事件の後日譚となる形で熱田神宮境内にも八剣宮(708年の創建)が鎮座しており、同じ「八」に関連性が窺えます。八剣宮の創建はまた同じような盗難事件が起きないようにするため、新たな宝剣を造ってどれが本物かわからないようにしたとの説もありますが、出雲建雄神社創建とその由緒内容に影響を受けた可能性も否定できません。

ところで、布留邑智とはどんな人物なのでしょう?石上神宮の配祭神でもある市川臣命は、第5代孝昭天皇の皇子天足彦国押人命(あめたらしひこくにおしひとのみこと)の7世代目子孫となる米餅搗大使主命(たがねつきのおおおみ)の子とされています。

垂仁天皇の時代に石上神宮に奉仕したとされる市川臣は和珥氏の支族となる春日氏の一族で、物部首の始祖になります。「日本書紀」の天武天皇12年(683年)9月2日条には、物部首は姓を連に改めたとあります。「新撰姓氏録」によれば、物部首の男正五位上日向が天武天皇のときに社地の名によって布留宿禰姓に改めた、とのこと。この日向の三世孫が石上神宮神主の布留邑智となります。非常にややこしいのですが、布留邑智は和爾氏系春日臣市川の系統であり、一時的に物部首、物部連など物部を冠した姓に変わったものの、物部氏とは別系統であると理解されます。

頭が混乱しそうなので、この辺の事情は無視しても構わないでしょう。ただ、石上神宮は物部氏の神社だと理解していたのに、実際には二つの系統が存在することになります。この問題に関しては、市川臣の系統が石上神宮の祭祀を担当し、物部氏は武器・宝物の管理を担当していたといった具合に機能分担で考えるとわかりやすいかもしれません。

さて、出雲建雄神社の由緒から何が読み取れるでしょう?草薙神剣は天智天皇7年(668年)、新羅僧道行によって盗み出され、18年後の天武天皇朱鳥元年(686年)に朝廷より熱田神宮に送り置かれた(返還された)とされています。

けれども、一旦取り上げたものを返すのでは、朝廷としてのメンツが立ちません。朝廷はメンツを保つため返還の条件を尾張氏と協議したのではないでしょうか?その結果編み出されたのが草薙神剣盗難事件です。草薙神剣が誰かに盗まれ、取り返された剣を一旦宮中で保管し返還した形にすれば、朝廷のメンツは保たれます。そうした事情から道行の草薙神剣盗難事件が造作された。そう、道行の盗難事件は朝廷と尾張の合作による捏造だったのです。これにより両者共メンツを潰すことなく事態の決着が図れたことになります。

ここで割を食ったのが石上神宮です。石上神宮は朝廷の武器庫であり、物部氏がその管理に当たり、布留宿禰が祭祀を司っていました。朝廷が尾張氏から取り上げた草薙神剣は石上神宮が保管し、その祭祀は布留宿禰が担っていたのでしょう。折角三種の神器の一つである草薙神剣を自分たちの管理下・祭祀下に置いたのに、朝廷と尾張氏の話し合いにより自分たちの手から離れてしまう結果となってしまったのです。

困った布留邑智は上記したような伝説を作り上げるしかありませんでした。出雲建雄神社の創建は、神剣が尾張氏に返され現物がなくなったので、布留邑智が新たな伝説を造作し、草薙神剣の神霊を出雲建雄神の名で祀ったことに起因していたのです。これは、神社の創建由緒がどのように作られたのか推定できる良い例となります。草薙神剣盗難事件に関しては熱田神宮の謎解きシリーズと今回の記事で取り上げましたが、別の機会にも詳細を検討してみたいと思います。

         邪馬台国と大和王権の謎を探る その39に続く


邪馬台国と大和王権の謎を解く その37


今回石上神宮の摂社となる出雲建雄神社を見ていきます。酔石亭主の問題意識では、石上神宮よりこの境内社の方が重要となってきます。それを証するかのように、同社の拝殿(割拝殿)は国宝となっていました。また同社は、石上神宮同様、延喜式にも記載される式内社でもあります。鎮座地にも特徴があります。同社は石上神宮の拝殿、楼門に向き合う位置にあり、しかも一段と高い場所に鎮座しているのです。石上神宮の本宮よりも重要かもしれない出雲建雄神社をチェックするため、早速行ってみましょう。

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石段の下から撮影。建物は出雲建雄神社の割拝殿です。

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石段を上がって石上神宮の楼門を撮影。

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楼門と回廊、拝殿、本殿が見下ろせます。

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さらに石段を上がった場所に鎮座する出雲建雄神社です。

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出雲建雄神社。本殿は一間社春日造でそれほど大きくありません。

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割拝殿(わりはいでん)です。

出雲建雄神社の手前に建っている国宝の割拝殿です。桁行五間、梁間一間で中央に馬道(めどう)と呼ばれる土間があり、通り抜けられるようになっています。鎌倉時代後期の正安2年(1300年)の建築とされています。


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正面から撮影。

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解説板です。内容を以下に書き出します。

摂社 出雲建雄神社(いずもたけおじんじゃ)式内社
祭神 出雲建雄神
由緒 出雲建雄神は草薙の神剣の御霊に坐し、今を去ること1300余年前天武天皇朱鳥元年、布留川上の日の谷に瑞雲立ち上る中、神剣光を放ちて現れ、「今この地に天降り諸の氏人を守らん」と宣り給い、即に鎮座し給う。

これだけではよくわかりません。次回で詳しく検討してみましょう。

        邪馬台国と大和王権の謎を解く その38に続く

邪馬台国と大和王権の謎を解く その36


今回は石上神宮の重要な宝物である七支刀に関して見ていきます。この異形な刀に関する詳細は石上神宮ホームページを参照ください。
http://www.isonokami.jp/about/c4_2.html

刀の表面には以下の記載があります。
□四年(□□)月十六日丙午正陽造百練釦七支刀□辟百兵供供侯王□□□□作

泰和四年での判読は以下Wikipediaより引用します。

太和(泰和)四年五月十六日丙午の日の正陽の時刻に百たび練った□の七支刀を造った。この刀は出でては百兵を避けることが出来る。まことに恭恭たる侯王が佩びるに宜しい。永年にわたり大吉祥であれ。

上記のように年代は泰和四年と読めるので、今までの検討から西晋の泰始4年(268年)ではなく、369年の話になります。裏面には以下の記載があります。
先世以来未有此刀百済□世□奇生聖音故爲倭王旨造□□□世

この判読もWikipediaより引用します。

先世以来、未だこのような(形の、また、それ故にも百兵を避けることの出来る呪力が強い)刀は、百済には無かった。百済王と世子は生を聖なる晋の皇帝に寄せることとした。それ故に、東晋皇帝が百済王に賜われた「旨」を倭王とも共有しようとこの刀を「造」った。後世にも永くこの刀(とこれに秘められた東晋皇帝の旨)を伝え示されんことを。

わかりにくい判読ですね。さて、「日本書紀」には神功皇后摂政52年に七枝刀一口、七子鏡一面、及び種種の重宝を献る。との記事があり、この実年代は372年となります。また百済王とは、「日本書紀」の神功皇后摂政55年に百済の肖古王薨せぬ。とあることから肖古王であり、具体的には百済の第13代とされる近肖古王(きんしょうこおう、在位は346年~375年)であると確認されます。

問題は「倭王旨」の解釈ですが、上記の判読とは異なる視点で考えます。文脈からすると旨は倭王の名前と考えられ、「旨」と言う名前の王がいたのではないかと思われます。その前提において、七支刀の裏面の記述と「日本書紀」の神功皇后摂政52年の記述を重ね合わせれば、倭王の旨は神功皇后を意味すると考えるしかありません。一定の前提付きですが、以上で「日本書紀」の編纂者は4世紀後半に実在していた「旨」を神功皇后に充てたと確認されました。

問題は旨なる人物の実像です。神功皇后に関連する七支刀について、福岡県みやま市瀬高町太神字長島に「こうやの宮(高野の宮)」と言う小さな社があり、この宮の名前は磯上物部神社とのことです。驚いたことに「こうやの宮」には七支刀を持った人物の像がありました。詳細は以下のホームページを参照ください。
http://jyashin.net/evilshrine/gods/tsuchigumo_shrine/tsuchigumo_trip_chikugo_0106.html

物部氏が管理する石上神宮(いそのかみじんぐう)と磯上物部神社(いそのかみもののべじんじゃ)。明らかに名前は共通しています。九州王朝説論者は「こうやの宮」は築後一宮の高良大社と関係し、その祭神である玉垂命が倭王旨に当たるとの見解を持っているようです。この説が正しいと仮定すれば、卑弥呼と台与に充てられた部分を除く神功皇后の実像は、倭王旨であり玉垂命であるとなります。

こんな漢字一文字の人物が倭の王なのか疑問もありますが、中国の史書にある倭の五王は讃、珍、済、興、武で全て一文字となっています。九州の人物である神功皇后の実像が倭王旨であり玉垂命であれば、同じ漢字一文字で表記される倭の五王もまた九州の人物になる可能性が高そうです。一般的な説では、讃が履中天皇、珍が反正天皇、済が允恭天皇、興が安康天皇、武が雄略天皇となりますが、正しいとする確証はありません。

古田武彦氏に代表される九州王朝説によれば、7世紀末までの日本の中心は九州の倭国で、8世紀からは近畿天皇家の日本国が中心になったとのことです。図書館で同氏の著作「古代史をゆるがす」(ミネルヴァ書房)が目に留まったので読んでみたのですが、あれこれ細かな事例を提起して上記の説の論証をしておられました。酔石亭主の理解力では何とも言いようがありません。ただ、同氏の主張には盲点がありそうです。

それが古墳の規模です。細かな点はさて置いて、巨大古墳が築造された場所にはその規模に見合うような政治権力が存在していたのは間違いありません。200mから400m規模の巨大古墳の築造には途方もない労力や財力の投入が必要で、それを担えるのは大王級の人物しかいないのです。そうした古墳が3世紀末頃から5世紀にかけて継続的に築造されている以上、この時代における日本の中心勢力は大和にあったと考えるしかなさそうです。

倭の五王が北九州の王だったとして、その年代は5世紀のほぼ全体に亘っています。彼らが北九州にいて日本を代表する政権だったと仮定したら、その墓は少なくとも200m超級のものでなければなりません。ところが、5世紀における北九州の古墳は100m級までとなっています。これに対し畿内の古墳はどうなっているでしょう?5世紀の畿内には300mから400m級の超大型古墳が存在しています。年代は別として200m級以上で見ると、およそ30基もの古墳が畿内とその周辺に集中しています。

これほどの古墳を築くことが可能な大王は強大な財力、権力、労働力の動員力を持っているはずです。北九州に倭国の五王がいた時代、畿内にはその数倍の力を有する大王がいたことになります。そこから何が導き出されるでしょう?

そう、倭の五王は北九州の地方政権に過ぎないものの、地理的な優位性から頻繁に中国に朝貢しており、中国側の史書に記載されたのです。畿内の情勢が中国に伝わらなかったのは、情報伝達を担うべき北九州の各王が、自分たちの利権を守るため遮断したからだと思われます。時代を下った6世紀前半においても、磐井の乱で対立した継体天皇の今城塚古墳の墳丘長が190mに対して、磐井の岩戸山古墳は130mで、これが北九州最大の古墳となっています。

古田氏は「失われた九州王朝」(ミネルヴァ書房)において、近畿大和の小国であった天皇家は、「倭国」を併合した。とか、天皇陵の規模で近畿が中心と考えるのは難点があり、各地に天皇陵以上の巨大規模を持つものがあって、吉備の造山古墳は350mもあるから規模は基準にならないとしていますが、こうした議論には無理があります。逆に吉備には一時的であるにせよ、北九州以上の政治権力が存在したと見るべきです。このためかどうかは知りませんが、邪馬台国吉備説まで唱える研究者もおられます。

ただ、近畿が支配者でその他の地域が被支配者と言う発想も正しいものとは思えず、要するに4世紀初めから6世紀前半における古墳の規模を考慮した場合、畿内勢力が日本における最大勢力であったとしか言えないはずです。

3世紀の北九州は「魏志倭人伝」に詳しく書かれています。ところが4世紀になると事情は一変します。一般的に4世紀は「空白の4世紀」と称されています。理由は、中国の文献において266年から413年にかけての倭国に関する記述が全くなく、大和王権の成立やその推移が不明であることによります。これは台与の東遷に象徴されるように、3世紀後半に北九州の主力が大和に遷したため、北九州が一種の空洞状態となり、中国側に日本の情報がほとんど入らなくなったことによると考えられます。

3世紀の終わりから4世紀前半の大和は、実態はともかく、崇神天皇、垂仁天皇、景行天皇などの時代で200m級の大型古墳が多く見られ、政権の中枢は畿内に移ったと理解されます。北九州における空洞状態はしばらく続きますが、4世紀後半の380年代になって倭王旨(記紀では神功皇后)が登場し、存在感が増してきます。その流れに乗った形で5世紀には倭の五王(北九州の王)が出てきました。従って、五世紀頃畿内において超巨大古墳が築造されたにもかかわらず、朝貢を繰り返した北九州の五王の名前が中国側の史書に記載されたと推定されるのです。

このように考えれば、空白の4世紀の意味や、中国側の史書に倭の五王が記載されているにもかかわらず、5世紀における北九州の古墳が小さいと言った矛盾が解消されることになります。以上から、神功皇后に充てられる倭王旨とは、3世紀の終わりから4世紀にかけて権力が畿内に移り空洞化した北九州の政権が、一定の実権を回復してきた最初の人物と位置付けることができます。

これに続く5人の倭王は北九州の王となるので、記紀に記された大和王権の各天皇に当てはめることはできません。九州倭国或いは九州王朝(この表現が適当かどうかは何とも言えません)は大和王権の支配下にあった訳ではなく、やや小規模ながら九州地方における独立した政権と言えそうです。従って、九州王朝と言った表記は適切ではなく、北九州勢力とでも言うのが妥当でしょう。畿内においても4世紀前半以降万系一世の天皇家による大和朝廷がずっと続いていたなどあり得ない話で、様々な王が立って支配的な立場にいたと考えられます。

以上の検討から、石上神宮の宝物となっている七支刀とは、倭王旨が百済から受け取り、九州の物部氏により保管されていたものが、いつの時代にか大和の石上神宮に移されて、祀られたものと言うことになります。移された時代は多分6世紀頃と思われますが、この問題は別の機会にでも検討してみます。

なお、古田武彦氏が唱えた九州王朝説は非常に面白く興味深いものがあります。主要な著作には一応目を通してもいます。けれども、この問題を目的として九州に訪問していない以上、深入りすることはできません。機会があれば現地訪問の上、詳しく検証してみたいとは思っています。

          邪馬台国と大和王権の謎を解く その37に続く




邪馬台国と大和王権の謎を解く その35


今回は天璽十種神宝の御霊威である布留御魂大神から見ていきます。天璽十種神宝は「先代旧事本紀」の天孫本紀に出てくるもので、ニギハヤヒが天降りする際に、天神御祖から授けられた十種のお宝です。具体的には、沖津鏡(おきつかがみ)、辺津鏡(へつかがみ)、八握剣(やつかのつるぎ)、生玉(いくたま)、死返玉(まかるかへしのたま)、足玉(たるたま)、道返玉(ちかへしのたま)、蛇比礼(へびのひれ)、蜂比礼(はちのひれ)、品物之比礼(くさぐさのもののひれ)となります。

これらの宝物はニギハヤヒの子・宇摩志麻治命が天皇に奉り、永く宮中で奉斎されていましたが、布都御魂剣と同様崇神天皇7年に物部氏の祖、伊香色雄命により石上布留高庭(いそのかみふるのたかにわ)、すなわち石上神宮の現鎮座地に遷し祀られました。石上神宮は天皇家の武器・宝物の収蔵庫であると理解され、その管理と祭祀に物部氏と市川臣の子孫が関与していることになります。

以上で、主祭神となる布都御魂大神(ふつのみたまのおおかみ)、配祭神となる布留御魂大神(ふるのみたま)、布都斯魂大神(ふつしみたま)、宇摩志麻治命、市川臣命の検討が終わりました。

次に五十瓊敷命(いにしきのみこと)を見ていきます。「日本書紀」の垂仁天皇39年条冬10月には、五十瓊敷命(いにしきのみこと、垂仁天皇の皇子で景行天皇の兄)が、茅渟(ちぬ)の菟砥(うと、大阪府泉佐野市日根野)の川上宮にいて剣一千口を造り、石上神宮に納めた。この後、石上神宮の神宝を掌られた。とあります。続いて87年条には、五十瓊敷命が妹の大中姫に、自分は年を取ったので神宝の管理ができなくなった。これからお前が管理せよと話した。けれども姫は辞退し、物部十千根(もののべのとちね)大連に管理を任せたので、物部連が今に至るまで石上神宮において神宝の管理をしているのは、この間の事情が元になっている。とあります。

垂仁天皇39年条冬10月の一に云はくでは、五十瓊敷皇子が一千口の大刀を、忍坂邑(現在の桜井市忍阪)に納め、その後に忍坂より移して、石上神宮に納めた。この時に、神が乞して、「春日臣の族、名は市河をして治めしめよ」とおっしゃったので、市河に命じて治めさせた。これが今の物部首が始祖である。とあります。彼の子孫は布留宿禰と称し、祭主である物部連に副って永く祭祀に奉仕したとのことです。

時代をさらに下ります。天武天皇3年(674年)には、天皇が忍壁皇子(刑部親王)を派遣して神宝を磨かせ、諸家の宝物は皆その子孫に返還したとあります。ところが「日本後紀」によると、桓武天皇の延暦23年(804年)二月庚戌条に、代々の天皇が武器を納めてきた神宮の兵仗を山城国・葛野郡に移した際、人員延べ十五万七千余人を要したとあります。

天武天皇の時代に子孫に返還したはずの神宝ですが、実際は返還しなかったのでしょうか?それとも返還以降また大量の武器が石上神宮に納められたのでしょうか?天武天皇が返還させたのは神宝とあるので、宝物類で武器ではなかったのかもしれません。

桓武天皇の804年、武器類を葛野郡に移した後、倉がひとりでに倒れ、次に兵庫寮に納めましたが、桓武天皇も病気になり、怪異が次々と起こります。怪異を鎮めるため石上神宮の女巫に鎮魂を命じますが、なぜか女巫は一晩中怒り狂います。遂には多数の僧侶を招集して読経させ、神宝は元に戻したとのことです。

配祭神となる白河天皇は第72代天皇で、石上神宮に対する崇敬が厚く、永保元年8月(1081年)鎮魂祭のために、宮中の神嘉殿を遷して神門を改め拝殿を造営したとされます。同年9月、参議源俊明を派遣し、奉幣走馬十列を献って同社の祭祀を執行させたとのこと。

主祭神と配祭神の検討は以上です。上記以外にも、履中天皇が皇太子の時、住吉仲皇子の反乱を受け、難波宮から石上振神宮に避難されています。雄略天皇3年には阿閇臣国見(あへのおみくにみ)が、石上神宮に逃げ込んでいます。具体的には、雄略天皇の皇女で斎宮の栲幡姫皇女が湯人の盧城部連武彦の子供を妊娠したと阿閇臣国見讒言し、栲幡姫皇女は無実を訴えて自殺。阿閇臣国見は讒言の偽りが発覚した後、石上神宮に逃げ込んだとのこと。

阿閇臣国見は尾張氏の謎解きでも少し書いた記憶があります。石上神宮は悪事を働いた人物を匿ったのでしょうか?石上神宮は駆け込み寺ならぬ駆け込み神社ですね。いずれにしても、石上神宮が治外法権的な力を持っていたと理解される記事ではあります。

        邪馬台国と大和王権の謎を解く その36に続く

邪馬台国と大和王権の謎を解く その34


今回の「邪馬台国と大和王権の謎を解く」シリーズを書き進めるにあたり、物部氏の存在は無視できないレベルに達していました。そうした物部氏にとって、石上神宮はどのような存在だったのか興味深いものがあります。物部氏にとって最も重要な石上神宮。きっと面白い謎が詰まっているはずなので、早速検討を始めましょう。

石上神宮のホームページは以下を参照ください。基本情報はこれを見るだけでほぼ十分なほど立派なものとなっています。
http://www.isonokami.jp/

まず同社の祭神を以下に記載します。

主祭神:布都御魂大神(ふつのみたまのおおかみ)=神武天皇東征の際に、天皇を危機から救った布都御魂剣(ふつのみたまのつるぎ)の御魂。

配祭神:
布留御魂大神(ふるのみたま)=天璽十種神宝の御霊威。
布都斯魂大神(ふつしみたま)=素盞嗚尊が八岐大蛇を斬った天羽々斬剣(あめのはばきりのつるぎ)の御霊威。
宇摩志麻治命(うましまじのみこと)、五十瓊敷命(いにしきのみこと)、白河天皇、
市川臣命(いちかわおみのみこと)=天足彦国押人命(孝昭天皇皇子)の後裔で、当社社家の祖となる人物。

上記の祭神にはそれぞれ別個のストーリーがあるので、順に見ていきます。まず布都御魂大神(布都御魂剣)です。

「日本書紀」の神代上第五段に、伊弉諾尊が十握剣(とつかのつるぎ)でカグツチを斬って滴り落ちた血が五百個磐石となり、これが経津主神の祖と書かれています。神代上第九段には武甕槌神と経津主が十握剣で葦原中国を平定した話があります。

神代から時代は下り神武天皇の即位前紀戌牛六月になります。この年に神武天皇は東征し、熊野において天皇の軍勢が毒気に当てられ機能を停止します。そのとき熊野の高倉下(たかくらじ)の夢に天照大神、武甕雷神が現れ、武甕雷神は高倉下に対し韴霊(ふつのみたま、布都御魂剣)の剣を天孫(神武天皇)に渡すよう語ります。

高倉下が剣を天皇に渡すと、軍勢は復活し進軍を続けることができました。「先代旧事本紀」の天孫本紀によれば、高倉下はニギハヤヒの子で、天香語山命のまたの名が高倉下命となっています。天香語山命は尾張氏の祖であり、高倉下は既に書いたように物部氏の可能性が濃厚な人物です。同じ人物(神)が尾張氏側から見ると天香語山命で、物部氏側から見ると高倉下で物部氏の可能性が高い。どうしてこんなことが起きるのでしょう。酔石亭主の推定は以下の通りです。

以前にも書いていますが、尾張においては尾張南部に勢力を持つ尾張氏がいて、その北側は物部氏の支配地となっています。例えば、熱田神宮の北側の名古屋市熱田区高蔵町9-9には高座結御子神社が鎮座し祭神は高倉下となっています。この場所には高蔵遺跡があり遠賀川式土器が出土しました。九州の遠賀川流域一帯は物部氏の支配地で、大倉主命(=高倉下)を祀る神社が鎮座しています。高蔵遺跡における遠賀川式土器の出土は、後代、遠賀川流域の物部氏(実態はプレ物部氏)が瀬戸内海を渡り、紀伊半島を回って伊勢湾に入った流れの原点となりました。この流れから判断しても高倉下は物部氏系と思われます。

熱田神宮の北西には断夫山古墳がありこれは尾張氏の古墳と推定され、被葬者は尾張草香との説があります。尾張草香は継体天皇の最初の妃・目子媛(めのこひめ)の父親で、安閑・宣化両天皇の外祖父に当たります。名前からして尾張草香は尾張氏となりそうですが、草香の名前は物部氏に関係してきます。例えば、名古屋市千種区には高牟神社が鎮座し、一帯は物部氏の集落で、鎮座地には彼らの武器庫があったとされ、常世の草香島と称されていました。九州を出たニギハヤヒは大阪湾の奥深く、生駒山山麓の日下の入江である河内国草香邑青雲白肩之津に上陸しました。このように草香(日下)は物部氏と関係する地名です。

また、目子媛の墓とされる味美二子山古墳の墳丘上には物部神社が鎮座していたとのことです。以上から、尾張草香と目子媛は、尾張氏と物部氏のどちらでもあり得る人物に見えてしまいます。言い換えると、尾張においては人物Aが尾張氏と物部氏の両面性を持っているのです。これは例えば、人物Aが尾張氏から物部氏に婿入りした、或いは物部氏から尾張氏に婿入りした人物であると考えれば理解可能です。

人物Aは尾張氏側から見たら尾張氏であり、物部氏側から見たら物部氏となるのです。尾張においては尾張氏と物部氏の領域が隣接していたから、そうしたことが可能になったとも言えるでしょう。ただ、天香語山命は尾張氏へと続いていきますが、高倉下の場合は後裔が記録されておらず、ある時点で尾張にいた物部氏が尾張氏に婿入りした可能性の方が高そうです。尾張においては物部氏より尾張氏の方が強い勢力を持っていたので、それも当然ですね。

ちなみに、物部氏の祖神となるニギハヤヒは天照国照彦天火明櫛玉饒速日命と言う長い諡号(しごう)の持ち主です。「先代旧事本紀」は物部氏の祖・ニギハヤヒ(=大物主神)と尾張氏の祖・火明命を同一神としていますが、この場合も尾張氏と物部氏の両面性で見るべきなのでしょうか?多分違うと思われます。

火明命は尾張氏の謎解きで書いたように、その実態はニギハヤヒが天祖から授かり持ち運んだ鏡であり、ニギハヤヒと火明命は不離一体の関係を持つことから、同一神と見做されたのでしょう。崇神天皇の御代に天照大神(鏡)を宮中から外に出す際、別の鏡を作ることになったのですが、鏡作坐天照御魂神社の社伝によれば、その時に試鋳した鏡を天照国照彦火明命(あまてるくにてるひこほあかり)と称えて祀ったとのことで、ここからも火明命は鏡であると確認されます。

そして、天皇家の祖神・天照大神も「その31」で書いたように鏡でした。ニギハヤヒ(=大物主神)もまた太陽信仰に関係し、男神・天照大神との説があります。それは大物主神を祀る三輪山が古代における太陽信仰の中心であることからも確認されます。そう、ニギハヤヒ(大物主神)、火明命、天照大神はいずれも太陽信仰と鏡に深く関係しているので、ニギハヤヒと火明命は同一神と見做され、このことにより物部氏と尾張氏は天皇家から重んじられたのです。

話がそれたので元に戻します。石上神宮の社伝によれば、その後十握剣(布都御魂剣)はニギハヤヒの子で物部氏の祖となる宇摩志麻治命(うましまじのみこと)により宮中で祀られ、崇神天皇7年、勅命により物部氏の伊香色雄命(いかがしこおのみこと)が現鎮座地に遷し、「石上大神」として祀り、石上神宮の創建となります。

神代から神武天皇、崇神天皇と続いた上で石上神宮の創建となるのですから、いかに同社が古い由緒を持つ神社であるかよく理解されます。また配祭神の一柱となる宇摩志麻治命もここで登場しています。

続いて、布都斯魂大神(天羽々斬剣)を見ていきます。「日本書紀」の神代上第八段には、素盞嗚尊が八岐大蛇を退治した剣(十握剣)は、名づけて蛇の麁正(おろちのあらまさ)と言い、これは今、石上宮(いそのかみのみや)にある。と書かれています。「また尾を切ったとき刃が少し欠けたので尾を割いて見ると、尾の中に剣があり、これが草薙剣で尾張国の吾湯市村(あゆちむら)にあり、熱田の祝部の祀る神だと書かれています。

素盞嗚尊が八岐大蛇を斬った十握剣はどのような経緯で石上神宮に遷され、祀られたのでしょう?岡山県赤磐市に鎮座する石上布都魂神社の由緒によれば、同社から石上神宮に遷されたとのことです。「日本書紀」の神代上第八段には、一書に曰くで、その素盞嗚命の蛇を断りたまへる剣は、今吉備の神部(かんとものを)の許に在り、と書かれており、吉備の神部が石上布都魂神社に相当すると思われます。石上布都魂神社に関しては以下のWikipedia記事を参照ください。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E4%B8%8A%E5%B8%83%E9%83%BD%E9%AD%82%E7%A5%9E%E7%A4%BE

この十握剣(布都斯魂大神)は石上布都魂神社に祀られていましたが、仁徳天皇の御代、霊夢のお告げにより和珥氏系春日臣の族である市川臣命が石上神宮の高庭に遷し、布都御魂大神の東に埋祭したとされます。また、このことは石上神宮の社伝にも記されているとのことです。配祭神の一柱である市川臣命がここで登場してきました。

素盞嗚尊が八岐大蛇を斬った十握剣=布都斯魂剣が石上布都魂神社にあったとの話はやや混乱させられます。理由は十握剣=布都斯魂剣が同社においては布都魂剣と称せられていたからです。Wikiによれば、明治時代までは、素盞嗚尊が八岐大蛇を斬ったときの剣である布都御魂と伝えられていた。明治3年(1870年)の『神社明細帳』では神話の記述に従って十握剣と書かれている。とのことです。名前に捉われず、素盞嗚尊が八岐大蛇を斬った十握剣(十握りもある長い剣)は、その後石上布都魂神社に遷され、最終的に石上神宮にて祀られたと理解すればいいでしょう。

        邪馬台国と大和王権の謎を解く その35に続く
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