邪馬台国と大和王権の謎を探る その41


石上神宮の参道近くの神宮外苑公園には神田神社(こうだじんじゃ)が鎮座しています。祭神は高倉下命で、神武東征において熊野で神武軍が危機に陥った際、石上神宮の主祭神となっている布都御魂神(布都御魂剣)を天皇に献上したのが高倉下となります。当初の鎮座地は天理市三島町の鎮座で、平成になってから現社地に遷座したとのこと。かつては旧社地に神饌田があって、ここで収穫された神米を祭祀に用いていたようです。いずれにしても、高倉下がここで祀られているのは物部氏との関連と理解していいでしょう。


神田神社の位置を示すグーグル地図画像。

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神田神社の案内柱。

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社殿です。

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社伝の手前に岩が置かれていました。烏帽子石と刻まれています。

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烏帽子石。陽石のようにも見えます。

「先代旧事本紀」の天孫本紀によれば、高倉下はニギハヤヒの子である天香山命の別名となっています。布都御魂剣と物部氏の祖であるニギハヤヒの子に当たる人物が、物部氏に所縁のある場所で祀られているのは当然ですね。

続いて天理市一帯の古墳などを簡単に見ていきます。天理教会本部施設が布留遺跡の上にある点は既に見てきたとおりです。この遺跡は旧石器時代から始まっており、布留川に沿って東西南北2㎞に及ぶ大きな遺跡となっています。この遺跡を挟むように、布留遺跡の南側に杣之内(そまのうち)古墳群があり、北側には石上・豊田古墳群があります。既に見てきた夜都伎神社に関しても、杣之内古墳群に含まれる古墳の上に鎮座しているようです。杣之内古墳群の盟主とも言えそうな古墳が古墳時代前期(4世紀)に築造された西山古墳と小半坊塚古墳です。西山古墳は夜都伎神社に行く途中に見ることができます。


西山古墳の位置を示すグーグル地図画像。

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西山古墳です。

全長183mの前方後方墳です。前方後方墳としては日本最大で物部氏の墓と推定されています。もう一歩で大王墓級の規模に達しますので、物部氏の墓とみて間違いなさそうですが、確定的なことは言えません。詳細は以下のWikipedia記事を参照ください。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%B1%B1%E5%8F%A4%E5%A2%B3

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西山古墳をもう一枚。

解説板もありましたが、錆びており読めません。西山古墳の南にも幾つかの古墳が存在しています。


西乗鞍古墳と東乗鞍古墳の位置を示すグーグル地図画像。

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西山古墳の南にある西乗鞍古墳と東乗鞍古墳。

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西乗鞍古墳の解説板。

全長約118m、古墳時代後期の前方後円墳で、5世紀末~6世紀前半頃の築造とされています。このように布留遺跡の南側に位置する杣之内古墳群(杣之内町、勾田町、乙木町一帯)は4世紀から5世紀初め築造が始まり、いったん中断して5世紀末から6世紀にかけて数多くの古墳が築造されました。どんな事情があって中断したのか知りたいところです。

布留遺跡を間に挟むようにして北側に位置する石上・豊田古墳群(石上町、別所町、豊田町一帯)は6世紀前半から半ばにかけての古墳が多いようです。石上神宮に関係するのは物部氏と市川臣系(和珥氏の系統)の布留宿禰となります。この両氏の古墳が杣之内古墳群と石上・豊田古墳群になるのでしょうか?石上・豊田古墳群のすぐ近くには和珥氏系とされる東大寺山古墳群があり、石上・豊田古墳群が市川臣系と考えれば筋が通りそうですが、そうしたことを示す具体的な資料がない以上推測に過ぎません。

以上で本シリーズは終了とします。

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邪馬台国と大和王権の謎を探る その40


今回は夜都伎神社(やとぎじんじゃ、やつぎじんじゃ)を訪問します。


夜都伎神社の位置を示すグーグル地図画像。鎮座地は天理市乙木町765。

「日本の神々」巻4夜都伎神社の項によれば、式内小社夜都伎神社の所在については、当社のほかに、天理市竹之内町明神山の十二神社、天理市田井庄町西浦の八剣神社とする説がある、とのことです。しかし、「石上振神宮略抄」には夜都留伎ノ神は今ノ田井之庄ノ八頭神殿是也とあることから、八剣神社が式内小社夜都伎神社となる可能性が高そうです。

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巨大な鳥居です。鳥居の先やや左手のこんもりした森が夜都伎神社です。

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解説板。

天理市乙木村の北方、集落からやや離れた宮山(たいこ山ともいう)に鎮座し、俗に春日神社といい、春日の四神を祀る。乙木には、もと夜都伎神社と春日神社の2社があったが、夜都伎神社の社地を竹之内の三間塚池と交換して春日神社一社にし、社名のみを変えたのが現在の夜都伎神社である。当社は、昔から奈良春日神社に縁故が深く、明治維新までは、当社から蓮の御供えと称する神饌を献供し、春日からは若宮社殿と鳥居を下げられるのが例となっていると伝える。…以下略。

元は夜都伎神社と春日神社の二社があり、夜都伎神社の社地を交換して春日神社一社だけとなったが社名は夜都伎神社を残したとのこと。随分ややこしい話になっていますが、実態は春日神社と言うことなのでしょう。祭神は武甕槌神で經津主命、比賣大神、天兒屋根命が配祀されています。

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鳥居。

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拝殿。

茅葺の拝殿が農家の家のように見えます。ちょっと珍しいですね。

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本殿。

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うまく撮影できていませんが、いい雰囲気です。

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扁額。夜登岐神社となっています。

「大和志」は乙木大明神となっており、地名の乙木=夜都伎と見ているようです。

        邪馬台国と大和王権の謎を探る その41に続く

邪馬台国と大和王権の謎を探る その39


前回で出雲建雄神社の創建は、尾張の熱田神宮にて祀られる草薙神剣に関係していると確認されました。実は天理市に八剣神社が鎮座しています。熱田神宮境内にも別宮として八剣宮が鎮座しています。だとすれば、天理市の八剣神社も尾張との関係が推測されるのでチェックしてみたいと思います。鎮座地は天理駅の西側になります。


八剣神社の位置を示すグーグル地図画像。鎮座地は奈良県天理市田井庄町273。

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八剣神社の鳥居。

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拝殿。

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本殿。

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解説板。内容は以下の通りです。

神代のむかし素盞男尊八岐大蛇を退治したまいき。大蛇は身を変え天に昇り神剱となって布留川の上流八箇岩に天降りしを水雷神とあがめ貞観年間にこの地に氏神として斎られた。 もと村社で五穀豊穣、邪霊退散、招福の守護神として尊信されている。

素戔嗚尊に退治された八岐大蛇が草薙神剣となって、布留川上流の八箇岩に天降ったと書かれています。貞観年間は859年から877年までの期間となります。「大和志料」中巻には、草薙神剣に関係して「布留川の上に八重雲が湧き立ち、その中に神剣が光り輝いているのを見た。翌日その地に至ると、八つの霊石があり、」との出雲建雄神社に関係する記述がありました。八剣神社由緒の布留川上流の八箇岩と、出雲建雄神社由緒に見られる布留川の上の八つの霊石は同じものと考えられ、従って八剣神社の祭神である八剣神も草薙神剣(の御霊)を意味していると確認されます。

「日本の神々」巻4の八剣神社の項には「石上振神宮略抄」の内容が以下のように引用されていました。

夜都留伎ノ神ハ八岐大神ノ変身ニテ、神体ハ八ノ此札、小刀子ナリ、乃チ八剣ノ神ト申ス  神代ノ昔、出雲ノ簸谷ノ八岐大蛇ハ一身ニテ八岐アリ、尊(素戔嗚尊)剣ヲ抜テ八段二切断シ給シカ、八ツ身二八ツ頭カ取付八ツノ小蛇トナリテ天ヘ昇リテ水雷神ト化為テ聚雲ノ神剣二扈従シテ、当国布留河上ノ日ノ谷(都祁郷属)二臨幸アリテ鎮座ス 八龍王八箇石是也、貞観年中(859年~877年)ニ吉田連カ族都祁ノ村公庸敬ガ神殿ヲ造リテ神格ヲナシテ八剣神ト申ス 今ノ田井之庄ノ八頭神殿是也

上記が八剣神社の由緒の元になっていると理解されます。大意は、夜都留伎(八剣)の神は八岐大神の変身であり、神体は八つの小刀で八剣の神と言う。神代の昔に素戔嗚尊が八岐大蛇を剣で八段に切られたが、八つの身に八つの頭が取り付き、八つの小蛇となって天に昇り水雷神となって叢雲の神剣に従い、当国の布留川上の都祁郷に属する日の谷に降臨して鎮座した。八龍王の八個石がこれである。貞観年中(859年~877年)に吉田連の一族である都祁の村公庸敬が神殿を造り八剣神と申すのが、今の八剣神社である。

八剣神社の由緒では八岐大蛇が草薙神剣に変身し、布留川上流の八箇岩に天降りしたとあり、「石上振神宮略抄」では八つに切られた八岐大蛇が八つの小蛇になって草薙神剣に従い、布留川上流の八箇岩に天降りしたような主旨となっています。両者の内容は微妙に異なっていますね。いずれにしても、尾張の八剣宮とは話の由来が異なるので、尾張の八剣宮と八剣神社の間に直接的な関係があるとは言えません。

ただ、八剣宮は元明天皇の和銅元年(708年)に草薙神剣のコピーを新たに鋳造し創祀されたものですから、話の内容は異なるものの、その根源に草薙神剣がある点では八剣神社の由緒と一致しています。尾張の八剣宮創建に石上神宮の話が影響を及ぼしている可能性はなお残りそうに思えてきました。

由緒の最初に夜都留伎ノ神とありますが、「日本の神々 その4」(白水社)によれば、この神に比定される長滝町日の谷(火の谷)の龍王社は現在の夜都伎神社(やつぎじんじゃ)の上社的存在と考えるなら、夜都伎は本来夜都留伎であった可能性もある。とのことです。

日の谷の龍王社に関しては以下に詳しく書かれていますので、興味のある方は参照ください。
http://kamnavi.jp/as/yamanobe/nagaryuou.htm

と言うことで、次回は夜都伎神社に行ってみましょう。

       邪馬台国と大和王権の謎を探る その40に続く


邪馬台国と大和王権の謎を解く その38


今回は出雲建雄神社の由緒を詳しく見ていきましょう。前回で既にアップしていますが、もう一度以下に記載します。

出雲建雄神は草薙の神剣の御霊に坐し、今を去ること1300余年前天武天皇朱鳥元年、布留川上の日の谷に瑞雲立ち上る中、神剣光を放ちて現れ、「今この地に天降り諸の氏人を守らん」と宣り給い、即に鎮座し給う。

天武天皇朱鳥元年は686年となります。熱田神宮の謎解きシリーズを最初から読まれた方は、すぐにこの年代の意味を理解されたことと思います。そう、天智天皇7年(668年)に発生した草薙神剣盗難事件に関係していますね。新羅僧の道行によって熱田神宮から盗み出された(とされる)草薙神剣は、新羅に持ち帰られる前に取り戻され、なぜかその後宮中預かりとなります。まあ、草薙神剣は天皇家の三種の神器の一つとされるのですから、そうなっても不思議ではありませんが…。そして686年に天武天皇が病に伏せり、これは草薙神剣の祟りによるものだとの占いが出て、同年の6月10日急遽熱田神宮に送り置かれました。

上記の話から、宮中預かりとなった草薙神剣は実際には朝廷の武器庫である石上神宮にて保管されていた(祀られていた)と理解されます。ところが剣は、686年に本来の所有者である熱田神宮に返還されてしまいました。剣を管理・保管していた物部氏や祭祀していた市川臣の子孫・布留氏からすると、自分たちが管理し祭祀していた剣の現物がなくなってしまったことになります。困った彼らは、出雲建雄神を草薙神剣の御霊として祀ることにしたと推定されます。従って、出雲建雄神社の創建は由緒内容からも理解できるように686年となるでしょう。

出雲建雄神は草薙神剣の御霊と由緒に書かれていますが、なぜか尾張とは関係ない出雲の名前が冠されています。ひょっとしたら、出雲建雄神の実態は素戔嗚尊なのかもしれず、その場合出雲の名前が冠されていても違和感はなさそうです。以前に愛知県武豊町に鎮座する武雄神社を訪問しましたが、こちらの祭神も素戔嗚尊(須佐之男命)となっていました。そもそも八岐大蛇の尾から草薙神剣を取り出したのが素戔嗚尊なので、彼が祭神であってもおかしくはありません。武雄神社の詳細は以下で以前に書いていますので、参照ください。
http://suisekiteishu.blog41.fc2.com/blog-entry-2111.html

いずれにしても、由緒内容だけでは不十分なので他の史料もチェックします。江戸時代に編纂された「大和志料」の中巻には、「飛鳥浄御原御宇天皇神主布留邑智夢布留川上立騰八重雲其雲中有神剣放光華照六合之内剣頭八龍并座明日到彼地見之有雲石八個于時神託人曰吾尾張氏女所祭之神而今天降於是保皇孫守諸民於是神宮前岡上立社祭之曰出雲武尾神亦曰天村雲神」との記述がありました。

大雑把な内容は、天武天皇の御代、布留邑智(ふるのおち)は夢で、布留川の上に八重雲が湧き立ち、その中に神剣が光り輝いているのを見た。翌日その地に至ると、八つの霊石があり、「吾は尾張氏の巫女が祀る神である。今天降って皇孫を保ち、諸民を守ろう」と告げたので、石上神宮の前の岡に社殿を建てて祀ったのが出雲武尾神でまた天村雲神とも言う。と言ったところです。大和志料はデジタル化されており、以下のコマ番号127を参照ください。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1143230

出雲武尾神でまた天村雲神(=草薙神剣)とも言う、との書き方からも、素戔嗚尊と草薙神剣の両者の存在が見えてきそうです。さて、由緒に登場する尾張氏の巫女は宮簀姫命を意味しています。以前に宮簀姫命は宮主姫命で固有名詞ではなく巫女を意味する普通名詞と書いた記憶がありますが、それは上記からも確認されます。以上の検討から、出雲建雄神社の創建は尾張の熱田神宮(当時の熱田社)に送り置かれた草薙神剣に関係していると見て間違いありません。

出雲建雄神社の由緒や「大和志料」の記事によると、布留川の上流に日の谷があり、ここに八つの霊石があるとのこと。同社創建の元になった場所がどこにあるのか知りたいと思い、天理市観光協会のホームページを見ると、以下の記述がありました。

長滝町の林道の山深い布留川の源流となるところに、大きな岩があります。この岩は「八つ岩」といわれ、石上神宮の奥の宮として崇められています。その言い伝えによると・・・ 「むかし、出雲の国のひの川に住んでいた八岐の大蛇は、一つの身に八つの頭と尾とをもっていた。素戔鳴尊がこれを八段に切断して、八つ身に八つ頭が取りつき、八つの小蛇となって天へ登り、水雷神と化した。そして、天のむら雲の神剣に従って大和の国の布留川の川上にある日の谷に臨み、八大竜王となった。今、そこを八つ岩という。
天武天皇のとき、布留の物部邑智という神主があった。ある夜、夢を見た。八つの竜が八つの頭を出して一つの神剣を守って、出雲の国から八重雲にのって光を放ちつつ布留山の奥へ飛んできて山の中に落ちた。邑智は、夢に教えられた場所に来ると、一つの岩を中心にして神剣が刺してあり、八つ岩は、はじけていた。そして一人の神女が現れて、『神剣を布留社の高庭にお祀りください』という。そこで、布留社の南に神殿を建て祀ったのが、今の出雲建雄神社(若宮)である。」といういわれが残っています。

天理市観光協会のホームページは以下を参照ください。
http://kanko-tenri.jp/meguru_tenri/05_yatuiwa.html

ホームページには八つ岩の写真と位置まで示してあり、大変参考になります。ただ、山の奥深くにあるので、現場に行くのはかなり難しそうな雰囲気です。なお、八つの霊石だの八大竜王だの、八や竜に関係した記述が多くなっています。八つ岩の近くには水神を祀る龍王社もありました。龍王社(奥宮)、出雲建雄神社(若宮)、石上神宮(本宮)の関係が成り立ちそうに思えます。

草薙神剣盗難事件の後日譚となる形で熱田神宮境内にも八剣宮(708年の創建)が鎮座しており、同じ「八」に関連性が窺えます。八剣宮の創建はまた同じような盗難事件が起きないようにするため、新たな宝剣を造ってどれが本物かわからないようにしたとの説もありますが、出雲建雄神社創建とその由緒内容に影響を受けた可能性も否定できません。

ところで、布留邑智とはどんな人物なのでしょう?石上神宮の配祭神でもある市川臣命は、第5代孝昭天皇の皇子天足彦国押人命(あめたらしひこくにおしひとのみこと)の7世代目子孫となる米餅搗大使主命(たがねつきのおおおみ)の子とされています。

垂仁天皇の時代に石上神宮に奉仕したとされる市川臣は和珥氏の支族となる春日氏の一族で、物部首の始祖になります。「日本書紀」の天武天皇12年(683年)9月2日条には、物部首は姓を連に改めたとあります。「新撰姓氏録」によれば、物部首の男正五位上日向が天武天皇のときに社地の名によって布留宿禰姓に改めた、とのこと。この日向の三世孫が石上神宮神主の布留邑智となります。非常にややこしいのですが、布留邑智は和爾氏系春日臣市川の系統であり、一時的に物部首、物部連など物部を冠した姓に変わったものの、物部氏とは別系統であると理解されます。

頭が混乱しそうなので、この辺の事情は無視しても構わないでしょう。ただ、石上神宮は物部氏の神社だと理解していたのに、実際には二つの系統が存在することになります。この問題に関しては、市川臣の系統が石上神宮の祭祀を担当し、物部氏は武器・宝物の管理を担当していたといった具合に機能分担で考えるとわかりやすいかもしれません。

さて、出雲建雄神社の由緒から何が読み取れるでしょう?草薙神剣は天智天皇7年(668年)、新羅僧道行によって盗み出され、18年後の天武天皇朱鳥元年(686年)に朝廷より熱田神宮に送り置かれた(返還された)とされています。

けれども、一旦取り上げたものを返すのでは、朝廷としてのメンツが立ちません。朝廷はメンツを保つため返還の条件を尾張氏と協議したのではないでしょうか?その結果編み出されたのが草薙神剣盗難事件です。草薙神剣が誰かに盗まれ、取り返された剣を一旦宮中で保管し返還した形にすれば、朝廷のメンツは保たれます。そうした事情から道行の草薙神剣盗難事件が造作された。そう、道行の盗難事件は朝廷と尾張の合作による捏造だったのです。これにより両者共メンツを潰すことなく事態の決着が図れたことになります。

ここで割を食ったのが石上神宮です。石上神宮は朝廷の武器庫であり、物部氏がその管理に当たり、布留宿禰が祭祀を司っていました。朝廷が尾張氏から取り上げた草薙神剣は石上神宮が保管し、その祭祀は布留宿禰が担っていたのでしょう。折角三種の神器の一つである草薙神剣を自分たちの管理下・祭祀下に置いたのに、朝廷と尾張氏の話し合いにより自分たちの手から離れてしまう結果となってしまったのです。

困った布留邑智は上記したような伝説を作り上げるしかありませんでした。出雲建雄神社の創建は、神剣が尾張氏に返され現物がなくなったので、布留邑智が新たな伝説を造作し、草薙神剣の神霊を出雲建雄神の名で祀ったことに起因していたのです。これは、神社の創建由緒がどのように作られたのか推定できる良い例となります。草薙神剣盗難事件に関しては熱田神宮の謎解きシリーズと今回の記事で取り上げましたが、別の機会にも詳細を検討してみたいと思います。

         邪馬台国と大和王権の謎を探る その39に続く


邪馬台国と大和王権の謎を解く その37


今回石上神宮の摂社となる出雲建雄神社を見ていきます。酔石亭主の問題意識では、石上神宮よりこの境内社の方が重要となってきます。それを証するかのように、同社の拝殿(割拝殿)は国宝となっていました。また同社は、石上神宮同様、延喜式にも記載される式内社でもあります。鎮座地にも特徴があります。同社は石上神宮の拝殿、楼門に向き合う位置にあり、しかも一段と高い場所に鎮座しているのです。石上神宮の本宮よりも重要かもしれない出雲建雄神社をチェックするため、早速行ってみましょう。

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石段の下から撮影。建物は出雲建雄神社の割拝殿です。

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石段を上がって石上神宮の楼門を撮影。

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楼門と回廊、拝殿、本殿が見下ろせます。

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さらに石段を上がった場所に鎮座する出雲建雄神社です。

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出雲建雄神社。本殿は一間社春日造でそれほど大きくありません。

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割拝殿(わりはいでん)です。

出雲建雄神社の手前に建っている国宝の割拝殿です。桁行五間、梁間一間で中央に馬道(めどう)と呼ばれる土間があり、通り抜けられるようになっています。鎌倉時代後期の正安2年(1300年)の建築とされています。


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正面から撮影。

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解説板です。内容を以下に書き出します。

摂社 出雲建雄神社(いずもたけおじんじゃ)式内社
祭神 出雲建雄神
由緒 出雲建雄神は草薙の神剣の御霊に坐し、今を去ること1300余年前天武天皇朱鳥元年、布留川上の日の谷に瑞雲立ち上る中、神剣光を放ちて現れ、「今この地に天降り諸の氏人を守らん」と宣り給い、即に鎮座し給う。

これだけではよくわかりません。次回で詳しく検討してみましょう。

        邪馬台国と大和王権の謎を解く その38に続く
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