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邪馬台国はどこにある その7


本シリーズは前回で一応終了ですが、卑弥呼の女王国が北九州にあり、邪馬台国は大和にあると言う自説を展開するのが精一杯で、古田武夫氏の邪馬台国は北九州にあるとする説の検証が十分にできていませんでした。この書き足りなかった部分を今回で補足的に書いてみたいと思います。同氏の邪馬台国問題に関する説は、『「邪馬台国」はなかった』(ミネルヴァ書房)に非常に詳しく書かれていますので、この内容を検討する形で進めていくことにしましょう。

ただ酔石亭主の自説が正しいとするためには、古田氏の論を批判する形にならざるを得ず、気が重い話ではあります。と言うことで、早速検討に入ります。まずは「魏志倭人伝」に書かれた以下の文面を再掲します。

南、投馬国に至る。水行二十日。五万余戸ばかり。南、邪馬壱国に至る。女王の都とする所。水行十日、陸行一月。七万余戸ばかり。

これをどう解くかで論者の立ち位置は完全に決まってしまいます。酔石亭主はこの部分が後から挿入されたものとして一旦外し、位置の特定をする作業をしました。その結果、個人的には一定の納得感がある結論を導き出せたと思っています。一方で、九州王朝説を主張される古田氏の見解では、邪馬台国は北九州(博多湾岸)にあるとなります。

同氏によれば、邪馬台国への行程である水行十日、陸行一月は帯方郡治から倭に至る全行程の全所要日数になります。具体的には水行十日が帯方郡治(現在のソウル近辺)から帯方郡西南端、狗奴韓国から対海国、対海国から一大国、一大国から末盧国までの合計距離で、陸行一月が帯方郡西南端から東南に陸行し狗奴韓国(現在の釜山辺り)、対海国、一大国内の陸行、末盧国から邪馬台国までの陸行とされています。その根拠まで書くと長くなりますので省きますが、字義解釈なども交え詳細な論理を展開されています。

古田氏は邪馬台国の位置問題に関して、「魏志倭人伝」の内容を改定してはいけないとしています。例えば方位の南を東に改定したり、所要日数陸行一月を一日に改定したりすべきではないとするのです。その考えに従った場合、古田氏自身も改定していることになります。

例えば、韓国内、対海国、一大国内の陸行は「魏志倭人伝」に何も具体的に書かれていません。記述内容の字義解釈で陸行とされているのですから、これは改定の一種です。他にもあります。「魏志倭人伝」では不弥国の次に南、投馬国が来て、次に南、邪馬台国になるのですから、投馬国の南に邪馬台国が来なければなりません。それを投馬国は不弥国の南に持ってきて、邪馬台国までは帯方郡からの全行程としてしまうのですから、「魏志倭人伝」の記述には全く沿わない形で改定していることになるのです。

同氏は邪馬台国が倭国の首都である点に固執されているため、何としてもそれに合致させる解釈を導き出そうとして、邪馬台国への行程である水行十日、陸行一月を帯方郡治から邪馬台国までの全日程とするしかなかったのです。

他にも問題があります。「隋書」には夷人(倭人)は里数を知らずただ日数でもって測ると書かれています。従って、卑弥呼時代の倭人は当然距離を里数で測れず、日数になるはずです。ここから、距離が日数で表示される投馬国と邪馬台国は使節が行っていない遠方となります。

一方「魏志倭人伝」には帯方郡から投馬国の前の不弥国までは里数表示されていました。古田氏は不弥国と邪馬台国は隣接しているので距離はゼロとされています。同氏の見解に従うと、「魏志倭人伝」には帯方郡から邪馬台国までの日数と里数の両方が表示されていることになり、非常に理解に苦しみます。

もちろん古田氏はこの疑問に答えるべく、「漢書」西域伝に両方表示されている場合があるとして、例を挙げています。それは難兜国(西域都護内)からハイヒン国(都護外)までの往路が里数、復路が日数表示されていると言うものでした。しかしこの例は、単一区間内の往路・復路の距離であり、しかも都護内から外への経路なので両方が表示される可能性はあり、比較の対象にはなりません。他の漢籍に往路のみの全行程に関して日数・里数の両方が表示されている例がない限り、例があるとは言えないのです。

行程に関して古田氏はもう一つややこしい論理を展開されています。それは主線行路、傍線行路として表現されています。使節が倭の各国に向かう際、例えば末盧国に行く場合は、海を渡る、千余里、末盧国に至る。」とあり、「渡る」と言う先行動詞があって次の「至る」の動詞となり、両方が揃っている行路が主線行路になるとしておられるのです。

ところが、奴国、投馬国、邪馬台国には不弥国の「東行不弥国に至る。」に見られるような「行く」の先行動詞がありません。従って、奴国と投馬国は傍線行路になるとされています。(注:邪馬台国の場合は少し後で書きます)

奴国が傍線行路になるとは、伊都国から分岐した行路の先に奴国があることを意味し、伊都国の次に不弥国に至るのが主線行路と言うことになります。投馬国も同様に傍線行路で不弥国から分岐していることになります。

従って、不弥国からの主線行路が邪馬台国になるとされています。つまり、主線行路で見ると、伊都国→不弥国→邪馬台国、になるとの考え方です。具体的には、使節は伊都国、不弥国、邪馬台国の経路で移動するが、例えば伊都国は使節の常駐する所なので、時間があれば伊都国から奴国へも行きそれが傍線行路になると言ったところでしょう。

では、先行動詞のない邪馬台国が傍線行路にならないのはどうしてでしょう?古田氏によれば、邪馬台国が倭国の首都で、「南、邪馬台国に至る。」の「至る」がそれ以前の全ての動詞を受けているからで、先行動詞がなくても主線行路になるとのことです。要するに、邪馬台国が倭国の首都であるとの大前提で考察されている訳で、そこに大きな誤りがあるのではないかと思料されます。

邪馬台国は倭国の首都であるとの前提なしに見れば、邪馬台国は傍線行路であり、使節の最終目的地でもなかったことになります。いかがでしょう?古田氏の論理を素直に援用するだけで、投馬国と邪馬台国は北九州ではなく遠方にあるとすんなり理解されますね。また邪馬台国が倭国の首都であれば、方位だけでなく女王国のように位置関係も明示されていなければなりません。ところがそうした詳細記事は何もないのです。これらからも、傍線行路の遠い先にある大国が邪馬台国だったと確認されます。

以上、邪馬台国問題に関する古田氏の論考をあれこれ検討してみました。短くまとめたので不十分な点があることはご容赦ください、邪馬台国の位置に関しては、それがどのような意見であれ、必ず別の視点からの批判は可能になります。例えば、酔石亭主の見方では、投馬国と邪馬台国の方位である南を東に、陸行1月を陸行1日に改定しています。この改定には当然批判もあるでしょうが、批判する論者もまた別の面で改定をしていると言った具合で、いつまで経っても最終結論に至れないのです。そうした難しさを指摘しつつ、今回の検討を終了します。
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邪馬台国はどこにある その6


今回は、投馬国と邪馬台国の記事が卑弥呼より後の時代のもので、後になって「魏志倭人伝」追加挿入されと考えられる点、邪馬台国は北九州に存在していないのに、「邪馬台国は女王の都する所」と書かれている意味などを探っていきたいと思います。

では最初の課題である、投馬国と邪馬台国の記事は卑弥呼より後の時代のもので、しかも後になって陳寿が「魏志倭人伝」に追加したと考えられる部分から見ていきましょう。

「魏志倭人伝」には景初2年(238年、実際は景初3年で239年とされる)倭の女王が使節を送った記事が見られます。正始元年(240年)には、帯方郡太守の弓遵が使節を倭国に派遣しました。そして年号の入った最後の記事が正始8年(247年)で、倭国に使節が派遣されています。卑弥呼は一般的にその翌年の248年に死去したとされています。

卑弥呼が死去した後に径百余歩の墓が造られ、男王が立てられるも国中が服せず相争い、13歳の台与が立てられ国が安定し、彼女が使節を派遣したところで「魏志倭人伝」は終わります。そうした経緯から、250年代の中頃までの倭国が「魏志倭人伝」に書かれていると現段階では理解されます。魏は265年まで続くものの、同国の公式文書には250年代中頃までの倭国しか記録されていなかったのです。

「魏志倭人伝」は基本的に魏時代の倭国を描いたもののはずですから、記事を書いた陳寿は、入手可能な250年代中頃までの情報を纏めて原案を一旦仕上げたものと思われます。続いてそれより遅い時代の可能性を探ってみましょう。

「魏志倭人伝」は陳寿(中国の三国時代の蜀漢と西晋に仕えた官僚)が編纂した「三国志」の中に含まれ、成立は280年以降とされ、陳寿の死去年は297年と推定されています。魏は265年に滅び、西晋の時代となります。

仮に265年以降の情報が「魏志倭人伝」に書かれているとすれば、陳寿が西晋の外務官僚からなど聞き取った情報や、入手した外交文書・記録を採録していたことになりそうです。265年以降の情報と言っても、陳寿の死去年は297年となるので限界はあります。例えば、290年頃までの倭国の情報がもたらされ、それらを陳寿が採録したのかもしれません。

「魏志倭人伝」には魏が滅亡する約10年前までの倭国が書かれてはいるが、陳寿は297年まで存命なので、西晋の官僚などから290年頃の倭国の情報を入手していた可能性もあると纏め、取り敢えず、台与が宇佐に移動するまでの推測的経緯を以下に書いてみます。

台与の登場で一旦国中は治まったが、再び乱れた。女王国(伊都国か不弥国の南)の台与は混乱を避けるため、主だったメンバーを率いて東に移動し宇佐に落ち着いた。台与は宇佐に移動するに当たり卑弥呼(太陽を祭祀する日の巫女=卑弥呼であり、天照大神の原像とも言える存在)の墓から鏡を取り出した。鏡は卑弥呼と太陽を象徴し、ここに日の巫女=卑弥呼は天照大神(=卑弥呼の鏡)として再生する形となった。日本神話で語られる天岩戸の物語にはこの間の事情が投影されている。

「日本書紀」の神代上第七段、一書に曰くには、日神が岩戸から出るとき、鏡が戸に触れて小瑕が付いたが、その瑕は今も残り、これがすなわち伊勢に斎祀る大神だとある。上記は、台与が卑弥呼の墓から取り出した鏡そのものが天照大神であると理解される記述である。

さて、250年代の中頃宇佐に移動した台与はこの地に留まったのでしょうか?もちろん不安定化している九州に留まってはいません。天照大神を奉じる台与一行は宇佐を離れ瀬戸内海を船で渡り、吉備を経由して難波に至り、そこから大和川を遡って大和の三輪山の麓・纏向に入ったと推定されます。時代的には250年代の後半から260年代の初頭になるでしょう。

では、天照大神が大和に遷座した証拠もあるのでしょうか?「日本書紀」によれば、第十代崇神天皇の時代(290年から318年頃在位の人物と推定)、天照大神は宮中で祀られていました。(注:第五代孝昭天皇の時代から宮中で祀られていたとされる)北九州にある天照大神(=卑弥呼の鏡)が大和の宮中で祀られるためには、北九州から大和に運ばれていなければなりません。「日本書紀」の記述は図らずも、天照大神が女王国から大和に遷座したことの証明となっているのです。そして、こうした内容に対応し得る人物は台与以外に考えられません。

古田氏は「倭人伝を徹底して読む」(ミネルヴァ書房)で、卑弥呼が銅鏡百枚を望んだのは、太陽信仰が卑弥呼の呪術の源泉であって、太陽神とは天照大神だから、その信仰をバックにした神がかり的な呪術でもって民を治めようとした、との趣旨を書かれています。この部分は天照大神=卑弥呼の鏡と考える酔石亭主の見方にも沿っていますね。

さて、当時の先進地域である北九州から台与が250年代後半から260年初頭の間で大和へ移動したとしても、地元には既に一定の勢力が存在していたのは間違いなさそうです。地元の有力者の求めか移転の挨拶代わりかは不明ですが、台与は彼らに天照大神(鏡)を渡さざるを得なくなったものと推察されます。それが何代か後の崇神天皇に渡り、宮中にて奉斎されていたのでしょう。

台与の大和における名前(大和王権が「日本書紀」において付けた名前)は倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)でした。天照大神の原像となる巫女(人物としては卑弥呼)は局所を杼(ひ)で突いて死に、天岩戸に入って後、太陽神天照大神として再生するのですが、倭迹迹日百襲姫命もまた局所を箸で突いて死に、箸墓に埋葬されることとなったのです。この死に方の類似こそが、倭迹迹日百襲姫命は卑弥呼の宗女・台与であることの証明になっているとは思えませんか?

邪馬台国畿内説では、箸墓古墳は卑弥呼の墓との見方も多くあります。けれども、上記の推定経緯から判断すれば、箸墓古墳は台与の墓と考えざるを得ません。箸墓古墳が270年頃のものとすれば、被葬者は台与で時代的にもぴったり合ってきます。

箸墓古墳の墳丘長は278mで最古の巨大前方後円墳となります。これだけの古墳を築造できるのは強大な権力を持った首長(台与の場合、実質的には神の祭祀者)となるはずです。被葬者の倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)は第七代孝霊天皇とその妃の子とされますが、そうした立場の女性が当時においては前例のない大規模古墳の被葬者になるなど有り得ない話です。

台与が卑弥呼の後継者として当時の先進地域である北九州から移り住んだ人物だったから、大和の人々も女王として受け入れたのでしょう。その背後には190年代頃に既に大和に移住していた饒速日(にぎはやひ)を奉じるプレ物部氏の協力があったことも否定できません。

250年代後半から260年初頭に大和の纏向に入った台与は、260年代後半頃死去し、270年代に箸墓古墳が築造され、続いて豊鋤入姫命が台与の宗女となります。

台与と豊鋤入姫命は7万戸を擁する大和の女王になった訳ですが、一方である人物が勢力を増してきます。それが290年から318年頃に在位した王と考えられる崇神天皇です。豊鋤入姫命は崇神天皇から天照大神(卑弥呼の鏡)を取り戻したものの、纏向の地から離れる条件を付けられ、各地を巡った天照大神は最後に伊勢の地にて鎮まることとなったのです。

従って、北九州にあった卑弥呼の女王国の最終形態が伊勢神宮となります。その経緯は「日本書紀」にストーリーを変えた形で出ているので参照ください。また、「倭姫命世記」も見ておく必要があります。

ここまでを纏めます。卑弥呼の死後台与が後継者となり、彼女は宇佐に移動した後、大和に移住。地元の有力者に天照大神(卑弥呼の鏡)を渡した数年後に邪馬台国の女王となります。台与の後継者・豊鋤入姫命の時代に崇神天皇から天照大神(卑弥呼の鏡)を取り戻し、その引き換えに彼らは纏向の地を離れます。卑弥呼の死から崇神天皇の登場までは、240年代の終わり頃から290年頃に起きた話と推測されます。

ここで話を陳寿に戻します。陳寿は魏の記録文書を参照して255年代中頃までの倭国を魏書第30巻「烏丸鮮卑東夷伝」の中に書きました。(注:「魏志倭人伝」は通称)「三国志」は180年頃からの 280年頃までの興亡史であり、成立は西晋が中国を統一した後の280年以降から陳寿死去の297年までの間とされています。これだけ膨大な歴史書を撰するには10年以上かかったと推定され、完成を290年代前半と仮定します。

陳寿は280年以降魏の記録文書から倭国の記事を拾い出して原案を纏めます。ところが、290年頃になって倭国に関する新たな情報が西晋の外交官から届き、僅かな記録文書も手に入ったと考えられます。それらの伝聞情報や記録を基に、投馬国と邪馬台国への方位や戸数、「邪馬台国は女王の都する所」との記事が「魏志倭人伝」に書き加えられたのです。

290年頃の情報と考えられるのは、崇神天皇の別称・御間城入彦五十瓊殖天皇(みまきいりびこいにえのすめらみこと)が邪馬台国の官として書かれた数人の中に弥馬獲支(みまかき)があり、両者は同一人物の可能性があるからです。

同一人物ではなかった場合、魏が滅亡して西晋の時代になってすぐの情報(265年頃の情報)が陳寿の元に届いたことになりそうです。西晋の始まりは265年ですから255年代より時代的には遅い情報になるものの、「三国志」の編纂開始は280年以降ですから、魏時代と西晋時代の情報を同時に見ている可能性があり、後で書き加えたとは言えなくなります。ただ、「魏志倭人伝」の内容的な混乱から判断すると、やはり投馬国と邪馬台国の情報は「三国志」の編纂が終わるギリギリの段階で書き加えられたとすべきでしょう。

これで最初に提起した、投馬国と邪馬台国の記事が卑弥呼より後の時代のもので、後になって「魏志倭人伝」追加挿入されと考えられる点、邪馬台国は北九州に存在していないのに、「邪馬台国は女王の都する所」と書かれている意味の両方が解明されました。

問題は、邪馬台国の官の名前を除いた追加情報自体が、大和ではなく北九州の倭人からの聞き取りで、しかも陳寿に届くまでに何人も経由したと考えられる点です。伝言ゲームと同じ経過をたどった情報は、内容が変化していき、方位や里程、時代の誤りや混乱が生じたものと思われます。

陳寿は情報の入手が遅かったことや全体的な流れから邪馬台国と女王国を同一視しました。邪馬台国の女王は元々女王国の女王だった訳ですから、誤解や勘違いがあっても不思議ではありません。そして投馬国や邪馬台国の話を既に完成していた「魏志倭人伝」に追加挿入した際、女王国=邪馬台国と誤解していた彼は、「南、投馬国に至る。水行二十日。五万余戸ばかり。南、邪馬壱国に至る。女王の都とする所。水行十日、陸行一月。七万余戸ばかり。」の記事を、「女王国より以北、その戸数、道里は略載を得べきも、」の前に入れてしまったと考えられます。これが後代の私たちに大きな混乱をもたらし、邪馬台国九州説論者と大和説論者の不毛な議論が延々と続く事態を招いたのです。

以上で、邪馬台国問題はほぼ完全に再構成され、卑弥呼の女王国は北九州にあり、邪馬台国は大和にあったと確認されました。邪馬台国北九州説、畿内説の双方が一定の面目を保てる結論に至った訳ですが、「魏志倭人伝」に書かれた内容で未解明のものはなおも残っている点はお含みください。また酔石亭主の考える結論に持ち込むため、恣意的で都合の良さそうな根拠のみを拾った傾向があることも否めません。従って、このような見方もできるかもしれない程度でご理解いただければ幸いです。

本シリーズは今回で終了ですが、まだ書き足らないところも多少残っているので、そのうち書いてみたいと思います。

邪馬台国はどこにある その5


前回で二つの問題を提起しました。一つは、距離で見ると3国から女王国までは100㎞も離れており、位置を示す記事から判断すれば、女王国より北側の3国は女王国に近接していることになって、「魏志倭人伝」に書かれた内容自体が大きな矛盾を孕んでいる点です。もう一つは、投馬国と邪馬台国の記事は卑弥呼より遅い時代のものが、「魏志倭人伝」の間違った場所に後から挿入されたと考えられる部分です。

今回は投馬国と邪馬台国が北九州に存在しないならどこにあったのかを検討する中で、3国と女王国の間の距離問題に迫っていきたいと思っています。(注:投馬国と邪馬台国が後の時代に挿入された問題の検討は主に次回とします)

邪馬台国の位置問題は「大和王権と邪馬台国の謎を解く」で既に答え出していますが、今回の論証はまた違った視点で書きますので、お付き合いください。両国の位置に関して誰もが悩むのは、「魏志倭人伝」に記載された以下の部分でしょう。

南、投馬国に至る。水行二十日。五万余戸ばかり。南、邪馬壱国に至る。女王の都とする所。水行十日、陸行一月。七万余戸ばかり。

この方位は間違っているはずですが、ではどう考えたらいいのか?前回でも触れたように、一番簡単な方法は帯方郡及び北九州から東西南北のそれぞれに行った場合を検討し、可能性の低いものから消していくことです。まずは北から見ていきましょう。帯方郡から北、北九州から北は全くあり得ないと理解されます。次に西です。帯方郡から西は海を隔てて中国になってしまい有り得ません。北九州から西も同様に海を隔てて行き着く先は中国です。

南はどうでしょう?出発点を北九州とした場合、南は陸行以外になく、投馬国、水行20日は有り得ません。出発点を帯方郡とした場合、船で帯方郡から韓半島に沿って南へ下ると半島の南端まで約400㎞。一日20㎞として20日間となり、投馬国が韓半島南端部となってしまいます。邪馬台国がそこから南だと済州島に約100㎞で至り5日間ですが、残る5日で日本に行き着くのは難しそうです。

船足が速い船だったとして、帯方郡から20日で日本のどこかにある投馬国に着いたと仮定してみます。投馬国を例えば五島列島や平戸、長崎だとして、そこから南へ水行10日だと邪馬台国は鹿児島辺りが適当かもしれません。一方古田氏の「ここに古代王朝ありき」(ミネルヴァ書房)を読んでみたところ、投馬国を指宿としておられました。また同氏は不弥国を邪馬台国の玄関としており、両国は隣接していることになります。その場合、指宿にある投馬国に行った後、元に戻る形で北上して邪馬台国に行かなければなりません。これはどう考えても不合理ですね。

古田氏は水行10日、陸行1月を帯方郡から邪馬台国までの総日程とし、韓半島を陸行することで辻褄を合わそうとされたようです。では投馬国はどうなるのか?同氏の説に基づき投馬国と邪馬台国への行程をそれぞれ書けば、「南、投馬国に至る。水行二十日。」は帯方郡から鹿児島への直行。「南、邪馬壱国に至る。水行十日、陸行一月。」は帯方郡から京畿湾を水行し続いて韓半島を陸路で釜山辺りに出て、以降は船で北九州まで行ったことになります。

いかがでしょう?「魏志倭人伝」の記述に無理やり合わせようとした結果、投馬国と邪馬台国の行程が全く別個のものとなってしまいました。このような行程は到底有り得ない話です。(注:古田氏の著作を全て読んだ訳でも、講演を聞いた訳でもないので、同氏の見解に変遷があるかもしれませんが、読んだ限りのもので検討していきます)

最後が東です。北九州で東に向けて海が開けているのは、福岡県東部と大分県北部となります。そこで出発地を大分県の宇佐市辺りと想定し、東へ船で20日を吉備(岡山)とすれば、約300kmの距離を15日間の航海となり、途中の休息・食糧調達なども含め20日は妥当な数字となります。と言うことで、女王国は伊都国、奴国、不弥国の3国に近接している点を一旦横に置き、宇佐にあったと仮設定しておきます。

吉備から難波に入り大和川を遡って纏向付近までが約200㎞。10日間の航海となります。ここまでに大きな矛盾はありません。問題の陸行1月ですが、大和の纏向近くで下船してその日のうちに中心部に到達しますので、一か月を一日の誤りと見るしかなさそうです。既に書いたように、投馬国と邪馬台国は距離が日数表示されており、使節が直接行ってはいない点改めてお含み置きください。

宇佐が女王国だったと仮定すれば、3国と女王国の距離が100㎞程度にもなる問題が解消します。ここで距離問題を再度簡略に書きます。「魏志倭人伝」には帯方郡から女王国までの総距離が一万二千里、帯方郡から不弥国までの距離が一万七百里と書かれていました。従って、一万二千里から一万七百里を差し引いた千三百里=約100㎞が3国と女王国の間の距離になります。

さて、3国と女王国の距離問題は女王国の所在地を宇佐とすることで解消されますが、逆に、女王国の以北にある3国は「魏志倭人伝」の記述によると女王国に近接しているので、全く矛盾する話となってしまいます。この矛盾をどう解消すればいいのでしょう?その検討の前に、女王国が他の3国の近くにあったと考えられる部分の詳細を見ていきます。

例えば伊都国に関して、「伊都国に到る。千余戸有り。世、王有り。皆、女王国に統属す。郡使往来し常に駐する所。」とあります。既に書いたように、伊都国は女王国に統属しており、郡の使節が往来し常駐する場所なので、そこから女王国まで100㎞もあるとは考えられません。また、女王国内に使節の宿泊設備がないことから、女王国はやはり宮中と付属施設があるだけの狭い場所となり、邪馬台国=女王国と言った論が成り立たないのは明らかです。

女王国より以北、その戸数、道里は略載を得べきも、」の文面からも、里数が記載された3国と女王国の間に戸数や道里が不明な国々が存在し得ないことから、3国は女王国に近接していると確認できます。

さらに「女王国より以北には、特に一大率を置き、検察せしむ。諸国これを畏憚す。常に伊都国に治す。国中において、刺史の如き有り。王の使いを遣わして京都・帯方郡・諸韓国に詣らしめ、郡の倭国に使するに及ぶや、皆津に臨みて捜露す。伝送の文書・賜遣の物、女王に詣るに、差錯するを得ざらしむ」ともあります。意味は大略以下の通りですが、間違いがあった際はご容赦ください。

女王国の以北にある伊都国には、一大率(警察・行政長官)を常駐させ諸国の治安維持に当たっているので、諸国はこの一大率を畏怖している。彼らの態度は中国の地方長官である刺史(しし)のようである。伊都国は女王の使節を京都(魏の都)・帯方郡・韓半島の諸国などに派遣し、また帯方郡の郡使が倭国に来たら、皆で港に出迎え、外交文書や贈り物を女王に献ずる際はきちんと検査し、間違いがない様にする。

「魏志倭人伝」には、女王の意を受けた伊都国に常駐する警察・行政長官が諸国の検察や外交の任に当たり、文書管理も含め様々な業務をこなしていた様子が事細かに書かれています。これらの業務を円滑に進め、日々の連絡に支障が出ないようにするには、伊都国が女王国のすぐ近くに存在しなければなりません。

従って、女王国は伊都国の近くにあった可能性が高いことになります。ただ、「魏志倭人伝」の書き順からすれば、不弥国の次に女王国が置かれるべきとも考えられます。内容では伊都国が、書き順では不弥国が女王国に隣接する結果となるので明確な結論には至れません。伊都国と不弥国のどちらが女王国に隣接するかは、将来の検討課題としておきます。

ここまでは全て「魏志倭人伝」の記述内容から推論できるものであり、3国と女王国が近接している証拠は数多くあったことになります。一つ問題が残るのは、なぜ3国から女王国までの距離が書かれていないのかと言う点です。古田氏は不弥国と女王国は隣接しているからだとしていますが、この問題は少し後で考えることにします。では、3国と女王国は近接しているはずなのに、100㎞も離れていると言う矛盾の答えを出してみましょう。

上記の問題は難しそうに見えて、実は思ったよりずっと簡単に解き明かすことができます。それは3国と女王国が近接しているケース、100㎞離れているケースのどちらも正しいとすればいいのです。そんな馬鹿な話はないとお思いでしょうが、両方の間に時代差を設けることで可能となります。すなわち、当初3国と近接していた卑弥呼の女王国が、後になって100㎞離れた位置に移ったと設定するのです。

そう、「魏志倭人伝」には伊都国の役割が書かれた女王国の時代(卑弥呼の時代)、そして約100㎞も離れた宇佐に移動した時代(台与の時代)の両方が書かれていたため、矛盾があるように見えたのです。

この問題を「魏志倭人伝」の編纂者である陳寿の立場になって考えてみましょう。陳寿は当初不弥国の次に女王国を置き里数も入れていたはずです。ところが、後から異なる距離情報が入ってきたため混乱し、不弥国の次に女王国を置き里数も入れていた部分を削除するしかなくなったと推定されます。不弥国から女王国までの距離が書かれていないのはそのためと思われます。

不弥国から当初の女王国までの距離を削除した陳寿は、帯方郡から女王国(宇佐に移った女王国)までの総距離のみを記載することで誤魔化したのではないでしょうか?そう考えれば、帯方郡から不弥国までの距離と、帯方郡から女王国までの距離の差が100㎞程度ある謎や、不弥国から女王国までの距離が書かれていない問題も解消され、すっきりした形で理解されます。

ここまでを纏めてみましょう。卑弥呼時代の女王国は不弥国(伊都国の役割から判断すると伊都国)の南に位置していたが、台与の時代になってしばらくの後、宇佐に移った。不弥国から女王国への距離計算が100㎞になるのは、卑弥呼より後の、台与が宇佐に移った時代の情報が書き込まれたからである。(注:宇佐を邪馬台国とするのは高木彬光氏の「古代天皇の秘密」(角川文庫)に書かれており、酔石亭主の推論と内容は異なるものの重なる部分があります)つまり、当初は不弥国に隣接(注:伊都国に隣接していた可能性もある)していた女王国が宇佐に移動し、「魏志倭人伝」には移動した後の帯方郡からの距離のみが書き込まれたのです。

以上、「魏志倭人伝」に見られる矛盾点が、図らずも女王国の宇佐への移動を証明する結果となりました。

卑弥呼が死去した248年から時代を少し下り、台与の時代となった女王国は一時的に宇佐に移動しました。このシナリオにより、不弥国から女王国まで100㎞もある距離の問題は解消され、台与はそこから東に向かい大和に入ったとの見方も現実味を帯びてきます。ただ、これは現時点における推論に過ぎず、もう少し根拠となりそうな史料が欲しいものです。

あれこれ調べたところ、多少の補強材料となりそうな記述が「日本書紀」の神武東征に出ていました。神武東征が史実かどうかは別として、卑弥呼に近い時代の話が反映されていると仮定できそうです。その内容を読むと、行程中の重要な場所として宇佐、吉備、難波が出てきます。卑弥呼に近い時代の九州の王が大和へ赴くに際し、宇佐、吉備、難波の順に移動していたとすれば、卑弥呼前後の時代も同様と推察され「魏志倭人伝」に反映されていたとも考えられるのです。

古田氏の論考は邪馬台国が北九州にあるとの前提となっていために、無理・矛盾が生じたもので、この部分のみを変更し、卑弥呼の都である女王国は北九州にあり、邪馬台国は大和国であったとすれば、ほぼ矛盾のない形に再構成できることになります。

また投馬国と邪馬台国までの行程に関して、台与が宇佐に移動してしばし留まり、その後吉備を経由して大和に入ったなら、明らかに卑弥呼の時代より後の話となり、投馬国と邪馬台国の記事は後から「魏志倭人伝」の間違った場所に挿入されたものとする酔石亭主の視点とも整合してきます。

次回は投馬国と邪馬台国が後の時代になって「魏志倭人伝」に挿入された問題、「南、邪馬台国に至る。女王の都する所」と書かれた女王とは誰であるのか、また邪馬台国は大和にある点などを検討する予定です。

邪馬台国はどこにある その4


今回は邪馬台国が北九州にあると誤解された原因を「魏志倭人伝」の記述から探ります。そのために「魏志倭人伝」より以下の部分を抜粋しました。(注:Wikiより引用)

郡より倭に至るには、海岸に循いて水行し、韓国を歴て、乍南乍東、その北岸、狗邪韓国に到る。七千余里。始めて一海を度る。千余里。対海国に至る。千戸余り。又、南、一海を渡る。千余里。名は瀚海と曰う。一大国に至る。三千許りの家有り。又、一海を渡る。千余里。末盧国に至る。四千余戸有り。東南陸行。五百里。伊都国に到る。千余戸有り。世、王有り。皆、女王国に統属す。郡使往来し常に駐する所。東南、奴国に至る。百里。二万余戸有り。東行、不弥国に至る。百里。千余家有り。

南、投馬国に至る。水行二十日。五万余戸ばかり。南、邪馬壱国に至る。女王の都とする所。水行十日、陸行一月。七万余戸ばかり。

女王国より以北、その戸数、道里は略載を得べきも、その余の旁国は遠くして絶へ、詳を得べからず。次に斯馬国有り…(多くの国名が続く)…次に奴國有り。ここは女王の境界尽きる所。

その南、狗奴国有り。男子が王と為る。その官は狗古智卑狗有り。女王に属さず。郡より女王国に至る。万二千余里。


使節が郡(帯方郡、現在のソウル近辺)から出発し、不弥国に至るまでは里数で書かれています。整理すれば以下の通り。

帯方郡→南東水行七千余里→狗邪韓国→千余里→対馬国(対馬)→千余里→一大国(壱岐)→千余里→末廬国(唐津市)→東南五百里→伊都国(糸島市)→東南百里→奴国(博多付近、春日市)→東百里→不弥国(宇美町或いは飯塚市その他諸説あり、古田氏は博多の姪浜辺りとする)。
(注:一里は短里で間違いないと思われ約77m。帯方郡より不弥国までの合計里数は一万七百里。帯方郡より女王国までが一万二千里となっている。それぞれの国の所在地には諸説あるが、一般的なもので記載)

各国の位置がどこであるにせよ、末廬国から不弥国までは北九州で、海岸線乃至は少し内陸にあると理解されます。問題は不弥国の次に全く唐突な感じで「南、投馬国に至る。水行二十日。五万余戸ばかり。南、邪馬壱国に至る。女王の都とする所。水行十日、陸行一月。七万余戸ばかり。」との文面が入っていることです。

最初に「魏志倭人伝」を見た際、この部分に大きな違和感を覚えました。多分、不弥国までとその後の文面に全く繋がりがないと直感したからでしょう。それはさて置き、取り敢えず「魏志倭人伝」の記述に沿って検討を進めます。

不弥国は、正確な位置は別として北九州の海岸線乃至は少し内陸にあるはずですから、そこから南に20日間も航海すべき海はなく、投馬国に到達するのは不可能となります。方位の間違いは有り得るので北に20日間としても、北では元に戻るような話になってしまい、どうにも辻褄が合いません。不弥国を宇美町や飯塚市とした場合、東や西に海はなく、古田氏の姪浜とした場合でも西は来たルートを戻る形になって有り得ません。姪浜の場合で残る唯一の可能性は東ですが、博多湾は北に向かって開いた湾なのでやはり難しそうです。大雑把な東としても、出発地から東に海が開けている必要があるでしょう。

古田氏は最終行程ゼロの論理から不弥国と邪馬台国は隣接しているとされています。けれども、「魏志倭人伝」において不弥国の次に来るのは投馬国ですから、不弥国に邪馬台国が隣接することにはならず、同氏の論はここで破綻してしまいます。いずれにしても、邪馬台国が北九州に存在し得ない点は既に論証していますので、「魏志倭人伝」の記述にそのまま従って検討すれば完全に行き詰ってしまうのは避けられません。

この行き詰りを打開するには、不弥国の次に「南、投馬国に至る。水行二十日。五万余戸ばかり。南、邪馬壱国に至る。女王の都とする所。水行十日、陸行一月。七万余戸ばかり。」の記事は入らないとすべきです。言い換えれば、「魏志倭人伝」の書いた順番が間違っていたのです。

さらに、不弥国までの行程は里数表示となっているのに、投馬国と邪馬台国までの行程は日数表示となっており、これは倭人などからの伝聞情報となります。従って、両国は郡の使節が足を踏み入れていない遠方と理解されます。古田氏の主張するように邪馬台国が博多湾岸に所在するなら(或いは少し内陸部でも)、使節は当然行っているでしょうし、邪馬台国までの行程距離は言うまでもなく里数で表示されるはずです。なのに「魏志倭人伝」は日数で表示しており使節は行っていないのですから、同氏の邪馬台国は博多湾岸にあるとする主張と「魏志倭人伝」の記述は全く噛み合いません。

「魏志倭人伝」で邪馬台国の部分の次に来る文章は、「女王国より以北、その戸数、道里は略載を得べきも、その余の旁国は遠くして絶へ、詳を得べからず。次に斯馬国有り…(多くの国名が続く)…次に奴國有り。ここは女王の境界尽きる所。

その南、狗奴国有り。男子が王と為る。その官は狗古智卑狗有り。女王に属さず。郡より女王国に至る。万二千余里。
」となります。

最初の部分の記事から女王国の以北に末盧国、伊都国、奴国、不弥国があると推論できます。またこの記事から、北と言っても北東から北西まで含み得る大雑把な北である点が確認されます。ただ、北が大雑把なものだとしても、例えば使節が最初に上陸する末廬国から次の伊都国までは40㎞近く離れており、伊都国から奴国、奴国から不弥国まではいずれも7.7㎞程度なので、実際的に女王国の北と言い得るのは伊都国、奴国、不弥国の3国となりそうです。3国のうちどれが女王国に最も近い位置にあるのかは、帯方郡の使節が往来して常駐する所と書かれた伊都国のようにも思えますが、次回であれこれ検討してみます。

次に、最後の部分の記事で郡(帯方郡)より女王国が一万二千里程度との記述が出てきました。従って、伊都国(糸島市)、奴国(博多付近、春日市)、不弥国(宇美町、飯塚市及びその他諸説あり、古田氏は博多の姪浜辺りとする)の南(南東、南西なども含み得る大雑把な南)、千三百里に卑弥呼の女王国が位置していることになります。千三百里は帯方郡から女王国までの総距離・一万二千里から不弥国までの距離・一万七百里を差し引いたもので、約100㎞となります。

問題は近接している伊都国、奴国、不弥国の3国から女王国まで100㎞程度もの距離があり、女王国が各国を統制するのに遠過ぎる点です。

上記の問題に関連して、「女王国より以北、その戸数、道里は略載を得べきも」の記事には注目すべき内容が含まれていました。それは、女王国と戸数、道里が書かれた3国の間に、戸数、道里が書かれていない他の国々が入っていないと理解される点です。逆に言えば、女王国はその北側にある3国のいずれかと近接(或いは隣接)していることになります。

さて困りましたね。距離で見ると3国から女王国までは100㎞も離れており、位置を示す記事から判断すれば、女王国より北側の3国は女王国に近接していることになって、「魏志倭人伝」に書かれた内容自体が大きな矛盾を孕んでいるのです。非常に厄介な部分ですが、この問題は後の回で考えてみましょう。

以上、「魏志倭人伝」における最も大きな問題は、不弥国の次に方位は南で距離も遠い投馬国、邪馬台国が入り、しかも距離は里数ではなく日数で表されている点だと理解されます。不弥国の次がうまく繋がらないから、誰もが混乱し幾つもの説が無理やり作られて、現代に至っても邪馬台国論争が決着しないのです。

また不弥国から女王国まで約100㎞もある点もかなり不都合な話です。さらに邪馬台国までは、九州に上陸してからの距離との前提で「魏志倭人伝」の記述に従うと、水行で合計30日、陸行で一か月も必要となり、九州からはるかに遠い場所になってしまいます。と言うか、水行で30日かかり、陸行でも一か月かかるような場所は、細長い日本列島の畿内までの範囲内に存在し得ず、明らかに「魏志倭人伝」の記述に誤りがあることになります。いずれにせよ、これらの矛盾点をクリアしない限り答えは出せません。

最初に書いたように、史料や論考に矛盾があるのなら、矛盾がないように再構成すれば真相に迫れます。ではどう再構成すればいいのでしょう?例えば、「南、投馬国に至る。水行二十日。五万余戸ばかり。南、邪馬壱国に至る。女王の都とする所。水行十日、陸行一月。七万余戸ばかり。」は後から挿入された文章だと仮定します。後からの意味は時代も含み、卑弥呼よりも遅い時代の情報が行程記事の中に後から誤って挿入されたので、どうしようもない矛盾が出てきたと考えたらどうでしょうか?

その前提で「魏志倭人伝」の記事を再構成するなら、投馬国と邪馬台国の記事は一旦外すことになります。そして不弥国の次に、「女王国より以北、その戸数、道里は略載を得べきも、云々」を入れた形で再構成してみます。

郡より倭に至るには、海岸に循いて水行し、韓国を歴て、乍南乍東、その北岸、狗邪韓国に到る。七千余里。始めて一海を度る。千余里。対海国に至る。千戸余り。又、南、一海を渡る。千余里。名は瀚海と曰う。一大国に至る。三千許りの家有り。又、一海を渡る。千余里。末盧国に至る。四千余戸有り。東南陸行。五百里。伊都国に到る。千余戸有り。世、王有り。皆、女王国に統属す。郡使往来し常に駐する所。東南、奴国に至る。百里。二万余戸有り。東行、不弥国に至る。百里。千余家有り。

女王国より以北、その戸数、道里は略載を得べきも、その余の旁国は遠くして絶へ、詳を得べからず。次に斯馬国有り…(多くの国名が続く)…次に奴國有り。ここは女王の境界尽きる所。

その南、狗奴国有り。男子が王と為る。その官は狗古智卑狗有り。女王に属さず。郡より女王国に至る。万二千余里。

南、投馬国に至る。水行二十日。五万余戸ばかり。南、邪馬壱国に至る。女王の都とする所。水行十日、陸行一月。七万余戸ばかり。


このように順番を変えれば、うんとすっきりしてきませんか?前後が意味も含めてきちんと繋がりますね。なお、投馬国と邪馬台国は女王国までの総距離・万二千余里の次に仮置きしています。では、上記を纏める形で整理してみましょう。

北九州沿岸部に末廬国(唐津市)、伊都国(糸島市、女王国に従属する)、奴国(博多付近、春日市)、不弥国(宇美町etc)があり、方位と道里が書かれている。女王国の以北は戸数、道里を簡略に記載できるが、その他の旁国は詳らかにできない。
上記の後に戸数、道里が不明な多数の国名が続き、最後に奴国(戸数が書かれた奴国とは別と思われる)が来て、ここが女王(女王国)の管轄下にある国の境界となる。その南に狗奴国があり、女王(女王国)に従属してはいない。郡(帯方郡)から女王国までは一万二千里となる。

いかがでしょう?不弥国の後に続く投馬国、邪馬台国までの行程を外して考えれば、北九州沿岸部乃至は少し内陸部に四つの国があり、その南に卑弥呼の女王国が存在し、さらに道里や戸数を示せない数多くの女王に従属する国々があって、その境界から外れる南には女王に従属しない狗奴国があるとなり、北九州の全体像がほぼ描けるし整合性もある程度取れていることになります。(注:3国から女王国まで100㎞ある問題は次回で検討します)

以上で、投馬国と邪馬台国の記事は後から「魏志倭人伝」の間違った場所に挿入されたものであり、地域も北九州ではなかったと確認されました。次回は投馬国と邪馬台国がどこにあるのかを見ていきます。

邪馬台国はどこにある その3


前回までの検討により、邪馬台国と女王国は別の国で、邪馬台国と投馬国は北九州に存在しなかったと確認されました。ではなぜ、邪馬台国の位置に関して北九州説、畿内説の両者で常に論争となっているのでしょう?畿内説論者の場合、そこが大和王権の発祥地であり、後年に続々と巨大古墳が築造された場所であり、大和と音も同じような邪馬台国は畿内にあるべきだと考えます。

北九州説論者は、いやいや邪馬台国の中心となる博多湾岸からは銅矛や銅剣、銅鏡、勾玉など三種の神器に相当する遺物や鉄器、絹などが大量に出土している。ところが大和からはほとんど何も出土していない。そんな何もないところに日本の中枢はない。当時の日本の中枢は北九州の邪馬台国で、7世紀末まで九州に日本を代表する王朝が九州にあったと主張しています。要するに、邪馬台国の位置に関してはどちらの説も王権(王朝)の問題にリンクさせているのです。

両者の議論が大和王権なのか九州王朝なのかに関わってくるので、どちらも引っ込みがつかない状態となっていますが、頭を冷やしてよく考えれば、ある国の位置を決めるのに王権や王朝は本来何の関係もありません。「魏志倭人伝」の記述を参考に、その位置がどこかを単純に考察すればいいのですから、決して難しいものではないはずです。北九州説、畿内説の争いを平たく言えば、偉いのはこちらだと小さなコップの中で争っているだけの話で、滑稽な感さえあります。

ただ、邪馬台国と投馬国の方位や所要日数などには錯誤もありそうなので、唯一ほぼ正しいと思われる戸数に古墳の規模を絡めて考えるべきでしょう。邪馬台国と投馬国は北九州にはなかった。けれどもこれまでの論証だけでは依然として不十分なので、5万戸を擁する投馬国、7万戸を擁する邪馬台国はどこにあったのかを、各国の戸数と古墳の規模から検討していきます。

と言うことで、狗邪韓国と各島を除く北九州の人口を再度書き込みます。末盧国は4千戸で1万2千人。伊都国は千戸で3千人。奴国は2万戸で6万人。不弥国は千家で3千人。女王国は不明。合計で戸数が2万6千戸、人口が7万8千人となります。戸数、道里が不明な22国は一国3千人として6万6千人で、北九州の総計が4万8千戸、14万4千人となります。北九州には、例えば遠賀川流域にも遠賀川式土器に代表される古い歴史があり、一定の人口はあると思いますが、22国に含まれるとしておきます。上記の場合、日本の総人口60万人に対し24%、百万人に対しては14.4%ですから、一応納得感のある比率となります。

北九州の14万4千人に対し投馬国(=吉備)が5万戸で15万人、邪馬台国(=大和)が7万戸で21万人となります。従って、人口規模としては北九州が一番小さくなりますが、北九州と吉備を比較した場合は大差なく、ほぼ同じと言えそうです。では、この人口規模と古墳の規模が見合うものかどうかを見ていきましょう。

大和(畿内地域)の場合、卑弥呼の時代から20年程度後の270年頃に箸墓古墳が築造され、墳丘長は278mで最古の巨大前方後円墳となります。これだけの古墳を築造できるのは強大な権力(実態的には大きな動員力)を持った首長以外にありません。その後大和では超巨大古墳が続々と築造されていきます。従って、巨大古墳築造に見合う動員が可能な地域は7万戸を擁する邪馬台国(=大和)しかないでしょう。

吉備の場合、岡山県岡山市東区浦間に古代吉備最古の大型前方後円墳の一つである浦間茶臼山古墳があり、古墳時代前期の3世紀末に築造されたと考えられ、全長は約138mです。同じく古墳時代前期に中山茶臼山古墳が築造されており、墳丘長は105mとなります。時代は下りますが造山古墳は墳丘長が360mもあり、全国で見ても第4位に位置する巨大さです。こうした背景から5万戸と書かれた投馬国に該当するのは吉備しかなさそうに思えます。

北九州の場合、福岡県福岡市博多区の那珂八幡古墳(なかはちまんこふん)は古墳時代前期で福岡平野最古の前方後円墳となり、全長は75m。福岡県京都郡苅田町の石塚山古墳は古墳時代前期の前方後円墳で墳丘長120mとなっています。吉備よりは少し小さめですが大差はなさそうです。

いかがでしょう。北九州、投馬国、邪馬台国の戸数は明らかに古墳の規模と連動していますね。ここから、投馬国が吉備で邪馬台国が大和(畿内地域)だったと確認できたことになります。ただ酔石亭主としては、大和王権が古代初期以降の日本における唯一の政権だったなどと言うつもりは全くありません。古代初期の日本においては大和勢力や吉備勢力、北九州勢力などがあり、それらは時代によって消長・変遷があると表現するのが妥当なところでしょう。

続いて出土物を簡単に見ていきましょう。古田氏は「ここに古代王朝ありき」の第2章 「倭都の痕跡」の中で、銅鏡の出土を取り上げます。古田氏によれば、日本において大量に出土する銅鏡は二種類しかなく、「漢鏡」と「三角縁神獣鏡」があり、「漢鏡」はほとんどが福岡県(特に筑前中域)から出土し、「三角縁神獣鏡」は近畿が中心であることは疑いがない。従って、銅鏡の問題一つ取り上げても、可能性のある領域は上記の二つしかないとします。

次に古田氏は銅矛を取り上げ、この出土は筑前中域しかない、この事実からだけでも卑弥呼の居城は筑前中域になるとしています。さらに鉄製の武器で見ると、近畿が2、九州は83で九州に圧倒的に多く、特に九州北岸の領域に多いとされています。これらから同氏は、権力の中枢は大和ではなく北九州にあり、九州王朝説を唱え、邪馬台国は北九州にあったとされるのです。

けれども、当時の国の勢力は生産力と動員力が中心になるものであり、三種の神器の数の多さは大陸や半島の先進文化を受け入れる窓口としての重要性が主であり、地域勢力の規模を示したものではないと思われます。もちろん、北九州の範囲においては、三種の神器が集中する筑前中域に権力の中枢があったと考えてもおかしくはありませんが……。

ではなぜ北九州に銅矛や銅剣、鉄製の武器類の出土が圧倒的に多いのでしょう?理由は簡単。「魏志倭人伝」に「旧百余国」と書かれているように、小国が乱立していた北九州は争いが絶えず、銅矛や銅剣の出土が多くなるのは当然の話です。その結果、既に見てきたように、大きな政治勢力や大規模古墳を生み出せなかったのです。大和に銅剣や銅矛の出土が少ないのは、それだけ平和な地域だったからと言えるかもしれず、だからこそ戦乱を嫌う北九州勢力の一部は大和に移住したと推測されます。

以上の検討で、投馬国が吉備、邪馬台国が大和(畿内地方)である点に一定の答えが得られました。それにしても、なぜ邪馬台国が北九州にあるとの誤解を生んでしまったのでしょう?それは「魏志倭人伝」の書き方(書く順番)に問題があったのです。問題があるなら、いつものように問題のない書き順に再構成すればいいはず。と言うことで、邪馬台国に関して北九州にあると誤解された原因を「魏志倭人伝」の記述から探り、次回で筋の通るように再構成してみます。

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