尾張と遠賀川流域の謎を解く その21


前回で剣岳を訪問しました。山頂に鎮座していた剣大明神とは日本武尊のはずなのに、「福岡県神社誌」によれば、明治になって豊日別神社の境内社上宮に祀られていた日本武尊を中山八剣神社に合祀したとのことです。一方、「筑前國續風土記」によれば剣大明神は剣岳山麓の各社で祀られ、それらの本宮的な地位を得ていました。かくも重要な剣大明神が明治の時点で廃絶の憂き目を見た豊日別神社の境内社だったなど、どうにも話の筋が通りません。また、剣大明神を宮簀媛命のみとするのも妙な話になってしまいます。解説石板の由緒を再掲して考え直してみましょう。

安閑天皇の御時今朝麿の遠孫人麿に神託ありて当社を剣岳山上に奉仕す
祭神日本武尊 須佐鳴尊 宮簀姫命
創立剣岳山上 中山の称起こる 安閑天皇時代
本社に草薙剣を奉護す 天智天皇七年二月
梅野土佐山上に城を築き本社を山の艮に移す 応仁年中
本社を山上に再建す 元亀二年
本社を新北に分霊す 元亀二年
本社炎上 天正元年七月
本社を小牧八剣神社に分霊す 寛文五年
本社を山の中腹に移す 宝永二年十二月
本社を現在地に移す 明和三年九月

由緒や史料、上記した剣岳の関連記事によれば、安閑天皇の御代に剣岳において剣大明神(=日本武尊)が祀られ、ずっと山頂に鎮座していたが、応仁年間(1467年から1468年までの期間)に山の東北に遷され、元亀2年(1571年)に山頂に再建され、天正元年(1573年)に炎上、宝永2年(1705年)に山の中腹に遷し、明和3年(1766年)に現在地に鎮座となっています。この経緯の中から、日本武尊のみがいつの時点か不明だが豊日別神社に遷され、明治時代になって中山八剣神社に合祀されたとする動きを読み取ることはできません。素直に解釈すれば、安閑天皇以降明治に至るまで中山八剣神社において日本武尊は祀られていなかったことになります。

中山八剣神社は元亀2年(1571年)に本社を新北に、寛文5年(1665年)に本社を小牧に分霊しています。既に書いたように、剣大明神は剣岳周辺各社の本宮的な地位を占めていました。そうした立場の剣大明神が、石祠に過ぎない豊日別神社の小さな境内社だったとか、明治になって合祀されたなど、あろうはずがないと思われます。では、どう考えればいいのでしょう?

今までの検討で、本城八剣神社や立屋敷八剣神社に関し、1185年に北九州の武人が尾張や大和の日本武尊に上書きされた点を論証しています。だとすれば、中山八剣神社もとほぼ同様だったとは考えられないでしょうか?ほぼ同様と書いたのは、本城や立屋敷とは異なる展開があったと思われるからです。中山八剣宮が創建された安閑天皇の時代は530年代ですから、1185年よりずっと以前の話となり、時代的にも大きく異なります。けれども、異なる展開のポイントはそこではありません。

安閑天皇以前から地元で崇敬されていた北九州の武人が、安閑天皇の時代になり尾張や大和の日本武尊によって上書きされそうになった。ところが北九州の武人は上書きを免れることができた。と考えたらどうでしょう?(注:中山八剣神社創建は安閑天皇の時代なので、そもそも武人を祀る祠はなかったかもしれません)

言い換えれば、安閑天皇の時代、剣岳山頂に尾張から日本武尊が勧請されて祀られ、それとは別に北九州の武人も祀られていたのです。よって、剣岳山頂に鎮座していた剣大明神は1社ではなく、2社だったことになります。そんな馬鹿なことはないとの反論も出そうですが、以下のようなシナリオなら十分に可能です。

安閑天皇以前から剣岳において北九州の武人が信仰の対象となっていた。磐井の乱が終わった安閑天皇の御代、大和王権が地元の意向など全く無視して尾張の日本武尊と宮簀媛命を鎮座させた。その目的は大和王権による北九州の統制強化である。自分たちの信奉する北九州の武人が消し去られるのを恐れた地元民は、この武人をそっと豊日別神社境内にて祀ることにした。明治43年になって豊日別神社の境内に祀られていた北九州の武人(日本武尊)は中山八剣神社に合祀された。

このシナリオなら、酔石亭主の想定する流れにも沿っているので好都合です。大和王権によって安閑天皇期に祀られた尾張や大和の日本武尊。それに押し出されるような形で豊日別神社にて祀られた北九州の武人としての日本武尊。同じ名前を持ちながら別の二人の人物だった神様が、近代に至ってようやく一柱の神となったと考えたらどうでしょう?話の辻褄は完全に合うことになりませんか?

今までに探索してきた本城八剣神社、立屋敷八剣神社における矛盾や謎は、北九州の武人と尾張や大和の日本武尊を別人(別の神)と位置付けることで解消できました。その点は中山八剣神社も全く同様だったのです。岩波書店の「日本書紀」の注には、日本武尊の名前は熊襲の川上梟帥(かわかみのたける)が奉った尊号でヤマトの勇者の意、と書かれており、特定の人物を指す固有名詞ではなく普通名詞となります。尾張と遠賀川流域の日本武尊を比較検討しただけで、岩波書店の注が正しいと確認されました。

いかがでしょう?あれこれ書いた内容は酔石亭主の推測に過ぎませんが、少なくとも筋の通る話になるとは思えませんか?もちろん、一つの視点から導き出した推測だけでは説得力に欠けることになります。この主張に説得力を持たせるには、少なくとも以下の疑問点をクリアする必要があります。

尾張以外に足跡などない(と現時点では推定される)宮簀媛命がなぜ遠く離れた剣岳で祀られたのか。またなぜ安閑天皇の時代なのか。大和王権が地元の意向など全く無視して尾張の日本武尊と宮簀媛命を鎮座させた、と書いたがその背景はどのようなものなのか。

こうして書くと厄介な疑問ばかりですが、安閑天皇当時の歴史イベントや時代背景などを探りつつ、上記した推測の裏付けを取っていく作業が不可欠となります。
        
         尾張と遠賀川流域の謎を解く その22に続く
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尾張と遠賀川流域の謎を解く その20


今回は中山八剣神社における祭神の問題をさらに追及していきます。同社祭神は由緒によると日本武尊、須佐鳴尊(須戔嗚尊)、宮簀姫命(宮簀媛命)となります。前回で書いたように中山は剣神社だとすれば、祭神は3神となり、それ自体は何もややこしそうに見えません。ところがより深く詰めようとすると、一転してややこしくなり、とても一筋縄ではいかないのです。問題点の検討を進めるため、解説石板の一部を再度以下に書き出します。

安閑天皇の御時今朝麿の遠孫人麿に神託ありて当社を剣岳山上に奉仕す
祭神日本武尊 須佐鳴尊 宮簀姫命

由緒には安閑天皇の御時人麿が当社を剣岳山上に奉仕すると書かれています。では、この時点で祀られた祭神は誰なのでしょう?明確に書かれてはいませんね。これが第一の疑問ですが、常識的に考えると日本武尊、素戔嗚尊、宮簀媛命の3神になるはずです。ところがです。「福岡県神社誌」には気になる記載がありました。内容の詳細はコマ番号190、191を参照ください。以下に主要部分の概要を纏め書きします。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1040130/190

当社の創立は、第27代安閑天皇の時代に、田部人麿と言う者が神託により、当剣岳山頂に斎祀った。祭神の素戔嗚尊は須賀神社にて祭祀されていたのを明治43年に合併した。祭神の日本武尊と天児屋根命は豊日別神社境内神社上宮と祭祀されていたのを明治43年に合併した。日本武尊は熊襲征伐の時、当国を巡り歩かれた。酋長の今朝麿が行幸を聞き及び厚く迎えた。賊を平らげ都に帰る際、再びこの地に留まったので、今朝麿は行宮を建て守護した。日本武尊は剣岳に登り四方を見渡し、静かな世の中山かな、と言ったので、ここに中山の地名が始まった。雷雨の後、しばし休息のため今の日吉神社から三町ばかりの場所に弟彦公に松を植えさせたので、その地を植木の邑と号すと伝えられる。

上記によれば素戔嗚尊は明治43年に須賀神社を合併し、日本武尊は同年に豊日別神社境内神社上宮にて祭祀されていたのを合併しています。素戔嗚尊は熱田神宮でも相殿神として祀られていますが、遠賀川流域には数多くの素戔嗚尊を祀る須賀神社が鎮座しているので、この神は別枠的に考えればよさそうです。

問題は日本武尊で、豊日別神社境内神社上宮にて祭祀されていたものを明治43年に合併しています。驚くべき内容だとは思えませんか?これをそのまま理解すると、安閑天皇の御代に剣岳山上で奉斎されたのは尾張限定のはずの宮簀媛命のみで、彼女が剣大明神となってしまうのです。仮にそうだとすれば、実に不可解ですね。

ここで剣岳に関する「筑前國續風土記」の記事を再度参照ください。現代文のみ以下に再掲します。

剣岳は鞍手郡の中央にあるので中山とも言う。中山村にあり、村より七町ある坂を登る。山上に剣大明神の社があるので、剣岳と号している。社は巽に向いている。剣岳山ろく周辺に剣大明神を祀る神社が八社ある。中山村、新入、龍徳、新北、新延、下木月、遠賀の本城村である。

安閑天皇の御代に剣岳で初めて奉斎されたのが宮簀媛命だとすれば、剣岳山麓周辺において3神を祀る剣神社各社の祭神も宮簀媛命だけになってしまいます。彼女は草薙神剣を熱田台地に遷座させ熱田神宮にて祀った巫女ですから、剣に関係する人物であるのは間違いありません。けれども、剣岳山頂に鎮座していた剣大明神とは、3神ひっくるめて剣大明神の可能性もありますが、基本的には日本武尊以外に考えられないはずです。

剣岳山麓には日本武尊を祀る神社が数多く鎮座していることからも、剣岳の剣大明神には本宮的な重要さがあり、その意味でも祭神は日本武尊となるはずです。なのに、明治になって豊日別神社の境内社上宮に祀られていた日本武尊を中山八剣神社に合祀したとは、どう言うことでしょう?この記述からは日本武尊の重要度がまるで感じられません。どこかに大きな間違いがあるのではないでしょうか?前回で、剣神社であれば3神で一応問題ない、とやや曖昧な表現で書きましたが、上記のような難問が控えていたので曖昧にするしかなかったのです。

日本神話によれば、豊日別とは伊邪那岐神・伊邪那美神が生んだ国土の一つを神格化したものとなります。筑紫嶋(九州)は、白日別が筑紫国、豊日別が豊国、建日向日豊久士比泥別が肥国、建日別が熊曾国の四面に分けられ、その一つとなる九州東部の豊国の別名が豊日別となるのです。ただ、一般的には豊日別は猿田彦のことになりそうです。

一般論はともかくとして、なぜ最も重要なはずの日本武尊が豊日別神社の境内社において祭祀されていたのでしょう?また、豊日別神社はどこに鎮座していたのでしょう?その文面に目を凝らして見たところ、豊日別神社の境内社上宮とあることから、剣岳山頂に鎮座していた可能性が高そうです。剣岳はプレ物部氏の聖山であり加えて日本武尊の伝承が残ることから、是非とも訪問すべき場所となります。剣岳山頂へは八剣神社の手前から車ですぐの距離なので、早速行ってみましょう。なお、駐車場から山頂までは少し歩きます。

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山頂に鎮座する八剣上宮。

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石祠。最近建てられたもののようです。

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石碑。主要部分を以下に書き出します。

日本武尊御駐輦(ちゅうれん。 天子が行幸の途中で車を止めること) 景行天皇二十八年
八剱神社創祀 安閑天皇時代
草薙剱を奉護す 天智天皇七年

この三項目はいずれも剣岳山頂での話で、しかも中山八剣神社にとって最も重要な部分だと理解されます。

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いわくありげな石。

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八剣上宮近くの囲われた場所。ここが豊日別神社でしょうか?

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豊日別と刻まれた石柱。やはりここが豊日別神社でした。

豊日別神社は多分明治43年に境内社で祀られていた日本武尊が中山八剣神社に合祀された時点で廃社になったのでしょう。神域も極めて小さく、単なる石祠に過ぎなかった豊日別神社の境内社が日本武尊を祀る祠だったとすると、由緒内容に見合うような重要度はまるでなかったことになります。

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山頂からの眺望。北九州の武人としての日本武尊もここから下界を眺め渡したのでしょうか?

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もう一枚。

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剱岳城跡の解説板。画像サイズを大きくしています。

中山八剣神社における祭神の問題は次回で詳しく検討します。

     尾張と遠賀川流域の謎を解く その21に続く

尾張と遠賀川流域の謎を解く その19


今回は鞍手町中山に鎮座する八剣神社の由緒を検討していきましょう。取り敢えず、幾つかある問題点の整理から始めたいので以下に箇条書きします。

同社は剣岳の山麓に鎮座しているのに、なぜ社名は剣神社ではなく八剣神社となるのか?
一般的に八剣神社の場合、祭神は日本武尊のみのはずなのに、なぜ日本武尊、素戔嗚尊、宮簀媛命の3神なのか?
日本武尊と素戔嗚尊は北九州にて数多く祀られているが、尾張限定のはずの宮簀媛命がなぜこの地にて祀られているのか?
創建は安閑天皇の時代だが、そこにどんな意味があるのか?
前回でアップした同社の由緒には、草薙神剣を当社(当時は剣岳山頂のはず)にしばらくの間安置したとあり、新たな謎まで加わっている。これをどう説明したらいいのか?

と言ったところでしょうか。これらの検討のため、前回の解説石板から必要部分を抜粋します。

八剣神社由緒
日本武尊熊襲征伐の折當国を経歴し給う酋長田部今朝麿村人と共に之を迎う尊喜び一方ならず 帰路再びこの地に留り給う酋長行宮を集英して守護し奉る 
安閑天皇の御時今朝麿の遠孫人麿に神託ありて当社を剣岳山上に奉仕す
祭神日本武尊 須佐鳴尊 宮簀姫命
創立剣岳山上 中山の称起こる 安閑天皇時代
本社に草薙剣を奉護す 天智天皇七年二月
梅野土佐山上に城を築き本社を山の艮に移す 応仁年中
本社を山上に再建す 元亀二年
本社を新北に分霊す 元亀二年
本社炎上 天正元年七月
本社を小牧八剣神社に分霊す 寛文五年
本社を山の中腹に移す 宝永二年十二月
本社を現在地に移す 明和三年九月
本社を新北に分霊す 元亀二年

上記の中には幾つも重要な情報があるので、じっくり見ていきます。最初に登場するのが日本武尊で、熊襲征伐の折に当地に立ち寄り歓待を受け、帰路にも再び立ち寄ったとのこと。もちろんここで言う日本武尊とは北九州の武人であり、彼は遠賀川流域全体に多くの足跡を残しています。遠賀川流域の中でもとりわけ重要な場所となる剣岳に武人の伝承があるのは当然とも言えるでしょう。ただ彼の話は伝承として存在するだけで、中山八剣神社の創建は安閑天皇の時代まで下ります。この時点における日本武尊は、北九州の武人ではなく尾張や大和の日本武尊と想定されますが、詳しい検討は後の回とします。

続いて中山は八剣神社か或いは剣神社なのかについて考えてみます。「その17」や「その18」などで、最初は剣岳山頂に鎮座していた点、3神を祀っている点から、中山は本来剣神社ではないかと書いています。今回はこの部分を一旦横に置いて検討を進めます。

解説石板によれば社名は八剣神社、その創建は安閑天皇の御代で、剣岳山上に鎮座したことになります。ところが、「太宰管内志」の記事では表題が中山劒神社になっており、記事中の「社記略」には、中山村劒神社は初め中山村山上にあり、と書かれていました。「太宰管内志」に従えば、同社が剣岳山上に創建され鎮座したのは剣神社(剣大明神)であって八剣神社ではないことになります。「太宰管内志」の中山八剣神社に関する記事詳細は以下のコマ番号313を参照ください。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/766660

ちなみに、「太宰管内志」は古物神社の神職家に生まれた伊藤常足が天保12年(1841年)、68歳の時に完成したものです。

由緒と史料の間で早くも齟齬を来した中山八剣神社の社名問題を、同社が最初に鎮座した剣岳の側から探ってみます。剣岳に関しては、「筑前國續風土記」鞍手郡のコマ番号15に記載あるので参照ください。
http://www.nakamura-u.ac.jp/library/kaibara/archive05/pdf/d13.pdf

釼岳 此山鞍手郡の中央に只一あり。故に中山共云。
中山村にあり。村より七町ある坂を登る。山上に釼大明神の社あり。故に釼岳と號す。社は巽に向へり。凡此邊に、釼大明神を祭る社八社有。中山村、新入、龍徳、新北、新延、下木月、遠賀の本城村也。

剣岳は鞍手郡の中央にあるので中山とも言う。中山村にあり、村より七町ある坂を登る。山上に剣大明神の社があるので、剣岳と号している。社は巽に向いている。剣岳山麓周辺に剣大明神を祀る神社が八社ある。中山村、新入、龍徳、新北、新延、下木月、遠賀の本城村である。

「筑前國續風土記」には、山上に剣大明神の社があるので、剣岳と号している。と書かれていることから、山の名前は山頂の祠から採ったものと確認されます。それを前提として考えてみましょう。仮に山上で八剣大明神を祀っていたとしたら、山名はどうなりますか?そう、当然八剣岳になっていたはずです。けれども山名は剣岳でした。矛盾しそうなこの問題をさらに追及してみます。

以前簡略に書いていますが、ネット情報に以下の内容がありました。元史料は鞍手町の八剣神社に伝わる「中山八剣之伝記」(鞍手町中山八剣神社蔵書)とのこと。これには、安閑天皇の御宇今朝麿の遠孫人麿が山上に小祠を立神霊をまつり、熱田の号に本つき八剣大明神と崇め奉り、と言った記事があるそうです。出典まで書かれているので内容は多分間違いないでしょう。この記事により中山八剣神社は熱田神宮の影響を受けていると確認されます。

ポイントは、熱田神宮の号(別名)に基づいて八剣大明神と崇め奉ったと書かれた部分です。その時代は安閑天皇の御宇ですから、中山八剣神社の創建時点となり、同社は剣岳山上に祀られた最初の時点から八剣大明神(=八剣神社)だったことになります。一方「筑前國續風土記」には、山上に剣大明神の社があるので、剣岳と号している。と書かれていました。山の名前は山頂の社名から採ったものと確認されており、社名が八剣大明神であれば山名は八剣岳となるべきです。

ところが実際の山名は剣岳なので、「中山八剣之伝記」の記述に誤りがあることになってしまいます。結論的には剣岳山上に最初に鎮座したのは、八剣神社ではなく剣神社になると見て間違いなさそうですが、反論の余地もあります。本城の場合は、剣大神を勧請して社名は八剣神社でした。中山は逆に、剣岳山上に鎮座するのが剣大明神だとしても、社名が八剣神社になるのは本城の例からすればあり得ると言えるのです。よって、少し別の角度から見ていきましょう。

熱田神宮の号(別名)が708年に創建された八剣宮(祭神は熱田神宮・本宮と全く同じ)を意味しているのは、「中山八剣之伝記」の記述内容から明らかです。だとすれば、530年代となる安閑天皇の御代に熱田神宮の号が八剣大明神(八剣宮)だなど、全くあり得ない話になってしまいます。

上記以外にも根本的な問題があります。熱田神宮の創建は社伝によれば景行天皇43年(113年)で、「熱田太神宮縁記」(コマ番号6)には日本武尊が亡くなってから宮簀媛命が熱田社に祀ったと書かれています。けれども、これらは日本武尊の死去した時点であり、伝説に過ぎません。実際の創建を文献でチェックすると、「熱田神社問答雑録」が大化元年(645年)、「朱鳥官符」が大化2年の丁未で干支を取れば大化3年になっています。

大化3年には熱田神宮摂社の下知我麻神社、上知我麻神社や境外社の松姤社などが松炬島(注:現在の笠寺一帯。かつては島状態で尾張氏の当初の拠点の一つ)から揃って遷座していますので、事実上の熱田神宮創建は645年から647年の間とみてほぼ間違いなく、安閑天皇の時代にはまだ存在していないのです。日本各地の主要な神社は大化の改新の進展に連動する形で創建されていますので、「熱田太神宮縁記」説は誤りと理解すべきでしょう。剣岳山上に最初に鎮座したのは、八剣神社ではなくやはり剣神社だったのです。(注:「熱田太神宮縁記」はデジタル化されていますが、本記事をアップした時点では接続できなくなっています)

「中山八剣之伝記」に書かれた記事の矛盾を追求することで、剣岳山上に鎮座していたのは八剣神社ではなく剣神社だったと確認できました。他にも確認できる史料があります。鞍手郡鞍手町古門には古物神社が鎮座し、そこに合祀された剣神社は剣岳から勧請されており祭神も3神でした。古物神社の由緒からも剣岳山上に鎮座していたのは剣神社だったと理解される内容ですね。(注:古物神社の詳細は後の回で個別に書いていきます)

以上、あれこれ検討した結果、中山八剣神社は本来剣神社だったとほぼ論証できたようです。

にもかかわらず社名が八剣神社となっているのは、1185年に本城の八剣神社の影響を受けたか、或いは熱田神宮別宮の八剣宮が創建された708年以降のある時点において何らかの影響を受けたことによるのでしょう。それは「中山八剣之伝記」に、熱田神宮の号に基づき云々、と書かれている点からも推論できます。社名問題はややこしさを極めましたが、「その17」にて既に書いたように、剣岳周辺に鎮座する各社は剣岳と本城の両方の影響を受けたため混乱を来し、剣神社か八剣神社かわかりにくくなってしまったのです。

残念ながら中山八剣神社において、本城或いは八剣宮の影響を示す史料は失われ、残存していなかったことから、創建時点にまで遡って八剣大明神と崇め奉ったことにしたと推定されます。ただ、遡り過ぎてしまったため、安閑天皇の時代に熱田の号に基づき八剣大明神と崇め奉ったなどと言う矛盾に直面する羽目となったのです。

続いて祭神を見ていきます。剣岳山上にある剣大明神は明らかに日本武尊を意味しており、一柱の神のはずなのに、中山八剣神社の祭神は日本武尊、素戔嗚尊、宮簀媛命の3神でした。もちろん、主祭神を日本武尊、配祀神を素戔嗚尊、宮簀媛命とする見方や、3神をひっくるめて剣大明神とする見方も可能ではあります。その見方が正しいかどうかはともかくとして、中山八剣神社における日本武尊自体に大きな問題が残っています。そうした問題は後の回でじっくり検討予定です。

「筑前國續風土記」に記載された剣大明神を祀る八社のうち、残りの神社も見ていきます。新入剣神社は日本武尊を戦国時代に熱田神宮から勧請していますので、時代も遅く別枠と考えます。龍徳剣神社は詳細が不明ですが、鎮座位置から判断すると祭神は3神だと推定されます。新北(現在の熱田神社)、新延(剣神社)、下木月(剣神社)はいずれも3神が祭神となっています。本城八剣神社は剣大神(日本武尊)となっていますが、どう考えても剣岳山麓周辺にはならないので、別枠的に考えるべきではないかと思います。

そして、別枠的に考えるべき本城の八剣神社のみが日本武尊(剣大神)だけを祀っているのですから、剣大明神を祀るとされる八社のうち、祭神と言う意味において「筑前國續風土記」の記述に整合してくるのは、時代が新しすぎる新入を除き本城だけとなります。

本当にややこしいのですが、鎮座地と祭神をベースに考えれば、やはり八剣神社が日本武尊で、剣神社を日本武尊、素戔嗚尊、宮簀媛命の3神とするのが妥当なように思えます。剣岳山上に祀られた剣大明神は剣神社だとして、祭神が3神になるのか、或いは日本武尊のみとなるのかは、他のもっとややこしい問題の解明が必要となり、現時点では結論を出せず、一旦保留するしかなさそうです。

他の史料もチェックします。吉田東伍氏の「大日本地名辞書 上巻」には「其(剣岳)頂上に剣大明神を祀り山北を剱村と呼ぶ、此峯郡の中央に聳ゆれば、中山とも称したり、剱明神は山下の諸村に分祀す、蓋物部氏の兵仗(ひょうじょう)を祭る所にして、以て往時其族等の住止を徴すべき者とす。」と書かれていました。「筑前國續風土記」とほとんど同じですね。
「大日本地名辞書 上巻」はデジタル化されていますので、以下を参照ください。コマ番号は735となります。
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2937057

社名問題から少し離れ、「大日本地名辞書 上巻」の内容をざっと見ていきます。兵仗とは戦闘用の実用の武器や武器を持った武官である随身 (ずいじん)・内舎人(うどねり)などの称とされます。ここから吉田氏は、剣岳を物部氏の武器(を持つ戦士)を祀る場所とされているようですが、混同している部分があると思われます。

遠賀川流域が物部氏の原郷であるのは間違いありません。けれども、前にも書いたように、彼らが武器を祀るようになったのは大和に進出し石上神宮が創建され、朝廷の武器を管理するようになって以降の話であり、それ以前の遠賀川流域にいたころは物部氏と名乗っていた可能性も低いと思われます。こうした観点からニギハヤヒ東遷以前に遠賀川流域を拠点としていた集団について、本シリーズではプレ物部氏と書いている訳です。

剣岳が物部氏の武器(を持つ戦士)を祀る場所ではない点は、剣岳周辺に鎮座する剣神社の祭神が物部氏の神でないことからも確認されます。つまり、剣岳はプレ物部氏にとっての聖山ではあっても、物部氏の武器や武器を持つ戦士を祀る場所ではないのです。この点に関して混同や誤解がないよう留意ください。

「筑前國續風土記」の剣岳の項に書かれた剣大明神を祀る社に「新北」があり、この社は現在の熱田神社に当たります。(注:熱田神社は剣岳のやや南寄り西麓に鎮座し、鎮座地は鞍手郡鞍手町新北)中山八剣神社由緒には、本社を元亀2年(1571年)、新北に分霊するとありました。理由は熱田神社が同年に炎上したためと思われます。従って、熱田神社祭神は既に書いたように中山八剣神社と同じとなりますが、ここで新たな疑問が浮上してきます。

中山八剣神社から分霊され祭神が同じなら、新北の社名は八剣神社となるべきなのに、なぜ熱田神社と称したのでしょう?(注:同社の手書き史料によると、曖昧な表現ながらかつて八剣神社と称した時代もあったようです)これも解くべき新たな謎の一つになりそうです。ただその解明は中山八剣神社などの調査が終了してからとします。

八剣神社は数が多いので、参考までに遠賀川流域一帯に鎮座する八剣神社を以下に纏めておきます。(注:現在は剣神社の社名だが史料で八剣神社と書かれているもの、過去に八剣神社と称していたものなども含めています)

現在は八剣神社
北九州市八幡西区本城に鎮座:(1185年に熱田神宮より勧請)
北九州市若松区小敷に鎮座:(本城より勧請と推定)
北九州市若松区塩屋に鎮座:(本城より勧請)
遠賀郡水巻町立屋敷に鎮座:(本城より勧請と推定。草薙神剣盗難事件の伝承あり)
遠賀郡遠賀町今古賀に鎮座:(立屋敷より勧請)
遠賀郡遠賀町広渡に鎮座:(立屋敷より勧請)
中間市中底井野に鎮座:(浅木神社より勧請)
鞍手郡鞍手町中山に鎮座:(草薙神剣盗難事件の伝承あり)
鞍手郡鞍手町小牧に鎮座:(1665年に中山の八剣神社より勧請)

現在は剣神社
鞍手郡鞍手町木月に鎮座:「太宰管内志」は表題を木月八劒神社とする。
直方市下新入に鎮座:「太宰管内志」は表題を新入八劒神社とする。
              戦国時代に熱田神宮より日本武尊を勧請し八劔大神と称えた。
鞍手郡鞍手町新延に鎮座:「太宰管内志」は表題を新延八劒ノ神社とする。

その他
高倉神社:遠賀郡岡垣町に鎮座(八剣宮とも俗称された。草薙神剣盗難事件の伝承あり)
熱田神社:鞍手郡鞍手町新北に鎮座 かつて八剣神社と称した時期もあった。
日吉神社:直方市植木に鎮座(かつては八剣宮と呼んでいた模様。「福岡県神社誌」に書かれた中山八剣神社の由緒からその可能性が指摘できる)

こうして並べると、剣岳山麓周辺に鎮座し、素戔嗚尊、日本武尊、宮簀媛命を祭神とする剣神社は、1185年に本城に鎮座した八剣神社の影響で、一時的にせよ八剣の社名になったと思えてきます。さてそうなると、剣神社か八剣神社かの問題は単なる混乱や混同ではないのかもしれません。「太宰管内志」が木月、新延の剣神社を八剣神社と表題に書き、一方で中山八剣神社を剣神社と書くのは、一定の意図があった。すなわち、木月と新延は本城の影響があったことを示し、由緒で八剣のままであった中山は逆に本来剣神社であったことを示したかった。とさえ思えてきます。

中山に鎮座するのは八剣神社なのか剣神社なのかと言う問題の検討だけで随分時間を費やしてしまいました。断定まではできないものの、中山は剣神社の可能性が高そうだとしておきましょう。これに付随してもう一つの問題点、すなわち、一般的に八剣神社の場合、祭神は日本武尊のみのはずなのに、中山八剣神社の場合なぜ日本武尊、素戔嗚尊、宮簀媛命の3神なのかと言う疑問も、剣神社であれば3神で一応問題ないことになります。(注:剣神社であれば3神で一応問題ないと書きましたが、これはあくまで現時点における判断であり、中山八剣神社の場合、祭神に関しても相当厄介な問題がありますので、次回で詳しく見ていきます)

今回はかなり長い記事となってしまいました。頭の体操的議論も多かったせいか、全体的にわかりにくい内容となってしまったようです。酔石亭主が書きたかったのは、記事の最初に赤字で整理した以下の2点の解明となります。

同社は剣岳の山麓に鎮座しているのに、なぜ社名は剣神社ではなく八剣神社となるのか?
一般的に八剣神社の場合、祭神は日本武尊のみのはずなのに、なぜ日本武尊、素戔嗚尊、宮簀媛命の3神なのか?

では、今回様々な視点から検討した結果を以下に纏めておきます。もちろんこれは現時点における途中経過的な内容に過ぎず、今後の微調整もあり得ます。

中山八剣神社は、剣岳山頂から遷座した点、祭神が日本武尊、素戔嗚尊、宮簀媛命の3神である点、「太宰管内志」が同社を剣神社と書いている点、古物神社に合祀された剣神社は剣岳から勧請され、祭神も3神である点などから、元は剣神社だったと思われる。剣神社のはずの同社が八剣神社と称されているのは、1185年に源範頼が熱田神宮を本城に勧請したこと、或いは708年に八剣宮が創建されたことの二つの異なる影響が想定され、現時点ではどちらの影響によるものか確定できない。中山が剣神社だとした場合、その成り立ちは本城など八剣神社の系統とは大きく異なってくる。

      尾張と遠賀川流域の謎を解く その20に続く

尾張と遠賀川流域の謎を解く その18


ここまでの検討で、遠賀川流域における八剣神社のありようには、源範頼による熱田神宮勧請(1185年)が大きな影響を与えていると確認されました。新入剣神社の場合は、戦国時代に熱田神宮から日本武尊を勧請して「八劔大神」と称えています。

「八劔大神」の表現には熱田神宮別宮の八剣宮の影響がありそうですが、八剣宮の創建(708年)には草薙神剣盗難事件が色濃く影を落としており、一方遠賀川流域には草薙神剣盗難事件に関連した伝承を持つ神社が何社かあるので、この点にも留意する必要がありそうです。また、前回で剣神社と八剣神社の社名に混乱がある原因を大雑把に見てきました。この問題もさらなる検討が必要でしょう。

既にご存知のように、1185年の出来事だけでは尾張と遠賀川流域の共通性や相似性を十分に説明できません。そうした部分を追求するための検討対象として、剣岳山麓の鞍手郡鞍手町大字中山1588に鎮座する八剣神社(やつるぎじんじゃ)を取り上げます。この神社は複雑な要素を抱えているようなので、時間をかけてじっくり探索する必要がありそうです。


鎮座地を示すグーグル地図画像。背後が剣岳になりますので、拡大して確認ください。

まず祭神を見ていきます。同社の祭神は日本武尊、素戔嗚尊、宮簀媛命の3神となっていました。これらの神様はいずれも熱田神宮・本宮において相殿神として祀られています。表面には出てこないものの、各祭神の背後には草薙神剣があり、素戔嗚尊は八岐大蛇の尾から神剣を取り出した人物、日本武尊はその剣で草を薙ぎ窮地を脱した人物、宮簀媛命は日本武尊から預かった草薙神剣を後に熱田台地に遷し熱田神宮にて祀った人物となり、いずれも草薙神剣に関係しています。

基本的に遠賀川流域に鎮座する八剣神社各社は、1185年に熱田神宮から本城に勧請され、それが分祀された、或いは影響を受けたもので、祭神は日本武尊となります。ところが前回で書いたように、中山八剣神社は剣岳山麓に鎮座している点、祭神が3神になっている点から、本来は剣神社だった可能性があります。

この見方はかなり大雑把なので、本当にそれでいいのか、より詳しい検討が必要となるでしょう。加えて同社には草薙神剣盗難事件関連の伝承も存在します。これらの問題は一筋縄ではいかないので、具体的な解明は後に回し、取り敢えずは中山八剣神社の写真をアップしていきます。

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中山八剣神社が鎮座する剣岳。写真は中山八剣神社側ではなく、山の西側から撮影したものです。

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社前より撮影。

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石段を登ると社殿が見えてきます。

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もう少し。

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拝殿です。

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境内。

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拝殿と本殿。

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八雷社の石碑。

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解説石板。

本武尊熊襲平定の折往き還りともに剣岳に留まり給う。帰路行宮を発ち多くの軍率と共に御山をお下りの折辻屋敷の地で激しい雷雨にあわれ林の中で雨宿りされ給う。其の折尊雷鳴の神を祭り給う雷鳴忽ち鎮まる。後世に里人其の地に祠を建て八雷の神を祀り危難を拂い開運を祈る。これが八雷社の起こりである。

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かつての境内図。

剣岳山頂が上宮になっていることから、現在の中山八剣神社は山頂から山麓に遷座したものであると確認できます。

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中山八剣神社の解説石板。

この解説石板は、今回の最初の写真「社前より撮影」の鳥居右側に設置されています。全文を以下に記載します。

八剣神社由緒

日本武尊熊襲征伐の折當国を経歴し給う酋長田部今朝麿村人と共に之を迎う尊喜び一方ならず 帰路再びこの地に留り給う酋長行宮を集英して守護し奉る 尊いたく当地の人情風致をし給う
安閑天皇の御時今朝麿の遠孫人麿に神託ありて当社を剣岳山上に奉仕す
祭神日本武尊 須佐鳴尊 宮簀姫命
創立剣岳山上 中山の称起こる 安閑天皇時代
本社に本堂を建て不動尊像を祀る 平安末期
本社に草薙剣を奉護す 天智天皇七年二月
御社神威益々著し
六坊の社僧奉仕す 仁安三年戊子八月
薬師を馬場の南北に建立す 仁安三年
八剣神社を植木庄本社という 建武年中以前より
梅野土佐山上に城を築き本社を山の艮に移す 応仁年中
秋月城代跡部安藝守城 天文年中
本社を山上に再建す 元亀二年
本社を新北に分霊す 元亀二年
本社炎上 天正元年七月
本社を小牧八剣神社に分霊す 寛文五年
本社を山の中腹に移す 宝永二年十二月
本社を現在地に移す 明和三年九月
不動尊像を本社より北薬師に移す 明治元年
本社の拝殿新築神殿葺替 昭和三年
神楽堂新築 昭和二十七年四月

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紙に書かれた由緒。やや読みにくいので現代文で概要を書き出します。

日本武尊が熊襲を征伐されるに当たり当国を巡られた。酋長の田部今朝麿は村人と共にこれを厚く出迎えた。尊は酋長の対応を大変喜び、帰路にも再び立ち寄られて留まった。酋長は行宮を築造し守護奉ったので、尊は当地の人情を賞した。安閑天皇の御代今朝麻呂の遠孫人麿に神託があって当社を剣山上に祀った。

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草薙神剣盗難事件に関する記載もあります。

天智天皇7年11月に新羅(今の韓国)沙門道行が草薙剣を盗んで筑紫まで逃げ、雨風のため帰り得ず発見され、剣は難を免れた。その時往古の縁故から当社に仮殿を設けてしばらくの間安置し奉った。このことがあってから八剣大明神は更に栄え、国主領主は神意を畏み社殿を建立し、参拝者は日に月に多くなった。

由緒を一読しただけで、中身の濃さ、課題の多さに驚かされます。神社の紹介と由緒だけでかなり長くなったので、今回はここで打ち止めとして、次回は同社の由緒内容を詳しく探っていきます。

           尾張と遠賀川流域の謎を解く その19に続く

尾張と遠賀川流域の謎を解く その17


前回で立屋敷八剣神社は本城から分祀されたと確認できました。今回は「太宰管内志」に書かれた他の八剣神社の記事やその他の情報もチェックし、遠賀川流域の八剣神社が熱田神宮から勧請されたものかどうかを見ていきましょう。

本城八剣神社に近い北九州市若松区塩屋鎮座の塩屋八剣神社は同社解説板によると本城からの勧請になっており、元は熱田神宮と確認されます。北九州市若松区小敷鎮座の小敷八剣神社は不詳となっていますが、鎮座地から判断すると塩屋同様本城よりの勧請でほぼ間違いないと思われます。祭神はいずれも日本武尊です。

今古賀八剣神社と広渡八剣神社は江戸時代に立屋敷八剣神社より分祀・勧請されていますので、こちらも元は熱田神宮で、祭神は日本武尊です。立屋敷八剣神社には日本武尊に加えて砧姫が祀られている関係からか、今古賀は二道入姫尊(日本武尊の妃)、広渡は豊受姫命が祭神に加わっています。以上、少なくとも遠賀川河口付近の各八剣神社は本城から分祀・勧請されたもので、祭神は日本武尊が基本になると言ってよさそうです。

遠賀川河口域から中流域に移りましょう。鞍手郡鞍手町中山に鎮座する中山八剣神社も社伝には、熱田の号に本つき八剣大明神と崇め奉り、と言った内容が見られます。ただ、社伝全体には幾つかの問題点もありそうなので、別途の検討が必要です。直方市下新入に鎮座する新入剣神社に関しては、「太宰管内志」に表題が八剣神社とあり、記事内容には、新入郷剣神社は尾張熱田宮を祝へり、との記載がありました。詳細は「太宰管内志」のコマ番号312を参照ください。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/766660

新入剣神社の現在の社名は剣神社です。ところが「太宰管内志」には、表題部分が新入八剣神社と記載され、記事部分を見ると剣大明神や剣神社になっています。更にチェックするため同社のホームページを参照したところ、戦国時代には、…中略…社殿を「紫竹原」に遷座造営し熱田神宮より日本武尊を相殿に奉祀して「八劔大神」と称えました。と書かれていました。立屋敷八剣神社の由緒にある、後に「八剱大明神」と改称。とほとんど同じ形ですね。新入剣神社の由緒は以下のホームページを参照ください。
http://www.tsurugijinja.jp/0949(22)2682?pScpage02

由緒によると、新入剣神社は戦国時代に熱田神宮より日本武尊を相殿に奉祀して「八劔大神」と称えていることから、本城の八剣神社とは直接的関係はなさそうです。同社の場合、往古は「倉師大明神(くらじだいみょうじん)」と称えられ、六ヶ嶽の東嶺「天上嶽」に鎮座していたとのこと。倉師(くらじ)は高倉下(たかくらじ)と関係する可能性もあり、その創立は北九州の武人とは無関係でした。

新入の場合は当初の祭神が北九州の武人ではなく、プレ物部氏系と推定される倉師大明神だったことから、1185年段階で上書きされなかったものと思われます。源範頼もこの辺の事情をよく理解して上書き作業を進めたのかもしれません。やや不審に思えるのは、現在の祭神に倉師大明神の名前がないことです。戦国時代まで下れば、物部氏云々も全く関係なくなるので、倉師大明神をあっさり消し去って日本武尊に置き換えてしまったのでしょうか?実情はともかくとして、そう考えれば筋は通ります。同社に関しては「福岡県神社誌」のコマ番号212にも記載されているので、以下を参照ください。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1040130/212

続いて鞍手郡鞍手町新延に鎮座する新延剣神社をざっと見ていきます。「太宰管内志」(コマ番号311)をチェックしたところ、同社に関する記事の表題は新延八劒ノ神社となっていました。熱田神社の金川宮司宅で拝見させて頂いた先々代の手書き史料(昭和13年頃のもの推定される)には、尾張の熱田宮より勧請 第13代成務天皇の6年9月に始めてこの地に勧請せり、と書かれています。

熱田神宮の実際の鎮座は、史料によって若干の違いがありますが、大化元年(645年)から大化3年の間となるので、成務天皇の時代に熱田神宮から勧請することは不可能です。それはともかくとして、尾張側からの影響がある点は確認されますね。なお、同社祭神に関して「福岡県神社誌」(コマ番号193)を参照したところ、素戔嗚尊、日本武尊、宮簀媛命となっていました。

「太宰管内志」は鞍手郡鞍手町木月鎮座の木月剣神社(コマ番号314)に関して、表題を木月八劒神社と書き、内容面では木月村劒大明神社としています。祭神は新延剣神社と同じで素戔嗚尊、日本武尊、宮簀媛命でした。熱田神宮から勧請したとの記述は見当たりません。創建は794年で、平安京への遷都があった年となっています。これにどんな意味があるのかは不明です。

遠賀郡岡垣町高倉に鎮座する高倉神社は草薙神剣盗難事件に関連して、その剣を留め置いたので熱田に倣って俗説には当社をも八剣宮と申し奉るなり。との所伝があり、熱田神宮との関係が明確に書かれています。この所伝は全体ではかなり長く、後で詳しい検討が必要です。

以上、本城周辺や遠賀川河口付近に鎮座する八剣神社各社は、源範頼が熱田神宮から本城に勧請し、そこから分祀されたものと見て間違いなさそうです。ところが、遠賀川中流域の鞍手郡鞍手町まで遡ると様相が異なってきます。それが鞍手郡鞍手町などに鎮座する剣神社各社です。剣神社は、社名から判断して剣岳山頂に鎮座していた祠が山麓の各村に分祀されたものと思われます。ではなぜ新入、新延、木月の剣神社は、「太宰管内志」の表題では八剣神社となっているのでしょう?実に不可解ですね。この矛盾を解くには、剣岳周辺の各社は、剣岳と本城の両方の影響を受けているとするしかありません。

影響度の濃淡はあるものの、剣神社各社は本城の八剣神社と剣岳の双方の影響を受けた結果、社名や祭神(八剣神社は日本武尊、剣神社は素戔嗚尊、日本武尊、宮簀媛命の3神)に混乱が生じたとも考えられます。その結果、鞍手郡鞍手町に鎮座する各社の場合、現在は剣神社なのに史料には八剣神社と書かれるケース、社名は八剣神社なのに祭神は素戔嗚尊、日本武尊、宮簀媛命の3神(本来は剣神社祭神)となっているケースなどが出てきたのでしょう。

具体的には、新延剣神社の場合、社名は剣神社で祭神も3神なのに、「太宰管内志」には新延八劒ノ神社とあり、本城の影響が一定程度入っているように見えてしまいます。逆に中山八剣神社は社名が八剣神社なのに、鎮座地は剣岳の麓で祭神は素戔嗚尊、日本武尊、宮簀媛命の3神と、鎮座地・祭神のいずれから見ても剣岳の影響が強く出ており、本来は剣神社ではないかと思えてきます。

色々ややこしいので、これらの問題は後の回でより詳しく見ていく予定です。なお「八剣」の表記には708年に創建された熱田神宮の別宮・八剣宮が影響を及ぼしているかもしれず、八剣宮の創建は草薙神剣盗難事件と関連しています。

以上、遠賀川流域周辺に鎮座する八剣神社各社は、幾つかの例外や不明部分が見られるものの、基本的には1185年頃尾張の熱田神宮から勧請され上書きされた、或いは影響を受けたと言ってよさそうです。(注:岡垣町の高倉神社や中山八剣神社なども熱田神宮の影響を受けていますが、その時代がいつになるか現状では不明です)

とまでは、実は言い切れません。上書きとは、例えば九州のAさんの話が、大和や尾張におけるBさんの話の一部にされ、置き換えられてしまったことを意味しています。しかし、1185年以前にも北九州において日本武尊の名を記した史料が存在しています。

例えば、本城の八剣神社由緒には「第六十四代円融天皇の貞元元年丙子(九七六年三月)に、祠を建て日本武尊を奉斎した。」とあります。976年以前においても、養老4年(720年)に完成した「日本書紀」には日本武尊の熊襲討伐が詳しく書かれています。

「日本書紀」の編纂開始時期に関しては、天武天皇10年(681年)条に天皇が「帝紀と上古諸事の記定」を命じたとあるので、この時点において既に北九州の武人に日本武尊の名前が付与されていたことになります。或いは681年以前に尾張から日本武尊の情報が伝えられ、北九州の武人にその名前が上書きされたとも言い得ます。そうなると、上書きされた時代が1185年から飛鳥時代以前へと一気に遡ってしまい、上書き作業が複数回行われた可能性まで浮上してきます。あまりにややこしすぎるので、この間の事情は追って検討することにしましょう。

剣神社の場合はどうでしょうか?現時点で言えることは少ないのですが、剣神社の祭神となっている宮簀媛命は尾張国に限定された人物です。この祭神の存在により尾張からの影響が想定されるものの、素戔嗚尊、日本武尊、宮簀媛命の3神が祀られた時代や背景、その経緯などは八剣神社とは異なるはずで、慎重に取り扱う必要があるでしょう。

遠賀川流域に鎮座する八剣神社各社は、北九州の武人を祀る祠があった本城に源範頼が尾張の熱田神宮を勧請し、それが遠賀川流域の各地に分祀され、既存の各社(各祠)に上書きされた可能性が高く、祭神は基本的に日本武尊で時代的には1185年頃となる。しかしそれだけでは説明のつかない部分が残るので詳しい検討が必要。剣神社各社は剣岳から分祀されたものと思われ、祭神は素戔嗚尊、日本武尊、宮簀媛命の3柱。祭神を見ただけでも本城や、そこから分祀された八剣神社とは異なる要素があると思われので、さらなる検討が必要。剣神社と八剣神社の社名には混同・混乱が見られる。八剣神社の社名は熱田神宮別宮の八剣宮が影響しているかもしれない。と纏め、立屋敷八剣神社などよりずっと錯綜し難解と思われる各神社の具体的な検討に入りましょう。

           尾張と遠賀川流域の謎を解く その18に続く
       
                                  
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