尾張と遠賀川流域の謎を解く その62


宮地嶽神社は広大で開けているので神域感はあまりありませんが、社殿背後に広がる空間も公園のような明るさでした。位置関係は「その60」の境内案内図を参照ください。

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これはもう完全に公園です。

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もう一枚。

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寂れた風情の民家。合掌造りの家もありましたが、崩壊していました。

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解説板。

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宮地嶽古墳。不動神社となっています。

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内部の様子。

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ズームします。

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さらにズーム。かなり奥が深いようです。

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解説板。

画像サイズを大きくしています。あれこれ書かれていますが、後半部分に至ると九州王朝とか磐井とかが出てきてよく理解できません。Wikipediaには以下のように書かれていました。

本古墳は、6世紀の築造と推定され、宮地嶽神社境内にある。墳丘形状は大型の円墳で、直径は34メートル、横穴式石室の長さが約22メートルもある。今日内部をみることの出来るもののうち最大規模で、文字通りの巨石墳である。この種の埋葬施設で最大のものは奈良県橿原市にある巨大古墳見瀬丸山古墳で、約28メートルである。巨石墳として有名な奈良県明日香村の石舞台古墳でさえ約20メートルである。古墳石室に使用された玄武岩は玄界灘の相島から船によって運ばれたと推定されている。
この古墳の入口には、ガラス製の骨壺を収めた青銅製の骨蔵器も追納されており、被葬者は、宗像一族の首長墓である。ところで、『日本書紀』天武天皇二年(673)正月条で帝紀を記している中に「次に胸形君徳善が女尼子娘を納して、高市皇子命を生しませり」とあって、この古墳に埋葬されているのは徳善であるとの説が有力である。宮地嶽神社側の説明としては、諸説あるが磐井氏の関係者との説もある。


これならわかりやすいですね。続いて幾つかの境内社を見ていきます。

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薬師神社とのことです。薬師如来を祀っているのでしょうか?

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三宝荒神。

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淡島神社と濡髪大明神。

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稲荷神社です。

宮地嶽神社は以上です。長く続いた「尾張と遠賀川流域の謎を解く」シリーズも今回で終了です。もっとも、終盤の十数回は神社の紹介だけですが…。

パソコンの不調を抱えながら何とか本シリーズを終えることができました。けれども、パソコンがいつ完全に壊れるともしれず、新しい写真の取り込みもできないし、歴史の謎も尽きつつあることから、本ブログは当分の間休止とします。いずれ機会を見てのんびり再開しようとは思っています。

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尾張と遠賀川流域の謎を解く その61


宮地嶽神社を続けます。

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鳥居と大きな楼門。

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楼門。

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拝殿です。思ったよりずっと広い境内です。

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拝殿をズーム。

注連縄の巨大さに驚かされます。出雲大社より大きいかも…。

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拝殿両翼の建物の一つを撮影。

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本殿。黄金色に輝いて見えます。

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本殿をもう一枚。

前回でアップした境内図によると、本殿の裏手にも多くの境内社や古墳などがあるようです。次回はそれらを見ていきましょう。

             尾張と遠賀川流域の謎を解く その62に続く

尾張と遠賀川流域の謎を解く その60


尾張と遠賀川流域の謎解きも60回を数えました。まあ、謎解き部分は50回あたりまでで後は単なる神社の紹介に過ぎませんが…。今回は光の道で一躍有名になった宮地嶽神社を見ていきます。鎮座地は福津市宮司元町7-1。


鎮座地を示すグーグル地図画像。

光の道とは、年に2回、社前に広がる宮地浜の海に落ちる夕陽が、鳥居や参道の先に真っ直ぐ沈み、神社と海岸、そして相島が一直線で結ばれる現象を言います。

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石段を登って振り返ると、確かに一直線です。

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光の道。同社の掲示板を撮影したもの。

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結構大きな楠。

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こちらが御神木でしょうか?楠の前に鳥居があります。

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ここが元の御本殿だった場所だそうです。

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鳥居の先にいかにも神体山らしい宮地嶽が聳えています。

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鳥居と宮地嶽。うまく鳥居の中に収まりました。

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解説板と案内図。画像サイズを大きくしています。

同社の主祭神は神功皇后で、勝村大神・勝頼大神を配祀しています。由緒に関しては、「福岡県神社誌」コマ番号133によれば、神功皇后が新羅を征伐の時、宮地嶽の山頂において宗像三女神に戦勝を祈願して勝利したので宗像三女神を奉斎したとのこと。後に神功皇后を御同座に祀り、勝村大神、勝頼大神は三韓征伐において常に先頭で戦ったとのことで、帰還後この地の祖として祀られたそうです。「福岡県神社誌」の記述と異なり、現在は宗像三女神が祭神に入っていないようです。「福岡県神社誌」は以下を参照ください。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1040130/133

           尾張と遠賀川流域の謎を解く その61に続く



尾張と遠賀川流域の謎を解く その59


前回で宗像大社の祭神や創建時期を検討しました。同社のホームページや「福岡県神社誌」に詳しい情報がないかチェックしてみましたが、ほとんど何も書かれていません。とても奇妙な感じです。何か隠したいことでもあるのでしょうか?「福岡県神社誌」はコマ番号70を参照ください。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1040130/70

宗像大社の写真を続けます。

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境内の御神木。

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接近して撮影。それほど大きくはありません。

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解説板。

楢の木で樹齢は約550年とのことです。一般的には神社の御神木は杉や楠が多いのですが、楢は珍しい。

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本殿が素晴らしいので位置を変えて撮影。

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もう一枚。何となく女性的な雰囲気があります。

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高宮祭場の解説板。

境内の奥が宗像三女神の最初の降臨地とのことなので行ってみます。

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趣のある小径です。

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高宮です。

神の気によりピントがボケています。などと言うことはありません。

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高宮。

神籬(ひもろぎ、樹木)が神の降臨する依代になっているとのこと。神聖な雰囲気に満ちています。

           尾張と遠賀川流域の謎を解く その60に続く

尾張と遠賀川流域の謎を解く その58


今回は遠賀川流域を離れ、宗像市田島2331に鎮座する宗像大社(辺津宮)を見ていきます。同社は世界遺産登録でかなりすったもんだしましたが、何とか登録に至った経緯があります。


鎮座地を示すグーグル地図画像。

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鳥居です。

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文部省の解説板。これだけでは何もわからない。

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池もありました。

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祭神の解説板。

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神門。

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拝殿です。

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拝殿と本殿の解説板。どちらも国の重文とのことです。

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美麗な本殿。

宗像大社の祭神は天照大神の御子神で、田心姫神(たごりひめのかみ)、湍津姫神(たぎつひめのかみ)、 市杵島姫神(いちきしまひめのかみ)の宗像三女神となり、田心姫神は沖津宮(おきつぐう)、湍津姫神は 中津宮(なかつぐう)、市杵島姫神は 辺津宮(へつぐう)にて奉斎され、この三宮の総称が宗像大社となります。同社の祭神や祭祀氏族などには大きな謎があるので少し検討してみましょう。まず祭神です。

宗像三女神は元々水沼君が祀る神で、「その25」、「その26」にて書いたように、六ヶ岳の山麓に鎮座する六嶽神社にて祀られており、六ヶ岳が最初の降臨地となります。この降臨は御井郡(現在の久留米市)にいた有力豪族の水間君(水沼君)が磐井の乱の後、物部麁鹿火(あらかい)の弟である物部阿遅古連(あじこのむらじ)により、現在の鞍手町となる六ヶ岳山麓に強制移住させられたことを意味しています。このため、「先代旧事本紀」では水沼君の祖が物部阿遅古連となってしまいました。また鞍手町には水間が転じた水摩姓が多く、彼らの後裔がこの地に居住し続けたことが確認されます。

さてそうなると、宗像三女神はなぜ鞍手町から距離のある宗像大社祭神になってしまったのでしょう?水沼君の後裔が鞍手町に居続けたのであれば、現在の宗像市に移住などしていないはずです。水沼君は移住していないのに、宗像三女神は宗像市にて祀られている。その矛盾を解消するには、六ヶ岳山麓に降臨した宗像三女神が水沼君ではない別の誰かの手で宗像市にまで運ばれてしまったとするしかありません。

では、誰が…。有力候補はもちろん物部阿遅古連です。仮に物部阿遅古連が宗像三女神を宗像市に運んだとしたら、どこかにそれを示すような記事が残されているのではないでしょうか?と言うことで、「肥前国風土記」を読むと以下のような記事が書かれていました。内容は読みやすいように書き直しています。

姫社(ひめこそ)の郷
昔、御井の大川に合流する山道川の西に荒ぶる神がいて、路行く人の多くが殺され、死ぬ者が半分、死を免れる者が半分という具合だった。この神が祟る理由を占ったところ「筑前の宗像の郡の珂是古(かぜこ、あじこ)に祭らせよ。そうすれば凶暴な心はおこすまい」とあった。そこで珂是古を探し出すと、彼は幡を高くあげて風のまにまに放した。すると幡は姫社の杜に落ち、夜珂是古の夢に織機などが出てきたので、女神であることを知り、さっそく社を建てて神を祭ったところ、路行く人は殺されなくなった。


珂是古は物部阿遅古連とされているので、上記から物部阿遅古連は宗像三女神を筑前の宗像郡に持ち運んだと確認されます。従って、宗像三女神が六ヶ岳山麓から宗像郡に遷座したのは磐井の乱後の530年代となります。これで宗像郡における宗像三女神の鎮座時期がほぼ確定しました。

続いてなぜ水沼君が宗像三女神の祭祀氏族なのかを考えてみます。宗像三女神は天照大神の御子神となります。当初の祭祀氏族である水沼君は御井郡(現在の久留米市三潴)の豪族でした。そして太陽神・天照大神の原型は卑弥呼(太陽を祭祀する巫女)であり、卑弥呼の死後は太陽を象徴する呪具・鏡が天照大神として祀られました。

卑弥呼の支配した女王国がどこにあったのかは不明ですが、その墓に関しては久留米市御井町字高良山(旧筑後国御井郡)の祇園山古墳との説があります。仮にこの説が正しいとすれば、同じ御井郡にいた水沼君が天照大神の御子神となる宗像三女神を祀るのは自然な流れとなってきます。


祇園山古墳の位置を示すグーグル地図画像。高速道路建設で破壊されそうになったようです。

続いて宗像氏を見ていきます。宗像氏に関しては胸形氏、宗形氏、胸肩氏などの別表記もあります。当初の宗像氏は宗像地方と響灘西部から玄界灘全域を活動領域とする海人系の一族でした。宗像大社における祭祀氏族もまた宗像氏となります。ただ、後者の宗像氏の祖は正三位中納言清氏親王とされ、800年代の終わり頃から900年代の人物となります。だとしたら、海人系宗像氏と宗像大社の宗像氏は別グループなのでしょうか?

清氏親王以前にも宗形徳善や宗形鳥麿などがいて、徳善の娘尼子娘は天武天皇の妃となり高市皇子を生んでいます。天武天皇の時代には宗像朝臣を賜りました。そうなると、清氏親王が宗像氏の祖と言うのは怪しくなり、海人系の宗像氏の後裔が宗像三女神を祀る社の祭祀氏族となって、宗像大社の創建に至ったと考えた方がよさそうです。同社の実際の創建時期は不明ですが、530年代に宗像三女神が持ち込まれ、天武天皇期にはおおよその形が整い、実質的な創建は大化の改新時期になるのではと推定されます。

面白いのは、同じ海人系の安曇族は日本各地に進出しているのに、海人系としての宗像氏はそうでもなさそうな点です。にもかかわらず、宗像三女神は日本の至る所で祀られています。両者の違いはどこにあるのでしょうね。いずれにしても、今回で書いた内容は厳密な検証をしておらず、大雑把な推測に過ぎないとご理解ください。より明確な記事を書くため、機会があれば高良山周辺を訪問してみたいと思います。

              尾張と遠賀川流域の謎を解く その59に続く
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