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浜松の秦氏 その44


服部天神宮を続けます。

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菅原道真の像。

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服部天神宮です。

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内部の様子を拡大します。

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社殿を背後から撮影。

服部天神宮で秦氏と服部連の関係をチェックする必要があります。境内で探してみると、解説板と言うより紙芝居のような掲示物が何枚も掲げられていました。

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掲示板1。

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掲示板2。

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掲示板3。

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掲示板4。

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掲示板5。

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掲示板6。

非常にわかりやすく書かれていますが、これだけでは不十分です。服部天神宮で頂いた由緒をチェックしてみましょう。

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由緒です。主要部分を抜粋します。

その昔、朝鮮から機織りの技術を我が国に伝えた人々に「秦氏」の姓氏を与えて、これらの子孫の多くが、この地に住まいしました。「服部」の地名は秦氏の人々の住むところとして、「機織部(ハタオリベ)」から成りたったものと思われ、第十九代允恭天皇(皇紀1072年 西暦422年)に、織部司(オリベノツカサ)に任ぜられ、諸国の織部を総領した「服部連(ハットリノムラジ)」の本拠地が服部であります。(新撰姓氏録 第十八巻摂津国神別))
外来部族であった秦氏は、外来神であり医業の祖神である「少彦名命」を尊崇していましたので、当神社は子の服部後に古くから、おまつりしていたものと思われ、その創建は菅公ご生前より遠く、相当古い年代であったと推定されています。

では服部天神宮の由緒を検討してみましょう。最初の「朝鮮から機織りの技術を我が国に伝えた人々に「秦氏」の姓氏を与えて、これらの子孫の多くが、この地に住まいしました。」と書かれている部分に関して、服部天神宮から北へ直線で約8㎞先が池田市となります。同市には呉織、漢織が応神天皇の御代に渡来したとの伝説があり、この地域には秦氏の痕跡が残ります。また伊賀では秦酒君が呉織、漢織の祖となっていました。上記はこれらの見方を総合したもののようにも見受けられてしまいます。

さらに服部連に関する「新撰姓氏録」の記事も引用しその本拠地が服部天神宮の鎮座する服部だとしています。この記述に従えば、服部連の本拠地は高槻と豊中の二か所になってしまいます。一体どちらが本家本元なのでしょうか?そこで服部天神宮の祭神をチェックすると、少彦名命、菅原道真の2柱となっていました。「新撰姓氏録」の記事には摂津国の服部連に関して、熯速日命と十二世の孫・麻羅宿祢の名前が出ています。ところが服部天神宮の服部連は少彦名命を祭神としています。祭神から判断すると服部連の本家本元は神服神社の服部連で間違いなさそうです。

服部天満宮の一帯はかつての川辺郡機織郷(注:史料面での確認はできていません)で、機織から服部の地名が生まれ服部郷になったとすれば、機織に従事する集団がいたことは間違いなさそうです。そうした要素が秦氏や服部氏の話に繋がり、川辺郡が摂津国に属することから服部連の拠点と見做され、服部天神宮の由緒に記載されていったのでしょう。まあ、どちらが服部連の本家かは別としても、両者とも服部連=秦氏としているのは間違いないと思われます。

今回のシリーズでは、秦氏と服部連や服部氏の関係を紐解くのが中心課題となってしまったようです。あまり確定的なことは言えない結果となりましたが、新しい発見も幾つかあって楽しい探索にはなりました。44回も続いた「浜松の秦氏」はこれで終了とします。なお、浜松の神社で秦氏と関係があるかもしれないと思い訪問し、検討課題と直接関係のなかった先も数社ありますので、別途アップしていきます。
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浜松の秦氏 その43


今回は秦氏=服部連とする他の例を調べるため、豊中市服部元町1丁目2-17に鎮座する服部天神宮を訪問します。


鎮座地を示すグーグル地図画像。

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服部天神駅のプラットホーム。

結構な巨木がそのまま残されています。他でこのような例はほとんどないと思われ、ちょっと感動しました。駅から服部天神宮まではすぐの距離です。

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狭い通り。

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解説板。かつては殷賑を極めた能勢街道だったとのことです。

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鳥居と比較的狭い境内。境内右手に建物があります。

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建物。何が祀られているのでしょう?

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古い五輪塔のようなものが…。よほど名のある方のお墓だったのでしょうか?

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五輪塔を拡大。

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解説板。読みにくくなっているので、以下に書き出します。

摂津国豊能郡は、もと川辺郡と称し、ここにあった川辺荘は藤原魚名公の別業であったと伝えられ、ここ服部郷は川辺郡機織(はたおり)郷から服部(はっとり)と地名が生れたといわれています。川辺左大臣藤原魚名公は藤原鎌足の曽孫にして光仁、桓武両朝に幾多の要職を歴任しましたが、延暦元年事に坐し太宰府に左遷御下向の途次、摂津国川辺荘の別業において病に臥して身を動かすことあたわず「よろしく京都に帰養すべし」と恩勅がありましたが、遂にこの地にて薨ぜられ、服部郷松ヶ市にその骸を葬られました。それより約百年後の延喜元年、菅原道真公もざん言に逢い太宰府に流される途次、足の病に悩まされましたが此の地において村人の案内によって医薬の祖神少彦名命を祀る天神祠に詣でその平癒を祈願されました。そして境内近く路傍の片隅にある五輪塔を御覧になって、これはまさしく先賢魚名公の墳墓であることを知られ、「昨日は人の身、今日は吾が身にふりかかるさだめか」と嘆ぜられ懇ろに供養を捧げられました。かくて菅公は吾が天神祠と魚名公の御神霊の加護によって足の病が全快し、無事太宰府に旅立たれたと伝えられます。菅公歿後この天神祠に菅公の霊を合祀し堂宇を建立し、吾が服部天神が全国津々浦々にまで聞こえて、足の神様としての霊験をいただく善男善女で門前市をなす様になったと申し伝えられています。魚名公の子孫の正統は四条家で、四条流包丁道を伝え、この四条家の祖たる魚名公は、日本料理、割烹料理の祖神として料理飲食を業とする方々の崇敬を集めています。

摂津国豊能郡は、もと川辺郡と称し、服部郷は川辺郡機織(はたおり)郷から服部(はっとり)と地名が生れたとのこと。この記述はいつの時代の話だったのか明確ではありません。多分大化の改新前後の情報ではないかと思いますが、その当時川辺郡に機織郷があったとの史料が見当たらないので内容の確認ができない状態です。もう少し丁寧な説明が欲しいですね。

祀られている五輪塔に関しては、なんと藤原鎌足の曽孫である藤原魚名の墓とのこと。この人物の生誕年が養老5年(721年)ですから、随分古い話になります。その百年後には菅原道真が大宰府に流される途中に立ち寄り天神祠に足の痛みの平癒を祈願されたとか。そして境内近くの五輪塔を見て、魚名公の墳墓であると知られたそうですが…、この部分はちょっとおかしいと思います。五輪塔が供養塔、供養墓として造られるようになったのは平安時代末期以降だからです。

それはさて置き、この場所には色々な歴史が詰まっていると知らされました。服部天神宮と秦氏や服部連の関係は次回とします。

浜松の秦氏 その42


今回は浜松に戻ります。蜂前神社の由緒では詳しい内容が不明なので、「遠江織物史稿」(山本又六著)を参照することに…。同書には以下のような内容が書かれていました。(注:浜松市図書館で既にご紹介した他のページ分と合わせてコピーしたのに、紛失したのか見当たらないので、三つ柏服部さんの記事より引用させていただきました。)

由緒 蜂前神社々掌・荻原元良調書抜粋(八田氏は萩原、荻原二家に分かれたと伝えられる。)旧記に、応神天皇十一年(推定西暦390年)、私達祖・八田毛止恵と申す者、敕(みことのり)を奉じ遠江国へ下向し、八田(祝田村の古名)四十五町、広田(刑部村の古名)七十町、岩瀬(瀬戸村の古名)八町三反、合わせて百廿三町三反を開墾し、八田郷字神出(此字祝田村にある)に居住、後孫代々氏神蜂前神社に奉仕す、とあり。抑是を蜂前神社御鎮座の元始とする。脇宮四柱の大神勧請は、人皇十九代允恭天皇御宇(推定439~460)、熯速日(ひのはやひ)命十二世の孫・麿(麻羅)の宿祢、諸国の織部を惣領し、服部の連と云うと『姓氏録』に見える。此の宿祢、此の里に巡回し来たって、養蚕織工等の事業を郷党に教授して大いに此の郷を賑給した。依って、御本社天照大御神、天上高天原で始め給うた養蚕織工の御神徳に基づき、宿祢の祖・熯速日命御親子四柱の大神を脇宮に奉斎して、養蚕織工の事業を後世に奨励したと云う。   ~中略~ 
 以上、古文書其の他により、蜂前神社が由緒正しい織物に関係深い神社であることが明らかである。服部の連麻羅の宿祢が指導して開いた織物生産の地域は、蜂前神社氏子の地域で、相当広く又多数の集団であったであろうと察せられる。麻羅の宿祢が開発以前に此の地方に織物が出来たであろうことが想像せらる。そう考えると、土地の開発者八田毛止恵の八田は秦氏の一族ではないか。秦は波多、羽田、幡多等と書かれ、八田もその例であるとも考えられる。果たして然りとすれば、八田氏が当地方を開発以来、殖桑機織の業をも扶植し、後、麻羅の宿祢によって、改良発展せしめられたことと成るが如何であろう。以上、述べる所により、蜂前神社が遠州に於いて、最も古い織物の神社であり、其の氏子は織物生産の大集団で、遠州織物の先駆者であったと云うべきである。  ~中略~
本社を中心として、付近の神社の摂社末社に織物の諸神を祀るものの多いことなどを考え合わせ、又、今の浜松市豊西町羽鳥の服織神社のことも併せ考えて、旧中川村、都田村から浜名平野北部にかけて、庸調時代に養蚕、機織の盛んであったことを察することが出来る。又、秦氏に関係ある地名の多いことも考え合わすべきである。


最初の行にある荻原元良は八田毛止恵の遠い子孫に当たり、祝田村の医師で幕末から明治時代初め頃の人物のようです。従って上記の内容は萩原家に伝わる古文書などが元になっていると考えられ、一定の信憑性があると思われます。その場合、酔石亭主の推論とは異なる部分も出てきます。例えば「その40」における検討結果から麻羅宿祢は実在の人物ではないと推測していますが、上記では実在の人物となり、驚いたことに遠江にまでやって来て養蚕織工等の事業を郷党に教授したと書かれています。

上記の部分に関しては、麻羅宿祢の遠江到来が事実でないにしても、644年に入鹿の乱を避けて来た秦氏と服部連が麻羅宿祢を奉斎していたことから、そうした記事内容に繋がったと理解すべきでしょう。またこのことは神服神社(当時は服部神)の服部連が秦氏と共に移住して来た証明にもなりそうで、蜂前神社と神服神社の深い繋がりや関係性が感じられます。

「遠江織物史稿」の記述では、八田毛止恵(はったもとえ)を秦氏ではないかと推定し、彼らが養蚕機織を当地に扶植、その後熯速日命十二世の孫・麻羅宿祢がここに来たて発展させたと、二段構えのストーリーで描いています。

ただ、秦氏系の八田毛止恵が遠江国に来たのが応神天皇11年(記紀年で280年)とすると、秦氏の祖とされる弓月君が百済から来朝して窮状を天皇に上奏したのが応神天皇14年ですから、それ以前にこの人物が遠江国に行くなど有り得ません。蜂前神社の由緒は応神天皇の御代に秦氏が渡来した内容を自分たちに引き寄せ、八田毛止恵が来たとの話にしたものでしょう。麻羅宿祢がこの里に巡回し来ったとの話は、彼の子孫を称する服部連がこの地に来たことを意味しているようにも受け取られます。

今までの検討結果や蜂前神社の祭神、地元郷土史家の見解などを総合すれば、同社は神服神社より祭神を勧請した可能性が高くなります。ただ、神服神社の解説板には以下のように書かれていました。

伝承では允恭天皇の時麻羅宿禰が織部司に任ぜられたというから八・九世紀のころ服部部民の神を勧請しあわせて民族の始祖をその本貫の地に祀ったのが創祀である。当時は「服部神」と呼ばれのち、醍醐天皇の延喜年間(10世紀初頭)神服神社と定められ現在に至っている。

允恭天皇から続いているはずの内容が、一気に8、9世紀まで下ってしまっているのは理解に苦しみます。文脈も整合していません。服部神(熯速日命と十二世の孫・麻羅宿祢)が祀られたのは服部連塚周辺の古墳から判断して、6世紀から7世紀になるのではと思われます。ここから、秦氏が浜松に向かった644年段階では、高槻に祀られていた服部神が浜松に勧請されたことになります。

もう一つの別の可能性も考えてみます。644年に秦氏に従って浜松に来た服部連は、この地に服部神(特定の神名のない先祖)を祀ったが、700年頃には本国に帰還した。815年に姓氏録が編纂され、その前段階で各氏族に祖神や由来などを報告するよう要請があった。その際摂津国の服部連は具体的な神名のない服部神を具体性のある神とすべく祖神設定を行った。それが熯速日命と十二世の孫・麻羅宿祢になる。

このシナリオの場合、八・九世紀のころ服部部民の神を勧請しあわせて民族の始祖をその本貫の地に祀った、との神服神社由緒に合致する。新たに設定された祖神は浜松に分祀され蜂前神社の実質的な創建となった。その後摂津国においては由緒略記にあるように、醍醐天皇(887年~930年)の延喜年間に「神服神社」(カムハトリカミノヤシロ)と改め、神服神社の創建となった。

色々錯綜しておりきちんと読み解くのは困難ですが、蜂前神社の祭神は神服神社の服部連との関係性を否定できないとしておきます。次回はまた摂津国に戻り、秦氏=服部連となりそうな例を検討してみます。

浜松の秦氏 その41


今回は服部連公の解説板の最後の部分をもう一度アップします。

地名服部は全国各地にありますが、連の住まいしたのはこの地であり、塚脇が墳墓の地「連塚」になります。

塚脇が墳墓の地「連塚(服部連塚)」となるので、この場所に行ってみましょう。


服部連塚の位置を示すグーグル地図画像。

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石碑と塚。

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石碑を拡大。服部連塚とあります。

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塚を拡大。

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解説板。内容を以下に書き出します。

服部連塚は、直径14m、高さ2.5mで、横穴式石室をもつ円墳(えんぷん)である。被葬者は、5世紀中頃に諸国の機織(織部)を統率した服部連と伝えられ、上宮神社と呼ばれていたが、明治四十一年(1908)に神服神社に合祀され当時の鳥居が今も残っている。塚脇一帯には、六~七世紀頃に築造された三十数基の古墳が群集し、塚脇古墳群と呼ばれている。そのうちの一つは、南平台の市立埋蔵文化調査センターに移築・復元され、保存・公開されている。

解説板では被葬者は5世紀中頃の服部連となっていますが、これは允恭天皇の時代に服部連を賜ったとされることからそう書いているものと思われます。一帯の古墳が6~7世紀の築造とされているので、服部連塚も実際には6世紀頃のものではないかと推察されます。

酔石亭主の視点では秦氏と服部連は644年に浜松に移住していますので、古墳の築造はそれ以前に終了していると判断されますが、少し異なる見方もできそうです。一般的な古墳時代の終了時期は畿内・西日本の場合7世紀前半頃と考えられています。理由としては6世紀の終わり頃から仏教寺院が建立され始め、死者の弔い方が変化してきた点が挙げられます。この点を踏まえると、浜松移住以前に古墳の築造は終わっていた可能性も否定できません。

さて、神服神社と服部連塚は見終わり一定の検討も進めましたが、秦氏と服部連の関係について地元ではどんな見方をしているのでしょう?調べたところ、地元の郷土史家は以下のように書いていました。

允恭が治めていた5世紀中葉、半島から渡来人弓月君がやってきた。後年秦氏を称する氏の先祖で、同族を多数率いて渡来した。その一人に麻羅と名乗る人があり、かれがこの服部地域に養蚕の技術をもたらした。用水路設計など農業技術をはじめ養蚕機業をもたらし、服部に豊かさをもたらしてくれた恩人は麻羅氏であった。この麻羅氏の何代目かの子孫が「宿祢」の位を朝廷より賜り、麻羅宿祢と称したのである。またこの一族は機業に従事していることから、「機」(はた)氏の姓を賜り、かれらが元は中国秦朝の子孫として朝鮮半島に移住したとの由緒をもっていることから、「ハタ」の漢字に「秦」をあて、秦氏ととなえるようになった。秦氏は機業に携わる部民を統括する職務を与えられ、彼の傘下にある村々は「服部」と呼称されるようになったのである。島上郡の服部を支配する秦氏は、諸国に散在する機業従事者を統括する職務を命じられ、「服部連」という姓(かばね)を朝廷よりさずかり、秦氏は服部氏を称するようになり、その支配下村も「服部」村と称されるようになったのである。現在、塚脇には「服部連」を葬った「連塚」(むらじつか)が残る。明治期まではその妻の墓とされる「御女塚」(おんにょつか)も存在していた。

書き方の違いや誤解も幾つか見られますが、色々参考になる記事だと思います。詳細は以下のホームページを参照ください。
http://sokemuku.lolipop.jp/furusato_qing_shui_de_quno_li_shi/shen_fu_shen_sheto_ji_li.html

上記のように地元では秦氏=服部連と見ているのは間違いないようです。高槻市は服部連の中心地に当たることから、この地に服部姓が多いはずと考えて苗字ランキングでチェックしたところ、大阪府下で最も多い69件となっていました。ただ、既に書いたように各町内に1~2件程度と薄く広く分布しており旧服部郷に集中してはいません。秦姓に関しては14件で決して少なくはないのですが、他の地域にも秦姓が多いため、府下では6番目となっています。

ここまで神服神社における秦氏と服部連を中心に検討を進めてきました。不十分ながらある程度の解読はできたようなので、少し話題を変え、気になるところを見ていきたいと思います。「浜松の秦氏 その16」で以下のように書いています。

太田亮氏の姓氏家系大辞典5巻には、「遠江の服部 延喜式、長上郡に服職神社、榛原郡に服織田神社あり。共に古代服部の奉齋せし神社なるべし。而して、長上郡に服部氏の名族あり。」と書かれていました。

姓氏家系大辞典5巻詳細は以下のデジタル史料コマ番号127を参照ください。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1123956

この太田氏の見解は、遠江国の長上郡に服部氏の名族がいるとの主旨であろうと理解し、では何が服部氏の名族に当たるのか、逆にもやもやした気分が残り続けていました。そうした気分の中何度も読み返し、二通りの解釈・見方ができるのではないかと思えるようになったのです。

今までの検討から、酔石亭主は神服神社(当時は服部神)の服部連も秦氏に同行し遠江国にやって来たと理解しています。従って一つ目は、服部氏の名族を遠江国に来た服部連とする見方です。服部連であれば、諸国の服部を総領する立場であり、しかも秦氏系と言い得るので、名族と評価できる存在となります。それは太田氏が服織神社と服織田神社に関して「服部」と表記し、長上郡の名族は「服部氏」と書き分けていることからも理解されます。

秦氏と共に遠江国に来た呉織、漢織の流れに連なる機織集団(伎倍人)としての服部氏の場合はどうでしょうか?彼らの祖は機織女工であり、彼ら自身も機織職人なので名族とは言い難いものがあります。となれば、遠江国に来た服部連が長上郡の服部氏の名族と考えて間違いはなさそうです。他の可能性として太田氏は、例えば室町時代から江戸時代辺りまでの服部氏を長上郡の名族としたのかもしれません。

ところがです。コマ番号128には播磨の服部氏の項に遠江同様名族と書かれており、出自は書かれていませんが、服部道存以降何人もの名前が挙がっています。このように太田氏は、時代が下った場合必ず具体的な個人名や由来を入れたり、「又後世」と言った文言を付けたりしており、そうした記述のない遠江国の場合は室町~江戸時代の話ではないと考えられます。

太田氏は遠江国に関して「共に古代服部の奉齋せし神社なるべし。而して、長上郡に服部氏の名族あり。」と書き、古代服部の後に続けて、長上郡の服部氏の名族を書いています。この流れと具体的な個人名がない点を踏まえれば、長上郡における服部氏の名族は古代の名族と考えるしかなく、遠江国に来た服部連が長上郡の服部氏の名族と考えて間違いはなさそうです。

ここまでが一つ目の見方です。けれども、遠江国における服部連の存在は酔石亭主が様々な状況証拠を基に推断したものであり、同国に服部連が存在するとした史料は、知る限りでは見当たりません。それなのになぜ、太田氏は長上郡に服部氏の名族あり、と断定的に書けたのでしょう?ここがどうにも理解しがたい部分となって残ってしまいます。と言うことで、二つ目の見方を考えてみます。

上記の姓氏家系大辞典5巻コマ番号127を見ると、日本各地の服部郷や服部氏に関してかなり詳しい記述が見られます。それらの中で服部連が書かれているのは、もうご存知のように大和国と摂津国のみになります。大和国の服部連は遠江国とは関係なく、関係があるのは摂津国に鎮座する神服神社の服部連と推定していますので、太田氏がどう記述しているか見ていきましょう。

摂津国に関しては、「當國島上郡に服部郷を収む。當國には服部連住す。」と書かれていました。さてそこで、服部氏の名族と言う限り、遠江国において該当するのは服部連と考えるしかなく、この部分は動かせません。摂津国の服部連と遠江国における服部氏の名族をどう繋ぎ合わせればいいのか?そこまで考えてハタと気付いたのが、摂津国島上郡に服部郷を収む。の部分です。

遠江国の場合は長上郡、摂津国の場合は島上郡。ちょっと見ただけでは間違いなく混同しそうな郡名です。長上郡に服部氏の名族あり。との記述はこの混同に起因するものなのかもしれません。そうした解釈から具体的には以下の可能性が指摘され、二つ目の見方となります。

太田氏は遠江の服部に関して、「服織神社と服織田神社は服部の奉斎する神社だ。そうして(而して)、(高槻の)島上郡には服部氏の名族(すなわち服部連)がいる。」と書いたつもりだった。名族と断定できたのは彼らが摂津国の服部連だったからである。太田氏は、史料にはないものの、摂津国の服部連が遠江国にも来ているはずと理解し、その点を踏まえ、遠江の服部の項で摂津の島上郡にいる服部氏の名族(服部連)を書き入れた。印刷前の校正で編集者が島上郡を長上郡の間違いだと勘違いし、長上郡に直して印刷に回し、太田氏はその変更に気が付かなかった。その結果、「長上郡に服部氏の名族あり。」との記述で書籍が出版され、読み手の混乱を招いた。

以上、長上郡の服部氏の名族とは遠江国に来た服部連を意味する、長上郡は島上郡の誤記で摂津国にいた服部連を指す、と言う二つの解釈・見方を提示してみました。どちらが正しいのか太田氏にお聞きしたいところですが、残念ならが同氏は既に泉下の人。お聞きする術はありません。

次回は蜂前神社の検討に戻り、神服神社との関係も含め総合的に見ていく予定です。

浜松の秦氏 その40


短いシリーズで終わると思っていた「浜松の秦氏」がもう40回目に到達したとは感慨深いものがあります。さて、蜂前神社の主祭神・熯速日命(ひはやひのみこと、熯之速日命の表記の場合「ひのはやひのみこと」)が神服神社の主祭神と同じ点は確認され、秦氏と同行して二系統の服部が遠江国に来たのも間違いなさそうです。とは言え、主祭神に関する本質的な疑問はなおも残っています。

熯速日命は名前、字義、その出自、また他社で焼速日命と表記されることからしても、火の属性を持つ神となるはずなのに、なぜ機織の神になっているのかと言う疑問です。この解明は大変重要なのであれこれ考えてみましょう。

服織連の解説板に従えば、彼らは秦氏を先祖とし允恭天皇の御代(注:この時代かは疑問がある)になって服部連を賜り、国々の織部を総領する極めて高い地位に就きました。そうなると、彼らも地位に見合った祖神と歴史を欲するようになります。問題は古代豪族のほとんどが既に自分たちの祖神を持っており、それらと重複しない神様を選択するしかなかった点です。彼らは本流の秦氏も交えた議論の末、熯速日命を取り上げたものと推察されます。

けれども、火の属性を持つ神を機織の神とするのは簡単な話ではないので、あれこれ知恵を絞り極めて巧妙な仕掛けを施しました。服部連が祖神を設定する際の前提条件は、できる限り古い神で何らかの仕掛けにより機織と関係し得ること。他の氏族の神と重複しない神(他氏族から文句の出る恐れのない自然神)であること。かなり苦し紛れだが、音で機織に関係できる神であること、などであったと思われ、そうした条件に唯一適合する神が熯速日命(ひはやひのみこと)だったのです。この名前の中でポイントとなるのが「熯」(ひ)の部分です。

記紀において最も古い機織神話の基本形は、天照大神(この場合の実像は機織女)が斎服屋で神衣を織っていた時、素戔嗚尊が馬の皮を剥いで投げ込み、驚いた天照大神がホト(女性の陰部)を「杼」(注:杼は機織において横糸を通す道具を意味する)で突いて死に、天岩戸に隠れたと言ったものです。ここで火を意味する「熯」(ひ)と機織に関係する「杼」(ひ)が音で結び付きましたね。もちろん音の結び付きだけでは不十分で、熯速日命を最古の機織神話の中に位置付けることはできません。

機織神話における最も重要な部分は、杼でホトを突く場面です。ホトは女性の陰部を意味しますが、その表記は火所、火門、火処などがあり、本来はたたら製鉄の炉を意味しています。熯速日命は火の属性を持った神で、「熯」(ひ)と杼は音で結び付き、さらに機織神話のホトとも結び付くことになります。一方「杼」(ひ)はその形状から男根に見立てられています。杼の形状を示す写真は以下を参照ください。
http://www.odette.or.jp/virtual/homespun/process/explain07-1.html

熯は火であり女性器のホトであり、杼もその音は火であり男性器であり、ホトを杼で突くとは性行為を意味しているので、機織神話の全体部分と熯速日命は極めて密着度が高くなります。以上の操作から、天照大神が斎服屋で神衣を織っていた時、素戔嗚尊が馬の皮を剥いで投げ込み、驚いた天照大神がホト(女性の陰部)を「杼」(ひ)で突いて死んだと言う機織神話全体の中に熯速日命を位置付けることが可能になります。そうした操作を経て秦氏と服部連は、火の神だったはずの熯速日命を最古の機織神話に関連付け、機織の神に神格転換させたのです。

彼らが構築した仕掛けの意味は後世になってわからなくなってしまうので、12世孫に麻羅(まら)宿祢を持ってきました。麻羅はご存知のように男根を意味し、杼の持つ裏の意味に通じ、麻羅→杼→熯と遡ることができてしまいます。いかがでしょう?相当複雑な操作で祖神設定が行われたと思えませんか?以上により、本来は火の神だった熯速日命がそうとはわからないように機織の祖神に仕立て上げられた訳です。裏でいろいろ操る秦氏の面目躍如と言ったところですね。

秦氏は自分たちの祖を始皇帝や徐福だと言上し「姓氏録」にそのまま記載させてしまうほどですから、この程度の裏技は簡単だったと思います。従って、神服神社の熯速日命と麻羅宿祢までは実在ではなく造作された祖神となります。なお、彼らの祖神設定時期は由緒に従うと允恭天皇の御代になりますが、既に書いたようにこの時代になるのかは疑問があります。また、「新撰姓氏録」が編纂される際に祖神を書くよう要請され、その時点で祖神を決めた可能性もある点お含みください。

さて、ここまで熯速日命を機織神話に関連させて見てきましたが、その後に続く天岩戸神話も別の重要な意味があります。ずっと以前に、秦氏は死と再生を司る一族だと書きました。そして、死んだ機織女が天岩戸に籠って後、太陽神・天照大神として出現する天岩戸神話もまた死と再生の話になっているのです。これは大和岩雄氏が「天照大神と前方後円墳の謎」(ロッコウブックス)にて述べられており、酔石亭主も同感だと思っていました。

ところが本シリーズを書く中で、この解釈は正しいのかちょっとした疑問がわいてきたのです。そこで、死んだ機織女が天岩戸に籠って後、太陽神・天照大神として出現する死と再生の神話を、もっと現実的な違う解釈で考察することにしました。

この神話を現実に当て嵌めると、どうなるでしょう?天照大神の原像は卑弥呼ですから、死んだ卑弥呼が鏡などの副葬品と共に埋葬され、その後卑弥呼の霊の依り代となる鏡が墓から取り出された。となるはずです。卑弥呼の鏡は太陽を象徴するものですから、それが取り出された結果、死んだ卑弥呼は太陽神・天照大神として復活し再生したことになります。

「日本書紀」の神代上第七段一書に曰くには、日神(天照大神)が岩戸を開けて出るとき、戸に触れて小瑕が付いた。この瑕は今も失せずに残り、これが伊勢に斎祀る伊勢の大神だと書かれていました。ここからも卑弥呼の墓から取り出された鏡が、後に伊勢神宮で祀られる天照大神になったと確認されます。

この天岩戸神話に関して疑問に思った部分は、なぜ卑弥呼を埋葬した墓を開き、そこから鏡を取り出さねばならなかったのかと言う点でした。常識的に見て墓を暴くような行為は許されるはずがありません。卑弥呼が亡くなったのは248年頃で、死後に彼女の墓が築造され、鏡などと一緒に埋葬されたはずです。

それ以降、後継の宗女である台与は日々卑弥呼の霊を神(太陽神)として祀ってきたのでしょう。なのに、どうして鏡を墓から取り出さねばならなかったのか?神話を現実に引き戻して考えた場合、そうせざるを得ない何らかの重大な事情があったと理解するしかなさそうです。

その重大な事情を現実的な側面から考察すれば、卑弥呼の後継となった女王国の台与が、卑弥呼の墓から遠く離れた場所への移動を余儀なくされた。だから墓から鏡を取り出さざるを得なくなった。となります。台与は不弥国或いは伊都国の南に位置していた女王国を離れ、宇佐まで移動して一旦留まります。「魏志倭人伝」で帯方郡から不弥国までの合計距離と、帯方郡から女王国までの総距離が短里で約100㎞の違いがあるのは、総距離が宇佐までの距離で書かれたからでしょう。

つまり、台与は北九州の沿岸に近い場所(女王国所在地)から一旦宇佐に移動したことになり、移動に際して墓から鏡を取り出したのです。目的はもちろん鏡を依り代として卑弥呼の霊を祀り太陽を祭祀するためです。

その後台与一行は大和(=邪馬台国)に入りますが、新参者の立場から卑弥呼の鏡(=太陽神・天照大神)は当時の大王の領地内に祀るよう要請されたと考えられます。これが天照大神(鏡)の大和への遷座となります。台与はプレ物部氏との協力で勢力を増し、倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)の名で箸墓に埋葬されました。その後に鏡は取り戻され、台与の宗女豊鋤入姫命・倭姫命によって伊勢に遷座し、現在まで皇祖神天照大神として祀られ続けているのです。

以上はもちろん酔石亭主の推定ストーリーに過ぎませんが、天岩戸(卑弥呼の墓)から卑弥呼の鏡が取り出された理由と、天照大神が考昭天皇から崇神天皇の時代まで大和の宮中で祀られていたとされる理由を併せ考えれば、現実味を帯びたものになってきます。卑弥呼と太陽を象徴する鏡が持ち込まれない限り、大和の大王たちは天照大神を祀るなどできないのです。

なお、「邪馬台国と大和王権の謎を解く その13」以降で邪馬台国問題や台与が大和に移動した経緯などを詳しく書いています。ご興味があれば参照ください。(注:上記の天岩戸に関する考察は今回で思い付いたものであり、「邪馬台国と大和王権の謎を解く」シリーズの中で書いてはいない点お含みください)次回も神服神社関連の検討を続けます。
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