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「古墳から見た大和の古代」の補足

古墳から見た大和の古代
03 /08 2020

「古墳から見た大和の古代 その22」において以下のように書いています。

さらに「日本書紀」の編纂者が狡猾だと思えてならない点があります。神功皇后摂政前紀12月14日条に誉田天皇(応神天皇)が筑紫にお生まれになった。と書いた後に、一に云う、として新羅征伐に関する神と仲哀天皇のやり取りが繰り返され、その夜に天皇は崩御したと記述しているのです。しかも、天皇が神の名を尋ねると神は住吉三神と答え、それに重ねて速狭騰尊(はやさのぼりのみこと)と答えます。天皇は皇后に向かって語り、聞き悪いことを言う婦人か、何で速狭騰尊と言う、と難詰しています。

上記から神と天皇とのやり取りが、実際には神功皇后と天皇のやり取りであったと判明します。と言うか、編纂者が今まで神の言葉として書いてきたものを、最後になって真実を暴露したのです。以上から、仲哀天皇は新羅討伐の評議をしていたその日に崩御していたと確認されますし、応神天皇誕生の記述に続いて仲哀天皇が新羅討伐の評議後に崩御したと書いていることから、応神天皇が仲哀天皇の子でなかった点も明確になります。


この記事は神の言葉が実際には神功皇后の言葉である点を論じたものですが、実はもう一点気になる部分がありました。それが今回で青字にした内容です。天皇は皇后に対して「婦人」と言っているのですから、これは一般的な成人女性の意味と解せられ、神功皇后は仲哀天皇の后ですらなかったと指摘できそうに思いました。ただ、確信を持てなかったのでそれは書かずにおいた訳です。

そしてたまたま、本日付の日経新聞の『「婦」にこめられた高貴』という漢字学者のコラムを読んだところ、この問題に関する疑問が完全に解消されましたので、以下にご紹介します。

このコラムによれば、今から三千年ほど前の時代に使われていた漢字では、「婦」は一般の女性ではなく、王妃という身分を示す漢字だったとのこと。「婦」の解釈のポイントは、文字の右側にあるホウキが、神聖な祭壇の周囲を掃除するための道具だと言う点にあるそうです。神が降臨して着座する祭壇の前は、必ず事前にきれいに掃き清めた上で祭祀を行う必要があり、神の祭祀にかかわる仕事は最高位の女性しか担当できません。だから王妃の地位にある女性がホウキを手に持って神に仕えたのです。

以上、神功皇后は仲哀天皇の后ですらなかったと早とちりせずに済みましたし、彼女は正しく神に仕える最高位の女性だと理解されることになります。「古事記」では沙庭(忌み清めた祭場)で建内宿禰が神の命を請い、皇后に神がかかって新羅(注:「古事記」では西の方の国と表記)を帰服させるとの言葉を発している訳ですから、完全に漢字学者の解説に見合ったシチュエーションとなっています。

これは驚くべきことで、三千年前の中国で「婦」が王妃を示す漢字だったと記紀の編纂者は知っており、新羅討伐の是非を神に請う場面で彼らは的確に使用していたことになります。従って、1300年前の日本においても「婦」は王妃(注:日本の場合は王妃ではなく皇妃)を示す漢字だったのです。
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古墳から見た大和の古代 その22

古墳から見た大和の古代
02 /13 2020

前回までの検討には不十分さが感じられたので、少し追加することにしました。取り上げるべき課題の一つに、かの有名な鎮懐石があります。石を裳の腰に挟んだら出産を遅らせられるなど、現実問題としては有り得ない話ですが、単なる伝説の類と切り捨てるわけにもいきません。その裏には才略にたけた「日本書紀」編纂者の意図が隠れているのではないかと推察されるからです。例えば、この石が何らかの仕掛けつまりギミックだとしたら、実際には存在しなかったとも考えられ、そうした筋道を付けられないか検討してみたいと思います。

鎮懐石に関して過去記事では、石の大小は別として実在するとの前提で論じてきました。それが存在しないとしたら、どうなるのでしょう?多分、全く違う歴史の姿が浮かび上がってくるはずです。またこの問題を検討する中で仲哀天皇、神功皇后、武内宿禰の三者の関係にも光を当てられそうな気がしています。

そこでまず、鎮懐石が持つ機能を考えてみます。言うまでもなくそれは出産を遅らせることでした。これを一般常識に照らして見れば、編纂者は何らかの理由により皇后の出産を遅らせる形で記述する必要性があった。その必要性を満たすために鎮懐石を登場させた、となります。しかし、出産を遅延させる形にすることで、様々な矛盾も噴出してくるはずです。

幾つもの矛盾を、彼らはどう矛盾が目に付かないよう処理して書き込んだのか?そうした部分に留意しつつ「日本書紀」の記述を整理した上で「古事記」の内容も含めて検討してみましょう。と言うことで改めて「日本書紀」の関連部分を読み直してみると、想定通り幾つもの矛盾や問題を孕んでいました。少し長くなりますが、以下に列挙してみます。

「日本書紀」仲哀天皇8年9月5日条を簡略に書きます。
天皇は群臣を詔して、熊襲討伐を審議させた。その時、神が神功皇后にかかり、教え諭した。「天皇よ。なぜ熊襲が服従しないのを憂うのか?服属させるべきは財宝が数多くある新羅国であり、よく私(=神)を祀れば、その国は服従するし、熊襲も服従するだろう」
天皇はこの神の言葉を疑い、神に「周囲を見ても、海しかなく、国はありません。どこの神が私を欺こうとしているのか」と答えた。神はまた皇后にかかって言った。「お前は『国は無い』と言い、わたしの言葉を誹謗するというのか。私を信用しないならば、お前はその国を得られないだろうが、今、皇后は孕んだ。その子は国を得られるだろう」
天皇はそれでも信じず、強引に熊襲を撃とうとして勝つことは出来ず、帰還した。

(注:酔石亭主の文章では雰囲気を十分伝えられないので、ぜひ岩波書店版で全文を味読下さい)

8年9月5日条を読むと、極めて唐突な書き方ですが、この時点で皇后は懐妊したと理解されます。熊襲討伐を強行しようとするほど血気盛んな仲哀天皇ですから、読み手は当然、天皇の子だと確信します。また「日本書紀」には応神天皇が仲哀天皇の子と書かれており、血気盛んは別としても二人は夫婦なので、誰が読んでも皇后は天皇の子を宿したと受け止めるはずです。

けれども天皇は神の言葉(実際は神功皇后の言葉)を疑い、神意に反する態度・行動を取っています。その結果、神は天皇にお前は新羅を得られない、その子が得ると言いました。いさかいの挙句、神功皇后が天皇に「お前は新羅を得られない」などと言い放つ状況で、天皇が皇后を懐妊させるのは無理があります。この書き方から編纂者は、神功皇后の懐妊のお相手は仲哀天皇ではないと示唆しているように思えてきます。この条に関して、神功皇后の懐妊は仲哀天皇8年9月5日である点、また仲哀天皇は神に逆らったにもかかわらず、この時点で崩御しなかった点に留意ください。

「日本書紀」の仲哀天皇9年2月5日条
天皇はたちまち病み、翌日に崩御し、その理由は神の言葉(実際には神功皇后の意向)に従わなかったからだ
とあります。
8年9月5日条で天皇は既に神の言葉に従っていなかったのに、随分時間をおいて崩御した点に疑問が残ります。編纂者にはきっと何らかの意図があったのでしょう。(注:神功皇后摂政前紀の一に云うでは、病を得た当日の夜に崩御しています)

神功皇后前紀9月10日条(仲哀天皇9年に相当)
時にたまたま開胎(臨月)に当たるので、皇后は石を取って腰に挟み、事(新羅征伐)を終えて還る日にここ(伊都県)で生まれてほしいと祈った。

ここで鎮懐石が登場しています。まず奇妙に思えるのは、懐妊から臨月までほぼ1年以上もかかっている点です。これ自体が有り得ない話なので、編纂者は皇后のお相手が仲哀天皇ではないと示唆しているように見受けられます。

神功皇后摂政前紀12月14日条(仲哀天皇9年に相当)
誉田天皇(応神天皇)が筑紫にお生まれになった。

鎮懐石のお蔭で出産はさらに遅れ、懐妊から出産までの妊娠期間は15か月に及ぶことになります。臨月時点と出産時点のどちらも非現実的で不合理だと理解されます。従って、皇后のお相手は仲哀天皇ではないとの意識が読み手の中でさらに高まってきます。

この問題を合理的に解釈するため、出産時点から逆算して考えてみましょう。昔から妊娠期間を十月十日と言いますが、この期間に即して12月14日の十月十日前を見ると2月5日になります。驚いたことにこの日は仲哀天皇9年2月5日条の記事と同じ日で、天皇は急に病を得て翌日(或いは当日)には崩御となります。

翌日(或いは当日)に亡くなるような病気の身で皇后を懐妊させるなど不可能であり、ここでも皇后のお相手が仲哀天皇ではないと暗示しているように感じられました。「日本書紀」の編纂者は、建前としては仲哀天皇の子を応神天皇とせざるを得ないが、事実はそうでないとほのめかしているように思えます。彼らの策謀が見えてきそうなので、「古事記」の記事と比較検討してみましょう。

「古事記」神功皇后の新羅征討の段
神功皇后が神を招き神託を受けようとした。仲哀天皇が香椎宮で熊襲を撃たんとして琴を弾き、武内宿禰が神の命を請うた。天皇は新羅に遠征すべしとの神の言葉に従わず、偽りをなす神と言い、琴を押しのけて弾かなかった。神は怒り、この国はお前が統治する国ではない、あの世へ行けと言い放った。武内宿禰が琴を弾くように言うと、しぶしぶ弾き出したが、どれほどの時間も経たないうちに琴の音が聞こえなくなり、既に崩御していた。


「古事記」の記述では神功皇后、仲哀天皇、武内宿禰の三者が新羅討伐を評議し、天皇が神の言葉に従わなかったのでその日のうちに崩御しています。天皇が熊襲討伐を主張し、新羅討伐をすべきだとの神の言葉に従わなかった点は、「日本書紀」の仲哀天皇8年9月5日条の内容と全く同じだったと理解されます。ここから「日本書紀」は、本来一日の出来事だった内容を二つに分け時期も変えて記載していたことになります。

当然その裏には何らかの意図があったと思われます。「日本書紀」の編纂者は「古事記」の内容に合わせ、本来なら9年2月5日条で新羅征討の評議、仲哀天皇の崩御、神功皇后の懐妊を書くべきだったのに、わざわざ8年9月5日条と9年2月5日条に分けているのです。なぜこんなにややこしい書き方をしたのでしょう?

「日本書紀」の編纂者としては皇統の連続性に鑑みて、応神天皇を神功皇后と仲哀天皇の子として書かなければならなかったはずです。但しこれは建前であり、事実ではなかった。本当の懐妊日である9年2月5日条で皇后の懐妊を書くと、今にも死にそうな(或いは当日の夜に崩御した)仲哀天皇が皇后と交合できるはずがないとの疑問や異議が噴出してしまいます。

仲哀天皇が皇后と交合できたと見せかけるには、新羅遠征の審議と懐妊を過去に飛ばし8年9月5日条で書くしかありませんでした。この場合、出産までに1年3か月を要するので鎮懐石の記事を挿入して、誤魔化したことになります。と言うか、二つに分ける書き方で、実際には8年9月5日に懐妊などしていない、だから皇后のお相手は仲哀天皇ではないと強く示唆していたのです。

仲哀天皇の8年9月5日条で新羅討伐が紛糾し皇后が孕んだ話を、仲哀天皇の9年2月5日条に置き換えれば、応神天皇の誕生が十月十日後の12月4日になるので何の矛盾も問題もありません。けれどもこの場合、既に書いたように9年2月5日に急の病を得た(或いは崩御した)仲哀天皇が皇后を懐妊させるなどできず、一方「古事記」によると新羅討伐の評議は神功皇后、仲哀天皇、武内宿禰の三者で行われたことから、皇后を懐妊させ得るお相手は武内宿禰しかいないと確認できることになります。

さらに「日本書紀」の編纂者が狡猾だと思えてならない点があります。神功皇后摂政前紀12月14日条に誉田天皇(応神天皇)が筑紫にお生まれになった。と書いた後に、一に云う、として新羅征伐に関する神と仲哀天皇のやり取りが繰り返され、その夜に天皇は崩御したと記述しているのです。しかも、天皇が神の名を尋ねると神は住吉三神と答え、それに重ねて速狭騰尊(はやさのぼりのみこと)と答えます。天皇は皇后に向かって語り、聞き悪いことを言う婦人か、何で速狭騰尊と言う、と難詰しています。

上記から神と天皇とのやり取りが、実際には神功皇后と天皇のやり取りであったと判明します。と言うか、編纂者が今まで神の言葉として書いてきたものを、最後になって真実を暴露したのです。以上から、仲哀天皇は新羅討伐の評議をしていたその日に崩御していたと確認されますし、応神天皇誕生の記述に続いて仲哀天皇が新羅討伐の評議後に崩御したと書いていることから、応神天皇が仲哀天皇の子でなかった点も明確になります。

従って本来のあるべきストーリーは、仲哀天皇の9年2月5日において、武内宿禰、神功皇后、仲哀天皇の三者による新羅討伐の評議が紛糾し、同じ日の夜に天皇は謀殺され、その当日に神功皇后が武内宿禰と交合して子を懐妊した。そして同年十月十日後の12月14日に応神天皇(実際は安曇族或いは武内宿禰の子)が誕生し、めでたしめでたしとならざるを得ないように思えます。

以上から「日本書紀」の編纂者は、応神天皇が神功皇后と仲哀天皇の子供のように見せかけながら、その裏で本当は武内宿禰の子供で別人だよと示唆していたことになります。いかに編纂者が複雑で狡猾な策をめぐらせていたかが、これ明らかになりました。(注:明らかになりましたが、もう一つ裏がありそうな気がしています)

そして、9年2月5日の十月十日後となる12月14日に応神天皇が生誕するのなら、鎮海石など必要なく、この石はやはり単なる目眩ましのギミックに過ぎなかったと判明します。鎮懐石の記事は作り話と確認された結果、恐ろしいことに鎮懐石八幡宮と蚊里田八幡宮の存在も消滅せざるを得なくなってしまい、宇美町の宇美八幡宮もまた同様の憂き目を見ることになります。一方「古事記」には、新羅の領有を意味する内容の後に、政(まつりごと)がまだ終わっていない間に産まれそうになったので、御裳の腰に挟んだなどと書かれていますが、いかにも取って付けたような記事で真実味はありません。

ここまで「日本書紀」編纂者の意図を裏読みしながら書いてきましたが、ひょっとしたら裏の裏があるかもしれないので、そうした可能性がないか探ってみましょう。但し「日本書紀」ではなく「古事記」からです。「古事記」の神功皇后新羅征伐の段を読むと、以下のようにちょっと不審な内容が書かれていました。

仲哀天皇が崩御した後、罪汚れを祓う行事を行った上で武内宿禰が神の命を請うと、神は神功皇后のお腹の子がこの国の統治者になると言った。これに対して武内宿禰は「恐ろし(かしこし)、我が大神、その神(神功皇后)の腹に坐す御子は、いづれの御子ぞや」と尋ねた。これに対し神が「男子(おのこご)ぞ」と答えたので、今そう教示いただいた大神の御名の詳細を知りたいと武内宿禰が請うた。すると神は天照大神の御心ぞ、また住吉三神の大神ぞ。と答えた。

武内宿禰が「いづれの御子ぞや」と大神に尋ねたのは、男の子か女の子かではなく、誰の子かと聞いたように受け取られるのに、大神は「男の子」としか答えていません。その答えに納得できなかったかのように、武内宿禰は続けて「そうお教えになられた神の御名を知りたい」と畳みかけているのです。すると神は天照大神の御心ぞ。また底筒男命、中筒男命、表筒男命の三柱の大神ぞ、と答えました。

この異様な問答は武内宿禰が神功皇后に孕んだ子供は誰の子だと問い、男の子だとの答えに納得できずさらに問い詰めたので、皇后は仕方なく住吉大神だと答えたように見受けられます。(注:天照大神に関しては「御心」なので具体性がない)それを証するかのように「住吉大社神代記」には、仲哀天皇が崩御した晩に、神功皇后と大神の間で密事(むつびごと。夫婦の交わり)があった、と書かれています。具体的には以下の通りです。
於是皇后與二大神有密事。注記:俗曰、夫婦之密事通。

これに加えて、「日本書紀」神功皇后摂政前紀12月14日条に誉田天皇(応神天皇)が筑紫にお生まれになった。とする記事があり、その後の一に云うで、新羅征伐に関する神と仲哀天皇のやり取りが繰り返されています。そして天皇が神の名を尋ねると神は住吉三神と答えていることからも、住吉大神が評議に参加していたと確認され、大神が皇后のお相手だった可能性は高いことになります。武内宿禰は自分の子かと思っていたのに違う答えが出て、さぞがっかりだったことでしょう。

となると、天皇が崩御してから神功皇后、武内宿禰、住吉大神は乱交していたことになります。ここで三者は絆を最大限にまで高め、新羅討伐で完全合意したのでしょう。但し、住吉神が港や航海の安全祈願で国家的な祭祀を担うようになったのは後の時代であり、住吉大神と書かれた記事の実態は安曇族と考えるべきです。それは新羅討伐の評議が行われたのが和白であり、同地がかつての安曇郷(筑前国糟屋郡安曇郷)であることからも確認されます。「その20」にて、「気比宮社傳」によれば、仲哀天皇8年3月に神功皇后と武内宿禰が安曇連に詔し同地にて気比大神を祀らせ、これが創始とされています。と書いていますが、この記事からも住吉大神と書かれた記事の実態は安曇族であると理解されます。

なお北九州の蚊田で誕生した応神天皇は誰の子かの議論は、北九州における神功皇后が大和の神功皇后より80年も遅い時代の人物なので、実際には議論として成り立ちません。北九州で起きた変事の真相は多分、和白における神功皇后、仲哀天皇、武内宿禰、安曇族の新羅討伐に関する評議において仲哀天皇一人が反対し、既に書いたように和白の評議では一人でも反対者がいるとその評議事項は実施できないことから、やむなく仲哀天皇を謀殺し、反対者のいない形で討伐の評議が決したと言う事実のみで、それ以外の記事は粉飾されたものになりそうです。

以上から、神功皇后の懐妊と応神天皇(実際には安曇族或いは武内宿禰の子)の誕生、そして鎮懐石も全て、目的は神功皇后から応神天皇へと繋いで日本の歴史を限りなく大きく見せるための「日本書紀」編纂者による仕掛けすなわちギミックに他ならないと判明しました。よくもまあこれだけの離れ業ができたものだと、ひたすら感心するしかありません。

結局編纂者は神功皇后と言う一人の人物の時代において、書紀紀年では240年から260年頃の卑弥呼と台与の時代、実年代では300年代後半、北九州においては440年から460年頃までの、合計およそ220年分を描き出したことになります。当時の衛生状態などを勘案すると、せいぜい50年程度の寿命しかない人物紀の中で、できるだけそうとは悟られないよう220年分にまで拡張させた訳ですから、その手腕にはもう脱毛、いや脱帽です。

佐紀古墳群の検討をする中で北九州の問題にまで踏み込み、最も謎の多い仲哀天皇、神功皇后、応神天皇の生誕までを見てきました。多少の成果はあったと思いますが、あくまで一定の切り口から見たものに過ぎず、切り口が異なればまた別の結論に至る可能性もある点お含み下さい。以上で本シリーズは終了です。

佐紀古墳群を見た後に、幾つかの大和のお寺も訪問していますので、別途書きたいと思います。

古墳から見た大和の古代 その21

古墳から見た大和の古代
02 /12 2020

仲哀天皇の実像に関して、もっと別の視点から考えてみます。例えば後代の別の天皇をモデルにして創作した可能性です。その視点から見ると第19代・允恭天皇が怪しそうです。仲哀天皇の妃は大中津比売命で、允恭天皇の妃も忍坂之大中津比売命。允恭天皇の妃の場合、名前の頭に忍坂が付く点のみが異なるように思えますが、仲哀天皇の子に麛坂王(かごさかのみこ、香坂王)、忍熊王(おしくまのみこ)がいて、二人の名前に忍と坂があり、妙な繋がりが感じられます。忍坂は百科事典マイペディアによると以下の通りです。

奈良県桜井市の東部,外鎌(とかま)山西麓の古代以来の地名。恩坂,押坂とも書き,〈おさか〉ともいう。遺称地である桜井市忍阪は〈おっさか〉。地名〈忍坂〉は《日本書紀》神武天皇即位前紀や垂仁天皇39年10月条にみえ,後者の記事によるとこのとき大刀1千口を新たに作らせ,〈忍坂邑〉に収蔵したのち石上(いそのかみ)神宮(現奈良県天理市)に移している。

仲哀天皇陵は「日本書紀」によると「河内国長野陵」で、允恭天皇陵は「河内の長野原陵」と全く同じ場所です。仲哀天皇の重臣は中臣烏賊津連で允恭天皇の重臣は中臣烏賊津使主となります。仲哀天皇は新羅討伐に反対して亡くなっていますが、允恭天皇は新羅との深い友好関係が記紀に書かれています。これらを勘案すれば、允恭天皇をモデルにして創作されたのが仲哀天皇で、その実像は400年代前半から半ば頃にかけて糸島市の長野川流域に存在していた親新羅或いは新羅系の小さな邑の首長で、天日槍が率いた製鉄集団と近しい人物であった、となります。一応これが仲哀天皇の実像に関する最終的な結論とご理解ください。

神功皇后が応神天皇を生んだので古名の蚊田が宇美になったと言う宇美八幡宮の由緒は、この地が不弥国に比定されることから、不弥が宇美に転訛したもので、応神天皇生誕で宇美になったと言う伝承は後付けのものであると既に確認しています。では、仲哀天皇にも似たような話がないでしょうか?

既に書いたように、仲哀天皇が筑紫行幸の際、怡土県主らの祖・五十迹手が出迎え、天皇に八尺瓊勾玉、白銅鏡、十握剣などを献上、お褒めの言葉を頂いて伊蘇志(いそし)の名を与えられ、それがなまって伊覩(いと)→伊都になったと伝えられています。伊都国は「魏志倭人伝」に書かれた地名ですから、この地名由来は成立せず、後付けのものであると確認されます。ただ、神功皇后の系図上の祖先は、それが事実かどうかは別として天日槍であり、五十迹手も天日槍の後裔を称し、仲哀天皇と神功皇后の双方に天日槍を介して何らかの繋がりがあるように思えてなりません。

続いて「播磨国風土記」宍禾郡の御方里条を見ていきます。ここには、葦原志許乎命と天日槍命が黒土の志尓嵩(くろつちのしにたけ)に至り、それぞれ黒葛を足に付けて投げ、天日槍命の黒葛は全て但馬に落ちたので、天日槍命は伊都志(いづし、出石)の土地を自分のものとしたとあります。

仲哀天皇が天日槍の後裔・五十迹手に与えた伊蘇志(いそし)と天日槍の伊都志(いづし、出石)。どちらも天日槍に関連したもので、極めて似通った地名です。天日槍の但馬から丹波、近江、山城、大和北部へと続く流れの中に大和における神功皇后がいて、天日槍の上陸地に彼の子孫の五十迹手がいて仲哀天皇(に擬せられた人物)と関係があり、それは北九州において神功皇后に擬せられた女性首長へと繋がっていく訳ですから、天日槍は(心的な意味において)全てを結ぶ媒介の役割を担ったようにも思えてきます。

天日槍の天は美称で、日は太陽、槍は鉾、矛だと考えれば、太陽を祭祀する祭具としての鉾を人格化したものが天日槍とも理解されます。天日槍が実在の人物ではないとの前提で見れば、天日槍が心的な意味において全てを結ぶ媒介の役割を担ったとの理解も、ある程度納得できるものになりそうです。

「日本書紀」の編纂者はそうした背景や、糸島市と敦賀市を結ぶ見えない水脈も考慮して記事を書いたのかもしれません。問題は神功皇后の擬せられた女性首長の古墳が北九州に見当たらない点です。仲哀天皇のように事実関係は別として、皇后の墓とされる古墳があってもよさそうなものですが、この点が納得できない部分ではあります。

ところで、各史料は応神天皇を神功皇后の子としていますが、最新の考古学の成果に基づくと、「日本書紀」に書かれた応神天皇→仁徳天皇→履中天皇は、古墳の築造順で見ると履中天皇(5世紀前半の前期)→応神天皇(5世紀前半の後期)→仁徳天皇(5世紀半ば)になるようです。例えば履中天皇陵古墳の埴輪は土師質で三者の中では最も古い時代となり、応神天皇陵は土師質とより新しい須恵質埴輪が混在し、仁徳天皇陵は須恵質のものが主体となっています。

応神天皇陵は体積で日本最大とのことですから、仁徳天皇陵(築造に15年以上を要したと推計されている)よりも長い20年程度を要したと考えれば、実年代での推定没年が400年頃ですから420年頃の完工になります。5世紀前半の後期よりは早いのですが、何とか時代的な説明は付きそうです。けれども、履中天皇はどう扱えばいいのかとの疑問が残り、全体で整合性のある説明は不可能となります。無理やり筋を通せば以下のようにも考えられます。

三韓を討伐した(とされる)神功皇后の後に墳丘長で2番目・体積でトップの応神天皇を配置し、墳丘長トップの仁徳天皇に続けることで、「日本書紀」編纂当時の皇室はこの時代の日本の力量を広く知らしめることができると考えた。トラブルが目立ちそれほど事績のない履中天皇は仁徳天皇の後の時代に飛ばされてしまった……。

まあこれは単なる推測に過ぎず、古墳から古代を検討するのは本当に難しいですね。今回のシリーズでは神功皇后、仲哀天皇、応神天皇の生誕までの時代が主な検討対象となっており、応神天皇から仁徳天皇、履中天皇に関してはほとんど視野に入っていない状態です。これらの問題もまた機会があれば取り組んでみたいとは思っています。

ここ数回は主に仲哀天皇に関連する問題を追ってきました。あれこれ書いた割には仲哀天皇と神功皇后の関係や鎮懐石に関してすっきりしない部分が残っているので、次回で追加的に書いてみます。

古墳から見た大和の古代 その20 

古墳から見た大和の古代
02 /10 2020

ここまで糸島宇美八幡宮に関連して仲哀天皇の検討を続けていますが、同社では気比大神が重要視されています。例えば由緒には、神功皇后(じんぐうこうごう)が朝鮮へ出兵した折、気比大神が船上に現れ「皇后の船と国土を守護する」の旨を現わされました、と書かれていました。また、仁徳天皇の治世10(322)年に平群木挽宿禰(へぐりのづくのすくね)の子、博公を神主として神社を立て、気比大神を祀らせました。これが本宮の起源とされています。とあります。気比大神とはどんな神様なのか、またなぜ同社で重要視されているのかを考えつつ、今回も仲哀天皇の実像に迫っていきたいと思います。

気比大神がどのような神かを知るには、敦賀市に鎮座する気比神宮を見ていく必要があります。同社の主祭神は伊奢沙別命(いざさわけのみこと)で、この神が気比大神とも称されていました。他の祭神は仲哀天皇、神功皇后、応神天皇、日本武尊、玉姫命(神功皇后の妹)、武内宿禰命となっています。同社のホームページは以下を参照ください。
https://kehijingu.jp/about/#about2

気比神宮が鎮座する角鹿(つぬが)には、糸島宇美八幡宮関連で登場する主要人物すなわち仲哀天皇、神功皇后、武内宿禰、応神天皇の全員が来訪しており、且つ気比神宮の祭神にもなっています。祭神だけからも両社の密接な関係が見て取れますが、なぜそうした関係が成立したのか、各史料から探ってみましょう。

角鹿の地名由来は「日本書紀」に書かれており、垂仁天皇紀には、御間城天皇の世に、額に角有ひたる人、一の船に乗りて、越国の笥飯浦(けひのうら)に泊れり。故、其処を号けて角鹿(つぬが)と曰ふ。と書かれていました。この額に角のある人物は意富加羅国(おほからのくに)の王の子であり名は都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)ですから、彼の名前が角鹿(つぬが)の地名由来になっていると確認されます。

「日本書紀」垂仁天皇紀の一に云わくによると、阿羅斯等が自分の国にいる時、白い石が化して美しい童女となった。喜んだ阿羅斯等は交合しようとしたが、童女は日本に逃げたので阿羅斯等は彼女を追い求め日本に入った。そして童女は難波と豊国・国前郡の比売語曽社の神になった、とのことです。

気比神宮の社伝によると、都怒我阿羅斯等は敦賀の統治を任じられたとのことで、氣比神宮境内摂社の角鹿神社はその政所跡であり、現在は都怒我阿羅斯等が祭神とされています。

「古事記」応神天皇記の天之日矛の段には、また昔、新羅国王の子の天之日矛がいて、賤しい男から玉を受け取ると、美しい乙女に化したので妻としたが、女は小舟で逃げて難波に留まった。これが比売碁曽の社に鎮座する阿加流比売神と言う、とあります。「日本書紀」と「古事記」の記事基本構造はほとんど同じであることから、都怒我阿羅斯等と天日槍は同体と見做せます。(注:「古事記」は応神天皇記に書かれていますが、また昔、とあることから垂仁天皇の時代に天日槍が渡来したと理解してよさそうです)

一方で糸島宇美八幡宮が鎮座する糸島市にも天日槍に関連する伝承があり、ここが彼の上陸地と推定され、同社は気比大神と天日槍を同体としています。気比神宮は都怒我阿羅斯等と関係し、糸島宇美八幡宮は気比大神(=天日槍)と関係しており、都怒我阿羅斯等が天日槍と同体で天日槍が気比大神なら、事実関係は別として都怒我阿羅斯等=天日槍=気比大神との仮説が立てられることになります。

「日本書紀」の仲哀天皇2年2月6日には天皇が角鹿に行幸し行宮を建てて笥飯宮と言う、とあります。
「気比宮社傳」によれば、仲哀天皇8年3月に神功皇后と武内宿禰が安曇連に詔し同地にて気比大神を祀らせ、これが創始とされています。詳細は以下の「古事類苑第9冊」コマ番号488を参照ください。
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1873551/488

「古事記」の仲哀天皇記・気比の大神と酒楽の宴の段では、武内宿禰が太子(応神天皇)を率いて禊をしようとして角鹿に仮宮を建て、太子の夜の夢に伊奢沙和気(いざさわけ)大神が現れて名を換えようと申し出たので、太子はお言葉のままにしますと答えた、とあります。有名な名前の交換説話ですね。翌日、笥飯の浦一面に余るほど御食の魚を太子が賜ったので、神を御食津(みけつ)大神と号した。そして今、気比大神と言う、と書かれています。記事を読む限りでは名前の交換はなく、伊奢沙和気大神→御食津大神(=気比大神)の変更があっただけの話となっていました。

名前の交換に関して「日本書紀」の応神天皇前紀一に云うでは、名を換えたので大神は去来紗別神、太子を誉田別尊という。然らば元の名前は逆のはずだがそうした所見はなく、詳らかでない、としています。これらからも、実際には名前の交換は行われず、伊奢沙和気大神の名前のみが保食神である御食津大神(気比大神)に変更になったと確認されます。

「日本書紀」神功皇后13年3月8日には武内宿禰が皇后の命により、太子(即位前の応神天皇)に従って角鹿の笥飯大神を拝み祭らせた、とあります。
帝王編年記9年2月条によれば、驚いたことに仲哀天皇が気比大神でもありました。(上記コマ番号488参照)と言うことは、天皇が崩御したその年に気比大神として祀られたことになってしまいます。
延喜式によると気比神宮は気比大神、仲哀天皇鎮座となっています。(上記コマ番号488参照)
これらから事実関係は別として、都怒我阿羅斯等=天日槍=気比大神=仲哀天皇としておきます。(注:気比大神=仲哀天皇かどうかは、「古事類苑第9冊」にも異論が書かれており定まりません)

以上、糸島宇美八幡宮・宮司家の先祖である武内宿禰及び同社の主要な祭神は全て気比神宮にも関係していると確認され、加えて両社はあたかも相似形のように糸島市と、遠く離れた敦賀市に鎮座しているのです。この密接な関係の背後には何があるのでしょう?

糸島宇美八幡宮の由緒によると、神功皇后が朝鮮へ出兵した折、気比大神が船上に現れ皇后を守護すると述べています。これを現実に即して見れば、敦賀の人々が皇后の新羅討伐を助けたと理解でき、皇后は帰還後にその助力を多として敦賀にまで赴き、気比大神を祀ったと言うのが合理的な解釈になりそうです。ではなぜ、敦賀の人々は神功皇后に助力したのか?それを考える前に仲哀天皇や神功皇后と天日槍の関係を見ていきます。

仲哀天皇は製鉄集団を率いて新羅から渡来した天日槍の子孫・五十迹手から三種の神器に相当する宝物を受け取り、天日槍が上陸したと思われる伊都県の長野で埋葬された伝承があります。また伊都県には新羅系の白木神社が4社もあり、高祖(たかす)神社が鎮座する高祖山の北東山麓には製鉄遺跡が数多くあるそうです。仲哀天皇の新羅及び天日槍との密着度がこれらから推し量られます。

天日槍に関して、「糸島郡誌」には日槍はまず新羅往来の要津たる伊都を領有し此に住し云々、と書かれている点を前回で指摘しています。以上から、糸島市は新羅との往来の要の場所であり、かつ新羅の王子だった天日槍が領有すると書かれるほど新羅と密接な土地柄だったことになります。仲哀天皇はそうした場所の中にいた訳ですから、当然新羅との関係も密接であり、新羅系の人物であった可能性さえ浮上してきます。一方の神功皇后は新羅の王子・天日槍の子孫となり、しかも新羅征伐に出ています。

都怒我阿羅斯等=天日槍=気比大神=仲哀天皇であれば、仲哀天皇と天日槍は同体になってしまいますが、幾らなんでもそんなことは有り得ません。ただ、そんな説も出るほど仲哀天皇が新羅に近い点は確認されます。このように、仲哀天皇と神功皇后が新羅や天日槍のキーワードに取り囲まれて存在しているのなら、長嶽山に埋葬されたとの伝承を持つ仲哀天皇の実像は、長野川流域の邑を支配していた親新羅或いは新羅系の首長だったことになります。

それを証するかのように、仲哀天皇の宮殿ともされ、天皇と神功皇后の霊廟であった香椎宮(香椎廟)の「カシヒ」は古代朝鮮語の「クシヒ」や「クシフル」に由来するとの説があります。さらに香椎宮に近い志賀島のつけ根に和白町(わじろちょう)があって、和白は新羅語で評議を意味し、しかもこの場所は香椎宮の神領でした。従って、新羅討伐の評議は実際には和白にて行われたと理解され、実際にそうした言い伝えがあるそうです。詳細は以下を参照ください。
https://www.google.co.jp/url?sa=t&rct=j&q=&esrc=s&source=web&cd=7&cad=rja&uact=8&ved=2ahUKEwjxmMeowdTmAhWJvZQKHQNUDTIQFjAGegQIBxAB&url=https%3A%2F%2Fwww.wikiwand.com%2Fja%2F%25E5%2592%258C%25E7%2599%25BD&usg=AOvVaw13Nn-N-DV3ILPCgycswbTI&cshid=1577404518699625

和白が安曇族の志賀海神社に近いこと、一帯が安曇郷の中心地と思われることから、評議には安曇族など海人系も参加していたと思われます。と言うか、新羅への遠征には海人の協力が不可欠なので、神功皇后、仲哀天皇、武内宿禰の三人は彼ら自身の意志で蚊田から和白に出向き安曇族と相談していたのでしょう。もちろん仲哀天皇は不承不承だったはずです。

和白での評議において、親新羅或いは新羅系の仲哀天皇は討伐に反対し、同地から幾つかの場所を経由して糸島宇美八幡宮に近い室小路に戻った時点で殺害されたことになります。(注:あくまで同社の伝承に基づけばの話です)

和白(朝鮮語の読みでファベック)は新羅の族長会議を意味し、「新唐書」東夷伝新羅の条によれば、反対者が1人でもいれば審議事項は実施されないとのことです。会議で仲哀天皇が反対に回った以上、新羅討伐は実施できないことになるので、万やむを得ず天皇を謀殺する筋書きとなったのでしょう。神功皇后も仲哀天皇も新羅に所縁があるのになぜとの疑問も湧きますが、いつの世にも内紛は付き物です。

糸島市と同様に敦賀市には白城神社や信露貴彦神社など新羅系の神社が鎮座しており、新羅との濃厚な関係が推定されます。両社の詳細は以下の玄松子さんの記事を参照ください。
https://genbu.net/data/etizen/siraki_title.htm
https://genbu.net/data/etizen/siragihiko_title.htm

これらを踏まえると、気比神宮と糸島宇美八幡宮の関係性の背後には新羅の存在があったと確認されます。それらが背景となって、記紀などの史料に両地域の交流が書かれたと理解されますが、ではなぜ糸島市側における仲哀天皇、神功皇后、武内宿禰、応神天皇は角鹿を訪問したのでしょう?またなぜ敦賀市側から糸島市側に主要人物が赴いた伝承が皆無なのでしょう?難問ではありますが、新羅人の日本への渡来は敦賀の方が糸島より早かったと設定すれば、糸島宇美八幡宮→気比神宮のみの一方通行だった理由の説明にはなりそうです。

例えば新羅討伐に関して糸島市側の新羅と関係する人々は、より古い敦賀市側の人々に相談に行ったようにも見受けられます。「日本書紀」の垂仁天皇2年条一に云わくには、崇神天皇の御代に額に角の生えた都怒我阿羅斯等が船で穴門から出雲国を経て笥飯浦に来た、と書かれています。一方天日槍の場合は垂仁天皇の時代の来訪とされ、都怒我阿羅斯等の渡来が天日槍より古い時代である点は確認されます。

二人は多分、渡来時期は異なるものの、新羅における同一集団にいたことから、同じ伝承が語られたものと思われます。なお都怒我阿羅斯等は意富加羅王子とされていますが、Wikiによれば、これは朝鮮由来の蕃神伝承が日本側で特定の国に割り当てられたに過ぎないとされる、とのことで、実際には新羅から渡来したのでしょう。

そこで、既に書いた内容を以下に再掲します。
糸島宇美八幡宮の由緒によると、神功皇后が朝鮮へ出兵した折、気比大神が船上に現れ皇后を守護すると述べています。これを現実に即して見れば、敦賀の人々が皇后の新羅討伐を助けたと理解できます。皇后は帰還後にその助力を多として敦賀にまで赴き、気比大神を祀ったと言うのが合理的な解釈になりそうです。
つまり、糸島市側のメンバーは新羅討伐に関して敦賀市側の渡来時期が古い新羅に関係する人々に相談に行き、出兵の協力まで得ることができたので、敦賀まで赴いて感謝の意を表し気比大神を祀ったと考えられるのです。

応神天皇が伊奢沙和気大神と名前を交換した話は、実際には既に書いたように伊奢沙和気大神→御津気大神、気比大神への改名でした。これは古い北陸の新羅系が応神天皇の御代になって単なる保食神に変貌させられ、力を失ったことを示しているのかもしれません。気比大神の実像はなかなか解明が困難で、今後の課題とせざるを得ないものの、本論考において必要な情報は仲哀天皇と新羅の密接な関係であり、その点は確認できたと思います。

あれこれ纏まりなく書きましたが、以上から仲哀天皇の実像は400年代前半から半ば頃にかけて糸島市の長野川流域に存在していた親新羅或いは新羅系の小さな邑の首長で、天日槍が率いた製鉄集団と近しい人物であった、と確認できることになります。

古墳から見た大和の古代 その19

古墳から見た大和の古代
02 /07 2020

今回は前回で触れた長嶽山奥の院古墳をもう少し深堀りしつつ仲哀天皇の実像に迫っていきましょう。糸島宇美八幡宮のホームページには以下の由緒内容がありました。(注:同社のホームページは削除されたのか現時点では見当たりません)

当社の縁起によれば、神功皇后の摂政元年、大臣武内宿禰(たけしうちのすくね)に命じて香椎の宮に安置していた仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)の御棺を当山、長嶽山山頂に納めて陵を築いたとされ、これが上宮の起源とされております。その後、神功皇后(じんぐうこうごう)が朝鮮へ出兵した折、気比大神が船上に現れ「皇后の船と国土を守護する」の旨を現わされましたので、無事に帰国した神功皇后は、長嶽山でお礼の祭礼を催したといわれています。その後、仁徳天皇の治世10(322)年に平群木挽宿禰(へぐりのづくのすくね)の子、博公を神主として神社を立て、気比大神を祀らせました。これが本宮の起源とされています。
さらに称徳天皇の神護景雲元年(767)に宮司、社務、社司の公実が八幡宮、聖母宮、宝満宮を勧進し、その後八幡宮の威徳霊験があらたかで人々の崇敬が多く、社名も八幡宮が用いられるように為ったとされています。


同社の縁起に関しては「糸島郡誌」のデジタルコレクションコマ番号362、363を参照ください。重要な部分は上記とほぼ同じ内容になっています。なおコマ番号363にある清瀧権現とは気比大神を意味していると理解されます。
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1186769

長嶽山山頂の奥の院古墳は全長38mの前方後円墳で、古墳の解説板によれば445年頃の築造と推定されています。また古墳が死者を埋葬するための前方後円墳である点、由緒に陵を築いたとある点を踏まえれば、仲哀天皇の殯斂の地ではないと確認されます。(注:神社側は蓋し三韓征伐の間に於ける仲哀天皇御殯斂の地か、と書いて含みを持たせており、コマ番号362とコマ番号57に出ています)

既に書いたようにこの規模の古墳なら北九州における邑の首長レベルの墓に過ぎず、しかも仲哀天皇が実在すると仮定して、その没年代(仮定の実年代)である300年代後半より80年前後遅い築造時期となっています。長嶽山古墳群に関しては以下に詳しい内容が書かれていますので参照ください。
https://kofunoheya.blog.fc2.com/blog-category-2.html#entry3228

一方、宮内庁が仲哀天皇陵と治定する岡ミサンザイ古墳(所在地:大阪府藤井寺市藤井寺4丁目)は古墳時代中期の5世紀末頃の築造と推定されています。仲哀天皇が実在していたと仮定して、その没年代(仮定の実年代)と古墳の間には100年以上の時代差があり、奥の院古墳同様に全く合致しません。従って、岡ミサンザイ古墳の被葬者は仲哀天皇ではないことになります。岡ミサンザイ古墳の墳丘長は245mと、5世紀末の時代においては極めて巨大で、築造時期やその規模から雄略天皇陵との説も提示されています。

岡ミサンザイ古墳が雄略天皇陵かどうかは別として、仲哀天皇陵でないのは確実です。他に候補はないでしょうか?仲哀天皇の偽陵との説もある五色塚古墳(兵庫県神戸市垂水区五色山4丁目、墳丘長194m、築造時期4世紀末から5世紀初頭)はどうでしょう?「日本書紀」神功皇后摂政元年2月条には、仲哀天皇の為に陵を造ると偽り、播磨に至って山陵を赤石に建てた。船で淡路島に渡り、その島の石を運んで造った。とあります。これを造ったのは神功皇后ではなく、次の天皇が誉田別尊(後の応神天皇)に決まるのを恐れて皇后軍を迎え撃とうとした麛坂王と忍熊王とされています。

要するに仲哀天皇陵を造ると偽って神功皇后を迎撃するための砦を築いたことになるのですが、円筒埴輪列などの出土から五色塚古墳が古代の砦や陣地とは考えられません。また200m近い巨大古墳を仲哀天皇崩御後にごく短期間で築造するなど不可能です。実際には当時の豪族の古墳だった可能性が高く、一方で佐紀陵山型古墳の相似形であることから、明らかに佐紀王朝より設計が配布されたものであり、築造自体に関しても大和側の強い影響が想定されます。

五色塚古墳に関して可能性が高いのは、佐紀王朝の主流派だった忍熊王が播磨の豪族の古墳築造に協力した事実を、「日本書紀」の編纂者が利用し改ざんしたとするシナリオです。従って、五色塚古墳は仲哀天皇の偽墓ではないとの結論になります。

以上、真の仲哀天皇陵が畿内或いはその周辺地域に見当たらないとすれば、同天皇は大和王権とは関係ない人物になってしまいます。(注:既に書いたように津堂城山古墳を仲哀天皇陵に充てる説もありますが、陪家もないことから、これは間違いと判断します)

残る可能性は北九州の人物ですが、北九州で仲哀天皇陵とされる長嶽山・奥の院古墳の被葬者は400年代前半頃に生きていた邑の首長なので、こちらも仲哀天皇の実年代となるべき300年代半ばから後半とは大きな時代差があると確認されています。よって(「日本書紀」に書かれた)仲哀天皇は大和側と北九州側のどちらから見ても実在せず、編纂者が創作した架空の人物になりそうです。ただその元ネタは間違いなく存在していますので、見て行きましょう。

現実的な側面から「日本書紀」に仲哀天皇として書かれた人物の実像を纏めると、大和王権とは無関係の、400年代前半から半ば頃にかけて糸島市の長野川流域に存在していた小さな邑の首長であり、この人物を基に創作されたのが仲哀天皇となりそうです。

なぜそのような人物が仲哀天皇として記されたのか知るすべはありませんが、「魏志倭人伝」に書かれた卑弥呼時代の伊都国がたった千戸の小国であるにもかかわらず、極めて重要な地位にあったことが影響しているのかもしれません。「日本書紀」編纂時点の天皇家においても、旧伊都国の重要性に関する意識が残存しており、400年代の同地域で起きた事柄にまで十分な目配りをしていたとも考えられます。それはさて置き、一点実に不思議な問題があります。

仲哀天皇陵に治定される岡ミサンザイ古墳は「日本書紀」で河内国の長野陵と記載されています。長野川沿いに鎮座する糸島宇美八幡宮はかつて長野八幡宮と呼ばれており、一帯の地名は長野でした。長野県長野市に鎮座する蚊里田八幡宮の由緒は筑前国怡土郡長野村蚊田の伝承が元になっていました。これら三つが全て長野繋がりとなっているのです。妙だとは思えませんか?ちょっと気になるので長野の地名由来や分布などを見ていきます。

長野の地名で最も有名なものは長野市です。長野市の地名は善光寺平の長く緩やかな傾斜地の野、に由来するとされています。けれども、他の数多い長野の地名はそうした形状とは関係のない場所に付けられており、長野市の見解が正しいとは言い切れません。蚊里田八幡宮の由緒に、仁平年間(1150)に現在の本殿裏山をゆかりの地、九州蚊田の里の地名を取って蚊里田山(かりたさん)と称し、とあるように怡土郡における蚊田の里の地名が持ち込まれたのであれば、同時に長野の地名も持ち込まれ、現在の長野市の地名が成立した可能性は十分にありそうです。

さらに、長野の地名は天日槍と関連付けられる可能性もあります。例えば「日本書紀」の垂仁天皇3年3月条には天日槍が播磨国に泊まって、宍粟邑(しさはのむら)に在りと書かれています。そしてこの地には宍粟郡安富町長野がありました。(現在の姫路市安富町長野)天日槍の推定移動ルートは、新羅-旧伊都国-播磨国宍粟邑-近江国吾名邑-若狭国-但馬国、となりますが、但馬国への入り口に当たる街道筋には京丹後市久美浜町長野があります。「古事記」の応神天皇紀には、昔天之日矛が阿加流姫を追って難波に来た話が出ており、河内にも長野の地名があって現在の河内長野市になっています。

「筑前国風土記」逸文(「釈日本紀」所引)によれば、仲哀天皇が筑紫行幸の際、怡土県主(いとのあがたぬし、伊都国のあった怡土県の県主で現在の糸島市)らの祖の五十迹手(いとで)が出迎え、五十迹手は自分を高麗国の意呂山に天降った日桙(天日槍)の後裔と言上しています。朝鮮から製鉄集団を率いて渡来したとされる新羅の王子・天日槍が糸島市に上陸した可能性は上記から推測され、その一帯の地名が長野だったのです。

天日槍の糸島市上陸に関し「糸島郡誌」には、日槍はまず新羅往来の要津たる伊都を領有し此に住した云々、と書かれています。詳細はコマ番号51を参照ください。これ以降のコマには神功皇后の活動などが詳細にわたって書かれており、興味深いものがあります。

以上、長野の地名の検討から実に興味深い結果が導き出されてきました。「日本書紀」の編纂者は糸島宇美八幡宮の長嶽山に埋葬された邑の首長と、埋葬場所一帯の地名である長野を取り込んで、河内国にある仲哀天皇とは無関係な古墳の名前を長野陵に決定し、仲哀天皇陵として「日本書紀」に書き込んだのです。

酔石亭主は仲哀天皇に関して、大和王権とは無関係の、400年代前半から半ば頃にかけて糸島市の長野川流域に存在していた小さな邑の首長であり、この人物を基に創作されたのが「日本書紀」における仲哀天皇。との見解を持っていますが、長野の地名までもがこの見方を補強する大きな材料となっていました。地名一つが古代史を検討するための強力な武器になるとは、実に面白いですね。

また仲哀天皇とされたこの邑の首長は、天日槍の後裔である怡土県主らの祖・五十迹手(いとで、名前は明らかに伊都国の伊都から取っている)と深い関係を持っていることから、親新羅或いは新羅系とも考えられるので、次回で少し詳しく見ていきます。

酔石亭主

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