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北九州古代史の謎を解く その17

北九州古代史の謎を解く
05 /03 2020

前回で触れた熊本県の日向地名を参考までに以下に書き出します。

日向:菊池市下河原町
日向:玉名郡三加和町
日向:鹿本郡菊鹿町
日向上:菊池郡合志町
日向上・下:熊本市戸島
日向:阿蘇郡産山村
日向:阿蘇郡西原村
日向泊:阿蘇郡蘇陽町東竹原
日向:上益城郡御船町


これだけの数を合理的に説明するには前回で書いた視点しかなさそうですね。
さて今回は日向三代に続く神武天皇に関連して少し気になる点があるので、皇祖神天照大神(卑弥呼)から記紀に従って年代順に並べてみます。各年代は推定没年で15年毎としておきます。

天照大神―天之忍穂耳命―瓊瓊杵尊-彦火火出見尊―鵜葺草葺不合命―神武天皇
(248年)(263年) (278年) (293年)  (308年)  (323年)


天照大神の原像は卑弥呼なので、卑弥呼の推定没年を最初に書いています。この年代順を取り上げたのは「その15」で、神代と人代の間が短すぎるため、日向三代を間に置いて調整を図り、彦火火出見尊の東征を分離して神武天皇に充てる形としたのでしょう。と書き、これに加えて、編纂者が実年代を念頭に置きこのような人(神)の配置にした可能性もある、と考えていたからです。

天照大神の原像が卑弥呼になる以上、それより後代の神武天皇に関して「日本書紀」の編纂者がモデルとなる人物を想定していたと考えても違和感はありません。だとすれば、そのモデルの実年代に合わせた人(神)の配置をしていたと容易に推定されることになります。

神武天皇に続く欠史八代に関しても、吉備系の匂いがある孝霊天皇以外は葛城族の王を充てたと以前書いた記憶があります。神武天皇の前も後もモデルとなる人物や一族がいる以上、その間に位置する神武天皇にモデルがいるのは間違いありません。

さてそこで、神武天皇は崇神天皇をモデルにしているとの説があります。崇神天皇の時代になって事実と思われそうな事績が書かれ、また見合うような古墳も存在して、実質的な初代のようにも見えることからそうした説が登場したものと思われます。けれども、その説が正しいかどうか詳細な検討が行われた様子はなさそうなので、ここで取り組んでみたいと思います。

と言うことで、上記した天照大神(=卑弥呼)から続く系譜を参照ください。神武天皇の没年が323年となっています。一方酔石亭主は崇神天皇の没年を318年と推定しており、実年代的には神武天皇とほぼぴったり合う形になりました。318年とする根拠は「邪馬台国と大和王権の謎を解く その18」に書いており、具体的には以下の通りです。

崇神天皇の生没年は270年~318年と推定され、台与より遅い時代の人物となります。318年は干支に基づく年代で、天皇の墓とされる行燈山古墳の築造年代が4世紀前半と推定されていることから、この崩御年は正しいとしておきます。

(注:「古事記」よると崇神の没年干支は戊寅年になるので、これをベースに318年としています。干支は60年で一回りするので、没年を258年と見る向きもありますが、その場合崇神天皇陵の築造時期と整合しません)

崇神天皇の称号は「御肇國天皇」で、神武天皇の場合は「始馭天下之天皇」でした。どちらも「はつくにしらすすめらみこと」と読み得るので、編纂者はここに謎解きの種を仕込んでおいたとも推定されます。これら点を考慮に入れれば、やはり神武天皇のモデルは崇神天皇だったと言えるでしょう。

次に新羅との関連から読み解いていきます。「新撰姓氏録」右京皇別条には以下の記述がありました。

新良貴 彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊男稲飯命之後也。是出於新良国。即為国主。 稲飯命出於新羅国王者祖合。日本紀不見。

新羅国は鵜葺草葺不合命の男の子である稲飯命(神武天皇の兄)の後裔で、新羅国に行って国王になった。稲飯命は新羅国における王の祖になった。日本紀にこの記事は見られない。

Wikiによれば新羅国王の祖は、赫居世居西干(かくきょせい きょせいかん、紀元前69年? - 後4年 )は、斯蘆国の初代の王(在位:紀元前57年? - 4年)であり、姓を朴、名を赫居世とする。となります。(注:以降は赫居世と表記します)だとすれば、稲飯命が赫居世に相当する可能性も浮上しますが、赫居世の在位期間は神武天皇の即位年である紀元前660年、崇神天皇の没年のどちらとも見合いません。この点はややこしいので後で考えることにして、次に進みます。

「新羅本紀」によれば、前漢孝宣帝の五鳳元年(紀元前57年)赫居世が建国し三年に倭国と交聘を結んだとのこと。稲飯命=赫居世だから建国後すぐに倭国と交聘を結んだと理解されますが、紀元前に倭国としての統一的な国家が北九州にあったとは思えず、また「新羅本紀」編纂者も日本と同様に歴史を古く見せようとする意図があったと推定され、実際の新羅建国はもっと後の時代になると考えられます。

「三国遺事」や「三国史記」によれば、赫居世は卵から生まれたとされ、卵が瓠(ひさご)の様な大きさだったため、辰韓の語で瓠を意味する「バク」(朴)を姓としたとのことです。詳しい内容は「三国遺事」の要約を参照ください。

一方で以下に書いた「三国史記」の記述によると、瓠を腰にぶら下げて海を渡ってきたことから瓠公(ホゴン)と称された倭人がいたそうで、この人物を赫居世とする説もあります。

「三国史記」卷一・新羅本紀第一・始祖赫居世三十八年(紀元前20年)条 : 瓠公者、未詳其族姓。本倭人。初以瓠繋腰、度海而来。故称瓠公。

瓠公に関しては以下Wikipediaより引用します。

瓠公(ここう、生没年不詳)は、新羅の建国時(紀元前後)に諸王に仕えた重臣。また金氏王統の始祖となる金閼智を発見する。もとは倭人とされる。新羅の3王統の始祖の全てに関わる、新羅の建国時代の重要人物である。瓠(ひさご)を腰に下げて海を渡ってきたことからその名がついたと『三国史記』は伝えている。
初代新羅王の赫居世居西干の朴姓も同じ瓠から取られているため、同一人物を指しているのではないかという説がある。 
脱解尼師今2年(58年)、最高官位である大輔に任命された。
脱解尼師今9年(65年)、王都金城(慶州市)の東で起こった神異を調べにいき、金閼智を得た。


ここまでの検討から、新羅の始祖である赫居世は神武天皇の兄・稲飯命の可能性があること。また稲飯命が瓠公の可能性もあること。そうでなかったとしても、瓠公は新羅の三つの王統の全てに関与する超重要人物だったと確認されることになります。

もちろんこれらは伝説的な話なので、現実に落とし込んだ場合はどうなるか検討する必要があります。「三国史記」の場合編纂は1145年で、「三国遺事」も1280年代となっており、記紀の編纂よりずっと遅い点にも留意する必要があるでしょう。新羅の建国が紀元前57年となっている事情は以下のWikipedia記事を参照ください。

『三国史記』が新羅の建国年を紀元前57年としたのは次の論理によると見られる。まず、『漢書』等の記録によれば紀元前108年に、漢の武帝が朝鮮半島に漢四郡を設置し、昭帝が紀元前82年に朝鮮半島南部の真番郡を廃止した。その後最初におとずれる甲子の年(六十干支の最初の年)が紀元前57年となる。それ以前に設定した場合、朝鮮半島の大部分に前漢の郡が設置されていたという記録と衝突してしまうため、これより遡って建国年を設定できなかった。つまり、金富軾は可能な限り古い時代に新羅の建国年を置こうとしたが、紀元前57年がテクニカルな限界であった。

新羅が文献に初出するのは「資治通鑑」で、巻104の太元2(377年)年条に、高句麗とともに前秦に朝貢したという記事があります。従って、4世紀半ば頃が実際の建国時期と見られ、17代新羅王の奈勿尼師今(なこつにしきん、生年不詳で在位は356年~ 402年)が実質的な初代で、彼の時代に新羅国が建国されたと推定されます。次に初代から四代までを以下に書きますが、年代は実年代ではない点に留意ください。

赫居世居西干(朴氏、前57年~4年)― 南解次次雄(朴氏、4年~24年)― 儒理尼師今(朴氏、24年~57年)― 脱解尼師今(昔氏、57年~80年)

上記で重要な人物が第四代の脱解尼師今(だっかいにしきん、以降脱解と表記します)です。脱解は、「三国史記」の新羅本紀に、脱解本多婆那國所生也 其國在倭國東北一千里、と書かれていました。

脱解は、もとは多婆那国の生まれで、その国は倭国の北東一千里にあると言うのですから、この人物もまた倭人であり、多婆那国は但馬国や丹波国が充てられているようです。初代の赫居世(朴氏)、第四代の脱解尼師今(昔氏)のみならず、それらに仕えた重臣である瓠公までも倭人なので、新羅の建国は日本人の手によるものとも言い得ます。(注:「魏志倭人伝」に出てくる朝鮮半島南部の狗邪韓国も倭国ですから、脱解は半島或いは済州島出身の倭種と見るべきかもしれません)

但しこれらは伝説であり、現実に落とし込んでいく必要があります。その場合、新羅の建国は実際には4世紀頃とされるので、第17代新羅王の奈勿尼師今(生年不詳で在位は356年~ 402年)辺りを初代に置き直せるかが鍵となりそうです。と言うことで、日本に戻って検討を続けましょう。

本記事の最初に書いたように、天照大神を卑弥呼に充てると神武天皇の没年は323年になり、神武天皇には崇神天皇が充てられ、崇神天皇の在位(実質的な活動期間)は290年から318年頃と推定し、以前にもそう書いています。

ここから神武天皇の兄となる稲飯命が290年頃に朝鮮に渡ったと設定可能になるので、これをベースに稲飯命=赫居世と仮定して、初代から四代までの年代を一代15年にて実年代に置き直してみます。

赫居世(300年~315年)― 南解(315年~330年)― 儒理(330年~345年)― 脱解(345年~360年)

稲飯命を赫居世として推定実年代で並べる上記設定だと、脱解のモデルは第17代新羅王の奈勿尼師今(なこつにしきん)になります。一応四代の全員が4世紀の範囲内に収まり現実(実年代)に近く、イメージ的には4世紀の初め頃に新羅一帯の地域共同体が纏まり始め、4世紀半ば頃に建国されたと言い得ます。地域共同体が纏まり始める段階のみならず、新羅建国まで倭人(或いは倭種)の手によるものだったとは驚きですが、それを多少なりとも証明するような史料があります。

例えば、梁の職貢図では、あるときは韓の属国であり、あるときは倭の属国であったと記述されていました。(注:職貢図とは古代中国王朝皇帝に対する周辺国や少数民族の進貢の様子を表した絵図。「職貢」は「中央政府へのみつぎもの」の意味)

斯羅國,本東夷辰韓之小國也。魏時曰新羅,宋時曰斯羅,其實一也。或屬韓或屬倭,國王不能自通使聘。

斯羅國は元は東夷の辰韓の小国。魏の時代では新羅といい、劉宋の時代には斯羅というが同一の国である。或るとき韓に属し、あるときは倭に属したため国王は使者を派遣できなかった。

百科事典マイペディアには辰韓(しんかん)から新羅への統一に関して以下の記事がありました。

三韓の一つ。古代朝鮮の南東隅にあった国で,北は【わい】貊(わいばく)と接していたという。ほぼ現在の慶尚北道で洛東江の東であると比定される。3世紀に成立したが,原始的村落国家であり,斯盧(しろ)国を中心とした連合国家に併合され,350年ころ新羅(しらぎ)に統一された。

以上から新羅が統一的な国家として成立したのはやはり奈勿尼師今が即位した356年としてよさそうです。ここまで検討してきた年代から判断すると奈勿尼師今が脱解で、彼は但馬国か丹波国から朝鮮に渡った人物となります。

この推定をさらに確実なものとするため、新羅王子とされる天日槍を見ていきましょう。彼は垂仁天皇の御世に渡来したとされています。垂仁天皇の陵とされる宝来山古墳は4世紀末の築造で、詳細は「古墳から見た大和の古代 その3」を参照ください。4世紀末に古墳が築造されたのであれば、垂仁天皇が活躍した時期は370年~390年頃となります。

一方脱解の在位は345年~360年と推定していますので、例えば天日槍が350年に生誕したと仮定して、父である脱解が亡くなった後の370年頃日本に渡来し、各地を巡り最終的に但馬を拠点にしたと理解されます。(注:天日槍の生誕を奈勿尼師今が即位し、新羅が実質的に建国された356年と見ても年代的には整合してきます)

脱解は、もとは多婆那国の生まれで、その国は倭国の北東一千里とされ、多婆那国は丹波国か但馬国が充てられますが、最終的な居住地を但馬とした天日槍の動きから判断すると、脱解の生誕地は但馬国が俄然有力となってきます。天日槍が父の死後その故郷に行きたいと願ったとすれば、彼が最終的に但馬の地に入ったのは偶然ではなく必然だったことになるからです。

いかがでしょう?上記のように古代における日朝関係史を読み解くことで、伝説的な話を年代的に整合性のある現実に落とし込むことができましたね。

纏めれば、初代・神武天皇の実像は崇神天皇であり、290年から318年頃の人物であった。神武天皇の実像が崇神天皇である点は多くの研究者もそう見ている。
崇神天皇における実年代で稲飯命が朝鮮半島に渡り、地域共同体(プレ新羅)の首長としての赫居世になった。
第四代目となる脱解が但馬国の倭人で、その子が天日槍に相当し、垂仁天皇の時代に父の故郷である但馬国を自分の拠点にした。
脱解の実像が第17代新羅王・奈勿尼師今であれば、新羅の実質的な建国年代にほぼ整合してくる。天日槍を脱解或いは奈勿尼師今のどちら子として見ても、日本における垂仁天皇の時代に整合してくる。となります。

以上から、200年代の終わり頃から300年代の終わり頃までの日朝間における歴史は、かなり大雑把ではありますが、伝説的な神武天皇を起点に置き、彼の実像を崇神天皇と設定することでほとんど読み解けたと言えるでしょう。

その意味でも神武天皇の存在は(実在してはいないものの)、極めて重要だったことになります。(注:新羅関係の歴史に関しては記事一回分に収めるため大幅に端折っている点ご了承ください。新羅の詳しい古代史はネット上に数多くの論考が見られますので参照ください。脱解に関しては半島出身の倭種である可能性もあり、本論考にはまだ詰めが粗い部分も残ります)

「魏志倭人伝」と記紀に記された古代北九州の原像を探る謎解きはこれで一旦終了です。北九州の古代史に関しては「尾張と遠賀川流域の謎を解く」シリーズ、「古墳から見た大和の古代」シリーズで取り上げた仲哀天皇と神功皇后、応神天皇の生誕などでも書いており、今回はそれらより古い時代を取り上げたことになります。

本シリーズに関して、本来なら現地訪問して書くべきなのに、コロナ騒動のせいで身動きが取れず、テレワーク的に現地を訪問することなしに書きました。そうした実情から不十分な面も多々ありそうですが、何とか一定程度の成果は得られたと思います。と言うか、現地訪問した上で書くと、本来書くべきこと以外の話もつい加えたくなるし、写真の枚数も神社だけでなく御神木などを撮影することで増えてしまうので、主題部分がぼやけてしまう可能性が高くなります。

今回の経験から、今後は史料などを元に主題となる部分を先行して書き、その上で別途現地訪問して写真付きの記事をアップする方がいいようにも思えてきました。そうした点も考慮しつつ、機会があればまた北九州古代史の謎解きに挑戦してみます。
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北九州古代史の謎を解く その16

北九州古代史の謎を解く
05 /01 2020

今回は北九州各地にある日向の地名から検討を始めます。「その7」で書いたように、日向の地名は北九州各地にかなりの数が存在しています。でも、なぜ北九州に日向地名が多いのでしょう?唯一考えられる理由は、卑弥呼を天照大神として奉じる台与一行が糸島市(日向)からの移動に伴って持ち運んだため、となります。そうした視点から北九州における日向地名や山名、神社名などを詳しくチェックしたいと思い、何かの本に書かれていたはずと薄れた記憶を探りました。

そして高木彬光氏の「古代天皇の秘密」(角川書店)を開いたところ、どんぴしゃりで各地の日向地名が出てきたのです。この地名リストは吉村豊氏の「卑弥呼の道は太陽の道」から引用したと高木氏は書いています。(注:実際のお名前は古村豊氏。高木氏は酔石亭主とは全く異なる観点からこのリストを掲載し、解説しています)

北九州に数多い日向地名の場所を調べたところ、酔石亭主の観点を裏付けるような傾向が出てきましたので、以下に並べ直してみます。但し、リストの所在地は1983年当時のものです。

福岡県
日向峠:糸島郡前原町
日向山:大野城市御陵
日向石:筑紫野市大字武蔵
日向石:甘木市秋月日向石村
日向東:朝倉郡杷木町
日向: 浮羽郡浮羽町

大分県
日向郷:日田市(日田市には多数の日向地名あり)
日向山:玖珠郡玖珠町
日向岳:別府市
日向: 東国東郡国東町、武蔵町


参考まで一か所地図でチェックしたら朝倉市日向石がありました。上記の甘木市秋月日向石村のことのようです。(注:甘木市は2006年の合併により朝倉市になっています)


朝倉市日向石の位置を示す地図画像。

いかがでしょう?上記から伊都国の南にあった女王国の台与が日向峠を越えて、大野城市、筑紫野市、朝倉市、うきは市、日田市と移動し、玖珠郡から別府市に入り、宇佐市に至ったルートが浮き彫りになって来ませんか?

そう、日向地名の点在する場所を繋いだものこそが台与一行による天孫降臨の実像であり、日向峠を越え吉武高木遺跡のある早良国(実態は初期の伊都国)に出た後、豊前国の宇佐に至るまでのルートだったのです。

豊前国には大分県北部(中津市・宇佐市)が含まれます。台与一行のみならず、饒速日や神武天皇までやって来て一時的に留まったこの場所こそが、「古事記」で豊葦原瑞穂国、葦原中国などと表記される「豊葦原中国(とよあしはらのなかつくに)」すなわち「豊前国の中津国」ではないでしょうか?(注:福岡県では八女市にも三件ほどあるようですが、より南のルートを移動した一団もいたと解釈されます)

日向とは太陽の出る東(ひがし、ひんがし=日向し)の方向に向かうことを意味しており、台与一行のルートも基本的に東に向かっている訳で、行く先々に日向の地名を持ち込んだとしても不自然ではありません。しかも日向は台与一行が奉斎する卑弥呼をも意味していました。

そこでモーゼの出エジプトにあやかり、台与一行の移動を出高天原と称することにしましょう。モーゼが虐げられていたユダヤ人を率いてエジプトから脱出したのとほぼ同様に、台与の場合も争いが続く北九州を離れ、豊葦原中国であった宇佐にしばし留まり、その後約束の地である大和に向かったのです。糸島市から福岡市西区にかけての日向は面でしたが、移動を始めてからは点として北九州各地に点在したことになります。

上記した日向地名は福岡県と大分県に限っていますが、実は熊本県にも数多く見られます。熊本と言えば卑弥呼に敵対した狗奴国の支配地域のはず。「魏志倭人伝」によれば、正始8年(247年)に卑弥呼は使節を帯方郡に派遣して、狗奴国と戦争状態にあることを奏上しています。なぜそんな敵地に日向地名が数多いのでしょう?

熊本と言っても広いので、早速日向地名のある場所をチェックしたところ、現在の菊池市や山鹿市、玉名市、合志市、阿蘇市などに見られ、どう考えても狗奴国とその周辺地域になってしまいます。この事実を合理的に説明するには、卑弥呼の軍勢が狗奴国に攻め込んだ際に持ち込んだとするしかなさそうです。

熊本の場合の日向地名は従って、東の方角ではなく卑弥呼(=日向)で卑弥呼自身を意味するものとなります。卑弥呼を奉じる軍勢が狗奴国に至り、その戦勝地か滞在地に卑弥呼を意味する日向地名を付けたのでしょう。また宮崎県の日向地名は2件しかなく、危機編纂以降に付けられたものと理解されます。

台与と女王国に従う相当数の人々が北九州を離れた結果、中国側にとっての連絡窓口が途絶えてしまいます。それ以降しばらくの間(約150年)、中国史書に日本の記事が載せられなかったのは、そうした事情によるものと推察されます。(注:詳しく検証していないので、異なる理由があるかもしれません)

以上で天孫降臨の真の意味もほぼ固められましたが、他にも酔石亭主の見解を補強する材料がないでしょうか?高祖山の西側、直線距離で約3.8kmの所には伊都国の領域内となる平原王墓があります。ここから高祖山へのラインを延長すると、驚いたことに大和の三輪山へと至りました。しかも、高祖山の標高は416mで三輪山は467mとほとんど同じ高さの神体山です。

二つの山の標高差は50m強ですが、例えば巻向駅の標高は77mあり平原王墓も微高地にありますので、それぞれの地点からの比高で見ればほとんど同じ高さとなってしまうのです。さらに三輪山は奈良盆地の東に聳えていますが、高祖山も同様に盆地的な地形の東に聳えています。

日向(ひなた)峠は、伊都国と早良国(福岡市西区の吉武高市遺跡で実際には伊都国)を結ぶルート上にあり、卑弥呼の時代の人々はこの峠に昇る朝日の位置で季節を計っていました。三輪山も太陽信仰の聖地で山頂にある高宮神社(本来は神坐日向神社とされる)は太陽信仰の神社であり、祭神は日向御子神となっています。

根拠はありませんが、日向御子神の実態は天照大神の孫=瓊瓊杵尊なのかもしれません。(注:天照大神の子である天之忍穂耳命は系譜上に名があるだけで、ほとんど存在感がない)高宮神社と神坐日向神社の関係はややこしく、「邪馬台国と大和王権の謎を解く その6」にて書いていますので、参照ください。日向御子神の名前は北九州の女王国からはるばるやって来た台与一行の到達点を想起させます。モーゼ一行の約束の地がイスラエルであったように、台与の場合の約束の地は大和だったことになります。

本シリーズに関しては様々な史料を元にした論理の積み重ねで、台与が卑弥呼の依り代となる鏡(天照大神)を奉じて大和の三輪山山麓まで来たとの推論を導き出しましたが、伊都国と纏向の地形的な相似性も彼らの移動の大きな根拠になると思います。

台与が大和に来たのは、故地である伊都国と同じように太陽祭祀が可能な他に類を見ない場所だったからでしょう。この情報は多分、大和に先行した饒速日(=大物主神=男神アマテラス)の子孫から得たものと思われます。大和が台与一行にとって約束の地であるのは、そうした事情があったからと推察されます。大和における三輪山の太陽信仰は「尾張氏の謎を解く その33」、「その34」などを参照ください。

ここまで至れば、邪馬台国畿内説、邪馬台国九州説の論争は滑稽なものに過ぎず、卑弥呼の女王国は北九州の伊都国の南(或いは伊都国内の南)であり、東遷した女王・台与が都する邪馬台国は近畿地方全域でその宮殿は大和・三輪山山麓の纏向にあり、箸墓古墳は台与の墓と理解して間違いなさそうです。

台与の死後は豊鋤入姫命、倭姫命が後継者となり、彼女たちによって天照大神(卑弥呼の原像であり実態は鏡)は伊勢の地へと運ばれたのです。従って、既に書いたように卑弥呼の女王国の最終形態が伊勢神宮と理解されます。

不思議なのは糸島市志摩桜井(旧志麻郡で旧怡土郡の隣)に桜井二見ヶ浦の夫婦石があり、伊勢市にも二見浦があって同じ夫婦石があり、お隣は志摩市となっている点です。志摩市の場合飛鳥時代の志摩国であり、糸島市の場合大宝2年(702年)の筑紫国志麻郡川辺郷の戸籍があり、時代的にはどちらも古く、偶然の一致とは言い難いように思えるのですが、いかがなものでしょう?

例えば伊都・志麻が伊勢・志摩だとしたら、実にうまく対比できることになるのですが…。もしこれが必然であったとしたら、卑弥呼の女王国の最終形態が伊勢神宮となるのは、見えざる神の手により予め決まっていた……??まあ、倭姫命の時代であれば自分たちの先祖の地がどこであったかわかっており、その地にちなんで伊勢・志摩と名付けたとも言えそうです。

余談はさておき、記紀神話に書かれた内容のほぼ全ては伊都国(糸島市と福岡市西区一帯)とその近接地域の話であった点、天孫降臨の真の意味などに関して、ここまでの検討で何とか確認できました。一応これで終了しようかと思ったのですが、日向三代・鵜葺草葺不合命の子となる神武天皇に関して少し見ておきたいところがあるので、次回で書く予定です。

北九州古代史の謎を解く その15

北九州古代史の謎を解く
04 /29 2020

今回は台与一行が宇佐市と行橋市のどちらに移動したのかという問題から検討を進めつつ、最後まで残ってしまった天孫降臨の意味やその具体的な内容について考えてみます。台与一行の東遷は酔石亭主の勝手な推論なので特定可能な史料はありませんが、台与以前の饒速日や、台与以後における神武天皇の大和への東遷が間接的な材料にはなりそうです。

例えば東大阪市東石切町1丁目1-1に鎮座する石切劔箭神社の神話によると、饒速日は日の御子の証である天羽々矢も携え天磐船に乗り込み、船団を組んで高天原を出航。船団が豊前国(大分県)の宇佐につくと、息子の天香具山命に船団の半分をあずけ、自らは瀬戸内海を通って大和に向かったとあります。神話ではありますが、台与以前は宇佐からの出航と確認されました。また瀬戸内海を航行して大和に向かった点も書かれています。詳細は「石切劔箭神社ホームページ」を参照ください。

「日本書紀」の神武天皇即位前紀によれば、天皇は塩土老翁から、東に善き地があり天磐船に乗って飛び降りるものがあると聞き、それが饒速日だったので自らも東征を決意し、筑紫国(実際には豊前国)の宇佐に至り、次に筑紫国の岡水門(遠賀川の河口付近。以前「尾張と遠賀川流域の謎を解く その7」にて詳しく書いています)に至ります。

続いて安芸国(広島県)、吉備国(岡山県)に移り、難波にまで来て河内国の草香邑(くさかのむら)の青雲の白肩之津(しろかたのつ)に上陸しました。台与以後に関してもやはり宇佐であり、瀬戸内海を航行しています。

台与の東遷は饒速日と神武天皇の間の時代となることから、彼女も基本的にはこのルートを辿ったものと容易に推察されます。すなわち豊前国の宇佐から出航し瀬戸内海を渡り、途中投馬国であった吉備国などに停泊して難波に到着。大和の入り口となる草香邑(東大阪市日下町)、白肩之津(枚方市?)で上陸したことになります。ただ酔石亭主は、台与一行は上陸せずそのまま大和川を遡り、大和に入ったと考えています。

「古事記」における神武天皇の行程には少々問題点もあり、日向を発って筑紫国を行幸し豊国の宇佐に至ったと書かれていました。この場合、南九州の日向国のようにも見えてしまいますが、日向国とは書かれていないし、そもそも当時日向国は存在していないので、糸島市の日向と見做せることになります。加えて既に書いたように、「大震国本紀」には伊都国が日向国だと記されていました。

筑紫国の中にある日向国(伊都国)を発って筑紫国を行幸したとの文面はややおかしいようにも思えますが、現代を例に取ると、例えば名古屋市を発って愛知県を行幸し、と書くのと同じなので、問題は解消できそうです。宇佐以降は筑紫の岡田宮(遠賀郡芦屋)、阿岐国(広島県)、吉備(岡山県)、難波、白肩津のコースとなっています。

「日本書紀」にも問題点があります。神武天皇即位前紀には神武天皇の諱(ただのみな、実名のこと)が彦火火出見とあります。彦火火出見尊は日向二代の人物なのになぜ神武天皇の諱と同じなのでしょう?妙ですね。多分編纂者の当初構想では、彦火火出見尊が東征することになっていたのです。

その場合、神代と人代の間が短すぎるため、日向三代を間に置いて調整を図り、彦火火出見尊の東征を分離して神武天皇に充てる形としたのでしょう。この論点は相当説得力があり、「日本書紀」岩波書店版の補注(巻三)四の神武天皇東征説話にもほぼ同様に書かれ、東征した彦火火出見尊(=神武天皇)が南ではなく北九州にいたと確認される結果にもなっています。

ただ酔石亭主は、上記に加えて、編纂者が実年代を念頭に置きこのような人(神)の配置にした可能性もあると考えており、後の回で検討してみます。天照大神から神武天皇までの系譜は以下となりますので、ご参考としてください。

天照大神(卑弥呼)―天之忍穂耳命―瓊瓊杵尊-彦火火出見尊―鵜葺草葺不合命―神武天皇

次の問題として、神武天皇は長じて日向国の吾田邑(あたのむら、薩摩国吾多郡吾多郷)の吾平津媛(あひらつひめ)を娶った点が挙げられます。これでは初代の天皇が天皇家に敵対した隼人の女性を娶ったことになり、隼人(この時点では南方系の海洋民族)の地が皇室の発祥地となってしまいます。

岩波書店版の補注(巻三)四には逆賊の占領地で長く国家組織に加わっていなかった土地が皇室の発祥地であり得たのは、天皇を日の神の子孫とした以上、その故郷を日の出ずる方に向かう国とするしかなく、作為された説話だとする津田左右吉氏の見解が載せられています。(注:内容を要約しています)

岩波の補注は一定の説得力もありますが、日向を鹿児島の前提で書いており、その場合地理的に日向とは言えないのではないでしょうか?日に向かう国としての日向にきちんと当て嵌まるのは宮崎になるからです。(注:日向国成立当初は宮崎と鹿児島の両方が日向だったと推定されています)だとすれば、宮崎は台与に近い時代から大和と何らかの関係があったことになります。

そう考えて調べたところ、宮崎県には日本最大級の西都原古墳群があり、最古とされる第81号墳は3世紀末から4世紀初頭に築造の前方後円墳で、墳丘長は約54mあり、大和の纏向石塚古墳(注:築造時期は3世紀初めから半ばまで諸説あって、墳丘長は96m)の相似形とされていました。

(注:81号墳に関して当初4世紀初め頃とされていたものが3世紀半ば頃に修正されたとの説がネット上に見られますが、後に再度修正され4世紀初頭前後になったと酔石亭主は理解します)

また宮崎には築造時期が5世紀前半に下るものの、九州最大の前方後円墳で仲津山古墳を元にして築造されたとの説もある女狭穂塚古墳(めさほづか、176m)など大和との関係が推定される古墳が見られます。

上記した大和と南九州(宮崎)の関係は、北九州から大和と南九州の両方に移動した人々がいたから、一定の関係や情報交換があったとする以外に適切な説明が付きません。81号墳の詳細は「宮崎県教育庁のホームページ」を参照ください。

上記をうまく纏めるには、台与以降にも大和への東遷があり、その際、台与の時代に南九州の宮崎に移動したグループにも声が掛けられ、隼人系の女性と結婚していた宮崎の首長がこの東遷に加わったことから、神武天皇の后を隼人の女性とする説話が形成された、と設定するしかなさそうです。

そうした仮説をベースにすれば、神武天皇と隼人系の后、大和と宮崎との関係の両方に合理的な説明が付けられることになります。とは言えここで重要なのは神武天皇と隼人系后ではなく、大和王権と宮崎(日向)の関係であり、そうした関係性が成立した背後には、台与一行による大和と宮崎の二方向への移動があったと推察される点です。この視点なしには大和と宮崎の関係を合理的に説明できないと思料します。

少し話がそれましたが、饒速日の東遷と神武天皇の東征に関する「日本書紀」の記述内容から、台与一行の北九州における最終地点が宇佐であり、一行の北九州から大和への移動経路は瀬戸内海だったと確認されたことになります。

また台与一行は宇佐市から船で瀬戸内海を渡り大和へと向かい、別動隊は南九州へ向かったことが、南九州に日向の地名や日向三代の痕跡があった理由となるでしょう。天孫降臨神話には、伊都国→早良国(実態は初期の伊都国)→宇佐市だけでなく、宇佐市→南九州と言った異なる要素も混在してしまったため、分別できず後代の混乱を招いたものと思われます。

今回天孫降臨の意味やその具体的な内容に触れることができなかったので、台与一行の伊都国から宇佐への移動を、天孫降臨に絡めながら次回で検証していきます。その決め手となるのが日向の地名です。

北九州古代史の謎を解く その14

北九州古代史の謎を解く
04 /26 2020

今回は三雲南小路遺跡にほぼ隣接する細石神社を検討しつつ、未解明のままだった天孫降臨の意味を考えていきたいと思います。鎮座地は福岡県糸島市三雲432。位置関係は前回の地図画像を参照ください。同社の由緒は以下の通り。

細石(さざれいし)神社(旧名 佐々禮石)
伊都国の中心部で、祭神は磐長姫と妹の木花開耶姫(日向第一代ニニギノミコトの妃)の二柱。元禄八年の「細石神社御縁起」では、天正十五年豊臣秀吉により、神田没収とある。これ以前については、判明していない。
附近の遺跡 伊都国王墓
南小路遺跡(紀元前一世紀の王墓と王妃墓)
鑓遺跡(紀元一世紀の墳墓)


細石神社」の詳細も参照ください。

上記の写真の中に神石がありました。細石神社の近くには日向二代の彦火火出見尊の生誕地と伝えられる聖地、八竜の森があって神石はここに祀られていたものとのこと。今は単なる畑と化しており、木が一本あるだけのようです。

事実関係は別として彦火火出見尊は天照大神のひ孫にあたる訳ですから、天照大神の原像である卑弥呼がこの地(女王国)の女王であった点も確認されます。また彦火火出見尊の父となる日向一代の瓊瓊杵尊もこの近くにいたと推測されるのは当然とも言えそうです。八竜の森に関しWikiには以下の記載がありました。

八龍の森(はちりゅうのもり)は、福岡県糸島市にあった森。細石神社の東200メートルほどのところにあり、かつては野石が一個立っていた。三雲集落の人は、木花開耶姫の子であり、日向第二代の彦火々出見尊の生誕地と伝えている。しかしながら現在は、森は伐採されてしまい一本の木を残すだけとなっている。立っていた野石は細石神社に移されているが、地元の人々はその石を神聖視している。かつては毎年9月12日に高祖神社から神輿が渡ってくる所であった。

細石神社の由緒によればここが伊都国の中心部とのこと。中心部ですが南寄りなので卑弥呼の女王国もこの辺りだった可能性は十分あります。祭神は磐長姫と妹の木花開耶姫とされていますので、両者とも天孫であり日向一代の瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の妃になります。日向一代に関連する神様が祀られているなら、ああそうかと思いがちですが、ちょっと気になる点があります。

そう、細石神社の祭神は神社の位置関係からして三雲南小路遺跡の被葬者を祀っているはずで、被葬者は王と王妃でした。だとすれば、真の祭神は瓊瓊杵尊と木之花開耶姫命ではないでしょうか?(注:これは既に他の方々も論じています)そして既に書いたように、高祖山の南の峰は天孫が降臨したとされる槵触山(くじふるやま)で、さらに南の谷が日向峠でした。これらの諸要素を勘案すると、やはり真の祭神は瓊瓊杵尊になるべきです。

細石神社には、漢委奴国王の金印が伝わっていたとの宮司家の口伝があり、江戸時代になって流出したそうです。委奴国を伊都国と解すれば、さもありなんと思えますし、遺跡を見ても、伊都国では王墓が(吉武高木遺跡)→三雲南小路王墓→井原鑓溝王墓→平原王墓と継続的に造られています。

これに対し奴国の王墓(須玖岡本遺跡)は、副葬品では伊都国と同レベルですが、その前後の継続性が確認できません。こうした状況を踏まえると、金印は奴国ではなく伊都国王に贈られたとの解釈も可能です。また既に書いたように、奴国には官と副官がいるものの、伊都国のような王はいないことも、金印の贈り先が伊都国であった可能性を高めています。

細石神社の検討も終わり、そろそろ天孫降臨の意味と、それを現実に落とし込む作業をする段階になったようです。神話における天孫降臨は高天原(=天上界)にいた瓊瓊杵尊が葦原中国(=地上界)に降臨した話です。となると、どこか別の場所にいた天孫が日向峠を越えて伊都国(糸島市)に入ったことが天孫降臨なのかもしれません。

福岡市西区大字吉武194にある吉武高木遺跡は弥生時代前期末から中期初頭頃のもので、2200年から2100年前頃に繁栄し、三種の神器に相当する銅剣や鏡、玉類などが出土しており、日本最古の王国として早良国(実態は伊都国と推定)とも称されています。

従って、ここにいた人々が何らかの理由で日向峠を越えて糸島市側に入った記憶が天孫降臨として記された可能性があります。遺跡の詳細は「九州の遺跡探訪」を参照ください。

ただ、上記の見方だと大きな問題が出てしまいます。早良国から糸島市側に入った場合、移動が西から東となり日向(日に向かう=東に向かう方向)とは逆の方位になってしまうからです。しかも、時代的に天照大神(原像は卑弥呼)以前の話となり、早良国から糸島市側に入った人々がいたとしても、卑弥呼以前では天孫降臨が成立しないことになります。またここまで時代が古いと、記紀の編纂者の目も届いてはいないはずです。では、どう考えればいいのでしょう?

厄介な疑問を解消するには、早良国側の福岡市西区から糸島市側に入った人々が、卑弥呼の時代以降に糸島市側から日向峠を越えて早良国側に出て行ったことを天孫降臨と見做すしかありません。これではまるで天孫降臨ではなく天孫退却・天孫逃避のようで、自分たちの拠点地域から逃げ出したようにも感じられてしまいます。

以前「尾張と遠賀川流域の謎を解く その26」で六嶽神社に宗像三女神が降臨したのは、この神を奉斎する水沼君が磐井の乱の後、物部氏により久留米市三瀦(みずま)から鞍手郡鞍手町室木へ強制移住させられたからだとの推論を書きました。具体的には以下となっています。

『水沼君が移住(転封)させられたとの推定に、宗像三女神が六ヶ岳に天降りしたとの伝説を重ね合わせれば、水沼君は磐井の乱の後、六ヶ岳のある鞍手町に強制移住させられたとの筋書きが成立します。物部麁鹿火は弟に命じて久留米市三瀦(みずま)にいた水沼君一族を物部氏の監視下に置ける六ヶ岳山麓に移したのではないでしょうか?』

この例でわかるように、神様の降臨と言っても、実態はその神の奉斎氏族が何らかの理由で他の場所に移転せざるを得なくなったことを意味しているのです。一方、女王国(と伊都国などの国々)は台与の時代になって大和に東遷したはずで、そのルートは早良国(実態は初期の伊都国)→伊都国の逆になったと推定されます。

また「その5」で書いたように、台与一行は伊都国を出た後宇佐市(或いは行橋市)に至り一旦留まります。となると、伊都国から宇佐市(或いは行橋市)までの移動が記紀に記された天孫降臨なのかもしれません。この経路に関しては次回で見ていきますが、その前に宇佐市と行橋市のどちらが有力か特定する必要があります。(注:「その5」では特定できていない状態で書き終えています)

北九州古代史の謎を解く その13

北九州古代史の謎を解く
04 /24 2020

前回は女王国が伊都国の南(或いは伊都国内の南部)にある可能性を、平原王墓を検討する中で進めてきましたが、その確度はさらに上がったと思われます。
そこで今回は三雲南小路遺跡を検討していきます。


三雲南小路遺跡の位置を示すグーグル地図画像。

ストリートビューで見ると、さほど広くもない広場と言った感じの場所です。
けれども、ここが北九州古代史の謎解きにおいて超重要であるのも間違いありません。以下Wikipediaより引用します。

三雲南小路遺跡(みくもみなみしょうじいせき)は、福岡県糸島市にある遺跡。「三雲・井原遺跡」の一部として国の史跡に指定されており、市内の細石神社の裏手に所在する。周溝をもつ墳丘墓で、甕棺墓2基をもつ弥生時代の王墓である。
平成の学術調査で周溝をもつことが判明し、現在は「方形周溝墓で、甕棺を2器を添える様にして設置した墓」である、とされる。甕棺の形式は「立岩式古段階(弥生時代中期中頃)」の形状をもつ。西側の周溝に祭祀跡とみられる痕跡があり、東側の高祖山系の山並みとの関連性がうかがえる。これは後の時代の平原遺跡1号墓(平原弥生古墳)に通じるものであろう。


甕棺の形式は弥生時代中期中頃だとのことですが、糸島市のホームページには甕棺からこの墓は弥生時代の中期後半で約2000年前と書かれており、紀元前後とするのが妥当なようです。それでも日本史の前提においては相当古い時代ですね。「魏志倭人伝」に登場する各国の遺跡を見ていくと以下のようになります。

末盧国:弥生前期末から中期中頃が宇木汲田遺跡。
    中期後半から後期前半が桜馬場遺跡。
伊都国:中期後半が三雲南小路遺跡。
奴国: 前期末が板付田端遺跡。中期中頃から後期中頃が須玖岡本遺跡。
仮称早良国:前期末から中期初頭が吉武高木遺跡。
      前期末から中期半ばが吉武大石遺跡、中期後半が桶渡遺跡。

これらの遺跡の詳細は「九州の遺跡探訪」を参照ください。

三雲南小路遺跡と須玖岡本遺跡は時代的に重なり合う部分があり、また出土物の多彩さから見ても、卑弥呼以前の時代においても奴国と伊都国(両国の紀元前後の国名も同じだったかは不明)は非常に重要な場所だったと理解されます。
ただ、奴国の場合須玖岡本遺跡の後継遺跡がなく、伊都国の場合は早良国(実態はプレ伊都国と推定)の吉武高木遺跡も含め連続性が見られます。具体的には以下となります。

弥生時代前期末から中期初頭が吉武高木遺跡。前期末から中期半ばが吉武大石遺跡。中期後半が吉武桶渡遺跡。中期後半(紀元前後)が三雲南小路遺跡。紀元80年から100年頃が三雲の南に隣接する井原鑓溝遺跡。後期後半から末期の紀元200年から250年頃が平原遺跡。

Wikiの情報だけでは不十分なので三雲南小路遺跡に関し「糸島市のホームページ」より引用します。

この遺跡は江戸時代に発見されました。発見当時の様子を記録した『柳園古器略考』(青柳種信著)には、甕棺の大きさは「深三尺餘、腹經二尺許」であり、高さが90センチメートル以上、胴の直径が60センチメートルほどもある巨大なもので、その巨大な甕棺が二つ、口を合わせて埋められていた(1号甕棺)と書かれています。
中からは銅鏡35面、銅鉾2本、勾玉1個、管玉1個、璧1枚が出土しています。これらの出土品は現在ほとんど残されていませんが、わずかに銅鏡1面と銅剣1本が博多の聖福寺に伝えられおり、国の重要文化財に指定されています。
最初の発見から150年後の昭和50年(1975)、福岡県教育委員会によって発掘調査が行われ、新たに2号甕棺が発見されました。
2号甕棺も高さ120センチメートル、胴の直径が90センチメートルの巨大な甕棺二つを口を合わせて埋めたものです。これも盗掘されていましたが、副葬品として銅鏡22面以上、碧玉製の勾玉1個、ガラス製の勾玉 個、ガラス製の管玉 個、ガラス製の垂飾1個などが出土しています。また、1号甕棺の破片や副葬品の銅鏡の破片多数、ガラス製の璧も出土しており、新たに金銅製の四葉座飾金具が出土しています。銅鏡はすべて中国製のものです。出土した甕棺からこの墓は弥生時代の中期後半(約2000年前)に造られたものと考えられています。
この調査では2基の甕棺のまわりをとり囲むと考えられる溝(周溝)の一部も発見されており、甕棺は墳丘(人工の盛土)の中に埋葬されたと考えられます。墳丘は東西32メートル×南北31メートルの正方形をしていたと推定され、弥生時代の墓としては巨大なものです。墳丘内には他に墓が無いので、この巨大な墳丘は2基の甕棺の埋葬のために造られたものです。
このように、他には見られない豪華な副葬品を持ち、巨大な墳丘に埋葬されていることから、この遺跡は伊都国の王の墓であると考えられます。また、副葬品の内容から1号に王が、2号に王妃が埋葬されたと考えられます。三雲南小路遺跡に並ぶものは須玖岡本遺跡(春日市)以外にはないことから、伊都国王は他の地域の王とは比べものにならないほど強大な権力を持っていたと考えられます。
現在、遺跡は埋め戻されていますが、説明板が設置されており、出土品の一部は近くの伊都国歴史博物館に展示されています。


三雲南小路遺跡と井原鑓溝遺跡の詳細は「邪馬台国大研究ホームページ」を参照ください。非常に詳しく書かれた力作です。

紀元前後に造られた三雲南小路遺跡からは王と王妃のものと思われる二つの甕棺墓が発掘され、その豪華な出土物から1号が男の王で、2号が王妃と考えられているとのことです。王と王妃はこの遺跡に隣接する細石神社の祭神になっていると推定されるので、次回で人物像を検討してみます。

それにしても、三種の神器とされる剣、鏡、勾玉が吉武高木遺跡同様にこの遺跡からも出土し、紀元80年から100年頃の時代と見られる井原鑓溝遺跡へと続いていき、最終的には200年から250年頃の築造と推定される平原王墓に至るのですから、伊都国(注:紀元前後の国名は不明ですが便宜上伊都国とします)は約250年も続いた北九州でも稀有の国であったことになります。

それは「魏志倭人伝」の記事からも確認されます。2万戸を擁する北九州最大の奴国でさえ官と副(副官)の名前があるだけで、統治する王はいないかの如く書かれており、島で千戸の對馬国や三千家の一大国と同じような扱いです。

これに対してたった千戸の伊都国には代々王がいて女王国に従い、帯方郡使の駐在所があり、諸国が畏怖する検察官の大率が常にいて、女王が使者を魏の都や帯方郡、諸韓国に派遣するときや、帯方郡の使節が倭国に来たときはいつもこの大率が港で使節から授けられた様々な文書や諸物品を調査・確認し、女王の元に届けています。

伊都国には代々王がいて女王国に従っているのは、卑弥呼の寿命が長くその間に伊都国の王が何人か代替わりしているからでしょうか?「三国史記」の新羅本紀には「倭の女王卑弥乎(表記が卑弥呼とは異なる)、使いを遣わし来聘(らいへい)す」とあり、これが173年のこととして記されています。卑弥呼の生没年を「新羅本紀」に基づいて推定すると158年~248年と90歳にもなってしまい、有り得ない話ではあります。

ただ、173年に登場した卑弥乎を卑弥呼の母(或いは先代)で平原王墓の被葬者とすれば有り得る話となりそうです。卑弥呼を固有名詞ではなく、普通名詞の代々太陽を祭祀する巫女(日の巫女=卑弥呼)と考えれば、母(或いは日の巫女としての先代)もまた卑弥呼となるのです。伊都国王が女王国に従っているのは、卑弥呼が伊都国から出た女王だったからとも考えられます。

古田武彦氏は、「魏志倭人伝」の「世、王有り。皆、女王国に統属す」の「統属」を統制の下に属する、の意ではなく、中国史書の書き方から血縁関係と捉えています。けれども「魏志倭人伝」に、(卑弥呼は)夫婿なく、と書かれており、彼女は独身です。卑弥呼が太陽を祭祀する巫女だとすれば、巫女は基本的に独身ですから、ここからも古田氏の見解には疑問があります。

一方「魏志倭人伝」には、男弟ありて、佐(たす)けて国を治める。とも書かれており、この男弟の系列を伊都国王と見れば古田氏の見解に沿うことになりそうです。あれこれ考えても結論は出ませんが、伊都国が他の国々とは趣を異にする特別な国であるのは間違いなさそうです。

糸島市のホームページによると三雲南小路遺跡からは、皇帝から下賜されるような宝物とされるガラス製の璧、金銅製の四葉座飾金具や、中国の王族が所持するレベルの60面近い前漢鏡、重圏彩画鏡などが出土しています。これらは中国の王朝から王と認められた者だけが所有できる宝物であり、その意味でも伊都国の重要性が見て取れます。

奴国(岡本遺跡)からも同様の出土物はありますが、既に書いたように同国には王の存在が記載されておらず、官と副官のみであることから、卑弥呼の時代においては、倭国全体から共立された女王国の卑弥呼と伊都国のみが突出しており、中国から王として認められていたと理解されます。

さらに言えば、伊都国は卑弥呼時代に郡使が駐在する場所ですから、帯方郡の人々が居住していた可能性も見えてきます。それより前の時代となる三雲南小路遺跡や井原鑓溝遺跡の番上地区からは楽浪系の鉢や筒杯、器台が出土したとのことで、卑弥呼時代以前から楽浪系の人々が居住していた可能性があります。

伊都国は倭国における中国王朝の出先機関としての位置付けがあったから、千戸しかない国であっても高い地位を確保でき、その地位に見合った多くの副葬品が出土したと理解されるでしょう。楽浪郡や帯方郡の人々を介して中国王朝と関係を結ぶ伊都国の特異性が見て取れませんか?

1世紀後半から2世紀初め頃と推測される井原鑓溝遺跡からは、前漢の終わりから後漢にかけての方格規矩鏡が20面程度、平原遺跡からは大型内行花文鏡を含む各種の鏡が40面程度出土し、尋常な数ではありません。そして三種の神器に相当する副葬品が出土したのは吉武高木遺跡、須久岡本遺跡、三雲南小路遺跡・平原遺跡となっています。貴重な宝物が出土した遺跡の数から見ても伊都国の重要が理解されますね。

上記の諸点を踏まえれば、伊都国は倭国において特別な存在だった確認できることになります。また伊都国に常駐する大率が様々な文書や物品を検品・確認して女王の元に届けるのですから、女王国は伊都国の近くにあるはずとの酔石亭主理解に見合う内容で書かれています。それは同時に女王国=邪馬台国ではなく、伊都国の南或いは伊都国の中にあって柵に囲まれた宮殿施設が女王国の実態となるとの理解に繋がるでしょう。

だから卑弥呼の居所に関して、官室や楼観は城柵が厳重に作られ、常に兵がいて守っており、婢が千人いると書かれており、一方で戸数の記載が見当たらないのです。この書き方は、女王国が例えば邪馬台国や奴国のような国ではなく、宮殿そのものであることを明確に物語っています。

以上、平原王墓などの検討結果や伊都国と女王国の関係から見ても、邪馬台国が北九州に存在できる余地はないと確認されました。過去の邪馬台国論争において、伊都国、女王国、倭国、邪馬台国のそれぞれを明確に位置付けできなかったことが、邪馬台国問題の混乱・誤解を招き、決着を妨げていたのです。

酔石亭主

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