相模国の秦氏 その11


「相模国の秦氏 その10」を読み返すとやはり纏まりがないこと甚だしく思え、補足も兼ねて「その11」を書くこととしました。

東海と山梨も部分的に含めた相模国の秦氏の動きは大略以下のようになると思われます。

延歴19年(800年)の富士山大噴火により、山中湖から富士吉田一帯に居住していた秦氏は大月方面に向けて移動を開始します。ルート的には中央自動車道河口湖インターから大月ジャンクションに至る経路にほぼ沿っています。大月においては、多くの秦氏的地名から推察できるようにかなりのメンバーがここに定着したのでしょう。

その後、メンバーは大月から桂川沿いに下り藤野町小渕に至ります。彼らはこの地に三柱神社を鎮座させ、徐福伝承を残し、名倉地域においては葛原神社にも関与します。秦氏はさらに桂川に沿って下ります。

さがみ湖ピクニックランドに隣接して海抜406mの嵐山があり、対岸のやや下流部には月読神社が鎮座し、周辺には奥畑や南畑といった秦氏系の匂いがする地名もあります。この辺りはもう相模川になるのですが、さらに少し下ると支流となる道志川が流れ込んでいます。

これはあくまで酔石亭主の推測ですが、当時桂川は道志川との合流点以降で相模川に名を変えていたのではないでしょうか?嵐山と月読神社が合流点の手前にあるのがその理由です。また秦氏は道志川方面に向かうメンバーと相模川沿いに下るメンバーとが合流点で分かれました。重要な地点・分岐点で川の名前を変えるのはしばしば見られることです。京都にある桂川の例を、以下Wikipediaより引用します。

「山城国風土記」(逸文)や「日本後紀」によると、京都盆地流入以南の桂川は、古くは葛野川(かどの)と呼ばれていた。古代、嵐山周辺の桂川の流れは現代とはやや異なるものだったと考えられている。そのこともあり洪水に苦しめられたようだ。嵯峨や松尾などの桂川流域を支配していた秦氏が、6世紀頃に桂川に堰堤を築いたとされる(葛野大堰)。とくに下嵯峨から松尾にかけて桂川東岸に築かれた堤は罧原堤(ふしはら)と呼ばれる。「秦氏本系帳」によると、これら堰堤完成の際に、それまでの葛野川から大堰川と呼ばれるようになったとある。
その後、嵐山周辺および上流域では大堰川、あるいは大井川(大堰と大井は同義である)、嵐山下流域以南では桂川、あるいは葛河(かつら)と称されるようになった。


道志川を遡ったメンバーは丹沢に向かい、札掛けからヤビツ峠を越えて秦野に入ったものと推定されます。秦野に入ったメンバーはこの地に定着、後世になり徐福の子孫との位牌を残し、そのメンバーが藤沢の羽鳥にまで移動して、妙善寺に徐福末裔としての碑を残します。神奈川における徐福伝承ですね。

一方相模川沿いを下るメンバーは、多分石楯尾の神もついでに持ち運び、相模原や下鶴間に石楯尾神社を創建させ、寒川に至ります。寒川には寒川文書が残り(洪水により失われ現存はしていません)それには徐福伝承が書かれていました。

寒川から少数のメンバーが用田(寒川神社所領の御用田があったことから付けられた地名)、葛原(秦福代が同行した葛原親王の葛原)、大庭(平安末期に鎌倉権五郎景政により拓かれ、伊勢神宮に寄進された場所)を経て藤沢に入り、秦野から藤沢に入ったメンバーと合流します。

そして、現在は皇大神宮に同座する最後の石楯尾神社が大同3年(808年)に創建されるのです。800年の富士山噴火から足掛け8年で秦氏は酔石亭主の居住地である藤沢に至り、その後鎌倉に入って佐助ガ谷の住人としてひっそり暮らし、頼朝が鎌倉幕府を開くのに手を貸しました。秦野からのメンバーの一部は本郷台に入って仙福寺を創建し、秦川勝が開基したものだとの伝承を残します。

以上、相模国における秦氏の移動経路(もちろん推定です)を簡単に纏めてみました。但し、相模国国守には秦氏系の人物が数人いて秦井出乙麻呂は天平15年(743年)に国守となっており、800年より以前であること、また大磯には高麗山、高来神社(=高麗神社)、秦野に繋がる金目川、唐ヶ浜など渡来系に関連する地名もあって、陸上あるいは海上ルートで800年以前に秦氏系がこの地に入っているのは間違いありません。

つまり、秦野から逆ルートで富士山北麓に入った可能性も否定できないのです。両方の可能性を証明するかのように、秦野には唐子さんが大磯から上陸して秦野に定着したという伝承と、丹沢から降りて定着したという二つの伝承が存在しています。

ただ、大月や藤野町、津久井に秦氏の痕跡があるのは、富士の噴火から逃れて移動し、相模川沿い及び丹沢の山越えで、それぞれ寒川と秦野に入ったからだとするのが、説明としては合理的ですっきりします。なお、富士山麓の徐福伝承は山中湖畔、河口湖畔、富士吉田市にありますが、既にネット上で多くの記述がなされていますので、それらをご参照ください。

話は変わりますが、実はもう一点大きな問題があります。酔石亭主は、徐福伝承は秦氏が担ったものとしていますが、それは本当に正しいのでしょうか?東海から相模国にかけての徐福伝承は間違いなく秦氏が担っています。でも、それ以外の地域ではどうでしょう?視点を日本全体に広げた場合、違う側面が出てくるかもしれません。

例えば、九州における秦氏最大の拠点豊前国や、豊前から瀬戸内海を渡り大和に入るまでの、備前、播磨、そして大和(田原本町一帯)のいずれにも徐福伝承は存在していません。唯一徐福伝承らしきものがあるは、備中福山です。以下、倉敷市の観光情報サイト「ゆったり倉敷」より引用します。

総社市と倉敷市にまたがる備中福山(標高302メートル)は南北朝、足利氏の古戦場として知られていますが、南麓朝原郷(現在の浅原)、安養寺は平安時代より、徐福渡来の蓬来山、七福神の里として、祈りを現代に受け継いでいます。


安養寺は倉敷市浅原にあり、浅原は朝原郷です。「続日本紀」には、「宝亀7年(776年)2月25日条に、山背国葛野郡人秦忌寸造等97人に朝原忌寸が賜姓された」との記載があって、朝原郷は秦氏系列の地名と考えられることから、この地の徐福伝承もやはり秦氏が関与しているものと思われます。また備中福山の福山は、徐福の三男である福山に由来する可能性もあり、これらを総合すると徐福伝承の萌芽が見られると判断されるのです。

大和に入った秦氏は雄略天皇期に賀茂氏と共に岡田、乙訓、深草などを経て京都に入っています。これらのルートは、相模国における秦氏の移動と比較してはるかに重要な古代の移動経路ですが、そのいずれにも徐福伝承は存在しないのです。

一方京都大酒神社の解説板には秦氏の祖先は始皇帝と書かれています。秦氏の主力部隊は徐福伝承を持っていないが、別動部隊は持っていたと考えるべきでしょうか?あるいは、ある時点で秦氏が徐福伝承を取り込んだのでしょうか?その場合、いつ頃、どの場所で徐福伝承と秦氏が合体したのかを特定する必要があります。また、どれが秦氏と合体前の本来の徐福伝承なのでしょうか?この点もはっきりさせる必要があるでしょう。

残念ながら、手持ちの情報が少なすぎること、紀州や熊野、九州など徐福伝承が最も濃厚な地域をまだ訪問していないことなどから、現時点での特定は困難と言わざるを得ません。ここは将来の研究・検討課題としておきましょう。
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相模国の秦氏 その10


その9で石楯尾神社(いわたておのじんじゃ)について書く予定だったのですが、なかなか一筋縄ではいかない神社で、アップが大幅に遅れてしまいました。また、8月20日のカテゴリ「日々の雑感」記事タイトル「夏祭り」でも、藤沢市の皇大神宮の摂社である石楯尾神社を取り上げ、近いうちに調べてみる旨書いたのですが、そこから数えると3カ月以上経過もしています。遅ればせながら、名倉にある石楯尾神社をご紹介します。


中央本線藤野駅の少し先を右折し桂川を渡ります。(この辺りはもう桂川と言うより相模湖の一部と考えられます)そしてもう一度右折すると名倉という地区に入ります。三柱神社から見ると桂川を挟んで南側のエリアとなります。三方を川に挟まれ、南側が山地という隠れ里のような場所に石楯尾神社が鎮座しています。


大きな地図で見る
グーグル画像です。上の端に三柱神社、下の端に石楯尾神社があります。

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神門です。

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拝殿です。朱塗りの立派な建物です。

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扁額です。

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拝殿を横から。中国風の装飾が施されています。

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拝殿の周囲には数多くの摂社が並んでいます。

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解説板です。

どうも元は磐座信仰から始まったようですが、崇神天皇や応神天皇も出てくるのでかなり古い神社のようです。磐座に関しては以下Wikipediaより引用します。

磐座(いわくら)とは、日本に古くからある自然崇拝(精霊崇拝・アニミズム)である古神道のなかの一つの信仰をさす。
巨岩に対する基層信仰の一種である。自然への信仰の例は岩以外にも、禁足地としての鎮守の森(モリ自体が神社をさし、杜は鎮守の森自身である)や山に対する信仰、火(火山)に対する信仰である三輪山や富士山などの神名火(カムナビ)、滝などから、風雨・雷という気象現象までの多岐に渡るものである。
岩にまつわるものとして他にも磐境(いわさか)があるとされるが、こちらは磐座に対してその実例がないに等しい。そのため同一のものと目されることもある。日本書紀では磐座と区別してあるので、磐座とは異なるなにか、「さか」とは神域との境であり、神籬の「籬」も垣という意味で境であり、禁足地の根拠は「神域」や「常世と現世」との端境を示している。
神事において神を神体である磐座から降臨させ、その依り代(神籬という)と神威をもって祭りの中心とした。時代とともに、常に神がいるとされる神殿が常設されるに従って信仰の対象は神体から遠のき、神社そのものに移っていったが、元々は古神道からの信仰の場所に、社(やしろ)を建立している場合がほとんどなので、境内に依り代として注連縄が飾られた神木や霊石が、そのまま存在する場合が多い。
現在ではご神木などの樹木や森林または、儀式の依り代として用いられる榊などの広葉常緑樹を、神籬信仰や神籬と言い、山や石・岩などを依り代として信仰することを磐座という傾向にある。


ご祭神は石楯尾大神。解説板の内容だけではよくわかりません。そこで、平成7年の神社庁全国調査での御由緒を見ると、大略以下となります。

この世のはじめ、天地創造の折に、神々が国の鎮めとなさっておくだりになった、天然の神籬磐境の「エボシ岩」を人々が尊んで、拝み仕えまつった祭政一致の生活の行なはれた所が京塚山の頂上にあった。ここが富士神界の中心地・高御座であった。このエボシ岩の脚部の岩盤が西にのびて地上に現れ出た所が石楯であり、ここが産土路にあたり古代人が神を斎きまつった所・斎庭として人々の崇敬の中心となり、崇神天皇より古くから総産土神としてお社が設けられた様であり…以下略。

やや難解ですが、Wikipediaよりの引用を先にお読みいただければ、理解しやすいと思います。富士神界は霊能系やスピリチュアル系が好んで使用する言葉で、論理性がなくほとんど意味不明です。なぜ石楯尾神社が富士神界なのかもよくわかりません。この点はじっくり考えていきたいと思います。

石楯尾神社は、藤野町佐野川、藤野町名倉(今回訪問した場所)、相模原市磯部、相模原市下鶴間、座間市入谷、相模原市大島、藤沢市にそれぞれ石楯尾神社として、あるいは諏訪神社などとして存在しています。この神社は相模国式内社13社の一社で格式が高いのですが、7社ある石楯尾神社のうちどれが式内社に該当するのかいまだに不明となっています。

佐野川は上野原の北で丸畑という秦氏的地名の近くにあります。名倉は桂川を挟みますが三柱神社とはすぐ近くになります。そして相模原市、座間市と相模川に沿って下るような形で鎮座し、藤沢で行き止まりとなっています。

佐野川にある石楯尾神社の御由緒は以下の通りです。

第12代景行天皇の庚戊40年、日本武尊東征の砌、持ち来った天磐楯 (あまのいわたて)を東国鎮護の為此処に鎮め神武天皇を祀ったのが始まりである。石村石楯は高座郡の県主で当地の住人であった。第47代淳仁天皇の天平宝字8年(764年)、先の太政大臣藤原恵美押勝反逆の折、貢の為上京中で押勝の首をとり乱を鎮めた功により高座、大住、鮎川、多摩、都留の五郡を賜ったと言われ、石楯尾神社の保護者であった。以下略。


ご神宝が石器で、ご神体は巨石とのことで神社の名前にふさわしいものとなっています。やはりここも磐座信仰が原点のようです。

一方、大島の諏訪神社(石楯尾神社)には次のような伝説が伝わっています。

神社の娘でおそよという養女がおり、男が通ってきた。おそよは身重となり母親に打ち明けた。母親は糸の先に針をつけ、男の着物に縫いつけさせた。おそよが針を縫いつけると、男は恐ろしい目つきとなり去っていった。糸を辿ると下大島の白森稲荷の椎の根の洞穴に入っていた。その中で話し声が聞こえた。父親が稲荷の空洞に行ってみると中で大蛇が死んでいた。蛇と話していたのは白森稲荷の天白狐稲荷大明神で、子は蛙に喰われると言っていた。母親は盥の中に蛙をはなし、おそよにそれをまたがせて子供を産ませ、蛙に喰わせた。(相模原の民話伝説)


この伝説は丹塗矢である大物主神の話と全く同じです。同じ系統の神社に様々な要素が混入しているように思えます。伝承からすると佐野川の石楯尾神社が式内社のようにも思えますが、格としては名倉に軍配が上がりそうです。

祭神の石楯尾大神は石村石楯で、この人物に関しては以下Wikipediaより引用します。

石村氏は、三河国碧海郡に定着した漢系渡来氏族で、仁徳朝に渡来した阿智使主に随い来日した者に石村村主の祖にあたる人物がいたという。一説では後漢第7代皇帝少帝懿の後裔で、阿智使主に随い来日した古那を祖とし、石村の呼称は大和国磐余の地に因むものとされる。
天平宝字8年(764年)藤原仲麻呂の乱(恵美押勝の乱)に際して、敗北し妻子3,4人とともに船で琵琶湖上に逃れた恵美押勝(藤原仲麻呂)を捕らえてこれを斬り、押勝の首を京に運んだ。石楯はこのとき軍士、つまり一兵士であった。この功績により、大初位下から一挙に従五位下に昇叙され、翌天平神護元年(765年)正月には、勲二等から六等までの乱の功賞があった中で、石楯は勲四等を与えられた。


社殿の装飾が中国風だったのは石楯が漢系渡来氏族であったためかもしれません。少し気になるのは、石楯が従五位下に特進したのと同時に、鎌倉の始祖である染屋太郎大夫と同一人物と目される相模国造漆部直伊波も従五位下に任命されていることです。

縄文時代の磐座信仰がベースになり、漢系渡来人の石村石楯が祀られて地元の総産土神として崇敬を受けたということでしょうが、どうもすっきりしません。すっきりしないのは多分、秦氏のような祭祀氏族がいないことによると思われます。また富士神界といった言葉は近年の造語のはずで、過去の歴史を反映しているとは必ずしも思えません。

残るは地理的要因を見るしかなさそうです。この神社から少し南に下ると葛原神社があります。葛原と来れば葛原親王かと思いますが、関係はなさそうでした。

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葛原神社です。

ところがこの神社、かつては月夜見神社と呼ばれていたそうです。月夜見とは月読ですから秦氏と関係が深く、しかも京都における月読神社は桂川近くに鎮座しており、同神社解説板によれば以下の通りです。

月読神社が京都へもたらされるにあたっては渡来系氏族、なかでも山城国と深く関係する秦氏が関わった可能性が強く、古代京都の神祇信仰やまた渡来文化を考える上で重要な意味をもつ神社であるといえます。


佐野川の石楯尾神社の近くには丸畑があり、名倉の石楯尾神社の北には秦氏の三柱神社があり、かつ南には葛原神社(月読神社)があるという地理関係から、名倉の石楯尾神社はまるで秦氏系に挟まれて存在しているようにも感じられます。

さらに、富士山麓にいた秦氏が大噴火により大月方面に移動し、藤野町に一部が定着したとすれば、富士神界という言葉の背景として秦氏の存在があったとも思えてきます。もう一点、石楯尾神社の所在地が、佐野川、名倉から相模原市、座間市、藤沢市と相模川に沿うような形で南下している点も気になります。あたかも、秦氏の移動に沿うような形で点在しているからです。しかも、相模川の少し下流の津久井湖近くにも月読神社があり、嵐山まであります。秦氏の移動経路が目に見えるように感じられます。

なお、石楯尾神社がある名倉には、芸術の道があってあちこちに変わった形の芸術作品が置かれています。

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スターウォーズに出てくる戦闘ロボットみたいです。

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こんなものもあります。

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名倉の案内板。

道沿いには立派な学校があり、シュナイター学園と言います。ルドルフ・シュナイターの教育理念に基づいて教育する学校です。シュナイター教育について以下Wikipediaより引用します。

人間の魂から身体までを、意識の座である自我、感情と印象の座であるアストラル体、生命の座であるエーテル体、物質から成る肉体の4層に分けて理解する。肉体が誕生しても他の3層は未分化の状態であり、7歳のときにエーテル体が自律、14歳のときにアストラル体が自律、21歳のときに自我が自律するとされる。(それ以降も人間の成長は続くが、ここでは教育のみに話をしぼるため割愛する。)従ってその各段階に分けて人間の成長を理解することが重要視される。
魂はさらに意志・感情・思考(表象活動)の3つの領域から理解され、それぞれの発達にふさわしい時期にその能力を伸ばすよう、配慮されている。
シュタイナー教育(しゅたいなーきょういく)とは、20世紀はじめのオーストリアの神秘思想家ルドルフ・シュタイナーが提唱した教育思想および実践を日本で紹介する際に名付けられた呼称である。


何度読んでも酔石亭主にはほとんど理解不能ですが、なぜシュナイター学園がこの名倉に建設されたのでしょう?富士神界とシュナイター教育、そして芸術作品。いずれもスピリチュアルな部分で通底しており、相通じるものがありそうです。富士神界のある名倉こそがシュナイター教育や芸術作品にふさわしいと考えて決めたとしたら…、やはり不可思議な要素がこの地にあって、関連するものが引き寄せられているのかもしれません。今後も目が離せませんね。

葛原神社裏手から見る甲州の山並みは絶佳ですし、三柱神社や徐福伝承も含めテレビ番組で取り上げれば、訪問客も一挙に増加するはずです。ちなみに、石楯尾神社の寄進者には名倉さんが多く、名倉と言えば接骨院で有名です。

以上あれこれ書きましたが、結局まとまりのないご紹介になってしまいました。

                  ―相模国の秦氏 その11に続く―

相模国の秦氏 その9

 
岩殿山から20号線を取って返します。桂川の渓流と紅葉が目に鮮やか、とまではいきませんが、結構楽しませてくれました。また20号線は元々甲州街道だったこともあり、そこかしこに古い趣のある民家が見られます。景色に見とれないよう注意しながら走ると、もう神奈川県です。次の目的地は三柱神社。津久井郡藤野町小渕に鎮座しています。

注:記事では津久井郡藤野町小渕と旧住所で書いていますが、実際には何度か変遷があり、平成22年相模原市藤野町は相模原市緑区へと自治体区分が変更されています。しかし、緑区なんて意味も味わいも何もない区名なのでとても使う気にはなれず、位置関係が理解しやすい旧住所にて記載しました。この点お含み置きください。

鎮座地はややわかりにくいのですが、中央本線上野原駅と藤野駅のほぼ中間点に当たります。大月方面からですと、中央本線が20号線の下でトンネルに入るすぐ手前を左折します。左折すれば右手に小渕小学校の校舎が目に入ります。

道なりに進むと、左手に下る小道がありますが、車で入るのはきつそうなので、少し先で路上駐車するしかありません。もっと先に行くと道路は中央自動車道の下を潜り抜けてしまいます。

三柱神社はちょっと不思議な場所にあります。まず、地下には中央本線の上りと下りが離れて走っており、そのちょうど中間点上に鎮座しています。さらには、北側に中央自動車道、南側に20号線が走り、甲州、信州への交通の大動脈上に鎮座しているのが、三柱神社ということになります。

何も考えずに行くと、なぜ山の中のこんな不便な場所にと思うのですが、実は現在の交通システムが集中している場所の真上に鎮座しているのです。神社の鎮座地からも、秦氏の地理・地形を読む目の確かさを感じるのですが、いかがなものでしょう?

などと思いながら、三柱神社に到着です。京都の蚕ノ社には三柱鳥居があり、また同じような命名の仕方だと思えてしまいます。

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三柱神社の解説板。

解説板などないかと思いましたが、意外にも比較的新しく読みやすいものでした。藤野町小渕が秦氏の居住地であると良く理解できます。

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拝殿です。

昭和53年に拝殿の改築が行われているため、それほど古びた感じはありません。拝殿の横に廻ると、改築の際神社に寄進された方の名が木札に記されています。木札には、秦さんの名前が見られます。2名の秦さんがいました。実際には4、5軒秦姓のお宅があるようです。

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木札です。個人のお名前ですので塗りつぶし加工をしています。

秦の神様に拝礼して帰ろうと思ったのですが、ふと見ると足元に一体の石像が…。

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石像です。

これを見て思わず腕を組み、首を傾げてしまいました。顔の造作は少女っぽいのですが、着衣はどう見ても日本のものとは思えません。また腕を曲げ胸に手を当てているように見えます。いかがでしょう?マリア像そのものに見えないでしょうか?

この像はそれほど古いものでもなさそうです。多分近年になって誰かが置かれたのだろうと思います。よその地区の方が勝手に置くなど考えられないので、地元の方の手によるものでしょう。秦氏の中には原始キリスト教の要素も含まれているので、そうした意識が反映されてこの像を置くことになったのでは、と想像するのですが、誰かご存知の方がおられたらお教えいただきたいところです。

藤野町小渕には徐福伝承もあります。以下は水源地域交流の里づくり推進協議会ホームページよりの引用です。

「秦の始皇帝の命を受けた除福が不老不死の霊薬を求め、日本に渡来した。出発するとき始皇帝から尊像を与えられた。しかし、除福の努力は報われず、霊薬は発見されないまま帰国することになった。そこで除福は、始皇帝の尊像を鷹取山(たかとりやま)の大岩の下に納めて当地を去っていった。」
その後、誰と言うとなく尊像を「大明神」と唱えて祀り、慶長年間(1596~1614)に村里に移された。江戸幕府が神社仏閣の取調べを行ったとき、その由来を村人が申し立て「唐土」の二字を加え唐土大明神となりました。


つまり、唐土大明神とは始皇帝と言うことになります。秦氏が先祖を秦の始皇帝、あるいは徐福と自称しているのは、このような話が元になっているのではないでしょうか?

では、なぜ始皇帝と徐福を自分の先祖に仕立て上げたのでしょう?「秦氏の謎を解く」で明らかにしましたように、秦氏は死と再生に係わっています。一方で始皇帝と徐福は不老不死に係わっています。自分の追及しているものと同様のものを追及した始皇帝と徐福は、秦氏にとって都合の良い存在だった、だから自分たちの先祖に祀り上げたのです。もちろん、始皇帝の築いた帝国が秦であるのも理由の一つとして想定されます。

小渕には以上のように徐福伝承があります。でも、だからといって徐福がこの地に来たということではありません。富士吉田に定住していた秦氏が、800年の富士山大噴火の際、大月から小渕に至りメンバーの一部がここに定着したので、徐福伝承が発生したのが真相だろうと思われます。主力部隊は相模川に沿って下り、寒川に入ったか、あるいは丹沢のヤビツ峠を越えて秦野に入ったものと思われます。

このため秦野にも徐福伝承があり、秦野秦氏の一部が酔石亭主居住地である藤沢市に入り羽鳥に定着したため、既にご紹介した様に妙善寺にある某家のお墓の石碑には、徐福の子孫は秦氏と彫られている訳です。

徐福伝承は熊野地方が最も濃厚で、それが東三河から富士山周辺、小渕、秦野、藤沢などに伝播・拡散していったものと思われます。秦氏の痕跡のある場所を訪れると、その流れが目に見えるようです。言い換えれば、徐福伝承の存在は徐福が渡来したことを証明するものではなく、秦氏が担って持ち運んだものであること、つまり秦氏の移動経路を証明するものなのです。

いつの日か徐福の渡来を証明できればいいのですが、それは今のところ歴史ロマンとしておきましょう。

                 ―相模国の秦氏 その10に続く―

相模国の秦氏 その8


さて、猿橋から大月方面に向かって車を走らせると、岩殿山が見えてきます。高月橋入口で右折して桂川を渡り、進行方向左手にある無料駐車場に車を停めます。道路をそのまま歩くと左手に登山口の階段がありますので、山に向けて歩き始めます。と言っても、コンクリの階段で登山という雰囲気ではありません。

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中央自動車道は岩殿山の下を通っています。

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岩殿山案内図。

歩きだして10分もしないうちに、岩殿山ふるさと館に到着です。公園として整備されていますので、ベンチに腰を下ろし富士山を眺めながら軽く腹ごしらえをします。

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ふるさと館からの富士。天気は良いのですが、少し霞んだ感じです。

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ふるさと館からの岩殿山。

どんとせり出した分厚い一枚岩に見えます。それにしても…、よくまあ昔の人はこんな険しい山の上に城など建てたものです。その労力たるや如何ほどのものだったのか、登るだけで青息吐息の酔石亭主には想像もつきません。

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岩殿山解説板。

岩殿山は修験道と山城の二つの性格を持つ重要な場所であったとわかります。戦国時代は、相模や駿河からの侵攻を武田方にいち早く知らせる狼煙の中継地点でもありました。また武田家滅亡の折、武田勝頼は岩殿城に落ち延びようとしたのですが、小山田信茂の裏切りにより断念。天目山で自害する結末となりました。力のないものは生きられない。戦国の厳しい掟ですね。

一方の小山田信茂にも不運が待ち受けています。主君を裏切るような人物を織田軍が許すはずもなく、哀れにも甲斐の善光寺で処刑されてしまいました。岩殿山落城の折には、一族郎党が尾根伝いに逃げたのですが、泣き声で見つからないよう赤子を断崖絶壁から突き落としたそうです。その崖はいつしか「稚児落とし」と呼ばれるようになりました。この部分は以下Wikipediaより引用します。

甲斐が平定された後、嫡男を人質として差し出すために信長に拝謁しようとしたが、織田信忠から不忠を咎められ、甲斐善光寺で嫡男とともに処刑された。享年44。
千鳥姫と言う信茂側室の伝説もある。千鳥姫は織田家の大軍に包囲された岩殿山城から信茂の次男賢一郎と赤子の万生丸を連れ護衛の小幡太郎らと共に落ち延びたが、万生丸が泣き出したため小幡太郎は千鳥姫から万生丸を取り上げ岩殿山城の断崖から投げ捨てたと言うものである。その場所は稚児落としと呼ばれて伝わっている


岩殿山一帯は戦場を駆け巡った武将たちの夢の跡であり、また戦国の悲話に彩られた場所でもありました。

一休みしたら再び歩き出します。急な階段を登るのは、年のせいか結構つらいものがあります。登山道脇の岩盤には無数の小石が挟まっており、これが君が代に出てくるさざれ石(礫岩)かと思いました。地質的には面白そうな場所ですが、詳細は専門家にお任せしましょう。30分ほどで山頂に到着します。

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山頂から見下ろした写真。

岩盤の膨らみのせいかそれほど高度感や恐怖感はありません。桂川が大地を深くえぐって流れています。

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東側。桂川と中央自動車道がほぼ平行しています。

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大菩薩の峰々です。

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大月市街と富士山。もう少しすっきり見えたらいいのですが…。

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大きな南天の赤い実。重さで垂れ下がっています。

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山を降りる途中に小さな石祠が。(場所がどの辺りか忘れました)

祠の前に木彫りの稚拙な像が置かれています。誰のものなのでしょう?お坊さんらしき姿のようですが、お顔が少し怖い。

今回は一般的なハイキングレポートになってしまいました(笑)

             ―相模国の秦氏 その9に続く―

相模国の秦氏 その7


相模国の秦氏に関連して、神奈川県藤野町から山梨県大月市一帯はまだ訪問していませんでした。今回、周辺各地を巡ったのでご紹介します。なお、大月市は相模国ではありませんが、便宜上このシリーズの中で記載することとします。

まず案内図を参照ください。

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案内図です。

京都の桂川にちなむ桂川が図の真ん中を流れています。そして図の右側に桂川に架かる猿橋があり、その少し先の支流が葛野川です。葛野川も秦氏の関連で命名されたものと思われます。大月駅の北には岩殿山があり、中央線の列車に乗ると必ず目に留まる岩山です。岩殿山の北側には畑倉と言う地名があります。畑に倉。いずれも秦氏を連想させる地名で、ここに秦氏の居住区があったのはほぼ確実と思われます。以上をご理解いただいた上で猿橋に向かいます。

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猿橋です。

橋を支えるうだつのような木組みが、幾重にも交互に重なって奇観を呈しています。日本三大奇橋の一つとされています。(他の二つは山口県の錦帯橋、徳島県のかずら橋)

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解説板です。

橋を架けた人物の別名が白癬(しらはた)となっています。猿田彦と秦氏の関係は既にご存知だと思いますが、猿橋命名に当たってそんな関係が頭にあったのかもしれません。

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もう一枚猿橋です。

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猿橋から見た桂川。大断崖に足がすくみそうです。

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猿橋から見た水道橋跡(手前、文化財だそうです)と20号線。

20号線は何度も走っていますが、猿橋を見たのはこれが初めて。目も眩みそうな大断崖と、どうやって架けたのか不思議に思わせる橋の造り。加えて水道橋と20号線などが景観に興趣を添え、思っていたより楽しむことができました。

            ―相模国の秦氏 その8に続く―

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