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相模国の秦氏 その5


秦氏の移動についてここまで見てきましたが、彼らの力量からすると、相模国の有力神社にも関与している可能性がありそうです。それらの神社には、相模国の古い歴史が伝承や縁起として、あるいは文書となって残されているはず。だとすれば、相模国の秦氏について知るには、この地の有力な神社を調べるのが手っ取り早そうです。

そこでまず、相模国一之宮である寒川神社を見ていきましょう。

寒川神社
寒川神社の神門です。
ネット上ではよく山門と書いてありますが、それはお寺の門を意味します。

寒川神社
寒川神社本殿です。
平成9年竣工の総桧造りですが、さすが相模一之宮としての威容と格式を備えています。

ところがです。寒川神社は創建年代が不明で、祭神も寒川比古命、寒川比女命と記紀などの文献には登場しない素性不明の神様です。これは一体どうしたことでしょうか?相模国のトップに位置する神社がなぜこのような有様なのでしょう。

ネットで検索してみると、寒川神社には寒川文書なるものが伝えられていたとわかりました。文書の来歴はかなり複雑。そもそもは宮下文書と称され、阿祖山大神宮の宮司を務めてきた宮下家に保存されていたものだそうです。

その内容は富士山に高天原朝が開かれ、九州霧島でウガヤ朝になり、51代の天皇が続いてようやく神武朝になった云々というもので、あまりに奇想天外。超古代史フリークならともかく、とても信じられません。

神代文字で記されたこの文書を徐福が漢字に書き直したことから、富士文書と称されるようになりました。秦氏は徐福を祖と自称しているので、ここら辺りから秦氏の関与が見え始めます。

秦氏移動の原因となった延歴19年(800年)の富士山大噴火で、神宮関係者は文書を携え相模国に移住。相模川沿いの高座郡に寒川神社を創建し文書を保管しました。以降この文書は寒川文書と称されるようになったそうです。
これらは秦氏の移動を物語っており、また寒川神社は渡来人によって創建された可能性が高そうです。

寒川文書は弘安5年(1282年)相模川の氾濫で紛失。しかし、小室浅間神社の宮下源太夫義仁が建久3年(1192年)文書全文を筆写しており、かろうじて現在にまで伝えられました。

以上、文書の内容自体は眉唾的ではありますが、徐福以降の来歴には一定の信憑性があり、秦氏の富士山麓から相模国への移住を補強する材料になっていると思われます。

            ―相模国の秦氏 その6に続く―
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