鶴岡八幡宮の謎を解く


鶴岡八幡宮は正月三が日の参拝者数だけでも全国5位の251万人を数え、ネット上でも無数に紹介されており、謎があるとは思えませんが、事はそう簡単ではありません。今回は酔石亭主の視点から、なぜ鶴岡八幡宮が現在の場所に創建されたのかを考えてみたいと思います。

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鶴岡八幡宮です。

鶴岡八幡宮の大石段を登り拝殿前に出ると、拝殿及び本殿の敷地は山を削って造られたものだとわかります。社殿の西側には石段があり、汗を拭きながら登ると丸山稲荷社に至ります。ここで不意に違和感が生じました。丸山稲荷社は鶴岡八幡宮本殿より高い位置にあるからです。本殿西脇に鎮座する武内社以外の摂社・末社は全て大石段下の位置にあるのに、どうして丸山稲荷社だけ別格扱いとなっているのでしょう?これでは、丸山稲荷社の方が鶴岡八幡宮よりも格上のように見えてしまいます。

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丸山稲荷社です。

実は本殿の場所には元々丸山稲荷社があったのですが、稲荷社に少し動いてもらい鶴岡八幡宮の拝殿と本殿が建てられているのです。この地に元々あった稲荷社を下位に置くのは畏れ多いので、丸山稲荷社は本殿より高い位置に移されたのでしょうか?しかも丸山稲荷社の社殿は国の重要文化財に指定されています。この事実は稲荷社が極めて重要な存在であったことを示しています。

不思議なことに、鶴岡八幡宮は四囲を廻廊に囲まれているのですが、本殿部分は西側に寄っています。このため拝殿の前に立つと、西側回廊が短く、東側回廊が長くなっています。何となく丸山稲荷社を見上げるのに都合がいいような構成だと感じられませんか?

現在の鶴岡八幡宮本殿は文政11年(1828)、江戸幕府11代将軍徳川家斉の造営によるもので、創建当時の建築構造は不明なため、何とも言えない部分はあるのですが、少なくとも現状で見るとややおかしな点があるのです。

では、丸山稲荷社とはどのような神社なのでしょう?一般的には地元の地主神を祀った神社だとされているのですが、それは間違っています。稲荷社は秦氏系の神社であり、渡来氏族の秦氏は地主神ではないからです。すると、どういうことになるのでしょう?

多分この場所には、地元の地主神を祀った別の社があったのです。それを秦氏が乗っ取って丸山稲荷社となり、丸山稲荷社のあった場所に頼朝が鶴岡八幡宮を創建したのでしょう。

頼朝は白髭老人のマインドコントロールを受けていたことからして、ここに鎌倉幕府の中心であり宗社である鶴岡八幡宮が創建された背後には、秦氏の意思が働いていたと考えられます。

これらの点を踏まえた上で、鶴岡八幡宮の始まりを見ていきます。康平6年(1063)のことですが、源頼義は奥州を平定。その帰りに石清水八幡宮の分霊を今の材木座一丁目に移して、神社が創建されました。後に源頼朝はその神社を現在位置に移し、改めて石清水八幡宮を勧請。私たちにもなじみの深い鶴岡八幡宮が成立したのです。

鶴岡八幡宮の元宮となる石清水八幡宮は京都にあり、空海の弟子である大安寺の行教が宇佐神宮を勧請して創建されたものです。石清水八幡宮のホームページによれば、『平安時代初めの貞観元(859)年南都大安寺の僧・行教律師は豊前国(現・大分県)の宇佐宮にこもり日夜熱祷を捧げ、八幡大神の「我都近き男山の峯に移座して国歌を鎮護せん」とのご託宣を蒙り同年男山の峯にご神霊をご奉安申し上げたのが当宮の起源です』とあります。

なお大安寺は秦氏系の寺で、石清水八幡宮は京都の裏鬼門を護るとされています。秦氏は方位に詳しいので、京都における神社の設置場所はあれこれ考え抜かれて決められたと見られます。

以上より、石清水八幡宮の元宮は豊前国の宇佐神宮でした。宇佐神宮は宇佐八幡とも呼ばれ全国八幡社の総本社です。豊前国は秦王国があったところで、正倉院の豊前国戸籍によれば、仲津郡、上三毛郡の総人口の9割以上が秦氏系で占められています。『古事記』の豊葦原中津国とは、正しく豊で代表される秦氏が支配する仲津国であったということですね。

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鶴岡八幡宮にある宇佐神宮遙拝所です。

意識して見ないと気がつかないのですが、宇佐神宮遙拝所は鶴岡八幡宮本殿の西側にあり、結界のようにして清められ、お榊が植えられています。敷地はかなり広く、宇佐神宮が重要視されているとわかりますね。

では宇佐神宮の元宮はどこでしょうか?宇佐神宮の元宮は、豊前綾幡郷の矢幡八幡宮で、福岡県築上郡築上町に所在しており、ここは八幡神顕現の霊地とされ、最も古い八幡信仰の形態を残しています。

時代をさかのぼり、八幡宮の深源にようやく到達したようです。豊前国を支配するのが秦氏であれば、八幡神は秦氏の神と見て間違いないでしょう。また矢幡八幡宮においては、八が矢に変わっている点に注目ください。矢が最も古い八幡社の存在意味を表現しているのです。幾重もの衣に包まれてその実体は見えませんが、私たちが鶴岡八幡宮にお参りするとは、渡来の神である秦氏を拝んでいることになるのです。

ところで、八幡社は全国に4万4千を数えるそうです。稲荷社に至っては、個人の家で祀るものも含めると、数限りないと言えるほどです。なぜ天孫系の神社は数が少なく、秦氏系神社ばかり日本全国に密集しているのでしょう?この背後には隠された謎がありそうです。

以上、極めて大ざっぱではありますが、八幡社の歴史を見終えたところで鶴岡八幡宮に戻ります。鶴岡八幡宮の境内東側には白旗神社があります。この神社は本宮の西側にあった頼朝公を祀る白旗社と、実朝公を祀る柳営社とを合祀したものです。雪の下にも源頼朝を祀る白旗神社があるのですが、白幡とも表記されます。白と幡、つまり鍛冶集団と秦氏が融合した名前になっています。源氏の白旗にはその意味合いが込められているのではないでしょうか?

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白旗神社です。

白旗神社の前には若宮遙拝所があります。これは何かと言うと、源頼義が創建した神社を遥拝するための場所なのです。鶴岡八幡宮はそこから移されたため、元の神社を元八幡、元鶴岡八幡宮と呼んでいるのですが、正式の神社名は由比若宮です。

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若宮遙拝所です。

ちょっとびっくりしませんか?鎌倉の中心である鶴岡八幡宮の元は由比若宮で、ここが鎌倉の起源でした。『鎌倉の地名由来を考える』で、元祖鎌倉は由井と書きましたが、鶴岡八幡宮の元が由比若宮であることは、その主張の裏付けるものだったのです・・・とは簡単に決められません。逆に別の問題が発生するからです。

この場所現在は材木座ですが、古くは由比郷鶴岡と言ったそうです。すると矛盾が生じます。由井の里は既に極楽寺の谷戸にあったと特定しているのに、その結論が崩れてしまいそうになるからです。

ここで、藤原鎌足が泊まった由井の里は由比郷鶴岡近辺であった仮定します。そこから導き出される結論は、鎌倉の起源である由比若宮が存在する由比郷こそが、元祖鎌倉となるはず・・・。この結論はかなり説得力を持っているので、酔石亭主としては頭を抱える事態に・・・。

しかし次のような疑問点も出てきます。
由比は由井が転じたもので、鎌足説の由井の里は時代的な古さも考慮すると、極楽寺の谷戸に存在することは間違いない。
由比郷は由井から由比ヶ浜の地名ができ、そこからの連想で名付けられたはず。
由比若宮の立地場所は鎌倉時代には海岸の際になる。鎌倉の神社はどれも山を背にしているのに、なぜ由比若宮だけ台風や津波の被害が想定される場所に鎮座させたのか?
また鶴岡という言葉からは丘が連想される。しかし鎮座した場所に丘は存在しない。

首を傾げながら鶴岡八幡宮を後にして由比若宮に向かうこととします。小町大路から夷堂橋を抜け、大町四つ角の交差点をそのまま下り、横須賀線を渡るルートを取りましょう。では、鶴岡八幡宮境内を抜けます。

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八幡宮東脇にモジャハウスがありました。見事に蔦に覆われ、花まで咲いています。

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解説石板です。鶴岡八幡宮境内の東角辺りにあります。

娘の名前に三幡姫(さんまんひめ、頼朝と政子の次女)とは、よほど頼朝は八幡神に傾倒していたのですね。

夷堂橋を過ぎ大町四つ角の手前に八雲神社があります。

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八雲神社です。

かなり立派な神社です。お岩さんも祀られているのですが、ちょっと怖いので写真は遠慮しました。

由比若宮が近くなります。材木座海岸が由比とは信じられず、この問題が頭から離れません。もしかしたら、他にも由比の場所を示す資料があるはず、そう思いながら歩いていると辻薬師堂に行き着きました。

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辻薬師堂です。

お堂には、辻薬師堂保存会による解説文が扉に挟んであり手に取ってみます。すると次のような文面が・・・。(長いので抜粋します)

『医王山長善寺は、聖武天皇の神亀年間(724-729)東国八ヶ国総追捕使に任じられた鎌倉郡由比の郷に居住していた(藤原鎌足の玄孫)由比の長者[染谷太郎太夫時忠]が鷲に攫われたわが子を探し遺品の散乱していた名越字御嶽の地に塚を建て供養し後年医王山長善寺と称したと伝えられている』

う~ん。怪しいですね。鎌足説の藤原鎌足が出てきて、その玄孫とは・・・。この染谷太郎太夫時忠の名前、見覚えがありました。甘縄神明社手前の解説石板にその名があり、次のように記されています。

『染屋太郎大夫時忠は藤原鎌足の玄孫に当り、南都東大寺良弁僧正の父にして文武天皇の御宇(697‐707)より 聖武天皇の神亀年中(724‐728)に至る間 鎌倉に居住し 東八箇国の総追捕使(そうついぶし:総令外官)となり、東夷を鎮(しず)め、一に由比長者の称ありと伝へられれも 其事蹟詳(つまびらか)ならず 此処の南方に長者久保の遺名あるは 彼の邸址と唱へらる 尚甘縄神明宮の別当甘縄院は時忠の開基なりしと云ふ』

びっくり仰天が二点あります。まず、染屋太郎大夫時忠の住居は長谷にあったという点です。もう一つは、彼が良弁僧正の父ということです。辻薬師堂の解説文にあるわが子とは良弁のことでした。

事態はますます混迷の度を高めています。上記からすると由井の里あるいは由比郷は、極楽寺、長谷、材木座の三つの異なった場所に存在することになります。それぞれが別地区なのに同じ地名になるなど、絶対にあり得ません。さあどうしましょう?と疑問符が湧き出すのですが、その前に良弁を見ていきましょう。

この人物の名前はご記憶にあるはずですね。『相模国の秦氏』において、良弁は秦氏で秦常満の子である、しかし諸説ある、と書いています。何と、由井を探っているうちに秦氏に行き着いてしまいました・・・が良弁は染屋太郎大夫時忠の子供とすれば、秦氏ではありません。こちらも視界不良になってきたようです。そこでこの両者について、もう少し詳しく見ていきましょう。以下神奈川県公文書館ホームページ紀要第六号より引用しています。

『大山縁起』(真名本)には、「良弁者相模国鎌倉郡由伊(井)郷人也、俗姓漆部氏、当国良将漆屋太郎大夫時忠子也」と記載されている。また、建武4年(1337年)の奥書をもつ「東大寺縁起絵巻」には、「良弁僧正者相模国大隅(住)郡漆窪云所ノ漆部ノ氏人也」とあり、さらに『東大寺要録』にも「僧正者相模国人漆部氏也」とあることから、良弁父子が相模国漆部氏と密接な関係を有する人物であるとともに、その存立基盤が相模国鎌倉郡由井郷か大住郡漆窪の何れかに存在したと思われる。この両者を比較した時、良弁と大山との関係、俗姓と地形・地名、大山との至近距離にある立地条件、有力古墳の分布状況等々を勘案すると、鎌倉郡由井郷よりも大住郡漆窪(現 秦野市北矢名付近には、漆窪・大夫久保の字名が存在する)がにわかに注目されてくる。

染屋太郎大夫時忠は『大山縁起』では漆屋太郎大夫時忠で、漆部氏に属するそうで、こうなると鎌足の玄孫かどうかも怪しくなります。また秦氏のはずの良弁が、由井の郷人あるいは秦野の人であるとは、どう考えたらいいのでしょう?秦野は言うまでもなく秦氏の支配地域でしたが・・・。

これらの伝承から抽出できるのは、良弁は秦氏である、又は秦氏との関係が極めて濃い人物であるということです。一般的に言えば、由井の民と秦氏は非常に親密だったことを意味します。このことは、鎌倉の成立において、秦氏と由井の民が密接に協力し合い、影で動いていた事実を示唆しています。

あれこれ考えているうちに、由比若宮に到着しました。

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由比若宮です。

住宅街の中にあるこじんまりした社です。元八幡、元鶴岡八幡宮とされる由比若宮の遷座に関して、今までの考察からおぼろげながら真相が見えてきたようです。

鎌倉の成立には秦氏と由井の民が密接に協力し合い、関与していました。由井の里は極楽寺に存在すると見て間違いありません。長谷と材木座にも由井の里あるいは由比郷なる地名が存在するのは、元祖由井が鎌倉成立に極めて重要な存在だったことによるのでしょう。とすれば、石清水八幡宮を鎌倉に勧請するに当たって、当初の遷座場所を由比郷とせざるを得なかった裏事情があるのではないかと、想定されます。ではその視点で検討を進めましょう。

鎌倉に入った頼朝が由比若宮を現在位置に移すに当たって、秦氏は地主神から取り込んだ丸山稲荷社の場所へ移転するよう頼朝に働きかけたと推測されます。(桓武天皇の平安京は秦氏が自分の居住地を提供し遷都させていますが、これと全く同じパターン)

また、当時秦氏の拠点は佐助ガ谷であり、ここは鶴岡八幡宮に万一の事態が起きた場合の御旅所(=臨時の遷座地)となっていました。以上から頼朝と秦氏のただならぬ関係が窺えます。加えて、秦氏にとり佐助ガ谷と丸山稲荷社は極めて重要であったことも見て取れます。

鎌倉成立の段階で、二つの重要地点である丸山稲荷社と佐助ガ谷は秦氏系ですが、一方由井の民の重要地点は白山神社(由井の里)のみです。すると数のバランスが悪くなります。しかし秦氏の視点からはもう一カ所重要地点がありました。それが由比若宮のある場所だったのです。秦氏が密接な協力者である由井の民に配慮し数のバランスを取るには、この場所を由井の民の地すなわち由比郷だとするしかありませんでした。

では、この四カ所はどのような意味で重要なのでしょう?秦氏が奉ずる八幡神の根源には矢があります。ここで、由井の白山神社、由比若宮、佐助稲荷を線で結びます。そして鶴岡八幡宮から白山神社に向かって線を引いてください。すると・・・、何と矢の形になりました。佐助ガ谷から白山神社、由比若宮から白山神社の距離は等しくなっています。実はこの構造、秦氏の本拠地である京都でも見られます。鎌倉における矢のラインは、秦氏の思想の根源を表していたのです。(矢のラインの意味は別の機会に譲ります)

ちなみに、藤原鎌足が鎌を埋めた松が岡とは『新編鎌倉志』によると、鶴岡八幡宮境内にある丸山稲荷明神の旧名松ガ岡明神のあった場所としています。鎌倉の地名由来となる鎌を埋めた場所に最初から鶴岡八幡宮を創建しなかったのは、鎌倉に矢の形を設計できなくなるためでした。そして、元八幡が由比若宮と称されたのは、由井の民に対し数のバランスを配慮したためでした。

よって由比若宮は現在の材木座一丁目に所在せねばならず、その場所は由比郷鶴岡とせざるを得なかったのです。

『鎌倉の地名由来を考える』で、鎌倉幕府がこの地に開かれることは前から決まっていた、と書きましたが、それは上記のように綿密な事前設計がなされていたことからも窺えますね。

ところで、鎌倉にとって最も重要な人物は誰でしょう?今まで見てきた内容からすれば、藤原鎌足及び源頼朝と考えて間違いありません。なので、この二人に関してもう少し見ていきたいと思います。

藤原鎌足は常陸の国、鹿島出身とされています。鹿島でも、稲村ケ崎同様に良質の砂鉄を産していました。鎌足の名からは鍛冶集団が連想され、由井の里の民も鍛冶集団でした。鎌足が由井の里で宿泊したのは、どうやら偶然ではなさそうです。また多武峰の談山神社の祭神は鎌足なのですが、ここにある翁面は摩多羅神でした。鎌足の談山神社に摩多羅神があるのは、鎌足=鍛冶=秦氏=摩多羅神=秦川勝=翁という連想からかでしょうか?

一方頼朝です。彼は奥州平泉征伐に出向くのですが、日光二荒(ふたら)の神に勝利を祈願し、凱旋してから堂を建て摩多羅神を祀ったとされています。徳川家康の死後東照宮が創建されますが、東照宮に祀られたのは、東照大権現、山王権現、摩多羅神でした。

明治に入ると神仏分離令により、東照大権現(=徳川家康)以外は豊臣秀吉、源頼朝に代わっています。山王権現は日吉大社のことで、ここの神使は猿です。秀吉が猿と呼ばれていたことは、誰もが知っており、山王権現は秀吉ということになります。とすれば、源頼朝には摩多羅神しか残っていません。

摩多羅神は既にご存知のように秦氏が奉ずる謎の神ですが、その実体は弥勒菩薩(=ミトラ神)でした。鎌足と鍛冶集団。頼朝と秦氏。鎌倉の成立に裏で糸を引いていたのは、秦氏と、鍛冶集団である由井の民だったのです。

注:上記はあくまで酔石亭主の私説ですが、今までこのような視点で検討されたことはなく、問題提起として書いたものです。よって、新たな資料や新たな見解の出現により内容がひっくり返ることもあり得ます。

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