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鎌倉の谷戸を巡る その16


この項は、その15の補足です。前回で、頼朝の子を孕んだ里の娘について書いたのですが、実はこの件を深く突っ込むといわゆる差別問題に踏み込んでしまうため、やや腰が引け、詳しくはご紹介できませんでした。ですが差別問題を取り上げる意図は全くないので、気を取り直しもう少し詳しく書いてみます。

頼朝が出会った娘は畑で菜の花を摘んでいたところを見染められたため、菜摘御前の名があります。この娘の父親(子供かもしれませんが、判然としません)が鎌倉藤沢弾左衛門別名藤原頼兼という人物になります。

時代は江戸時代に飛びますが、弾左衛門の子孫(を自称する)浅草弾左衛門は享保年間に幕府に対してある文書を提出します。それが「弾左衛門由緒書」と「頼朝公御証文写」です。

「頼朝公御証文写」には鎌倉藤沢弾左衛門が支配権を持つ職種が書かれており、その中には猿楽、陰陽師、傀儡師、鋳物師、鉦叩など平安期以降の秦氏が担った職能と考えられるものも含まれています。これは偽書であるとされているのですが、少なくとも鎌倉時代佐助ガ谷にいた集団は上記の職能を持っていたとの印象が江戸時代に下ってもあったことは否定できません。とすれば、佐助ガ谷の集団は秦氏の流れをくむ者たちであったとする傍証にはなり得るでしょう。

「弾左衛門由緒書」には自家の歴史、被差別民に対して支配権を持つ由来、いきさつなどが書かれていますがここでは触れません。

また「江戸 官鑰秘鑑」には浅草弾左衛門の先祖は秦武虎という人物であると記されているそうです。(原文を確認してはおりません)これも江戸時代のもので真偽のほどは明らかではありませんが、佐助ガ谷の特殊技能集団に関連して秦氏の名前が挙っている点は注目に値するでしょう。

鎌倉時代の弾左衛門が江戸享保期の弾左衛門と直接繋がることはないと思いますが、両者の支配する職種が同じである点は見逃せないはずです。秦氏は平安初期に自ら姿を消し、鎌倉期には隠れ里から権力中枢に一定の影響を与え、戦国期には道々の者として日本全国を往来していたのかもしれません。それが江戸期においては身分制度の固定化によって特殊な位置に付いてしまったのでしょう。

なお、酔石亭主は引き続き秦氏を取り上げていくつもりですが、今後は基本的に平安期までの秦氏に区切りたいと思います。それ以降の秦氏は姿が変容していますので、別の存在と捉えた方がいいのではないかという気もしているからです。

              -鎌倉の谷戸を巡る その17に続く-
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