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『旧約聖書』創世記の謎を解く その1

『旧約聖書』創世記の謎を解く
06 /11 2010

人類の発祥から旧約聖書に飛ぶのは、またも唐突だと思われるかもしれません。しかし両者は、深い部分で繋がりがあるのです。

私たちは、ヒトが共通祖先から別れ、遂には文明を持つに至る内的過程をこれまで見てきました。世界で初めての文明はシュメールで起こり、それがイスラエルに接続していきます。シュメールのイスラエルに対する影響は『旧約聖書』のバベルの塔(=シュメールのジッグラト)などに見られるのですが、私見によれば、『創世記』は人類発祥の謎を極めて正確に、但し象徴的に、記述しています。

しかし『創世記』には、より大きな謎も内包されているようです。そこでここからは、人類発祥の謎にリンクしていく『旧約聖書』創世記の謎を追及していきたいと思います。

『旧約聖書』創世記にあるアダムとイブの楽園追放は、自然と予定調和的に生存していたヒトの祖先が、禁断の木の実(善と悪の知識の木の、木の実)を食べたことにより知識を得てヒトに分化した過程を、象徴的にではありますが、極めて正確に描いています。

そして原罪とは、アダムとイブが最初に犯した罪などではなく、ヒトが予定調和的な生き方から離れ、自分の中に心的領域を形成し、環界を改変せざるを得なくなった事情を指しているのです。

ここで、楽園追放の核心部分を見ていきましょう。この物語において、神はアダムに対し、禁断の木の実を食べると必ず死ぬ―と話しましたが、蛇は、死なない―と神の言葉を否定しました。そして二人が食べた結果、神の言葉に反して二人とも死にませんでした。最初から相互矛盾を引き起こす記述で誰もが混乱するのですが、蛇が正しく神が間違っていたのはなぜでしょう?

酔石亭主の答えは次の通りです。ヒトは獣からヒトとなって対象物を客体として認識できるようになり、初めて死の観念を獲得しました。己が死すべき存在であることを、他者の死を通して客観的に悟ったのです。神がアダムに対し、禁断の木の実を食べると死ぬ―と言ったのは、ヒトが、自分は死すべき存在であることを知る、という意味であり、蛇が、死なない―と否定したのは、食べたからといって肉体が死ぬことはない、という意味でした。

では次の疑問です。禁断の木の実とは一般的に、『禁断の林檎』とされていますが、なぜ林檎なのでしょう? 林檎には何か特別な意味でもあるのでしょうか?この疑問には漢字を分析することで答えに迫ってみたいと思います。

まず『禁』ですが、『林』はエデンの園に植えられた二本の木、『命の木』と『善と悪の知識の木』を表しています。『示』は、物を載せて神に供える台を描いた象形文字であることから、神を表しています。それは、神、祠、祀、祇、禊、祚などのように、示を偏にしている字の多くが、神と関係していることからも裏付けられるでしょう。

ですから、禁という文字は、神がアダムとイブに、『命の木』と『善と悪の知識の木』を『示』したことを意味しています。次にこれを字音で見ていきましょう。禁の字音はキンで、この音の表す意味は『擒』であり、引き止める、捕らえる――の意です。字音から見たキンは、獣を引き止めることを意味します。

そこで『林檎』ですが、まず『林』は神が植えた二本の木です。次に『檎』の文字は、二本の木のどちらかを特定しています。もう、どちらの木かわかりますね。『檎』には―とても不思議な符合ですが―獣を意味する禽が含まれています。ここから『林檎』の生る木とは、獣(禽)状態に引き止められていた―つまり自然と予定調和的存在であった―二人に対して、神が取って食べることを禁(禽)じた木、すなわち『善と悪の知識の木』であった、と了解されるのです。

二人は予定調和的な獣としてエデンの園に引き止められていました。でもそれは、神の望むところではありませんでした。神は、エデンの園=環界に、予定調和的に引き止められていた獣状態のアダムとイブに対し、林檎、すなわち獣とヒトを分かつものの象徴、を示し、ヒトへと導きました。神が示した林檎によって、予定調和的存在であった獣は、己が獣であるということを知ったのです。

上記の説明に、また混乱されたかもしれません。二人に林檎を食べるようそそのかしたのは蛇であり、神ではありません。この問題を何とかクリアするには、神と蛇は同体であるとするしかないでしょう。

では、その視点から検討を進めます。大地である神はヤハウェ神(Yahaweh)です。そこで酔石亭主は辞書を使ってヤの文字を調べてみました。案の定、ヤ(也)は蛇の形を示す象形文字でした。神は、エデンの園において蛇に姿を変え、アダムとイブをそそのかし林檎を食べさせたのです。

日本でもヤは蛇であり神です。例えばヤマタノオロチですね。九州地方では、蛇のことをヤアタ・ロという。また、イエス・キリストのことを耶蘇(やそ)という。耶=神であり、蘇=よみがえる、だからイエスは正しく蘇った神となります。

日本の『古事記』においても、神は蛇であり、また矢として描かれています。例えば三輪山の神大物主は、蛇であり丹塗矢でもあります。同様に、イスラエルの神ヤハウェはヤ(蛇)であり矢なのです。

神は蛇であり、また大地でもあります。大地の(地)とは、角川の字源辞典によれば、字形が意味を表す(土)と、音を表す(也)とからなる形声文字でした。そこで(地)の字義は、蛇のようにうねうねしている大地の意です。これらから、神は大地であり、蛇であると断定できるでしょう。つまりこの三者は、三位一体と考えられます。

創世記によれば、土に神が息を吹き込んでヒトが創造されました。人類の発祥は大地の発する気によるものでした。今までの説明から、神の息とは大地の発する気を意味しているとすんなりご理解いただけますね。ここで人類進化の謎と『旧約聖書』創世記が完全にリンクしました。

大地すなわち神の発する気により、ヒトは共通祖先から分かれました。こうしてヒトは、大地溝帯の大地に発祥しました。『旧約聖書』創世記エデンの園の物語は、人類発祥の真相を、象徴的にではありますが、極めて正確に描写していたのです。

なお、誤解がないようにするため申し添えますが、本記事に特定の宗教をお勧めするような意図は一切ありません。酔石亭主の観点によれば、宗教はヒトが共通祖先から分化し、ヒトとなり、その内部に観念の領域を持った瞬間に発生しました。

例えばピクリとも動かない悲惨な状態の死者を見て、見る側のヒトの内部に、死んだ後はとても悪い世界だという観念の領域が生じます。それが地獄です。安らかで幸せそうな状態の死者を見て、死んだ後はとても良い世界だとの観念の領域が生じます。それが天国です。牙も走力も翼もない非力なヒトにとって、生き延びることはあまりに過酷でした。そんな状況から救い出してくれる強力な存在を求めたとき、神に関する観念の領域が生じます。このようにして生じた様々な観念が統合されて、私たちヒトは宗教を持つようになったのです。

逆に言えば、ヒトが共通祖先から分化しなければ、そのような観念の領域は存在できず、神もあの世も存在しなくなるのです。ですから、ヒトを共通祖先から分化させた大地を、本記事では神として記述している訳です。

         ―『旧約聖書』創世記の謎を解く その2に続く―
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酔石亭主

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