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鎌倉の地名由来を考える

頼朝以前の鎌倉
06 /22 2010

皆さんは鎌倉という地名の由来をご存知でしょうか?実は、その由来には諸説あっていまだに確定していません。なぜ確定していないのでしょう?それは各説の根拠が示されていないからです。

まだ確定していないなら、検討してみる価値がある。そう考えた酔石亭主は、この問題に取り組むこととしました。まずはどのような説があるのか知る必要があります。そこで、鎌倉市のホームページに目を通してみました。以下、ホームページの引用です。

伝説的なもの
1.神武(じんむ)天皇が東国(とうごく)を征服しようとしましたが、人々が天皇にそむいたので、天皇は毒矢を放ちました。すると、その毒矢に当たって一万人以上もの人々が死に、その死体が山となって今の鎌倉の山ができたといわれています。屍(かばね:死体)が蔵(くら)をつくったので、「屍蔵」(かばねくら)となり、それがなまって「かまくら」になったといわれています。
2.藤原鎌足(かまたり)が、神宮にお参りする途中、由井里(ゆいのさと:今の由比ガ浜)に泊まったところ、不思議な夢をみて、いつも持っていた鎌(鎌槍(かまやり)のこと)を、大蔵の松ヶ岡に埋めました。そこから「鎌倉」になったといわれています。

地形的なもの
1.鎌はもともとは「かまど」のことで、倉は「谷」のことだといわれています。鎌倉の地形は、東・西・北の三方が山で、南が海になっています。形は「かまど」のようで、「倉」のように一方が開いているので、「鎌倉」となったといわれています。
2.アイヌ語の「カマクラン」という「山を越して行く」という意味の言葉からできたとか、「カーマ・クラ」という「平板(へいばん)な石の山」という意味の言葉からできたとかいわれています。

その他の説
1.昔、鎌倉の海岸近くには蘆(あし)や蒲(がま)がたくさん生えており、蒲が生えているところだから「かまくら」になったといわれています。
2.比叡山にも鎌倉という地名があり、「神倉」(かみくら)とか「神庫」(かみくら)がなまったものと考えられています。ここ鎌倉にも「神庫」があったので、それがなまって「かまくら」になり、鎌倉の字をあてたのだといわれています。
3.神奈川県の中央部に、高座郡(こうざぐん)という地名があります。高座は、昔「たかくら」と読んでいたところから「高倉」「高麗」(こま)に通じ、高麗座(こまくら)が「かまくら」になったといわれています。


上記のようにぞろぞろ説が出てくるのですが、いまだに確定していないのは、それぞれの説に対して具体的な根拠が与えられていないためです。そこで各説の中から注目すべきものを取り上げ、その説にどのような根拠を与えられるか検討していきたいと思います。

酔石亭主が注目するのは、伝説的なもの2です。ここには、鎌足が由井里(由比ヶ浜)に泊まって不思議な夢を見た、とあります。翁こそ出現していませんが、これは佐助ガ谷の項で書いた頼朝の夢と構造を同じくしています。また浄妙寺には鎌足神社もあって、この由来譚は伝説に留まらない要素を備えています。(以降鎌足説とします)

とすれば、鎌足説が鎌倉の地名由来になる可能性が高そうです。ただ問題は、この種の夢を発生させるには、佐助ガ谷のように呪力を持つ特殊技能集団が存在する、閉鎖された空間=谷戸がある、という二つの条件を満たす必要があります。ところが由比ヶ浜は、海に向かって開けた場所。霊夢を見させるには極めて不都合です。

従って、由井里は由比ヶ浜ではないでしょう。また由井とは結いで、心的な閉鎖空間である結界にも接続しそうです。そこで、鎌足説の出典に当たってみることとします。

鎌足説の元になった記述は、『詞林采葉抄(しんりんさいようしょう)』にあり、由阿という人物が執筆した万葉集の地名などを考証する14世紀頃の書物でした。これによれば、

『鎌倉山とは、鎌を埋める倉という言葉である。その始まりは昔、藤原の鎌足が鎌子と言っていた頃、宿願があって鹿島神宮に参詣の折、この由井の里に泊まった夜、霊夢を感じて年来所持していた鎌を今の大蔵の松が岡に埋められたことより鎌倉郡という』、とあります。

やはり由井の里は由比ヶ浜ではなさそうです。しかし、由井という名前からして由比ヶ浜に近い場所との想定は成り立つはず。そこで、由比ヶ浜のある長谷から極楽寺坂切通しに向けて歩いてみました。そうしたのは、鎌足が西から海岸線に沿って鎌倉に向かったと考えたからです。

歩きだしてすぐに御霊神社です。ここは既にご紹介しましたが、祭神の鎌倉鎌倉権五郎景政は産鉄民と深い繋がりがあります。(詳細は別の機会にでも書きます)坂にさしかかると次に虚空蔵堂が現れます。このお堂を建立したのは行基ですが、彼は葛野秦氏と密接な交流がありました。虚空蔵信仰は秦氏が担っており、虚空蔵尊は鉱山に関連しています。極楽寺坂を登るにつれ、金っ気が強くなっていますね。

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虚空蔵堂。

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虚空蔵堂の解説板。

さらに登ると、アジサイで有名な成就院ですが、門には写真のように東結界という文字が書かれています。次第に閉鎖空間の匂いもしてきました。

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門の写真。

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解説板です。

空海はここで虚空蔵菩薩求聞持法を修しています。空海には山師のようなところがあり、丹生と呼ばれる水銀鉱山をあちこちで探しまわっています。神出鬼没とは彼のような人物のことを言うのでしょうね。

成就院は極楽寺坂切り通しの上にあり、切り通しを越えると極楽寺の谷戸に入ります。極楽寺の谷戸は佐助ガ谷と同じ閉鎖空間ですから、ここが由井の候補地になってもおかしくはありません。

しかし候補地と言っても、佐助ガ谷と同様の特殊技能集団がいなければ、霊夢を見させることはできないはず。よって、極楽寺の谷戸にそのような集団がいないか見ていきたいと思うのですが、その前に稲村ケ崎に行ってみましょう。

極楽寺の谷戸には極楽寺川が流れ、稲村ケ崎に注いでいます。ここの砂を見てください。黒っぽい色をしていますね。稲村ケ崎の砂浜では良質な砂鉄を産出します。この砂鉄を原料として、天下に名高い名刀、相州正宗が作られていました。

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稲村ケ崎の砂浜。

では、砂鉄はどこから集まってくるのでしょう?そう、極楽寺川から砂鉄が海に流れ出しているのです。

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極楽寺川河口付近。

そこで河口から川をさかのぼってみると、鎌倉十橋の一つ針麿橋にさしかかりました。

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現在の針麿橋(はりすりばし)です。

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解説石板です。

石板には、往古この付近に針麿(針摺)をなりわいとする者が住んでいたのでこの名があるという、と書かれています。針麿橋の針は音読みでシンですね。シン=秦で秦氏がこの辺りにいたのでしょうか?それはさておき、はりすりとは、鉄の棒を研いで針を作る鍛冶仕事です。稲村ケ崎の砂鉄から鉄を作り、武具や農具を製造する集団が極楽寺の谷戸にいたことは間違いありません。産鉄・鍛冶をなりわいにする彼らは、特殊技能集団ということになります。

極楽寺の谷戸にある特殊技能集団の棲みかが由井の里と言えそうですが、さらに見ていきましょう。

川の右手に目を向けると、こんもりとした山が見えます。山の名は金山で、金っ気がますます濃厚になってきました。稲村ケ崎で採取されていた砂鉄は、この金山から極楽寺川に流れ出し、砂浜を真っ黒にしていたのです。金山の谷戸を登った先には白山神社という神社があります。

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白山神社です。小さな神社で荒れています。神社への入口も非常にわかりにくい。

白山神社は主に産鉄民が祀る神社ですから、このエリアに産鉄系の特殊技能集団が居住していたことを証明するものとなります。また金山の麓から極楽寺川間の住居案内板を見ると、由井姓のお宅が多く見られました。必要な証拠は出揃ったようです。

鎌足が霊夢を見た由井の里は極楽寺の谷戸にあったのです。

ここは谷戸という狭く閉ざされた空間であり、特殊技能集団も存在しているので、鎌足が霊夢を見る条件は整いました。

以上、鎌足の霊夢は伝説などではなく、一定の背景・根拠がありました。しかしこれだけの論証では、鎌足説が鎌倉の地名由来だとは言い切れません。

話は一気に飛ぶのですが、JR根岸線本郷台駅近くに鍛冶ヶ谷という場所があり、ここにも白山神社が鎮座していました。(現在は別の場所に遷座。なお鍛冶ヶ谷もかつては相州鎌倉郡に属していました)源頼朝はこの白山神社を鎌倉の北東の鬼門を護る神社としたのですが、鎌倉の中心部から鍛冶ヶ谷の白山神社まで線を引くとほぼ真北に位置して北東にはなりません。

頼朝は何を勘違いして白山神社を鬼門守護の神社としたのでしょう?そもそも頼朝に方位など理解できるとも思えません。とすれば、影のアドバイザーである秦氏が鬼門の設定に一役買っていたのでは、とも考えられます。

そう考え、金山の白山神社から佐助稲荷を経由して北東に線を引くと、ぴったり鍛冶ヶ谷の白山神社跡地付近に至りました。つまり、白山神社のある由井の里こそが元祖鎌倉であり、その鬼門ライン上には秦氏系特殊技能集団が居住する佐助ガ谷があり、その先には鍛冶ヶ谷という由井の里と同じ産鉄系のエリアに鎮座した白山神社があるのです。加えて白山には、秦川勝が創建したとされる仙福寺もありました。

どうでしょう、鎌足説が鎌倉の地名の由来である可能性が高まってきませんか?(本郷台周辺は大変に面白い場所なので追って詳しくご紹介します)

さらに鎌足説を補強しましょう。鍛冶ヶ谷の近くには上郷深田製鉄遺跡という大規模なタタラ製鉄跡があります。十二所の太刀洗いには鑪ヶ谷(たたらがやつ)があります。金沢文庫(六浦)にもタタラ製鉄跡があります。(これらはいずれも鎌倉郡に属します)

何のことはありません。鎌倉に幕府が開かれたのは、そこが三方を山に囲まれ防御に適した場所だったからではなく、周囲に良質な鉄を産し、産鉄族などの特殊技能集団が多数居住していたからでした。

鎌倉の実体は、大規模な製鉄の町だったのです。

頼朝にとっては、鉄を産出し、武器を製造する鍛冶のいる場所が死活的に重要でした。そんな場所が真の鎌倉であるとするなら、金山の白山神社、佐助稲荷、鍛冶ヶ谷の白山神社を結ぶ鬼門ラインの起点に当たる由井の里にこそ鎌倉という地名の由来がある、そう見て間違いないはずです。

しかしです。よく考えてみてください。この鬼門ラインは鎌倉幕府創設時に引かれたものではありません。それよりずっと以前にこれらの神社はあった(鍛冶ヶ谷の白山神社は舒明天皇の時代にさかのぼる)、つまり鬼門ラインは既に設定されていたのです。そこからどのような結論が導き出されるでしょうか?

そうです。信じがたいのですが、鎌倉に幕府が開かれることは、前もって決まっていたのです。佐助ガ谷の翁は、決まっていたことを実行する役割を担っていました。そのため頼朝に暗示をかけ、鎌倉に幕府を開設できるよう一定方向に導いていたのです。ちょうど秦氏が、都を自分の本拠地である京都に遷都させ、平安京が開かれたように・・・。

ちなみに、鎌倉幕府滅亡も稲村ケ崎が起点となっています。新田義貞は後醍醐天皇から賜った黄金の太刀を海に投げ込み龍神に祈ります。すると、モーセの出エジプトの、紅海が割れる場面を彷彿とさせるのですが、潮が引き海岸を渡って鎌倉に攻め入ることができたのです。

しかし、畏れ多くも天皇から下賜された太刀を義貞が海に投げ込むでしょうか?事の真相は次のようなものだったと思います。

義貞は黄金の太刀を由井の民に渡し、稲村ケ崎を越えられる日時を教えてもらった。つまりこの伝説は、由井の民が自ら進んで新田義貞を手引きしたことを暗示しているのです。

そんな説は聞いたことがないと思われるでしょうが、後醍醐天皇は歴代天皇の中でも異彩を放つ人物で、真言密教に帰依し、彼の背後には特殊技能集団が多数存在していました。特殊技能集団のネットワークは日本全土に張り巡らされていたはずです。

後醍醐天皇より黄金の太刀を下賜されたのは由井の民であり、義貞は単なる取り次ぎに過ぎませんでした。彼らが義貞に協力した背景には、このような事情があったのではないかと推察されます。

いかがでしょう。歴史の闇の中から、観光都市鎌倉の別の姿が浮かび上がってきませんか?

鎌倉幕府滅亡(1333年)の直前、1324年に鍛冶ヶ谷にあった白山神社はその場所を離れ、現在の上郷町に遷座します。これは鬼門ラインに変更が加えられことを意味します。新たな場所は、金山の白山神社から鎌倉幕府の中枢を貫くライン上にあります。鎌倉幕府を護るはずの鬼門ラインが、今度は幕府を切り裂く刃となりました。元祖鎌倉の鬼門ラインが外された時点で、鎌倉幕府の命運は決していたのです・・・とまで言うのは議論に相当無理があり、この辺は歴史ロマンとでもしておきましょう。
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酔石亭主

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