千畳敷カールへ行きました その4


藤沢市の地名由来についてもう少し書きたいと思います。藤沢について調べていくと、岩手県東磐井郡の藤沢町という町名に行き着きました。藤沢町の町名由来に関してWikipediaによれば以下の通りです。

また、“藤沢”の由来は、神奈川の藤沢からお坊さんがこの地に来たことからとの説がある。

一応由来が書いてありますが、具体的根拠はほとんどありません。きちんと調べようと思い藤沢町を詳しく見ていくと、上海という地名が出てきました。「しゃんはい」ではもちろんありません。多分、ワミと読ませているはずです。

問題は、上海が尻切れトンボで中途半端な地名に感じられることです。例えば上大井や下大井ならなるほど地名だと理解できますが、上大となると何のことかわからなくなります。そう思った途端、ピンと来ました。上海の次に来るべきもう一つの漢字が、長い時代を経て、知らぬ間に抜け落ちていたのです。本来あったはずのもう一つの漢字は「渡」のはず。上海は当初、「上海渡」であったと考えられます。

上海渡が藤沢市と何の関係があるのかと言われそうなので、次にそれを論証していきます。
長野県東筑摩郡には波田町上海渡という地名があります。上海渡は(かみがいと)と読むのです。これで上大井と同じ形になりすっきりしたのですが…、何のことはありません。藤沢次郎清親の出身地、藤沢郷の御堂垣外(みどうがいと)と全く同音の言葉でした。しかも波田町は秦氏と関係がありそうです。(藤沢の地名由来の議論とは全く関係ありませんが)

そしてもう一点、藤沢次郎清親は文治5年(1189年)頼朝のお伴として奥州征伐に出陣しており、藤沢町は平泉から直線距離で30km程度の距離しかありません。よって、岩手県の藤沢町の地名は藤沢次郎清親に由来している可能性が高いと思われます。彼は奥州征伐に赴く訳ですから、命を落とす事態に備え菩提寺の僧侶が同行したかもしれません。そう考えれば、藤沢から坊さんが来て云々という説も説得力が格段に上がります。

上述した藤沢町の町名由来は、藤沢市の地名が藤沢次郎清親に由来していることの傍証ともなり得るものです。

以上で藤沢市の地名由来の流れが、一定の根拠を持って再構成できました。その深源は建御名方が藤の蔓を持ってモレヤ神と戦ったことにあります。建御名方に繋がる諏訪氏大祝の子孫である神次親貞は、高遠の谷すなわち御堂垣外(みどうがいと)に入り、谷を藤沢谷と名付け、自らも藤沢氏を名乗り、藤沢氏の始祖となりました。その子である藤沢次郎清親が頼朝の信任を得て鎌倉幕府の御家人となり、現在の藤沢市に居住したことから、この地が藤沢と呼ばれるようになった、ということです。

ちなみに、建御名方がモレヤ神と対峙した場所は、藤が根付いたことから藤島と呼ばれ、藤島神社があります。地名一つにも、あれこれ考えていくと奥深いものがありますね。藤沢市の地名由来はこれで終わりとして、次に進みましょう。

中央構造線は高遠の手前で東寄りとなり、美和湖から分杭峠へと続いていきます。ここで中央構造線とはお別れして、月の高遠、花の高遠で有名な高遠を目指します。ループ橋を渡ると、あっという間に高遠城址の駐車場に至りました。桜まつりの期間中は大混雑となるそうですが、真夏とあってガラガラに空いています。駐車場から趣のある茅葺屋根が見えたので、まずそちらに行ってみます。

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万延元年(1860年)創設の藩校の進徳館です。

お城のすぐ近くに学校を建てたのですから、高遠藩は教育熱心な藩だったのですね。

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駐車場から見えるお城のような建物は高遠閣。昭和11年に完成。

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もう一枚。

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桜雲橋です。濃厚な緑に包まれている感じです。

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高遠湖のダム。水量が多い。

ずっと以前5月頃に高遠を訪れたことがあるのですが、天竜川を挟み残雪の中央アルプスが聳える光景には感動しました。過去の高遠を思い出しながら車に乗り、三峰川に沿って伊那方面に向かいます。

実は三峰川石を探石しようという魂胆があり、天竜川との合流点より手前にある橋の近くで川に入りました。豪雨による出水で荒れた雰囲気も残りますが、探石するには誰でも行ける最もお手軽な場所。成果は期待できそうにありません。炎天下の探石は熱中症が気になりますし、女房殿を車の中に待たせています。そう思うと長くは歩き回れず、15分ほどで切り上げました。

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三峰川石です。三峰川での初探石の記念品といった程度の蒼黒石です。

伊那から下り太田切川を渡ると駒ケ根です。

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太田切川。

この川は東西文化の境界として有名です。川には大きな花崗岩がごろごろしており、昔なら渡るには苦労しそうで、多分それが文化の境界になった理由でしょう。残念ながら探石には不向きです。

昼食は有名なソースかつ丼をと思い、駒ケ根の明治亭に行きました。昼時間は過ぎていましたが、なお満員で人気のほどが窺えます。

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明治亭入口。

ホテルのチェックインにはまだ時間があるので、霊犬早太郎で有名な光前寺へ。

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光前寺の参道。

数百年の歳月を経た杉の大木が見事。積んだ石の奥からはヒカリゴケが怪しい光を放っています。

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早太郎の解説板。

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早太郎の木彫。

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三重塔。端正な姿です。

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もう一枚。

ところで光前寺や以前訪問した伊勢金剛證寺、諏訪の温泉寺など各地の石仏は、藤沢郷塩供の守屋貞治(1765~1832年)という著名な石工が彫っているのですが、彼は守矢家あるいは物部系と関係があるのでしょうか?

江戸時代、高遠藩は藤沢郷など耕作地の少ない農民に出稼ぎ石工となるよう勧めていました。彼が藤沢郷の出身でしかも守屋とくれば、関係がありそうに思えてきます。ただ、守屋貞治が農民出身の石工だとすれば名字はないはずで、全国を巡り石工として働く都合上、物部守屋神社の守屋から名を勝手に頂いた可能性も強そうです。

しかしです。彼が農民に身をやつしてはいても、実は物部守屋の遠い子孫だったとしたら…、仏教崇拝の蘇我氏に敗れた神祇崇拝の物部氏末裔が石仏を彫っていたという何とも不思議な巡り合わせになり、これはもう皮肉というか歴史ロマンですね。(勝手に想像の羽を広げまくるのが酔石亭主の悪いところです(^_^;))

駒ケ根高原美術館で池田満寿夫の絵や陶器、ルオー、ドーミエ、草間彌生などの作品を鑑賞し、次に美術館近くの郷土館を写真に収めて後、ホテルに向かいました。

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郷土館です。旧駒ケ根市庁舎を利用したものとのこと。

            ―千畳敷カールへ行きました その5に続く―

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