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鎌倉の地名由来を考える 続編


鎌倉の地名由来に関してちょっと気になる点があり、金沢街道(六浦路)に沿ったエリアに行ってみました。まず浄妙寺に立ち寄ります。このお寺、山号は稲荷(とうか)山。正式には『稲荷山浄妙廣利禅寺』と言います。

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本堂です。

最初からお稲荷さんが登場するとは驚きです。秦氏や由井の民との関係も疑われそうな気配。詳しく見ていくと、浄妙寺の始まりは極楽寺という真言密教のお寺でした。極楽寺は由井の民の拠点であり、真言密教は空海、稲荷山は秦氏と怪しいメンバーがあっという間に勢ぞろいです。本堂右手の坂を鎌足稲荷神社の案内に沿って歩きます。すると鎌足稲荷神社の解説板が・・・。

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解説板です。やや読みにくいので、下記します。

大織冠(たいしょくかん)藤原鎌足公は乳児の時、稲荷大神さまから鎌を授けられ、以来、常にお護りとして身につけ、大神さまのご加護を得られました。大化元年(645)、中大兄皇子(後の天智天皇)らとの協力のもと蘇我入鹿を討って大願を成就された鎌足公は、翌大化2年(646)東国に向かわれ、相模国由井の里に宿泊されました。その夜、「あなたに鎌を授けて守護してきたが、今や入鹿討伐という宿願をなし遂げたから、授けた鎌を我が地に奉納しなさい」との神告があり、お告げのままに鎌を埋納し、祠を営んでお祀りしたのが、当神社の始まりです。鎌倉の地名は鎌足公が鎌を埋納したことによるとされています。

この内容が気になる点です。『鎌倉の地名由来を考える』、『鶴岡八幡宮の謎を解く』において藤原鎌足が鎌を埋めたのは現在の鶴岡八幡宮のある場所だと特定しました。一方浄妙寺の鎌足稲荷神社の解説板によると、浄妙寺のある場所に鎌が埋められたと読めますし、稲荷大神の出現は頼朝のケースと全く同じパターンです。

二つの説が真っ向から矛盾しているので頭を抱えたくなるのですが、矛盾しているものは矛盾しないように再構成することで問題を解決できるはず。そんな観点からこの謎に迫ってみましょう。

まずは産鉄との関連です。浄妙寺から川に沿って上流に向かうと青砥橋です。この場所には青砥藤綱邸があったので、橋の名に青砥と付けられたようです。青砥藤綱は皆さんもご存じと思いますが、川に10文を落とし、たいまつを50文で家来に買わせ、お金を探し出した人物です。また歌舞伎の白波五人男の中にも出てくるので有名ですが、実在の人物か疑わしいとされています。

そこで青砥だけに注目してみましょう。青砥とは天然砥石の中砥石のことです。この砥石で砥ぐのは鉄ですから産鉄系の匂いがします。さらに進むと十二所神社に至るのですが、この東側が鑪ヶ谷(たたらがや)というタタラ製鉄に関連した地名となり、朝比奈切通しを超えると金沢区に入り、こちらにも製鉄遺跡があります。

以上から抽出できるものがあります。浄妙寺は以前極楽寺と呼ばれ、一帯は谷戸地形であり、近くで砂鉄も産することから、極楽寺と基本構造を同じくする場所であると考えられます。しかも、浄妙寺から十二所辺りまでの一帯は大倉郷と呼ばれていたようです。

大倉と鎌足稲荷神社があり、極楽寺と相似した場所で、解説板にここが鎌を埋めた地だと書いてある以上、浄妙寺説はかなり有力になりました。けれども、鎌を埋めた場所の比定地が鶴岡八幡宮と浄妙寺の二カ所あっては、どちらが正しいのか悩むところです。

これはあくまで酔石亭主の直感なのですが、浄妙寺は違うような気がしてなりません。鎌足稲荷神社を見ても、雰囲気的にここが鎌を埋めた場所だとは思えないのです。

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鎌足稲荷神社です。

では、浄妙寺の近くに可能性のありそうな場所がないでしょうか?そこで、浄妙寺から滑川に沿って下流へ300mほど歩きます。すると、鎌倉最古の寺杉本寺がありました。しかもです。このお寺は大蔵山と号します。もしかしたら鎌を埋めたのは杉本寺かも…ということで、急な石段を登り杉本寺の本堂に向かいましょう。以下Wikipediaより引用。

杉本寺(すぎもとでら)は、神奈川県鎌倉市二階堂にある天台宗の寺院。山号は大蔵山。本尊は十一面観音で、坂東三十三箇所・鎌倉三十三箇所の第1番札所である。鎌倉最古の寺とされている。この寺は、天平6年(734年)行基が十一面観音を安置して創建したのに始まると伝えられる。
                        

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杉本寺です。

杉本寺は大蔵山観音院杉本寺と称するのですが、それは天平3年(731年)行基が大蔵山において観音様をお祀りしようと発願し、十一面観音を自ら彫り安置したことに由来しています。

天平6年(734年)には光明皇后が右大臣藤原房前と行基に命じ、東国安寧のためのお堂を建立させます。行基は秦氏と関係が深い人物ですから、ちょっと匂ってきました。また杉本寺の中興の祖である慈覚大師円仁は、851年(仁寿元年)にこの寺において自作の十一面観音を祀りました。実はこの円仁も気になる人物です。

円仁はなぜか摩多羅神と深い関係を持っています。彼は東洋のマルコポーロとも称される人物で、唐に渡りかの地でおよそ9年を過ごし帰国するのですが、帰国の船の中で順風を祈ると摩多羅神が出現、この神を日本に招来したとされます。

帰朝後円仁は摩多羅神を常行三昧堂の守護神として祀りました。円仁は後に摩多羅神を秦氏の広隆寺に移したとされるのですが、摩多羅神の本来の姿はミトラ神=弥勒菩薩であり、弥勒菩薩は既に広隆寺に存在しています。

ミトラ神=弥勒菩薩=摩多羅神の関係と、それに係わる秦氏の恐ろしさを何かの機会に知った円仁は、慌てて摩多羅神を広隆寺にお返しした、というのがこの話の真相だと思われます。

一方藤原鎌足は没後、桜井市の多武峯(とうのみね、現在の談山神社)に移されて祀られます。そして多武峯の常行堂には摩多羅神が祀られているのです。『多武峯縁起絵巻』によると、鎌足が生まれたときに鎌をくわえた白い狐が現われ、生まれた子の足元に置いたため、その子を「鎌子」と名づけたとのことです。秦氏すなわち摩多羅神を介して藤原鎌足、円仁、源頼朝が連結されてしまいました。

そして光明皇后ですが・・・、彼女は藤原鎌足の子である不比等の娘です。いよいよ杉本寺が怪しくなってきました。おじいちゃんに縁のある場所にお堂を建てたいと思う孫娘の気持ち、わかりますよね。

光明皇后は奈良の大仏を建立した聖武天皇の母で、東大寺の正倉院にはこの二人にゆかりの品が数々収められています。その中に、白瑠璃椀(ガラス製の椀)があるのですが、これはササン朝ペルシアの古墳から発掘されたものと同一です。また、正倉院には酔胡従面や漆胡瓶などササン朝ペルシア由来の品々が数多く収蔵されています。

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白瑠璃椀です。

やや褐色で透明なカットグラスです。ハニカム状に全面カットされ実に見事です。

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底面もカットされています。

どのようして白瑠璃椀の写真を撮ったかって?正倉院を管理する宮内庁に頼み込んでお借りしたのですよ…なんてことは絶対に不可能。これは酔石亭主所有の品です。当時の製法を用いて忠実に再現されたもので、実物に遜色ありません。

続日本紀(しょくにほんぎ)には聖武天皇が天平8年11月3日に、波斯(はし=ペルシャ)人・李密翳(りみつえい)らに位を授くることあります。李密翳は天平8年(736年)に遣唐使船で日本に渡来した人物で、光明皇后のアドバイザー的な役割を果たしたようです。彼は景教徒(古代キリスト教の教派)という説もあり、秦氏景教徒説(これが正しいとは思いませんが)とも接続する部分があります。

光明皇后は医療施設である施薬院や貧しい人に施しをする悲田院を設置したのですが、実は忍性が極楽寺に開設した施設は光明皇后の施設と思想的に直結しており、その底流には由井の民に接続するものがあります。ちなみに忍性の生没年は建保5年(1217年)- 乾元2年(1303年)。

以下Wikipediaからの引用です。

極楽寺の実質的な開祖である忍性が当寺に入寺したのは文永4年(1267年)のこととされている(『忍性菩薩行状略頌』)。極楽寺の古絵図を見ると、往時の境内には施薬院、療病院、薬湯寮などの施設があり、医療・福祉施設としての役割も果たしていたことがわかる。


忍性は行基ゆかりの寺で修業していますし、聖徳太子信仰も受け継いでいたようです。行基も聖徳太子信仰も秦氏に関係が深いですね。

また、浄妙寺の場合稲荷山ですが、杉本寺は大蔵山で、どちらに鎌を埋めたかと聞かれれば、杉本寺に軍配を上げたくなります。

杉本寺には白山大権現まで鎮座しています。

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白山大権現の鳥居です。

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小さな社です。

社の背後にはやぐらがあって、社の右後ろに見える灯篭のような石塔が白山大権現です。白山と言えば由井の民を連想しますが、白山大権現についてWikipediaは下記のように説明しています。

白山権現(はくさんごんげん)は白山の山岳信仰と修験道が融合した神仏混合の神であり、十一面観音を本地仏とする。白山大権現、白山妙理権現とも呼ばれた。神仏分離・廃仏毀釈が行われる以前は、全国の白山権現社で祀られた。養老元年(717年)修験道の泰澄が加賀国(当時は越前国)白山の御前峰に登って瞑想していた時に、緑碧池から十一面観音の垂迹である九頭龍王が出現して、自らをイザナミ(伊弉冊尊)の化身で白山明神・妙理大菩薩と名乗って泰澄に顕われたのが、白山権現信仰ならびに白山修験場開創の由来と伝わる。


ちなみに泰澄は秦氏の出だと言う説もあります。これが正しいかどうか酔石亭主には判断できませんが、少なくとも白山神社の背後に秦氏がいることは間違いなさそうです。

以上、杉本寺にぞろぞろ登場する関係者を勘案すれば、鶴岡八幡宮以外のもう一つの伝承地はこちらの可能性が高そうです。ただ杉本寺と浄妙寺は近接しているので、両者を一括りにして考えた方がいいのかもしれません。(以降その観点で進めます)

鶴岡八幡宮と杉本寺のどちらにも大蔵という地名があり、杉本寺の近くには鎌足が鎌を埋めた伝承もあることから、まるで鶴岡八幡宮と杉本寺の両者が対になっているような印象を受けてしまうのですが、いずれにせよ、この問題はきちんと整理しておく必要があるでしょう。

6月30日の『鎌倉八幡宮の謎を解く』において、藤原鎌足が鎌を埋めた松が岡とは『新編鎌倉志』によると、鶴岡八幡宮境内にある丸山稲荷明神の旧名松ガ岡明神のあった場所としています。と記載しました。

6月22日の『鎌倉の地名由来を考える』においては、『詞林采葉抄』に『鎌倉山とは、鎌を埋める倉という言葉である。途中略。鎌を今の大蔵の松が岡に埋められたことより鎌倉郡という』と書かれている旨記載しました。

両者に共通するのは松ガ岡ということになります。丸山稲荷社の前身が松ガ岡明神であり、杉本寺にも浄妙寺にも松ガ岡がない以上、鎌を埋めた場所は現在の鶴岡八幡宮とせざるを得ません。そもそも鶴岡八幡宮は大倉山にあり、大倉山に鎌を埋めたから鎌倉という地名が成立したと考えるのは納得できる話です。

また、鎌倉幕府の中心である鶴岡八幡宮が鎌倉の地名由来の場所であることは、論理的にも整合していると思われます。ちなみに、鎌倉という地名は『古事記』景行天皇の段に鎌倉の別という記述がみられることから、遅くとも和銅5年(712年)の『古事記』成立時点では鎌倉という地名が存在していたことになります。藤原鎌足の生没年が推古天皇22年(614年)- 天智天皇8年(669年)ですから、整合性もありますね。

以上より、鎌足が鎌を埋めたのは杉本寺・浄妙寺であるという説は却下せざるを得ないのですが、ではなぜ杉本寺と浄妙寺周辺に、大蔵山という地名、鎌足が鎌を埋めた伝承、秦氏や由井の民に関連する事項が色濃く存在しているのでしょう?

この矛盾に合理的説明を与えられなければ、問題に決着がついたとは言い難いですね。

そもそも鎌足稲荷神社はいつ創建され、何を物語っているのでしょう?鎌足は日本最強の氏族藤原氏の創始者であり、稲荷神社の稲荷大神は謎の一族秦氏の神です。両雄並び立たないはずのメンバーが手を握った形で一つの神社を成立させているとは、あまりに不可解です。

これは酔石亭主の独断ですが、鎌足稲荷神社は平安時代初期かそれより少し以前に創建されたのでは、と推測しています。なぜなら、この頃秦氏は平安京に都を移転させるため、藤原氏の血脈の中に入り始めているからです。

その象徴として鎌足稲荷神社はあったと考えると、上記の時代に創建されたと見るのが妥当に思えるのです。(鎌足の時代も、秦氏を象徴する稲荷大神=白狐と鎌足の関係が見られますが、まだ関係があるだけという段階にとどまっていたと考えられます)

それにしても、鎌倉に幕府が開かれることはその何百年も前に決まっており、事前設計もなされていたという雰囲気がますます濃厚になってきませんか?

今まで検討してきた点を総合すると、杉本寺・浄妙寺周辺エリアの立ち位置が見えてきます。佐助ガ谷は鶴岡八幡宮に万一の事態が起きた場合の御旅所(現代で言えば核攻撃にも耐えうる地下シェルターのようなもの)でした。

杉本寺・浄妙寺も同様の視点から見てください。この周辺に鎌倉という地名が成立するに必要な大蔵山があり、鎌を埋めた伝承があり、秦氏や由井の民、頼朝に関連する事柄が色濃く残っていると言うことは、鶴岡八幡宮を幕府の中心にできなかった場合に備え、そのバックアップをこのエリアに用意していた、ということです。

つまり、鶴岡八幡宮が鎌倉幕府の中心にならなかったら、杉本寺・浄妙寺が幕府の中心部となるよう事前設計されていたのです。そう考えれば、この周辺に怪しいメンバーが集結し、鎌倉の地名由来に関連する事柄があるという矛盾が、矛盾のない形で再構成できるのです。


ちなみに、元八幡である由比若宮から杉本寺のある大蔵山に線を引くと、由井の民の白山神社から鶴岡八幡宮に引いた線と平行になります。これは偶然ではないでしょう。

鎌倉幕府成立前と成立後のいずれにもバックアップが設置され、事前設計されていたとは驚くべきことです。この種の作業・仕掛けは秦氏の得意とするところですが、実は別の時代において、彼らはこれよりはるかに緻密で複雑な仕掛けを事前設計しています。それらの謎に関してはまた別の機会に検討していきましょう。

以上で鎌足が鎌を埋めた場所の問題に最終決着がつきました…と言いたいのですが、どんなものでしょう。浄妙寺では納得できないし、杉本寺にしても果たして行基や円仁が本当に訪れているのか、確証はありません。浄妙寺と杉本寺を一括りにするのもやや強引ですし…。

ただ、行基や円仁が来ていないにしても、この場所に彼らの伝承が残っているのには、それに見合った何かが必ずあるはず、とも思います。いずれにせよ、まだまだ論考に無理やよく練られていない部分がありそうなので、ご意見やご批判を頂ければ幸いです。
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