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歴史に秘められた謎を解く その2


秦氏景教徒説という議論があります。これは佐伯好郎氏が1908年に『太秦を論ず』で唱えたもので、秦氏の京都における本拠地太秦とキリスト教が盛んだった古代ローマが大秦と呼ばれていた関係などを論拠としており、日ユ同祖論に繋がっていく重要な論考ではあります。

しかし一方で、秦氏原始キリスト教徒説、秦氏イスラエル10支族説などもあり、加えて秦氏はミトラ教、仏教、道教、陰陽道、神道、修験道などの要素も自分の中に持っています。秦氏の出自も同様に諸説あって、朝鮮半島、中国、巨丹(現在の新疆ウイグル自治区和田)、イスラエルなどが挙げられています。

さあ、大変!!秦氏の実像はどのようなものか考えるだけで、眩暈がしてきそうです。では、彼らはどんな一族であると考えればいいのでしょう?酔石亭主の見解は次の通りです。

秦氏は景教徒、仏教徒と言った枠組みに収められる矮小な存在ではない。世界史レベルのあらゆる要素を自分の中に包含してしまう摩訶不思議な一族である。彼らの実像を把握するには、グローバルな視野に立って、できる限り俯瞰的に見ていくしかない…などと大風呂敷を広げては、最後に収拾がつかなくなるかもしれません(笑)

ただ、秦氏景教徒説を検証する中から見えてくるもののありそうなので、今日はこの説について考えてみたいと思います。

秦氏と関係の深い人物に空海がいるのですが、空海の高野山には『大秦景教流行中国碑』という石碑が置かれています。この石碑は中国にある石碑のレプリカで、E.A.ゴルドン夫人という女性(1851年イングランド生れの人物)によって建てられました。ゴルドン夫人は空海が長安で景教を学んだと考え、石碑を高野山に建てたそうです。この点に関しては、司馬遼太郎氏も『空海の風景』の中で空海が景教を学んだ可能性について言及しています。

では元になった『大秦景教流行中国碑』とはどのようなものでしょうか?岩波書店の『桑原隲藏全集 第一卷 東洋史説苑』によればこの石碑は唐時代に建設されたもので、その当時支那に流行した、キリスト教の一派のネストリウス派に関連する古碑である、としています。では次に、景教について見ていきましょう。以下Wikipediaより引用します。

ネストリウス派(ネストリウスは)とは、古代キリスト教の教派のひとつ。コンスタンティノポリス総主教ネストリオスにより説かれ、431年、エフェソス公会議において異端として排斥された。中国においては景教とも呼ばれる(ネストリウスはラテン語式表記で、ネストリオスはギリシア語式)。中国へは、唐の太宗の時代にペルシア人司祭「阿羅本」(アラボン、オロボン、アロペン等複数の説がある)らによって伝えられ、景教と呼ばれた。当初、唐の朝廷は初期には皇族を含めて支配層が濃厚な北族(鮮卑・匈奴など)的要素を有したこともあり、景教や仏教など、非中華由来の宗教に寛容で、信仰を容認、保護したため、盛んであった。

この景教が唐に入り、空海も接触を持ったと思われるのですが、以下大秦寺に関してWikipediaより引用します。

中国への景教の伝来は、635年にネストリウス派宣教団が長安に到着したことから始まる。『唐会要』によると、このとき太宗の命により、宰相の房玄齢が宣教団の団長阿羅本(アラホン、アロベン)を迎えたとある。時の宰相が出向いていることを考えると、少なくとも朝廷に対する何らかの働きかけを行った者が、既に長安で活動していた可能性が高い。これほどの高官の歓待を受けたことより、宣教団には西域の何処かの国(サーサーン朝ペルシアが有力か)からの外交使節的な意味合いが含まれていたとも考えられている。
3年後の638年に景教は唐により公認され、長安に寺院が建立されることとなった。この段階では「波斯寺」(あるいは「波斯経寺」、波斯はペルシャのこと)と呼ばれており、「大秦寺」の名称は使われていなかったが、745年に教団の名称が「波斯経教」、「波斯教」から「大秦景教」に変更されたため、朝廷側からの寺院の呼び名が「波斯寺」から「大秦寺」に改称された(『旧唐書』大秦寺の条参照)。これは、キリスト教が大秦国で(すなわちローマ帝国で)生まれた宗教であることを、唐側が認知したからといわれている。


秦氏の日本渡来は時代的に唐代以前と考えられ、彼らは唐に伝わった景教を信奉する一族でないと考えられます。(秦氏は景教についての知識を持っていたと推測はされます)また上記のように大秦とはローマ帝国を意味しているのですが、大秦という言葉は後漢書に既に出ています。以下大秦に関するWikipediaよりの引用です。

後漢書
「和帝の永元九年(97年)に西域都護の班超が甘英を使者として大秦に派遣した」
大秦の初出である。この後甘英はシリアにまで到達し、地中海を渡って大秦へ赴こうとしたが、パルティア人の船乗りに「大秦までは長ければ二年以上も航海せねばならず、長期間陸地を見ないために心を病んで亡くなる者さえいる」と言われたために大秦に行くことを諦めたとの記述がある。


漢の時代、ローマは大秦と呼ばれていた。これは何を意味するのでしょう?それを考える前に始皇帝の秦に関して見ていく必要があるでしょう。以下秦に関するWikipediaよりの引用です。

紀元前900年ごろに周の考王に仕えていた非子が馬の生産を行い、功績を挙げたので嬴の姓を賜り、大夫となり、秦の地に領地を貰ったという。 伝説上では嬴姓は帝舜の臣伯益が賜ったとされている。秦は殷の紂王に仕えた奸臣悪来の末裔とされるが、後に秦が西戎の覇者となった事、非子が馬の生産に携わっていたことから西戎の一派であったという説もある。秦が最初に興った場所は現在の甘粛省礼県であったらしく、この地より秦の祖の陵墓と目されるものが見つかっている。

甘粛省は中国大陸の北西に位置しており、西に新疆ウイグル自治区と接しています。上記の記述から始皇帝の秦は、西戎の一派つまり西域から渡来した一族であることが窺えます。ちなみに巨丹も新疆ウイグル自治区内にあります。(前回方丹のグーグル地図画像を載せ忘れたので、ここに載せます)


大きな地図で見る
赤い印が方丹(和田)です。詳しい位置関係は拡大して見てください。

そこで、ローマ帝国が大秦であるとは、始皇帝の秦の大本が西域よりさらに西方にあることを示唆しています。多分漢代においてもそのような印象が残っており、ローマ帝国を大秦と呼んだのでしょう。

秦氏景教徒説を検討する中で抽出できるものがありました。秦は少なくとも西域より西に起源があること。よって秦の始皇帝及び徐福の子孫と自称する秦氏も、その出自を辿ると朝鮮半島、中国、西域(巨丹)にとどまらず、さらに西のエリアに行き着く可能性があると言うことです。

            ―歴史に秘められた謎を解く その3に続く―
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