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千畳敷カールへ行きました その1


女房殿より急に千畳敷カールを見たいとのご託宣があり、急きょホテルを予約して行ってきました。行く以上は酔石亭主が興味を覚える場所も多少は見ておきたいので、中央構造線が走る杖突峠越えをして高遠に抜けるというルートを辿ります。

茅野辺りまで来ると、諏訪大社のことが頭に浮かんできました。とにかく謎の多い神社だという印象があり、あれこれ現地を深掘りしたいのですが、最低でも10日程度はかかりそうで、藤沢から行くとなるとそう簡単ではありません。

ただ、超有名神社であるため多くの方が既に詳細な調査報告をアップしており、ネット検索するだけでかなりの情報を仕入れることが可能です。ということで、それらを参考にしつつ諏訪大社の謎に探りを入れてみましょう。最初にお断りしておかなければならないのは、現地調査なしで書いているので見当違いの内容があるかもしれない点です。その場合はご指摘いただければ幸いです。

諏訪大社に関してまず疑問が湧くのは、上社と下社の間が10km以上も離れており、どんな理由で離ればなれになったのかが不明な点です。この疑問、実は中央構造線と糸魚川・静岡構造線を念頭に置くとあっという間に解消します。下社は中央構造線が糸魚川・静岡構造線によって断ち切られた場所にあり、上社(というより上社前宮ですが)は一旦断ち切られた中央構造線が復活し新たに続いていく場所にあるのです。


大きな地図で見る

グーグル地図画像上では杖突峠から最も右上の152号線標識に至る谷筋が中央構造線となります。152号線標識横の扇状地に上社前宮があり、尾根を挟んだ左やや上側の扇状地には神長守矢家祈祷殿、御頭御社宮司総社などがあり、そのさらに左側が上社本宮という構成になっている訳です。杖突峠から高遠に下る谷筋の左手の山が守屋山で、諏訪大社の本来の神体山になります。

つまり、構造線の発する気が一旦死に、再生する場所を選んで諏訪大社は建てられているのです。また諏訪大社が創建された当時の諏訪湖は現在よりも広い面積となっており、上社、下社ともに諏訪湖の湖岸に近いところにあったと考えられます。

諏訪大社でも死と再生のキーワードが出現しました。もしかしたら、死と再生を象徴する神事が諏訪大社にもあるのでは…、という視点から見廻しますと…、ありました。御室神事(みむろしんじ)です。

内容は大変複雑怪奇で、現場を踏んでいない酔石亭主では歯が立たないのですが、要は前宮の周辺に半地下の室を造り、ミシャグジ神と共に冬籠りする神事です。酔石亭主が注目するのは御左口神(ミシャグジ神)とソソウ神の神婚の儀式で、ミシャグジ神は石神(つまり陽根を表す)であり、ソソウ神はオソソという言葉から連想されるように女陰を表しています。

御室神事は、室に籠り(=死に)神婚により再生する神事です。御室神事の核になるのは死と再生ですが、アマテラスの天岩屋戸と同様に、穴に入って出ること自体が死と再生の象徴となるでしょう。そして御室神事の背後には、格闘する二つの構造線があったのです。

その相似形として、土着の神とされる洩矢神(もれや)の子孫守矢家(神長=じんちょう)と、彼らを破った出雲産鉄系の建御名方神の子孫である諏訪家(大祝=おおはふり)があったとは考えられないでしょうか?戦に敗れた守矢一族はしかし、神長官として引き続き祭祀や神事を担当しました。

諏訪大社を極めて大ざっぱに見れば、土着の神とされる洩矢神(もれや)の子孫守矢家(神長=じんちょう)を基層として、その上に出雲からやって来た建御名方神の子孫である諏訪家(大祝=おおはふり)が乗っかっている構図になると思われます。

次に謎の神であるミシャグジ神を取り上げましょう。ミシャクジ神についてWikipediaによれば以下の通りです。

ミシャグジ信仰は東日本の広域に渡って分布しており、当初は主に石や樹木を依代とする神であったとされる。地域によっては時代を経るにつれて狩猟の神、そして蛇の神で蛇の姿をしているという性質を持つようになったと言われている。その信仰形態や神性は多様で、地域によって差異があり、その土地の神や他の神の神性が習合されている場合がある。

信仰の分布域と重なる縄文時代の遺跡からミシャグジ神の御神体となっている物や依代とされている物と同じ物が出土している事等からこの信仰が縄文時代から存在していたと考えられている。諏訪地方では特に諏訪の蛇神であるソソウ神と習合されたためか白蛇の姿をしているともいわれており、建御名方神や洩矢神(モレヤ神)と同一視されることもある[1]。また御社宮司、御左口など多くの漢字があてられる。

この神を祀っていた守屋神社(もりやじんじゃ)では、神官に憑依して宣託を下す神とされた。また1年毎に八歳の男児が神を降ろす神官に選ばれ、任期を終えた神官が次の神官が決まると同時に人身御供として殺されるという「一年神主」の伝承も残る。


シャグジ神は別の場所では赤口神、尺神、杓子神、社宮神などとも表記され、音も微妙に異なって、実体が不明のように思えます。一般的には縄文時代の木や石に宿る精霊をシャグジ神としたのでしょうが、次第に道祖神・賽の神すなわち境界を司る神猿田彦に収斂していき、シャグジ系の神は猿田彦とされるようになったのでしょう。

シャグジ神が猿田彦であれば、ソソウ神は猿田彦の妻天鈿女命(あめのうずめ)のはずで、この神はアマテラスが天の岩屋戸に隠れたおり、日本史上最初のストリッパーとして妖艶な舞を披露し、岩屋戸を開かせた神です。諏訪地方に多く見られる双体道祖神は、諏訪大社における猿田彦と天鈿女命の反映ではないでしょうか?アマテラスの死と再生を見届けた天鈿女命であれば、御室神事の意味も良くわかっているはずですね。

ちなみに双体道祖神は神奈川がルーツとの説もあります。だとすれば酔石亭主の居住地藤沢市内にも…、ありました。

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藤沢市上村の双体道祖神。

元の道祖神はぼろぼろに風化しており、真ん中のものは昭和になって再建された道祖神です。そして道祖神の横には…、何と社宮神が鎮座しているではありませんか。

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社宮神の社です。

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解説板。

双体道祖神と社宮神がセットで同じ神域に置かれているとすれば、両者は一体と考えられます。すなわち、社宮神は猿田彦で、双体道祖神は猿田彦と天鈿女命なのです。藤沢市には諏訪神社上社と下社があり、本家諏訪大社以外に上、下があるのは全国25,000社を数える諏訪神社中藤沢市の諏訪神社のみです。神奈川が双体道祖神のルーツであるという説の根拠はこんなところにあるのかもしれません。

でも、なぜ神奈川なのでしょうか?実は双体道祖神は秦野市内にかなり密集しています。秦氏と猿田彦は関係が深いことから秦野市内に双体道祖神が多くあるとの推測も成り立ちそうですが、両者について別の角度から検討してみましょう。播磨の坂越は秦河勝終焉の地とされ、彼を祀る大避神社があります。Wikipediaによれば以下の通りです。

(大避神社は)坂越浦に面して鎮座する。 神社の創立時期は明らかではないが、千種川流域を開墾したとされる秦河勝が大化3年(647年)に没し、地元の民がその霊を祀ったのが始まりとされる。

佐古志という地名は、かつて(しゃくし)と呼ばれており、坂越の船祭りでは猿田彦が登場します。驚いたことに、秦川勝の没地は猿田彦の領域だったのです。秦氏の最有力者秦川勝と猿田彦の間には濃厚な関係があると見て取れますね。猿田彦は境界の神ですが、地元の石や性に対する素朴な信仰を猿田彦の神格が覆って、全国に道祖神が作られたのでしょう。日本に封印された謎を探る上で、猿田彦は秦氏と並ぶ重要メンバーですから目を離せません。

話がどんどん横道にそれていますが、お付き合いください。諏訪大社が次には鎌倉までそれていきます。

通常シャク神と言えば石神とおしゃもじ様の2系統があるのですが、海棠で光則寺に次いで有名な鎌倉の妙本寺には、飛びっきり異様なシャク神が鎮座しています。では方丈門の手前を左に入って階段を登りましょう。

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寺域の案内板です。案内板左側の17が蛇苦止堂です。じゃくし堂と読むのでしょうか。

お堂の名前を見ただけで、怖いイメージが頭の中に広がります。これがおしゃもじ様と同系列の神様なのだろうかと疑問も湧いてきます。実際、お堂が建立された背景には比企一族の滅亡という凄惨な出来事がありました。

方丈門から結構な距離を歩くとようやく蛇苦止堂が見えてきました。お堂以外に、仰々しく囲われた井戸、祠や石碑、暗い池もあって重苦しい雰囲気に包まれています。なのに、お堂のすぐ横には民家がありました。こんなおどろおどろしい場所に家を建てるとは、よほど胆力のある方なのか、あるいはお寺の関係者ということなのでしょう。

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蛇苦止堂。

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扁額。

さてお堂には源頼家の側室若狭局(比企能員の娘)が蛇苦止明神として祀られています。若狭局については以下Wikipediaより引用します。

若狭局(わかさのつぼね、生年未詳 - 建仁3年(1203年))は、鎌倉時代初期の女性。鎌倉幕府の御家人、比企能員の娘。鎌倉幕府二代将軍源頼家の側室。頼家の嫡男一幡の母。竹御所も若狭局の所生とされる。父能員は初代将軍源頼朝の乳母・比企尼の甥であり、その縁故によって頼朝の嫡男・頼家の乳母父となった。頼家の側室となった若狭局は建久9年(1198年)、頼家が17歳の時に長子一幡を生む。一幡が6歳になった建仁3年(1203年)8月、病となった頼家が危篤状態に陥り、その家督相続を巡り若狭局の一族比企氏と、頼家の母方の外戚北条氏との対立による比企能員の変が起こる。9月2日、能員が北条時政によって謀殺され、知らせを受けて一幡の屋敷である小御所に立て籠もった比企一族は北条義時率いる大軍に攻められ、屋敷に火を放って自害し、一族は滅亡した。『吾妻鏡』では一幡と若狭局もその時焼死したとしているが、『愚管抄』によると一幡は母が抱いて逃げ延びたが、11月になって北条義時の手の者によって刺し殺されたという。

なぜ若狭局はかくも恐ろしい名前で祀られているのか。それは比企一族の滅亡が北条氏の陰謀だったからに他なりません。北条軍に攻められ若狭局は井戸に飛び込んで自害したとされるのですが、それが蛇苦止ノ井戸だったです。

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蛇苦止ノ井戸。ピンボケです。

若狭局が非業の死を遂げてから約60年後、七代執権となる北条政村の娘は、舌を出して唇を舐め、身を動かして足を伸ばし、蛇が出現したような狂態を見せたそうです。若狭局の祟りを恐れた政村は、彼女を蛇苦止明神として祀る社を建立したのですが、それが蛇苦止堂とされています。

井戸の囲いには、何やら書きなぐった板が掲げてあります。目を凝らして見ると、轉輪聖王、阿修羅王、鬼子母神、八幡大菩薩、天照大神などと書かれています。最高レベルの神仏を総動員して、若狭局の祟りを封じ込めているように見えます。彼女の恨みがよほど深く恐ろしかったのでしょうね。

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神仏名を書いた板。

比企一族の墓所の手前に若狭局の子である一幡の廟所があります。

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源頼家御嫡男一幡君御廟所と書かれています。

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その背後には比企一族の墓所が。


墓所の後ろには大きな銀杏の木が聳えていますが、石段を上がったところに石塔が…。

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石塔

彫られた文字を読んでみると…、讃岐局蛇苦止霊之墓とあります。これはどうしたことでしょう?北条への恨みを抱いて死んだのは若狭局のはず。それがなぜか讃岐局に変わっているのです。この謎を解くには、父親の比企能員から調べる必要がある。そう思いWikipediaを見ると…。

比企 能員(ひき よしかず)は平安時代末期、鎌倉時代初期の武将。鎌倉幕府の有力御家人。阿波国出身といわれる(『愚管抄』)。藤原秀郷の流れを汲む比企氏の一族。源頼朝の乳母である比企尼の甥で、のちに養子となる。
比企尼の縁から鎌倉幕府二代将軍源頼家の乳母父となり、娘の若狭局が頼家の側室となって嫡子一幡を産んだ事から権勢を強めたが、能員の台頭を恐れた北条時政との対立により比企能員の変(比企の乱)が起こり、比企一族は滅亡した。


阿波は徳島県で讃岐はお隣の香川県、場所的にはすぐ近くです。ということは、源頼家の側室としては若狭局でしたが、比企一族の中では出身地から讃岐局と呼ばれていたと考えられます。酔石亭主が幼少だった頃、近くに東京から来たお婆さんがいたのですが、母親は東京婆さんと呼んでいました。それと似通ったケースと考えれば、若狭局と讃岐局は同一人物であると判断されます。蛇苦止霊に手を合わせお寺を辞去しました。

以上、シャク神には石神、おしゃもじ様以外に蛇神としての属性まで付与されたようです。

旅の紀行文のはずが、脱線しまくって別物になってしまいました。次回も引き続き諏訪大社の謎について書きたいと思います。

            ―千畳敷カールへ行きました その2に続く―

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