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千畳敷カールへ行きました その3

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07 /30 2010

シリーズ3回目でようやく杖突峠に到着。遅々として前に進みません。

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杖突峠から見下ろす茅野の町並み。縄文時代にはこの辺りも湖だったのでしょう。

杖突峠に駆け上がった中央構造線は藤沢川に沿って下ります。突如酔石亭主の居住地名と同じ藤沢が出てきました。ちょっと気になりますが、152号線を杖突峠から高遠方面へと走ります。しばらく下ると山裾に神社が…。

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物部守屋神社の鳥居です。扁額には「従六位物部連比良麿謹書」と書かれています。

扁額自体は明治時代のものですが、ここで唐突に物部氏が登場しました。一体どうしたことかと首を傾げてしまいます。また諏訪側ではなく伊那側にあるのも解せません。

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拝殿です。

お年寄りが二人おられ、お話を聞いてみました。こんな山奥にある社なのに、村人が毎日交代でお参りしているそうです。地元で深く崇敬されているのでしょう。奥宮もお参りするように言われ、拝殿裏の階段を登ります。

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奥宮(本殿)です。

畏れ多くて見てはいないのですが、奥宮の中には半地下の石室があり、石が収められているそうです。また灯籠には社宮司と彫られていました。これらから判断すると、物部守屋神社の祭神は物部守屋なのに、実体はミシャグジ神ということになります。

物部守屋に関して、八尾市には「鏑矢塚」があって迹見赤檮(とみのいちい)が樹上の守屋を射抜き、その鏑矢が落ちたところにその矢を埋めた、とされています。また守屋山の山頂には祠があって、弓が捧げられています。物部系の石上麻呂は弓を鳴らす呪術を得意としていました。

物部氏の弓を鳴らす呪術は、守矢家の蟇目(ひきめ)祈祷と鳴弦(めいげん)法と関連しているのでしょうか?とにかく諏訪大社には、守矢家の神事も含めて弓矢が多数出現しています。だとすれば、守矢家の神事の多くは物部氏から伝わったものなのでしょうか?
調べる手立てはなく、疑問は尽きません。さすがに諏訪大社関連は謎が多くかつ深いと、改めて思い知らされました。

そう言えば秦氏の祖の一人に弓月の君がいましたが…、関連は薄そうです。諏訪を頂点に弓なりとなっている中央構造線を糸魚川・静岡構造線が切り裂いて、その様が弓矢のようにも見えるのですが、あまりにうがった見方でしょうね。

なお守矢家の言い伝えでは、神長官裏の古墳は蘇我氏との戦に敗れた物部守屋の次男である武麿のもので、武麿が初代モレヤ神になったとされているようです。この話にも首を傾げたくなります。なぜならモレヤ神は大和朝廷以前の神とされているはずですから。

そもそも物部系の神社に、石上神宮は別格として目立った社はなく、祭神も宇摩志麻遅命(ウマシマジ)饒速日命(ニギハヤヒ)を祀るものがほとんどで物部守屋神社の祭神が物部守屋というのは納得し難いものがあります。(後で取って付けたものという感じがしました)

また他の物部系の神社を見ても、守矢家ほどの神事や祭祀を持っているところはなさそうです。断定はできないのですが、物部の一族が諏訪に逃げ込み、伝統ある守矢家に入り込んだ結果、物部守屋とミシャグジ神が祀られる物部守屋神社になったのではないかと推測されます。

数々の疑問を抱えながら152号線を下ると、古い町並みが現れます。ここは甲州街道金沢宿に向かう金沢道、杖突峠を経て茅野・諏訪方面に出る杖突道が合する交通の要衝で、御堂垣外宿(みどうがいと)というちょっと変わった名前の宿場町でした。

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御堂垣外宿の町並み。

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玄関が唐破風(からはふ)の格式高い構えですが、残念ながら無人となっているようです。

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古いお宅です。

無住になって久しいようで、家屋は朽ち果てようとしています。こちらの玄関も唐破風です。

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御堂垣外宿の集落です。のんびりした風情が漂っています。

この地には本陣も置かれていたそうです。古い街並みの写真を撮りながら主な家の表札を見ると、全部藤澤さんでした。

藤沢川に藤澤家。酔石亭主の藤沢市と同じではないですか。これは絶対に何か関連があるはず。そう睨んで調べてみました。紀行文のはずが鎌倉の地名由来に続いて、藤沢の地名由来を考える、になりそうな雰囲気です。

御堂垣外宿のある藤沢郷は代々諏訪大社(上社・下社)の領地となっていたようです。藤沢氏は建御名方から綿々と続く大祝の家系から出ており、藤沢谷(藤沢川)は藤沢氏の支配下にありました。家系図ははっきりしないのですが、諏訪大社の大祝である敦貞ないしは貞方の子孫神次親貞が藤沢谷を支配することとなり、藤沢神次として藤沢氏の始祖となったようです。なお藤沢郷の地名は建御名方がモレヤ神と戦った折、藤の蔓を持っていたことにちなんでいるものと推定します。

問題となるのはここからで、神次の子が藤沢次郎清親となるのですが、彼は源頼朝に従い鎌倉幕府の御家人として縦横無尽の活躍を見せます。この話に行き着いてエッと声を上げそうになりました。藤沢市の地名は藤沢次郎清親に由来する可能性が高いと思われたからです。

中央構造線に興味を持つ酔石亭主の居住地藤沢が、中央構造線の走る藤沢川とその地の支配者に由来していたとは、一体何の因果なのでしょう。摩訶不思議な縁を感じざるを得ません。

びっくり仰天しながら藤沢市のホームページで地名由来説を見てみると、

「藤沢」の地名の起源については、巷(こう)間に諸説があります。
ア.藤(ふじ)の多い水辺の地、
イ.藤沢次郎清親(鎌倉時代)の居住地、
ウ.淵(ふち)や沢の多い土地、
などが代表的なものです。
しかし、藤沢がとくに植物の「ふじ」に関係が深いア.とは考えられませんし、イ.の人名と地名との関係については、むしろ地名が先で、人名が後だとする見方が強く、従って、淵沢(ふちさわ)が藤沢(ふじさわ)に転化したとする説ウ.が最も妥当と考えられています。


藤沢次郎清親の名前こそ登場するものの、ホームページの説明では根拠が示されておらず、さっぱりわかりません。そこで、藤沢市文書館が昭和五十一年三月にまとめ上げた「藤沢市史料集(二)」を参照します。実はこの資料、デジタル化されたものがネット上にあり、公的な文書との理解で以下引用させていただきました。

文政13年 我がすむ里 小川泰三著
藤沢駅大略
此藤沢の開闢し事ハ何れの時と云事を志らず、愚考ふるに、人王八十二代後鳥羽院の御時、建久四年発丑三月右大将頼朝卿、藤沢次郎清親に奉行せしめ、藤沢の谷に神居の地を占、三嶋明神の祠を造営ありしこと、三嶋山の旧記古文書に見たり、総て当地は、樹木生茂り森々たる溪澗にて、三本松虚空蔵山より藤の蔓(つた)生出て、此処の桧、彼処の椙に這■(夕+寅)(まつは)り、遙に音なし川の流をさへうち越て、金砂山の藤塚に及ぶ、藤塚藤松の名、今に存せり、斯まで藤の茂り合たる沢ゆへ藤沢とは呼なしたるなるべし、次郎清親も?に住しゆへに、藤沢次郎といひしならんか

天保13年 鶏肋温故(けいろくおんこ)平野道治編著
藤沢発端
藤沢の開闢せる事、何れの時と云ことをしらす、按するに、人皇八十二代後鳥羽院の御宇、建久四年癸丑三月、右大将源頼朝卿即チ藤沢次郎清親(1)を奉行として、瑞光の側(カタハラ)ニ三島明神(2)を勧請し奉るよし、三島山旧記ニ見へたり、依て当駅を藤沢と号する事ハ、此藤沢次郎爰に住居せしによるもの与、但し藤沢と云名ハ本より呼来り、清親ここに住居せし故に藤沢次郎といひしにや、


やや読みにくいのですが、要は藤が茂った沢ゆえに藤沢と呼んだ、その名は前からあって、次郎清親もここに住んだから藤沢次郎と呼びなしたのだろう、というものです。藤沢市の見解は上記資料を参考に人名説は捨て、藤が多いというのも捨て、淵や沢が多いから淵沢でそれが転化して藤沢になったとしているのでしょう。

しかしです。藤沢駅大略は、次郎清親は藤沢に来たから藤沢姓を名乗ったとしていますが、そうではなく、彼は高遠の藤沢谷に入った藤沢神次の子であるから藤沢姓を名乗った人物のはず。さらに藤沢市のみに諏訪大社同様、諏訪神社が上社、下社の2社ある点、藤沢と辻堂に社宮神を祀る社がある点、双体道祖神もある点など、藤沢氏の影響があってのことと考えられ、であるならば、影響を与えた側の名前が藤沢市の地名由来となるはずです。また藤沢市は低い丘陵しかなく、深い川の淵ができるような地形は存在しないと思われます。

上記の根拠より、藤沢市の見解に疑問を呈さざるを得ません。

以上は酔石亭主の少ない資料を元にした独断ですが、藤沢次郎清親より地名が先で、淵沢が藤沢ということなら、その根拠となる別の資料をぜひ見たいものです。藤沢市の地名由来が高遠の藤沢と確定できれば、両者が提携関係を結ぶこともでき、人の交流が深まるでしょう。早くそうなればと願っています。ちなみ清親は弓の名手です。諏訪大社に出現する弓矢と関連があるのでしょうか?

実はもう一点不明なことがあります。御堂垣外宿(みどうがいと、みどうかいと、とも読める)という宿名の由来です。まず御堂とは何を指すのでしょうか?通常お堂は阿弥陀堂を指しているはず。次に垣外は屋敷や村落の囲いの外を意味します。であれば、この地のどこかに阿弥陀堂があって、村は堂域の外だったということでしょうか?その考え方はどうも腑に落ちません。外であると言うなら関係がない訳ですから、わざわざ外と書く必要はないからです。

念のために垣内を調べてみると、これもかいと、がいとと読みます。元々垣内だったものが、がいと、という音から垣外に転じたとすれば、御堂垣外宿とは阿弥陀堂の堂域内にある宿という風にも考えられます。阿弥陀堂がここにあるかもわからず、これ以上纏めきれませんので、御堂垣外宿はこの辺で終わりにしましょう。

千畳敷カールがいつのまにか藤沢の地名由来を考えるになってしまいました。寄り道ばかりでなかなか目的地に行き着けません。こんな旅行記はないですね(笑)

          ―千畳敷カールへ行きました その4に続く―
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酔石亭主

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