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日本に秘められた謎を解く その2


秦氏に関して知っている人はそれほど多くないでしょうが、空海の名前なら誰でも知っているはずです。空海は超人空海と形容されるほどの人物で、日本史上にも異彩を放っており、また一方で謎の多い人物とされています。それは同時代の最澄と比較すれば一目瞭然でしょう。

秦氏が背後に控える聖徳太子もまた、有名ではありますがその実在性が議論になるほどの謎に満ちた人物です。聖徳太子信仰は空海の弘法大師信仰へと流れ込み、秦氏系の様々な技能集団によって担われてきました。

聖徳太子と空海は誰でも知っている。しかし秦氏について知る人は少ない。この背後には、間違いなく何らかの事情があるものと考えられます。

空海の人となりについては、既に様々な論考が出されています。読みやすいのは司馬遼太郎氏の『空海の風景』で、専門性が高いのは渡辺照宏氏と宮坂宥勝氏共著の『沙門空海』あたりでしょうか。それらの基礎的な内容も踏まえつつ、秦氏が重視する空海とはどのような存在であったのか、酔石亭主独自の視点で考えていきたいと思います。

秦氏は、何事においても裏に廻り、自分の思想的根拠を表に出しません。だから一般には知られていないのですが、そうした彼らの考えや、活動の背景を知るには、秦氏の思想の一部を体現している空海を探る必要があるのです。言い換えれば、空海は秦氏の謎を解くための鍵の一つと考えられます。では、空海のありようを追及しながら、秦氏の実像に迫っていきましょう。

まず空海の活動をざっと概観していきます。彼は、延暦11年(792年)に19歳で、『虚空蔵求聞持法』を一人の沙門(秦氏の勤操という説もあり)から授けられました。この法は空海にとって極めて重要なはずなのに、伝授した人物の名がぼかされています。その裏には、隠された事情があるはずです。ともあれ、ここが彼の人生におけるスタート地点となりました。

その後秦氏の秦楽寺において最初の著作『三教指帰』を著し、以降入唐前までの7年間、行方不明となります。紀伊や四国で修行を積んでいたとの説もありますが、どこで何をしていたのか確認できる資料は一切ありません。そして、延暦23年(804年)31歳で唐に渡り、密教最後の法灯を伝える恵果に、その死の直前という切羽詰ったタイミングで、師事します。ここで空海は、真言密教の真髄を学びました。帰国後は、日本において数々の活動を行い、46歳で高野山の伽藍建立を開始。承和2年(835年)62歳で高野山において入定します。

次に空海の思想を見ていきましょう。空海が恵果から学んだ真言密教は、大日如来が須弥山色界の最上層色究竟天(しきくきょうてん)において『大日経』を説き、金剛宮において『金剛頂経』を説き、それが印度から唐へと伝えられたものでした。

ところが空海の時代、印度、唐において『大日経』、『金剛頂経』の両部を兼ね備えていたのは、恵果ただ一人だけ。このような時代背景において、空海は唐の青龍寺で恵果に師事し、密教は印度から中国を経て日本に流れ込んだのです。

真言密教では、宇宙の根本原理を大日如来として表現し、大日如来が陰と陽に分かれたものを、大日経系(胎蔵界=物質の原理を説く=理)と金剛頂経系(金剛界=精神の原理を説く=智)の二つに配当しました。この二つは相反する原理であり、これを統一するのが行者になります。大日如来=宇宙の原理には身、口、意の働き、すなわち三密があり、人間の活動機能も同様に、身、口、意の三業に分けられます。

行者は行法により、自身の三業を宇宙の三密と一体化します。それが可能なのは、人間のありようが、宇宙のありようと同じだからです。もし人と宇宙とのありようが同じでなければ、人は一瞬たりとも生きてはいけない。真言密教の真髄とは、大日如来=宇宙の原理と人の原理の一体化を体得する実践法だったのです。

空海の世界観にあっては、この宇宙も人も、大日如来がある形を取って顕現したものです。従い、世界のありようも、人のありようも皆同じです。しかし現象世界に顕現する際に、その現れ方には差異があるので、同じ人間でも、酔石亭主とこれを読まれている皆さんは別の人格、別の考えを持っているのです。

従って、個々の差異性を克服すれば、自分自身の根源である大日如来すなわち宇宙の原理と、己を一体化できる。このシステムこそが、空海が完成した真言密教に他なりません。これを空海の言葉を借りれば即身成仏というのです。空海が凄いのは、この宇宙の真理を表す体系の理解と、それを己の身で実現するための実践論があることでしょう。千年以上も前に宇宙の原理を悟った空海の智恵は、恐るべきものであったのです。

空海の真言密教は、思想と実践が結びついた壮大な体系であるものの、それ自体に矛盾した部分はなさそうです。しかし、空海が帰国した時点で、インド、中国に密教の両部を知る者は存在しなかったとは、話ができすぎているようにも感じられます。また遠い異国の地で空海はどのようにして真言密教を学んだのでしょう?

空海が秦氏から伝授された『虚空蔵求聞持法』の特徴の一つは記憶力の増進法です。仮に空海が、『虚空蔵求聞持法』を伝授されていなかったら、恵果の唐語やサンスクリット語はまるで通じません。真言密教の体系を瞬時に学び取り、記憶し、自分のものとするなど不可能となるのです。

またその資格も資金もないのに、遣唐使船に乗り得たこと。この遣唐使船は総勢4船でしたが、最澄と空海が乗り込んだ二船のみが無事唐に辿り着いていること。加えて、密教の正統を伝承していた唯一の人物である恵果から、彼の死の直前に、その真髄を伝授されたこと。これらが単なる偶然と片付けられるのでしょうか?どれを取っても信じられない程の僥倖です。

空海の幸運には、ある種の必然性があった、というより、全ては事前に仕組まれていたと考えるべきではないでしょうか?言い換えれば、『虚空蔵求聞持法』を学ぶことで空海の人生はある一定方向に自己展開を始めたのです。一種のマインドコントロールと考えてもいいですね。

さて、空海から『虚空蔵求聞持法』を学んだ秦氏系の道昌は山背国法輪寺の開祖で、ここの虚空蔵菩薩は日本三大虚空蔵の一つとして、漆器業や工芸職人の守護仏になっています。虚空蔵信仰は鍛冶・鋳造に結びつき、山岳信仰や弥勒信仰などとも合流していくのです。道昌はこの寺の名を、聖徳太子追善のため大和国斑鳩に建てられた法輪寺から借りました。
これらは何を意味するのでしょう?

そう、聖徳太子、空海、聖徳太子信仰、弘法大師信仰、陰陽道、修験道、虚空蔵、鍛治、鋳造や大工が同じ流れの中に収まることを意味します。聖徳太子信仰と弘法大師信仰は同質であり、その裏側にいる者はいずれも秦氏ということです。しかも、聖徳太子信仰の流れを汲む四天王寺、中宮寺、橘寺、広隆寺、法起寺、葛木寺は、法隆寺を除き、本尊を弥勒半跏像としているのです。

秦氏は聖徳太子、弘法大師の双方に、弥勒菩薩(=ミトラ神)信仰と虚空蔵信仰の流れを請け負わせました。その結果、太子と大師の信仰は世に遍く広まった、いや、広まる必要性があったのです。

以上から判断して、秦氏は空海に対して何らかの操作・作為を行ったと考えられます。空海が一人の沙門から『虚空蔵求聞持法』を伝授されたことが、そのまま一直線に、後の彼の人生を決定づけている事実がその証明となるでしょう。しかも彼の死後、弘法大師信仰が遠く現代に至るまで伝えられていくのです。

弘法大師信仰の背後に秦氏の思想が隠れているとすれば、秦氏は随分ややこしい仕掛けを作ったことになります。一般的に言って、仕掛けは何のために作られるのでしょう?それは、後になって意図する結果を出すために作られるはずです。だとすれば、秦氏は後世に何らかの結果が出るような仕掛けを構築したと考えられます。

秦氏の意図はまだ不明なものの、彼らは他ならぬ現在の私たちに、何かを伝えたかったのではないでしょうか?であるなら、ジグゾーパズルのようにバラバラとなっている断片を組み合わせることで、彼らが隠し、かつ伝えようとしている真実に迫れるはずです。

        ―日本に秘められた謎を解く その3に続く―
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