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日本に秘められた謎を解く その5

日本に秘められた謎を解く
08 /10 2010

秦氏の思想はほぼ明らかになりましたが、彼らの行動もまた謎めいています。そこで、今回から数回にわたって、秦氏の活動のどの部分に謎があるのかを見ていきたいと思います。

秦氏は新羅系の渡来人という意見があります。今までの検証から、彼らが新羅の民でないことは明らかですが、ではなぜ新羅系という説が出たのでしょう?それは、秦氏が新羅を経由して日本に渡来したからだと考えられます。秦氏は利用できるものは何でも自分の中に取り込んでしまう一族です。新羅にいる間に、この地の様々な要素を取り込んだことは想像に難くありません。

そのせいか、日本神話の最重要人物(=神)たちが、揃いも揃って新羅の系統に繋がっているように思えます。例えば、皇祖神アマテラス。この神は現在の天皇の祖先神とされ、弟のスサノオが問題を起こしたとき、天の石屋戸に入ったとされます。

石屋戸は通常の理解では古墳と思われますが、日本の古墳は入り口が封印され、引き戸形式にはなっていません。引き戸になっているのは、朝鮮半島にある統一新羅時代の古墳のはずです。またアマテラスを祀る伊勢神宮は秦氏の影響を受けていますが、これは既に書いているのでご存知ですね。

アマテラスの弟であるスサノオは、言うまでもなく新羅から渡来した神です。スサノオと秦氏の関係も既に検証済です。以上から、日本の最も重要な神々は新羅から渡来したと考えられるのです。

しかも、新羅の王子天之日矛の子孫が神功皇后で、皇后の子供が応神天皇でした。また皇后は、しばしば丹生都姫や卑弥呼に比定され、卑弥呼はアマテラスに比定されています。応神天皇に至っては、秦氏の大王という説もあるほどです。秦氏が新羅経由渡来したから、日本古代史は新羅の影響が強いということになりそうです。

そもそも日本初の歴史書とされる『古事記』自体、新羅よりの記述が多く、大和岩雄氏は『古事記と天武天皇の謎』(ロッコウブックス)において、『古事記』には秦氏の関与があるとしています。『古事記』の編纂を命じた天武天皇も親新羅の天皇で、聖徳太子同様謎の多い人物とされます。

『古事記』に秦氏の関与があり、その『古事記』の編纂を命じ、伊勢神宮のアマテラスを皇祖神化したのが天武天皇でした。だとすれば、当然天皇と秦氏の間には接点があったはずです。ではここで天武天皇の事績を見ていきましょう。以下Wikipediaより引用します。

即位後は飛鳥浄御原令の制定を命じ(天武10年(681年)2月)、律令国家の確立を目指す。
天皇の宗教的権威も高められた。伊勢神宮の祭祀が重視され広瀬・竜田祭が国家事業として行われた。斎宮が制度化されたのも天武朝の時代であると言われている。またこの頃から新嘗祭と大嘗祭の区別などがされ、現在にまで継承されている。仏教に対しても大官大寺等の造営が進められるとともに僧尼の統制が強化された。
天皇自身、占星を得意としたのに加え、当時陰陽道などが律令国家である唐や新羅で盛んに行われたのが影響もしてか占星台や陰陽寮も設置させている。


天武天皇は天皇制が制度として確立してからの、実質的初代天皇と言っても過言ではありません。天皇は壬申の乱で大友皇子を破り、律令制度を始めとして国家の支配・管理体制を整備していきます。これにより、天皇の権威は絶対的且つ普遍的なものとなっていきました。

天武天皇は、氏族政治から中央集権政治への転換を果敢に断行。この制度を組織的に支えるため、官僚制度を整備しました。次に、陰陽道を司る陰陽寮や占星台を設置します。陰陽寮という組織は朝廷直属の中務省の下にありました。そして天皇自身天文・遁甲・陰陽五行を自在に操ったとされます。天皇はまた『記紀』の編纂に着手し、伊勢神宮社殿の建築を始めとする神社建築を推進、神祇制度を制定強化しています。

いかがでしょう?ここまで見てきて疑問が湧きませんか?天武天皇が諸施策を実行に移したのは、天皇絶対制を確立するためです。それだけなら体制の整備だけで十分なはず。ところが天皇は官僚をコントロールするため陰陽道を取り入れ、『古事記』も陰陽五行思想の影響下に置きました。また伊勢神宮にも同様の措置を取り、女神アマテラスを皇祖神化しています。

『古事記』の場合、序の部分は陰陽五行思想の影響を色濃く受けています。序第一段には、混沌とした状態が、天地分かれ、陰陽ここに開けた―とあります。序の第二段では、天皇は二気(陰陽の二つの気)の正しきに乗り、五行の序を整え、国を治めた―と書かれています。『古事記』の記述によると、日本国の成り立ちまでもが陰陽五行そのものですね。

日本人の心を象徴する簡素で清浄なお宮とされる伊勢神宮は、日本を代表する建築物とされています。ところがです。最も日本的と思われる神域に、実は非日本的思想が深く入り込んでいます。例えば、『伊雑宮』のお田植祭の神事においては、水田に竹が立てられます。約9メートルの青竹に扇型が取り付けられ、『太一』と大書されています。

また、伊勢へ奉納する品々を積んだ船には、『太一御用』の旗が掲げられていました。20年に一度の遷宮における杣始祭(そまはじめまつり)でも、太一の文字の幟(のぼり)が見られるのです。

このように、伊勢神宮ではあらゆる場面で太一が現れます。太一とは、陰陽五行思想における原初の混沌を意味し、これが天地(陰陽)に分かれ、次いで五つの要素に分かれていきます。最も日本的なはずの伊勢神宮に、外国思想である陰陽五行が色濃く取り入れられていたのです。

天皇のこうした行動は不自然に感じられます。記紀の編纂目的が天皇絶対制の確立を内外に示し、天孫の神と豪族の神を系譜化することにあるなら、陰陽五行は必要ないはず。また伊勢神宮にしても、アマテラスを皇祖神化し社殿を建てるだけで意図するところは十分に達せられます。

では、なぜ陰陽五行なのでしょうか?また、天皇絶対制を支える目的で官僚制度を作ったのに、どうして官僚や貴族をコントロールする陰陽寮などを設置したのでしょう?平安貴族や官僚は、陰陽師のアドバイスなしには自分で何一つ決められませんでした。引っ越しですら、いつ、どの方角にするのか陰陽師と相談していたのです。そのせいか、今でも京都では他地域に比較して方角を気にする人が圧倒的に多いようです。

これは酔石亭主の直感なのですが、陰陽五行の導入や陰陽寮設置は、別の目的を持った裏の策と思われます。しかも、記紀や皇祖神を祀る伊勢神宮まで、これでがんじがらめになっているのです。がんじがらめになっている、という雰囲気を作ったのが天武天皇だとすれば、表面の支配体制の裏側に、極めて異質な体制が整えられていると考えられます。まるで二重仕掛けの装置のようですね。

天武天皇が構築した二重仕掛けの体制。これにはどんな意味があるのでしょう?一般的に言って、疑問や矛盾点のあるところには、必ず裏の目的が隠されています。天武天皇の背後に秦氏の影がちらついている以上、二重仕掛けの体制に秦氏の関与も想定されます。秦氏は何を目的として天武天皇を操ったのか?これを探っていく前に、秦氏の実体を様々な側面から検討していく必要があるでしょう。

話は急に変わります。実は秦川勝の没地について、腑に落ちない点が一つあったのです。彼の没地が播磨国の坂越であることは既に書いていますが、なぜ川勝が坂越を終焉の地としたのか、説明がつきません。猿田彦の一族が誘ったから、という考えも成り立ちますが、川勝ほどの人物なら自分の死地は必ず意味のある場所を選ぶはず。ということで、この問題に関してあれこれ考えてみました。

まず川勝が坂越に至る手段を見てみましょう。彼は「うつぼ舟」に乗って坂越の地に着いたとされます。うつぼとは、瓢箪のように中がうつろになったものを意味します。うつぼ舟とは、他界から来てこの世の姿になるまでの間、何かの中に入っていることを意味し、死と再生を象徴するものでもあったのです。そして秦川勝は、死と再生を司る一族秦氏の日本における代表的人物です。

だとすれば、坂越には死と再生を象徴するものがあり、それを求めて川勝はこの地に至ったと推定できます。そこまで考えると答えが出ました。川勝の墓は、彼を祀る大避神社の正面に浮かぶ生島にあります。生島は神社の神域となっており、島の形は大避神社側から見ると、まぎれもなく瓢箪型だったのです。

これこそが川勝が死地を坂越に選んだ理由に相違ありません。『歴史に秘められた謎を解く その9』において、秦氏=豊=匏=瓢箪=巨丹=方舟=聖櫃で、それらは全て死と再生の象徴であると書きました。ロジックの筋は一応通していますが、やや強引に結びつけてしまったという感触は今も残っています。しかし、川勝の没地から判断すれば、上記の考え方に間違いはなかったとも思えてきます。

そう、秦川勝は瓢箪の中に入って死ぬことで、いつの日か再生できるとの確信を持ち、この地を選んだのです。

            ―日本に秘められた謎を解く その6に続く―
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酔石亭主

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