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日本に秘められた謎を解く その9


もう皆さんもご存知のように、謎のあるところには常に秦氏の関与があります。そして秦氏は、平安京にあって最も重要な鬼門ライン防御の一端を担っています。だとすれば、秦氏と秦氏の関係する鬼門ライン上の神社を探ることで、平安京の謎を解く手がかりが得られるかもしれません。

ということで、これらの神社についてざっと見ていきましょう。

まず松尾大社です。Wikipediaによれば以下の通りです。

大宝元年(701年)、勅命により秦忌寸都理(はたのいみきとり)が現在地に社殿を造営し、山頂附近の磐座から神霊を移し、娘を斎女として奉仕させた。以降、明治初期に神職の世襲が禁止されるまで、秦氏が当社の神職を務めた。


松尾大社は京都嵐山にあり、祭神は大山咋神(おおやまくい)と中都島姫命です。『古事記』によれば大山咋神は鳴鏑(なりかぶら=音のする鏑矢のこと)を用いる神とされています。諏訪大社で頻出した矢がここにも出現している点は留意すべきでしょう。

ところが『秦氏本系帳』によれば、秦氏女子が葛野川上流から流れてきた丹塗矢を持ち帰ったとの伝承があります。『秦氏本系帳』はこの丹塗矢を松尾大明神としています。要するに松尾大社には丹塗矢と鳴鏑の二種類の矢の伝承が重なっていることになります。

なお、大山咋神の父親は大年神(おほとしのかみ)で、穀物神とされています。大山咋神は『古事記』によると、近江国の日枝山および葛野の松尾に鎮座し、鳴鏑を神体とするとされています。

大年神の兄弟神が食物神の宇迦之御魂神(うかのみたまのかみ)で、秦氏の伏見稲荷大社の祭神となります。この大年神の父親がスサノオということになります。松尾大社は、筑紫の宗像つまり秦王国の中都大神が松埼に天下り、秦忌寸都理が松尾に勧請して成立したとされます。

酔石亭主の目には、秦氏は自前の神様を持たない一族に映ります。元々この地には松尾の神の信仰があり、それに秦氏が入り込み社を造っているのです。また秦氏は、なぜか穀物系の神を取り込んでいるようにも見受けられます。松尾大社は桂川を望む地にあり、秦氏はここに治水施設である葛野大堰を造成しました。

松尾大社の境外摂社に月読神社があり、この神社も秦氏の影響下にあると推定できます。日本書紀では月読命は月弓命と表記されており、秦氏の祖である弓月君との関連が推定されます。月と桂はご存知のように秦氏と深い関連があり、大月には秦氏関連の地名があり、桂川と葛野川まであります。月読神が保食神の元に赴く際、桂の木に寄りついた、との記述が『山城国風土記』に見られ、両者の関係を示すものとなっています。

秦氏が月に象徴されるのは、表に出ない彼らの性格を示し、また月読命が殺した保食神の死体から五穀や蚕が生まれたのは、月神が死と再生の霊力を持つこととも関係していると理解されます。

松尾大社には数々の祭祀がありここでは書き尽せません。詳しくは白水社の『日本の神々 神社と聖地5』をご参照ください。秦氏関連の神社は、そのほとんどを大和岩雄氏が執筆しています。

次が賀茂社です。この神社は飛び抜けてややこしい神社と言えます。賀茂社には通称上賀茂神社、正式名賀茂別雷神社(かものわけいかずちのかみのやしろ)と通称下鴨神社、正式名正式名賀茂御祖神社(かもみおやのかみのやしろ)の2社があります。まず、上賀茂神社に関して以下Wikipediaを参照します。

『山城国風土記』逸文では、玉依日売(たまよりひめ)が加茂川の川上から流れてきた丹塗矢を床に置いたところ懐妊し、それで生まれたのが賀茂別雷命で、兄玉依日古(あにたまよりひこ)の子孫である賀茂県主の一族がこれを奉斎したと伝える。丹塗矢の正体は、乙訓神社の火雷神とも大山咋神ともいう。玉依日売とその父の賀茂建角身命は下鴨神社に祀られている。
延暦13年(794年)の平安遷都の後は王城鎮護の神社としてより一層の崇敬を受け、大同2年(807年)には最高位である正一位の神階を受け、賀茂祭は勅祭とされた。


Wikipediaの説明もややこしいですね。丹塗矢は秦氏の居住地である乙訓神社の火雷命(ほのいかづちのかみ)ということですが、一方で鳴鏑の大山咋神とも考えられているのです。つまり上賀茂神社においても、丹塗矢と鳴鏑の二種類の矢が重なっていると見られます。

次に下鴨神社である賀茂御祖神社を見ていきましょう。こちらもWikipediaを参照します。

(この神社は)上賀茂神社の祭神である賀茂別雷命の母の玉依姫命と玉依姫命の父の賀茂建角身命を祀ることから「賀茂御祖神社」と呼ばれる。八咫烏は賀茂建角身命の化身である。付属施設に糺の森(ただすのもり)、みたらし池がある


いかがでしょう?上、下社の祭神に違和感を覚えませんか?上社は別雷命、下社はその母親と母親のお父さんを祀っているのです。となると、別雷命のお父さんである火雷命が抜け落ちていることになります。これはちょっと変ですね。

火雷命は秦氏の拠点であった乙訓郡の社に坐せる神。そして火雷命は丹塗矢でもあります。ちなみに秦氏の蚕ノ社は元糺の森と呼ばれています。下鴨神社糺の森の元は蚕ノ社ということになり、秦氏の賀茂氏に対する影響力が窺えます。

下鴨神社では別雷命の母親である玉依姫命と、玉依姫命の父である賀茂建角身命が祀られているのですが、火雷命と玉依姫命の子供が別雷命であることから、下社の祭神は賀茂建角身命ではなく、丹塗矢(火雷命)を鳴鏑(大山咋神)と見立てて、大山咋神とする説が一般的です。つまり下鴨神社でも丹塗矢と鳴鏑の二種類の矢が重なっているのです。

次が日吉大社です。これもWikipediaを以下参照します。

文献では、『古事記』に「大山咋神、亦の名を山末之大主神。此の神は近淡海国の日枝の山に坐し」とあるのが初見である。日枝の山(ひえのやま)とは後の比叡山を指す。
牛尾山(八王子山)山頂に磐座があり、これが元々の信仰の地であった。磐座を挟んで2社の奥宮(牛尾神社・三宮神社)があり、現在の東本宮は崇神天皇7年に牛尾神社の里宮として創祀されたものと伝えられている。三宮神社に対する里宮は樹下神社である。
近江京遷都の翌年である天智天皇7年、大津京鎮護のため大神神社の神を勧請した[1]。以降、元々の神である大山咋神よりも大己貴神の方が上位とみなされるようになり、「大宮」と呼ばれた。
平安京遷都により、当社が京の鬼門に当たることから、鬼門除け・災難除けの社として崇敬されるようになった。


日吉大社東宮の祭神も大山咋神で鳴鏑を用いる神。この神は牛尊とも呼ばれ、スサノオの子孫ですが、秦氏系の大年神の子供に当たります。しかし西宮には大神神社の大己貴神が天智天皇の時代に勧請され、以降こちらが日吉大社の中心となっていきます。大己貴神は大物主神と同神で、大物主神は『古事記』に丹塗矢として記載されています。何と、日吉大社でも鳴鏑と丹塗矢という二種類の矢が重なっているのです。

混乱させられますが、そもそも乙訓神社は秦氏の支配地でそこの祭神火雷命が丹塗矢であり、『秦氏本系帖』によると松尾大社には丹塗矢の伝承があります。つまり丹塗矢は秦氏を象徴していると考えられ、一方鳴鏑の大山咋神はスサノオの孫に当たります。

以上を整理すると、鬼門ライン上にある三社にはいずれも丹塗矢(秦氏系)、鳴鏑(スサノオ系)が出現しており、秦氏とスサノオの両者が共同で鬼門の防御に当たっているようにも見受けられます。秦氏にとっては、この地を霊的に設計する上で、比叡山や下鴨の地が重要ポイントだったので、日吉大社と賀茂社を取り込み、鳴鏑矢ライン(大山咋神=シュメール・スサノオ系)に丹塗矢ライン(秦氏系)が重なってしまったとも考えられます。

ついでに京都で矢の出てくる他の神社もチェックしましょう。乙訓神社は火雷命が祭神ですから丹塗矢ですね。伏見稲荷大社も『山城国風土記逸文』には秦氏・中家忌寸(ナカツイエノイミキ)等の遠祖・伊侶具(イログ)は稲や粟などの穀物を積んで豊かに富んでいた。ある時、餅を使って的として弓で射たら、餅は白い鳥になって飛び去って云々とあり、矢が出てきます。

また日吉大社の神使は猿であり、その実体は猿田彦と考えられます。猿田彦の猿は鬼門ライン上の各所に出現します。まず御所の、鬼門に当たる北東の角は直角に欠け、塀が内側にへこんでおり、この場所を猿が辻と言います。この塀の屋根瓦の下には猿の彫刻が置かれ、猿田彦が御所を守っているのです。

その延長線上に幸神社があり、そのまた延長線上に、天台宗慈覚大師の遺命によって建立された赤山禅院があるのですが、これらにも猿の彫刻が置かれ、その延長線上に比叡山があって、比叡山を守護する日吉大社が琵琶湖側に控えているという構図になっています。つまり、平安京にとって最も重要な鬼門ラインを、秦氏とスサノオ、猿田彦が共同で防御している構図になっているのです。

それに加えて、鬼門には坤(南西)方向にも怨霊の侵入口があります。いわゆる裏鬼門ですね。ここには城南宮が配されています。城南宮は元々秦忌寸を氏神とする真幡寸神社でした。それだけではありません。巽(南東)と乾(北西)にも剣神社と愛宕神社を配しています。愛宕神社は愛宕山で役小角が修行したところで、修験道の聖地としても有名な場所。加えて羅城門や鞍馬寺には兜跋(とばつ)毘沙門天像を安置し、王城の監視をさせているのです。ちなみに、毘沙門天はミトラ神とされています。

以上を見ただけでも、桓武天皇が構築した平安京における怨霊封じの仕掛けは、水も漏らさぬ完璧な態勢と言えるでしょう。何しろ秦氏、スサノオ、猿田彦が鬼門ライン、丹塗矢ライン上にあって防衛の任に当たっているのですから。

なのに、平安京は怨霊が跋扈する魔界都市になってしまいました。ここに大きな矛盾があるのです。ではどうこの矛盾を解消できるのでしょう?

今まで、怨霊を封じるため平安京に様々な仕掛けが構築されたという視点で見てきました。しかし、もしかしたらその視点自体に誤りがあるのではないでしょうか?

よく考えてください。上記した全ての神社は、いずれも平安京遷都以前に創建されているのです。

つまり、平安京の怨霊封じとは何ら関係なく、強力な防御網が張り巡らされていることになります。では、彼らは一体何から何を護ろうとして、これほどの防御ラインを設置したのでしょう?

またまた困ったことになりました。平安京の謎を解こうとして、より大きな謎がまた一つ増えてしまったのです。

山城国開拓と平安京への移転、そして都に張り巡らされた壮大な仕掛け。秦氏はこの地に、膨大な資金と労力をつぎ込んだはずです。なのに、あっさりと魑魅魍魎の跋扈を許してしまい、しかも不思議なことに、遷都以降は、いずこともなく姿を隠してしまいます。

あまりにも支離滅裂としか言いようのない秦氏の行動です。もしこれらに意味があるとしたら、全ての事柄はばらばらのように見えて、実は裏で繋がっており、日本史の奥底に秘められた謎とも係わっているのかも知れません。魔界都市平安京を覆う謎の真相は、依然として深い闇の中にあるのです。

           ―日本に秘められた謎を解く その10に続く―
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