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秦氏の謎を解く その9

秦氏の謎を解く
09 /03 2010

ようやく、秦氏の仕掛けたマインドコントロールの全容がその姿を現しました。日本の中に封印されていた巨大な謎が解明され、真実が白日の下にさらされたのです。

日本国に封印されていた『謎の実体』。それは『契約の聖櫃』でした。謎の実体の封印が明らかとなった結果、私たち日本人の中の空洞構造は消滅し、空洞の消滅に伴い、他律的集団主義という反転した構造、つまり憑物は無用の長物と化して消滅するはずですが、この問題は別途考えていきましょう。

以上で、秦氏の仕掛けと日本人の特殊性は余すところなく輪が繋がりました。秦氏は聖櫃の秘密を守るため日本人全体を呪縛して、空洞化させました。そのせいで自分の居場所をなくした日本人は、他律的集団主義という憑物を抱え込むしかなくなったのです。そして、日本は破綻の危機が迫っているのに、誰一人として有効な手を打てない状態にあるのです。

秦氏の呪縛によって形成された他律的集団主義という第四の世界の自己展開。それこそが、私たち日本人の特殊性として示されるものの実体であり、意味でした。日本には、聖櫃の存在を隠すため、中枢部から最下層に至るまで、そして古代から現代に至るまで、見えないカーテンつまり結界が張られたのです。しかも、その仕掛けは秦氏と天武天皇が作り、実行部隊までも猿田彦と組んだ秦氏だったのです。

私たち日本人は、先祖から受け継いだ伝統や繊細な自然に対して畏敬の念を持っています。問題は、日本的な伝統や心、自然への畏敬が、日本人の情緒と感性に100%合致しているから、問題意識がそこで止まってしまい、隠された実体に目を向けることができない点です。いや、そう仕向けられている点です。日本的な情緒や感性の裏側に隠されている実体は、最も非日本的な代物だったのです。

日本を代表する簡素で清浄な伊勢の神域には陰陽五行の網が張られ、聖櫃が隠されている。逆に言えば、最も非日本的なものだから、最も日本的で情緒的なものの裏側に隠しているのです。だから、日本人の繊細な感性と意識の間には断絶があったのです。何と巧妙な仕掛けなのでしょう。彼らは日本人を心的にコントロールするだけでなく、その感性や情緒まで徹底的に利用していたのです。

そして、貴族などに対する秦氏と天武天皇の第一の仕掛け、村人に対する秦氏と猿田彦の第二の仕掛け、という二つの分岐点を経て、この国は、日本という―極めて特殊な構造を持つ―国になったのです。言い換えれば、ここでこの国の形が定まったのです。

秦氏の仕掛けも遂に明らかとなりました。でも、これで本当に謎が解けたのでしょうか?実は、まだ半分も解けていないのです。

秦氏は、将来平安京となるべき土地に巨大な仕掛けを張り巡らしています。しかし、聖櫃が伊勢神宮に納められ、その秘密も封印されたなら、平安京は関係ないはず。ではなぜ、ここで平安京なのでしょう?

聖櫃は秦氏の手で伊勢神宮に納められました。けれどよく考えてください。例えば、パソコンで非常に重要なデータを作ったとします。皆さんはそれを、ハードディスクに入れたままにしておきますか?ハードディスクに保存するだけではデータ消滅のリスクが伴うから、必ずバックアップを取っておくはずですね。

それなら、秦氏もバックアップが必要だと考えなかったでしょうか?当然考えるはずです。だから何が言いたいのか、という声が聞こえてきそうですが、酔石亭主は以下のように考えます。

聖櫃は秦氏の手で伊勢神宮に収められました。しかし、万一の事態が伊勢神宮を襲うかもしれません。例えば戦火が迫る、落雷による火災の発生、泥棒に入られるなどですね。そうした事態に備え、伊勢神宮にはバックアップが必要となるはずです。

そのバックアップが平安京だった
―とは考えられないでしょうか?でも、その筋道をどのようにつけるのでしょう?

まず桓武天皇が引っ越してきた山城国葛野郡は、五~六世紀頃から秦氏が開墾してきた場所です。天皇のお住まいである大内裏にしても、秦氏の敷地に造営しているのです。しかも松尾大社から下鴨神社を経て比叡山を結ぶ線(鬼門ライン=夏至の日の出線と、冬至の日の入り線)は、都を造営する前から秦氏によって確定されていたはずですね。そのライン上に天皇は大内裏を作らされているのです。これらをどう考えればいいのでしょう?

そう、あらかじめ秦氏が設計しておいた場所に、桓武天皇が都を造営したのです。秦氏は考えました。千数百年の時を越えるに当たり、伊勢神宮だけで十分だろうかと。いつか、伊勢の霊力が落ちることもあるでしょう。その場合の対処は、当然考えておかねばなりません。そこで秦氏は、既に進出していた京都盆地に仕掛けを築いておきました。彼らは伊勢神宮の外部にバックアップを設置していたのです。

京都盆地は四神相応の地で、霊的な仕掛けを作りやすい。要所には自分の神社を配備し、他人の神社も取り込んで事前設計を完了させ、万一の事態に備え、聖櫃を移せるよう準備しておいたのです。それが、不測の事態に対する備えなのです。

但しそれは、仮の処置でしかありません。伊勢の霊力が回復すれば聖櫃はすぐに移し変えられます。聖櫃は流浪する神ヤハウェの象徴ですから、常に移動していても問題はないのです。

伏見稲荷大社、松尾大社、蚕ノ社、下鴨神社、日吉大社。いずれも秦氏が創建したか影響を与えている神社です。平安京の鬼門ライン上には、秦氏、スサノオ系、猿田彦が重なって存在します。羅城門の前には東寺が守りを固めています。東寺を造営したのは空海で、それに際し、伏見稲荷の秦氏が手を貸しました。鬼門の延長線上にある比叡山は天台密教が守護しています。

また、南北から王城を監視するのは兜跋毘沙門天(とばつびしゃもんてん)です。兜跋とはチベットを意味します。毘沙門天は羅城門楼上に安置され、都の外ではなく中に目を向けていました。外から侵入する怨霊や魑魅魍魎から都を守るなら、毘沙門天は外を向いているべきでしょう。それが内側に向いているなら、理由は内部の監視以外にありません。そして毘沙門天はミトラ神でもあるのです。更に大将軍として王城の要所に鎮座するのはスサノオです。これらは何を意味するのでしょう?

王城を守っているのは、秦氏、猿田彦、スサノオ、毘沙門天、空海など西域、メソポタミア周辺の関係者やゆかりの者ということです。いや、王城を守っているのではないのです。伊勢神宮から平安京へ移された聖櫃を守るため、世界史上最大の秘密が外に漏れないよう、秦氏は厳しい監視体制を構築したのです。しかし、いつ、どんな理由で聖櫃は平安京に移されたのでしょう?

               ―秦氏の謎を解く その10に続く―
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酔石亭主

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