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東海の秦氏 その1


一週間の御無沙汰でした。(注:今は亡き名司会者の懐かしいセリフです)

実は、愛知・岐阜に用事があり車で行ったのですが、東名などは利用せず、一般道を走り秦氏の旧蹟を訪ねたり、探石したりと欲張りな旅になってしまいました。

そこで今回から数回にわたり「東海の秦氏」と言うタイトルで、主に静岡県における秦氏をご紹介していきたいと思います。もちろん探石結果も写真と共にアップしていきます。

静岡県における秦氏の痕跡は神奈川県よりはるかに多く、調査しがいもあるのですが、一方で、鎌倉のように頻繁に訪問できないという問題もあり、歴史の奥底にまで踏み込むのは難しいかもしれません。

ともあれ、東海地方における秦氏の動きを見ていきましょう。まずは富士川からスタートします。富士川は日本三大急流の一つとされ、フォッサマグナの西端部に当たっています。下流部はフィリッピン海プレートの沈み込み口にも当たり、複雑な地質構造が富士川石を生みだしているとも言えましょう。

富士川周辺での秦氏に関しては、またも秦川勝が顔を出します。「日本書紀」皇極天皇3年(644年)の記事によれば、東国富士川周辺の大生部多(おおふべのおお)という人物が虫を祭ることを村里の人に勧め、「これは常世の神で、この神を祭れば豊かになって若返る」と言って、民の財宝を捨てさせ貧しくさせた。民を惑わす悪行に秦川勝が怒り、大生部多を討ったとされます。

時の人はこれを見て以下のような歌を作ったそうです。
「太秦は 神とも神と 聞え来る 常世の神を 打ち懲らますも」

大生部多は虫を常世の神として祀り民衆を惑わしたのですが、この虫は橘の樹で生育し、蚕に似ている(=アゲハチョウの幼虫)とされています。

常世の神とか、秦川勝とか、酔石亭主には大変興味深い話なのですが、一般にはあまり知られていないようです。

もちろん、秦氏に興味を持たれてこのブログをご訪問いただいた皆さんなら、よくご存知のはずですし、他のブログなどでも既に取り上げられており、今更記事にする価値もないと考えられるかもしれません。しかし、この話には不明な点があり、記事にする価値はありそうです。

大生部多は富士川周辺に居住していたようですが、具体的な場所に関しての記述はなく、彼がどこにいたのかはいまだに特定されていません。そう、酔石亭主としては、まだ誰も検討したことのない、大生部多が居住していた場所を推理し、特定しようと思っているのです。

川勝が大生部多を討った話の中には多くのヒントが散りばめられています。これに秦氏の特性、例えば、自分にちなむ名前を持ち込んで地名をつけるとか、所帯が小さいグループの場合、隠れ里的な場所を好む、などの点を掛け合わせれば、かなり絞り込めると思われます。

ここまで書くと、ちょっと待て、大生部多は秦氏ではないとの声が掛かりそうです。この点は後ほど検討するとして、現時点では大生部多は秦氏の支族あるいは秦氏と関係の深い人物と言う前提で検討を進めましょう。

まず、橘と言う樹木に着目します。これはミカン科の野生種で海岸に近い場所に自生しています。ということは、大生部多の居住地(=秦氏の居住地でもある)は橘が自生し得る富士川の下流部に限定されるはずで、上、中流部は検討の対象から外すことができます。

次に、富士川下流部において秦氏が持ち込んだ可能性のある地名を探してみましょう。東名の富士川サービスエリアの北に木島という地名があります。酔石亭主はこの地名に秦氏の匂いを感じます。でも、月も桂も、幡多も波田も入っていない地名なのに、なぜ木島が匂うのでしょう?

ここで京都における秦氏系の神社を思い浮かべてください。京都太秦には蚕ノ社という神社がありましたね。蚕と蚕に似た虫ですから共通性もありますが、それだけではありません。

蚕ノ社の正式名は木島坐天照御魂神社(このしまにますあまてるみむすびのやしろ)で、通称が蚕ノ社とされているのは境内摂社として蚕養(こがい)神社が鎮座しているためです。いかがでしょう?蚕と蚕に似た虫。木島と木島。二つの点で共通性があれば、富士市の木島は秦氏の本拠地にある神社の名前から取ったと考えて間違いなさそうです。

なお、木島は木が茂り、富士川に突き出しているので対岸からは島のように見え、そこから木島という地名ができたとの説もありますが、これは真の由来が不明になったため、後世になって考えられたものと思われます。

さらに橘はミカン科の常緑木で、木島はミカンの特産地となっています。木島のミカンは明暦年間に常盤小左衛門が栽培を始めたとされていますが、元々ミカンの栽培に適した土地柄であれば、野生の柑橘類である橘にも適しているはずです。橘に関しては以下Wikipediaより引用します。

日本に古くから野生していた日本固有のカンキツである。和歌山県、三重県、山口県、四国、九州の海岸に近い山地にまれに自生する。静岡県沼津市戸田地区(旧戸田村)に、国内北限の自生地が存在する。
『記紀神話』には、垂仁天皇が田道間守を常世の国に遣わして「非時香菓(ときじくのかぐのこのみ)・非時香木実(時じくの香の木の実)」と呼ばれる不老不死の力を持った(永遠の命をもたらす)霊薬を持ち帰らせたという話が記されている。『古事記』の本文では非時香菓を「是今橘也」(これ今の橘なり)とする由来から京都御所紫宸殿では「右近橘[1]、左近桜」として橘が植えられている。


富士市(旧富士川町)木島は橘が自生可能な北限内にあり、海岸にも近く、かつ橘は不老不死=死と再生という秦氏の思想を象徴する樹木でもありました。そして木島には熊野神社があるのですが、『駿河志料』には「四倉権現社」と記載あり、倉と秦氏の関係も補強材料となるでしょう。

木島はまた、富士川にせり出した二つの尾根に挟まれた場所にあり、隠れ里としての条件も整っています。

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木島です。

しかも、秦氏と密接な猿田彦を祀る白髭神社まで木島に鎮座し、木島の西には嵐山まであるのです。これらを総合すれば、他に条件を満たす場所もないことから、木島は秦氏の居住エリアであったとほぼ断定できるでしょう。

最後に、大生部多と秦氏の関係を検討します。まず大生部多の多は、多氏の一族を意味している可能性があります。秦氏研究の第一人者である大和岩雄氏によれば、多氏と秦氏は密接な関係を持っています。例えば、多氏の多神社は田原本町多字宮ノ内にあり、近くには秦氏の秦楽寺があります。

雄略天皇は、多氏と同祖である小子部氏に命じて、全国に散った秦の民を召集させています。その小子部氏が祀る子部神社は飫富(おお)郷にあり、飫富(おお)郷には秦庄があります。

また、常世の神から常世連という一族が連想されますが、この名は赤染氏の改名によるものです。『続日本紀』の天平19年(747年)8月の条には、「正六位上赤染造広足(あかぞめのつくり・ひろたり)、赤染高麻呂ら九人に常世連(とこよのむらじ)の姓を賜ふ」とあります。

さらに、『続日本紀』の宝亀8年(777年)4月の条には「右京の人従六位赤染国持ら四人、河内大県(かわちのおおあがた)郡の人赤染人足ら十三人、遠江国蓁原(はいばら)郡の人従八位下赤染長浜、因幡国八上郡の人外従六位赤染帯縄ら十九人に、姓を常世連と賜ふ」とあります。遠江国蓁原(はいばら)郡には現在の島田市が含まれ、秦氏の痕跡が数多く見られます。これらからも、赤染氏と秦氏の関係が浮き彫りになってきます。

赤染氏は豊前国の香春神社における祭祀氏族で、大和岩雄氏によれば、秦氏の系統に属しています。以上から、秦川勝が討った大生部多は、秦氏の居住する木島にいた人物で、秦氏の支族あるいは秦氏と深い関係のある人物であったと考えられます。

なお、秦川勝は中央で聖徳太子を補佐し、秦野に出向き、本郷台で仙福寺を建立し、富士川で大生部多を討つなど八面六臂の活躍を見せていますが、とても一人の人間がそこまで動けるとは思えません。

秦川勝とは秦一族の川勝さんと考えれば、川勝は名字となりますので、彼に兄弟・親族がいたとするなら、長男の川勝が聖徳太子を補佐し、従兄弟の川勝が秦野に出向き、と言った分担も可能でしょう。ちなみに、静岡県の知事は川勝さんです。

以上で富士川の秦氏に関する考察も終わりました。では、富士川に入り探石を始めましょう。木島には広い河原があって探石の適地でもあります。しかし同時に、誰でも入れる場所であり、良石を手にするのは難しい場所でもあります……。

             ―東海の秦氏 その2に続く―
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