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東海の秦氏 その7


静岡の秦氏関連で面白いのは、安倍川に沿った地域に秦氏と関係の深い白髭神社が多数鎮座していることです。となると、神社の鎮座地に秦氏特有の地名があるはず。そう思って調べてみると、幾つか怪しい地名が出てきました。

静岡市清水葛沢
静岡市清水蛇塚(京都の蛇塚古墳は秦氏の古墳とされています)
静岡市桂山(桂山には漆畑という名前が多い。明らかに秦氏関連)

安倍川流域も含め、静岡県だけで白髭神社は54社を数えるようです。

しかし、なぜ静岡市に秦氏の痕跡が多く残っているのでしょう。しかも、静岡の地名が秦氏に由来し、秦氏の中心地域が駿府城と県庁所在地となっています。これは、京都の御所が秦氏の居住地だったのと似たような関係です。

この疑問は比較的簡単に解けそうに思えます。なぜなら安倍川に沿って、気を発する糸魚川静岡構造線が走っているからです。糸魚川静岡構造線が発する気を感知した秦氏は、静岡の地に拠点を設けたとは考えられないでしょうか?

構造線の太平洋への出口付近に当たるのが安倍川で、この川を挟んだ賎機山と羽鳥に秦氏の拠点があるのは、決して偶然とは言えません。安倍川流域に白髭神社が集中している理由もそこにあると考えられます。

もっと簡単に考えると、ほとんどの水石産地は秦氏の居住地域だったりして……。糸魚川静岡構造線については以下Wikipediaより引用します。

糸魚川静岡構造線(いといがわしずおかこうぞうせん)とは、親不知(糸魚川市)から諏訪湖を通って、安倍川(静岡市)に至る大断層線である。略称は糸静線(いとしずせん)またはISTL(Itoigawa-Shizuoka Tectonic Line)。(由比町に至るという説もあり)


気の発する地でもある静岡市周辺は秦氏の痕跡だらけでした。深掘りしていけば、さらに面白いものが飛び出す可能性を秘めています。

などと思いながら地図を眺めていると、羽鳥地区の藁科川を挟んだ南側に産女(うぶめ)という地名までありました。


大きな地図で見る
グーグル画像です。

画像左下側が産女で、209と表示ある橋の上流のこんもりしている場所が木枯の森、画像右上の建穂が建穂神社所在地です。

おお産女は、かの有名な妖怪作家・京極夏彦の「姑獲鳥(うぶめ)の夏」に由来するのかと思いましたが、そうではなさそうです。これは秦氏と関係ないのですが、調べてみると実に奥が深いものでした。

産女子安観音縁起によれば由来は以下の通りです。

永禄3年、今川義元(よしもと)が桶狭間(おけはざま)で織田信長に敗れた後、あとを継いだ義元の子の氏真も四方から攻められ、ついに、武田晴信によって、領土を奪われ、藁科渓谷を志太郡徳山村土岐(しだぐんとくやまむらとき)の山中へと逃げてきました。氏真に従って、ここまで落ちてきた武士に信濃の人、牧野喜藤兵衛清乗(まきのきとうべえきよのり)という者がいました。清乗の妻もいっしょに逃げてきたのですが、ちょうど臨月で、正信院近くの「清水のど」のあたりで、急に産気づき、ひどい難産で、とうとう出産できずに亡くなってしまいました。清乗は、手厚く妻を葬りましたが、成仏できなかったとみえ、夜な夜な、幻となって村をさまよい、「とりあげてたもれ(助産してください)」と、悲しげに頼みました。村人は哀れに思い、「とりあげてさし上げたいと思いますが、あの世に去った人のこととて、いかにすればよいやら」といいますと、「夫のカブトのしころ(錣)の内側に、わが家に伝わる千手観音を秘めてございます。その御仏に祈ってくださればよいのです。これからは、子どもの恵まれない方、お産みになさる方は、この御仏にお祈りしてください。必ず、お守りくださいます。」といいました。そこで、村人は、千手観音を見つけだし、さっそく、正信院に納め、清乗の妻のために祈ってやりました。すると、清乗の妻の幻があらわれ、お礼をいい、「この村をお守りしたいと思いますので、私を山神(さんじん)として、祠(ほこら)をお建てください」といいますので、近くの「いちが谷」にお宮を建て、産女大明神としてお祭りしました。以後、村ではお産で苦しむ者がいなくなったといいます。後に、村の名を産女(うぶめ)、正信院の山号も通称「産女山」と呼ぶようになりました。

戦国の悲しい物語ではありますが、実は愛知県豊川市牛久保にも海見(うぶめ)という地名があります。しかも牛久保には徐福伝承があり、秦氏の居住地域(詳細は別途書きます)でもあり、牛久保城主は牧野出羽守保成(やすなり)でした。秦氏とは直接関係ないものの、この物語の場所はいずれも秦氏に関係しています。三河稲垣氏の関連でも産女が出てきますので、参考までに以下Wikipediaより引用します。

文明年間 (1469年 - 1486年)には伊勢から三河宝飯郡牛窪に移り、稲垣藤助重賢が、牧野氏に仕えたとある。
はじめ駿河・遠江の戦国大名今川氏に味方して松平清康軍を相手に奮戦した。藩翰譜には重賢の戦死の事実だけが記載されるに留まる。
だが、寛政重修諸家譜には、享禄元年(1528年)、吉田(豊橋市)方面から牛久保に軍勢が押し寄せたときに、稲垣重賢は防戦して宝飯郡産女塚で配下16名と共に討ち死にしたと、対松平氏戦に関する若干の記述がある。


静岡市と豊川市。産女と海見。秦氏と秦氏。一体どんな縁で似たような物語が生まれたのでしょうか?とても不思議に感じられます。

静岡を過ぎると焼津市に入ります。焼津にもかつて駿河国益頭郡八田郷があり、広幡の地名も残り秦氏の痕跡が認められます。そう思いながら地図で焼津を見ていると、大崩海岸続きに虚空蔵山がありました。これは怪しいと思い、調べてみると…。ここには當目山香集寺があります。お寺の由緒によれば、以下の通り。

當目山香集寺の本尊である虚空蔵菩薩は、聖徳太子の作といわれ、伊勢朝熊(国宝)、京都嵐山とともに日本三大虚空蔵尊の一つに数えられるもので、弘仁6年(1160余年前)弘法大師が當目山に安置したと伝えられています。

聖徳太子に空海に虚空蔵山と、全てに秦氏の関与が窺われます。でも、なぜここが虚空蔵山なのでしょう。答えは簡単に出ます。大崩海岸から虚空蔵山にかけては糸魚川静岡構造線の南端に当たり、またフォッサマグナの太平洋への出口だったのです。中央構造線の伊勢朝熊、糸魚川静岡構造線の虚空蔵山。全く同じ関係から気を知る空海がここに関与し、その背後には秦氏の影があると理解できますね。

次回は大井川周辺を見て回ります。

               ―東海の秦氏 その8に続く―
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